スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
有馬 正高(ありま まさたか、1929年3月2日 - 202… 有馬 正高(ありま まさたか、1929年3月2日 - 2022年12月12日)は、日本の医師、医学者。小児科学と神経科学が専門で、小児神経学、障害児医学(障害者医学)のパイオニア。国立精神・神経医療研究センター病院(旧:国立精神・神経センター武蔵病院)名誉院長、東京都立東部療育センター名誉院長、日本重症心身障害学会名誉理事長、日本発達障害学会第4代会長。学位は、医学博士。 1971年に乳幼児に発症する常染色体劣性遺伝性疾患「有馬症候群」を報告したことで知られる。 1929年に鹿児島県鹿児島市で生まれる。父方の故郷は同県日置郡伊集院町(現:日置市)。幼少期より鹿児島、伊集院、佐世保、呉、杉並、木更津、逗子と、転居・転校を繰り返し、1942年に旧制神奈川県立湘南中学校(現:神奈川県立湘南高等学校)へ入学。
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赤﨑 勇(あかさき いさむ、1929年〈昭和4年〉1月30日… 赤﨑 勇(あかさき いさむ、1929年〈昭和4年〉1月30日 - 2021年〈令和3年〉4月1日)は、日本の半導体工学者。位階は従三位。 学位は工学博士(名古屋大学・1964年)。名城大学大学院理工学研究科・特別栄誉終身教授、名城大学先端科学技術研究所所長、名古屋大学特別教授・名誉教授、名古屋大学赤﨑記念研究センターフェロー。京都大学名誉博士。日本学術会議栄誉会員、日本学士院会員。恩賜賞、文化勲章、文化功労者受章。『 高輝度青色発光ダイオードの発明 』で2014年度ノーベル物理学賞を受賞。 京都大学理学部卒業後、株式会社松下電器東京研究所基礎第4研究室長、松下技研株式会社半導体部長、名古屋大学工学部教授などを歴任した。
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村田 洋次郎(むらた ようじろう、1929年-)は、日本の物… 村田 洋次郎(むらた ようじろう、1929年-)は、日本の物理学者。理学博士。東京大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市南林寺町生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を赤崎勇とともに四年修了して第七高等学校造士館 (旧制)理科に入学し、1949年に卒業。旧制七高では天文班班長も務めた。大阪大学理学部に進学し、物理学科卒業。大阪大学大学院を経て、1955年に大阪市立大学助手となり、2年後、東京大学原子核研究所の電子シンクロトロンに計画段階から参加。1964年9月、論文「Investigation of cascade showers in lead with X-ray films(X線フィルムを用いた鉛中のカスケードシャワーの研究)」で大阪市立大学より理学博士号授与。
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大河内 昭爾(おおこうち しょうじ、1928年3月7日 - … 大河内 昭爾(おおこうち しょうじ、1928年3月7日 - 2013年8月15日)は、日本の文芸評論家、武蔵野大学名誉教授。専攻は日本近代文学の研究、特に日本近代文学への仏教の影響(他力思想の影響について)及び近代日本文学と風土との関わりについての研究。 鹿児島県鹿児島市生まれ(本籍宮崎県都城市)。 丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』に所属して評論を書いた。同じ雑誌の吉村昭とは親友関係。 1981年から2008年12月号まで雑誌『文學界』の同人誌評を担当し、現代文学に取り組む全国の多くの文学愛好者への指導的役割、作品誕生への励ましを続け、新たな書き手として村田喜代子ら多くの作家の誕生を手助けした。 雑誌『食食食』(みき書房)、『食の文学館』(紀伊国屋書店)など文学と食を結ぶ季刊誌を主宰して、風土と食の文学の研究を20年以上継続。
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有馬 万里代(ありま まりよ、1928年2月22日-、本名・… 有馬 万里代(ありま まりよ、1928年2月22日-、本名・有馬マリ子)は、日本の音楽家、声楽家(アルト歌手)。鹿児島大学名誉教授。鹿児島オペラ協会会長を長年務める。 鹿児島市出身。幼少期から歌が好きで、ラジオにしがみついて三浦環が歌うプッチーニの蝶々夫人を聴いていた。1940年に鹿児島県立第二高等女学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)へ入学。高等女学校3年生の時に田中義人(鹿児島師範学校教員)に弟子入りして、夜道を母に守られながらレッスンに通う。東京音楽学校(後の東京藝術大学)に合格し、師範科で四家文子に師事して1948年に卒業。同年鹿児島師範学校で教職に就く(同校は翌年の学制改革で新制鹿児島大学に包括される)。
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海江田 順三郎(かいえだ じゅんさぶろう、1928年 - 2… 海江田 順三郎(かいえだ じゅんさぶろう、1928年 - 2025年5月5日)は、日本の実業家。高島屋開発社長、相談役、鹿児島市教育委員長、鹿児島県日中友好協会会長、名誉会長等を歴任。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制の鹿児島商業学校(現鹿児島商業高等学校)から転校して、鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)に入り1947年卒業。旧制中学生時代の1945年1月から勤労動員され、第4学年に進級した4月には長崎県佐世保市の海軍工廠へ動員される。1945年6月に陸軍航空士官学校入校の二次試験を受け(敗戦により学校解散のため入校せず)、熊本市(熊本陸軍幼年学校)が試験会場だったため、佐世保市にすぐ戻らず鹿児島市潮見町(汐見町)朝日通りの実家に帰省したところ、6月17日夜の鹿児島大空襲に遭遇する。
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川北 徹(かわきた とおる、1927年10月13日 - 20… 川北 徹(かわきた とおる、1927年10月13日 - 2009年6月29日)は、日本の経営者。三井金属鉱業社長、相談役などを歴任。 島根県出身または鹿児島県いちき串木野市旧串木野市地域出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校(鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1948年に熊本工業専門学校冶金学科(現熊本大学工学部)を卒業し、同年に三井鉱山に入社した。神岡鉱山(岐阜県)や竹原製錬所(広島県)で製錬技術者として業務に従事。竹原製錬所の労組委員長も務めた。三井鉱山から1950年に神岡鉱業が分離し1952年に三井鉱山から三井金属鉱業に社名変更した後は、三井金属鉱業勤務。1981年に取締役に就任し、1984年6月に常務、1987年6月に専務、1989年6月に副社長を経て、1990年6月には社長に就任した。
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林 宗明(はやし むねあき、1927年7月26日-2009年… 林 宗明(はやし むねあき、1927年7月26日-2009年4月29日)は、日本の工学者。京都大学名誉教授。専門は電力工学。正四位瑞宝中綬章。 宮崎県出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1948年に第七高等学校造士館 (旧制)理科を卒業し、京都大学工学部電気工学科に入学。1952年3月に同学科を卒業して住友電気工業株式会社に勤務した後、1955年に京都大学に転職して工学部電気工学科発送配電研究室(大久保達郎教授)の助手となる。その後、講師を経て、1959年4月1日に助教授に就任。大久保教授が1963年11月9日に退官したため発送配電研究室を引き継ぎ、1967年5月1日に教授に昇任。
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吉峯 良二(よしみね りょうじ、1927年 <昭和2年> 5… 吉峯 良二(よしみね りょうじ、1927年 <昭和2年> 5月24日 - 2022年 <令和4年> 5月7日)は日本の政治家。鹿児島県加世田市長(2期)。加世田市名誉市民、南さつま市名誉市民。位階は正六位。 鹿児島県出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、陸軍士官学校61期入校(赤崎義則鹿児島市長、久保亘参議院議員らと士官学校同期で、1945年に予科生で終戦し士官学校解散となり終業)。1951年大阪大学経済学部卒業。会社役員を経て、1962年12月から6期22年にわたり加世田市助役を務める。1985年11月10日第3代加世田市長に就任し、1993年11月9日まで2期務めた。
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赤崎 正則(あかざき まさのり、1927年-)は、日本の工学… 赤崎 正則(あかざき まさのり、1927年-)は、日本の工学者。工学博士。専門はプラズマ工学。九州大学名誉教授。九州大学総合理工学研究科長や福岡工業大学学長を歴任。高電圧工学や放電現象から雷やプラズマの研究に長年取り組んだ。 鹿児島県知覧町(現・南九州市)生まれで鹿児島市育ち。半導体分野の工学者・赤﨑勇は実弟。 鹿児島市立大龍小学校から鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ進む。大龍小出身の鹿児島二中生徒有志の団体「敬天会」で活動。戦時下の第七高等学校造士館 (旧制)に入学したが、学徒勤労動員により朝霞市の陸軍士官学校で終戦を迎え、旧制七高が空襲で全焼したため第五高等学校 (旧制)に転校。旧制五高を出て、1952年に九州大学工学部電気工学科を卒業。
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中村了昭(なかむら りょうしょう、1927年 - )は、日本… 中村了昭(なかむら りょうしょう、1927年 - )は、日本のインド哲学・古典インド文学者、鹿児島国際大学名誉教授。専攻はインド古代・中古の文化・哲学史。『ラーマーヤナ』原典完訳刊行を行った。 鹿児島県生まれ。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1944年海軍兵学校第76期入校(1945年学校解散により修了)。1949年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1953年旧制東北大学文学部卒業。卒業論文は「数論偈諸註の比較対照の研究」。東北大学大学院文学研究科博士課程印度哲学専攻満期。金倉円照が恩師。後に、1977年「サーンクヤ哲学の研究」で文学博士(立正大学)。
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土屋 佳照(つちや よしてる、1926年2月25日 - 20… 土屋 佳照(つちや よしてる、1926年2月25日 - 2004年11月2日)は、日本の官僚、政治家。自治事務次官、鹿児島県知事を歴任。 鹿児島県肝属郡串良町(現・鹿屋市串良町)出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1949年3月 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年4月 総理庁に入庁。1952年 大分県民生労働部社会課長、1956年 経済企画庁調整局財政金融課専門調査員。1958年より地方自治庁へ転じる。自治省行政局選挙部長、国土庁地方振興局長、自治省税務局長、同省財政局長などを経て、1982年7月 自治事務次官に就任。自治官僚には珍しく行財政両面を経験した。
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橋村 三郎(はしむら さぶろう、1926年1月30日 - 2… 橋村 三郎(はしむら さぶろう、1926年1月30日 - 2013年6月7日)は、日本の医学者、生理学者。専門は神経生理学、電気生理学。鹿児島大学名誉教授、医学博士。 鹿児島県鹿児島市の谷山地区出身。4人兄弟の次男。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1944年に旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)理科を卒業。1948年九州大学医学部を卒業。1953年から2年間、アメリカのロチェスター大学に留学。帰国後、九州大学医学部助教授(生理学教室第一講座所属)。論文「日本産トノサマガエルならびにヒキガエルの血液におけるK及びCaの含有量の季節的変動について」により、1956年8月九州大学から医学博士の学位を授与される。
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植之原 道行(うえのはら みちゆき、1925年9月5日 - … 植之原 道行(うえのはら みちゆき、1925年9月5日 - 2007年12月19日)は、日本の電子工学者(電気工学者)、技術経営者。Doctor of Philosophy、工学博士。日本電気(NEC)の中央研究所所長、各取締役、副社長・最高技術経営者、特別顧問、顧問を歴任し、半導体デバイス分野などで多くの実績をあげた。多摩大学名誉教授、IEEEフェロー。 鹿児島県生まれ。同県日置郡串木野村(後の日置郡串木野町、串木野市、いちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1943年広島陸軍幼年学校卒業、1945年陸軍航空士官学校(59期)卒業。1949年日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)電気工学科卒業し、同学科の助手となる。
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高山 冨士雄(たかやま ふじお、1925年8月10日 - 2… 高山 冨士雄(たかやま ふじお、1925年8月10日 - 2014年7月7日)は、日本の経営者。安田信託銀行社長を務めた。 鹿児島県日置郡伊集院町(現日置市)出身。伊集院小学校、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1945年旧制第七高等学校造士館文科卒業。1949年に東京大学経済学部経済学科を卒業し、同年に中央信託銀行(のちの安田信託銀行)に入行。1972年5月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1980年6月に専務、1984年6月に副社長を経て、1986年6月には社長に就任。1992年4月に会長に就任し、1996年4月には相談役に就任。社長在任中、信託協会会長も務めた。
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外西 寿彦(ほかにし ひさひこ、1925年2月5日-1993… 外西 寿彦(ほかにし ひさひこ、1925年2月5日-1993年7月21日)は、日本の産婦人科医、産婦人科学者。周産期医療、母子救急医療の権威。鹿児島県の周産期医療・新生児医療の改善と発展に尽力した。鹿児島市立病院第5代院長。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1951年に旧制県立鹿児島医学専門学校(後の旧制県立鹿児島医科大学、現・鹿児島大学医学部)卒業。1958年4月、旧制県立鹿児島医科大学より医学博士号授与。鹿児島大学産婦人科(町野碩夫教授)に入局し、1958年1月より助手、1961年5月より講師。1966年2月に鹿児島大学助教授となるが、鹿児島市立病院に招かれて7月に退職。
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橋口 寛(はしぐち ひろし、1924年(大正13年)7月15… 橋口 寛(はしぐち ひろし、1924年(大正13年)7月15日 - 1945年(昭和20年)8月18日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。太平洋戦争の末期、人間魚雷「回天」の搭乗員となるが出撃する機会を得ず、終戦後自決した。最終階級は海軍大尉。 1924年(大正13年)7月15日に鹿児島県鹿児島市上荒田町にて、橋口盛秀の長男として生まれる。荒田尋常高等小学校から旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校へ進学したが、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦すると、橋口が通っていた学校でも例外なく軍事教練が厳しさを増していった。国の存亡を決定づける大戦を感じていた成績優秀な橋口は、迷うことなく卒業後に海軍兵学校(72期)への進学を決断した。
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岡本 巌(おかもと いわお、1924年5月2日 - 2011… 岡本 巌(おかもと いわお、1924年5月2日 - 2011年12月4日)は、日本の地球物理学者。陸水学・湖沼学が専門で、長年琵琶湖を調査研究し、琵琶湖の環境保全のための住民運動を行ったことで知られている。滋賀大学名誉教授。 鹿児島県谷山村(現:鹿児島市の一部)出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1945年に第七高等学校造士館 (旧制)を卒業。進学した京都大学理学部(旧制)では海洋物理学を学び、1948年に卒業。卒業後、別府市にある京都大学地球物理学研究所に勤務したがあまり気乗りがしていなかったため、人に勧められて滋賀大学学芸学部(後に教育学部に改称)に移り、以来琵琶湖の調査研究に取り組む。
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本田 睦(ほんだ むつみ、1924年(大正13年)1月10日… 本田 睦(ほんだ むつみ、1924年(大正13年)1月10日-1991年(平成3年)2月16日)は、日本の工学者。専門は高速空気力学。東北大学名誉教授、工学博士。東北大学高速力学研究所(現東北大学流体科学研究所)所長を務めた。 鹿児島県日置郡串木野村(現・いちき串木野市)出身。父は後に串木野市議会議長を務める本田戸助。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)四年修了を経て、1942年(昭和17年)9月に旧制第七高等学校造士館理科を卒業。1945年(昭和20年)9月東京帝国大学第一工学部航空学科卒業。終戦直後で職がないため、卒業後一時帰郷してカライモ(サツマイモ)づくりや戦災で焼けた自宅の建て直しをおこなった。
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有村 章(ありむら あきら、1923年12月26日 - 20… 有村 章(ありむら あきら、1923年12月26日 - 2007年12月10日)は、日本の生理学者。医学博士。チューレーン大学名誉教授。慶應義塾大学医学部客員教授。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校および第七高等学校卒業。1951年名古屋大学医学部卒業後、イェール大学での研究生活を経て、1965年からチューレーン大学でアンドリュー・ウィクター・シャリー博士の下で、視床下部ホルモンの研究に従事した。ノーベル生理学医学賞(1997年)を受賞したシャリー博士の研究には、3人の日本人(有村章、馬場義彦、松尾寿之)が直接的に貢献したと言われているが、有村博士は、そのうちの1人。その後、有村博士は、1985年日本の財界の協力を得てチューレーン大学・日米協力生物医学研究所(U.S.-Japan Biomedical Research Laboratories)を設立、同研究所長となり、そこを拠点として、神経科学の発展に貢献した。
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江口 篤寿(えぐち あつひさ、またはあつとし)1923年4月… 江口 篤寿(えぐち あつひさ、またはあつとし)1923年4月5日-2010年5月20日)は、医師、健康教育学者。 鹿児島県出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)および第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1947年東京帝国大学医学部卒、1961年順天堂大学医学博士。学位論文の題は「新生児及び幼若乳児における二、三の反射の消長について 」。 医師。1959年立教学院診療所医師。1974年東京大学講師、1976年筑波大学教授、87年定年退官、名誉教授、和洋女子短期大学教授。日本健康情報科学協会会長。
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橋本 郁雄(はしもと いくお、1923年2月16日-2009… 橋本 郁雄(はしもと いくお、1923年2月16日-2009年1月22日)は、日本のドイツ語・ドイツ文学者。学習院大学名誉教授、一橋大学元教授。ドイツ語学およびドイツ語史が専門で、特に日本の中世ドイツ語研究においては中枢を占める学者だった。また、小学館の『独和大辞典』など、独和辞典の編纂に注力した。 鹿児島県鹿児島市皷川町出身。父は第七高等学校造士館 (旧制)漢文学教授の橋本精次。祖父の自聽(よりさと)は明治初期に東京から招かれ谷山小学校校長などを務めた人物。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1942年3月に第七高等学校造士館文科乙類を卒業。1944年に東京帝国大学文学部独文科を卒業したが、学年短縮や学徒出陣在隊中の卒業のため実際に大学で学ぶことができたのはわずか1年半だった。
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福島 正人(ふくしま まさと、1922年12月15日 - … 福島 正人(ふくしま まさと、1922年12月15日 - 2004年3月12日)は、日本の建築工学/建築構造学者、建築材料/建築生産学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(東京大学)。 専門は、建築工学・建築構造、建築材料・建築生産(特にコンクリート工学)。 福島 万沙塔(読みは本名と同じ)の俳号で俳人としても活動した。 鹿児島県に生まれる。1940年に旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を、1942年9月に旧制第七高等学校造士館理科を、それぞれ卒業した。1945年、東京帝国大学第二工学部(現:東京大学工学部)建築学科を卒業する。のちに、東京大学より論文「南九州産軽量骨材の利用に関する研究」にて工学博士号を取得している。
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福島 徳壽郎(ふくしま とくじゅろう、1922年7月29日 … 福島 徳壽郎(ふくしま とくじゅろう、1922年7月29日 - 1995年6月3日)は、日本の政治学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(1940年3月卒)、第七高等学校造士館 (旧制)文科(1944年9月卒)、京都大学法学部(旧制)(1949年3月卒)をそれぞれ卒業。1949年4月に京都大学法学部大学院特別研究生となった後、1950年4月に京都大学助手に、1953年1月に神戸商科大学助教授に就任する。1957年4月に京都大学法学部助教授に就任し、1962年5月に同教授へ昇任し、1986年3月31日の定年まで務め、同年4月1日付けで名誉教授となる。京都大学法学部教授在任中、法学部長(1976年10月22日~1978年10月21日)や評議員(1972年3月19日~1974年3月18日)も務めた。
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番匠 義彰(ばんしょう よしあき、1922年5月13日 - … 番匠 義彰(ばんしょう よしあき、1922年5月13日 - 1992年4月12日)は、日本の映画監督。 東京都出身。父は鹿児島教会牧師や北陸学院短期大学学長を務めた番匠鉄雄。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(1940年=33回卒)を経て、1945年に早稲田大学文学部英文科卒業。大学在学中の1943年、松竹大船撮影所に助監督として入社。中村登の下で松竹大船に特徴的な映画技術や映画作法を習得。1955年、「かりそめの唇」で監督デビュー。特に喜劇を得意分野としたが、逆に情緒的・悲劇的作品においても評価を得た。1965年の「ウナ・セラ・ディ東京」をもって退社、フリーとなって活動の場をテレビ映画へ移した。
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古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 20… 古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 2018年10月17日)は、鹿児島市下荒田町出身のプロ野球選手(外野手、1942年のみ捕手)・競馬評論家。 鹿児島二中から、鹿児島商業学校に進学、八幡製鉄を経て、赤嶺昌志の勧誘で1941年に名古屋に外野手として入団。 捕手を務めていた三浦敏一、服部受弘が2人とも応召されてしまったため、1942年は開幕から捕手として起用される。5月12日の対南海軍戦で川崎徳次からサヨナラ本塁打を放つと、5月24日の大洋戦では、2点ビハインドの9回に野口二郎から同点本塁打を放っている。この試合はそのまま延長戦に入り、当時世界最長の延長28回の末、4対4で引き分けている。
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今村 武俊(いまむら たけとし、1922年2月22日 - 2… 今村 武俊(いまむら たけとし、1922年2月22日 - 2012年10月10日)は、日本の文部官僚、教育評論家。鹿屋体育大学第3代学長・名誉教授、鹿児島女子大学第2代学長。 鹿児島県姶良郡東国分村(後の国分市、霧島市の一部)出身。父は鹿児島県(男子)師範学校附属小学校教頭や柁城小学校校長を歴任する今村武彦。父が教頭を務める附属小学校を卒業後、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校へ進学して4年次に「高校組」(高等学校進学志望者特別学級)の級長を務め、1939年第七高等学校造士館に首席合格し旧制中学四年修了。1942年第七高等学校造士館文科を卒業。1947年東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年鹿児島県立加治木中学校 (旧制)教諭となる。
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鎌田 要人(かまだ かなめ、1921年(大正10年)10月2… 鎌田 要人(かまだ かなめ、1921年(大正10年)10月2日 - 2005年(平成17年)12月3日)は、日本の官僚、政治家。消防庁長官、自治事務次官、鹿児島県知事、参議院議員を歴任。 鹿児島県日置郡田布施村大字尾下(のちの金峰町、現南さつま市)出身。鹿児島二中(現甲南高校)、七高造士館を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業後の1943年(昭和18年)、内務省入省。朝鮮総督府への出向、静岡県副知事、税務局長、財政局長、消防庁長官などを経て、1973年(昭和48年)に自治事務次官となる。退官後の1977年(昭和52年)に鹿児島県知事選に立候補し初当選。1989年(平成元年)まで3期12年務めた。在任中は、「官僚出身」を感じさせないざっくばらんな人柄で県民に親しまれた。
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和泉 照雄(いずみ てるお、1921年(大正10年)8月20… 和泉 照雄(いずみ てるお、1921年(大正10年)8月20日 - 1986年(昭和61年)4月28日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、鹿児島県議会議員(3期)。公明党に所属した。位階は正五位。 鹿児島県垂水市出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)から1937年に士官学校へ進み、1940年に陸軍士官学校本科(54期)を卒業。陸軍大尉で復員。その後、公職追放となる。 1963年、鹿児島県議会議員に当選し、3期務める(鹿児島市区選出)。3期目の1972年11月に県議会議員を辞職し、第33回衆議院議員総選挙(旧鹿児島県第1区)、第10回参議院議員通常選挙(鹿児島県選挙区)、第34回衆議院議員総選挙(旧鹿児島県第1区)に立候補するが落選。
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上田 格(かんだ かく、1921年 <大正10年> 4月29… 上田 格(かんだ かく、1921年 <大正10年> 4月29日 - 2015年 <平成27年> 2月8日)は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。位階は従五位。 鹿児島県鹿児島市出身。1939年に鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現鹿児島県立甲南高等学校)を卒業し、1941年に鹿児島高等商業学校(現鹿児島国際大学)を卒業。1942年11月出征、1945年11月復員。1946年に鹿児島銀行に入行。1948年伊集院支店を振り出しに、串良支店、都城支店と勤務し、1953年本店営業部貸付課長代理に着任して以降、ほぼ一貫して営業畑を歩む。1972年に取締役に就任し、1978年に常務、1980年に専務を経て、1986年に副頭取に就任し、1988年3月には頭取に昇格。
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春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月… 春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月6日)は、日本の洋画家。二科会理事。海老原喜之助、吉井淳二に学び、二科会で活躍したほか、地元鹿児島県の女流洋画壇振興に大きく貢献した。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。実家は鹿児島市の老舗である春田屋呉服店で、父・吉次郎と伯父・宗次郎は鹿児島のアマチュア画家の草分け。1939年、鹿児島県立第二高等女学校卒業。女子美術専門学校高等科西洋画部を首席卒業。1943年から母校の鹿児島二高女および併設されている鹿児島女子師範学校で教える。加治屋町の自宅が戦災で焼け、アトリエがないので城山に登って桜島ばかり写生した後、鹿児島二高女のバラック校舎にこもって絵の具を使って暗くなるまで描いていた。
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坂元 貞一郎(さかもと ていいちろう、1920年10月15日… 坂元 貞一郎(さかもと ていいちろう、1920年10月15日 - 1984年5月18日)は、日本の官僚、厚生事務次官。厚生省年金課長時代に国民年金制度を作り、児童家庭局長時代には1971年の予算編成で児童手当制度創設に尽力。正四位勲二等旭日重光章。 鹿児島県阿久根村生まれで、阿久根小学校卒業後に鹿児島市の伯母に引き取られ、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業し1938年4月第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類入学、1941年3月に同校を卒業。1943年9月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業前の文官高等試験行政科に合格しており、9月27日に厚生省へ入省し大臣官房総務課勤務。翌年兵役に従事し、敗戦とともに復員復職。
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面高 信俊(おもだか のぶとし、1920年4月11日 - 2… 面高 信俊(おもだか のぶとし、1920年4月11日 - 2010年2月13日)は、日本の実業家。王子製紙副社長、王子ティッシュ販売社長、新王子製紙特別顧問などを歴任。 鹿児島県川辺郡加世田村武田(川辺郡加世田町武田、加世田市武田を経て現南さつま市加世田武田)生まれ。鹿児島市へ移り上荒田で育つ。荒田尋常高等小学校(現鹿児島市立荒田小学校)、鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)、陸軍予科士官学校を経て、1941年に陸軍航空士官学校を卒業し、少尉として陸軍入隊。1942年陸軍航空技術学校へ移り発動機の研究員。1944年陸軍航空士官学校教官。 戦後、1949年に東京工業大学工学部機械工学科を卒業し、日本パルプ工業へ入社。
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横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月… 横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月8日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍少佐。岩田豊雄(獅子文六)の小説「海軍」及びこれを原作とした映画「海軍」の主人公・谷真人のモデル。
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岩崎 松之助(いわさき まつのすけ、1919年 <大正8年>… 岩崎 松之助(いわさき まつのすけ、1919年 <大正8年> 7月1日 - 2006年 <平成18年> 6月17日)は、日本の工学者。工学博士。専門は航空力学。九州大学名誉教授、熊本工業大学(崇城大学)名誉教授。位階は正四位。プロペラの研究や、ショックチューブとショックネンタルを用いた流体力学研究が特に知られており、日本の航空力学の基礎を築いたと評価されている。 朝鮮総督府の養蚕試験場で生まれ、間もなく父・岩崎行高が鹿児島高等農林学校教授に就任したため鹿児島県鹿児島市で育つ。なお、祖父の岩崎行親は鹿児島県における中高等教育草創期の中心的人物。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)に進学し、模型飛行機づくりに熱中する。
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肥田 真幸(肥田 眞幸、ひだ さねゆき、1919年(大正8年… 肥田 真幸(肥田 眞幸、ひだ さねゆき、1919年(大正8年)3月21日 - 2012年(平成24年)9月12日)は、元大日本帝国海軍軍人、海上自衛官。海兵第67期卒業。第9代航空集団司令官(海将)。 鹿児島県鹿児島市生まれ、日置郡串木野村(後の串木野町、串木野市、合併によりいちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)から、1936年(昭和11年)に海軍兵学校入学。1939年(昭和14年)7月25日、海軍兵学校(第67期)卒業。任海軍少尉候補生、「八雲」乗組。兵学校同期には中村悌次(元海上幕僚長)がいた。
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宮崎 茂一(みやざき もいち、1917年2月15日 - 20… 宮崎 茂一(みやざき もいち、1917年2月15日 - 2004年2月16日)は、日本の政治家、技術士(建設部門)。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(8期)。第42代科学技術庁長官。 鹿児島県鹿児島郡谷山村大字上福元上松崎(現在の鹿児島市谷山中央)出身。鹿児島県立第二中学校(現甲南高校)から第七高等学校造士館(現鹿児島大学)を経て1939年東京帝国大学工学部を卒業。 大学卒業後、内務省に入省。その後は経済企画庁を経て運輸省に移り、港湾局長などを歴任。退官後、政界入りを目指し1969年の衆議院議員総選挙に旧鹿児島1区から無所属で出馬したが落選。3年後の1972年の総選挙に再び旧鹿児島1区から無所属で出馬、初当選を飾った(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。
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谷口 正孝(たにぐち まさたか、1917年1月28日 - 1… 谷口 正孝(たにぐち まさたか、1917年1月28日 - 1994年6月25日)は、日本の裁判官。最高裁判所裁判官。法学博士。高等裁判所判事や東京地方裁判所所長を歴任。 鹿児島県および宮崎県出身。鹿児島県の事務官吉田詮則の次男で、母方の谷口家(谷口ワサ)の養子となる。旧制中学・高校は鹿児島市で、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1937年3月旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)文科卒業。1940年九州帝国大学法文学部法科(現・九州大学法学部)法律専攻卒業。同年4月、司法官試補。1942年名古屋地方裁判所判事となり、一貫して刑事裁判官としての道を歩む。1957年、論文「没収及び追徴の研究、無差別没収を中心として」にて九州大学より法学博士号授与。
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金久 正弘(かねひさ せいこう、1916年 <大正5年> 1… 金久 正弘(かねひさ せいこう、1916年 <大正5年> 11月3日‐2022年 <令和4年> 9月12日)は、日本の電気工学者、電子工学者。神戸大学名誉教授、鹿児島大学教授(元)、福岡工業大学教授(元)、工学博士(学位)。 鹿児島県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1937年に旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)理科を卒業。1941年3月に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、東京計器製作所(東京計器)入社。1944年2月より海軍技術研究所勤務、終戦により1945年9月嘱託解除。その後住友通信工業(日本電気)に入社し研究所無線研究室勤務。1949年6月住友通信工業を退社し、12月旧制神戸工業専門学校教授着任。
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西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 194… 西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 1945年5月28日)は、鹿児島県鹿児島市出身の元アマチュア野球選手。 西郷菊次郎(元・京都市長)の7男7女のうち六男として出生する。西郷隆盛の孫にあたる。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高、28回卒)を経て立教大学へ進学、東京六大学野球で活躍し神宮球場を沸かせた。 二中に進学すると野球部へ入った。準が1年次の1930年、二中野球部は当時の全国中等学校優勝野球大会に出場し、全盛期を迎えていた。当時は九州から南北それぞれ1校のみ出場でき、全国(甲子園)大会出場は難関だった。1932年には準の2年先輩かつ立教大学野球部でも先輩で、大洋ホエールズ投手・コーチとなる有村家斉がエースとして活躍したが、当時準は遊撃手であった。
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池田 正辰(いけだ まさとき、1916年3月7日 - 198… 池田 正辰(いけだ まさとき、1916年3月7日 - 1982年5月30日)は、日本の政治家。鹿児島県姶良郡蒲生町長(3期)。 鹿児島県蒲生町(当時・蒲生村、現:姶良市の一部)出身。1933年旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)卒業。1936年に第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)を卒業。1940年に京都帝国大学経済学部卒業。日本石油株式会社に入社し勤務するが、1941年に応召し、1946年に復員。1947年に鹿児島県庁職員となり、鹿児島県東京事務所長、鹿児島県林務部長などを歴任。旧制中学時代の恩師でもある小山田政弘蒲生町長の後継として、郷里の町長選に出馬し無投票当選して、1973年5月より第11代蒲生町長。
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勝野 ふじ子(かつの ふじこ、本名:勝野フジノ、1915年 … 勝野 ふじ子(かつの ふじこ、本名:勝野フジノ、1915年 (大正4年) 3月5日 - 1944年 (昭和19年) 3月21日)は、日本の小説家。『九州文学』同人。鹿児島県立第二高等女学校卒業。 鹿児島県薩摩郡入来村(現・薩摩川内市)生まれ。実父と実母の結婚が認められず、母方の祖父母の戸籍に入り彼らの娘として育てられる。入来尋常小学校卒業後、鹿児島県立川内高等女学校(現鹿児島県立川内高等学校)に進学。その1年後に鹿児島市の戸籍上の兄の元へ移り、鹿児島県立第二高等女学校(現鹿児島県立甲南高等学校)へ転校。第二高等女学校では、文学好きな友人に恵まれ充実した学校生活を過ごす。1932年(昭和7年)に第二高等女学校を卒業。
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有村 家斉(ありむら いえなり、1914年7月24日 - 1… 有村 家斉(ありむら いえなり、1914年7月24日 - 1997年6月23日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。 鹿児島第二中学校では投手として活躍し、1932年の全九州中等学校野球大会で佐賀中学校との試合では20三振を奪っている。 立教大学では4番ファーストとして出場し、卒業後は満州電業、全鹿児島、林兼造船とノンプロチームでプレー。 1952年に38歳という年齢で大洋ホエールズへ入団。1954年に外野手へ転向するが同年引退。1955年から大洋の二軍コーチに就任し、1957年に退団。 その後は北洋水産、柳川商業高校(現・柳川高校)、関東学院大学で監督を務めた。
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金久 卓也(かねひさ たくや、1914年6月7日 - 200… 金久 卓也(かねひさ たくや、1914年6月7日 - 2008年6月26日)は、日本の医学者、内科学者。医学博士。内科疾患の精神身体医学的側面について研究した、日本における心身医学の草分け。鹿児島大学名誉教授。 鹿児島県瀬戸内町生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)四年修了を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1934年に卒業。1938年、九州帝国大学医学部を卒業。学部では操坦道のもとでデング熱やワイル病について研究した。金子廉次郎教授の第一内科に入局し九大講師。1945年11月、「黄疸出血性レプトスピラ病における出血の成因に関する実験的研究」で九州大学より医学博士取得。また戦後は稲田竜吉東京大学教授が主催するインフルエンザ研究会にも参加した。
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千早 猛彦(ちはやたけひこ、1913年(大正2年)9月26日… 千早 猛彦(ちはやたけひこ、1913年(大正2年)9月26日 - 1944年(昭和19年)6月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は、戦死による後二階級特進で海軍大佐。 1913年(大正2年)9月26日、台湾で台湾総督府官吏である父・千早清次郎の次男として生まれる。兄に千早正隆海軍中佐がいる。鹿児島二中を卒業。中学時代の猛彦は体が弱く運動は余り得意ではなかったが、兄に続いて海兵を志願した。しかし中学三年時に担任にこれを明かすと軍事教練の度にへばる事を叱責され発奮、山岳部に所属し体を鍛えた。五年進級時には軍人志望組の級長となり、二年間つとめた。 1934年(昭和9年)11月、海軍兵学校を卒業(第62期)。
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面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 19… 面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 1985年12月28日)は、日本の歴史学者。鹿児島大学名誉教授。専門は西洋史で、門割制度など薩摩藩についての研究もおこなった。 鹿児島県の加世田生まれ。加世田武田(川辺郡加世田村武田、川辺郡加世田町武田、加世田市武田、南さつま市加世田武田)出身。1931年旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)卒業、1935年旧制第七高等学校造士館文科卒業、1938年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。神奈川県史跡調査員となるが、戦争に応召され負傷し療養中に終戦。母校の旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校とその後身鹿児島県甲南高等学校で教諭を務めた後、1949年鹿児島大学鹿児島師範学校教授に就任。
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立川 宗保(たちかわ むねやす、1913年6月15日 - ?… 立川 宗保(たちかわ むねやす、1913年6月15日 - ?)は、日本の農林官僚。農林省蚕糸局長等を務め、退官後は農業機械化研究所理事長、日本蚕糸事業団理事長、日本食糧倉庫株式会社社長、大日本蚕糸会会頭等を歴任。 鹿児島県生まれ。串木野市(いちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1932年第七高等学校造士館文科卒業。1937年東京帝国大学法学部法律学科卒業。同年農林省に入省し、馬政局、食糧管理局、企画院、興亜院、大東亜省等に勤務。1945年食糧管理局外地課長となり、以降農林省総務局経済課長、群馬県経済部長兼農地部長、農林省農地局経済課長、食糧庁総務部企画課長、大臣官房文書課長、水産庁漁政部長、水産庁生産部長、農地局管理部長、農林大臣官房参事官を経て、1958年8月農林経済局統計調査部長就任(同年9月農林水産技術会議事務局研究調整官併任)。
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淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1… 淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1月5日 - 2001年(平成13年)7月29日)は、日本の台湾総督府官僚、陸軍司政官、陸上自衛官、弁護士。最終階級は陸将。 鹿児島県鹿児島市草牟田町に生まれる。鹿児島県立第二中学校、第八高等学校文科を経て、1935年(昭和10年)3月、東京帝国大学法学部を卒業する。同年10月高等試験行政科合格後、1936年(昭和11年)4月、台湾総督府財務局に奉職する。 ついで1938年(昭和13年)2月、地方理事官に進み、台中州大屯郡守に就任。のち高雄州警務課長、財務局事務官、台北州高等警察課長、台中州教育課長を経て、1942年(昭和17年)11月、陸軍司政官に選任され、第25軍軍政監部附となった。
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村野 守治(むらの もりじ、村野 守次、1912年(明治45… 村野 守治(むらの もりじ、村野 守次、1912年(明治45年)1月9日-1989年(平成元年)3月23日)は、日本の歴史学者。専門は日本近代史、明治維新史、鹿児島県の郷土史。鹿児島女子短期大学教授。西郷隆盛研究の第一人者だった。また、教育者として鹿児島県立甲南高等学校の教員や県立高等学校の校長等を歴任。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1930年(昭和5年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)卒業。1934年(昭和9年)旧制第七高等学校造士館卒業。1938年(昭和13年)東京帝国大学文学部国史学科卒業。同年5月より文部省維新史料編纂事務局嘱託。大日本青少年団本部文化部を経て、帰郷し1944年(昭和19年)5月に母校・第二鹿児島中学校の教諭となる。
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西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
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