スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
上綱 克彦(かみつな かつひこ、1953年 - )は、日本の… 上綱 克彦(かみつな かつひこ、1953年 - )は、日本のミュージシャン、キーボードプレイヤー。作詞・作曲家、音楽プロデューサー。柳ジョージ&レイニーウッド元リーダー。 広島県広島市南区宇品出身。 学生時代からバンドを組み広島フォーク村に参加したり多くのコンテストに出場した。崇徳高校卒業後も地元・広島のディスコやキャバレーで演奏を続ける。浜田省吾はこの頃の音楽仲間だった。実力が県外にも知れ渡り、関西や関東のミュージシャンとセッションを繰り返し1973年、崇徳高校の同級生・石井清登らと5人組バンド「メイフラワー」を結成。1974年、広島にギタークリニックに来た柳ジョージとセッション、意気投合し、柳に誘われ翌1975年、上京し「柳ジョージ&レイニーウッド」としてバンドを結成した。
南 一誠(みなみ いっせい、1952年10月19日 - )は… 南 一誠(みなみ いっせい、1952年10月19日 - )は、日本の演歌歌手。広島県東広島市安芸津町出身。本名は南義信。広島県を中心に活動している。IMOプロダクション所属。ひろしま文化大使(広島市特任大使) 崇徳高等学校卒業。高校時代は、グリークラブに所属し、全日本合唱コンクールで金賞を受賞。高校卒業後、広島市内の歓楽街などで勤務。薬研堀の有名店・クラブ「ポエム」向かいの料飲ビル"船屋ビル"に有った「マイウェイ」というスナックで代理マスターをしていた頃の常連客に、地元広島RCC中国放送ディレクターの水野喬がおり、1980年前半にRCCラジオで水野喬が手掛けた番組の"どっこい演歌だ~"からの第一弾として、当初は地域盤で1980年に「広島天国」「雨の港から」で歌手デビューする。
森脇 保彦(もりわき やすひこ、1952年5月7日 - )は… 森脇 保彦(もりわき やすひこ、1952年5月7日 - )は、日本の柔道家(八段)。広島県出身。国士舘大学教授・柔道部長。 1952年、広島市から車で1時間程の山県郡加計町(現・安芸太田町)に生まれる。小学校1年次に父親を山の事故で亡くした事もあり、家は母と祖父が炭焼きで生計を立ててくれた。実家が山間部であったため、友人の家に遊びに行くにも山を1つ越えるという環境であったが、このため足腰が自ずと鍛えられていった。 1965年に加計町立加計中学校へ入学した森脇は、自身も体育が得意だったのに加え、前年の1964年東京オリンピックでの遠藤幸雄の活躍に憧れて、体操部への入部を希望。しかし、中学校に体操部は無かったため、将来警察官を志望していたことやテレビで見た『柔道一直線』の影響で、柔道部に入部した。
南 喜陽(みなみ よしはる、1951年9月10日 - 202… 南 喜陽(みなみ よしはる、1951年9月10日 - 2024年12月29日)は広島県広島市西区出身の日本の柔道家。身長162cm。得意技は背負投。 崇徳高校時代にインターハイを制して、卒業後は新日本製鐵広畑に入社。世界選手権では2連覇を達成してオリンピックでも金メダルが期待されるが、モントリオールオリンピックでは2回戦で敗れてメダルも取れず。現在は全日本柔道連盟の強化委員会特別委員。 2024年12月29日、姫路市の自宅で病気のため死去。73歳没。
古今亭 菊丸(ここんてい きくまる、1951年4月1日 - … 古今亭 菊丸(ここんてい きくまる、1951年4月1日 - )は、広島県呉市出身の落語家。落語協会所属。出囃子は『勧進帳』。紋は『鬼蔦』。 崇徳高等学校卒業。広島修道大学在学中の1975年11月に二代目古今亭圓菊に入門、古今亭志ん八と共に楽屋入りし菊助と名乗る。翌年3月に広島修道大学商学部商業学科を卒業し、11月に池袋演芸場にて『たらちね』で初高座。 1980年6月、古今亭志ん八、古今亭菊松、金原亭駒平と共に二ツ目昇進、菊之助を襲名。 1990年3月に林家しん平、林家錦平、橘家半蔵とともに真打昇進。菊丸に改名。 趣味∶ハワイ旅行、ゴルフ。お気に入りのアロハシャツがユニクロでも買えることに気づいてショックを受けているらしい。
西本 哲雄(にしもと てつお、1950年12月16日 - )… 西本 哲雄(にしもと てつお、1950年12月16日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、バレーボール指導者。1972年ミュンヘンオリンピック金メダリスト。 広島県広島市宇品(現南区宇品)出身。中学まではサッカー選手で、バレーボールは未経験だったが、崇徳高校入学後にバレーボール部に入部。体の大きさを買われてエースアタッカーとして鍛えられ、3年時の1968年、セッター・主将の米田一典らと高校総体で中大附属高校を降し優勝。同年国体では、柳本晶一がまだアタッカーだった大商大付属高校と当時のライバル校を降し優勝、崇徳初の高校2冠の原動力となった。(春高バレーは1970年から) 1969年、高校卒業後、先輩・猫田勝敏らのいた地元チーム・専売広島(現JTサンダーズ)入りし、猫田と共にチームを牽引した。
國廣(国広) 敏文(くにひろ としふみ 、1950年11月1… 國廣(国広) 敏文(くにひろ としふみ 、1950年11月19日 - )は、日本の政治学者。専門は、政治学、政治社会学、比較政治、フランス現代政治。立命館大学名誉教授。 広島県大竹市生まれ。1969年3月、私立崇徳高等学校卒業。1975年3月、明治大学政治経済学部政治学科卒業。その後、同大学院政治経済学研究科政治学専攻修士課程修了、同専攻博士課程単位取得退学。明治大学では田口富久治教授(名古屋大学名誉教授)に師事。1990年4月より立命館大学産業社会学部助教授、1998年に教授、2016年3月定年退職。続いて2021年3月まで特別任用教授。
米田 一典(よねだ かずのり、1950年6月24日 - 20… 米田 一典(よねだ かずのり、1950年6月24日 - 2012年2月26日)は、日本のバレーボール元選手・指導者。元全日本女子バレーボールチーム監督、チャレンジリーグ・仙台ベルフィーユ監督を歴任。広島県広島市安佐南区出身。 崇徳高校3年生時の1968年高校総体で、セッター・主将として中大附属高校を降し優勝。同年国体では柳本晶一擁する大商大付属高校を降して優勝し、2冠を達成した。 1973年、法政大学在学中に日立女子バレーボール部にコーチとして就任。1975年、監督に昇格し日立を常勝チームに育て上げた。 1974年には全日本女子チームコーチに就任、山田重雄監督の片腕として活躍し、1976年モントリオールオリンピック、1977年W杯の金メダル獲得に貢献した。
川口 孝夫(かわぐち たかお、1950年4月13日 - )は… 川口 孝夫(かわぐち たかお、1950年4月13日 - )は、日本の柔道家。広島県広島市出身。1972年ミュンヘンオリンピック柔道男子63kg級金メダリスト。身長164cm。 崇徳学園中学校 - 崇徳学園高等学校 - 明治大学。5歳の時、父の営む川口道場にて柔道を始めた。崇徳高校3年時(1968年)、インターハイ軽量級にて優勝。明治大学3年時(1971年)、世界柔道選手権大会(西ドイツ)軽量級優勝。明治大学4年時(1972年)、ミュンヘンオリンピック軽量級日本代表に選ばれ、同大会で優勝し、金メダリストとなった。決勝のブイダー(モンゴル)をわずか39秒の横四方固めで破った。 現在は、広島矯正管区武道教官を務める傍ら、川口道場を継ぎ、後進の育成に当たっている。
渡辺 和博(わたなべ かずひろ、1950年〈昭和25年〉2月… 渡辺 和博(わたなべ かずひろ、1950年〈昭和25年〉2月26日 - 2007年〈平成19年〉2月6日)は、日本の編集者、漫画家、イラストレーター、エッセイスト。 1950年(昭和25年)、裕福な薬局の子供として、広島県広島市に生まれる。崇徳高等学校卒業。 運動神経は鈍かったものの、子供のころからメカ好き、オートバイ好きであった。高校時代に二輪免許を取得し、自動車雑誌の購読も始めた。後の自身の漫画作品にも、オートバイに関する内容や、それにまつわる青春群像ものが多く、いわゆる「エンスー」となっていった。 1968年(昭和43年)に上京後、東京綜合写真専門学校に入学してカメラマンを目指していたが中退した。
久保 允誉(くぼ まさたか、1950年〈昭和25年〉2月18… 久保 允誉(くぼ まさたか、1950年〈昭和25年〉2月18日 - )は、日本の実業家。エディオン会長。サンフレッチェ広島会長。 広島県広島市に生まれる。実父は第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者の久保道正。1978年、早稲田大学商学部卒業。 1978年、第一産業に入社。取締役、常務取締役、専務取締役、副社長などを経て、1992年、代表取締役社長に就任。2002年、エディオンを設立、代表取締役会長に就任。2003年にエディオン取締役社長、デオデオ取締役会長に就任。2004年、暮らしのデザイン代表取締役会長を兼務。2007年、不祥事によりミドリ電化役員の引責辞任を受けて、同社会長に就任。
伊志嶺 朝秋(いしみね あさあき、1949年11月4日 - … 伊志嶺 朝秋(いしみね あさあき、1949年11月4日 - )は、日本の柔道家(八段)。広島県広島市出身。得意技は大外刈、巴投げ。 広島県広島市に次男として生まれる。両親は沖縄県出身で戦時中に広島に疎開した。ルーツは沖縄である。中学校から柔道を始め、崇徳高等学校卒業後には富士製鐵広畑製鐵所に就職するも、東洋大学に入り直した。 現役時代は南喜陽、川口孝夫、園田義男と軽量級で激しく競ったが、オリンピック出場は果たせなかった。 現役引退後は指導者となり、全日本柔道連盟入りして連盟広報委員会の委員を務めており、海外での柔道指導も行っている。
岩井 壽照(いわい よしてる、1949年〈昭和24年〉 - … 岩井 壽照(いわい よしてる、1949年〈昭和24年〉 - )は、日本の画家、日本美術家連盟会員。妻は絵画修復師(英語版)の岩井希久子。
上野 忠美(うえの ただみ、1948年12月9日- )は、広… 上野 忠美(うえの ただみ、1948年12月9日- )は、広島県出身のプロゴルファーである。ミズノ所属。 崇徳高等学校卒業。15歳の時からゴルフを始める。1973年4月7日にプロ転向、中四国オープン優勝、以来今大会は3連覇を果たすなどレギュラーツアー7勝を挙げ、プロ転向5年目にして初のシード入りを果たす。その後2年間シードを保持したが、あるトーナメントの練習ラウンド中に、ちょっとしたイタズラが原因で調子を落とし、4年間シード落ちを経験。1983年に再びシード入りを果たすが、翌年から2年間は再びシード落ちとなる。この時期の本人談では、「正直いってツアーをやめようと思った」と語っている。1986年に三度目のシード入りを果たし、1991年のJCBクラシック仙台の優勝以降、極度のスランプに陥り、一時はトーナメントをあきらめていたが、シニアとなって再挑戦する。
矢延 洋泰(やのぶ ひろやす、1947年 - )は、日本の地… 矢延 洋泰(やのぶ ひろやす、1947年 - )は、日本の地理学者。専門は東南アジア地域研究、経済地理学、環境科学。 広島県生まれ。崇徳高等学校卒業。同年、理科系大学に入学し中退。1969年駒澤大学文学部地理学科入学、1973年同卒業。同年 東京大学工学部研究生。1977年イタリア政府の招請でトスカーナ州シエナ大学に短期留学。1978年駒澤大学大学院博士課程地理学専攻満期退学。 立教大学大学院、青山学院大学、神奈川大学、駒澤大学、東京純心女子大学講師を歴任。 「国立国会図書館サーチ」を参照
猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 198… 猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 1983年9月4日)は、日本の元男子バレーボール選手。広島県広島市安佐南区古市(旧・安佐郡古市町)出身。 1964年東京オリンピックから1976年モントリオールオリンピックまで、4大会連続でオリンピック出場(日本のバレー男子選手で最多)を果たし、金・銀・銅の3個のメダルを獲得、「世界一のセッター」と称された。また、そのトスの正確さから、当時世に知られ始めたばかりのコンピュータから名を取って「日本のコンピュータ猫田」とも呼ばれた。 情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で前田豊、大松博文と並んで3人のうちの1人に数えられた。
山本 裕洋(やまもと やすひろ、1944年(昭和19年)1月… 山本 裕洋(やまもと やすひろ、1944年(昭和19年)1月31日 - )は、日本の柔道家、段位は8段、全日本実業柔道連盟副理事長、西日本実業柔道連盟理事長、宮崎県延岡市に在住。 広島県出身。広島市の中学校から柔道を始め、広島県立広島商業高等学校に進学して山肩敏美と出会い、崇徳高等学校に転校し学校と道場での練習を積み、3年のとき主将として全国大会初出場を果たした。 明治大学に進学後は曽根康治、神永昭夫の両指導者の下で厳しい指導を受け、全日本学生柔道選手権大会無差別級で2年連続優勝を果たした。 1967年 旭化成工業(現 旭化成)に入社し、当時衰退していた柔道部の監督に入社3年目で就任。「他社に無い練習を」をスローガンに早朝5時30分からのトレーニングを率先励行したことで徐々に部員の意欲が高揚し、会社の理解もあって、好成績が続き社内外で認められるようになり、各地から名選手が入社するようになって現在の強い柔道部が出来上がった。
森山 輝久(もりやま てるひさ、 1942年3月17日 - … 森山 輝久(もりやま てるひさ、 1942年3月17日 - )は、日本の元バレーボール選手。元バレーボール全日本選手。 広島県出身。崇徳高等学校3年の時、ジャンプ力のある強打のエースアタッカー兼主将として国体優勝。1960年、中央大学1年時の、第1回日ソ対抗バレーで全日本に初選出された。その後も6人制へ切り替え期の全日本選手として1962年第5回世界選手権(モスクワ)、第4回ジャカルタアジア競技大会(金メダル)などで活躍した。中大4年時には大学王者の勢いで当時の最強チーム・日本鋼管を天皇杯(全日本総合選手権)で破って日本一となるなど中大黄金期の礎を創った。中大を卒業し入団した松下電器(現・大阪ブルテオン)でも1964年、チームの全日本都市対抗、全日本総合、国体、全日本実業団の国内4大タイトル独占の原動力となった。
井原 文之(いはら ふみゆき、1940年9月16日 - )は… 井原 文之(いはら ふみゆき、1940年9月16日 - )は、元日本男子バレーボール選手、バレーボール指導者。元富士フイルムの選手・監督。広島県佐伯郡三高村(現江田島市)出身。崇徳高等学校卒。身長167cm。 高校時代は崇徳高校の九人制のバック選手として活躍。レシーブの名手として知られた。1959年、当時は企業名もほとんど知られていなかった富士フイルムに入社。1964年の九人制全日本総合選手でチーム初優勝に貢献したが、会社が翌1965年度を最後に九人制をやめ、六人制一本に絞ったため167cmのレシーバーに出番はなく1966年引退。大卒のエースだった同期の小山勉部長が監督に就任するのとは対照的にバレー部を去り7年間工場勤務。
高橋 乗宣(たかはし じょうせん、1940年1月18日 - … 高橋 乗宣(たかはし じょうせん、1940年1月18日 - )は、日本の経済学者、エコノミスト。 広島県高田郡美土里町の浄土真宗本願寺派敬覚寺に長男として生まれる。 崇徳高校、東京教育大学文学部卒業。1970年、同大大学院社会学研究科博士課程満期退学。 大学講師を経て1973年、三菱総合研究所入社。主席研究員、参与、研究理事など景気予測チームの主査を長く務めた。IWJによると、福田赳夫内閣の経済成長率予測7.1%に対し4.1%と予測して、バブル崩壊後の日本経済を的確に予測するなど、短期的な景気予測では、別名、悲観の乗宣と呼ばれる。 三菱総研顧問となった2000年より明海大学大学院教授。2001年から崇徳学園理事長。
天野 守信(あまの もりのぶ、昭和13年〈1938年〉 - … 天野 守信(あまの もりのぶ、昭和13年〈1938年〉 - 平成16年〈2004年〉7月16日)は、日本の合唱指揮者。広島県廿日市町(現廿日市市)出身。崇徳高校グリークラブの創立者、初代指揮者・音楽監督を務めた。 広島県立国泰寺高校在学中に合唱をはじめ、同志社大学ではグリークラブに所属。当時同志社グリークラブ常任指揮者だった福永陽一郎に師事。多田武彦とも親交が生まれた。 卒業後、旧丸善石油に就職。この頃から母校国泰寺高校合唱部で合唱を教え始め、その後、山陽女子高校音楽部や九州産業大学グリークラブでも合唱指導を行う。昭和43年(1968年)に崇徳学園の英語教師として就職。すぐにグリークラブを創立し、その指導に当たる。
山下 勇三(やました ゆうぞう、1936年5月30日 - 2… 山下 勇三(やました ゆうぞう、1936年5月30日 - 2008年1月31日)は、グラフィックデザイナー。広島県広島市観音(現・広島市西区)出身。 広島市立観音小学校、山陽中学校(現・山陽高等学校)、崇徳高等学校を経て、1960年多摩美術大学図案科卒業、ライトパブリシティに入社。和田誠は大学の同窓でデザイン会社も同僚の盟友。1963年に独立して「山下勇三事務所」を設立した。1969年、矢崎泰久の推薦により、日本のタウン誌第一号と呼ばれる「新宿プレイマップ」のアートディレクターとなる。「新宿PLAY MAP」というタイトルとロゴ文字を作成し、創刊号に斬新なイラストレーションの表紙画を書いた。「新宿プレイマップ」は第3号で降板したが、「話の特集」では、井上ひさしが15年にわたって長期連載した小説「江戸紫絵巻源氏」のイラストレーションを担当したほか、同誌に30年間掲載された永六輔との「せきこえのどに浅田飴」の広告を手がけた。
岩部 金吾(いわべ きんご、1932年(昭和7年)2月26日… 岩部 金吾(いわべ きんご、1932年(昭和7年)2月26日 - 2021年(令和3年)3月7日)は日本の実業家。元文化シヤッター代表取締役社長。 1932年(昭和7年)2月26日、広島県に生まれる。旧制崇徳中学(現崇徳高等学校)を経て、1956年(昭和31年)に法政大学経済学部を卒業し、ハリウッド化粧品に入社する。1959年(昭和34年)に文化シヤッター入社し、1964年(昭和39年)同社取締役社長室長、1969年(昭和44年)に同社常務取締役、1972年(昭和47年)に同社専務取締役を経て、1989年(平成元年)に同社代表取締役社長に就任する。1995年(平成7年)に同社取締役相談役を経て、1997年(平成9年)に同社代表取締役会長就任。
大歳 克衛(おおとし かつえ、1929年(昭和4年)4月16… 大歳 克衛(おおとし かつえ、1929年(昭和4年)4月16日 - 2014年(平成26年)6月8日)は、広島県出身の洋画家である。広島市立大学名誉教授、尾道市立大学名誉教授。中国文化賞を受賞。 1929年(昭和4年)4月16日、安佐郡緑井村(現・広島市安佐南区緑井)に生まれる。1948年(昭和23年)、旧制崇徳中学校を卒業。1954年(昭和29年)には東京芸術大学油絵科卒業。梅原龍三郎に師事する。1956年(昭和31年)より国画会に出品し初入選。1958年(昭和33年)、「海の詩」などで国画会新人賞を受賞する。翌年には安井賞候補にも選ばれる。 1962年(昭和37年)には国画会会員となり、1964年(昭和39年)より1年間パリに滞在。
光易 恒(みつやす ひさし、1929年 - )は、日本の物理… 光易 恒(みつやす ひさし、1929年 - )は、日本の物理学者。専門は海洋物理学。特に海洋波の研究で知られる。九州大学名誉教授 1929年、広島県生まれ。1945年に旧制崇徳中学校を卒業。1948年に旧制広島高等学校を卒業、1952年に広島文理科大学(現広島大学)を卒業、旧運輸省運輸技術研究所へ入る。高潮津波研究室長および波浪研究室長を経て、1965年に九州大学応用力学研究所助教授に転進、1967年同教授となる。後に同研究所所長をつとめた。1992年に九州大学を退官後は、広島工業大学環境デザイン学科教授に就任し、1999年に退職している。
山手 治之(やまて はるゆき、1928年4月15日- )は、… 山手 治之(やまて はるゆき、1928年4月15日- )は、日本の国際法学者。立命館大学名誉教授。専門分野は、国際法・国際経済法・EU法(EC法)。広島県広島市出身。 昭和3年(1928年)4月15日、広島県安佐郡深川村(現広島市安佐北区)で生まれる。昭和17年(1942年)4月に旧制崇徳中学校へ入学。途中、海軍兵学校へ入学するが(1945年4月-8月、海軍兵学校第78期)、終戦後復帰し、昭和21年(1946年)3月に卒業する。昭和21年(1946年)9月に旧制山口高等学校理科甲類に進学し、昭和24年(1949年)卒業する。昭和24年(1949年)4月に旧制京都大学法学部に進学、昭和27年(1952年)には旧制京都大学大学院法学研究科に進学し、昭和29年(1954年)修了。
小倉 馨(おぐら かおる、1920年(大正9年)10月13日… 小倉 馨(おぐら かおる、1920年(大正9年)10月13日 - 1979年(昭和54年)7月13日)は、広島平和文化センター事務局長、広島平和記念資料館館長等を歴任した広島市職員である。日系アメリカ人2世。 広島県佐伯郡廿日市町(現・廿日市市)出身である。1920年、両親のアメリカ在住中にワシントン州シアトル市で生まれた。現地の小学校を卒業後に帰国する。帰国後は旧制崇徳中学校を経て、1942年(昭和17年)に旧制山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)を卒業し、兵役に就いてセレベス島で終戦を迎える。 1948年(昭和23年)から広島アメリカ文化センター、1953年(昭和28年)から東京国際文化会館に勤務している。
山中 雪人(やまなか ゆきと、1920年2月12日 - 20… 山中 雪人(やまなか ゆきと、1920年2月12日 - 2003年6月5日)は、広島県出身の日本画家。宗教画を得意とする。日本美術院同人。元広島市立大学教授。妻は日本画家の水谷愛子。 1920年2月12日広島市台屋町(現在の南区京橋町)の浄土真宗寺院の家に生まれる。1937年に広島崇徳中学校を卒業後、川端画学校で学び、翌1938年に東京美術学校日本画科へ入学し、結城素明や川﨑小虎らの指導を受ける。1941年には結城素明の主宰する大日美術院第4回展覧会では「花屋」が、翌1942年の第5回展覧会では「T先生」が入選する。同年、東京美術学校を繰り上げ卒業し、1946年まで軍籍に身を置くことになる。1944年に中国漢口(現在の湖北省武漢市)の部隊に配属される。
金子 彪(かねこ ことら、大正元年(1912年) - 平成2… 金子 彪(かねこ ことら、大正元年(1912年) - 平成2年(1990年)9月23日)は、昭和期広島県の教育者である。忠海高等学校・府中高等学校・広島国泰寺高等学校・崇徳高等学校等の校長を歴任した。 1912年に長崎県で生まれる。実兄と同じ旧制第五高等学校で学ぶ。その後、東京帝国大学文学部国文科へ進学し、同校を昭和3年(1928年)3月に卒業する。同年4月より戦前の大手出版社で教科書出版の老舗で知られる冨山房編集部で勤務する。しかし、教職に携わっていた実父・金子豪から「金子豪は長男も教職にあり。直接に育英の道に入るべきぞ」と勧められ、また全国中学校長会長である先輩に相談したところ、「それは丁度いい。
湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 19… 湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 1992年8月9日)は、実業家。 湧永製薬創業者。 広島県高田郡甲田町(現安芸高田市)出身。1929年、旧制崇徳中学(現崇徳高校)卒業。野村信託勤務後、共同で大阪に商社を設立、薬品担当の役員だった1950年代前半、人を介して紹介された元ベルリン大学教授・シュネル博士のニンニク研究のすすめを受け独立。1955年6月、湧永薬品を設立した。当初はシュネル博士の研究室で作った薬品を販売する会社であった。このため製品の遅れや営業の不慣れがあって経営は苦難があった。湧永は専門家でも研究者でもないが、こうした販売業と並行し素人の強みで体当たりでニンニク研究にも没頭。
高橋 敏雄(たかはし としお、明治41年(1908年)1月1… 高橋 敏雄(たかはし としお、明治41年(1908年)1月13日 - 不明)は、広島県広島市出身の実業家・経営者である。萬国製針二代目社長・会長を歴任。父は萬国製針創業者の高橋誠太郎。 1908年1月13日に広島県広島市で生まれる。1926年に旧制崇徳中学校を卒業し、家業を継ぐべく萬国製針商会に入社する。1936年に同会代表者となる。1945年8月6日に原子爆弾の被害により、工場・設備の一切を失い、自宅も焼かれ、長男を始め近親者の10名が亡くなった。高橋自身、原爆を恨み、アメリカに対する憎悪の念を燃やしながら終戦を迎えたとされる。アメリカに対する憎悪は、やがてアメリカへの積極的な針の輸出という企業化精神へと転化されていった。
小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)… 小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)6月27日 - ?)は、日本の自動車技術者。 男爵小早川家の当主。位階は正五位。旧姓名は毛利元治。 東京府出身。明治40年(1907年)、第29代毛利宗家当主の毛利元昭の次男として生まれる。その後、叔父にあたる男爵・小早川四郎の養子となる。広島の旧制崇徳中学校、日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)を卒業。崇徳中学校時代には弁論部で活躍、大学時代にはディーゼル機関の研究を行っていた。卒業後は日産自動車の技術者となる。また、ジェントルマンドライバー (アマチュアドライバー) としても活動し、イギリスからMG・K3マグネットを入手して多摩川スピードウェイに参戦するなどしたという。
廿日出 逸暁(はつかで いつあき、1901年2月18日 - … 廿日出 逸暁(はつかで いつあき、1901年2月18日 - 1991年5月29日)とは、日本の図書館員・図書館学者である。 1901年、広島県豊田郡大長村(現・呉市)に生まれる。旧制崇徳中学校卒業。ライプチヒ大学附属図書館学校等を卒業後、御成婚記念千葉県図書館(現千葉県立中央図書館)の館長として経営に邁進する。戦後は移動図書館を日本に広めたことでも知られ、図書館法の成立にも尽力している。のちに国会図書館連絡部長や千葉経済短期大学教授等を歴任した。1971年、勲三等瑞宝章を受章。1991年死去。
武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 … 武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉10月25日)は、日本の教育者。元明治大学野球部長、元明治大学学長・総長。札幌大学学長。日米大学野球選手権大会の創設など学生野球の普及、発展に長年尽力した。広島県広島市出身。 広島県出身。第四仏教中学(現:崇徳学園)卒業後、明治大学へ進学。商科の学生だった1920年(大正9年)、大学レガッタの惨敗などで大学混乱の中、牛尾哲造・越智七五三吉と共に大学校歌として著名な「白雲なびく駿河台」(作詞:児玉花外・作曲:山田耕筰)制定に奔走。1923年(大正12年)卒業。 1936年(昭和11年)から明大商学部教授。1941年(昭和16年)明治大学体育会ヨット部初代部長 の他、硬式庭球部長に就いていたが、1952年(昭和27年)から監督就任した教え子島岡吉郎に請われ、島岡を支える硬式野球部長となる。
大沼 法龍(おおぬま ほうりゅう)(旧姓 村岡 正人、189… 大沼 法龍(おおぬま ほうりゅう)(旧姓 村岡 正人、1895年〈明治28年〉12月10日 - 1976年〈昭和51年〉4月17日) は、日本の仏教家。大正から昭和の時代に活躍した西本願寺の布教使である。 明治28年(1895年)12月10日山口県岩国市に生まれる。その後 1911年広島第四仏教中学校(現 崇徳高校)に入学した。1916年に仏教大学(現 龍谷大学)に予科入学し、1921年(大正10)同校の研究科に入学する。その後、1923年に信心を獲得し、1924年に研究科を卒業した。その年の12月に北九州市八幡東区の敬行寺に入寺した。ハワイでの布教などの布教活動を積極的に行った。その後数々の著書を発刊。
桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1… 桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1968年5月2日)は、日本の心理学者、僧侶、第十四代浄楽寺住職。 広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区)の浄土真宗本願寺派浄楽寺住職桐原慈見の長男として誕生する。八木尋常小学校(現広島市立八木小学校)、高宮高等小学校、第四仏教中学(現崇徳高等学校)、旧制第三高等学校を経て1919年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業した。東京帝国大学では日本心理学会の草分けである松本亦太郎に師事して心理学を専攻した。卒業の年に実父が他界し、浄楽寺第14世住職を継ぐが引き続き大学院へ進学する。大学院在院中より倉敷労働科学研究所(現・公益財団法人大原記念労働科学研究所)の設立に貢献した。
三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月2… 三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月20日 - 1963年〈昭和38年〉11月9日)は、日本の哲学者。 思想史・科学史・技術史についての研究も多い。 広島県山県郡本地村(現・北広島町)出身。生家は浄土真宗の寺院・浄専坊。第四仏教中学(現・崇徳高等学校)を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒しマルクス主義に没頭した。 1922年大学卒業後は同郷で、医学史の大家・富士川游に師事。東洋大学、立正大学、法政大学などで教職に就いた。1928年、無神論運動を起こす。1931年半年間ドイツに留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。1932年に戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加。
佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 198… 佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 1981年3月26日)は、広島県出身の哲学者。主な専門は現象学。勲四等瑞宝章受賞。 広島県出身。第四仏教中学卒業後。1916年、東京帝国大学文学部哲学学科卒業。1919年、第八高等学校教授に就任。1945年、同職を退職。1949年、熊本大学教授に就任。1951年、東京都立大学教授に就任。1957年、東洋大学教授に就任。 1981年3月26日、逝去。享年90歳。墓所は青山霊園。
岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)… 岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)9月30日 - 1946年(昭和21年)11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大将。北支那方面軍司令官、第3方面軍司令官、第6方面軍司令官。 広島県広島市袋町(現中区袋町)に於いて、陸軍書記を務めていた岡部栄次郎の三男として生まれる。1899年(明治32年)に崇徳中学校卒業後、広島陸軍地方幼年学校入学。その後、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)と進み、陸軍大学校(27期)卒業。陸士同期生には山下奉文、藤江恵輔、阿南惟幾、山脇正隆、安井藤治、小松原道太郎らがいる。陸大卒業後、1918年(大正7年)にハバロフスク特務機関(砲兵大尉)、1922年(大正11年)にポーランド公使館附武官(砲兵少佐)。
能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月1… 能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月18日〉 - 1903年〈明治36年〉?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年(明治10年)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現在の崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年(明治18年)9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺の普通教校(現在の龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。
甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日… 甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。 現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派の学者の足利義山。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語・漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。 明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。
木村 真一郎(きむら しんいちろう、10月4日 - )は、日… 木村 真一郎(きむら しんいちろう、10月4日 - )は、日本の男性アニメ監督・演出家。別名義にきむらしんいちろう、キムラシンイチロウ、常磐鐘鳴、村木一真。愛称はキムシン。広島県出身。 幼少期は、父親がタンカー船員だった為に家を長く空ける事が多く、母親と共に時代劇やドラマ等を観て過ごす事が多かった。アニメに関しては『タイガーマスク』が印象に残っていると言い、その原作漫画やアニメ雑誌も愛読していた。 教員免許取得を目的として、大阪芸術大学芸術学部美術学科油画コースへ進学。在学中は漫画アニメーション研究会CASに所属し、漫画家・田中政志や、アニメ監督・加戸誉夫らと同期。 大学卒業後、動画スタッフとしてじゃんぐるじむに入社するも、演出業務に興味が移り、程無くスタジオワールドへ制作進行として移籍し、先輩となる小島正幸・桜井弘明らの下で演出助手として研鑽も深める。
神田 憲次 は、日本の政治家、税理士。
石井 清登(いしい きよと)は、日本のギタリスト、作詞家・作… 石井 清登(いしい きよと)は、日本のギタリスト、作詞家・作曲家。 元柳ジョージ&レイニーウッドのメンバー。広島県出身。 崇徳高等学校の同級生だった上綱克彦らと広島を拠点にバンド活動していた1975年に、広島にギタークリニックに来た柳ジョージとセッション後上京し、柳ジョージ&レイニーウッドのギタリストとして参加したが、1981年に行われた日本武道館のコンサートを以て解散した。 バンド解散後、上綱らと「THE WOOD」として、柳に代わるボーカリストを補充し活動を続け2枚のアルバムを出したがその後解散。 2005年4月、1日だけオリジンナルメンバーでの復活ライブが横浜で行われた。