スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治2… 有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治29年)2月16日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の統計学者、経済学者。位階は正三位。 法政大学元総長。東京大学名誉教授、法政大学名誉教授。統計学が専門分野で、実証に徹した。 高知県出身。高知中学を経て、第二高等学校卒業。東京帝国大学では法学部から独立したばかりの経済学部の第一期生として統計学を糸井靖之の演習にて学ぶ。また河合栄治郎の講義を熱心に聴いた。大内兵衛に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年(大正11年)に同大学を卒業後、助手を経て1924年(大正13年)に同大経済学部統計学講座の助教授となる。同年、同大講師の猪間驥一を大学から追放した。
政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明… 政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明治29年〉1月19日 - 1973年〈昭和48年〉7月9日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道範士七段。居合の流派は無双直伝英信流。 高知県吾川郡小川村(現・いの町小川柳野)で生まれる。高知県立第一中学校に入学し、吾川郡の中学生用の寄宿舎で生活しながら、剣道を川崎善三郎に学ぶ。寄宿舎の先輩で高知県立第二中学校5年生の森繁樹から、第二中学校で大江正路という剣道教師が希望者に居合(無双直伝英信流)を教えていると聞いた政岡は、居合を習ってみたいと思うようになる。その翌年、第二中学校は第一中学校に合併され、大江は第一中学校に赴任した。
小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月1… 小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月12日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 1895年(明治28年)、高知県高岡郡高石村用石(現土佐市)で生まれた。1915年(大正4年)高知県立第一中学校(現:高知県立高知追手前高等学校)を卒業後、1918年(大正7年)11月、海軍兵学校(46期)を卒業。 海軍水雷学校高等科を経て、駆逐艦「灘風」、重巡洋艦「高雄」「五十鈴」「衣笠」、戦艦「霧島」などの水雷長兼務分隊長、駆逐艦「水無月」「夕霧」「白雪」「白雲」などの艦長、巡洋艦「天龍」「筑摩」の副長、第5駆逐隊司令などを歴任。 太平洋戦争開戦当時は、第12駆逐隊司令としてマレー上陸作戦、ジャワ島上陸作戦、ジャカルタ沖海戦などに参加。
浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月… 浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月18日 - 1945年(昭和20年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡大篠村明見(現・南国市明見)出身。浜田正之・礼の四男として生まれた。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業し、1919年(大正8年)11月、同校高等科(25期)を卒業。陸軍工科学校教官などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1925年12月、野砲兵第4連隊中隊長に就任。
中平 亮(なかひら りょう、1894年1月1日 - 1981… 中平 亮(なかひら りょう、1894年1月1日 - 1981年3月8日)は、日本のジャーナリスト、ソ連研究家。 1894年(明治27年)、高知県高岡郡蓮池村城の医師光代、寅の次男として生まれる。1912年(明治45年)県立第一中学校(現在の追手前高校)卒業。神戸に移り、大阪税関に勤務しながらロシア語を修得。 1917年(大正6年)、大阪朝日新聞社に入社。同年12月シベリアに派遣されるが病気のため帰国。翌年シベリア出兵の従軍記者として再びウラジオストックに派遣される。1919年(大正8年)5月、過激派討伐連合軍の従軍記者となりシベリア横断中に連合軍は過激派に敗退。同年7月革命後間もないモスクワに単身潜入、逃避行の末スパイ容疑で逮捕され、同年12月に釈放になる。
山田 龍雄(やまだ たつお、1893年(明治26年)11月1… 山田 龍雄(やまだ たつお、1893年(明治26年)11月17日 - 1945年(昭和20年)4月2日)は、日本の大蔵官僚。逓信次官。 高知県出身。旧制高知県立第一中学校(現・高知県立高知追手前高校)、旧制第六高等学校を経て、1918年(大正7年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。大蔵省では銀行局に配属した後、司税官、税務監督局事務官、同書記官、銀行検査官、預金部書記官・監理課長、大蔵書記官・主計局予算決算課長、主計局予算課長、内閣調査局調査官、大蔵省主税局長・醸造試験所長を歴任した。1937年(昭和12年)、大蔵省造幣局長に就任し、1940年(昭和15年)に逓信次官に転じた。
川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12… 川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12月3日 - 1961年(昭和36年)5月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等。 高知県高知市西町出身。川口清俊陸軍中佐・母スガの息子として生まれる。高知一中(城東中学)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。当時は陸軍一といわれるほどの「ショーネン」(美少年)であった[要出典]。参謀本部付勤務を経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第8連隊中隊長、参謀本部付勤務、第4師団参謀、台湾軍参謀、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、陸軍省副官、支那駐屯軍参謀、第4師団司令部付(外事主任)、東京湾要塞参謀、北支那方面軍司令部付(宣伝部長)などを経て、1937年(昭和12年)11月、陸軍大佐に進級。
秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25… 秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25年〉10月22日 - 1972年〈昭和47年〉12月3日)は、大正から昭和期の水産技術者、実業家、政治家。参議院議員。 高知県長岡郡東豊永村(大豊村を経て現大豊町怒田)で、秋山紋弥、春女の長男として生まれる。1912年(明治45年)高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)を卒業。1915年(大正4年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業。 台湾宜蘭庁技手に任官し、1916年(大正5年)台湾総督府に転任。1920年(大正9年)長崎県に転じた。1928年(昭和3年)高知県水産課長に就任。その後、佐賀県水産課長を経て、長崎県水産試験場長となった。
葛目 直幸(くずめ なおゆき、1890年(明治23年)10月… 葛目 直幸(くずめ なおゆき、1890年(明治23年)10月10日 - 1944年(昭和19年)7月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功二級。 高知県長岡郡岡豊村笠ノ川(現・南国市岡豊町笠ノ川)出身。農業・葛目倉次・ふさの二男として生まれる。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。歩兵第22連隊附としてシベリア出兵に従軍。内地帰還後の同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付に転じる。 1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に昇進し近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。東京警備副官を経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進し独立守備歩兵第3大隊付となる。
山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1… 山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1944年9月13日)は、日本の建築家。住宅専門会社あめりか屋技師長として知られる。 1890年(明治23年)2月22日、高知県香美郡岩村(現南国市)に生まれる。旧制高知中学校(現高知県立高知追手前高等学校)から、第三高等学校に進学。卒業後の1914年(大正3年)、早稲田大学理工学部建築学科入学。当時、三高から私学に進学するのは異例で、いとこで早稲田大学教授だった山本忠興の勧めと考えられている。1917年(大正6年)、同校卒業。 同年、橋口信助が創立した住宅設計施工会社「あめりか屋」へ就職、5年後に設計部の技師長になる。住宅改良会の機関誌『住宅』の編集・寄稿や、著書『家を住みよくする法』などを通して啓蒙的な執筆活動を行った。
岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月2… 岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月21日 - 昭和40年(1965年)3月13日)は、日本の法曹。太平洋戦争開戦、ドーリットル空襲の時の日本の司法大臣であり法曹会幹部である。 1883年(明治16年)8月21日、東京府東京市神田区神保町に生まれた。男爵岩村通俊の五男。次兄の岩村俊武は海軍中将、従弟の林譲治は衆議院議長。 父通俊は当時司法大輔(司法次官)で、初代北海道長官に任せられて札幌に赴任。彼も幼少期を札幌で過ごした。1889年、父は農商務大臣就任および貴族院議員勅任により東京に戻ったが、彼は父の郷里宿毛に行き宿毛小学校で学んだ。吉田茂は同小学校の同窓生。 1893年(明治26年)、高知市の高知県立第一中学校(現在の高知県立高知追手前高等学校の前身)に入学。
小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3… 小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3日 - 1966年〈昭和41年〉11月18日)は、東洋史学者・東洋思想史研究者(中国社会思想史)。京都帝国大学名誉教授。号は「抱甕」(ほうおう)。財団法人板垣会顧問。 1881年、高知県吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市)で生まれた。弘岡上ノ村の小学校を卒業して高知県立第一中学校に進学し、漢文の授業では『日本外史』『十八史略』『孟子』などを学び、荻生徂徠の立場から孟子を非難する教師に反論して孟子を弁護したりしたという。また、後年の小島は、これまで読んできたなかで最も有益で興味深い中国の書物として、中学時代から読んできた『孟子』『荘子』『史記』を挙げると述べている。
山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月… 山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 高知県香美郡岩村(現南国市金地)出身。政治家山本忠秀の長男として生まれるが、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月… 寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者、随筆家、俳人 日本派。吉村 冬彦(1920年から使用)、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)の筆名も使用している。俳号寅日子。高知県出身(出生地は東京市)。 東大物理学科卒。熊本の五高時代、物理学者田丸卓郎と、夏目漱石と出会い、終生この2人を師と仰いだ。東大入学後、写生文など小品を発表。以後物理学の研究と並行して吉村冬彦の名で随筆を書いた。随筆集に『冬彦集』(1923年)などがある。 1878年(明治11年)11月28日東京市麹町区(現在の千代田区)に高知県士族(旧足軽)寺田利正・亀夫妻の長男として誕生。
田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 197… 田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 1974年12月24日)は、日本の魚類学者であり、東京帝国大学の動物学の教授である。「近代魚類分類学の父」として知られる。魚類やサメに関する多くの論文を発表し、著名なアメリカ人科学者であるデイビッド・スター・ジョーダンおよびジョン・オターバイン・スナイダー(英語版)とともに日本の魚類に関する書籍(Jordan, Tanaka & Snyder 1913)を共著し、一般性の高い地方名に基づく標準和名を提唱した。財団法人板垣会顧問。 研究論文を約300編、書籍は50冊に及ぶ著作を行っている。
若尾 瀾水(わかお らんすい、1877年(明治10年)1月1… 若尾 瀾水(わかお らんすい、1877年(明治10年)1月14日 - 1961年(昭和36年)12月1日)は、日本の俳人。日本画家。新聞記者。土佐文人研究者。本名は庄吾。雅号は葭厓。 1877年(明治10年)、高知県吾川郡弘岡下ノ村(現在の高知市春野町)に生まれる。生家は富裕な郷士の家であった。1889年(明治22年)、高知尋常中学校に入学。中学時代の親友に森田正馬がいた。 1894年(明治27年)、京都の第三高等学校に入学。三高在学中の1896年(明治29年)、永田青嵐とともに寒川鼠骨より日本派の俳句の教えを受け、同年9月、鼠骨らと京阪満月会を発足させた。 1897年(明治30年)、三高から仙台の第二高等学校に転学。
和田 尊義(わだ たかよし、1876年(明治9年)8月1日 … 和田 尊義(わだ たかよし、1876年(明治9年)8月1日 - 1910年(明治43年)10月17日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。 和田治太郎義尚、藤の長男として土佐国長岡郡小蓮村(岡豊村小蓮を経て、現在の南国市)に生まれる。初代彦五郎から続く地元の資産家。1897年(明治30年)高知尋常中学校を卒業し、第三高等学校に入学するが、病気を理由に中退。1902年(明治35年)6月から1905年(明治38年)3月まで母校の高知県立第一中学校で教諭心得を務める。この間、テニス部、ボート部の指導に当たり、1904年(明治37年)には京都武徳会端艇競漕会で全国優勝を果たした。 その後、岡豊村教育兵事長、土佐農工銀行専務を経て、1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙に高知県郡部から出馬し当選するが、在任中に結核により没した。
市村 光恵(いちむら みつえ、1875年(明治8年)8月5日… 市村 光恵(いちむら みつえ、1875年(明治8年)8月5日 - 1928年(昭和3年)9月27日)は、日本の憲法学者、政治家。京都市長。 1875年(明治8年)8月5日、高知県高岡郡蓮池村芋岡(現:土佐市)に生まれる。1894年(明治27年)高知尋常中学校、1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。 東京帝国大学講師になる。1903年(明治36年)京都帝国大学助教授に、1909年(明治42年)京都帝国大学教授に就任。翌年、法学博士の学位を受く。昭和2年(1927年)京都市長に選任されたため、大学を退官し、名誉教授となる。昭和3年(1928年)9月27日、53歳で死去。墓は京都市上賀茂大乗寺境内。
森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明… 森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明治7年〉1月18日 - 1938年〈昭和13年〉4月12日)は、日本の医学者、精神科神経科医。(森田)神経質に対する精神療法である「森田療法」を創始した。 高知県野市町(現・香南市)生まれ。号は形外。 高知県立第一中学、第五高等学校、東京帝国大学医科大学を卒業。東京帝国大学では呉秀三門下。巣鴨病院に勤務。根岸病院顧問(1906-29)。東京慈恵会医科大学教授を務める。 1919年(大正8年)、妻の久亥の助けを借りながら、自宅を利用して神経症の入院療法を開始する。
宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6… 宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 高知県香美郡夜須村西山(現・香南市夜須町西山)に生まれる。周馬・政の長男。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)から東京成城中学校に転校し、1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。第3軍に属し、日露戦争に出征。 1913年(大正2年)台湾総督府陸軍副官、1920年(大正9年)8月に津連隊区司令官、1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1922年(大正11年)8月に歩兵第45連隊長に任ぜられた。
濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4… 濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4月1日〉- 1931年〈昭和6年〉8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。 大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁(初代)などを歴任した。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。大日本帝国憲法下で、衆議院から総理大臣となった3人のうちの1人である。 1870年5月1日(明治3年4月1日)、土佐国長岡郡池村唐谷(のちの五台山村を経て現:高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。 1889年(明治22年)、高知県安芸郡田野村(現:田野町)の素封家・濱口義立の16歳の長女・夏と結婚し、濱口家の養嗣子となる。
野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年… 野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年12月28日) - 1960年(昭和35年)2月11日)は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。財団法人板垣会第12代会長。坂本龍馬先生銅像建設会会長。桂浜・坂本龍馬先生銅像の建立責任者。高知城公園・板垣退助先生銅像の再建責任者。 近代交通黎明期に高知県の海運・陸運の発展に貢献し、土佐湾岸航路、バス、鉄道等多くの交通事業に携わった。現在のとさでん交通の前身会社の一つである高知県交通の前身である野村組自動車部、現・新高知重工の前身である野村組工作所の創設者である。また、私鉄高知鉄道手結-安芸線(後の土佐電気鉄道安芸線:昭和49年(1974年)の建設なども手掛けた。
島崎 猪十馬(しまざき いそま、1866年6月24日(慶応2… 島崎 猪十馬(しまざき いそま、1866年6月24日(慶応2年5月12日)- 1952年(昭和27年)3月21日)は、自由民権運動家・歴史家、自由民権運動高知旧各社記念会・世話人。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 慶応2年5月12日(1866年6月24日)、土佐藩士・島崎善七の次男として、高知城下に生まれる。 明治10年(1877年)10月5日、高知県土佐国高知市第八大区四小区築屋敷38番地より高知市小高坂村越前町22番屋敷(現・高知市桜馬場)に転住。 高知市九反田の旧開成館に開校した立志学舎に学び、同年12月、自由民権運動の少年結社「活動舎」に加盟し、のち「嶽洋社」の活動に加わる。 明治15年(1882年)3月25日、高知第一中学校高等科(現・高知県立高知追手前高等学校)を卒業。
川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864… 川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864年2月4日) - 1935年12月9日)は、日本の教育者。 土佐国(現・高知県)生まれの士族出身。高知中学校(現・高知追手前高校)から選抜されて、東京日本橋箱崎町の旧土佐藩侯邸内・海南学校(現・高知小津高校)に上京し進学。のち廃校となり、明治義塾(のち廃校、その跡地に英吉利法律学校、日本中学創立)に移り外国人から英語を学ぶ。1888年(明治21年)、文部省中学教育検定試験に首席合格。同年9月に、第三高等中学校(のちの旧制三高)教員となる。1898年(明治31年)に静岡県立静岡中学校(現・静岡高校)校長に着任。1904年(明治37年)8月~1909年(明治42年)4月にかけて宮城県立仙台第一中学校(現・仙台第一高校)校長を務め、1909年(明治42年)から東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)校長に任ぜられる。