洪 範憙(ホン・ボミ、朝鮮語: 홍범희、1917年6月8日ま… 洪 範憙(ホン・ボミ、朝鮮語: 홍범희、1917年6月8日または6月18日 - 1972年2月27日または2月28日)は、大韓民国の官僚、政治家、教育者。槐山郡郡守、内務部次官、制憲・第4代韓国国会議員。 本貫は豊山洪氏(朝鮮語版)。号は逸谷。漢字表記は洪範熹とも。 日本統治時代の江原道原州郡または慶尚北道善山郡出身。京城京北中学校を経て、1935年に京城第二高普、1937年に普成専門学校法科、1941年に中央大学法学部卒。1945年に高等文官試験行政科に合格した後、1946年に原州に育民館を設立し、館長を務めた。朝鮮食糧営団忠清北道支部勤務を経て、1948年の初代総選挙で国会議員に当選し、国会交通逓信委員会常任委員会で活動した。
美馬 昇(みま のぼる、1917年(大正6年)6月8日 - … 美馬 昇(みま のぼる、1917年(大正6年)6月8日 - 1995年(平成7年)4月27日)は、日本の教育者。学校法人生光学園創立者。徳島県徳島市出身。藍綬褒章受章。 名東郡国府町中村(現在の徳島市国府町中)に生まれる。1929年(昭和4年)、三重実業学校教員養成所(現在の三重大学)を卒業。1933年(昭和8年)に地元である国府町中村に美馬学習塾を設立。 1941年(昭和16年)より徳島県立商業学校(現在の徳島県立徳島商業高等学校)で教務を務める。1945年(昭和20年)に徳島市中吉野町に生光商業学院を創立し、後の学校法人生光学園の基礎をかためる。 1995年(平成7年)4月27日、77歳で没する。
成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - … 成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - 1989年10月17日)は、青森県青森市出身のプロ野球選手、政治家。 青森中学校から専修大学へ進学も中退。仙台鉄道局から青森林友を経て1936年に東京巨人軍へ入団。選手としての才能はなかったが、何となく好感のもてる選手だった。1938年秋季頃に体調を崩し、療養に努めたが同年で退団。 1974年に青森市議会へ自由民主党から出馬し当選。4期議員を務めた。
森 義視(戸籍名:義己、もり よしみ、1917年〈大正6年〉… 森 義視(戸籍名:義己、もり よしみ、1917年〈大正6年〉6月6日 - 1977年〈昭和52年〉3月8日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員、奈良県橿原市長。 奈良県高市郡鴨公村大字高殿(現橿原市高殿町)出身。1935年(昭和10年)奈良県立畝傍中学校(現奈良県立畝傍高等学校)を卒業した。 大阪大丸に入社。兵役に就き陸軍大尉に昇進。 1946年(昭和21年)労動運動に参画。奈良県労働組合総連合初代事務局長、同県全労協初代事務局長、同県山林組合書記長、同県地方労働委員、奈良総評初代専従副議長同事務局長、同県中小労連委員長などを歴任。その他、女子大附属小・中・高育友会長、奈良県陸上競技協会副会長を務めた。
中島 河太郎(なかじま かわたろう、1917年6月5日 - … 中島 河太郎(なかじま かわたろう、1917年6月5日 - 1999年5月5日)は、日本のミステリー文学評論家、アンソロジスト、国文学者。本名は、中嶋馨(なかじま かおる)。日本推理作家協会第7代理事長。日本ミステリー文学大賞受賞者。和洋女子大学元学長・名誉教授。江戸川乱歩の薫陶を受けた推理小説研究の第一人者で、推理小説に加え国文学・民俗学の書誌学者としても知られる。別名に小城魚太郎、石羽文彦、玉井一二三。 鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島県立第一鹿児島中学校、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学文学部国文科で中世説話文学を専攻する。旧制中学時代から兄の影響で「新青年」を読み始め、探偵小説に親しむ。
齋藤 真成(さいとう しんじょう、1917年〈大正6年〉6月… 齋藤 真成(さいとう しんじょう、1917年〈大正6年〉6月5日 - 2019年〈令和元年〉11月19日)は、日本の僧、洋画家、元・真正極楽寺(真如堂)第53世貫主、元・京都教育大学教授、元・成安女子短期大学講師、愛知県名古屋市出身。
金井 南龍(かない なんりゅう、1917年6月5日 - 19… 金井 南龍(かない なんりゅう、1917年6月5日 - 1989年2月27日)は、日本の宗教家、易者、治療師、画家。「神理研究会」創設者で、月刊誌『さすら』の編集発行人。本名、金井三吉。筆名、金井久蜘蛛(くくも)。「一人一宗」を提唱した。 1917年(大正6年)、群馬県北甘楽郡福島町星田(現・富岡市)に生まれる。父・谷五郎は福島町の町長だった。生まれつき霊能があり、日常的に神霊との交流があったという。20歳で近衛師団に召集され、皇居や御用邸の警備にあたる。22歳で満州に出征。ノモンハンの戦闘(1939年)に参加したが、途中で肺結核に罹患し兵役免除となる。 1947年(昭和22年)、30歳で自動車販売会社を興す。
鈴木 秀雄(すずき ひでお、1917年6月4日 - 2015… 鈴木 秀雄(すずき ひでお、1917年6月4日 - 2015年8月21日)は、日本の大蔵官僚。 父・鈴木商店(味の素の前身)第2代社長鈴木忠治と母マスの七男として神奈川県三浦郡葉山村に生まれる。 大蔵入省後まもなく短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、1940年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。戦後、B級戦犯容疑者として逮捕された。裁判では検事から死刑を求刑され、禁固15年の判決が下る。長い拘禁状態の後、サンフランシスコ講和条約の直前に仮釈放された。この間に公職追放も受けた。 釈放後は大蔵省に復職。
青園 謙三郎(あおぞの けんざぶろう、1917年〈大正8年〉… 青園 謙三郎(あおぞの けんざぶろう、1917年〈大正8年〉6月3日 - 1993年〈平成5〉3月2日)は、福井県の郷土史研究家、実業家。位階は従五位。身をマスコミ業界に置きながら、生涯にわたり郷土の歴史を研究した。郷土史に関する著作が多くある。 1963年(昭和38年)4月、個人蔵の紙本著色柴田勝家像を発見した。 特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の保存には、金沢大学法文学部教授・井上悦夫の奔走と福井県教育委員会の迅速な対応があったが、その際、青園も関係していた。すなわち1970年(昭和45年)8月18日、井上が農業構造改造事業の工事で遺構が破壊されていることを発見し、その夜当時福井テレビ副社長であった青園を通じて、須知邦武副知事に工事中止を申し入れたのである。
橋本 鉄男(はしもと てつお、1917年6月2日 - 199… 橋本 鉄男(はしもと てつお、1917年6月2日 - 1996年10月11日)は、滋賀県の民俗学者、地方史研究者。 滋賀県高島郡今津町(現高島市)生まれ。のち安曇川町(同)在住。1939年、関東局立旅順師範学校卒業。満洲・滋賀県で公立小・中学校の教諭、教頭、校長。滋賀県文化財保護審議会委員・副会長。 旅順師範学校在学中に柳田國男の著作に接し民俗学に開眼。戦後教職の傍ら県内での民俗調査を開始、再興直後の民間伝承の会や近畿民俗学会の会員となり成果を投稿、高島郡内の大将軍信仰の報告で柳田の激励を受ける。1959年、滋賀県臨時文化財専門員として木地屋の生活伝承の記録作成のため、「木地屋の本貫地」と称された永源寺町(現東近江市)蛭谷・君ヶ畑をはじめとして県内の木地屋伝承地の調査を実施、君ヶ畑では新たに「氏子狩帳」多数を確認した。
松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日… 松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日 - 1986年(昭和61年)10月20日)は、日本の建築家・土木技術者、政治家。郷里である富山県小矢部市の市長を4期14年務めた。市長としては「メルヘン建築」の建設で知られる。 1917年(大正6年)、富山県西礪波郡東蟹谷村平桜(現在の小矢部市平桜)に生まれる。砺波中学校(現在の富山県立砺波高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進む。 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省。重要河川の改修工事に携わる。建設省北陸地方建設局長在任中の1969年(昭和44年)には、集中豪雨による富山大橋の橋桁沈下に対応した。同年、建設省を退官。
澁谷宗光(しぶやむねみつ 1917年6月 - 1974年9月… 澁谷宗光(しぶやむねみつ 1917年6月 - 1974年9月)は、日本の国語教育学者、日本語学者。 専門は、国語教育、国語学、江戸・明治期の歌学。荷田在満、小山田与清、八田知紀などの歌人について研究の研究著書もある。昭和30年代に国語教育史学会を西原慶一、古田拡、渡辺茂、岩島公など組織し、活動した。
塩崎 潤(しおざき じゅん、1917年5月31日 - 201… 塩崎 潤(しおざき じゅん、1917年5月31日 - 2011年5月27日)は、日本の政治家(衆議院議員)、大蔵官僚、翻訳家。位階は正三位。 長男は衆議院議員の塩崎恭久。長女は法学者の山根裕子。次女は外交官角崎利夫の妻でアジア防災センター主任研究員の角崎悦子。 愛媛県松山市出身。松山中学、旧制松山高校を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科を卒業。東京帝大法学部政治学科在学中の1940年10月に高等試験行政科を合格。1941年 大蔵省に入省する。主計局に配属。1942年10月、神田橋税務署長。1943年1月、宇都宮税務署長。同年8月、東京財務局経理部長。1952年8月1日、主税局調査課長。
金 基喆(キム・ギチョル、朝鮮語: 김기철、1917年5月3… 金 基喆(キム・ギチョル、朝鮮語: 김기철、1917年5月31日 - 1986年10月10日)は、満洲国の教育者、大韓民国の政治家。制憲、第3・5・11代韓国国会議員。 本貫は慶州金氏、別称はソウォン(소원)。カトリック教徒。タレントであるリュ・シウォンの母方の祖父にあたる。 ソウルまたは忠清北道陰城郡生まれ。関西大学専門部修了(または学生赤友会事件により関西大学を中退し明倫学院卒業)後、満州吉林師範学校を経て教師として勤務し、1939年に満洲国神仙公立国民優級学校校長に任命され、その他に新京朝鮮青年団農場文化部長、東亜日報記者も務めた。一方で大韓民国臨時政府に登録し、1945年の時点で大韓民国臨時政府非常国民会議代議員も務めた。
宇野 収(うの おさむ、1917年5月29日 - 2000年… 宇野 収(うの おさむ、1917年5月29日 - 2000年11月12日)は、日本の実業家。東洋紡績社長や関経連会長を務めた。 1917年、京都市上京区(現・左京区)東丸太町の野村家で3人兄妹の次男として生まれる。2歳の時に妹の出産時の産褥熱が原因で母が亡くなり、錦林小学校4年生の時に銀行員だった父も逝去した。その後は父の遺産の貸家で生計を立てた継母に育てられ、京都三中に進学。成績は校内で上位だったが受験の直前に肺尖カタルにかかって一年間浪人し、旧制三高に入学した。 自宅から三高までは徒歩20分程度の距離だったが兄の勧めで学生寮に入り、水泳部で選手やマネージャーを務めた。北村久寿雄と一緒に泳いだ事もあったという。
織田 五二七(おだ いふな、1917年5月27日 - 200… 織田 五二七(おだ いふな、1917年5月27日 - 2009年5月5日)は、日本の医師・作家。 佐賀県生まれ。織田長益の三男・織田俊長の子孫で、鍋島家鹿島藩藩医織田家の13代目。1935年に上京、日本大学医学部卒、1942年海軍軍医中尉に任官、軍艦「常磐」軍医長。のち大尉。1960年医学博士。佐賀県鹿島市に織田病院を設立し、院長、特定医療法人祐愛会織田病院理事長。そのかたわら、評論・小説などを書いた。 2009年5月5日、胆嚢癌のため死去。91歳没。
柳沢 勲(やなぎさわ いさお、1917年5月26日 - 20… 柳沢 勲(やなぎさわ いさお、1917年5月26日 - 2003年12月21日)は、日本の政治家。長野県篠ノ井市長。長野県議会議員(8期、自由民主党)。 長野県更級郡栄村(現長野市)出身、旧制屋代中学を経て、昭和13年(1938年)中央大学専門部法科中途退学。同23年(1948年)篠ノ井町役場収入役、同29年(1954年)助役、同33年(1958年)町長を歴任し、同34年(1959年)市制施行に伴い篠ノ井市長となる。 在任中は長野市等との2市6町村合併を推進し、昭和41年(1966年)退任、翌年(1967年)から長野県議会議員(自由民主党)、同63年(1988年)議長。平成11年(1999年)政界を引退した。
宇野 錦次(うの きんじ、1917年5月25日 - 1997… 宇野 錦次(うの きんじ、1917年5月25日 - 1997年2月6日)は、京都府出身のプロ野球選手。
小泉 英信(こいずみ ひでのぶ、1917年5月25日 - 1… 小泉 英信(こいずみ ひでのぶ、1917年5月25日 - 1985年11月3日)は、日本の経営者。東京都出身。 1941年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に東京ガスに入社。 1973年9月に関東タール製品社長に就任し、1976年6月には北海道ガス社長に就任。 1985年11月3日心筋梗塞のために死去。68歳没。
小森 健吉(こもり けんきち、1917年5月25日 - 19… 小森 健吉(こもり けんきち、1917年5月25日 - 1991年12月14日)は、日本の教育学者。 京都府出身。京都帝国大学法学部卒、同大学院修士課程修了。滋賀県立短期大学助教授、佛教大学教授。88年定年退職、名誉教授。教育社会学。
渡辺 美恵(わたなべ みえ、1917年〈大正6年〉5月23日… 渡辺 美恵(わたなべ みえ、1917年〈大正6年〉5月23日 - 没年不詳)は、日本の厚生官僚。日本の女性行政官第一号。 大分県大分郡谷村筒口(現・大分県由布市狭間町筒口)に生まれる。幼くして父を亡くしたため、母一人、姉一人の家庭であった。大分県立第一高等女学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を経て、明治大学専門部女子部(のち明治大学短期大学)法科に入り、1938年(昭和13年)卒業。明治大学専門部女子部では成績が優秀で卒業生総代として答辞を述べている。同年同大学法学部に入る。1941年(昭和16年)卒業。同郷の金光庸夫の世話で厚生省労働局に雇(やとい)として入り、労働局労務官室に配属される。
阪倉 篤義(さかくら あつよし、1917年5月23日 - 1… 阪倉 篤義(さかくら あつよし、1917年5月23日 - 1994年10月22日)は、日本の国文学者・国語学者。文学博士(京都大学・論文博士・1962年)。京都大学名誉教授。 京都府京都市出身。父は漢学者の阪倉篤太郎。 1941年京都帝国大学文学部国文科卒業。1943年入隊、長沙市にて終戦を迎える。1946年6月に復員、11月に中村憲吉の三女始子と結婚。 1949年京都大学教養部助教授、1962年「語構成の研究」で京大より文学博士の学位を取得。1963年教授、1981年定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 1991年秋、勲三等旭日中綬章受章。 1994年脳動脈瘤破裂、心機能低下により京都市西京区の病院で死去。
直江 広治(なおえ ひろじ、1917年5月23日 - 199… 直江 広治(なおえ ひろじ、1917年5月23日 - 1994年2月1日)は、日本の民俗学者、筑波大学名誉教授。 青森県出身。1941年に東京文理科大学卒業。1942年北京の輔仁大学講師。戦後、東京教育大学教授、筑波大学教授。1982年定年退官、名誉教授、清泉女子大学教授。1962年「屋敷神の研究」で東京教育大学から文学博士の学位を授与され、1966年同書で柳田国男賞受賞。
荒木 見悟(あらき けんご、1917年(大正6年)5月21日… 荒木 見悟(あらき けんご、1917年(大正6年)5月21日 - 2017年〈平成29年〉3月22日)は、日本の中国哲学者。九州大学名誉教授。 広島県佐伯郡廿日市町生まれ。1942年九州帝国大学法文学部支那哲学科卒、1944年長崎師範学校助教授、1949年福岡学芸大学助教授、1959年「朱子の哲学」で九州大学文学博士。1962年九州大学文学部助教授、1968年教授、1983年定年退官、名誉教授、皇學館大學教授、北九州大学教授、1987年久留米大学教授。1990年勲二等瑞宝章受勲。 2017年〈平成29年〉3月22日に死去。99歳没。没後に正四位に叙された。
井伊 文子(いい ふみこ、1917年5月20日 - 2004… 井伊 文子(いい ふみこ、1917年5月20日 - 2004年11月22日)は、尚昌の子女で琉球国王尚泰の曾孫。日本の歌人、随筆家。聞得大君(19代)。 1917年(大正6年)、尚昌の長女として生まれ、1934年(昭和9年)に女子学習院を卒業する。1937年(昭和12年)に井伊直愛(後の彦根市長)と結婚。 佐佐木信綱のもとで短歌を学び、中城さうしをはじめ多くの作品を残した。 1972年に沖縄県の青少年育成を目的として法人・佛桑花の会を設立。2003年に沖縄タイムス出版文化賞を受賞した。 2004年11月22日に心不全により自宅で死去、24日に彦根市で告別式が行われ、遺骨の一部が伊是名玉陵に埋葬されている。
佐藤 達郎(さとう たつろう、1917年5月20日 - 19… 佐藤 達郎(さとう たつろう、1917年5月20日 - 1993年1月11日)は、日本の経営者。時事通信社社長を務めた。 東京都出身。1941年に早稲田大学商学部を卒業。佐藤自身によれば関東軍の野戦部隊に一兵卒として参加し、1942年には北満州(当時)の孫呉県で戦闘訓練に従事していたという。1947年9月に時事通信社に入社。1971年7月に代表取締役に就任し、1977年6月に社長に就任。1978年6月に相談役に就任し、1985年6月から顧問を務めた。 また社外では、1983年8月に発足した中曽根康弘の私的諮問機関「平和問題研究会」の座長代理に選ばれている。 1993年1月11日心不全のために死去。
渡口 政吉(とぐち せいきち、1917年5月20日 - 19… 渡口 政吉(とぐち せいきち、1917年5月20日 - 1998年8月31日 ) は、日本の空手家。沖縄県那覇市出身。剛柔流開祖の宮城長順と比嘉世幸に教えを受ける。沖縄空手道剛柔流尚禮館初代館長。 沖縄空手道剛柔流尚禮会初代会長、元代々木修練会空手道場師範、元東京都空手道連盟相談役、元東京都中野区空手道連盟相談役、元法政大学沖縄空手道剛柔会師範 少年時代、父から空手(唐手)の基本技を学ぶ。15歳の時、比嘉世幸の道場で剛柔流空手を学び、後に宮城長順の門下生となる。比嘉世幸には33年以上、宮城長順には25年以上師事した。宮城長順は渡口の父と個人的な友人であったため、渡口の家を何度も訪れており、その時の会話はほとんど空手の話となり、朝方まで続いたという。
二条 恭仁子(にじょう くにこ、1917年(大正6年)5月1… 二条 恭仁子(にじょう くにこ、1917年(大正6年)5月18日 - 2002年(平成14年)7月6日)は、日本の元皇族、元華族夫人。皇族時代の名と身位は恭仁子女王。 1917年(大正6年)5月18日午後4時、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第3女子として誕生。御七夜の5月24日に「恭仁子」と命名された。京都府立京都第一高等女学校卒業。1938年(昭和13年)12月9日、五摂家のひとつ二条弼基公爵への降嫁の勅許が下りた。1939年(昭和14年)3月23日、婚姻に先立ち勲二等宝冠章を受章する。同年4月2日、二条弼基に降嫁した。
塚越 敏(つかごし さとし、1917年5月16日 - 200… 塚越 敏(つかごし さとし、1917年5月16日 - 2008年2月25日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。慶應義塾大学名誉教授。 1917年、東京生まれ。東京帝国大学文学部独文科卒業。慶應義塾大学文学部独文科教授を務め、定年退任し名誉教授。 2008年2月25日、慢性呼吸不全のため死去。 リルケを研究テーマとした。『書簡集』、『作品集』訳に多く参加した。1996年に『リルケとヴァレリー』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
広瀬 勝邦(廣瀬、ひろせ かつくに、1917年(大正6年)5… 広瀬 勝邦(廣瀬、ひろせ かつくに、1917年(大正6年)5月15日 - 1969年(昭和44年)10月25日)は、昭和期の政治家。衆議院議員。 徳島県板野郡松島村(松島町を経て現上板町)出身。大阪府立今宮中学校(現大阪府立今宮高等学校)を経て、1941年(昭和16年)慶應義塾大学経済学部を卒業した。 1948年(昭和23年)日本社会党に入党。以後、社会党徳島県連副会長、同会長、社会党中央委員、同本部政策審議会参与、同塩業対策特別委員会事務局長、同四国総合開発特別委員会事務局長などを務めた。 1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙に徳島県全県区から右派社会党公認で出馬して落選。1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙に社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
石川 隆彦(いしかわ たかひこ、1917年〈大正6年〉5月1… 石川 隆彦(いしかわ たかひこ、1917年〈大正6年〉5月15日 - 2008年〈平成20年〉6月9日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 戦前から戦後にかけて昭和天覧試合準優勝、第2回・第3回全日本選手権優勝等の成績を残し、晩年は米国で柔道普及を行った。身長175cm、体重82kg。 柔術無双流の免許皆伝者であり当時講道館柔道3段の石川文八を父として、香川県三豊郡神田村(現・三豊市)に生まれる。父が飛島組の土木技師であったため長野県に転居し、そこで入学した長野県飯山中学の在学中に3段まで取得。日本大学・国士舘専門学校で修業し、国士舘では主将を務めた。5段位で卒業するとすぐに国士舘専門学校の助教授に就任し、1940年の紀元二千六百年奉祝天覧武道大会では事実上の日本一決定戦となる指定選士の部に出場して木村政彦と決勝を争ったが、緊張で固くなった石川は一方的に攻められて完敗を喫した。
門前 眞佐人(もんぜん まさと、1917年5月15日 - 1… 門前 眞佐人(もんぜん まさと、1917年5月15日 - 1984年2月22日)は、広島県三次市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。大阪タイガース契約第1号選手。「眞」が旧字体であるため、媒体によって門前 真佐人と表記される。 旧制広陵中学3年次に正捕手となる。強肩強打で鳴らし、4年次には豪打広陵の4番に座る。1934年は夏の選手権広島予選決勝で何度も苦汁をなめさせられた藤村富美男率いる呉港中学にまたも惜敗(2対3)。呉港中はこの年、田川豊・橋本正吾・保手浜明らを揃え、高い総合力で川上哲治らの熊本工業などの全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇、門前らは地団駄を踏む。門前が最上級となった1935年、今度は広陵が白石勝巳・岡田宗芳・海蔵寺弘司・戒能朶一・秋山正信・室脇正信ら7人がプロ入りするという強力打線を形成。
筒浦 明(つつうら あきら、1917年5月14日 – 199… 筒浦 明(つつうら あきら、1917年5月14日 – 1993年1月28日)は、日本の地理学者・教育者。北海学園大学名誉教授。東京都赤坂出身 1942年明治大学大学専門部卒。東京帝国大学理学部地理学教室助手(指導教授:多田文男)(~1944年)。1947年北海道帝国大学理学部卒。北海道立札幌第二高等学校社会科教諭。1950年北海道札幌南高等学校社会科教諭。1953年北海道大学文学部助手。1958年北海学園大学経済学部専任講師。1963年同助教授。1965年同教養部教授。1969年北海学園大学開発研究所長。1972年同教養部長。1980年北海道開発協会会長。1990年北海学園大学定年退職。同名誉教授。
佐藤 智雄(さとう ともお、1917年5月14日-2000年… 佐藤 智雄(さとう ともお、1917年5月14日-2000年2月8日)は、日本の社会学者。中央大学名誉教授。専門は、ジャーナリズム論・メディア論・新聞学・宗教社会学。新潟県佐渡郡相川町出身。 日蓮宗の古刹の寺社に生まれる。1941年立正大学文学部哲学科卒業。同文学部助手。1946年立正大学文学部専門部専任講師。1949年中央大学経済学部助教授。1951年中央大学文学部助教授。1960年中央大学文学部教授。1969年中央大学評議員(〜1985年)。1988年中央大学定年退職。同名誉教授。淑徳大学社会福祉学部教授。1989年同大学院社会福祉学研究科教授。1992年淑徳大学退職。 学外の役職として、日本社会学会理事、日本新聞学会理事、1960年NHK放送文化研究所研究委員(〜1970年)、1965年広告電通賞審査委員(〜1969年)、1976年日本生活環境センター理事、1985年文部省科学技術審議会専門委員、放送大学教養学部客員教授など。
亘理 厚(わたり あつし、1917年5月13日 - 1983… 亘理 厚(わたり あつし、1917年5月13日 - 1983年1月24日)は、日本の機械工学者。東京大学名誉教授。自動車の振動・騒音研究の祖である。陸軍では技術大尉となる。 宮城県出身。1935年、函館中学校(現北海道函館中部高等学校)、1938年、第二高等学校理科を卒業。 陸軍航空技術研究所の所属時には、中西不二夫の指導を受け、星形エンジンのピストンの運動について研究した。その後、クランク軸のねじり振動防止のための摩擦ダンパの研究を行った。 戦後は航空機関連の研究が禁止されてしまったため、紡績用スピンドルの高速回転化を目指し、スピンドルの触れ回り運動の研究を行った。これにより工学博士の学位を得た。
長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999… 長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999年6月23日)は、日本のイラストレーター、水彩画家、デザイナー、エッセイスト、ファッション評論家、映画評論家。セツ・モードセミナー創設者。日本のファッション・イラストレーターの草分け。 本名は、長沢 昇(ながさわ のぼる)。 福島県会津若松市に生まれる。 小学校時代、画家で小学校教師の渡部菊二と出会う。会津中学入学。 軍事教練をボイコットした為、官立校の東京美術学校(東京芸大)への受験資格を失う。文化学院へ入学。卒業後水彩画家へ。 春日部たすく画伯と親交。戦前から中原淳一の推薦で女性誌『新女苑』にデビュー。『それいゆ』や『ひまわり』といった雑誌にイラストやエッセイを掲載。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1917年5月10日 - 1… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1917年5月10日 - 1996年3月17日)は日本の洋画家。浦和画家。 23歳で太平洋戦争に応召し、生死のはざまで和紙に3000枚のスケッチを残した。生きて帰国できれば画家になると決意し、終戦後1945年に帰国。浦和市に居住した。
杉浦 重雄(すぎうら しげお、1917年(大正6年)5月10… 杉浦 重雄(すぎうら しげお、1917年(大正6年)5月10日 - 1988年(昭和63年)4月10日)は、日本の競泳選手。静岡県浜松市出身。旧制静岡見付中(現在の静岡県立磐田南高等学校)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト。
山口 良定(やまぐち よしさだ、1917年5月10日 - )… 山口 良定(やまぐち よしさだ、1917年5月10日 - )は、日本の実業家。ラサ工業の元社長。 東京都に生まれる。1939年に彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業し、同年ラサ工業に入社した。入社後は営業部門で勤務した。 1944年に応召して中国へ渡り、満州で終戦を迎えた。その後、ソ連に抑留され、シベリアで生活を送った。1949年に復員後はラサ工業に復職し、再び営業畑を歩んだのち、財務部次長、経理部長を歴任した。 1966年に取締役、1969年に常務に就任し、1971年に社長へ昇格した。 社長在任中は、不採算であった鉱山部門の整理を進め、肥料・製錬・薬品・機械の4部門を中心とする事業体制の整備に取り組んだ。
市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 198… 市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 1986年11月18日)は、日本の都市計画家、教育者。工学博士。建築行政官、戦後は日本大学教授として、商業地の研究のほか都市計画調査や計画立案基礎づくりにつとめるほか、都市計画分野の人材育成に当たった。 中央建築士審査会試験委員のほか、日本建築学会では関東支部長、評議員、文献委員会委員長、総務理事、副会長、建築学大系編集委員、そのほか日中建築技術交流会常務理事、学校施設基準規格調査会専門委員、日本都市計画学会評議員などを歴任した。
宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 19… 宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 1980年3月16日)は、日本の古代史研究家、作家、元会社役員。『まぼろしの邪馬台国』によって邪馬台国論争に参入した。本名は懋、失明後に一章に改名。 正確な表記は「宮﨑」(「崎」の字は山偏に竒)であるが「宮﨑」と表記出来ない環境が一部存在するので「宮崎」で通すことが多い。以下本項でも「崎」の字を用いる。 本名は宮崎懋(みやざきつとむ)。のちに一章(墓誌名)、一彰と改名する。ペンネームは当初、日夏耿之介の名前から一字を取って「宮崎耿平」(みやざきこうへい)としていたが、人から正しく「こうへい」と呼んでもらえなかったことからその後「康平」に変更している。
宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 19… 宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 1980年3月16日)は、長崎県島原市生まれの古代史研究家、作家、元会社役員。『まぼろしの邪馬台国』によって日本中に邪馬台国論争を巻き起こした。正確な表記は「宮﨑」(「崎」の字は山偏に竒)であるが「宮﨑」と表記出来ない環境が一部存在するので「宮崎」で通すことが多い。以下本項でも「崎」の字を用いる。
斎藤 忍随(さいとう にんずい、1917年5月6日 - 19… 斎藤 忍随(さいとう にんずい、1917年5月6日 - 1986年1月21日)は、日本の哲学者、西洋古典学者(古代ギリシア哲学)。東京大学文学部名誉教授。 北海道宗谷支庁枝幸郡中頓別町に生まれる、生家は曹洞宗開禅寺。旧制旭川中学、旧制二高を経て、1944年、東京帝国大学文学部哲学科卒業。 1948年、新設の北海道大学法文学部に助教授で赴任(1950年、法学部と文学部に分離)、1952年、東京大学文学部助教授を併任、1954年、東大助教授に専任、1969年、教授。1972年から1974年まで文学部長。1978年、定年退官し名誉教授、成城大学教授。同年、紫綬褒章受章。1984年、成城大学退職。 ギリシア哲学研究の第一人者で、哲学会理事長、西洋古典学会常任委員、日本ギリシャ協会理事を務めた。
加藤 馨(かとう かおる、1917年5月5日 - 2016年… 加藤 馨(かとう かおる、1917年5月5日 - 2016年3月19日)は、日本の実業家、陸軍軍人(陸軍中尉)。ケーズデンキの前身・加藤電機商会の創業者。 神奈川県津久井郡千木良村(現相模原市緑区千木良)の農家に生まれる。高等小学校在学中に父が死去したため、大日本帝国陸軍に入り、陸軍航空士官学校少尉候補者学生24期前期を卒業。陸軍航空通信学校で教官を務め陸軍中尉で終戦を迎えた。 日本の降伏後公職追放され仕事が見つからなかったため、1947年にラジオの修理などを行う加藤電機商会を茨城県水戸市元台町で創業を開始。1955年有限会社加藤電機商会として法人化し、1973年には株式会社カトーデンキに改組した。
木原 太郎(きはら たろう、1917年5月5日 - 2001… 木原 太郎(きはら たろう、1917年5月5日 - 2001年2月10日)は、日本の物理学者。仕事は電磁波論、気体論、プラズマ、宇宙論と多方面にわたるが、その研究には構成粒子の振舞いの物理的イメージからシステムの特性を考える気体論的思考が貫かれている。 出身はその頃の東京市京橋区で、現在の東京駅八重洲口前の地に生まれた。そして地元の小学校、旧制府立高等学校(7年制)を経て1937年に東京帝国大学理学部物理学科に入学。在学中に1年間を数学科の授業受講に費やして年限3年の(旧制)大学に4年をかけ、1941年3月に卒業した。 卒業後は大学院に残って小谷正雄教授の指導を受け、原子・分子の物理学を研究した。
中込 達雄(なかごめ たつお、1917年5月5日 - 没年不… 中込 達雄(なかごめ たつお、1917年5月5日 - 没年不明)は、日本の経営者、銀行家。泉州銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1944年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1966年に大臣官房会計課長、1969年に関東財務局長、1970年に住宅公団理事を経て、1972年には泉州銀行副頭取に就任し、1974年11月には頭取に昇格。1993年5月に会長、1996年6月に取締役相談役名誉会長、1998年6月に相談役名誉会長、1999年6月に顧問を経て、2000年6月には名誉顧問に就任。 2004年4月に瑞宝中綬章を受章。
八方山 主計(やかたやま かずえ、1917年5月5日 - 1… 八方山 主計(やかたやま かずえ、1917年5月5日 - 1977年3月4日)は、熊本県菊池郡泗水町(現在の菊池市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は安武 計(やすたけ かずえ)。最高位は西前頭筆頭(1951年5月場所)。現役時代の体格は180cm、131kg。得意手は左四つ、寄り。 熊本県西合志村(現合志市)の剣道家緒方武の道場「護国殿」に通って剣道を学び、将来は剣術道に進むつもりだったが、師匠の緒方は彼の堂々たる体軀から将来力士として有望だと感じ、在京の徳永為次(吉田司家の故実門人)に紹介、当時横綱免許を授与していた吉田司家の斡旋で、16歳の時に出羽海部屋へ入門した。1934年5月場所で初土俵を踏み、四股名を本名の「安武」から「八方山」に改めて1940年5月場所にて十両昇進、1年後の1941年5月場所で入幕した。
反町 誠一(そりまち せいいち、1917年5月3日 - 19… 反町 誠一(そりまち せいいち、1917年5月3日 - 1990年12月4日)は、日本の経営者。東京都出身。 1947年に京都大学経済学部を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。1962年6月に取締役に就任し、1964年6月に常務、1966年4月に専務を経て、1970年6月に副社長に就任し、1976年7月には社長に昇格。1982年11月に会長に就任。 1979年11月に藍綬褒章を受章。 1990年12月4日急性心不全のために死去。73歳没。
石黒 進之助(いしぐろ しんのすけ、1917年(大正6年)5… 石黒 進之助(いしぐろ しんのすけ、1917年(大正6年)5月2日 - 1992年(平成4年)3月29日)は、日本の歯科医師、歯学士、開業歯科医、(社)鶴岡地区歯科医師会理事、山形県歯科医師政治連盟理事。
康 才良(カン・ジェリャン、朝鮮語: 강재량、1917年5月… 康 才良(カン・ジェリャン、朝鮮語: 강재량、1917年5月2日 - 1994年12月9日)は、大韓民国の実業家、政治家、教育者。初代・第2代済州道議会(現・済州特別自治道議会(朝鮮語版))議員、第2代済州道議会議長(1・2期)、第5代韓国国会議員(参議員)、第3代済州道体育会(現・済州特別自治道体育会(朝鮮語版))会長、第10代大韓卓球協会会長を歴任した。 済州島の現在の済州市地域出身。済州公立農業学校、大邱師範学校講習科(現・大邱教育大学校)、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)機械工学科卒。その後は東洋拓殖済州工場技手、済州酒精工業株式会社専務取締役、貨物船会社三洋企業株式会社社長、自由党所属の済州道議会議員、同議長(1956年9月3日〜1958年2月23日)、済州道汽船株式会社社長、第3代済州道体育会会長(1957年3月2日~1960年2月20日)、民主党所属の参議院議員、財団法人済州女子学院理事、新進工高校長、第10代大韓卓球協会会長(1975年1月~1976年1月)を務めた。