狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日… 狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日 - 1977年〈昭和52年〉3月10日)は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社取締役、スポーツニッポン新聞社社長。 群馬県群馬郡古巻村八木原(現・渋川市八木原)に生まれる。旧制高崎中学校を経て、1932年(昭和7年)早稲田大学法学部を卒業。福田赳夫は高崎中学校の同級。 大学卒業後毎日新聞記者となる。東京裁判の取材ではキャップとして活躍。中部本社編集局長、印刷局長、東京出版局長、東京編集局長を歴任し、1965年(昭和40年)取締役に就任。中部本社代表、西部本社代表、常務取締役も務める。 1971年(昭和46年)よりスポーツニッポン新聞社社長、1975年(昭和50年)同会長。
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 20… 浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。同じく版画家の南桂子は妻。本名は濱口 陽三(はまぐち ようぞう)だが、筆名としては新字体の「浜」を用いていた。 1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。生家の濱口儀兵衛家はヤマサ醤油の創業家であり、陽三は濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の三男である。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居した。 東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。
上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979… 上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979年2月13日)は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。 1909年、福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる。 1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する。 1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する。 1942年、騎手を引退。騎手成績1066戦160勝。 1946年、調教師免許を取得。 1951年10月14日、チャレンジカップのサチホマレで重賞初制覇。
佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 19… 佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 1986年12月13日)は、日本の政治家、官僚。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)、科学技術庁長官・通商産業大臣を歴任した。 秋田県河辺郡河辺町(後の秋田市)生まれ。秋田中学(後の秋田県立秋田高等学校)時代は野球部員として甲子園出場の経験がある。1933年東京帝国大学経済学部を卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部に配属される。その後興亜院に転じ、ここで大蔵省出身の大平正芳、農林省出身の伊東正義らと知り合い、第二次世界大戦後も「九賢会」と称する会合を持って交流を深めた。以後企画院、大東亜省、内閣調査局にて調査官を歴任した。 戦後の1947年、経済安定本部に転じ、初代経済復興計画室長として、傾斜生産方式による政策の遂行に辣腕を振るった。
岡原 昌男(おかはら まさお、1909年〈明治42年〉4月1… 岡原 昌男(おかはら まさお、1909年〈明治42年〉4月1日 - 1994年〈平成6年〉7月14日)は、日本の検察官、裁判官。第8代最高裁判所長官を務めた。位階は従二位。 最高裁長官としての任期は1年7か月とショートリリーフであったことは、衆目の認めるところであったが、大阪空港訴訟、ロッキード事件の嘱託尋問調書をめぐり、重要な役割を果たした。1979年4月29日、勲一等旭日大綬章受章。好きな言葉は「則天去私」(夏目漱石の言葉。小さい自分の心を超越して、宇宙の大きな道に従うこと)。 岡原が最高裁入りする少し前の八幡製鉄事件で政治献金を合法とした最高裁判所大法廷判決については、「企業献金は法律的には理屈が通らない。
筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1… 筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1948年11月20日)は、現在の茨城県稲敷郡河内町出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は加藤 清平(かとう せいへい)。身長170cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目(1933年5月場所)。得意技は突っ張り、右四つ、寄り、吊り。 千葉県立佐原中学校(現在の千葉県立佐原高等学校)を出て、錦島部屋に入門。1927年5月場所に初土俵を踏む。1932年5月場所に新十両、十両を2場所で通過後、1933年1月場所に新入幕。この場所、春秋園事件からの復帰力士たちと伍して7勝4敗の好成績を挙げ、翌場所は西前頭2枚目まで番付を上げたが3勝8敗に終わった。
新山 滋(にいやま しげる、1909年4月1日 - 1994… 新山 滋(にいやま しげる、1909年4月1日 - 1994年7月18日)は、日本の経営者。 和歌山県和歌山市出身。1927年に海草中学校を卒業し、同年に南海鉄道(南海電気鉄道の前身)に入社し、1959年6月に総務部長に就任した。その一方で、1964年10月から1974年10月までに南海ホークス球団社長を務め、1972年にはパ・リーグ理事長に就任した。 1994年7月18日、急性肺炎のために堺市の病院で死去。85歳没。
安井 琢磨(やすい たくま、1909年4月1日 - 1995… 安井 琢磨(やすい たくま、1909年4月1日 - 1995年12月17日)は、日本の経済学者、大阪大学名誉教授、東北大学名誉教授。経済学博士(1953年)。大阪府大阪市生まれ。
檜山 義夫(桧山 義夫、ひやま よしお、1909年(明治42… 檜山 義夫(桧山 義夫、ひやま よしお、1909年(明治42年)4月1日 - 1988年(昭和63年)7月21日)は、日本の水産学者。 東京出身。父は檜山鉄三郎、祖父は檜山金平。東京帝国大学農学部卒。1948年(昭和23年)「硬骨魚の新生殖法」で東大農学博士。1949年(昭和24年)東大農学部教授。1969年(昭和44年)定年退官、名誉教授。魚類生態学、漁業学、水産資源学。核実験による水産生物の放射能汚染を調査した。釣りや外国旅行に関する著作、子供向けの著作もある。 1951年(昭和26年)4月6日には、皇居に招かれ科学委員会合に出席。昭和天皇及び出席した委員を前に水産学概論、漁労論を進講する。
浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう、1909年3月31日 - 1… 浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう、1909年3月31日 - 1991年6月8日)は、日本の建築家。 岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)出身。岡山県第一岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校の一つ)、旧制第六高等学校を経て、1934年京都帝国大学工学部建築学科卒業後、倉敷レイヨン(現:クラレ)に入社し営繕関連部門に勤務。1962年、倉敷レイヨン内に同社社長で同郷の実業家大原総一郎の庇護のもとに倉敷建築研究所(現:浦辺設計の前身)を設立した。1964年に倉敷レイヨンを退社し倉敷建築事務所として独立、1966年に浦辺建築設計事務所と改称した。倉敷レイヨン時代から大原総一郎の構想する倉敷のまちづくりを建築家として支え、1968年の総一郎死去後も大原家や倉敷に関連する建築をはじめ多くの作品を残している。
松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1… 松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1980年9月15日)は、日本の美術史家。中世日本美術を主として扱った。
本林 譲(もとばやし ゆずる、1909年3月31日 - 19… 本林 譲(もとばやし ゆずる、1909年3月31日 - 1992年4月17日)は最高裁判所判事。弁護士。東京府出身。 松本高等学校文科乙類、京都帝国大学法学部卒業。1933年、父と同じ弁護士になった後、司法官試補として仙台地裁で勤務するも、1年後に父親が死去したことで再び弁護士に。 戦後、「食えないため」明大の講師をしたこともある。日弁連事務総長や法制審議会国際私法部会委員などを務めた。 1975年8月に最高裁判事に就任。就任時には「36年間、庶民の相談相手として養った感覚については、いささかの自負をもっています」「弁護士出身の裁判官として責任を感じます」と挨拶。 1979年3月に定年退官。 長男も弁護士で三代続く法曹一家。
西田 長男(にしだ ながお、1909年3月31日 - 198… 西田 長男(にしだ ながお、1909年3月31日 - 1981年3月28日)は、日本の神道学者、國學院大學名誉教授。 三重県出身。國學院大學卒。宮地直一に師事。戦前は大倉精神文化研究所研究員、東京帝国大学講師、戦後は國學院大學教授。1955年「日本宗教の発生に関する一試論」で國學院大文学博士。
鳥居 保治(とりい やすじ、1909年3月31日 - 199… 鳥居 保治(とりい やすじ、1909年3月31日 - 1996年3月9日)は、日本の実業家。三井石油化学工業(現在の三井化学)社長および会長を務めた。愛知県宝飯郡御津町出身。孫は植物学者の鳥居啓子。 旧制愛知県豊橋中学校、旧制第八高等学校を経て、1932年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、三井鉱山に入社した。1941年に三井化学工業に転じ、1954年に取締役に就任し、1969年に三井石油化学工業社長に就任。1977年に会長に就任し、1982年から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1996年3月9日狭心症のために東京都府中市の病院で死去。
貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 193… 貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 1937年11月17日)は、大阪府吹田市、大阪市都島区、兵庫県芦屋市出身の作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。 母の実家である大阪府三島郡吹田町(現:吹田市)の仙洞御料屋敷西尾邸に生まれる。父方の祖父は代々式部卿を務め、後にメリヤス業で成功した裕福な大商家である貴志彌右衛門(松花堂弁当の考案者)という環境で育つ。小学校5年生の時に、芦屋市に転居。14歳より、神戸市の深江文化村でミハイル・ヴェクスラーに直接ヴァイオリンを師事。音楽理論と作曲法を当時、宝塚交響楽団の指揮を務めていたヨーゼフ・ラスカより学ぶ。16歳の時に、大阪で、ヴァイオリニストとしてデビュー。
村上 信彦(むらかみ のぶひこ、1909年(明治42年)3月… 村上 信彦(むらかみ のぶひこ、1909年(明治42年)3月30日 - 1983年(昭和58年)10月31日)は、日本の作家、女性史研究家、医事評論家。 大衆作家村上浪六の三男として東京市下谷に生れる。「父浪六が手をつけようとした女中を救い出して父と義絶、その少女と結婚」したとされているが、このエピソードは彼の小説『音高く流れぬ』に登場するフィクションである。本小説は確かに村上本人とその周辺人物がモデルとなっており、村上の妻は女中として村上家に勤めていたが、エピソード自体は創作である。作中では女中に手を付けようとしたのも父ではなく叔父であり、主人公に父母はいない。村上が後年、彼の日記をもとに執筆したドキュメント小説『黒助の日記』にもこのエピソードはない。
星野 芳樹(ほしの よしき、1909年(明治42年)3月30… 星野 芳樹(ほしの よしき、1909年(明治42年)3月30日 ‐ 1992年(平成4年)5月31日) は、昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員(1期)。 東京府東京市小石川区(現文京区小石川)で、牧師星野光多の三男として生まれた。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を経て、静岡高等学校文科(現静岡大学)に進んだ。左翼運動に加わり、1931年(昭和6年)日本共産党に入党。1933年(昭和8年)検挙されて入獄し静岡高校を中退、1940年(昭和15年)恩赦で出獄した。同年、上海に渡り上海自然科学研究所員に就任。1941年(昭和16年)容海語学校を設立。さらに容海小学校、容海忠学校を設立し、在留日本人の指導的存在となった。
木原 通雄(きはら みちお、1909年〈明治42年〉3月30… 木原 通雄(きはら みちお、1909年〈明治42年〉3月30日 - 没年不明)は、日本の銀行役員、会社役員。みずほフィナンシャルグループ取締役兼執行役社長木原正裕、衆議院議員木原誠二は孫。 長崎県北高来郡諫早村(現・諫早市)出身。木原中三の長男。1933年、東京商大卒業。第一銀行に入る。1947年4月、安本に派遣され、長官高瀬荘太郎秘書となり同年6月同行に復帰し、丸ノ内支店長代理に就任、同支店次長、京都支店次長、一宮支店開設準備委員長、一宮支店長、外国部次長、有楽町丸ノ内各支店長を歴任する。 1956年11月、厚生部長に転じ、1958年3月、宇都宮支店長。1960年11月、人事部長。1962年4月、福岡支店長、同年5月取締役に就任。
関 四郎(せき しろう、1909年3月29日 - 1990年… 関 四郎(せき しろう、1909年3月29日 - 1990年12月12日)は日本の電気技師。国鉄常務理事、明電舎社長、鉄道技術協会会長、電気学会会長などを務めた。ペンネーム芝山 倉平(しばやま くらへい)による探偵小説「電気機関車殺人事件」の作者としても知られる。 北海道札幌市生まれ。北海道帝国大学工学部卒。国鉄で技師を務めていた。1943年(昭和18年)に「国有鉄道1万キロ電化の提唱」を発表するなど国鉄の電化の必要性を強く訴えたが、戦時下にあって鉄道電化は遅々として進まなかった。終戦間もない1945年9月には上越線電化に向けて活動を開始。人材、食料、資材、資金が極度に不足する中で、1947年(昭和22年)4月には上越南線(高崎~水上間)、同10月には上越北線(石打~長岡間)の電化を完成させた。
花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月2… 花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月23日)は、作家・文芸評論家。巧みなレトリックを駆使した文体を特徴とし、映画や演劇の評論も多く手がけ、日本のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であった。 1909年3月29日、福岡県福岡市東公園に生まれ、一人っ子として育つ。先祖は毛利輝元であり、清輝の曽祖父は黒田藩の右筆で、名前には代々「輝」の字を付ける習いだった。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)時代は柔道に熱中し、また父ともに短歌を新聞等に投稿していた。 1926年4月、鹿児島の第七高等学校甲類に入学、西田哲学に没入、また寮誌『白光』を創刊し長編詩「樹下石上」などを発表。
坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1… 坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1999年)は、日本の医師、軍医。 熊本県玉名郡梅林村(現・玉名市)に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1927年卒業)を経て、熊本医科大学を卒業した。 1937年7月には上海に派遣され患者輸送部隊の医師として、負傷した兵士を野戦病院から後方へ送る仕事に従事した。太平洋戦争開戦後は軍医として徴兵され、マレー作戦に従軍し、1942年秋まで占領地を移った。 戦後は福岡県大牟田市の三井三池鉱業所病院に勤め、定年退職後に開業医となった。1952年に熊本大学より医学博士号を取得している。1975年には『肥後の子供歳時記』を刊行した。
石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)… 石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)3月28日 - 1990年(平成2年)8月3日)は日本の作家。本名は石野 朝和。もとは高江洲朝和であったが、石野へ改姓し、筆名は径一郎とした。 代表作は沖縄戦を題材にした『ひめゆりの塔』で、戯曲化・映画化もされた。また、直木賞候補にもなった対馬丸事件を描いた『沖縄の民』や『残波岬の決闘』などもある。 沖縄県首里区寒川町(現那覇市)で首里士族の両親のもとに、高江洲家8代目として生まれる。9歳の時に母が亡くなり、祖父の住む真和志村古島に移る。1921年に旧制沖縄県立第一中学(現沖縄県立首里高等学校)入学。14歳の時に古島の中学生翁長助静(のち真和志市長)、内間安清、平良良松らと同人誌『はるがん(原神)』を発行。
小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - … 小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - 1988年4月23日)は、日本の俳優、演出家。
金 柄淳(キム・ビョンスン、朝鮮語: 김병순、1909年3月… 金 柄淳(キム・ビョンスン、朝鮮語: 김병순、1909年3月26日または1910年3月26日 - 1973年3月5日)は、大韓民国の畜産官僚、政治家。元大韓獣医師会会長、第3・4・6・7代韓国国会議員。 漢字表記は金炳淳とも。 全羅南道海南郡出身。麻布獣医畜産専門学校卒。京畿道・忠清北道産業技手、雑誌『畜産農村』発刊人を経て、1945年から慶尚南道農産局畜産課技師、朝鮮農会事業部長・畜産部長、大韓農会畜産部長、農林部農林委員、大韓畜産同業組合連合会副会長・会長、大韓農民会常務委員、大韓獣医師会会長、畜産農村社社長、自由党中央委員・海南甲区委員長、民主共和党中央常任委員・中央政策審議会委員・全南第14地区党委員長・政策審議委員会副議長、大韓畜産振興会会長を務めた。
平林 忠雄(ひらばやし ただお、1909年3月26日 - 1… 平林 忠雄(ひらばやし ただお、1909年3月26日 - 1979年3月4日)は、日本の経営者。田辺製薬(現在の田辺ファーマ)社長を務めた。長野県出身。 1934年に大阪商科大学を卒業し、大倉高等商業学校で講師を務め、大日本油脂での勤務を経て、1940年10月に田辺製薬に入社し、同時に監査役にも就任。 1948年1月に取締役、1955年9月に代表取締役、1956年6月に専務を経て、1963年8月には社長に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1979年3月4日肺炎のために死去。69歳没。
小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25… 小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25日 - 2006年〈平成18年〉3月2日)は、日本の銀行家。三井銀行(現:三井住友銀行)の社長、会長を歴任した。位階は従三位。 群馬県新田郡鳥之郷村(現・太田市)に、大島戸一の五男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学経済学部卒業。三井銀行に入行。 三井銀行では数寄屋橋丸の内支店長などを経て1955年(昭和30年)総務部長、さらに1959年(昭和34年)取締役となり東京支店長に就任。1961年(昭和36年)大阪支店長を兼任して大阪事務所長委嘱、1963年(昭和38年)常務取締役となる。
戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1… 戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1988年3月24日)は、日本の評論家、能・狂言の評論家。 東京生まれ。旧制早稲田中学を経て早稲田大学国文科卒。 1933年、中央公論社に入社するが、その年のうちに退社。1948年、天皇制と能楽の関係を説いた『能芸論』を上梓、民俗学、人類学を援用した能や狂言の考察で知られた。1954年より毎日新聞の能評を担当、のち映画評もおこなった。『戸井田道三の本』4冊がある。「きものの思想」で第17回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
江川 昇(えがわ のぼる、1909年(明治42年)3月25日… 江川 昇(えがわ のぼる、1909年(明治42年)3月25日 - 2013年(平成25年)1月20日)は、日本の政治家。金沢市長を3期12年務めた。 石川県金沢市出身、石川県農学校(現・石川県立翠星高等学校)卒業後石川県庁に入庁。金沢市助役を15年務めた後、1978年12月1日、岡良一の病気辞任に伴う金沢市長選挙に当時の主要全政党(自民・社会・公明・民社・共産・新自由クラブ・社民連)の推薦を受けて立候補、無投票で初当選。1982年11月21日、自民・社会・公明・民社の推薦、共産の支持を受け、再選を果たす。1986年11月16日、自民・社会・公明・民社の推薦を受け、共産推薦候補を破り三選。1990年8月14日、3期限りで引退することを表明した。
岡本 経一(おかもと きょういち、1909年3月25日 - … 岡本 経一(おかもと きょういち、1909年3月25日 - 2010年11月15日)は、日本の出版人。岡本綺堂の養子。青蛙堂書房創業者。 岡山県勝田郡勝間田町出身、旧姓は森部。 13歳で上京。1924年に額田六福の紹介で作家・岡本綺堂の書生となり、専検(専門学校入学資格検定試験)をとって法政大学の夜学に通う。1930年、法政大学高等師範科(国漢)卒業。 就職できず、綺堂監修の戯曲誌『舞台』の編集手伝いののち、三上於菟吉と改造社の編集者・塩谷晴如が興した出版社「サイレン社」に入り、三上の妻である長谷川時雨の編集担当として時雨の『草魚』や『近代美人伝』を手掛けた。同社は三上が経営から退いたことから経営難となり、塩谷が大衆本出版に手を出したが失敗、健一はその後始末に追われた。
栃沢 助造(とちざわ すけぞう、1909年(明治42年)3月… 栃沢 助造(とちざわ すけぞう、1909年(明治42年)3月25日 - 1989年(平成元年)11月10日)は元日本放送協会(以後NHK)専務理事。 1909年(明治42年)3月25日富山県黒部市で生まれる。1933年(昭和8年)に法政大学を卒業する。 逓信省の勤務を経て、NHKに入局する。NHK名古屋中央放送局長、NHK経理局長などを経て、1963年(昭和38年)からNHK専務理事に就任する( - 1965年(昭和40年))。 1989年(平成元年)11月10日に死去、80歳。 1975年(昭和50年)に藍綬褒章を受章し、1980年(昭和55年)に勲三等瑞宝章を受章する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
戸田 義郎(とだ よしろう、1909年3月24日 - 199… 戸田 義郎(とだ よしろう、1909年3月24日 - 1999年11月21日)は、日本の経営学者。第6代神戸大学学長。初代日本簿記学会顧問。 大阪市西区新町通の商家の二男として生まれる。大阪市立西六尋常小学校(のちの大阪市立堀江小学校)を経て、1927年大阪大倉高等商業学校(のちの関西大倉高等学校)首席卒業。4年先輩にはのちに神戸大学で同僚となった保険論の白杉三郎がいた。 1930年神戸高等商業学校第3学年修了。1933年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。平井泰太郎ゼミ出身。また在学中古林喜楽の指導も受けた。丹波康太郎は平井ゼミの同期。 同年東亜同文書院講師。同年同教授。1939年東亜同文書院大学予科教授。
平林 愛国(ひらばやし あいこく、1909年3月24日 - … 平林 愛国(ひらばやし あいこく、1909年3月24日 - 1968年10月8日)は、日本のボクサー。 明治大学在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックの男子ウエルター級に出場し、1回戦でドイツのエーリッヒ・カンペ(ドイツ語版)に敗れた。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
末吉 利雄(すえよし としお、1909年(明治42年)3月2… 末吉 利雄(すえよし としお、1909年(明治42年)3月23日 - 1995年(平成7年)12月31日)は、日本の政治家。第17代鹿児島市長。 鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島工業学校(現:鹿児島県立鹿児島工業高等学校)を卒業し、日本専売公社に勤務する。1951年から鹿児島県議を連続4期務める。また、1960年には日本社会党鹿児島県本部委員長となり、7期務める。 1967年鹿児島市は谷山市を合併し、新鹿児島市が発足した。合併直後の市長選に革新系から立候補し、保守系の現職の三ッ井卯三男と一騎討ちとなった。末吉は「市民との対話」を訴え、選挙戦を進め、現職を破って当選、平瀬實武以来の革新市長の誕生となった。
坪井 与(與)(つぼい あたえ、1909年3月23日 - 1… 坪井 与(與)(つぼい あたえ、1909年3月23日 - 1992年3月31日)は、日本の映画プロデューサー。満映娯民映画所長、東映専務取締役、東映化学工業社長。
氏田 良隆(うじた よしたか、1909年(明治42年)3月2… 氏田 良隆(うじた よしたか、1909年(明治42年)3月22日 - 没年不明)は、日本の政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(4期)。 新潟県出身。1923年、加茂村(のち両津市、現・佐渡市)立尋常高等小学校卒。1933年、加茂村役場書記となり、のちに白瀬水電(株)に入り、会計課長となった。戦後の1947年、加茂村議会議員に当選、議長を務めた。1951年、加茂村長となる。1954年、加茂村は合併により、両津市が発足。合併後の市長選挙に立候補し、当選する。1958年に再選し、1962年は出馬しなかった。この間、新潟東観光(株)取締役、佐渡汽船(株)監査役を歴任した。4年後の1966年に両津市長に復帰、1970年に再選し、市長を1974年まで務めた。
小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993… 小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993年6月11日)は、日本の数学者。 東京府生まれ、長野県育ち。父は教育者の小松武平、兄は哲学者の小松摂郎。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校)卒、旧制松本高等学校(現:信州大学人文学部・理学部)卒、1932年東京帝国大学理学部数学科卒、1941年「複体の変換論」で大阪帝大理学博士。大阪帝国大学助教授をへて、京都大学理学部教授、1973年定年退官、名誉教授となる。専門は位相幾何学。
佐賀 潜(さが せん、1909年〈明治42年〉3月21日 -… 佐賀 潜(さが せん、1909年〈明治42年〉3月21日 - 1970年〈昭和45年〉8月31日)は日本の小説家、推理作家、検察官、弁護士。本名は松下幸徳。 東京生まれ。筆名の由来は、父親を含め先祖代々佐賀鍋島藩の出身であることと、「探せん」の意味を懸けたもの。 中央大学法学部在学中、司法試験に合格。大学を卒業し司法修習を終え、各地の地方検察庁(当時は地方裁判所検事局)で検事を務める(1946年11月までの約10年間)。なお、著書である『刑法入門』の中で、検事時代の1944年に長崎刑務所浦上支所で死刑が執行された際に、担当でもないのに興味本位で立ち会った体験を明かしている。 その後は弁護士事務所を開業。
佐田 徳平(さた とくへい、1909年(明治42年)3月20… 佐田 徳平(さた とくへい、1909年(明治42年)3月20日 - 1933年(昭和8年)12月17日)は、山梨県生まれ、名古屋育ちの日本の競泳選手。 1928年アムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレー銀メダリスト。 山梨県南巨摩郡八日市場村(現:山梨県南巨摩郡身延町八日市場)で電気技師だった佐田多一、妻ちよの長男として生まれる。父の仕事の関係で転居を重ねた。佐田家の実家は富士川にほど近く、夏休みに帰郷した際には急流の中を泳ぐなど幼少より水に親しんでいた。 父の仕事で転居した名古屋の愛知水泳協会に所属し活躍する。旧制富田中学(現:三重県立四日市高等学校)卒業後、明治大学に進み、水泳部主将を務めた。
木村英夫(きむらひでお、明治42年3月20日 - 平成13年… 木村英夫(きむらひでお、明治42年3月20日 - 平成13年8月22日)は、日本の造園系都市計画家。日本都市計画学会名誉会員。都市計画学会はもとより,日本造園学会の名誉会員さらに日本造園修景協会の会長や顧問をつとめたほか,審議会関係では,歴史風土審議会,埼玉県都市計画審議会,群馬県都市計画審議会に関係し、活動の足跡を残す。また東京農業大学造園学科,東洋大学工学部,東京大学農学部や国土建設学院の非常動講師も歴任。 技術士。 戦時中は皇紀2600年記念事業に関係した神都計画や神宮関係施設等の計画,東京緑地計画に続く戦時体制下での防空を含む総合都市計画、戦後は戦災復興事業,昭和31年に制定された都市公園法の運用に当たり、埼玉県時代は江戸川の改修事業に関連した土地区画整理事業,国道17号バイパス計画,県立自然公園指定に尽力し1964年東京オリンピック関連施設計画でも力量を発揮。
田辺 三郎(たなべ さぶろう、1909年3月20日 - 19… 田辺 三郎(たなべ さぶろう、1909年3月20日 - 1987年9月15日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 東京都出身。1929年に東京高等工業学校窯業学科を卒業し、同年に伊奈製陶に入社した。1948年9月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1963年12月に専務、1967年12月に副社長を経て、1968年10月に社長に就任した。1976年1月に会長を経て、1980年1月に相談役に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章し、1980年5月に勲三等瑞宝章を受章した。 1987年9月15日、心不全のため死去した。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小西 健一(こにし けんいち、1909年(明治42年)3月2… 小西 健一(こにし けんいち、1909年(明治42年)3月20日 - 1986年(昭和61年)3月20日)は、日本のフィールドホッケー選手、スケート指導者。 朝鮮の咸興市で生まれた。1932年、早稲田大学経済学部を卒業した。 1932年、日本のフィールドホッケーチームのメンバーとして、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し銀メダルを獲得した。彼はフォワードとして2試合に出場した。 1933年、大日本スケート競技連盟(現日本スケート連盟)理事、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)理事に就任。1972年札幌オリンピックの日本スケート代表チームの選手強化本部長を務めた。 その他、日本アイスホッケー連盟参与、日本スケート連盟参与、小西産業社長などを務めた。
小松 多喜雄(こまつ たきお、1909年(明治42年)3月2… 小松 多喜雄(こまつ たきお、1909年(明治42年)3月20日 - 1982年(昭和57年)8月4日)は、昭和期の実業家、政治家。塩尻市長(初代)。位階は正六位。勲四等旭日小綬章。 長野県東筑摩郡塩尻村(塩尻町を経て現塩尻市)で生まれた。1922年(大正11年)旧制松本商業学校5年次中途退学。家業の運送業に従事。1928年(昭和3年)から鉄道小運送業に従事(美勢運送合資会社勤務)し、1941年(昭和16年)から貨物自動車業を営む(塩尻陸運取締役)。1944年(昭和19年)5月、中信興業代表取締役に就任。1946年(昭和21年)に小松組(信州急送などを経て現信州名鉄運輸)を創業し、長野県内におけるトラック運送業の先駆けとなる。
川副国基(かわぞえ くにき、1909年3月18日―1979年… 川副国基(かわぞえ くにき、1909年3月18日―1979年)は、日本近代文学者、早稲田大学名誉教授。 長崎県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。78年定年退任。
鈴木 恭二(すずき きょうじ、1909年3月18日 - 19… 鈴木 恭二(すずき きょうじ、1909年3月18日 - 1998年5月3日)は、日本の実業家。味の素創業家三代目鈴木三郎助の娘婿で、同社代表取締役社長を務めた。京都の政財界に君臨した田中源太郎の孫。 田中源太郎の長男・一馬(貴族院議員・京都織物株式会社会長)の子として京都市に生まれる。東京帝国大学法学部政治科卒業後、第一銀行(現みずほ銀行)入行。1938年鈴木商店(現味の素)入社。1948年取締役に昇格。1949年常務取締役。1959年副社長。1965年から第5代社長務め、「大企業病」の打破を訴え、組織改革などにあたった。1968年藍綬褒章を受章。1973年会長に就任。1975年監査役。次女の睦子はヒゲタ醤油代表の浜口勝久(12代浜口吉右衛門)に嫁ぐ。
久保 伊津男(くぼ いつお、1909年3月16日 - 196… 久保 伊津男(くぼ いつお、1909年3月16日 - 1968年4月10日)は、日本の動物学者、海洋生物学者。東京水産大学教授。水産動物資源学を研究し、クルマエビの権威だった。 鹿児島県日置郡東市来村(現・日置市)出身。1928年錦城中学校卒業。1934年水産講習所本科養殖科を卒業、翌月講習所助手となる。1945年5月22日、理学博士の学位を修得(北海道帝国大学審査)。論文は「本邦およびその近海産車蝦科蝦類の研究」。 1952年東京水産大学教授に就任。1955年日本水産学会賞を受賞。1968年4月10日、教授会の最中に心筋梗塞のため死去。
井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 … 井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、大阪府出身の小説家。 大阪府西成郡中津町(後の大阪市東淀川区。その後大淀区を経て現・北区)生まれ。本名は友一。 商業学校在学中、野球と小説乱読で学業を怠け、そのために中退し、その後各中学を転々とする。1929年、関西大学第二商業学校を卒業し、1930年に早稲田大学専門部法科入学。1931年『森林公園』を発表して川端康成に認められる。また坂口安吾、田村泰次郎らとの同人誌『桜』で活動し、1934年「道化者」を発表。 1936年、早稲田大学仏文科卒業。同年「人民文庫」に参加。 「都新聞」記者となり、1938年特派員として中国戦線に従軍した。
秋山 博(あきやま ひろし、1909年3月15日 - 199… 秋山 博(あきやま ひろし、1909年3月15日 - 1990年4月11日)は、日本の電気工学・半導体物理学者。工学博士。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。 専門は、半導体物理学・電磁気学。 愛媛県今治市出身。東京帝国大学工学部卒業。1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任し、電気工学教室を担当。その後、同学部電気工学科教授を経て、1973年大阪工業大学名誉教授。 大阪工業大学工学部電気工学科にて20年以上の長きに渡り教鞭を執り、大学初期の半導体物理学(のちの半導体工学)・電磁気学の研究育成に貢献した。 主な所属学会は、電気学会、日本物理学会、応用物理学会など。
菊池 真一(きくち・しんいち、1909年3月15日 - 19… 菊池 真一(きくち・しんいち、1909年3月15日 - 1997年2月15日)は、応用化学・物理化学・電気化学、特に写真化学の化学者である。東京写真大学(東京工芸大学)の学長として著名なほか、写真界において天然色写真の研究者(日本写真協会会長)、またフランス語学者として「仏和理工学辞典」の編纂に携わり、日仏理工科会の功労者・日仏工業技術会設立者(1954年設立)としても著名であり、新制の「東京工芸大学」の工学部と短期大学部の綜合化と同学部の芸術学部化の発展功労者でもある。 愛媛県出身。暁星中学校・高等学校卒、アテネ・フランセ卒。東京帝国大学工学部応用化学科を1933年卒。東京帝国大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程を1936年卒。
清元 寿國太夫(きよもと じゅくにだゆう、1909年3月13… 清元 寿國太夫(きよもと じゅくにだゆう、1909年3月13日 - 1998年12月6日)は、清元節の太夫。本名、新野剛一。東京都墨田区出身。
古賀 杉夫(こが すぎお、1909年(明治42年)3月12日… 古賀 杉夫(こが すぎお、1909年(明治42年)3月12日 - 1996年(平成8年)8月27日)は、昭和時代の政治家。福岡県柳川市長(5期)。 福岡県三潴郡久間田村(現柳川市)出身。 1938年(昭和13年)満州国政庁役員に就任。 1943年(昭和18年)満州国興安省参事官。 1956年(昭和31年)福岡県大川市助役。 1959年(昭和34年)柳川市長就任、以後1979年(昭和54年)までの5期連続で柳川市長に就任する。