八代目 淺尾奥山(あさお おくやま、明治27年〈1894年〉… 八代目 淺尾奥山(あさお おくやま、明治27年〈1894年〉1月4日 - 昭和49年〈1974年〉11月29日)とは、上方の歌舞伎役者。屋号は錢屋。定紋は木槌、替え紋は裏牡丹。本名は尾田木駒造。 京都生まれ。三代目淺尾大吉(浅尾関十郎)の門人となり、浅尾関三郎を名乗って初舞台を踏む。昭和5年(1930年)1月、淺尾奧山の名跡を襲名。以後関西歌舞伎で世話物の老け役、脇役として活躍する。昭和30年(1955年)から長谷川一夫の誘いで映画に転じ大映京都に所属し、映画や東宝歌舞伎に約10年間出演した。その後歌舞伎に復帰し東宝系で活躍。 堅実で老巧な芸で「名優奧山」と賞され、『治郎吉懺悔』の伝吉、『仮名手本忠臣蔵』の「六段目」のおかやなどが印象に残る舞台だったが、特に最晩年の昭和48年(1973年)7月、歌舞伎座で十七代目中村勘三郎と舞台を共にした『夏祭浪花鑑』の義平次は絶賛された。
今井 新造(いまい しんぞう、1894年〈明治27年〉1月4… 今井 新造(いまい しんぞう、1894年〈明治27年〉1月4日 - 1962年〈昭和37年〉8月23日)は、大正から昭和期の実業家、剣道家、政治家。衆議院議員、剣道七段・教士、範士。 山梨県甲府市魚町(現中央三丁目)で生まれる。1924年(大正13)に分家した。 魚問屋業を営み、山梨モータース商会専務取締役、山梨開発協会取締役、甲府魚市場 (株) 顧問などを務めた。 政界では、山梨県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から出馬して当選し、第20回総選挙でも再選。1942年(昭和17年)4月、第21回総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬し再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
藤川 博(ふじかわ とおる、1894年 <明治27年> 1月… 藤川 博(ふじかわ とおる、1894年 <明治27年> 1月3日 - 1977年 <昭和52年> 3月25日)は、日本の経営者。熊本県出身。位階は従四位。 1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に帝国生命保険(のちの朝日生命保険)に入社。東京大学経済学部で講師を務め、1942年7月に常務に就任し、副社長を経て、1953年8月には社長に就任。1961年5月から1965年5月までに会長を務め、京浜急行電鉄取締役も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年4月に勲三等瑞宝章を受章。 19773月25日心筋梗塞のために死去。83歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
牟田口 格郎(むたくち かくろう、1894年1月2日 - 1… 牟田口 格郎(むたくち かくろう、1894年1月2日 - 1945年7月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。
千葉 胤次(ちば たねつぐ、1894年(明治27年)1月2日… 千葉 胤次(ちば たねつぐ、1894年(明治27年)1月2日 - 1959年(昭和34年)7月6日)は、昭和時代前期の政治家、弓道家。東京市目黒区長、品川区長、下谷区長、麹町区長。号は宏斉。 千葉晋作の二男として宮城県栗原郡高清水町(現在の栗原市)に生まれる。早稲田大学商科を卒業し、東京市電気局工場長、秘書係長、秘書労働工場各課長を経て、1932年(昭和7年)10月、目黒区長に就任し、1936年(昭和11年)10月、品川区長に転じた。ついで1937年(昭和12年)12月、下谷区長となり、1940年(昭和15年)8月まで務め、同年12月、東京市会事務局長に就任した。ほか、大政翼賛会局長などを務めた。
高田元三郎(たかだ もとさぶろう、1894年1月1日 - 1… 高田元三郎(たかだ もとさぶろう、1894年1月1日 - 1979年8月27日)は、日本のジャーナリスト。大正期に「ワシントン会議」「ジェノア世界経済会議」等の報道に当たるなど、国際ジャーナリストの先駆的存在として活躍。1972年には勲一等瑞宝章を受章した。 1894年(明治27年)、東京の日本橋に生まれる。後に千葉県の佐倉へ転居し旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業。夏目漱石に傾倒し作家を志望、東京帝国大学文学部英文科へ進んだが、漱石自身からの助言もあり作家を断念する。 1917年(大正6年)、大学卒業とともに大阪毎日新聞社に入社。1919年(大正8年)よりアメリカ特派員としてニューヨークへ派遣、ワシントンで開催された第1回国際労働会議を取材、1921年(大正10年)のワシントン会議 、1922年(大正11年)のジェノア会議 を取材した。
堀 綱四郎(ほり つなしろう、1894年(明治27年)1月1… 堀 綱四郎(ほり つなしろう、1894年(明治27年)1月1日 - 詳細不詳 )は、日本の政治家である。古河鉱業の足尾銅山に勤め、社会運動を行い、愛国団体に所属した後、栃木県会議員に当選し政治家となる。その後、栃木県上都賀郡足尾町長(現:日光市)を3期務めた。大分県大分市出身。 1894年(明治27年)大分県大分市の士族である堀潜造の次男として出生する。その後、家族で岡山県へ移住し、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。1911年(明治44年)に同校を卒業し、1913年(大正2年)旧制第六高等学校へ進学する。しかし、1年で同校を退学し帝国大学への進学をやめ、1914年(大正3年)私立の明治大学予科へ進学し、翌年、明治大学法学部へ入学する。
中平 亮(なかひら りょう、1894年1月1日 - 1981… 中平 亮(なかひら りょう、1894年1月1日 - 1981年3月8日)は、日本のジャーナリスト、ソ連研究家。 1894年(明治27年)、高知県高岡郡蓮池村城の医師光代、寅の次男として生まれる。1912年(明治45年)県立第一中学校(現在の追手前高校)卒業。神戸に移り、大阪税関に勤務しながらロシア語を修得。 1917年(大正6年)、大阪朝日新聞社に入社。同年12月シベリアに派遣されるが病気のため帰国。翌年シベリア出兵の従軍記者として再びウラジオストックに派遣される。1919年(大正8年)5月、過激派討伐連合軍の従軍記者となりシベリア横断中に連合軍は過激派に敗退。同年7月革命後間もないモスクワに単身潜入、逃避行の末スパイ容疑で逮捕され、同年12月に釈放になる。
河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 19… 河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 1979年1月4日)は、日本の法学者、裁判官。
石川 信吾(いしかわ しんご、1894年(明治27年)1月1… 石川 信吾(いしかわ しんご、1894年(明治27年)1月1日 - 1964年(昭和39年)12月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。通称不規弾。
金原 舜二(きんばら しゅんじ、1894年 <明治27年> … 金原 舜二(きんばら しゅんじ、1894年 <明治27年> 1月1日 - 1974年 <昭和49年> 3月20日)は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員(1期)。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 静岡県出身。1920年京都帝国大学法律科卒。裁判官となり、弁護士となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で静岡県から日本自由党公認で立候補するが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において静岡3区から立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して当選した。この間裁判官訴追委員会代理委員長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。
奥村 内膳(おくむら ないぜん/はるよし、1894年(明治2… 奥村 内膳(おくむら ないぜん/はるよし、1894年(明治27年)1月1日 - 1980年(昭和55年)8月27日)は、昭和期の華族(男爵)。 加賀藩重臣奥村内膳家第16代当主奥村則英の子として生まれる。1930年9月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 東京帝国大学機械科を卒業し汽車製造に勤務した。 永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝 - 有定 - 修古 - 栄輇 - 尚寛 - 栄実 - 栄親 - 栄通 - 栄滋 - 栄同 - 純松 - 栄純 易英 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬 - 温良 - 保命 - 易直 - 煕殷 - 成象 - 隆振 - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝 - 則友 - 則英 - 内膳 - 弘 - 隆弘
三島 誠也(みしま まさや / せいや、1894年(明治27… 三島 誠也(みしま まさや / せいや、1894年(明治27年)1月 - 1962年(昭和37年)6月1日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。旧姓・大槻。 熊本県出身。大槻頼継の二男として生まれ、三島キジエの養子となる。第五高等学校を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し宮城県属となる。 以後、宮城県警部、京都府属・同府警視、同府理事官、警視庁理事官、同警視、長崎県書記官・警察部長、内務理事官、内務書記官、鹿児島県書記官・内務部長、警視庁書記官・警務部長などを歴任。 1935年1月、宮崎県知事に就任。1937年7月、奈良県知事に転任。
立石 新吉(たていし しんきち、1894年(明治27)1月 … 立石 新吉(たていし しんきち、1894年(明治27)1月 - 1977年(昭和52)10月31日)は、日本の動物学者。 1894年、長崎県北松浦郡南田平村(現・平戸市)生まれ。1914年(大正3)、長崎師範学校を卒業した。 1919年より滋賀県立大津高等女学校(現・滋賀県立大津高等学校)、翌1920年より愛媛県宇和島中学(現・愛媛県立宇和島東高等学校)で教職に就いた。1923年、県立愛知医科大学(現・名古屋大学)助教授となった。1930年から台北帝国大学理農学部動物学教室(比較形態学・哺乳動物学)に助教授として奉職。「もと台湾の台北大学の青木文一郎教授の下にあって研究をされた立石新吉博士(現長崎大学教授)は哺乳類や昆虫類の染色体の研究(1931-)において独自の境地を開いた。
伊藤 孝之(いとう たかし、明治27年(1894年)- 昭和… 伊藤 孝之(いとう たかし、明治27年(1894年)- 昭和57年(1982年)5月9日)は、大正時代から昭和時代にかけての浮世絵師、版画家。 結城素明及び鏑木清方の門人。本名は伊藤孝。孝之と号す。静岡県長上郡蒲(かば)村下(現・浜松市中央区子安町)に伊藤蒲邨(文久2年(1862年)-昭和14年(1939年))の二男三女の次男として生まれる。祖父は伊藤平六といい、孝之も一時期、平六という印を使用している。大正2年(1913年)、19歳の時、県立浜松中学校(現・浜松北高校)を卒業。中学校では水野以文が指導する美術グループに入って小学校において研究会を開いていた。卒業後、京都に赴き、まず京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科に入学、以降3年間、日本画を竹内栖鳳に学び、油彩画を都鳥英喜に学んでいたが、後に中退している。
柏木 俊一(かしわぎ しゅんいち、1894年(明治27年) … 柏木 俊一(かしわぎ しゅんいち、1894年(明治27年) - 1971年(昭和46年))は、日本の画家。 現在の静岡県伊豆の国市(韮山町)出身。父の柏木敏三郎は近藤喜則の子で、柏木忠俊の女婿となり、私立伊豆学校監事(事務長)であった。 従兄の近藤浩一路の影響で美術を志向し、県立韮山中学校に入学する。澤田政廣は在学中の写生仲間であった。 中学卒業後、上京し本郷洋画研究所に入所、藤島武二の指導を受ける。後に梅原龍三郎に師事。龍三郎の数多くの伊豆来訪や、疎開先(大仁町)の紹介などもこの交流からである。 岸田劉生らと交流しながら草土社に出展。春陽会、国画会で活躍した。劉生が遺した彫像作品は2点のみであるが、そのうちの一つが『男の首(柏木氏の首)』である。
松田 軍平(まつだ ぐんぺい 1894年 - 1981年)は… 松田 軍平(まつだ ぐんぺい 1894年 - 1981年)は、日本の建築家。松田平田設計の創始者。福岡県鞍手郡直方町(現・直方市)生まれ。 兄・松田昌平は旧門司三井倶楽部の設計者で知られる建築家。父の武一郎は鉱山技師。福岡工業学校から名古屋高等工業学校に進学し卒業後、清水組設計部に勤務。1921年に渡米し、コーネル大学で建築学を学ぶ。コーネル大学を卒業してアメリカの建築設計事務所、トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所(英語版)で修行。三井本館監理副主任に就任。三井銀行の本店と支店を担当した。 1931年(昭和6年)赤坂の地に兄と松田事務所を開設し、1942年にはコーネル大学卒業の藤井羊三、平田重雄を迎え、株式会社松田平田設計に発展、日本におけるパートナーシップにより運営される組織系建築設計事務所の草分け的存在となる。
絹川武良司(きぬがわ むらじ、1894年 - 1968年、秋… 絹川武良司(きぬがわ むらじ、1894年 - 1968年、秋田県南外村(現・大仙市)生まれ)は、日本の物理化学者、鉄鋼技術者であり特にステンレス鋼研究の権威で知られる。理学博士。学士会会員。東海大学教授。 1894年秋田県南外村(現・大仙市)の貧しい農家に生まれる。教職の道を目指して秋田県立師範学校、東京高等師範学校の修学を経て京都帝国大学に進学する。1921年京都帝国大学理学部を卒業。金属業界への就職を恩師から勧められて、住友合資会社伸銅製作所尼崎工場に入社して研究係を務める。1937年学位論文(絹川 1937)にて東京帝国大学より理学博士の学位を授与する。1938年故金子英雄氏遺兒養育資金募集の発起人に参画する。
竺 縵卿(じく まんけい、1894年〈光緒20年〉 – 没年… 竺 縵卿(じく まんけい、1894年〈光緒20年〉 – 没年不明)は、中華民国の実業家・官僚・外交官。字は華雲。初期は主に実業家として活動したが、後に親日政権の中華民国維新政府や南京国民政府(汪兆銘政権)で要職に就いた。 日本に留学し、1920年(民国9年/大正9年)に東京高等師範学校理科第三部甲班を卒業した。1921年(民国10年/大正10年)からは京都帝国大学経済学部に入学し、1924年(民国13年/大正13年)に卒業している。当初は洮江第四中学主任教員兼舎監となったが、まもなく国民政府に入り、外交部江寧交渉員公署秘書兼金陵関監督公署秘書となる。その後は実業界に転じ、中日実業有限公司上海分行経理、中華電気製作廠董事、上海閘北水電公司顧問などをつとめた。
永島 四郎(ながしま しろう、1894年 - 1963年)は… 永島 四郎(ながしま しろう、1894年 - 1963年)は、日本のフラワーデザイナー、華道家。日本のフラワーデザイン(花卉装飾)における先駆者。 長野県埴科郡松代町(現長野市)出身。1921年、千葉県立園芸専門学校(現千葉大学園芸学部)卒業、東洋園芸株式会社に入社。1922年、欧米の花卉装飾の研究のため渡米、翌年帰国。帰国後の永島の作風は、西洋で得たものに日本人の持つ「わびさび」の心を併せ持った独特のものとなり、日本文化の西洋化の一端を担うこととなった。1935年、東京・銀座に「婦人公論花の店」を開店(戦争により1944年に閉店)。1951年、第一園芸株式会社取締役に就任。 「花卉装飾には冨の裏づけが必要である」という名言を残した。
小林 采男(こばやし うねお、1894年 - 1979年)は… 小林 采男(こばやし うねお、1894年 - 1979年)は、日本の実業家・慈善家。小林理学研究所創業者。 弘法大師に憧れ、当初は僧侶になることをめざしたが、東京帝国大学政治学科を1919年に卒業した後、農商務省・商工省に勤務する傍ら地質学を学び、優秀な鉱山技師として知られるようになる。 その後科学の力で人々を救うことを決意して、1934年に小林鉱業株式会社を興し、朝鮮半島各地でタングステン鉱山を操業した。 1940年に小林理学研究所を設立。公職追放を受けたものの、戦後も企業経営や教育機関の運営などで活躍した。1969年に大韓重石鉱業(朝鮮語版)(米軍・韓国政府の接収を経て小林鉱業の資産をもとに設立された韓国企業。
橋本 重郎(はしもと じゅうろう、1894年 - 1988年… 橋本 重郎(はしもと じゅうろう、1894年 - 1988年)は日本の農学者。世界で初めてひよこの雄雌の鑑別法を発見した。農学博士。 1894年、宮城県で橋本亮と嘉治(よしぢ)との間で誕生。1921年(大正10年)東京帝国大学農学部農学科を卒業。農商務省畜産試験場勤務、イギリス留学、宮崎高等農林学校教授を経て、1942年(昭和17年)5月、九州帝国大学農学部教授に就任。 1924年に仲間と共にニワトリのヒナの雌雄鑑別法を発表した。初生雛雌雄鑑別法とは、生まれたばかりのひよこの肛門の内側にある突起があるものが雄、無いものが雌と見分ける方法。当時は雄雌を見分けるのが非常に困難で、世界中が模索していた。
国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985… 国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985年)は、日本の数学教育研究者、数学教師。 1894年、新潟に生まれる。新潟県高田師範学校を経て、1920年3月に東京高等師範学校理科第一部(数学)を卒業。その後、新潟師範学校の教諭、女子学習院教授、日本大学付属櫻丘高等学校の教頭を務めた。
金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967… 金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967年)は、日本の洋画家。 秋田県横手市出身。1920年に東京美術学校を卒業した。1922年にフランスのパリのアカデミー・ランソンに留学し、1924年に帰国した。1926年に二科展に初入選した。 1952年に日展に出品した「肉屋の店」が特選を受ける。1957年に日展審査員となり、1958年に十柯会を結成した。 二科展、日展の他、春台会(岡田三郎助が主宰していた)や帝展、二部会にも作品を出品していた。十柯会の他、光風会、白岬会の会員でもあった。
奥田 真夫(おくだ さねお、明治27年(1894年) - 昭… 奥田 真夫(おくだ さねお、明治27年(1894年) - 昭和61年(1986年)5月13日)は、明治・大正・昭和時代の剣術家。初め剣道と直心影流(薩摩影之流)を修めたが、後に第十一代宗家薬丸兼文より薬丸自顕流剣術を継承する。 長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)卒業後、百四十七銀行(現在の鹿児島銀行)に勤務。1943年(昭和18年)に満州に渡る。帰国後、東條病院事務官として勤務する。そのかたわら、薬丸自顕流の指導に尽力すること五十余年、この間、各地での古武道大会に出場した。戦前に奥田より薬丸自顕流の指導を受けた者の証言では、時代が戦争中であったこともあり、薬丸自顕流の特徴的な稽古法である立木打ちの際、立木を飛び越えたり、その下をくぐらせたり、ジグザグに走って掛りの稽古をするなどしていたようである。
吉田 正一(よしだ しょういち、1894年 - 1971年)… 吉田 正一(よしだ しょういち、1894年 - 1971年)は、日本の弁護士、日本心霊科学協会初代理事長。浅野和三郎の理念を受け継ぎ、第二次世界大戦終戦後、日本心霊科学協会を創立した。弁護士として財団法人認可の手続きを行った。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
徳増 栄太郎(とくます えいたろう、1894年 - 1963… 徳増 栄太郎(とくます えいたろう、1894年 - 1963年)は、日本の西洋経済史学者。初代横浜国立大学経済学部学部長。 神奈川県横浜市生まれ。1919年に東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業。上田貞次郎門下。 上智大学などで教鞭を執り、1921年から文部省在外研究員としてイギリス、ドイツ、フランスに留学した。1924年に帰国すると横浜高等商業学校の教授となり、経済原論及び商業史を担当した。 1947年一級官。1949年横浜国立大学経済学部学部長兼横浜経済専門学校校長事務取扱。1950年横浜国立大学附属図書館経済学部分館長兼務。退官後、横浜国立大学名誉教授。 1963年正四位勲二等瑞宝章、従三位。
高田 幸二(たかだ こうじ、1894年 - 1982年)は、… 高田 幸二(たかだ こうじ、1894年 - 1982年)は、日本の畜産学者・水産学者。農学博士(北海道帝國大學・論文博士・1933年)。専門は、海洋生物の癌発生のメカニズム。海洋の未利用資源の活用方法を研究。鹿児島大学名誉教授。市立名寄短期大学元学長、札幌静修短期大学初代学長。1967年勲三等瑞宝章受章。三重県出身。 1918年北海道帝国大学水産専門部卒。1924年同農学部卒。同農学部助手、同農学部講師。1937年同助教授を経て、1953年鹿児島大学水産学部教授。1957年同水産学部学部長。1960年鹿児島大学停年退官。同名誉教授。市立名寄短期大学副学長。1961年市立名寄短期大学2代学長に就任。
水野 東太郎(みずの とうたろう、1894年 - 1980年… 水野 東太郎(みずの とうたろう、1894年 - 1980年)は、日本の弁護士。第8代日本弁護士連合会会長。 1894年、愛知県出身。 明治大学卒業後、弁護士となり、東京弁護士連合会会長、日本弁護士連合会会長などを歴任した。 また、明大法学部では、身分法を講じ、理事長にも就任した他、国際親善病院理事長なども務めた。 1980年、死去。勲二等。
木佐木 勝(きさき まさる、1894年 - 1979年)は日… 木佐木 勝(きさき まさる、1894年 - 1979年)は日本の編集者。東京府出身。早稲田大学英文学科卒。 中央公論社、改造社に務め、1965年に図書新聞社で『木佐木日記』を刊行。2016年に中央公論新社で改訂復刊され、ジャーナリズム史・文化史の貴重な資料として評価されている。 1894年、東京府下品川町に生まれる。伯父の感化で文学少年になる。早稲田大学では片上伸に師事。早稲田騒動で波多野精一の留任運動にも加わった。1918年教師などを経たのち、翌1919年、中央公論社に入社。滝田樗陰の下、高野敬録、伊藤茂雄らとともに『中央公論』の編集に従事。図書新聞社から刊行された『木佐木日記』は入社時1919年から、樗陰が死去した1925年までのものである。
佐藤 邦之助(さとう くにのすけ、1894年 - 1981年… 佐藤 邦之助(さとう くにのすけ、1894年 - 1981年)は、日本の牧師。バークレー・バックストン、堀内文一らの薫陶を受け、長年日本イエス・キリスト教団を指導した。 ピューリタン - シュペーナー - 敬虔主義 - フレンド派 - ジョン・ウェスレー - D・L・ムーディー - ジョージ・ホウィットフィールド - ジョナサン・エドワーズ - チャールズ・フィニー - A・B・シンプソン バックストン - ウィルクス - 竹田俊造 - 堀内文一 - 笹尾鉄三郎 - 松野菊太郎 - 秋山由五郎 - 御牧碩太郎 - 柘植不知人 - 土肥修平 中田重治 - 中田かつ子 - 中田あやめ - チャールズ・カウマン - レテー・カウマン - アーネスト・キルボルン - 三谷種吉 - 山崎亭治 - 米田豊 - 車田秋次 - 小原十三司 - 小原鈴子 - 一宮政吉 - 菅野鋭 - 野辺地天馬 - 金森通倫 - 小出朋治 - 小出忍 - 森五郎 - 江賀寅三 - 小林和夫 - 尾花晃 - 村上宣道 - 松木祐三 - 千代崎秀雄 - 峯野龍弘 - 安倍豊造 - 辻啓蔵 - 辻宣道 - 蔦田二雄 - 蔦田公義 - 藤本栄造 - 藤本満 メリマン・ハリス - 本多庸一 - 赤澤元造 - 釘宮辰生 - 阿部義宗 - 結城無二三 - 都田恒太郎 - 渡辺善太 河辺貞吉 - 河辺満甕 - 野田秀 ウィリアム・ブース - 山室軍平 - 山室武甫 マーガリット・バーネット - 舟喜麟一 - 舟喜拓生 - 舟喜信 - 安藤喜市 - 羽鳥明 - 羽鳥純二 小島伊助 - 佐藤邦之助 - 沢村五郎 - 森山諭 - 中田羽後 - 本田弘慈 - 中島秀一 平出慶一 - 大江邦治 - 大江捨一 - 大江寛人 喜田川広 - 本間俊平 - 土山鉄次 - 木村清松 - 岩井清 - 松原和人 - 大槻武二 中央福音伝道館(1901-1908) - 東洋宣教会(1908- ) - 日本聖教団(1911) - 日本ホーリネス教会(1917-1936) - 日本宣教会(1923) - 日本聖教会(1936-1941) - きよめ教会(1936-1941) - イムマヌエル綜合伝道団(1945- ) - ウェスレアン・ホーリネス教団(1992- ) - 基督兄弟団(1946- ) - 基督聖協団(1958 - ) - 東洋宣教団きよめキリスト教会(1940- ) - ホーリネスの群(1946- ) - 日本福音教会連合(1971- ) - 日本福音教団(1952- ) - 日本ホーリネス教団(1949- ) - 日本聖泉基督教会連合(1969- )
森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は… 森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は、日本の造園家、作庭家、造園教育者。 造園指導者として人材育成にあたる傍ら、多くの造園作品を残す。大別して住宅庭園や公園緑地(遊園地等)庭園、学校庭園等が多いが、設計のほか施工監督指導等になるものも含めると作品数は多数に及ぶ。 佐賀県唐津市生まれ。 1914年(大正3年)、千葉県立園芸専門学校(現・千葉大学園芸学部)卒業ののち、一時、当時宮内省出入の植木師として名のあった東京府下戸塚の小川重次郎方に徒弟として造園実務にたずさわった。1915年、恩師本郷高徳の推挙で大阪府吏員となり、大屋霊城と共に府営住吉公園改良工事に従事することとなる。
塚原 嘉一(つかはら かいち、1894年 - 1959年)は… 塚原 嘉一(つかはら かいち、1894年 - 1959年)は、愛知県東春日井郡小牧町春日寺(現在の小牧市)出身の実業家・政治家。小牧町長(1944年 - 1945年)。 朝鮮・満州・中国などに毛織物を輸出した塚原毛織の創業者である。1935年(昭和10年)頃の塚原毛織は約500人もの従業員を抱える大工場だった。塚原毛織には若い女工が多かったことから、小牧高等女学校(現在の愛知県立小牧高等学校)の開校に力を注いだ。名鉄小牧線の開業、町村立組合春日井病院(現在の小牧市民病院)の開院などにも尽力している。
中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> … 中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> - 1968年 <昭和43年> 2月19日)は、日本の政治家。三重県会議員を2期務めた後、初代鳥羽市長に就任し、鳥羽市の発展の基礎を築いた。位階は従五位。 慶應義塾大学教授で政治学者の中村菊男の父である。 1894年(明治27年)、三重県志摩郡答志村大字答志(答志島、現・鳥羽市答志町)に生まれる。父・与助は初代の答志村長や三重県会議員(2期)を務めた政治家であった。 鳥羽町会議員に当選したのを皮切りに政界入りし、1939年(昭和14年)11月に三重県会議員選挙の志摩郡選挙区で石原円吉とともに当選した。1943年(昭和18年)11月の改選は任期延長のため実施されず、1947年(昭和22年)4月の選挙まで県会議員を務めた。
山名 正太郎(やまな しょうたろう、1894年(明治27年)… 山名 正太郎(やまな しょうたろう、1894年(明治27年) - 1992年)は、日本の新聞記者。文筆家。 山口県山口市生まれ。学歴不詳。1919年大阪朝日新聞社入社、名古屋支局長、大阪社会部長、日本海新聞社役員兼編集局長、都新聞事業部長、大阪府嘱託(青少年問題協議会)、朝日新聞客員。
田中金司(たなか きんじ、1894年-1985年)は、日本の… 田中金司(たなか きんじ、1894年-1985年)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。専門は、貨幣論・金融論・国際金融論。 1913年(大正2年)に群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高校)を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に入学。東京高商では佐野善作の指導を受けた。卒業後、神戸高等商業学校、神戸商業大学、神戸経済大学を経て神戸大学教授を務めた。さらに、神戸大学退官後は関西学院大学教授を務めた。 門下生には矢尾次郎神戸大学名誉教授、宮下忠雄神戸大学名誉教授、安居洋神戸市外国語大学名誉教授、小寺武四郎元関西学院大学教授・関西学院大学学長・学校法人関西学院・第10代院長などがいる。貨幣論では名目主義、一般的購買手段を主張したほか、全体的な経済理論としては貨幣的経済理論を主張した。
宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の… 宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の教育者、小説家。
渡貫 良治(わたぬき りょうじ、1894年(明治27年) -… 渡貫 良治(わたぬき りょうじ、1894年(明治27年) - 1958年(昭和33年)10月21日)は、日本のジャーナリスト。元読売新聞論説委員。元長崎日日新聞社社長。第14・15・17代長崎新聞社社長。
西田 半峰(にしだ はんぽう、1894年 - 1961年7月… 西田 半峰(にしだ はんぽう、1894年 - 1961年7月26日)は、日本の版画家、画商。三重県一志郡七栗村(現・津市)出身。本名は西田武雄(にしだ たけお)。 6歳の頃、母方の親類の養子となり横浜へと移り、1945年に三重へ疎開するまで関東で過ごす。横浜商業学校に在学中、第8回文部省美術展覧会(文展)に水彩画「倉入れ」が入選。その後、本郷洋画研究所に入りエッチング(銅版画)の画法の研究・普及に熱心に努め、1923年には東京で画廊「室内社画堂」を開き、日本で最初の洋画商となり、1932年11月には日本エッチング研究所の名のもと、雑誌「エッチング」を創刊・編集したことから「エッチングの父」とも呼ばれる。
吉川 観方(よしかわ かんぽう、1894年〈明治27年〉 -… 吉川 観方(よしかわ かんぽう、1894年〈明治27年〉 - 1979年〈昭和54年〉4月16日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家・版画家。 京都市に生れる。本名は賢次郎。1900年(明治33年)、まず書を岡阪鉄山に学んだ後、1901年(明治34年)、西堀刀水、竹内栖鳳に師事して日本画を学んでいる。1905年(明治38年)、京都市立一ツ橋小学校を卒業する。1907年(明治40年)、藤原重浪に和歌の添削を受け、1909年(明治42年)から浮世絵の研究を始めた。1913年(大正2年)に京都府立第一中学校を卒業、翌1914年(大正3年)に京都市立絵画専門学校予科に入学した。この頃、江馬務が主宰していた風俗研究会に参加、1916年(大正5年)に江馬が『風俗研究』を創刊してからは、同誌のために古画の模写や挿絵を担当していた。
五百籏頭 眞治郎(いおきべ しんじろう、1894年(明治27… 五百籏頭 眞治郎(いおきべ しんじろう、1894年(明治27年) - 1958年(昭和33年)10月1日)は日本の経済学者。専門は経済政策、経済思想史、イタリア経済学。神戸大学名誉教授、経済学博士。敬虔なクリスチャンであり、キリスト教所有権思想の研究などを行った。イタリア政府より聖マウリッツィオ・ラザロ勲章コンメンダトーレ章を、ローマ教皇庁より大聖グレゴリウス勲章コンメンダトーレ章をそれぞれ受章。
木下 祝夫(きのした いわお、1894年 - 1980年10… 木下 祝夫(きのした いわお、1894年 - 1980年10月23日)は、香椎宮宮司。ドイツ語翻訳家。
黒沢 英一(くろさわ えいいち、1894年 - 1953年)… 黒沢 英一(くろさわ えいいち、1894年 - 1953年)は、日本の植物研究者。台湾総督府中央研究所農業部で技師を務め、植物ホルモンのジベレリンを初めて発見した。 1894年(明治27年)7月5日、茨城県筑波郡板橋村(現・つくばみらい市)の村長、黒澤蔵之助の長男として生まれる。高等小学校を卒業後、茨城県立水戸中学校(現・水戸第一高等学校)に入学したが豪農の跡取りであったため、父の強い意志により茨城県立農学校(現・水戸農業高等学校)へ入学し1912年(明治45年)3月卒業した(第12回卒業生)。当時茨城県立農学校には博物(現在の生物・地学)の授業を担当した安藤伊作(新種・フクロダガヤの発見者)が在職していた。
花和 銀吾(はなわ ぎんご、1894年 - 1957年3月1… 花和 銀吾(はなわ ぎんご、1894年 - 1957年3月16日)は、日本の写真家である。東京生まれ。 1917年、東京帝国大学法学部卒業。大阪住友倉庫に入社。1928年、小石清らが所属した浪華写真倶楽部に入会し、会社員と写真家を兼業したほか、語学に長けていたことから海外の写真関連文献の翻訳紹介も行った。芦屋カメラクラブにも所属。 1938年(1937年とする資料もある)には、樽井芳雄(たるい・よしお、Yoshio TARUI、1902年-1977年)、本庄光郎(ほんじょう・こうろう、Kōrō HONJŌ、1907年-1995年)、平井輝七、服部義文(はっとり・よしふみ、Yoshifumi HATTORI、生没年不詳)、村田米太郎(むらた・よねたろう、 Yonetaro MURATA、1907年-1943年?)、小林基和らとともに「アヴァンギャルド造影集団」を創設。
呉 相淳(ご そうじゅん、1894年旧暦8月 - 1963年… 呉 相淳(ご そうじゅん、1894年旧暦8月 - 1963年6月3日)は、朝鮮の詩人。号は禅雲、空超。植民地下の朝鮮を「虚無」を抱えながら放浪し、詩作を続けた。 1894年陰暦8月、現在のソウル市中区奨忠洞1街10番地に生まれる。本貫は海州呉氏。父は呉泰兗。呉の生家は5百石の地主で、裕福であった。父も呉に新教育を受けさせることに反対せず、呉は早くから於義洞学校、儆新学校で勉強する。母は呉が13歳のときに亡くなり、父は後妻を迎えた。こうした経緯があってか、呉は18歳のとき、誰にも告げず家を出た。 1912年、渡日した呉は、京都の同志社大学宗教哲学科に入学する。1918年、同志社大学を卒業すると帰国し、実家にしばらく戻ったものの、ソウル市鐘路区鐘路5街にあった亡くなった母の実家に身を寄せることになる。
金 孝錫(キム・ヒョソク、朝鮮語: 김효석/金孝錫、1894… 金 孝錫(キム・ヒョソク、朝鮮語: 김효석/金孝錫、1894年または1895年12月19日 - 1966年4月15日)は、大韓民国の政治家。初代韓国国会議員。第3代内務部(現・行政安全部)長官。 慶尚南道陜川郡出身。明治大学法学部卒。光復前は青年運動に関与し、光復後は韓国民主党の成立に参加し、中央常務執行委員を務めた。その後は大韓独立促成国民会に参加し、農林部長を務めた。1948年の制憲選挙で大韓独立促成国民会の公認で陜川郡から立候補して当選し、制憲国会議員を務めた。 朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致され、1956年7月に北朝鮮の在北平和統一促進協議会常務委員を務めた。その後北朝鮮で72歳で死去した。
織田 大蔵(おだ たいぞう、1894年(明治27年) - 1… 織田 大蔵(おだ たいぞう、1894年(明治27年) - 1972年(昭和47年)7月7日)は、日本の実業家。福島交通社長。郡山商工会議所会頭。 福島県伊達郡保原町(現・伊達市)大田出身。貧しい家庭に生まれ、保原町の小学校を卒業後に精米所、米屋、繭の仲買人などの商売を行ない、政友会の院外団に入り人脈を得る。 戦後は、闇物資を動かした資金や地主から買い集めた農地証券を元手に保原町にて、福島電気鉄道の下請運送会社、電鉄通運を開業。取引を通じて福島電気鉄道(現在の福島交通)の株を買い、大株主として入社、福島電鉄の会長に登り詰める。 ワンマン経営で労働法を無視して社員を犠牲にして成りあがった守銭奴という評価がある一方、貧しい身の上から成りあがり、東北地方の長者番付で第1位にまでなった成功者として評価する意見も存在する。
岩松 三郎(いわまつ さぶろう、1893年〈明治26年〉12… 岩松 三郎(いわまつ さぶろう、1893年〈明治26年〉12月31日 - 1978年〈昭和53年〉12月1日)は、日本の最高裁判所判事、弁護士。東京府出身。検事総長の佐藤藤佐は義弟。 任官当初は検事であったが、前科19犯のスリを取り調べたときに机上に置いた懐中時計を盗まれた事件がきっかけで、上席検事に検事不適格とされ、裁判官に転身。 1947年に最高裁判事となり、1956年に定年を待たずに依願退官。民事訴訟法の権威であり、論文集である『民事裁判の研究』は今なお多くの学術論文に引用される。1957年に、同じく民事訴訟法の権威であり、定年前に退官した兼子一と共に兼子・岩松法律事務所を設立。
山根 幹人(やまね みきと、-みきひと、1893年12月28… 山根 幹人(やまね みきと、-みきひと、1893年12月28日 - 1947年8月11日)は、日本の映画監督、映画理論家である。 1893年(明治26年)12月28日、島根県安濃郡川合村(現在の大田市川合町)に生まれる。松江市の島根師範学校(現在の島根大学教育学部)付属小学校を経て、島根県立松江中学校(現在の島根県立松江北高等学校)を中退、上京して東京工科学校(現在の日本工業大学)電工科を卒業した。小説家を志しつつ『活動之世界』誌の記者を経て、『活動旬報』誌を創刊する。 1919年(大正8年)、25歳のときに、高松豊次郎が東京府下南葛飾郡吾嬬町(現在の墨田区京島3丁目)に撮影所を開設して設立した「活動写真資料研究会」に参加、同年11月17日には設立第1作として山根が監督した『日本労働問題』が神田青年館で公開された。
川越 庸一(かわごえ よういち、1893年〈明治26年〉12… 川越 庸一(かわごえ よういち、1893年〈明治26年〉12月27日 - 1983年〈昭和58年〉6月3日)は、日本の実業家。「中京デトロイト化構想」の創案者。大同メタル工業創業者・社長・会長、相談役、名古屋YMCA理事長、豊田式自動織機自動車部初代部長を務めた。 藍綬褒章、勲四等瑞宝章受章、従五位。温かく飾らない謙虚な人柄で慕われた。名古屋商工会議所会頭を務めた佐々部晩穂氏とは姻戚関係にある。 川越直夫の二男として、福岡市に生まれる。福岡県士族。1912年(明治45年)福岡県立中学修猷館を経て、1915年(大正4年)熊本高等工業学校機械工学科(現熊本大学工学部)を卒業する。在学中に自動車に大きな興味を覚え、卒業論文に自動車の設計図を提出している。