古沢 安二郎(ふるさわ やすじろう、1902年2月6日 - … 古沢 安二郎(ふるさわ やすじろう、1902年2月6日 - 1983年9月3日)は、日本の英米文学の翻訳家。 新潟県生まれ。東京帝国大学英文科卒、芝浦工業大学教授、明治大学教授。ポール・ギャリコ、ウィリアム・サローヤンなどを翻訳した。
1900年代生まれ:6,226人
古沢 安二郎(ふるさわ やすじろう、1902年2月6日 - … 古沢 安二郎(ふるさわ やすじろう、1902年2月6日 - 1983年9月3日)は、日本の英米文学の翻訳家。 新潟県生まれ。東京帝国大学英文科卒、芝浦工業大学教授、明治大学教授。ポール・ギャリコ、ウィリアム・サローヤンなどを翻訳した。
山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月… 山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月5日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の軍事史学者。特に日本の甲冑についての研究で名を知られる。 山上が帝国学士院より受賞した研究『日本甲冑の新研究』は、上下巻を合わせて2500ページに迫る膨大なもので、その中で紹介されている日本全国の甲冑資料も、非常に豊富である。現代の甲冑研究にも強い影響を与え続けている大著である。 「万巻の書を読み千里の道を行く」を一生の目標とし、大学時代より日本各地を旅行して甲冑を捜索した。服飾史学者の河鰭実英や城郭研究者の鳥羽正雄と親交があったが、特に鳥羽とは小学校以来の付き合いがあり、山上が東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。
渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 19… 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
山本 米治(やまもと よねじ、1902年2月5日 - 199… 山本 米治(やまもと よねじ、1902年2月5日 - 1993年11月30日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。国際決済銀行理事、大蔵政務次官。金融財政通として国会内外に知られた。 愛知県蒲郡町(現蒲郡市竹谷町)に生まれる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学法学部卒業。 日本銀行ロンドン監督役付海外駐在参事を経て、ドイツ駐在中に日銀総裁代理として国際決済銀行理事を務める。1947年(昭和22年)7月、日本銀行名古屋支店長に就任。日銀調査局長兼統計局長、外国為替管理委員会委員、経済安定本部副長官なども務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区から自由党公認で立候補し初当選。
岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日… 岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日 - 1999年〈平成11年〉11月29日)は、大正・昭和の囲碁棋士。第3、4期本因坊で本因坊 薫和と号する。島根県益田市出身、広瀬平治郎八段門下。 中盤の戦いに強く、序盤はあちこちに散在する石が徐々に関連して相手に圧力をかけてくるところから「豆まき碁」と呼ばれた。 1945年の第3期本因坊戦での橋本昭宇本因坊との挑戦手合において、広島市郊外の五日市(現佐伯区五日市町)で行われた6番勝負の第2局は原爆下の対局として有名。1948年から日本棋院理事長、1954年から中央会館館長を歴任。囲碁の海外普及に尽力し、また私財を投じた岩本基金により、サンパウロ、アムステルダム、ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に多大な貢献をした。
下村 非文(しもむら ひぶん、1902年2月2日 - 198… 下村 非文(しもむら ひぶん、1902年2月2日 - 1987年8月13日)は、福岡県出身の俳人。本名利雄。 築上郡(現豊前市)生。東京大学経済学部卒、台湾銀行に勤務。終戦後に引揚げ、関西に住み証券業の要職を歴任。俳句は1926年、社内句会からはじめ、松本たかしに師事。1949年「ホトトギス」同人。1964年、田村木国の死去後「山茶花」主宰を継承。非文は「山茶花」外部の人間であったが、高浜年尾と阿波野青畝の推挙により主宰についた。非文の主宰により、「山茶花」の勢力は飛躍的に増大し若手が多く育った。1978年、関西俳句友好訪中団を結成。旅行、登山を好み大景を詠むことを得意とした。代表句「赤富士や百鳥晨をよろこべる」「夕焼けのヒマラヤ一座一座消え」など。
永江 一夫(ながえ かずお、1902年(明治35年)2月1日… 永江 一夫(ながえ かずお、1902年(明治35年)2月1日 - 1980年(昭和55年)4月23日)は、日本の政治家。位階は従三位。 農林大臣(第9代)、民社党副書記長を務めた。長男の永江一仁は民社党衆議院議員・神戸市会議員の永江一之は孫(一仁の長男)。 岐阜県恵那郡陶村(陶町を経て現瑞浪市)で生まれた。苦学して1924年(大正13年)関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学)を卒業。在学中、1921年(大正10年)神戸の川崎造船所・三菱造船所争議に参加。卒業後、福徳生命に入社し、同時に社会運動に参加し日本労農党、日本大衆党に属した。 1929年、神戸市会議員となる。1937年、第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
宮崎 太一(みやざき たいち、1902年2月1日 - 195… 宮崎 太一(みやざき たいち、1902年2月1日 - 1954年10月8日)は、日本の厚生官僚。引揚援護庁長官、厚生事務次官を経て、社会保険診療報酬支払基金理事長在任中死去した。 石川県羽咋町出身。石川県師範学校を経て、1925年東北大学法文学部卒業、法学士。1930年内務省入省。1941年社会保険局監理課長。1942年勤労局動員課長。終戦後、厚生省保険局長を経て、1949年引揚援護庁次長。1950年引揚援護庁長官。 1951年厚生事務次官、引揚同胞対策審議会委員、社会保障制度審議会委員、郵政審議会委員、科学技術行政協議会委員、中央青少年問題協議会委員、国立公園審議会委員、中央優生保護審査会委員、中央身体障害者福祉審議会委員、中央児童福祉審議会委員。
佐々木 彰造(ささき しょうぞう、1902年〈明治35年〉2… 佐々木 彰造(ささき しょうぞう、1902年〈明治35年〉2月 - 1966年〈昭和41年〉)は、日本の実業家、銀行家、青森県多額納税者、地主。佐々木銀行頭取。「布嘉」佐々木家4代目。青森県北津軽郡五所川原町長(15代)。 青森県北津軽郡五所川原町の人・佐々木嘉太郎の長男。1945年(昭和20年)、五所川原町長に就任、1946年(昭和21年)、退職。その後、青森自動車部品社長、青菱自動車社長を歴任し、県内のモータリストの草分けとなった。住所は青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974… 土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974年4月21日) は、日本の機械工学者。名古屋大学名誉教授。元沼津工業高等専門学校校長。 鳥取県出身。1927年九州帝国大学工学部機械工学科卒業、旅順工科大学講師。1928年旅順工科大学助教授。1937年九州帝国大学工学博士。1938年旅順工科大学教授。1944年名古屋帝国大学教授。1964年沼津工業高等専門学校校長。1965年名古屋大学名誉教授。1973年勲二等瑞宝章受章。旋盤の研究などを行った。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30… 矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、大日本帝国陸軍軍人。基隆市尹。 矢野槌太郎の三男として福岡県福岡市に生まれる。1920年(大正9年)福岡県立中学修猷館、1923(大正12年)年第五高等学校文科甲類を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法学科卒業後、高等文官試験行政科試験に合格する。 同年12月、野砲兵第6連隊に入隊し、1929年(昭和4年)4月に陸軍砲兵少尉に進む。同年6月、台湾総督府属に転じ、総督官房文書課勤務となる。1931年(昭和6年)5月、同府地方理事官となり、新竹州竹南郡守に発令され、1934年(昭和9年)9月に同州内務部教育課長、1936年(昭和11年)10月に台北州内務部地方課長を経て、1937年(昭和12年)9月29日に基隆市尹に就任した。
片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明… 片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明治35年> 1月30日 - 1988年 <昭和63年> 10月11日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府福知山市出身。位階は従五位。 1923年に東京商科大学を卒業。1946年に京都銀行の前身である丹和銀行頭取に就任。1972年に相談役を経て、1980年には顧問に就任。 1988年10月11日急性呼吸不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
北山 淳友(きたやま じゅんゆう、1902年(明治35年)1… 北山 淳友(きたやま じゅんゆう、1902年(明治35年)1月29日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の仏教哲学者。マールブルク大学名誉教授。Ph.D(ハイデルベルク大学)。 静岡県志太郡焼津町(現・焼津市)出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1923年(大正12年)、宗教大学(大正大学の前身校の一つ)哲学科卒業。1924年(大正13年)、浄土宗より欧州留学を命じられ、ドイツのフライブルク大学に入学、エトムント・フッサールにインド哲学、サンスクリットをエルンスト・ロイマンに学ぶ。1927年(昭和2年)にハイデルベルク大学に移り、哲学をハインリッヒ・リッケルト、カール・ヤスパースに、インド哲学、チベット学をマックス・ワレーザーに学ぶ。
熊川 良太郎(くまかわ りょうたろう、1902年〈明治35年… 熊川 良太郎(くまかわ りょうたろう、1902年〈明治35年〉1月29日 - 1965年〈昭和40年〉8月8日)は群馬県出身の飛行家。後に群馬県議会議員。栗村盛孝と共に青年日本号を操り、日本からローマまでの欧州訪問飛行を成し遂げた。レオポルド2世勲章及びレジオンドヌール勲章受賞。 1902年(明治35年)1月29日、吾妻郡嬬恋村の大字今井にて農業を営む熊川澗八郎と母なほの長男として生まれる。弟が一人おり、家は代々上田藩士。元は藩主と同じ真田姓を名乗っていたが、後に熊川に移って姓も地名に合わせ改称したとされる。 勉学での立身を考えた良太郎は東京の学校への進学を望んでいたものの、父は許可を与えなかった。
勝 承夫(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 … 勝 承夫(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。 旧制中学時代から詩人として活躍。1920年(大正9年)に、正富汪洋の勧めで東洋大学に入学し、正富が主催する『新進詩人』に参加。宵島俊吉のペンネームで「白痴を誘って野に出て」などの作品を著し、中央文壇に登場する。 また在学中には、1921年(大正10年)に井上康文らと『新詩人』を、1923年(大正12年)に同大出身の赤松月船・岡村二一・岡本潤・角田竹夫らと『紀元』を創刊した。勝のこうした活動により、当時勝と同世代の詩人を志していた者の中では、東洋大学を志望する者が多かったと言われ、東洋大学は「詩・歌人大学」と呼ばれていた[要出典]。
東井金平(とうい きんぺい、1902年1月27日-?)は、日… 東井金平(とうい きんぺい、1902年1月27日-?)は、日本の農業経済学者。 石川県出身。慶應義塾大学経済学部卒。1959年「欧米における日本農業の研究」で慶大経済学博士。農林省農業総合研究所勤務。1962年『欧米における日本農業の研究』で日経・経済図書文化賞受賞。
春日井 秀雄(かすがい ひでお、1902年1月27日 - 1… 春日井 秀雄(かすがい ひでお、1902年1月27日 - 1986年1月11日)は日本の政治家。荒川区議(2期)、東京市議(2期)、東京都議(8期)、第22代都議会議長を歴任した。 1902年1月27日、岐阜県に生まれる。1934年に中央大学法学部を卒業。1936年から荒川区会議員を2期11年務める。また、1939年3月14日から1943年6月30日まで東京市会議員を務めた。1949年3月2日の東京都議会議員補欠選挙で荒川区選挙区より立候補して、初当選する。都議会では、決算委員会委員長(1951年から1952年)、東京都議会改進党政調会長(1953年から1954年)、東京都議会改進党幹事長(1954年)、日本民主党都議団幹事長(1954年から1955年)、都議会自民党幹事長(1958年から1959年)、財務主税委員会委員長(1962年から1963年)、都議会自民党幹事長(再任・1965年から1966年)を歴任した。
與賀田 辰雄(よがた たつお、1902年 <明治35年> 1… 與賀田 辰雄(よがた たつお、1902年 <明治35年> 1月27日 - 1986年 <昭和61年> 1月7日)は、日本の経営者。東京書籍社長を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1923年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に大蔵省に入省。1941年に凸版印刷取締役に就任し、1944年12月に常務、1953年7月に専務を経て、1967年9月には東京書籍社長に就任。1973年12月に会長に就任し、1978年12月に監査役を経て、1982年8月には相談役に就任。 1972年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1986年1月7日悪性リンパ腫のために死去。83歳没。死没日付をもって従六位から正五位に進階した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月… 蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月26日 - 1991年(平成3年)1月25日)は、日本の評論家である。ペンネームは古川荘一郎。駄じゃれが好きという一面もある。
李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日… 李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日 - 1992年10月26日)は、大韓民国の化学者。日本の植民地統治期には数少ない朝鮮人の博士号取得者・帝国大学教員の一人であった。 本貫は全州李氏。政治家の李会昌の伯父に当たる。 大韓帝国忠清南道礼山郡に生まれた。京城高等普通学校を経て1922年に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業。 1927年に京都帝国大学理学部(現在の京都大学理学部)化学科を卒業し、1931年に『還元ニッケルの存在に於ける一酸化炭素の分解』という論文で理学博士号を取得した。 その後、同大学で教鞭を執り、1935年には同大学化学研究所助教授、1938年にプリンストン大学に派遣され研究者として在職し、1941年に京都帝国大学に戻り量子化学を研究、1943年に化学研究所教授となった。
吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1… 吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1983年8月20日)は、日本の歴史学者、教育者。 新潟県柏崎市出身。1924年、慶應義塾大学文学部史学科卒。大学では幸田成友に師事。慶應義塾幼稚舎職員を1965年まで務める。幼稚舎長、慶大講師などを務め、東西交渉史などに業績を残す。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
五十嵐 丈吉(いからし じょうきち、1902年〈明治35年〉… 五十嵐 丈吉(いからし じょうきち、1902年〈明治35年〉1月26日 - 2013年〈平成25年〉7月23日)は、新潟県三条市在住だった長寿の男性。存命人物のうち日本における男性最高齢だった。 1902年(明治35年)1月26日、三条市で6人兄弟の長男として生まれた。 小学校を卒業後、農業で生計を立てる。病気がちだった妻のミテ(1973年に68歳で死去)や、孫の面倒をみるため50代で隠居。酒やたばこはせず、趣味の菊づくりに励み、左大腿部を骨折する91歳までは庭の松の木に登り、枝にはさみを入れていた。酢をよく使うため、長男はそれが長寿の秘訣ではないかと思うと語っていた。 2008年(平成20年)に特別養護老人ホーム「つかのめの里」に入所。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。
竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 -… 竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 - 1981年4月20日)は、日本の翻訳家、実業家、三笠書房創立者。東京府東京市深川区(現・東京都江東区)出身。 本所高等小学校卒業。正則英語学校、アテネフランセに通い英語、ドイツ語、フランス語を習得。 藤澤衛彦の主宰の雑誌『伝説』の編集に携わる。のち、梅原北明が企画し福山福太郎が創設した「文藝資料研究会」に参加し、雑誌『奇書』や「変態文献叢書」の編集を手がける。1930年には酒井潔らの協力をうけ「風俗資料刊行会」を設立し、雑誌『風俗資料』『デカメロン』らを編集刊行した。 そののち、哲学者三木清らのグループや、唯物論研究会との親交を重ね、1933年に妻富子と共に、社会科学書、ヨーロッパ・アメリカ文学の翻訳書の刊行を主とする、三笠書房を創立。
中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月2… 中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月25日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家・政治家。代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』など。詩人の中野鈴子は実妹、女優の原泉は妻。 福井県坂井市出身。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙され1934年に転向する。
鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 19… 鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 1991年9月14日)は、日本の陸上競技指導者。JOC名誉委員、日本陸連元理事長。栃木県出身。 郁文館中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、九州帝国大学農学部農業化学科卒業、1926年同大学法文学部中退。1932年、日本陸連の役員となり、1960年ローマ五輪の陸上競技総監督などを務め、同年日本陸連理事長。1969年日本体育協会アマチュア委員長に就任し、「アマチュア規定」制定に尽力したほか、1964年東京五輪組織委競技交通警備特別委員、ユニバーシアード組織委総務委員、第8回・第14回国際オリンピックアカデミー調査員、札幌冬季五輪式典委員、体協理事、COJO・JOC合同委員長などを歴任。
野村 幸祐(のむら こうすけ、1902年 <明治35年> 1… 野村 幸祐(のむら こうすけ、1902年 <明治35年> 1月25日 - 1991年 <平成3年> 4月27日)は、日本の経営者。山口放送社長を務めた。[要出典]位階は従四位。 山口県出身。広島高等師範学校を経て、1933年に広島文理大学史学科を卒業。朝鮮総督府、兵庫県、文部省で教学官や史学官を務め、広島文理大学事務官、広島高等師範学校教授、佐賀青年師範学校校長を歴任し、1949年4月に山口県教育委員会委員長に就任。1956年3月には県内初の民間放送局として設立されたラジオ山口(現在の山口放送)に入社し、社長に就任。1987年6月には会長に就任。会長在職中の1988年にはドキュメンタリーのディレクターとして評価の高かった磯野恭子の、民放初の女性取締役抜擢にも尽力した。
村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月2… 村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月25日 - 1966年(昭和41年)12月13日)は、昭和期の政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡乃万村長。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 愛媛県越智郡乃万村延喜(現今治市)で生まれる。今治中学校(現愛媛県立今治西高等学校)を経て、神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだが中退。今治市役所に入り、産業課長、土木課長などを務めた。その後、中華民国に赴き興亜院嘱託、山東省青島港建設事務所会計課長、青島埠頭 (株) 総務課長などを歴任した。 戦後、今治に引揚げ、乃万村長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に愛媛県第2区から民主党公認で出馬して初当選。
五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または… 五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または2月1日 - 1981年5月1日)は、日本の映画監督、脚本家、俳人。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督として有名である。本名は五所 平右衛門(ごしょ へいえもん)。俳号は五所亭。 東京市神田区鍋町(現・千代田区内神田3丁目)に、「豊前屋」という大店の乾物問屋を営む父・平助の妾腹の子として生まれる。生みの母は新富町で芸者をしていた。5歳の時に長男が亡くなり、母のもとを離れて後継ぎにされた。1916年に慶應義塾商工学校に入学する。学生時代には俳句に没頭していた。 1921年、歩兵第1連隊に志願入隊し、見習士官で予備となる。1923年、慶應義塾商工学校卒業後、城戸四郎との出会いがきっかけで、父の友人の息子である島津保次郎の口添えもあって、松竹蒲田撮影所へ入社する。
納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 199… 納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 1991年1月4日)は、日本の陸上競技(短距離走・中距離走)選手。 東京高等師範学校在学中の1920年代半ばに400メートル・800メートルの日本記録をたびたび更新、1924年パリオリンピックに両種目と十種競技で出場した。卒業後は福岡日日新聞社(のち西日本新聞社)に入社、1952年に九州一周駅伝を創設するなど、九州の陸上競技の振興に努めた。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に生まれる。筑後川やクリーク(水路)を泳いで遊ぶ少年時代を過ごし、中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)在学中には野球部・庭球部・徒歩部・剣道部で選手を務めるスポーツ万能ぶりを見せていたという。
金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月2… 金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月23日 - 1970年)は、中華民国、満洲国および大韓民国の教授、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は全州金氏。字は星光、号は竹山。父は旧韓末の正3品議官を務めた金精気。 咸鏡南道興南市生まれ、忠清南道天安郡出身。中央大学法学部、日本大学政治学部卒。北京大学政治科修了。北京基青付専・新京外国語専門学校教授を務めた。帰国後は1939年より天安で果樹園農場を経営し、そのまま解放を迎えた。その後は文化大学副理事長、大韓雄弁会中央委員、大韓国民党天安郡党委員長を歴任した。1948年の初代総選挙では天安郡選挙区に金を含めて10人が立候補したため、激戦で落選した。
田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994… 田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994年3月14日)は、日本の法学者。専門は憲法。同志社大学名誉教授。
中谷 治宇二郎(なかや じゅうじろう、1902年〈明治35年… 中谷 治宇二郎(なかや じゅうじろう、1902年〈明治35年〉1月21日 - 1936年〈昭和11年〉3月22日)は、日本の考古学者。筆名は中谷杜美。物理学者・中谷宇吉郎の弟。 1902年(明治35年)1月21日、中谷宇一の次男として石川県江沼郡片山津町(現・加賀市)に生まれる。中学生の頃は文学を志し、同窓生たちと発行した同人誌『跫音』に発表した小説「独創者の喜び」が芥川龍之介の目にとまったことがある。 1919年(大正8年)、小松中学校を卒業し、約1年間、作見村小学校で代用教員として奉職する。1920年(大正9年)に上京し、菊池寛の内弟子として身を寄せて新劇運動に参加し、1921年(大正10年)に金沢新報の記者としてシベリア出兵に従軍する。
前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月2… 前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。菊水旅館代表取締役。米子市議会議員。米子市観光協会会長。皆生温泉旅館組合組合長。 岡山県真庭郡(現・真庭市)出身。尋常小学校、高等小学校を卒業する。1918年(大正7年)、鳥取県米子市にて諸業に従事する。1937年(昭和12年)、菊水旅館を設立する。1949年(昭和24年)、有限に改組する。 米子市観光協会会長、皆生温泉旅館組合組合長、鳥取県観光連盟副会長、鳥取県旅館組合連合会副理事長、鳥取県中小企業団体中央会理事、鳥取県中小企業振興対策審議会委員、鳥取県労務対策協議会理事、米子労働基準協会理事・協会会長などをつとめる。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1月20日 - 1983年(昭和58年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期) 、清水市長(3期) 。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 静岡県出身。明治大学中退。沼津市議に二回当選し、副議長などを務めた。1946年(昭和21年)から1963年(昭和38年)まで衆議院議員を5期務めた (自民党)。 1965年(昭和40年)から清水市長を3期を務め、この間静岡県柑橘振興会長なども歴任。実業家としては東洋パイルヒューム管製作所会長なども務めた。
吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日… 吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日 - 1998年)は、日本の科学評論家。 石川県生まれ。東北帝国大学理学部卒、1934年九州帝国大学法文学部卒。戦後久留米大学教授、1959年「人の性格に関する脳波学的研究」で久留米大学より医学博士の学位を取得。定年退官後、九州産業大学教授。 数学、医学、哲学などで多くの一般向け著作をなした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)… 深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)1月18日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県半田市長(5期)などを歴任。 愛知県出身。1925年、早稲田大学専門部法律科を卒業し、その後、コロンビア大学、ソルボンヌ大学大学院で学んた。 愛知県半田農業学校講師、文部省嘱託、満州国外交部嘱託、満州炭鉱社員、富士産業農場長を務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙おいて大選挙区の愛知県第一区で日本自由党から出馬して当選。第23回総選挙(旧愛知2区)でも当選し、衆議院議員を連続二期務めた。この間、日本自由党総務、同渉外部副部長、同政調会鉱工業委員長、民主自由党常任総務などを務めた。
英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 19… 英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 1994年9月9日)は、日本の国際政治学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・1945年)(学位論文「中華民国に於ける列国の条約権益」)。慶應義塾大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。 東京生まれ。1926年慶應義塾大学法学部卒業。1945年「中華民国に於ける列国の条約権益」で東京帝国大学より法学博士の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1968年定年、名誉教授。1968-1972年日本国際政治学会理事長。1975年勲三等旭日中綬章受勲。 長男は医学博士の英清道(慶應義塾大学医学部卒)。次男は外交官の英正道(慶應義塾大学経済学部卒)。
篠原 虎一(しのはら とらかず、1902年(明治35年)1月… 篠原 虎一(しのはら とらかず、1902年(明治35年)1月14日 - 1980年(昭和55年)5月30日 )は、日本における西洋音楽黎明期のヴァイオリニスト、音楽教育者。指揮者としても活躍した。芳春院(まつ、前田利家正室)の生家・篠原家出身で、先祖は篠原長良(大学、前田利家の実子篠原長次の次男)に遡る。 1921年(大正10年)、金沢市で第1回演奏会を開く。大正時代に、イタリア人、フランチェスコ・フザリオ(ヴァイオリニスト・トリノ音楽院教授)、ロシア人、ミハエル・ウェックスラー(アウアー門下のヴァイオリニスト・サンフランシスコ音楽院教授)、昭和時代にはドイツ人、ウィリー・フライ(ヴァイオリニスト、16歳でメンデルスゾーン賞受賞・芸大教授)に師事。
渡辺 男二郎(わたなべ だんじろう、1902年(明治35年)… 渡辺 男二郎(わたなべ だんじろう、1902年(明治35年)1月14日 - 1980年(昭和55年)11月20日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選宮城県知事。 現在の広島県呉市出身。渡辺逸太郎の二男として生まれる。第三高等学校を卒業。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年5月、内務省に入省し、北海道庁属となる。 1929年8月、地方警視として青森県警察部勤務となる。さらに、山形県警察部、福井県警察部で勤務。1935年5月、地方事務官として三重県勤務となり、さらに東京府に移る。1939年4月、内閣東北局書記官に発令され、山口県経済部長、和歌山県内務部長、宮城県内務部長などを歴任。
仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月1… 仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月12日 - 1971年(昭和46年)2月10日)は、昭和期の外交官、教育者、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(2期)。在アフガニスタン日本大使を務めた。 千葉県海上郡、後の銚子市で生まれる。1919年(大正8年)銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を卒業。中央大学専門部法科で学ぶ。三井物産を経て、1922年(大正11年)外務省に入省し外務書記生に任官。1929年(昭和4年)10月、第38回高等試験外交科試験に合格。1930年(昭和5年)6月、アメリカ合衆国に派遣されクラーク大学で学ぶ。以後、外務属、外交官補、領事官補、外務事務官、領事、駐タイ国一等書記官、外務書記官、終戦連絡中央事務局連絡官などを歴任し、外務省政務局第四課長で退官した。
渡辺 要(わたなべ かなめ、1902年1月11日 - 197… 渡辺 要(わたなべ かなめ、1902年1月11日 - 1971年8月21日)は、日本の建築学者。
古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)… 古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)1月10日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。元朝鮮総督府柔道教官。 持ち前の怪力を武器に全日本選士権大会で優勝2度、準優勝1度の成績を残したほか昭和天覧試合にも2度出場した実績を有す、戦前を代表する柔道家の1人である。 1902年(明治35年)1月10日に栃木県芳賀郡益子町本沼に生まれる。中学は地元の栃木県立旧制真岡中学校(現・栃木県立真岡高等学校)に進学し、1920年(大正9年)に講道館へ入門すると翌21年(大正10年)には当時中学生としては珍しかった初段に列せられた。卒業後は柔道の専門家を志して大日本武徳会武道専門学校 (旧制)に進学。
山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 … 山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 - 1978年5月19日)は、1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。 東京・浅草生れ。祖父は宮大工、父は清水組(現・清水建設)の大工棟梁。1915年、親の反対に遭い府立一中(現 都立日比谷高校)入学翌日に退学を余儀なくされ、東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科大工分科入学(現 東京工大附属高校)。同期には横河工務所で構造技術者として活躍し、山口の代表作である日本歯科医学専門学校付属医院の構造設計も担当した田中正蔵らがいる。1918年、東京高等工業学校附属職工徒弟学校を卒業し、父の仕事を継ぐべく清水組(現:清水建設)に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属された。
宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – … 宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – 1997年12月20日)は、日本の経営者である。第二次世界大戦後の沖縄において沖縄機械製塩、大東糖業、琉球煙草、琉球セメントなど多数の企業を設立し、オリオンビールの具志堅宗精、国場組の国場幸太郎、大城組の大城鎌吉らとともに「沖縄財界四天王」に数えられる。その功績は「沖縄の産業復興の父」「戦後沖縄の混迷期脱出を象徴する代表的な経済人」などと評される。 宮城仁四郎は1902年(明治35年)1月10日に沖縄県国頭郡大宜味村字根路銘で、父・仁孝と母・ウシの間に生まれた。7人兄弟(4男3女)の末っ子であった。父の仁孝は建設業に従事しており、仁四郎は「当時としてはまずまずの生活を送っていた」と述べている。
田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 198… 田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 1983年11月12日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。高知県出身。 1925年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1928年に八幡製鉄所に入社した。1934年に日本製鉄を経て、1946年に日鉄鉱業に転じ、1947年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1963年11月から1967年11月までに社長を務めた。 1983年11月12日老衰のために死去。81歳没。
竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - … 竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - 1987年7月15日)は、日本の医師、性科学者、文筆家、翻訳家。 青森県出身。北海道帝国大学医学部卒。1933年「実験的腸閉塞論」で北大医学博士。今裕に師事。東京都立病院に19年間勤務。東京都立大塚病院副院長、城北診療所院長。医業のかたわら、戦後は性医学について多くの随筆的著作をなした。
青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年… 青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年5月6日)は、日本の経営者。東邦ガス社長。愛知県名古屋市出身。 1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。1930年4月に東邦ガスに転じ、同年10月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1964年8月に社長に就任。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。。 1978年5月6日急性心筋梗塞のために死去。76歳没。
2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日… 2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日 - 1962年11月22日)は、日本の実業家。玉塚證券社長・会長、日本証券業協会会長、東京証券取引所理事長を歴任。 東京市日本橋生まれ。旧姓は山崎。初代玉塚栄次郎の養子となり、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業、玉塚證券入社。玉塚證券社長・会長、玉塚不動産社長、日本証券業協会会長などを歴任。1955年から1957年まで東京証券取引所理事長を務めた。 1962年日本医科大学付属第一病院で胃癌のため死去。享年60。酒が飲めず、地味な性格で、夜の付き合いが苦手なため、敵がいないと評された。 玉塚證券で役員を務めた玉塚和男は子息。ローソン社長などを務めた玉塚元一は孫。