藤原 米造(ふじわら よねぞう、1890年〈明治23年〉3月… 藤原 米造(ふじわら よねぞう、1890年〈明治23年〉3月11日 - 1930年〈昭和5年〉1月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 現在の兵庫県神戸市で生まれた。1912年、神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒。東京海上火災保険会社大阪支店に入る。のち神戸久原商事に入り、船舶部社員となる。その後、独立して海運業を営む。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙において兵庫1区から無所属で立候補して落選。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において兵庫1区から中立系で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。所属会派は明政会から第一控室会となった。1930年1月、現職のまま死去した。
中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 - … 中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 - 1969年11月20日)は、日本画家。静岡県下田市生まれ。本名は恒吉。芸術院会員。毎日芸術大賞・朝日文化賞受賞。文化功労者。文化勲章受章。 1890年(明治23年)3月10日、現在の静岡県下田市旧岡方村で中村筆助、俊夫妻の間に、九人兄姉の末弟、三男として生まれる。下田尋常高等小学校卒業後上京、実姉・コウの嫁ぎ先であった医家に寄宿しながら、本所表町の明徳尋常高等小学校に入学。1902年(明治35年)、池田孤邨門下の野沢堤雨に入門して琳派を学ぶが、慣れぬ都会暮らしで脚気を患い、一旦の帰郷を余儀なくされ、その間に父と堤雨を亡くす。次いで1904年からは土佐派の川辺御楯に師事し、同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選して画壇デビュー、翌年には御楯の別号である「花陵」より一字を譲り受けた画号「岳陵」を名乗り始める。
吉田 悦蔵(よしだ えつぞう、1890年3月9日 (明治23… 吉田 悦蔵(よしだ えつぞう、1890年3月9日 (明治23年) - 1942年 (昭和17年)11月21日)は、近江兄弟社グループの三創立者の一人で、超教派プロテスタント信徒伝道者。 滋賀県立商業学校在学中の14歳の時、英語教師として着任した24歳のアメリカ人ウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受け、キリスト教信者となってヴォーリズのビジョンである近江を「神の国」とする事業達成のため、生涯をヴォーリズのパートナーとして働いた。非聖職者としてのプロテスタント伝道活動のかたわらキリスト教青年会(通称YMCA)、建築設計事務所、結核療養所、家庭薬販売、図書館、女学校などの近江八幡市を中心に置いた事業の創設から運営に関わり、近江ミッション(現在の近江兄弟社)の基盤を作った。
山内 盛彬(やまうち せいひん、1890年3月9日 - 19… 山内 盛彬(やまうち せいひん、1890年3月9日 - 1986年3月17日)は、日本の音楽学者、沖縄の音楽家。 沖縄県首里金城町生まれ、幼くして父母に死別し、宮廷音楽家であった祖父盛熹に育てられ、湛水流・野村流を学ぶ。1908年、沖縄師範学校に入学、音楽学を修め、1912年8月、琉球王府最後のおもろ主取であった宜野湾在住の安仁屋真苅より王府おもろ5曲6節を、また国頭在住の宇座徳守より御座楽を伝授され、採譜するなど沖縄各地に残る琉球古典音楽や地域の音楽を渉猟し、記録に残す。1915年、上京し、東洋音楽学校(現 東京音楽大学)の田辺尚雄に師事するが、祖父の危篤によりすぐに帰郷、遺言に従って琉球音楽の研究と伝承に一生を捧げることを決意し、小学校に勤務しながら採訪を進める。
林田 熊一(はやしだ くまいち、男性、1890年3月9日 -… 林田 熊一(はやしだ くまいち、男性、1890年3月9日 - 1959年9月30日)は鹿児島県出身の経営者。 林田産業交通(経営破綻後、いわさきグループ傘下にて「林田バス」→「いわさきバスネットワーク」となる。その後鹿児島交通に吸収)の創業者であり、1929年、私設道路などを整備した近代的保養施設の先駆けである霧島温泉郷の林田温泉の開発をおこなった。
丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23… 丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23年)3月9日 - 1965年(昭和40年)1月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡亀田町長。 秋田県由利郡亀田町字六呂田(岩城町亀田字六呂田を経て現由利本荘市)で生まれる。1911年(明治44年)秋田県師範学校本科を卒業した。 秋田県公立小学校訓導となる。築山小学校に勤務していた1919年(大正8年)5月、秋田県青年教育者同志会(小原國芳系)を結成し、飯坂兵治の白楊会(手塚岸衛系)と共に秋田県の大正自由教育運動を主導した。1920年(大正9年)4月、秋田県女子師範学校附属小学校長に転任。自由教育運動の実践のため1921年(大正10年)10月、金浦小学校長に左遷された。
大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 19… 大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 1958年1月22日)は、日本の出版人、ソ連研究家。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)で人力車夫をしていた大竹岩吉の三男として生まれた。尋常小学連尺学校(現・岡崎市立連尺小学校)1年の時に横浜市に移住。小学校卒業後、印刷工として小僧奉公に出る。文選の技術を習得すると郷里の岡崎に戻り、籠田町の手島喜代三郎の岡崎活版所に就職。文章を認められ、まもなく日刊新聞『新三河』の編集部に抜擢される。「新三河は停雪(大竹の雅号)でもっている」と言われたほど評判を呼んだという。のち上京し、『國民新聞』や『東京日日新聞』、『読売新聞』などで記者を務めた。
小林 真二(こばやし しんじ、1890年〈明治23年〉3月5… 小林 真二(こばやし しんじ、1890年〈明治23年〉3月5日 - 1965年〈昭和40年〉4月4日)は、群馬県出身の洋画家。浦和画家のひとり。赤城山の風景を好んで描いたことから「赤城絵かき」とも称された。 群馬県大間々町(現・みどり市)に生まれる。群馬県立前橋中学校卒業後、上京し白馬会研究所に入り黒田清輝、長原孝太郎らに師事した。風景画を主体とする。関東大震災後、埼玉県浦和町(現さいたま市)に居住。第一美術協会を創設した。光風会審査員、埼玉県展運営委員・審査員。実践女子大学講師。 志賀直哉の小説『焚火』に「画家S」として登場する。
名古屋 三吉(なごや さんきち、1890年(明治23年)3月… 名古屋 三吉(なごや さんきち、1890年(明治23年)3月5日 - 1962年(昭和37年)4月4日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、鋳物業・名古屋六之助の四男として生まれる。1916年(大正5年)東京帝国大学工科大学を卒業し日本製鋼所に入社。同社で勤務し、翌年欧米各国に留学した。 その後、兄の死去に伴い鋳物業を継承。川口鋳物工業組合理事長、埼玉県鉄鋼製品工業組合連合会理事長、川口商工会議所副会頭、埼玉県商工経済会評議員などを務めた。 1946年(昭和21年)埼玉県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年8月16日に就任し、交友倶楽部に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3… 八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3月4日 - 1977年(昭和52年)1月25日)は、日本の実業家。八杉商店社長、会長を務めたほか、広島地方裁判所司法委員、福山家庭裁判所調停委員、福山商工会議所副会頭などを歴任した。位階勲等は従五位勲五等。藍綬褒章受章。 現在の広島県府中市にて、小川良平の子として生まれた。旧制福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学し、1907年(明治40年)に卒業した。中学校では剣道部に所属した。1910年(明治43年)に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、教員となった。 福山市深津町の八杉家の婿養子となって八杉商店6代目社長に就任、福山ガス(株)、ニコニコバス(株)、福山合金(株)、福山興業(株)の取締役を務めた。
田淵 寿郎(たぶち じゅろう、明治23年(1890年)3月3… 田淵 寿郎(たぶち じゅろう、明治23年(1890年)3月3日 - 昭和49年(1974年)7月10日)は、大正、昭和期の日本の土木工学者。都市計画推進者、近代的都市づくりの先駆者である。名古屋市助役などを歴任。 広島県佐伯郡大竹村(現在の大竹市)出身。中学から兄のいた大分県杵築に住む。回漕問屋の十番目の子に生まれたので「十郎」と名付けようとしたらしいが、語呂が悪いということで「寿郎」とした。回漕問屋の息子として育ったため、本人は将来は船乗りになりたかったらしいが、海軍兵学校の試験の身体検査で心肺機能に異常があることがわかり、入学のための身体基準が厳しい商船学校への進学を断念した。また造船科に進もうとしたが、学校で所属していたボート部の練習が忙しく造船科に進むための必修科目である化学実験を受講しなかったことや当時造船業は不況であったこと等から、兄などの勧めもあって受講条件を科していない土木工学科へ進むことになる。
坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3… 坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3日 - 1982年(昭和57年)7月7日)は、日本の児童文学作家。日本藝術院会員。岡山県出身。 同じ児童文学作家、児童文学研究者である坪田理基男は三男。 1890年(明治23年)岡山県御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)に生まれる。父・平太郎はランプ芯などを製造する島田製織所を経営していたが、1898年(明治31年)譲治が8歳の時に死去した。大学生だった兄が家業を継ぐものの、以後会社の内紛が続く。のちに譲治も経営に参加する。(これは、後の小説に反映されることになる。) 1908年(明治41年)、早稲田大学文科予科へ入学した。同級生の生田蝶介の紹介で小川未明を訪問する。
堤 不夾貴(つつみ ふさき、1890年(明治23年)3月3日… 堤 不夾貴(つつみ ふさき、1890年(明治23年)3月3日 - 1959年(昭和34年)7月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県甲府市に生まれ、陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業。1931年、第10師団参謀長。1944年4月、第91師団長。1945年8月18日-21日、占守島の戦いで第91師団を指揮した。同年8月23日、降伏文書に署名した。 1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。
安藤 信昭(あんどう のぶあき、1890年〈明治23年〉3月… 安藤 信昭(あんどう のぶあき、1890年〈明治23年〉3月2日 - 1976年〈昭和51年〉12月16日)は、日本の華族(子爵)。貴族院議員、旧磐城平藩主安藤家15代当主。旧姓名は有馬頼篤。有馬頼寧は実兄。 伯爵有馬頼万(筑後久留米藩主家当主)の二男として東京に生まれる。 子爵安藤信篤(磐城平藩主家当主)の養子となり、1915年(大正4年)6月、信篤が隠居し家督を相続し、同年7月10日、子爵を襲爵した。同年9月3日、皇族・閑院宮載仁親王の第1王女である恭子女王(ゆきこじょおう)と結婚した。 1915年(大正4年)東京府立園芸学校(現:東京都立園芸高等学校)を卒業。1921年(大正10年)に侍従補となり、以後、侍従や式部官を歴任。
佐々木 順三(ささき じゅんぞう、1890年3月2日 - 1… 佐々木 順三(ささき じゅんぞう、1890年3月2日 - 1976年5月2日)は、日本の教育者、神学者、英文学者。 1890年(明治23年)に東京で三男として生まれる。兄の佐々木邦(慶應義塾大学,明治学院大学教授)は後に作家として業績を残している。東京帝国大学を卒業後、教師となり第六高等学校、第一高等学校などの教授を経て、1943年9月30日に都立高等学校校長となる。同高校校長を1946年6月29日まで務めた後に、立教大学総長に就任した。戦後の再建期において同大学の「建学の精神」を示し、キリスト教一貫教育を進めるべく新制高等学校、中学校、小学校を開設した。1954年にはキリスト教学校教育同盟理事長を務める。
田代 寿雄(壽雄、たしろ ひさお、1890年(明治23年)3… 田代 寿雄(壽雄、たしろ ひさお、1890年(明治23年)3月2日 - 1963年)公職追放まで三井鉱山社長を、戦後、民営化された後の帝国石油社長を務めた。 静岡県御殿場市出身。1907年(明治40年)、旧制静岡県立静岡中学校修了。旧制第一高等学校を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業後は三井鉱山に入社した。1945年(昭和20年)に同社長に就任した。 GHQの財閥解体措置の一環として、1946年(昭和21年)12月に持株会社整理委員会令が改正され、財閥の主要な人物は会社役員を辞任することが強要された。翌1947年(昭和22年)1月には公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令、いわゆる公職追放令が制定され、主要な経営者が財界から追放されるに至った。
松尾 造酒蔵(まつお みきぞう、1890年3月1日 - 19… 松尾 造酒蔵(まつお みきぞう、1890年3月1日 - 1985年1月20日)は日本の牧師。長年神学校の教授を務め、神学教育に貢献した。日本基督改革派教会の牧師吉岡繁の実父であり、双恵学園(さいたま市)の創立者・松尾武の兄。共立女子神学校校長,フェリス女学院理事長,横須賀学院理事長などを歴任。 長崎県島原に生まれた。島原中学卒業後に上京し、叔父の松原英一の指導を受ける。 1908年(明治41年)東京にて、植村正久より洗礼を受ける。明治学院神学部、米国のオーバン神学校(英語版)、スコットランドのエディンバラのニュー・カレッジで学び、1921年(大正10年)7月に帰国して、横浜市に住んだ。 1922年(大正11年)8月日本基督教会鎌倉雪ノ下教会より招聘を受けて、9月より牧師になる。
加藤 外松(かとう そとまつ、1890年(明治23年)3月1… 加藤 外松(かとう そとまつ、1890年(明治23年)3月1日 - 1942年(昭和17年)2月12日)は、日本の外交官。元駐フランス特命全権大使。 富山県高岡市木町出身。1911年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。高等文官試験外交官及領事官試験に合格し、1914年ニューヨーク領事官補。在フランス外交官補、外務省欧米局第二課長、在中華民国公使館一等書記官、天津総領事等を経て、1935年駐カナダ特命全権公使。1941年から駐フランス特命全権大使を務め、ヴィシー政府のフランソワ・ダルラン副首相と会談するなどして、南部仏印進駐の承認を得た。1942年2月11日深夜、パリの日本大使館で呼吸困難になり、窓を開けて外気に触れようとした際に眩暈を起こして庭に転落、病院に搬送されたが間もなく死去した。
22代 木村 庄之助(にじゅうじだい きむら しょうのすけ、… 22代 木村 庄之助(にじゅうじだい きむら しょうのすけ、1890年〈明治23年〉3月1日 - 1994年〈平成6年〉4月23日)は、大相撲の立行司の一人。1951年9月から1959年11月にかけて木村庄之助を襲名していた。本名は泉 林八、所属:竹縄(大阪)→出羽ノ海部屋、香川県三木郡牟禮村(現:高松市)出身。通称は泉の親方。 1898年秋、尋常小学校を二年で中退して大坂相撲の竹縄部屋に入門し、1899年6月に木村金八の名で初土俵。1907年6月に木村信之助で幕下格、1909年5月十両格、木村錦太夫の名で1912年1月に幕内格となったが、1922年5月に、当時の大坂相撲が暴力団の組長によって運営され、東京相撲と比較にならないデタラメがまかり通っているのに愛想をつかし1923年5月場所限りで廃業。
4代 千葉 伝蔵(傳藏、ちば でんぞう、1890年(明治23… 4代 千葉 伝蔵(傳藏、ちば でんぞう、1890年(明治23年)3月 - 1962年(昭和37年)12月29日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。青森県青森市長。青森県多額納税者。前名は覚郎。 白鳥鴻彰の三男として青森県東津軽郡荒川村(現青森市)に生まれる。1909年(明治42年)青森中学校を卒業し日本大学、大原簿記学校、津田英文簿記学校に学んだ後、帰郷する。青森市役所に奉職したのち1910年(明治43年)魚問屋・千葉家の養子となり、1919年(大正8年)前名を改め4代伝蔵を襲名した。1920年(大正9年)青森製氷の創立に当たって出資し取締役に就任、1922年(大正11年)東京共同水産取締役となり東京隅田運送の取締役も務めた。
山田 清(やまだ きよし、1890年(明治23年)3月 - … 山田 清(やまだ きよし、1890年(明治23年)3月 - 1945年(昭和20年)10月26日)は、日本の実業家。大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。国産電機(現:マーレエレクトリックドライブズジャパン)元常務取締役。従四位勲二等。 福井県福井市出身。山田外吉の三男として生まれる。1911年(明治44年)7月31日、海軍機関学校(20期)を卒業。その間、京都帝国大学電気科を卒業。1911年(明治44年)7月31日、機関少尉候補生として海軍に入隊。津軽乗員を経て、同年12月3日より安芸乗員となる。 1912年(大正元年)12月1日、機関少尉に任官。1914年(大正3年)12月1日、機関中尉に昇進。
内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉… 内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉2月28日 - 1971年〈昭和46年〉11月19日)は、日本の外交官・政治家。神奈川県知事(官選、公選第1・2・3・4・5代)、テレビ神奈川初代社長。位階は正三位。日本の国際連合加盟に貢献をした人物として知られる。元丸紅ブラジル会社副社長の内山勇は三男。 1890年(明治23年)、群馬県前橋市天川原町に、父・内山岩吉、母・ちか子の三男として生まれる。1902年(明治35年)、群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学。1905年(明治38年)に校長排斥の同盟休校を起こし放校となり、正則英語学校を経て立教学院に編入、1907年(明治40年)卒業。
2代 古荘 健次郎(古莊、ふるしょう けんじろう、1890年… 2代 古荘 健次郎(古莊、ふるしょう けんじろう、1890年(明治23年)2月28日 - 1948年(昭和23年)2月6日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・清七。 熊本県熊本市古川町(現:熊本市中央区古川町)で、繊維問屋・初代古荘健次郎の二男として生まれる。1909年(明治42年)熊本県立商業学校(現熊本県立熊本商業高等学校)を卒業した。1926年(大正15年)家督を相続し2代健次郎を襲名した。 1917年(大正6年)金貨メリヤス(大阪市淀川区)を買収し、1918年(大正7年)5月、金貨莫大小 (株) を設立して社長に就任。1933年(昭和8年)12月、持ち株会社・古荘合資会社を設立して代表社員となる。
岡野 豪夫(おかの たけお、1890年2月28日 - 196… 岡野 豪夫(おかの たけお、1890年2月28日 - 1964年8月22日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取を務めた。静岡県出身。 1912年に慶應義塾理財科を卒業し、後に駿河銀行に入行。1932年に取締役に就任し、1942年に副頭取を経て、1957年11月には頭取に就任した。 1964年8月22日心筋梗塞のために在任中に死去。74歳没。
矢崎 邦次(やさき くにじ、1890年 <明治23年> 2月… 矢崎 邦次(やさき くにじ、1890年 <明治23年> 2月28日 - 1977年 <昭和52年> 1月23日)は、日本の経営者。長野県伊那市出身。位階は正五位。 1916年に東京高等商業学校を卒業し、同年に第一銀行に入行。1941年7月に取締役に就任し、1945年3月に澁澤倉庫専務を経て、1949年5月には社長に就任。1956年5月から1958年5月までに会長を務めた。 1971年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年心臓発作のために死去。87歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
白鳥 省吾(しらとり せいご、1890年2月27日 - 19… 白鳥 省吾(しらとり せいご、1890年2月27日 - 1973年8月27日)は、日本の詩人・文人。ヒット曲『星影のワルツ』で知られる、詩人で作詞家の白鳥園枝は二女。 省吾が作る詩は、民衆の内面を描いた物であり、“民衆派詩人”と称されている。ウォルト・ホイットマンの作った詩の翻訳でも著名。 旧制宮城県立築館中学校4年生頃から詩を書くようになる。早稲田大学に入学後、「夜の遊歩」などの詩を収めた詩集『世界の一人』を若山牧水、太田水穂、前田夕暮の仲介で自費出版し、詩人として文壇にデビューを果たす。『世界の一人』は好評を博し、省吾は一躍名声を高める。 早稲田大学英文科卒業後は、『新少年』・『露西亜評論』・『女学生』など、戦前に発行された雑誌の編集者で、詩人の団体「詩話会」の発行する『日本詩集』や、「詩話会」の発行する『日本詩人』の編集委員も歴任する。
中橋 武一(なかはし ぶいち、1890年2月27日 - 19… 中橋 武一(なかはし ぶいち、1890年2月27日 - 1963年7月8日)は、昭和期の実業家。大阪建物元社長・会長。大阪府出身。父は政治家の中橋徳五郎。 1912年に官立神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業後、ロンドン留学。帰国してからは大阪商船(現商船三井)へ入社し、その後は大阪住友海上火災保険、大丸の各監査役を務めた。1947年から4年間、関西経済連合会会長を務めた。大阪建物の社長、会長を歴任するほかに毎日放送、日本電気、大阪スタヂアム興業、大丸、関西電力の各取締役、住友信託銀行監査役、関西経済連合会、大阪商工会議所各顧問をそれぞれ務めた。
森下 雨村(もりした うそん、1890年2月27日 - 19… 森下 雨村(もりした うそん、1890年2月27日 - 1965年5月16日)は、日本の編集者、翻訳家、小説家。本名・岩太郎。別名・佐川春風。高知県佐川町出身。早稲田大学英文科卒、博文館に勤め、1920年に探偵小説雑誌『新青年』編集長となり、内外の探偵小説の紹介に努め、自らも創作をおこなった。 土佐の生まれで、酒豪だった。横溝正史によると、「親分肌で、常に周囲に若いものを集め、ちっくと一杯と人に奨め、相手を盛りつぶしては悦に入っていた」という。横溝も「たびたび森下に盛りつぶされているうちに、おいおい上達して、ついに出藍の誉れを高くしたものである」と語っている。 『新青年』編集長として江戸川乱歩を世に送り、多くのすぐれた探偵作家を誕生させた雨村を、横溝は「森下こそ日本の探偵小説の生みの親といっても過言ではないだろう」と評し、「義理がたい乱歩は終生雨村に恩誼を感じていたようである」、「松本清張は雨村を、推理小説界における大正期の中央公論の滝田樗陰であると言っている」と述べている。
高垣 寅次郎(たかがき とらじろう、1890年2月26日 -… 高垣 寅次郎(たかがき とらじろう、1890年2月26日 - 1985年8月25日)は、日本の経済学者。 1890年(明治23年)、広島県尾道市生まれ。1911年(明治44年)、神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。 続いて東京高等商業学校(後の東京商科大学、一橋大学)において佐野善作に師事。同じ門下に塩野谷九十九、鬼頭仁三郎、高橋泰蔵、新庄博、岡田俊平などがいた。彰化商業銀行董事長を務めた呉金川なども高垣ゼミ出身。1913年、東京高等商業学校を卒業。 卒業後、1913年(大正2年)に三井銀行に入行。しかし1915年(大正4年)には母校の東京高等商業学校へ戻り、助教授となり、1924年(大正13年)より同校教授。
富山 徳潤(とみやま とくじゅん、1890年(明治23年)2… 富山 徳潤(とみやま とくじゅん、1890年(明治23年)2月26日 - 没年不詳)は、日本の弁護士、政治家。太平洋戦争当時の那覇市長。沖縄戦当時は後述の理由で沖縄には不在だった。旧姓・安慶名。 沖縄県那覇久米町で、汝翼の長男として生まれる。1909年、那覇市立商業学校(現沖縄県立那覇商業高等学校)を卒業後、糸満物産会社、鈴木商店で勤務し、鈴木商店沖縄出張所に転じて黒糖買付を担当。同出張所閉鎖により実業界から法曹界を志し、那覇区書記、専売局那覇出張所雇などを経て、1915年、普通文官試験に合格して上京し淀橋専売支局で勤務。その傍ら中央大学法科で学び、1918年に同大を卒業。大蔵省銀行局に転じ、1920年、弁護士試験に合格し天野弘一法律事務所に勤務。
志摩清英(しま きよひで 1890年(明治23年)2月25日… 志摩清英(しま きよひで 1890年(明治23年)2月25日 - 1973年(昭和48年)11月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月2… 立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。愛媛県出身。陸軍士官学校卒業(25期)。兵科は歩兵科。功四級。 立花三吉の二男として生まれる。私立金光中学を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1916年(大正5年)9月から翌年1月まで陸軍戸山学校体操科で学んだ。1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に進級。1924年(大正13年)3月、歩兵第12連隊中隊長となり、松山連隊区副官、第11師団副官、高松商業学校配属将校を経て、1930年(昭和5年)8月、歩兵少佐に進級。
西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日 - 1… 西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日 - 1955年2月18日)は、日本の実業家、技術者。元古河電気工業社長。元東京大学生産技術研究所協議会会長。 兵庫県出身。西村純一の長男。1914年東京帝国大学工科大学卒業。「古河日光精銅所に於ける精銅並びに加工」により1937年に日本鉱業会学会賞(渡辺賞)を受賞。古河電気工業日光精錬所所長を経て、1946年から古河電気工業社長を務め、サッカー部(のちのジェフユナイテッド市原・千葉)を創設。1948年兵器処理委員会に関する問題で、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1949年に東京大学生産技術研究所協議会が発足すると評議員に就任。
青野 季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 19… 青野 季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 1961年6月23日)は、日本の文芸評論家。 新潟県佐渡島出身。早稲田大学英文科卒業後、読売新聞記者となるが争議を指導したことにより解雇され、その後は新聞社を転々とした。 1919年、日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表したのを機に、プロレタリア文学評論家として文筆活動を始め、1922年に「階級闘争と芸術運動」を発表。『種蒔く人』の同人として活動。「『調べた』芸術」(『文芸戦線』1925年7月)、「自然生長と目的意識」(『文芸戦線』1926年9月)、「目的意識論」などで、1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場に立った。
下山 懋(しもやま つとむ、1890年2月23日 - 198… 下山 懋(しもやま つとむ、1890年2月23日 - 1987年1月19日)は、日本の教育者、国語教育学者、国文学者、郷土史家、作詞家。 埼玉県入間郡芳野村谷中(現在の川越市)生まれ。父は飯能戦争で新政府軍として参加した川越藩士の下山忠行。 1910年、埼玉県師範学校を卒業。1914年、埼玉県女子師範学校附属小学校で訓導となり、埼玉県立浦和高等女学校で教鞭を執り、東京帝国大学選科に進んだ。その後、埼玉県立越ヶ谷高等女学校、埼玉県大宮高等女学校、浦和市立高等学校、埼玉県立浦和高等学校、別所幼稚園、武南幼稚園・武南中学校・武南高等学校などの学校で校長・園長を歴任した。元埼玉県教育委員会教育委員。元川口市教育長。
日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年〈明治23年〉2… 日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年〈明治23年〉2月22日 - 1971年〈昭和46年〉6月13日)は、日本の詩人・英文学者。本名樋口 國登(ひぐち くにと)(通称は「圀登」の字体を愛用)。号は夏黄眠、黄眠道人、黄眠堂主人、聴雪盧主人、石上好古、溝五位など30数種類存在する。広範な学識と多岐にわたる文学活動で「学匠詩人」と称される。 詩人としては自らゴスィック・ローマン詩體と称す高踏的で荘重幽玄な詩風であり、その神秘主義的な象徴詩は他に類をみない個性を放っている。また、訳詩や文学論考、随筆などの幅広い著作があり、明治大正期の文学論でも知られる。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市知久町)に樋口藤治郎、以志(樋口龍峡の姉)の長男として生まれる。
山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1… 山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1944年9月13日)は、日本の建築家。住宅専門会社あめりか屋技師長として知られる。 1890年(明治23年)2月22日、高知県香美郡岩村(現南国市)に生まれる。旧制高知中学校(現高知県立高知追手前高等学校)から、第三高等学校に進学。卒業後の1914年(大正3年)、早稲田大学理工学部建築学科入学。当時、三高から私学に進学するのは異例で、いとこで早稲田大学教授だった山本忠興の勧めと考えられている。1917年(大正6年)、同校卒業。 同年、橋口信助が創立した住宅設計施工会社「あめりか屋」へ就職、5年後に設計部の技師長になる。住宅改良会の機関誌『住宅』の編集・寄稿や、著書『家を住みよくする法』などを通して啓蒙的な執筆活動を行った。
新井 紀一(あらい きいち、1890年(明治23年)2月22… 新井 紀一(あらい きいち、1890年(明治23年)2月22日 - 1966年(昭和41年)3月13日)は、日本の小説家。実生活に裏打ちされた文章で知られた。日本の労働文学の代表的作家。砲兵工廠職工として働いていたことから「兵隊作家」とよばれた。別院一郎の筆名も用いる。 群馬県多野郡吉井町(現高崎市)に生まれる。四男二女の長男。7歳のとき、東京の四谷警察署で巡査となっていた父のもとに母とともに上京する。四谷第一尋常高等小学校を卒業後、東京砲兵工廠に見習職工として働く。2年の兵役をはさんで通算14年の職工生活を送る。 労働文芸誌『黒煙』に処女作「暗い顔」を投稿。1916年 「怒れる高村軍曹」「坑夫の夢」を発表、反軍作家と言われる。
吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 … 吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉3月21日)は、日本の政治家、弁護士。位階は従四位。勲等は勲三等旭日中綬章。 熊本県出身。1916年(大正5年)、明治大学専門部法律科卒業。司法官試補の後、弁護士となる。熊本県会議員、熊本市会議員、参事会員を務めた。第19回衆議院議員総選挙と第20回総選挙は立憲民政党で、第21回総選挙は無所属で立候補したが、いずれも落選している。1946年(昭和21年)の第22回総選挙において熊本県から立候補して衆議院議員に初当選。当選4回。日本進歩党、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党などに所属し、役職を歴任。第1次吉田内閣で司法参与官、第3次吉田内閣で郵政政務次官などを務めた。
稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月2… 稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月20日 - 1942年〈昭和17年〉9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県和歌山市出身。旧制和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第89位、卒業時成績順位は149名中第53位。 人物評価に対して中島親孝同様、辛辣な点数を付与する高木惣吉は、稲垣を自著『自伝的日本海軍始末記』に於いて「誠に重点をつかんで統御にすぐれた人」と称し絶賛していた。
杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)… 杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)2月18日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は日本の歴史学者・東洋学者(専攻:南海史・東西交渉史)。広島大学名誉教授。号は「南翁」(なんおう)。 滋賀県生まれ。滋賀県師範学校卒業後しばらく教職に就き、広島高等師範学校を経て京都帝国大学に入学、文学部で桑原隲蔵に師事した。 京都帝大卒業後の1929年、広島文理科大学教授となる。在任中の1945年8月6日、原爆投下により爆心地から1.7kmの段原町(現・広島市南区)の自宅で妻とともに被爆するも九死に一生を得る(その後広島市によって編纂された『原爆体験記』に「原爆に遭った日」を寄稿)。戦後の1953年、広島文理大が新制に移行した広島大学の教授となる。
阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 … 阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 - 1942年9月21日)は、熊本県熊本市出身で八角部屋、雷部屋、再度八角部屋に所属した力士。本名は田尻 虎吉。170cm、97kg。最高位は東小結。 吉田司家の紹介で入門。1908年5月初土俵、序二段優勝と三段目優勝を記録し、1915年1月十両昇進。1916年5月に入幕し、1921年1月には小結に昇進した。小兵だが食い下がって鋭く寄るか押す地味ながら正攻法の取り口で、時に鋭い投げも見せた。1924年5月に廃業した。 錦山 虎吉→明(あきらか) 虎吉(1909年6月場所-)→阿蘇ヶ嶽 梶右エ門(1919年1月場所-)→阿蘇ヶ嶽 寅吉(1924年1月場所-)
植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月1… 植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月16日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、大正・昭和期の歌人。名は壽樹とも書く。歌誌『沃野』を創刊・主宰した。 東京市四谷区舟町(現・東京都新宿区舟町)生まれ。中学時代、電報新聞(現・毎日新聞)の窪田空穂選歌欄に投稿したのをきっかけに師事し、1905年窪田空穂主宰の十月会に入会。 1914年(大正3年)空穂の『国民文学』立ち上げに参加。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科卒業、大阪の加島銀行に入社。この時期に川田順、木下利玄らと親交を深め、「五日会」を興す。 1919年に銀行を退職して、大倉商事大阪支店に入社。1921年、大倉商事を退職。
中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1… 中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1972年3月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 神奈川県出身。中村庄吉・サダの息子として生れる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官し「矢矧」乗組となる。海軍大学校(乙種学生)、海軍水雷学校高等科・特修科で学ぶ。「常磐」分隊長、「龍田」水雷長、元帥副官兼海軍省出仕(元帥大将東郷平八郎附属)などを経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 海大時代の末期に健康を害し、療養の意味も込めて同年12月、横須賀防備隊水雷長に就任し、横須賀海軍工廠機雷実験部部員を兼任。
戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日… 戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 石川県出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、逓信局監理課長・為替貯金課長、交通局参事・簡易保険局書記官、殖産局商工課長、交通局参事・鉄道部庶務課長、台北州内務部長、交通局理事・逓信部長、台北州知事を歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、東台湾電力興業株式会社専務取締役となり、1942年(昭和17年)には総督府評議会員に就任した。
宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日… 宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。また終戦後に多数の部下を道連れに「特攻」を実施したことでも知られている。 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない。岡山中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。ちなみに陸士の合格成績は12番だった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校。
恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月… 恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月15日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、大正から昭和期の地主、農林業指導者、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 島根県安濃郡大田村(大田町を経て現大田市)で、恒松臺太郎の長男として生まれる。1914年(大正3年)明治大学政治経済科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し農業を営む。 1917年(大正6年)大田町農会長、安濃郡会議員に選出され、同議長、大田町助役も務めた。1923年(大正12年)島根県会議員に選出され、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで県会議長を務めた。その他、安濃郡農会長、島根県農会副会長、同会長、自作農創設維持審議会委員、島根県耕地協会代議員、同畜産組合連合会長、同養蚕組合連合会長、同養鶏組合連合会長、帝国農会評議員、中央畜産会理事会副会頭、中央農業会理事、初代島根県農業会長などに在任した。
瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年… 瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年)2月14日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、大正から昭和時代の柔術家、柔道整復師。父のいとこに荒川鉱山の経営者・瀬川安五郎がいる。 岩手県盛岡市上衆小路にて瀬川正太郎、ヤエの三男として生まれる。岩手師範附属小学校、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1912年(明治45年)京都の武術専門学校へ進学する。同校卒業後、山口県徳山中学校を経て、1917年(大正6年)4月に奥田松五郎の後任として、1943年(昭和18年)まで母校の盛岡中学校にて柔道の指導にあたる。その間、1931年(昭和6年)、加賀野の自宅にて整骨院を開き、小中学生や生活困窮者に対しては無料で施術を行った。
松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985… 松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985年10月9日)は、日本の作曲家、教育者。女子学習院教授、宝仙学園短期大学教授。 旧水戸藩士で裁判官を務めていた松島茂徳と米子の長女として、父の任地である山形県山形市に生まれる。1902年に福島県立福島高等女学校に入学。学業は優秀で音楽の成績が特に優れていたために、教師の大立目元子に音楽学校への進学を勧められる。1906年に女学校を卒業すると音楽学校受験のために上京し、東京市小石川区高田老松町の伯母(母の姉)の家に寄宿した。1907年に東京音楽学校予科に入学し、1908年に進学した同校本科器楽部ピアノ専攻で戸倉やまにピアノを、ヘルマン・ハイドリヒとルドルフ・ロイテルにピアノと作曲を師事して1911年に卒業。
豊田 豊吉(とよた とよきち、1890年(明治23年)2月1… 豊田 豊吉(とよた とよきち、1890年(明治23年)2月13日 - 1943年11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員4期、大蔵参与官、東京市助役を歴任した。