スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
細川 匡(ほそかわ ただし、1947年5月8日 - )は日本… 細川 匡(ほそかわ ただし、1947年5月8日 - )は日本の実業家。 FMはつかいち社長。デリカウィング会長。けん玉ワールドカップ廿日市大会会長。広島修道大学特別客員教授。 鳥取県日野郡日南町に生まれる。広島県立広島国泰寺高等学校卒業。早稲田大学を経て、コピーライターとして広告代理店に勤務する。 1978年に父が経営をしていた惣菜工場に入社。専務に就任。1983年にはデリカウィング社長に就任。セブン-イレブン広島県第一号の舟入店とも契約を結ぶ。 2007年から廿日市商工会議所の会頭を務める。 2021年、デリカウィング会長となり、経営から退く。
宮内 正喜(みやうち まさき、1944年(昭和19年)1月2… 宮内 正喜(みやうち まさき、1944年(昭和19年)1月28日 - )は、日本の実業家、篤志家。公益財団法人日本美術協会理事、上野の森美術館館長。 岡山放送株式会社代表取締役社長、株式会社ビーエスフジ代表取締役社長、株式会社フジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長、株式会社フジテレビジョン代表取締役会長などを歴任した。 1944年(昭和19年)1月28日、山口県生まれ。広島県立広島国泰寺高等学校、慶應義塾大学法学部卒業。高校時代はダイソー創業者の矢野博丈と同級生だった。 1967年4月1日、フジテレビジョン(現:フジ・メディア・ホールディングス)入社。同期入社は杉田成道、石田弘、竹内次也、松本寛、北林由孝。
矢野 博丈(やの ひろたけ、1943年4月19日 - 202… 矢野 博丈(やの ひろたけ、1943年4月19日 - 2024年2月12日)は、日本の実業家。本名「栗原五郎」。「矢野」は妻の姓で「博丈」は姓名判断による改名。 100円ショップの草分けである大創産業(100円SHOPダイソー)の創業者。広島県東広島市出身。 父親は医師で、戦時中は中国天津市の病院に勤めており、北京市で生まれる。母親は広島銀行の前身の一つ「山岡銀行」の娘。8人兄弟の末っ子の5男。戦後半年、父親の郷里である広島県賀茂郡久芳村(現:東広島市)に引き揚げ。父親は広島市内中心部の新川場通り(並木通り)で医院を開業していたが貧困であり、自身は中央大学の二部に進学したが、貧しさのためたいへん苦労したという。
貞末 良雄(さだすえ よしお、1940年 - )は、日本の実… 貞末 良雄(さだすえ よしお、1940年 - )は、日本の実業家。メーカーズシャツ鎌倉株式会社創業者・取締役会長。 山口県柳井市生まれ。父が広島県で呉服屋を営んでいたため中学校から広島に移り、広島県立広島国泰寺高等学校を経て、現役で広島大学に不合格となり、大学受験浪人生活を送ったが、東京大学や東京工業大学の受験には失敗し、1964年千葉工業大学工学部電気工学科卒業。高速道路の照明についての卒論を書き、大学卒業後は和光電気研究室エンジニアを経て、1966年ヴァンヂャケット入社。同社統括部長などを務めたが、倒産により退社。その後、ヤオハンや数社のアパレル会社勤務を経て、1993年、53歳でメーカーズシャツ鎌倉設立。
髙山 剛(たかやま つよし、1936年7月30日 - 201… 髙山 剛(たかやま つよし、1936年7月30日 - 2015年4月7日)は、日本の実業家。第14代大同特殊鋼代表取締役社長。 広島市安芸区矢野町に6人兄弟の長男として生まれる。矢野小学校、矢野中学校から1955年広島県立広島国泰寺高等学校卒業。京都大学法学部卒業後、1960年に大同製鋼株式会社(現大同特殊鋼株式会社)に入社。1984年に販売第一部長。1990年に取締役営業本部大阪支店長。1992年に常務取締役営業本部大阪支店長。1994年に専務取締役。1996年に代表取締役副社長。1998年に代表取締役社長。2004年から代表取締役会長を務めた。2009年相談役。2015年ぼうこう腺がんで逝去。
松尾 聰(まつお さとし、1935年12月28日 - 202… 松尾 聰(まつお さとし、1935年12月28日 - 2020年7月3日)は、日本の実業家。カルビー代表取締役社長や、代表取締役会長を務めた。一般社団法人グリーン・ファミリー代表理事である。 広島市生まれ。1954年広島県立広島国泰寺高等学校卒業。1958年広島大学工学部卒業。竹林守元マツダ代表取締役会長は高校の同期。カルビー創業者松尾孝の長男で、1987年から第2代カルビー代表取締役社長を務めた。1992年カルビー代表取締役会長。2001年会長退任。一般社団法人グリーン・ファミリー代表理事も務め、2014年には母校広島大学に給付型奨学金・グリーン・ウィング教育奨学金を設立した。2020年没。 カルビー創業者松尾孝は父。
重松 良典(しげまつ よしのり、1930年 - 2018年)… 重松 良典(しげまつ よしのり、1930年 - 2018年)は、日本の実業家。広島県広島市出身。 元サッカー日本代表。1965年日本サッカーリーグ(JSL)創設に尽力した人物の一人。のちに日本プロ野球界に転じ1970年代の赤ヘル旋風時の広島東洋カープ球団代表。Jリーグ・ベルマーレ平塚における最後の社長であり、湘南ベルマーレ創設に尽力した人物の一人。 1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆した。 重松ら旧制広島県立第一中学校(現国泰寺高校)3年生60人は、爆心地から2.2キロメートルに位置した舟入川口町の軍需工場に学徒勤労動員で来ており、ちょうど8時の朝礼が終わった後のことだった。倒れてきた設備機械により級友の一人が亡くなり、多数の怪我人を出した。
藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日… 藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉5月16日)は、日本の実業家。フジタ社長・会長。フジタドルフィンクラブ設立者。 広島県広島市出身。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、旧制広島一中を経て、1943年に日本大学旧工学部建築学科卒業。藤田組に入り、1949年に監査役、1951年に取締役、1957年に副社長を経て、1962年に社長に就任。 1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により、東白島町の藤田家はぺしゃんこにつぶれた。自宅にいた一暁は気を失ったが、何秒後かに気がつき、ケガもないため自力で這い出した。家の下にある両親とお手伝いさんを助けようとしたが、一人ではどうにもならず、通りがかりの兵隊の助けを借りて救出した。
山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日… 山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日 - 1998年〈平成10年〉1月11日)は、日本の新聞記者、実業家。中国新聞社第4代社長。 広島県広島市出身。中国新聞創業家に生まれる。子供時代から優等生で広島高等師範学校附属小学校を5年で修了し、広島県立広島第一中学校に入学。旧制中学を4年修了で旧制広島高等学校に進学。自転車通学で3年間無遅刻、無欠席を続け卒業時には皆勤賞を受けた。同期に永野厳雄(広島県知事)、1年後輩に松谷健一郎(中国電力会長)などがいる。 旧制高校卒業後、東京帝国大学経済学部に進学。1941年4月、実父の山本實一が社長を務める中国新聞社に入社。県政記者などを担当していたが、1944年(昭和19年)3月召集令状が来て呉海兵団へ入隊。
久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日… 久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日 - 1992年〈平成4年〉6月28日)は、広島県広島市出身の実業家。第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者。現エディオン社長、サンフレッチェ広島会長・久保允誉は長男、上新電機取締役を経てエディオン専務取締役の浄弘晴義は次男。 広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町)生まれ。久保家は代々江州屋の屋号で刀剣商を営んでいた。寺下辰夫の小説『サンパギタ咲く戦線で』に太平洋戦争中、陸軍報道班員として広島宇品港からフィリピンに向かう寺下、尾崎士郎、石坂洋次郎らが、その前日、今日出海の短刀を軍刀に拵えるため、ふと久保刀剣店に立ち寄り、刀が出来る間、店の二階で御馳走に与り、訣れの酒宴を行なったエピソードが書かれている。
山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - … 山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - 1983年〈昭和58年〉8月28日)は、日本の実業家。元広島ガス社長、元広島商工会議所会頭。 広島市出身。広島県立広島第一中学校を経て旧制広島高等学校に入学。旧制高校では松谷健一郎元中国電力社長、山本朗元中国新聞社社長、永野厳雄元広島県知事らと同期で、友人だった。旧制高校では寮委員を務め留年したが、非常に人望があった。 旧制高校を卒業後は九州帝国大学工学部に進学、卒業後は住友金属工業に入社するも間もなく海軍に応召。終戦により復員するも、財閥解体により復職できず、四国ガスに勤務した後、1947年(昭和22年)、実父が重役をしていた広島ガスに入社。
岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 20… 岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 2008年1月30日)は、実業家、元三菱自動車工業会長。サッカー選手、サッカー指導者、三菱重工業サッカー部(現:浦和レッズ)創設者、初代監督。選手時代のポジションはフォワード。 広島県広島市白島(現:中区白島)出身。広島一中(現:広島県立国泰寺高校)、広島高等学校卒業。一中時代からサッカー一筋で一中の2つ上の先輩にのちに東洋工業サッカー部を創設する山崎芳樹がいる。広高時代、1938年の第14回全国高等学校ア式蹴球大会では主将・フォワードとしてチームを優勝に導く。京都帝国大学経済学部進学後も蹴球部で活躍、1941年卒業。同年、三菱重工業入社。
山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日… 山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日 - 2014年(平成26年)3月10日)は、広島県広島市出身の実業家。 マツダ5代目社長。元広島商工会議所会頭。元サッカー選手・東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)創設者、初代監督。 広島県安芸郡仁保島村大河(現・広島市南区北大河町)生まれ。生家は広島の旧家、父も技術者。 広島高等師範学校附属小学校(現広島大学附属小学校)5年生からサッカーを始め、広島県立第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)でもサッカー部に所属する。二浪した後、広島高等工業学校機械工学科(現広島大学工学部)に入学。 1938年(昭和13年)、東洋工業へ入社、以降生産技術畑を歩む。
松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日… 松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日 - 2003年(平成15年)10月28日)は、日本の実業家。カルビー創業者。広島県広島市出身。 カルビーの前身は1905年(明治38年)広島市宇品で創業した広島名産柿ようかん製造の松尾巡角堂である。ただ、松尾が幼少時代の家業は、米ぬかを中心とした穀粉製造販売を行っていた。幼少期は比較的不自由なく生活していた。太田川(旧太田川)で捕った小エビで母親が作ってくれたかき揚げが大好物で、これがのちにかっぱえびせんにつながっていく。 もち米の暴落で父が相場で失敗し、当時の金額で1万円の莫大な借金を抱えた。さらに1927年(昭和2年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)5年のとき、母が亡くなり、病弱で足も不自由な父と弟を養わなくてはならなくなり家業を始めた。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 -… 高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 - 1976年8月5日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。広島県広島市出身。 広島市立本川小学校、旧制広島一中を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業、キリンビール入社。1942年営業部第一部長。1943年営業部第一部長兼東京支店長。1944年麦酒配給統制出向。1948年酒類配給公団理事。1949年酒類配給公団解散に伴い、キリンビールに復帰し、同社取締役営業部長に就任。1953年取締役営業部長兼宣伝部長。1958年常務取締役営業部長。1966年専務取締役。1969年から代表取締役社長を務め、史上最高の63.8パーセントの市場シェアを獲得。
黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3… 黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3月4日 - 1975年(昭和50年))は、日本の実業家。東京急行電鉄専務のほか、東横映画、東京映画配給、東急自動車、東京トヨタディーゼル社長などを務めた。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市)出身。 岡田茂は実家の四軒隣で、医師の息子だった黒川は、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て1926年(大正15年)、慶應義塾大学経済科卒業。 東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に入社し同社開発、電燈各課長、東京急行電鉄事業部長、殖産局次長、取締役、専務を歴任。根っこからの野人、バケツの底が抜けたような大酒くらいで大風呂敷。お固い電鉄会社では型破りな人物で五島慶太に可愛がられた。
松井 亮吉(まつい りょうきち、前名・章吉、1894年〈明治… 松井 亮吉(まつい りょうきち、前名・章吉、1894年〈明治27年〉12月15日 - 没年不明)は、日本の酒造家(寛永11年創業、平野屋、銘酒「山の井」の醸造元)、広島県多額納税者、会社役員。 第六十六銀行(現・広島銀行)、広島桟橋各監査役。族籍は広島県平民。 広島県広島市出身。先代亮吉の長男。県立広島一中卒業。1918年、家督を相続し前名・章吉を改め襲名した。平野屋と称し、酒造業を営んだ。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は郷土史研究。宗教は禅宗。住所は広島市京橋町。 家系について『広島県紳士録 昭和8年版』によると、「広島市京橋町の松井家祖先の伊右衛門は、豊田郡小田の荘より出て寛永年間広島に酒造業を創業した」という。
日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9… 日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。廣島證券商事社長。斎藤商店取締役。 広島県賀茂郡三津町(現・東広島市安芸津町三津)出身。酒造業・日下賛三の二男。広島県立広島第一中学校卒業。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。広島産業銀行員となる。1925年、家督を相続した。農業を営んだ。三津酒造専務取締役に就任した。 1930年、加奈陀サン生命保険に入り、広島支部長を務めた。廣島證券商事取締役、同社長を務めた。住友生命保険会社に勤務した。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。処世の信条は協力一致。趣味はスポーツ、読書、運動。
住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月… 住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1968年〈昭和43年〉10月2日)は、経営者、東京都副知事、海事史研究家で日本海事史学会会長を務めた。 愛媛県下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に移り、広島県立第三中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、第六高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治学科卒。当時日本一の総合商社だった神戸の鈴木商店に入社、同船舶部勤務。鈴木商店の「大番頭」金子直吉の秘書を永く務めた。金子直吉名義の唯一の著書「経済野話」(1924年、巌松堂書店)は、東京ステーションホテル20号室で金子が住田に語った内容を住田が口述筆記の形でまとめたものである。
倉田 信太郎(くらた のぶたろう、1886年〈明治19年〉3… 倉田 信太郎(くらた のぶたろう、1886年〈明治19年〉3月3日 - 1938年〈昭和13年〉3月27日)は、日本の商人(履物商)、実業家。広島瓦斯電軌社長。倉田商事代表社員。昭和証券、防石鉄道各取締役。芸備銀行監査役。 広島県広島市堺町・倉田幾蔵の長男。広島第一中学校に入学したが、家業に従事するため中途退学する。履物商を営み、傍ら会社重役であった。広島瓦斯電軌専務取締役、同副社長を経て社長。 趣味は絵画。住所は広島市大手町9丁目、同市堺町。 倉田家は安芸郡牛田村(現・広島市東区)より明治の初年に祖父・幾蔵が出広し荒物、下駄の販売を創めた。2代目幾蔵は賀茂郡西志和村(現・東広島市)出身で、門根木家より入婿し、家業に精励、明治24、25年頃より下駄の海外輸出を決行、莫大の利益を得る。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月… 福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。中華電気製作所、支那興業各取締役。住友本社、呉服販売店支配人。上海居留民団長。族籍は広島県士族。 広島県士族・福田千次郎の四男。広島市西白島町出身。1904年、県立広島中学校卒業。直に広島県より推選され清国留学生を命ぜられた。1907年、上海東亜同文書院商務科を卒業した。上海に在住し、支那貿易事務に従った。1935年、甥・光次郎方より分家した。 宗教は神道。趣味は大弓、漢籍。住所は広島市西白島町、上海市。
鈴川 貫一(すずかわ かんいち、1883年(明治16年)11… 鈴川 貫一(すずかわ かんいち、1883年(明治16年)11月24日 - 1963年(昭和38年)1月22日)は、日本の電気技術者、実業家。中国配電(現・中国電力)社長。鈴川合資会社代表社員。 広島県・鈴川源三郎の男。段原村(のちの段原町)生まれ。1885年、家督を相続する。広島一中から1902年に岡山第六高等学校に入学、1906年に二部甲類を卒業。1909年、京都帝国大学工科大学電気工学科卒業。 旧鹿児島藩の島津家が経営する芹ヶ野金山に赴任、島津公爵家電気事業主任技師となる。1912年、広島呉電力技師長、支配人、取締役、広島電気取締役、技師長、支配人、常務取締役を経て副社長。 また木ノ江電気、境電気、東洋合成化学工業、瀬戸内海横断電力、広電証券、中国塗料、太田川水力各取締役、白石工業、日本電熱器製造各監査役等を務めた。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 194… 秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 1944年5月25日)は、日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人)共同設立者。今の広島県安芸郡海田町出身。 広島県立広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学薬学部に入学したが、同大学工科大学応用科学科に転入学した。1908年に卒業後、樟脳事務局に就職。のち神戸税関を経て、米沢市にある旧制米沢高等工業学校(現山形大学工学部)教授となり、研究室でビスコース人造絹糸(レーヨン)製造に専念する。 1884年にフランス人イレール・ド・シャルドネ(フランス語版、英語版)によって発明されたレーヨンは、1892年に工業化に成功し、日本にも紹介され、1905年から本格的な輸入が始まり、日本市場にも徐々に普及していった。
早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年… 早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1926年〈大正15年〉9月13日)は、明治・大正期の日本の実業家、政治家。初代大蔵政務次官、農林大臣及び大蔵大臣。 安芸国沼田郡新庄村(現:広島市西区新庄町)出身。出生名は中山米吉。 中山源蔵の二男として生まれ苦学して、旧制広島中学を経て1887年(明治20年)に東京専門学校政治経済英学科(現:早稲田大学)を卒業。前年、秀才で通りながら遊び過ぎて卒業試験に失敗した事から「爾(なんじ)を整(ととの)へよ」と自省し整爾と改名し、中山整爾となった。卒業前に埼玉英和学校校長代理兼教頭を務めた。 1889年(明治22年)、芸備日日新聞社主の早速勝三の養子となり、早速整爾に名を改め、同年、社長兼主筆として新聞を経営、優秀な頭脳と速筆で活躍。
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、な… 中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日〈慶応3年11月25日〉- 1927年〈昭和2年〉3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。 作家・夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現:広島県広島市佐伯区)に酒造業・柴野宗八の五男として生まれる。柴野家の墓は現在でも広島市佐伯区五日市の光禅寺にある。兄は大審院検事・鈴木宗言。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
白濱 浩 は、日本の経営者。日本光学工業(現在のニコン)社長… 白濱 浩 は、日本の経営者。日本光学工業(現在のニコン)社長を務めた。位階は従四位。
佐々木 邦彦 は、日本の経営者。富士銀行頭取、会長を務めた。… 佐々木 邦彦 は、日本の経営者。富士銀行頭取、会長を務めた。広島県広島市出身。
吉川 英司 は、日本の経営者。テレビ新広島社長を務めた。
巻幡 展男 は、日本の実業家。関西テレビ放送元社長。
竹林 守(たけばやし まもる)は、日本の自動車技術者、実業家… 竹林 守(たけばやし まもる)は、日本の自動車技術者、実業家。マツダ代表取締役会長や、日本自動車工業会副会長、中国経済連合会副会長などを務めた。 1954年広島県立広島国泰寺高等学校卒業。松尾聰元カルビー代表取締役社長は同級生。1959年広島大学工学部機械工学科卒業、東洋工業(現マツダ)入社。1988年マツダ取締役本社工場長に昇格。1989年マツダ取締役防府工場長。1992年マツダ米国工場取締役社長。1994年マツダ専務取締役。1995年マツダ代表取締役副社長。1996年マツダ代表取締役会長。1997年中国経済連合会副会長。1998年マツダ財団理事長。2000年マツダ相談役。日本自動車工業会副会長等も務めた。