栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月… 栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月26日 - 1977年〈昭和52年〉11月21日)は、日本の皮膚科学者、皮膚科医。医学博士。大阪医科大学名誉教授、日本皮膚科学会名誉会員。趣味は蝶の収集。 新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現 新潟市南区西白根)の白根尋常高等小学校訓導・栗原九十九の長男として出生。1908年(明治41年)4月の父の吉田尋常高等小学校への異動に伴って新潟県西蒲原郡吉田村(現 燕市)に転居。 吉田尋常高等小学校を経て、1921年(大正10年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1930年(昭和5年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。
山県 四郎(やまがた しろう、1902年12月26日 - 1… 山県 四郎(やまがた しろう、1902年12月26日 - 1989年8月2日)は、日本の経営者。三菱金属鉱業社長、会長を務めた。山口県出身。 1927年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1950年4月に太平鉱業取締役に就任し、1956年6月に三菱金属鉱業常務を経て、1960年3月には社長に就任。1967年5月に会長に就任し、1971年11月には相談役に就任。1971年11月から1983年6月までには三菱原子力燃料社長を務め、日本鉱業協会会長も務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章。 1989年8月2日心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25… 桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25日 - 1969年〈昭和44年〉7月28日)は、日本の外交官・文筆家。外交官としてはエジプト王国代理公使などを勤めた。外務省内にあって日独防共協定締結に反対し、太平洋戦争の無条件降伏による敗戦を予見して講和による終結を唱えたことで知られる。戦後は外務省を退官し在野で著述活動を行った。 群馬県利根郡川場村門前に生まれる。川場村尋常小学校を経て、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)から第一高等学校に進み、東京帝国大学法学部に入学。1924年高等文官試験外交科、翌1925年同行政科に合格。 1926年に外務省入省。イタリアや青島で在勤の後、1936年に公使館三等書記官としてアフガニスタンに赴任。
彦坂 忠義(ひこさか ただよし、1902年12月25日 - … 彦坂 忠義(ひこさか ただよし、1902年12月25日 - 1989年3月27日)は、日本の原子核物理学者。新潟大学名誉教授。愛知県渥美郡老津村(現・豊橋市)出身。理学博士(東北大学、1950年)。 長男は社会評論家、翻訳家、社会運動家の彦坂諦。四男は物理学者の彦坂正道。岳父(妻の父)は西洋史学者の阿刀田令造。 愛知県出身。旧制愛知県立第四中学校を経て、旧制第二高等学校を卒業後、1923年に東北帝国大学理学部物理学科に入学した。1926年に同大学を卒業し、当時の同大学教授高橋胖のもとで助手を務めた。1934年に原子核の内部構造を提唱し、当時広く考えられていたニールス・ボーアの液滴模型とは異なった今日殻模型と呼ばれるものに近い模型を発表したが、広く受け入れられることはなかった。
玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1… 玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1964年12月10日)は、日本の海軍軍人。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月25日愛媛県で玉井熊太郎の息子として生まれる。松山中学卒業後、1921年海軍兵学校52期に入学、1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生。1925年(大正14年)12月、海軍少尉任官。1927年12月中尉。1929年(昭和4年)11月飛行学生第19期生卒業、大村航空隊付。 1930年11月空母「赤城」乗組。1930年12月海軍大尉。1931年10月空母「加賀」乗組。1932年11月横須賀航空隊付。1934年2月空母赤城分隊長。
外村 繁(とのむら しげる、1902年〈明治35年〉12月2… 外村 繁(とのむら しげる、1902年〈明治35年〉12月23日 - 1961年〈昭和36年〉7月28日)は、日本の小説家。本名は外村 茂(とのむら しげる)。東京帝国大学経済学部卒。出自である近江商人の世界を客観的に描いた『草筏』で注目され、『筏』『花筏』と共に長編三部作を成して高く評価された。『落日の光景』『澪標』は私小説の極致と評される。 滋賀県神崎郡南五個荘村金堂(現・東近江市五個荘金堂町)出身。金堂は近世から近代にかけて近江商人発祥地として栄えた土地である。外村家も江戸時代から代々続く木綿問屋で、茂は外村吉太郎の三男として生まれ、保守的な環境で育つ。滋賀県立膳所中学校卒業。第三高等学校文科甲類卒業。
伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月2… 伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月22日 - 1955年(昭和30年)3月17日)は、日本の華族、造園家、園芸家。吉田伊達家12代当主。旧名は定(さだ)。 東京生まれ、子爵伊達宗定の二男で、前当主の子爵伊達宗起の弟。伊達定清、伊達定継の父。 1925年(大正14年)東京農業大学本科卒業後、匠生として宮内省内匠寮工務課庭園係に勤務した。1929年(昭和4年)に宮内技手補、次いで1933年(昭和8年)宮内技手となった。 1934年(昭和9年)9月20日に分家したが、兄宗起が1940年に34歳で死去したことに伴い本家に復籍し、1941年(昭和16年)6月16日に子爵を襲爵した。
馬場 元治(ばば もとはる、明治35年(1902年)12月2… 馬場 元治(ばば もとはる、明治35年(1902年)12月21日 - 昭和43年(1968年)6月23日)は、昭和時代の政治家、弁護士。自由民主党の衆議院議員で建設大臣を務めた。正三位勲一等瑞宝章。長崎県南高来郡南串山村出身(現雲仙市)。旧制長崎中学、第五高等学校、東京帝国大学法学部卒。三男は英国在住の俳優、トーゴ イガワ。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
出羽ヶ嶽 文治郎(でわがたけ ぶんじろう、1902年12月2… 出羽ヶ嶽 文治郎(でわがたけ ぶんじろう、1902年12月20日 - 1950年6月9日)は、山形県南村山郡(現:山形県上山市)出身の元大相撲力士。本名は斎藤 文次郎(さいとう ぶんじろう)(旧姓:佐藤)。
山田 雄三(やまだ ゆうぞう、1902年12月20日 - 1… 山田 雄三(やまだ ゆうぞう、1902年12月20日 - 1996年5月25日)は、日本の経済学者(理論経済学)、一橋大学名誉教授。社会保障研究所長、国民年金審議会会長等を歴任。池田内閣の所得倍増計画に参画した。 山梨県出身。1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。福田徳三門下。1929年同助手、1934年同予科教授、1935年助教授、1941年教授。1944年東京商科大学附属図書館長。1949年から1963年までは東京経済大学教授を兼任。一橋大学教授、1955年一橋大学経済学部長。66年定年退官。社会保障研究所(現国立社会保障・人口問題研究所)初代所長。96年従三位。 1951年「日本国民所得推計資料」は国民所得分析の先駆的業績。
最上 英子(もがみ ひでこ、1902年〈明治35年〉12月1… 最上 英子(もがみ ひでこ、1902年〈明治35年〉12月19日 - 1966年〈昭和41年〉10月16日)は、昭和時代の日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。旧姓は石山。 1902年(明治35年)長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)に、石山紀久・春の長女として生まれる。1920年(大正9年)和洋女子学院(現・和洋女子大学)卒業。同年9月『萬朝報』記者だった最上政三と結婚。 政三は群馬県群馬郡室田町(現・高崎市)の出身で、1930年(昭和5年)に立憲民政党から衆議院議員に初当選した。英子は夫の応援演説に立ち、高崎市内の劇場の床が抜け落ちてしまうほどの人気を博した。夫は政界でのキャリアを積んでいったものの、戦後公職追放に遭う。
高橋 進太郎(たかはし しんたろう、1902年12月18日 … 高橋 進太郎(たかはし しんたろう、1902年12月18日 - 1984年6月5日)は、戦後昭和期の日本の政治家。参議院議員(3期)、行政管理庁長官(第20代)、宮城県知事(公選第7代)。 1902年(明治35年)生まれ、現白石市出身。1928年(昭和3年)、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業した。高等文官試験に合格し、1936年(昭和11年)からはパラオ諸島コロールにあった南洋庁において、拓殖部長として南洋諸島の行政に関わった。拓務省企画課長、大東亜省行政課長などを歴任。 南洋諸島では1943年(昭和18年)12月から日本本土への帰還が始まり、海外移住組合連合会がそれを担っていたが、1944年(昭和19年)2月17日、18日のトラック島空襲や3月30日、31日のパラオ大空襲を受けて、同年4月に大東亜省が「財団法人南洋群島共助義会」を設立し、帰還を担当させた。
高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年(明治35年)12… 高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年(明治35年)12月18日 - 1989年(平成元年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(自民党)、山口県徳山市長、徳山大学(現周南公立大学)初代理事長。 次男は数学者でお茶の水女子大学名誉教授の高村幸男(こうむら ゆきお、1931年8月13日 - 2009年3月21日)、四男は衆議院議員・元外務大臣の高村正彦。 山口県熊毛郡三井村(現光市三井)の農家に生まれる。農業・高村宇佐吉、キチの四男。父・宇佐吉は大工の棟梁でもあり、村会議員もしていた。 1917年(大正6年)、三井尋常高等小学校高等科卒業。「おまえは商人になれ」という父親の言いつけに従って厚狭郡船木町にある酒、醤油の醸造と呉服店を営む蔵重商店の別家に見習い奉公人として住み込む。
近藤 尚之(こんどう ひろゆき、1902年(明治35年)12… 近藤 尚之(こんどう ひろゆき、1902年(明治35年)12月18日 - 1970年(昭和45年))は、日本の政治家。初代鳴門市長。 旧板野郡撫養町出身。1920年(大正9年)、徳島県立撫養中学校(現在の徳島県立鳴門高等学校)卒業。1927年(昭和2年)、製塩業に従事し1939年(昭和14年)に徳島県塩業組合幹事に就任。 1942年(昭和17年)、旧撫養町議会議員に当選。1947年(昭和22年)に鳴門市が誕生し初代市長に就任する。1951年(昭和26年)に退任し、その後は徳島県人事委員会委員となる。1955年(昭和30年)に再び鳴門市長に就任し1959年(昭和34年)まで務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
長田 恒雄(おさだ つねお、1902年(明治35年)12月1… 長田 恒雄(おさだ つねお、1902年(明治35年)12月17日 - 1977年(昭和52年)3月30日)は、日本の詩人、作詞家。9歳で得度したが、詩人として仏教と向き合う道を選び多くの仏教詩を遺した。静岡県出身。 1902年(明治35年)、静岡県清水市、真宗大谷派の寺院に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。東洋大学中退。1925年(大正14年)、「詩洋」の同人となる。1926年(大正15年)、三省堂勤務。1929年(昭和4年)、第1詩集「青魚集」を刊行。のちに北園克衛らを知り、モダニズムに近づく。1936年(昭和11年)、雑誌「科学ペン」(三省堂)の編集・発行を担当。戦後「現代詩研究」を創刊、主宰した。
印 泰植(イン・テシク、1902年12月17日 - 1975… 印 泰植(イン・テシク、1902年12月17日 - 1975年5月22日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の官僚、政治家。元財務部長官、第3・4・6代国会議員。本貫は喬桐印氏。 忠清南道唐津出身。京城第一高等普通学校(のちの京畿高等学校)を経て、1927年に山口高等学校文科乙類、1930年に東北帝国大学法文学部法科を卒業。朝鮮総督府の税務管理部門で勤務し、洪川税務署長、清州税務署長、江原道財務部間税課長を歴任。 第二次世界大戦終戦後、第一共和国にて江原道内務局長、財務部司税局長(1949年)、管財庁長(1953年)、財務部長官(1956年〜1957年)を歴任。自由党内では財務通として評価を受けた。
清水 直右衛門(しみず なおえもん、1902年12月16日 … 清水 直右衛門(しみず なおえもん、1902年12月16日 - 1945年8月6日)は、滋賀県生まれ、広島県出身のサッカー選手。ポジションはフォワード、ディフェンダー。 呉服商の家に生まれ、父が広島市内に店舗を構えるのに合わせて中学以前に広島市内に移住した。広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業後、神戸高等商業学校に入学してサッカー部に所属し、1924年に神戸高等商業学校を卒業した。 また、鯉城蹴球団にも所属し、1923年5月に開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、中華民国代表戦でヘディングシュートにより1得点を決めた。日本の国際Aマッチ2ゴール目が広島出身者の代表初ゴールであった。
萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)… 萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)12月15日 - 2001年(平成13年)8月8日)は、日本の実業家。北海道炭砿汽船(北炭)、札幌テレビ放送(STV)社長などを務めた。 埼玉県蕨町(現:蕨市)で生まれる。1926年慶應義塾大学経済学部を卒業。在学中は吉田茂内閣の文相となる高橋誠一郎教授に認められ、学校に残ることを勧められたほどであった。 卒業後、三井合名に入社。常務理事から北炭会長に転じる島田勝之助の目に留まり、1940年、島田に同道する。1889年に創業の北炭は、当初、道内の炭鉱開発と鉄道敷設に関わっており、北海道開発の中心だった。その後、鉄道は政府に買い上げられ、炭鉱開発と海運に集中する。
清瀬 英次郎(きよせ えいじろう、1902年(明治35年)1… 清瀬 英次郎(きよせ えいじろう、1902年(明治35年)12月14日 - 1941年(昭和16年))は、日本の映画監督、脚本家である。 1902年(明治35年)12月14日、宮城県仙台市立町(現在の同県同市青葉区立町)に生まれる。本籍は山形県東置賜郡和田村(現在の同県同郡高畠町和田地区)にあった。仙台市立立町尋常小学校(旧制尋常小学校、現在の仙台市立立町小学校)、宮城県立仙台第二中学校(旧制中学校、現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業、旧制専門学校の青山学院英文科(現在の青山学院大学)に入学する。 同学在学中に当時、松竹蒲田撮影所脚本部に在籍していた伊藤大輔の指導を受けつつ、脚本執筆の手伝いをはじめる。
猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年〈明治35年… 猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年〈明治35年〉12月14日 - 1993年〈平成5年〉5月17日)は、昭和期の洋画家。新制作協会創立会員。 「絵を描くには勇気がいる」とよく口にし、新しいものへ挑戦し続けた彼の画業は多くの人の心を捉えている。 丸亀市にある猪熊弦一郎現代美術館(設計:谷口吉生)には、猪熊の作品が常設展示されている。また、猪熊の死後、丸亀コミュニティバスにいのくまバスが登場した。建築家・丹下健三が設計した香川県庁舎の壁画は、猪熊の作である。
大沢 雄一(おおさわ ゆういち、1902年(明治35年)12… 大沢 雄一(おおさわ ゆういち、1902年(明治35年)12月13日 - 1984年(昭和59年)7月23日)は、日本の政治家。埼玉県知事(公選第2、3代)、参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、内務官僚。 1902年、埼玉県北葛飾郡三輪野江村(現吉川市)に生まれる。 野口英世のような存在を目指して医師を志し、父も村で開業医になることを望んでいた。だが旧制新潟高等学校入学後に結核にかかり、5年の療養後に今度は弁護士を目指して中央大学専門部法学科に入学。 1929年大学卒業後は内務省に入り、佐賀県赴任を経て中国開封領事として終戦を迎え、引き揚げ。 埼玉に戻ると県教育部長や総務部長になった後の1949年、埼玉県知事に当選。
斯波 正夫(しば まさお、1902年(明治35年)12月13… 斯波 正夫(しば まさお、1902年(明治35年)12月13日 - 1983年(昭和58年)12月18日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京帝国大学教授・斯波忠三郎の長男として生まれる。父の死去に伴い、1934年(昭和9年)11月1日、男爵を襲爵した。 1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部を卒業。同年、三井合名会社に入社し、その後、三井不動産管理部管理長を務めた。 1945年(昭和20年)10月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
四代目 河原崎 長十郎(かわらさき ちょうじゅうろう、190… 四代目 河原崎 長十郎(かわらさき ちょうじゅうろう、1902年12月13日 - 1981年9月22日)は、東京の歌舞伎役者。本名、河原崎虎之助(かわらさき とらのすけ)。屋号は山崎屋。定紋は角違いに二つ巴、家紋は河原崎座櫓紋。 劇団前進座(1931年創設)の創設メンバーの一人で、後に幹事長(座頭)となる。“長十郎”とは元来、河原崎座の座元(劇場経営者)の跡継ぎである若太夫の名跡で、九代目市川團十郎(“劇聖”と称された明治の名優)も名乗ったことがある。 「演劇のデパート」の異名をとる前進座にあって、さまざまなジャンルの演劇作品に出演した。歌舞伎では『勧進帳』の弁慶、『鳴神』の鳴神上人、『元禄忠臣蔵・御浜御殿』の徳川綱豊卿、『め組の喧嘩』の四つ車大八などが当たり役であった。
大井 篤(おおい あつし、1902年(明治35年)12月11… 大井 篤(おおい あつし、1902年(明治35年)12月11日 - 1994年(平成6年)12月27日)は、日本の海軍軍人。海兵51期・海大34期。最終階級は海軍大佐。 大東亜戦争(太平洋戦争)中に海上護衛総司令部参謀を務め、戦後に『海上護衛戦』(日本出版共同、1953年)を上梓したことで知られる。 1902年(明治35年)12月11日、医師の二男として山形県鶴岡市(現)に生まれる。荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1920年(大正9年)8月26日に海軍兵学校に入校し、1923年(大正12年)7月14日に卒業した(兵51期)。入校席次は11位/293名、卒業席次は9位/255名。兵51期の同期生には樋端久利雄(首席)、小園安名、山本祐二、実松譲、工藤俊作らがいる。
大塚 正(おおつか ただし、1902年〈明治35年〉12月1… 大塚 正(おおつか ただし、1902年〈明治35年〉12月11日 - 没年不明)は、昭和時代前期の政治家。台湾総督府官僚。陸軍司政官。大阪府堺市長。 大阪市に生まれる。1927年(昭和2年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業し、1930年(昭和5年)10月、高等試験行政科に合格する。1933年(昭和8年)5月、台湾総督府専売局書記を拝命し、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に任じた。その後、総督官房調査課外務企画各部勤務、新竹州花蓮港庁各総務課長などを経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政長官に任じた。 戦後、堺市長を務めた。堺市長退任後の1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙に旧大阪5区から自由民主党公認で立候補したが落選した。
広橋 真光(ひろはし ただみつ、明治35年(1902年)12… 広橋 真光(ひろはし ただみつ、明治35年(1902年)12月11日 - 平成9年(1997年)5月21日)は、昭和時代の華族(伯爵)・内務官僚。近衛文麿・東條英機両首相の秘書官を務める。戦後、千葉県知事を1か月だけ務めた。 明治35年(1902年)、伯爵・広橋賢光の嫡男として誕生。明治43年(1910年)、襲爵。大正15年(1926年)に東京帝国大学を卒業し、翌年内務省に入省する。この年の12月2日、梨本宮家から規子女王が降嫁する。昭和15年(1940年)、近衛文麿首相の元で内閣総理大臣秘書官を務め、次の東條内閣でも留まった。 昭和22年(1947年)、千葉県知事・小野哲が突如参議院選挙への出馬を表明して辞任したために同県知事に転じる。
潤間 留十(うるま とめじゅう、のち宮沢姓、1902年12月… 潤間 留十(うるま とめじゅう、のち宮沢姓、1902年12月9日 - 1999年1月26日)は日本の元スピードスケート選手である。長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)出身。諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)卒。 1932年のレークプラシッドオリンピックでは、500m、1500m、5000m、10000mの4種目に出場したが、いずれも予選で敗退した。 その後は審判員として長く活躍し、日本スケート連盟名誉審判員にも選ばれた。
竹入 高(たけいり たかし、1902年12月9日 - 194… 竹入 高(たけいり たかし、1902年12月9日 - 1943年11月21日)は東洋宣教会日本ホーリネス教会の牧師であり、ホーリネス弾圧事件が原因で殉教した人物である。 1902年(明治35年)に岡山県赤磐郡熊山に生まれる。1924年(大正13年)に奈良駅の駅員として勤務していた時に、日本ホーリネス教会の監督中田重治の長女、中田ムツの路傍伝道により求道を始める。1926年(大正15年)に聖書学院に入学する。 1928年(昭和3年)に聖書学院を卒業し、富山、豊橋、尾張一ノ宮、京都の牧師を歴任する。 1942年6月のホーリネス弾圧事件で京都西陣署に拘引される。10月に京都拘置所に移送される。1943年9月に病気のために保釈になる。
木谷 龍吉(きたに りゅうきち、1902年(明治35年)12… 木谷 龍吉(きたに りゅうきち、1902年(明治35年)12月8日 - 没年不明は、日本の技術者(化学者)。 福井県敦賀郡(現:敦賀市)出身。東京高等工業学校応用化学科(現:東京科学大学)を卒業し、東京電気株式会社(現:東芝)に入社。東芝マツダ研究所の主任研究員を務め、東芝の電球ブランド「マツダ」の化学的基礎研究を行った。 1936年(昭和11年)に照明学会発達調査委員会の委員となる。。 父は敦賀二十五銀行主任の木谷滋治郎。従兄弟は旅順工科大学教授の木谷要一。東京電気入社直後は親族で外務省の成田五郎宅に居住していた。
大野 修司(おおの しゅうじ、1902年(明治35年)12月… 大野 修司(おおの しゅうじ、1902年(明治35年)12月8日 - 1970年(昭和45年)2月3日)は、日本の実業家。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)で25年にわたり役員を務め、代表取締役副社長在任中に死去した。 1902年、栃木県に出生。 1925年、明治大学法学部卒業。豊川順弥(豊川良平(三菱財閥)の長男)が設立した白楊社に入社後、東京ブレス工業顳問、支配人などを歴任。 1937年、豊田喜一郎に招聘され、豊田自動織機製作所に入社。豊田が推進した「ジャスト・イン・タイム」構想を支え、協豊会設立や部品メーカー育成に貢献。 1939年、原材料の量・価格が統制されていた当時の自動車業界において、協力工場の代表者と意見交換を行う場として、第1回が開かれた「トヨタ自動車下請懇談会」(国産自動車下請工業確立助成座談会、現在の「協豊会」)は、大野の貢献により継続的に実施されることになり、会社と協力工場の緊密な関係の源泉となった。
嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高… 嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一(たかはし てるいち)、1902年〈明治35年〉12月8日 - 1980年〈昭和55年〉10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。
中尾 荘兵衛(なかお そうべえ、1902年(明治35年)12… 中尾 荘兵衛(なかお そうべえ、1902年(明治35年)12月7日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 福岡県糟屋郡に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館、1925年旧制福岡高等学校文科丙類を経て、1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科に合格し、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業する。陸軍に入り陸軍工兵少尉に進む。同年7月、台湾総督府専売局書記を拝命し、1932年(昭和7年)3月、新竹州中壢郡守に就任した。1933年(昭和8年)10月、台中州内務部教育課長に転じ、内務部地方課長兼水利課長、交通局副参事兼府事務官道路港湾課兼財務局主計課勤務を歴任した。
高ノ花 武也(たかのはな たけや、1902年12月7日 - … 高ノ花 武也(たかのはな たけや、1902年12月7日 - 1960年5月25日)は、現在の新潟県上越市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は倉田 武也(旧姓藤田)。183cm、120kg。最高位は西前頭8枚目(ただし、春秋園事件に加担した為に番付が削除され、番付上の最高位は東前頭14枚目) 1921年5月場所に「高田川」の四股名で初土俵を踏む。着実に番付を上げていき、1929年1月場所で十両昇進。1931年5月新入幕、恵まれた体格で常陸山に後継者として期待されるが、その後春秋園事件に加担したことで大成できず、1933年1月に幕内格別席で復帰した場所を全休し、そのまま廃業した。廃業後は新宿で相撲料理店「つたや」を経営した。
松本 正雄(まつもと まさお、1902年12月6日 - 19… 松本 正雄(まつもと まさお、1902年12月6日 - 1996年1月4日)は、日本の弁護士、最高裁判所判事。第二東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長、最高裁判所判事、国家公安委員等を務め、1972年勲一等旭日大綬章受章。 愛媛県出身。1919年神奈川県立第一横浜中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業。1926年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業後、古河電気工業に入社するも、「自由を志し」同社を退社し、1929年東京府立第一商業学校(現東京都立第一商業高等学校)講師に着任。1930年に弁護士登録。弁護士としては、保全経済会事件で破産管財人を務めるなど、主に民商事事件を手がけた。法曹一元制論者としても知られる。
関屋 五十二(せきや いそじ 1902年12月4日 - 19… 関屋 五十二(せきや いそじ 1902年12月4日 - 1984年10月15日)は、栃木県出身の童話作家、放送作家。 栃木県足利郡御厨町(現在の足利市)出身。青山学院大学卒。1925年、東京中央放送局(現・NHK放送センター)に入局し、児童向けの夕方のワイド番組「子供(少国民)の時間」のニュース解説のコーナー「コドモの新聞」を担当し「関屋おじさん」として知られ、「村岡おばさん」こと村岡花子(作家)とともに、番組をリードしていった。 戦後もバラエティー番組「二十の扉」、「話の泉」などを手掛け、自らも出演した。その後は民間放送に活躍の場を移し、プロテスタントの布教活動の番組「ルーテルアワー」を企画し、派生番組であった「ルーテルアワー・夜の名曲」などを含め、脚本・演出を務めた。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月4日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、実業家。官選福井県知事、兵庫県教育委員長。 広島県出身。斎藤元四郎の長男として生まれた。松山高等学校を卒業。1926年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、和歌山県社寺兵事課長、同秘書課長、同学務課長、同商工課長、同水産課長、岐阜県社会課長、同庶務課長、兵庫県都市計画課長、青森県書記官・警察部長、満州国奉天省警務庁長、満州国民政部労務司長、兵庫県第一部長、京都府内政部長などを歴任。 1946年1月25日、福井県知事に就任。
淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月… 淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月3日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の海軍軍人、キリスト教伝道者。海軍兵学校52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月3日、奈良県北葛城郡磐城村(現・葛城市)で教師の父・弥蔵と母・シカの三男として生まれる。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、1921年(大正10年)、海軍兵学校に海兵52期として入学する。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。1924年7月24日、海軍兵学校を卒業、少尉候補生。 1925年12月、巡洋艦「矢矧」乗組。1926年12月、海軍砲術学校普通科学生。1927年4月、海軍水雷学校普通科学生。1927年7月、駆逐艦「秋風」乗組。
田中 純一郎(たなか じゅんいちろう、1902年〈明治35年… 田中 純一郎(たなか じゅんいちろう、1902年〈明治35年〉12月3日 - 1989年〈平成元年〉3月26日)は、日本の映画史家、映画評論家、編集者。本名:松倉 寿一(まつくら ひさいち)。代表作は『日本映画発達史』。 1902年(明治35年)12月3日、群馬県新田郡生品村(のち新田郡新田町、現:太田市新田地区)で出生。 大正初年に上京し、東京市神田区(現:東京都千代田区)の旧制中学校に通う。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、学業半ばに同市日本橋区(現:中央区日本橋)の糸屋に奉公に出されてしまう。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうような映画狂(シネフィル)で、映画雑誌によく投稿していた。
井上 鑑昭(いのうえ のりあき、明治35年(1902年)12… 井上 鑑昭(いのうえ のりあき、明治35年(1902年)12月3日 - 平成6年(1994年)4月13日)は、日本の武道家。親英体道(親和体道)の創始者である。合気道の開祖植芝盛平(うえしば もりへい)は叔父にあたる。 本名は井上要一郎といい、鑑昭は別名である。その他の別名として、祥治(よしはる)・聖祥(せいしょう)・方軒(ほうけん)・照祥(てるよし)と名乗っていた時期もある(この項では、一般的な鑑昭の表記で統一する)。 和歌山県西牟婁郡(現在の田辺市)に生まれる。生家は貿易商を手広く営む裕福な家庭で、生活には何不自由なく育ったが、井上自身はすぐに風邪をひいて寝込んでしまう体の弱い少年であった。
江花 静(えばな しずか、1902年(明治35年)12月2日… 江花 静(えばな しずか、1902年(明治35年)12月2日 - 1966年(昭和41年)7月25日)は、日本の内務及び台湾総督府官僚、衆議院議員(1期、民主自由党→自由党)。福島県若松市長(官選第17代)。 福島県河沼郡広瀬村(現会津坂下町)出身。1922年(大正11年)、高等学校高等科入学資格試験に合格。旧制第一早稲田高等学院に学んだ後、1928年(昭和3年)に高等試験予備試験に合格。1930年(昭和5年)に高等試験行政科に合格し、台湾総督府属となった。1935年(昭和10年)より地方警視となり、台南州高等警察課長、台北州高等警察課長、同外事課長を歴任した。1940年(昭和15年)、地方事務官に転じ、大分県商工課長、栃木県庶務課長、同教学課長、同文書課長、秋田県官房長、青森県経済第一部長などを務めた。
伊藤 英三(いとう えいぞう、1902年12月2日 - 19… 伊藤 英三(いとう えいぞう、1902年12月2日 - 1971年10月2日)は、日本の経営者。花王社長を務めた。 岐阜県中津川市出身。1919年に愛知薬学校(現名古屋市立大学薬学部)を卒業し、長瀬商会での勤務を経て、大日本油脂常務、日本有機社長を歴任した。1948年に花王石鹸社長に就任した。1954年に花王油脂との合併により、花王石鹸副社長に就任し、1968年5月に再び社長に就任した 1971年10月2日、心臓衰弱のために死去。68歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 -… 大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 - 1975年1月31日)は、日本の経済学・経済史学者。 1902年、愛知県渥美郡花田村で生まれた。京都帝国大学経済学部で学び、1928年に卒業した。同大学大学院に進学。 1932年、京都帝国大学経済学部の助手に採用された。1933年から1940年まで、大蔵省の委託で『明治・大正財政史』の編纂にあたった。1941年、立命館大学経済学部教授に就いた。1950年、学位論文『近世交通経済史論』を立命館大学に提出して経済学博士の学位を取得。戦後の1956年、甲南大学経済学部教授。1973年に甲南大を定年退職し、名誉教授となった。1975年に死去。
野村 寅三郎 (のむら とらさぶろう、1902年 <明治35… 野村 寅三郎 (のむら とらさぶろう、1902年 <明治35年> 11月30日 - 1985年 <昭和60年> 1月22日)は、日本の交通経済学者。神戸大学名誉教授。元日本海運経済学会副会長。位階は正四位。 京都市下京区四条通室町東入函谷鉾町生まれ。1921年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。級友に新庄博神戸大学名誉教授がいた。 1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科第二学年修了。1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身で、専門は交通論。同年同大学補手。1928年中央気象台附属測候技術官養成所(現気象大学校)講師。1929年神戸商業大学助手。 1930年から文部省留学生として、ドイツやウィーン、イタリア、アメリカ合衆国に留学し、レオポルト・マイヤーに師事するなどした。
渡部 七郎(わたなべ しちろう、1902年 <明治35年> … 渡部 七郎(わたなべ しちろう、1902年 <明治35年> 11月30日 - 1990年 <平成2年> 12月5日 )は、日本の経営者。伊予銀行頭取を務めた。位階は正五位。 愛媛県出身。1928年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に伊予銀行に入行した。1947年12月に取締役に就任し、1953年6月に常務を経て、1963年10月に副頭取に就任し、1969年10月には頭取に昇格。1983年6月には会長に就任。 1973年11月に勲四等瑞宝章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1990年12月5日、老衰のために死去。88歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 19… 香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 1979年1月12日)は、日本の英文学者・能楽研究者。 岡山県倉敷市出身。東京帝国大学文学部英文科卒業、甲南高等学校教授となるが病気のため辞職、1942年米穀会社に入り、兵庫米穀社長・会長。戦前から能楽研究を行い『謡曲界』などに多くの論文を発表。戦後、雑誌『宝生』に「とらうきやう考」を発表した後、表章との交流が始まり、世阿弥研究の基礎となる多くの功績を残した。1963年法政大学能楽研究所顧問。甲南高校時代の教え子に武智鉄二がいる。長男は元住友化学工業社長の香西昭夫。次男は日本経済研究センター理事長や政府税制調査会会長を務めたエコノミストの香西泰。
山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 -… 山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 - 1967年9月12日)は、日本の経営者。 宮城県仙台市出身。1927年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に凸版印刷に入社。1937年に取締役に就任し、1941年に常務、1943年に専務を経て、1948年12月には社長に就任。1950年からは東京書籍社長も務めた。 1967年9月12日、肝臓病のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
久留 勝(くる まさる、1902年〈明治35年〉11月28日… 久留 勝(くる まさる、1902年〈明治35年〉11月28日 - 1970年〈昭和45年〉9月8日)は、日本の医学者。医学博士。がんの外科学研究で知られる。 三重県伊勢市豊川町の生まれ。1926年に東京帝国大学を卒業と同時に塩田広重教授の塩田外科に入局。1931年より2年間、文部省の在外研究員として欧米への外科学の研究のため留学。1933年1月に東京帝国大学医学博士。論文の題は「人の類黄色腫性病竈より培養せられたる一新病原性糸状菌イサリア・シオタエに就て (独文)」。1933年11月に、塩田教授の推薦で癌研究会の康楽病院外科医長として赴任。その後、1941年金沢医科大学の外科学教授として赴任。1954年1月に大阪大学の外科学教授を歴任、1962年国立がんセンター病院長に就任、1967年国立がんセンター総長となる。
菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 193… 菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 1937年11月9日)は青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身の画家、喜劇作家。 本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 1915年青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)に入学、青森中時代から油絵を描き始める。1920年青森中卒業後、東京美術学校・慶應義塾大学部理財科の受験に失敗して故郷の青森大林区署(後の青森営林局)管理課で働いていたが、翌年退職して再び上京。日本大学法文学部文学科(芸術学)および川端画学校に学ぶ。 浅草六区に通ううちに榎本健一と知り合い、当初は美術スタッフとして協力していたが、次第に脚本にも関わるようになる。
岩田 誠(いわた まこと、1902年11月26日 - 198… 岩田 誠(いわた まこと、1902年11月26日 - 1985年2月9日)は最高裁判所判事。東京都出身。
保岡 武久(やすおか たけひさ、1902年11月25日 - … 保岡 武久(やすおか たけひさ、1902年11月25日 - 1983年2月7日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。 奄美大島にある鹿児島県大島郡宇検村の生まれ。旧制鹿児島県立大島中学校と旧制第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒。1929年、高等文官試験行政科に合格。群馬県警察警部補を振り出しに、1934年内務省警視庁警視に任命される。海軍司政官、二・二六事件を担当、1939年大阪府刑事課長、地方警視、鹿児島県副知事などを経て、1951年の第2回鹿児島県知事に自由党公認で立候補したが落選。1954年に行われた奄美群島の日本復帰に伴う衆院選に奄美群島区から自由党公認で立候補した。