久野 昭(くの あきら、1930年1月8日 - 2018年)… 久野 昭(くの あきら、1930年1月8日 - 2018年)は、日本の哲学者。専攻は比較思想論。広島大学名誉教授。国際日本文化研究センター名誉教授。実父は久野朔郎。実弟は小笠原暁、久野暲。 愛知県名古屋市出身。第八高等学校を経て、1952年京都大学文学部哲学科卒業。東洋大学、広島大学、国際日本文化研究センター各教授を歴任した。
旧制第八高等学校:29人
久野 昭(くの あきら、1930年1月8日 - 2018年)… 久野 昭(くの あきら、1930年1月8日 - 2018年)は、日本の哲学者。専攻は比較思想論。広島大学名誉教授。国際日本文化研究センター名誉教授。実父は久野朔郎。実弟は小笠原暁、久野暲。 愛知県名古屋市出身。第八高等学校を経て、1952年京都大学文学部哲学科卒業。東洋大学、広島大学、国際日本文化研究センター各教授を歴任した。
北川 隆吉(きたがわ たかよし、1929年1月3日 - 20… 北川 隆吉(きたがわ たかよし、1929年1月3日 - 2014年4月7日)は、日本の社会学者。名古屋大学名誉教授。専門は、労働社会学、地域社会学、理論社会学、社会学史、社会運動論、地方自治論、東アジア研究、看護の社会学など多岐にわたる。 日本統治時代の朝鮮半島・京城生まれ。京城にて初等中等教育を修了し京城帝国大学予科に進む。終戦後、第八高等学校文科甲類に転入、戦前からの著名な社会学者井森陸平の薫陶を受ける。 1952年、東京大学文学部社会学科卒業。社会学科教授で『中支江南農村社会制度研究』で知られる林惠海の指導により同大学院に進学するが1年半で退学し、1953年10月、東京大学文学部社会学研究室助手に採用される。
井形 昭弘(いがた あきひろ、1928年9月16日 -201… 井形 昭弘(いがた あきひろ、1928年9月16日 -2016年8月12日)は、日本の医学者、内科学者。鹿児島大学第7代学長・名誉教授、名古屋学芸大学初代学長、名古屋学芸大学短期大学部学長。医学博士。専門は神経内科学。 静岡県浜松市出身。1946年、第八高等学校に入学。1950年、東京大学医学部医学科入学。1955年、東京大学医学部第三内科に入局。1960年から2年間のドイツ留学を経て、1960年「神経体液学説に関する研究」により東京大学から医学博士の学位を授与される[要出典]。1971年、新設された鹿児島大学医学部第三内科の初代教授に着任。1984年、鹿児島大学病院長に就任し、全国に先駆けてコンピュータシステムの導入を行った。
辻内 順平(つじうち じゅんぺい、1927年〈昭和2年〉8月… 辻内 順平(つじうち じゅんぺい、1927年〈昭和2年〉8月18日 - 2024年〈令和6年〉12月29日)は、日本の物理工学者。専門は応用光学。東京工業大学名誉教授。応用物理学会会長(1988年度-1989年度)。工学博士。 1927年8月18日、和歌山県那賀郡粉河町に生まれた。旧制第八高等学校を経て、1951年に東京大学理学部天文学科を卒業した。同年、通商産業省工業技術院機械試験所(現在の産業技術総合研究所)に入所し、光学顕微鏡の結像特性に関する研究に携わった。1958年9月から1960年4月まで、フランス政府技術留学生およびCNRS研究員として、パリの光学研究所に在籍し、光学研究に従事した。
田中 明(たなか あきら、1926年7月3日 - 2010年… 田中 明(たなか あきら、1926年7月3日 - 2010年12月8日)は、日本の韓国・朝鮮研究学者。 愛知県名古屋市生まれ。叔父の養子となり、小学校からソウルで暮らす。龍山中学校卒業後、海軍経理学校へ入学。第二次世界大戦の終戦後は名古屋の旧制第八高等学校に編入学し、さらに東京大学文学部の新制一期生となり、1952年に卒業。中日新聞を経て、朝日新聞に入社。 朝日新聞社時代には、『朝日ジャーナル』記者として韓国を取材。1972年に朝日新聞を休職して、韓国の延世大学校 韓国語学堂・高麗大学留学。1979年に朝日新聞社を退社。1981年から拓殖大学海外事情研究所教授を務めた。 2010年12月8日、心筋梗塞で死去。
早崎 守俊(はやさき もりとし、1926年4月13日 - 2… 早崎 守俊(はやさき もりとし、1926年4月13日 - 2023年11月7日)は、日本のドイツ文学者、名古屋大学名誉教授。 大阪府生まれ。本籍・石川県。本名・早﨑良久。1948年第八高等学校理科甲類卒、1952年東京大学文学部独乙文学科卒。同志社大学助教授、名古屋大学教養部助教授、同教授、語学センター教授、同センター長事務代理、総合言語センター教授、1990年定年退官、名誉教授。愛知工業大学客員教授。妻の早﨑ふき子(1929-2020)は、『カフカの椅子』(角川書店 2006)等の歌集および『美の四重奏』(春日井建論、山中智恵子論、馬場あき子論、塚本邦雄論)(雁書館 1993)等の作家論集を著わした歌人で、2008年梨郷賞(中部日本歌人会大賞)受賞。
宮地 良彦(みやち よしひこ、1925年1月12日 - 20… 宮地 良彦(みやち よしひこ、1925年1月12日 - 2023年10月17日)は日本の物理学者。 静岡県浜松市出身。旧制第八高等学校を経て、1948年京都帝国大学物理学科卒業。1949年広島大学理論物理学研究所助手、1961年信州大学文理学部助教授、1966年理学部教授、1972年理学部長、1990年退官。同年放送大学客員教授、1991年信州大学学長を歴任。2000年勲二等旭日重光章受章。 その他、2001年から2003年まで長野県の治水・利水ダム等検討委員会委員長を務めた。 2023年10月17日午前10時35分、肺がんのため松本市の病院で死去。98歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 句集を出版している。
小川 修三(おがわ しゅうぞう、1924年5月8日 - 20… 小川 修三(おがわ しゅうぞう、1924年5月8日 - 2005年1月9日)は、日本の物理学者(素粒子物理学)。名古屋大学名誉教授、広島大学名誉教授。 1924年、山口県都濃郡徳山で生まれた。徳山で育つが、1940年3月に三重県四日市市に転居したことに伴い、徳山中学校から富田中学校に移った。第八高等学校理科で学び、1944年9月に卒業。名古屋帝国大学理学部物理学科へ進学し、1947年に卒業。 卒業後は、同年12月より同大学の幅助手となった。1949年に理学部の文部教官となり、翌1950年に助手となった。1955年に学位論文『相互作用の普遍性に関する研究』を名古屋大学に提出して理学博士号を取得。同年4月より、広島大学理学部講師となった。
江口 英一(えぐち えいいち、1918年7月27日 - 20… 江口 英一(えぐち えいいち、1918年7月27日 - 2008年11月22日)は、日本の社会学者。中央大学名誉教授。社会福祉、社会保障、貧困や日雇い労働者の問題を研究した。 愛知県出身。1938年第八高等学校 (旧制)卒業。1941年東京帝国大学経済学部卒。1948年専修大学経済学部助教授、1956年北海道大学教育学部助教授、1959年日本女子大学文学部教授、1968年中央大学経済学部教授。1989年定年、名誉教授。1981年野呂栄太郎賞受賞。1982年「現代の「低所得層」―「貧困」研究の方法」で日本学士院賞受賞。1983年「現代の「低所得層」」で中央大学経済学博士。 なお、日本女子大学や中央大学の通信教育課程の社会政策担当も兼任した。
木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年 <大正4年> 1… 木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年 <大正4年> 10月31日 - 2011年 <平成23年> 3月19日)は、日本の農芸化学者、経営者。農学博士。協和発酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。位階は正四位。 京都府久美浜町(現京丹後市)出身。第八高等学校を経て、東京帝国大学に進み、1941年に同大農学部農芸化学科を卒業し、台湾総督府工業研究所に入所。同年12月開戦とともに徴兵され中国大陸南部に出兵、1946年5月に復員・帰国して協和産業(後の協和醗酵工業)に入社した。同社では、ペニシリンの量産化、ストレプトマイシン生産技術の導入などに取り組んだ。その後、同社東京研究所で、発酵によるアミノ酸製造技術(アミノ酸発酵)を発明した研究開発チームを主導した。
平川 彰(ひらかわ あきら、1915年〈大正4年〉1月21日… 平川 彰(ひらかわ あきら、1915年〈大正4年〉1月21日 - 2002年〈平成14年〉3月31日)は、日本の仏教学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。 1915年、愛知県渥美郡老津村(現在の豊橋市)で生まれた。1936年第八高等学校文科乙類入学、1939年東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科で学び、1941年に卒業し、同大学大学院に進み、1946年東京帝国大学副手に任命される。 1950年、北海道大学助教授に着任。1954年、東京大学文学部印度哲学科助教授に転じた。1959年、学位論文『律蔵の研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1962年に教授昇格。1975年に東京大学を定年退官、名誉教授の称号を受ける。
木村 耕三(きむら こうぞう、1913年10月10日 - 1… 木村 耕三(きむら こうぞう、1913年10月10日 - 1983年6月7日)は、日本の気象学者。理学博士。気象庁在職中、アメダスを完成させた業績で知られる。 1913年10月10日、東京都に生まれる。自宅は赤坂。父は銀座で医院を開業する医師。第八高等学校(名古屋市瑞穂区瑞穂町)を経て東京帝国大学理学部地震学科卒業。 新京市(現・吉林省長春市)の満州国中央観象台に就職。戦中は航空軍の気象将校として召集され、新京市で働く。階級は中尉。後輩にあたる将校たちが次々と結婚していったが、本人は平然とした様子で独身を貫いた。この頃熱心に読んでいたのはクローモフの『天気解析と予報入門』。戦後はソ連に1年8ヶ月抑留されたのち帰国。
宮本 梧楼(みやもと ごろう、1911年8月17日 - 20… 宮本 梧楼(みやもと ごろう、1911年8月17日 - 2012年7月20日)は、日本の物理学者(実験物理学)。理学博士。多年にわたり東京大学理学部教授を務め、原子核物理、加速器、核融合の分野で多くの業績をあげるとともに、数多くの人材を育成した。 旧制愛知県熱田中学校、旧制第八高等学校を経て、1936年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、嵯峨根遼吉教授の指導下で理研のサイクロトロンを用いた原子核物理の実験研究を始めた。その後、東京大学教授に就任、1972年に定年退官した。東京大学退官後も、茨城大学、日本原子力研究所(特別研究員)等で教育と研究にあたった。 宮本は戦後いち早く高エネルギー物理学、なかんずくその必須の手段としての高エネルギー加速器の研究に着手し、1953年には文部省機関研究費を用いて東京大学強収斂電子シンクロトロンの建設を始め、1957年に130MeVの装置を完成した。
安藤 孝行(あんどう たかつら、1911年7月28日 - 1… 安藤 孝行(あんどう たかつら、1911年7月28日 - 1984年5月26日)は、日本の哲学者、翻訳家。岡山大学名誉教授。 1911年、愛知県西春日井郡豊山村(現:豊山町)生まれ。1929年、旧制・明倫中学校を出て、第八高等学校(文科甲類)に進学。1933年、京都帝国大学文学部哲学科に進んだ。大学では、田辺元らの指導を受ける。1936年に同大学を卒業し、大学院に進んだ。 1941年、第四高等学校教授に着任。太平洋戦争を経て、1949年に金沢大学助教授に就任。1951年、教授に昇格。1953年より立命館大学文学部教授。1958年からは文学部長を務めた。1956年、東京大学にて文学博士号を取得。1967年、岡山大学教授に転じた。
浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年… 浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年3月24日)は、日本の古生物学者。愛知県名古屋市出身。 名古屋市内において、11人兄弟の末っ子として生を受ける。第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)を卒業後、東北帝国大学理学部、東北帝国大学大学院に進んだ。大学院において、小型有孔虫に関する研究に精力的に取り組む。 1938年(昭和13年)、南洋庁熱帯研究所嘱託となり、当時日本の委任統治下にあったパラオに赴いた。翌年技師となりサンゴ礁の研究を開始したものの、その年の秋には太平洋石油株式会社に移ることとなった。同社ではメキシコの石油資源調査に携わる。1941年(昭和16年)夏には仙台に戻り、東北帝大において副手の職を得た。
中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没… 中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没年不明)は、日本の林学者、造園学者。 京都大学、島根県立島根農科大学(現在の島根大学生物資源科学部)、信州大学、名城大学などで長く教育と研究にあたる。専門は防火樹に関する実験的研究であるが、別に観光レクリエーションと日本庭園史を手がけた。 1929年、第八高等学校文科乙類を卒業する。東京帝国大学法学部法律学科に進学するが、結核にかかり1935年に中途退学した。療養後の1942年9月から京都帝国大学に入学し、1945年、京都帝国大学農学部林学科を卒業した。同年より京都大学農学部助手(演習林、造園学教室)を経て1953年に京都大学講師となる。
平井 昌夫(ひらい まさお、1908年11月24日 - 19… 平井 昌夫(ひらい まさお、1908年11月24日 - 1996年2月11日)は、日本の国語教育学者・日本語学者。 筆名に「頼阿佐夫」(平井昌夫 Hirai Masao から Hi と M をとって Rai Asao とした)。 東京府東京市(現・東京都大田区千束)生まれ。本籍地は愛知県名古屋市。 旧制第八高等学校文科甲類を経て、1933年3月に東京帝国大学文学部哲学科を卒業。1933年4月より1929年12月まで日本のローマ字社に勤務。1926年4月から1937年2月まで東京高等商工学校高等科教授。1927年6月から1928年12月まで東京帝国大学図書館嘱託。1929年から東亜研究所嘱託、春陽堂などの嘱託をつとめる。
依田 新(よだ あらた、1905年9月30日 - 1987年… 依田 新(よだ あらた、1905年9月30日 - 1987年5月11日)は、日本の心理学者。 東京市麻布生まれ。学習院教授依田豊の長男。第八高等学校卒業。1929年、東京帝国大学心理学科卒業。 東京文理科大学助手。1937年、東京高等師範学校講師。1938年、教授。1936年から児童学研究会に参加し、さらに教育科学研究会教育科学研究部会に参加。戦時下弾圧を受ける。1948年、東京文理科大学教授。1949年、校名変更で東京教育大学教授。 1951年、名古屋大学教授(1958年まで東京教育大学教授併任)。1954年まで名古屋大学教育学部学部長。 1956年、東京大学教育学部教授(1959年まで名古屋大学併任)。
谷 信一(たに しんいち、1905年5月8日 - 1991年… 谷 信一(たに しんいち、1905年5月8日 - 1991年1月21日)は、日本の美術史家。日本近世美術史専攻。東京国立博物館勤務。 1905年、三重県安濃郡安西村の素封家・駒田家生まれ。父の姉の家を継ぎ谷家へ養子に入る。第八高等学校卒業後、1930年3月東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、同年4月東京帝国大学文学部副手、1932年7月東京帝国大学史料編纂所嘱託を経て、1942年3月京城帝国大学助教授に任官したが、1946年8月大学廃止により退官帰国した。 引き揚げ後は、1946年より美術研究所研究員、1949年5月東京芸術大学美術学部講師、1952年神戸大学文理学部教授となり、1952~1958年まで東京芸術大学教授を兼任した。
井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 19… 井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 1982年12月29日)は、日本の社会学者、甲南大学名誉教授(文学博士)。専門は、農村社会学、産業社会学。 岐阜県郡上郡西和良村鬼谷(現・郡上市八幡町美山)生まれ。その父(京之助)は農商務省京都蚕業講習所(現・京都工芸繊維大学)の第一回卒業生であり蚕業技術者だった。また郡上八幡の実家では養蚕を行っていた。1926年3月、東京帝国大学文学部社会学科卒業。その後、鳥取高等農業学校、第八高等学校、名古屋大学、金沢大学、愛知大学、甲南大学(1973年3月定年退職)の教授を歴任した。甲南大学の就任には臼井二尚の推薦があったという。その学問は、テンニース、バレートの理論社会学研究からはじめ、次第に村落研究を人口、文化、習俗の観点から行うようになった。
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977… 福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。 愛知県出身。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒、同大学院に進学、河上肇に師事した。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。
向井 參之充(むかい さんのじゅう、1898年(明治31年)… 向井 參之充(むかい さんのじゅう、1898年(明治31年) - 1963年(昭和38年))は、日本の化学者。熊本大学名誉教授。学位は工学博士。専門は応用化学。 本籍地は佐賀県。第八高等学校 (旧制)、九州帝国大学工学部を卒業ののち、九州帝国大学工学部助教授。京城帝国大学教授を経て、戦後は熊本大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中 敬吉(たなか けいきち、1897年(明治30年)10月… 田中 敬吉(たなか けいきち、1897年(明治30年)10月23日 - 1975年(昭和50年)1月13日)は、日本の機械工学者。第33期日本機械学会会長。東京帝国大学教授、千葉工業大学教授・学長、上智大学教授を歴任。東京帝国大学航空研究所で、航研機やA-26の開発に携わった。 三重県亀山市出身。第八高等学校を経て、1922年東京帝国大学機械科卒業。東京帝国大学航空研究所嘱託、助教授を務め、1929年「円錐座吸気弁の空気の流動研究(実験的研究・理論的研究)」により工学博士を取得。1930年航空原動機研究のため欧米を訪れた後、1933年教授となる。1939年より東京工業大学教授を兼任。1949年千葉工業大学学長、1957年名古屋大学教授、1961年上智大学教授・理工学部長。
加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - … 加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - 1978年8月3日)は、中国古代学者、東京大学文学部名誉教授。東大退官後は二松学舎大学文学部中国文学科教授。号は「維軒」。 1894年、愛知県中島郡大里村で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進んだ。支那哲学文学科で学び、1920年に卒業。 卒業後は、静岡高等学校教授に就いた。その後、京城帝国大学として勤務。1933年、広島文理科大学教授となった。1938年(昭和13年)、学位論文『爾雅釈親を通じて見たる支那古代家族制度研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。 1947年(昭和22年)、高田眞治の公職追放による退職に伴って東京帝国大学中国哲学科教授となった。
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1… 小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1968年4月21日)は、日本の学者、弁護士。元東京外国語学校教授、正四位・勲四等・独法学者。旧姓加藤。 愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て1917年(大正6年)3月 東京帝国大学卒業。卒業後、朝鮮総督府検事補となる。 1922年(大正11年)2月に朝鮮総督府検事退官し、従四位勲四等を贈られる。同年3月に名古屋地方検事局弁護士名簿登録される。 東京外国語学校教授となったあと、1923年(大正12年)9月に名古屋三大商家・桑名屋の娘である小林初子と結婚し、小林家に入婿した。 1925年(大正14年)6月1日から1927年(昭和2年)12月15日の間、ドイツやアメリカに留学した。
篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 -… 久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 - 1962年3月10日)は、大正から昭和時代の日本の化学者、教育者。東京帝国大学教授、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)教授、東邦大学理学部教授、千葉商科大学教授 1885年(明治18年)11月3日生まれ。千葉県出身。千葉県士族、久松善の二男。後に先代、太郞吉の養子となる。 1910年(明治43年)、東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第八高等学校(現・名古屋大学の前身の一つ)教授を経て、理化学研究所研究員を務める。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)までフランスに留学。ポール・サバティエ(ノーベル化学賞受賞者)のもとで有機化学の研究に従事。
藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26… 藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26日 - 1948年〈昭和23年〉12月24日)は、明治-昭和期の日本の漢学者・昭和天皇進講者・帝国大学教授・斯文会理事長・大東文化学院(大東文化大学)総長・位階は従二位・勲等は勲二等。号は素軒。旧姓佐々木、鄰は隣の旧字。 1879年(明治12年)、岩手県前沢村(江戸期の仙台領前沢城下、旧岩手県胆沢郡前沢町、現:奥州市前沢)の佐々木家に生まれる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学支那哲学科卒業後、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)教授に就任。1923年(大正10年)より中国留学。1928年(大正15年)日本領朝鮮の京城(ソウル)帝国大学新設開校と同時に教授、1931年(昭和6年)に法文学部長となり1940年(昭和15年)、京城帝国大学退職し帰国する。