広沢 賢一(廣澤 賢一、ひろさわ けんいち、1919年〈大正… 広沢 賢一(廣澤 賢一、ひろさわ けんいち、1919年〈大正8年〉3月15日 - 2003年〈平成15年〉2月15日)は、日本の政治家、政治活動家。日本社会党から衆議院議員当選1回。男性。 東京府出身。1942年(昭和17年)早稲田大学政治経済学部卒。第二次世界大戦敗戦後、大内兵衛、鈴木茂三郎の社会主義政治経済研究所所員となり、1949年に日本社会党本部書記となる。その後、鈴木の秘書を務める傍ら、党政策審議会事務次長、組織部長企画室長を歴任。 1959年、浅沼稲次郎社会党書記長を団長とした中華人民共和国訪問団に随行した。浅沼は右派の出身で、左派で鈴木茂三郎・佐々木更三派の広沢を「ゴクサ(極左の誤読)」と呼んでいた。
和田 春生(わだ はるお、1919年3月15日 - 1999… 和田 春生(わだ はるお、1919年3月15日 - 1999年10月17日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 東京府東京市四谷区四谷左門町生まれ。三重県伊勢市出身。1939年鳥羽商船学校(現鳥羽商船高等専門学校)卒、山下汽船に航海士として入社。1945年全日本海員組合に参加し、1948年組織部長。1950年総評結成に参加して常任幹事となるが、1952年秋季闘争での総評の敗北を機に総評主流の左傾的傾向を批判、海員組合・全繊同盟・全映演・日放労の「四単産批判」取りまとめの中心となる。その後、日放労を除いた3単産を中心に総評内の右派系単産をまとめ1954年に全労会議を結成して初代書記長となり、解散まで右派労働戦線の旗手的存在だった。
吉村 克己(よしむら かつみ、1919年(大正8年)3月14… 吉村 克己(よしむら かつみ、1919年(大正8年)3月14日 - 1997年(平成9年)7月2日)は、日本のジャーナリスト、実業家。産業経済新聞社編集局次長を経て、フジテレビジョン専務取締役、サンケイ出版会長等を歴任した。 広島県生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業。軍務の後、1946年に時事新報社へ入社。 1955年に産業経済新聞社に移り、政治部長、編集局次長。1970年にフジテレビへ移籍し、報道局長、取締役報道局長、取締役報道本部長、常務取締役、専務取締役。 1981年にサンケイ出版会長。 1997年7月2日、東京都江戸川区の病院で脳梗塞のため死去。78歳没。 水野成夫時代の産経新聞社は、政治的には池田勇人首相と水野の親密な関係から政権と密着し、他方、池田は新聞社の編集幹部人事などに介入した。
中西 関松(なかにし せきまつ、1919年3月14日 - 1… 中西 関松(なかにし せきまつ、1919年3月14日 - 1990年1月9日)は、ばんえい競馬の元騎手・調教師。 北海道新十津川村の農家・中西岩吉の第6子として生まれる。中西家では第一子の長男が早世しその後女子の誕生が連続していたことから事実上の長男となる。子供時代から馬に親しみ近隣のばん馬大会に出場しており、13歳から荷馬車の馬追いや家畜商を行い、太平洋戦争中は中国大陸に出征、腹部に銃弾を受けるも腸を傷つけなかったことにより事なきを得て、また腸チフスにも罹患するも一命を取り留める。 1944年に復員し故郷で稲作や林業に従事したのち、終戦後は滝川町に移り林業や運搬作業に従事する傍ら草ばん馬大会に積極的に参加する。
小山 俊一(おやま しゅんいち、1919年3月13日 - 1… 小山 俊一(おやま しゅんいち、1919年3月13日 - 1991年9月18日) 日本の哲学者。 福岡県門司市(現北九州市)生まれ、直方に育つ。 1935年4月、中学4年終了で旧制福岡高校理科乙類(ドイツ語)に入学。一年留年して、福高卒業。1939年4九州帝国大学農学部に入学。10月、矢山哲治を中心に福岡から創刊された同人誌「こをろ」に参加。同人に阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎、眞鍋呉夫らがいた。 1941年12月、九大を繰り上げ卒業、1943年5月、陸軍雇員募集に応募、軍属として6月、ボルネオに赴任。ボルネオ山中でマラリアにかかり、敗戦後、捕虜収容所に収容される。1946年春、復員。同年秋、福岡県庁農地部に就職するも、半年で退職。
滝 謙太郎(たき けんたろう、1919年3月13日 - 没年… 滝 謙太郎(たき けんたろう、1919年3月13日 - 没年不詳)は、日本の俳優。長野県北佐久郡本牧村(現佐久市)出身。旧漢字表記は瀧 謙太郎。本名は笠原 敬三。 長野県北佐久農学校、帝国高等音楽学校研究科卒業。関屋敏子、古関裕而、下八川圭祐、原信子らに師事し声楽を学ぶ。原信子歌劇団、日本劇場、創作座、芸術座小劇場を経て、1941年に日活多摩川撮影所に入社。大映、松竹大船撮影所を経て、東映に入社。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
伏見 格之助(ふしみ かくのすけ、1919年〈大正8年〉3月… 伏見 格之助(ふしみ かくのすけ、1919年〈大正8年〉3月12日 - 2007年〈平成19年〉7月2日)は、日本の政治家、東大阪市長。日本社会党と日本共産党の推薦で革新市政を12年間担った。 岡山県岡山市出身。旧制大阪府立八尾中学校(現・府立八尾高等学校)を経て、大阪府天王寺師範学校(現・大阪教育大学)卒。大阪教職員組合委員長、日本社会党大阪府本部書記長となる。 1967年(昭和42年)4月の大阪府議会議員選挙に日本社会党から立候補(布施市選挙区)も次点。 1970年6月の東大阪市長選挙に日本社会党と日本共産党の推薦で立候補。現職の初代市長で自由民主党の辰巳佐太郎を破り初当選した。 1967年4月の東京都知事選挙で社会党・共産党推薦の美濃部亮吉が初当選するなど革新自治体ブームの最中であり、同2月に誕生 したばかりの人口50万人を抱える全国15番目の大都市 に革新市政が生まれた衝撃は大きく、翌1971年の大阪府知事選挙で黒田了一革新府政が誕生するきっかけとなった。
岩井 弘融(いわい ひろあき、1919年3月12日 - 20… 岩井 弘融(いわい ひろあき、1919年3月12日 - 2013年8月4日 )は、日本の社会学者、東洋大学名誉教授。犯罪社会学、社会病理学専攻。 佐賀県出身。東京帝国大学卒。東京都立大学 (1949-2011)助教授、教授、大正大学教授、東洋大学教授。1989年、定年、名誉教授。代表的な著作に『病理集団の構造』や『犯罪社会学』などがある。2013年8月4日、急性肺炎のため死去。94歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
細川 巌(ほそかわ いわお、1919年3月12日 - 199… 細川 巌(ほそかわ いわお、1919年3月12日 - 1996年1月1日)は、日本の化学者、仏教学研究者。 福岡市生まれ。1944年広島文理科大学化学科卒業、広島師範学校助教授、47年教授。1949年福岡学芸大学久留米分校助教授。東京大学へ内地留学し、1955年「浅海底土の化学的研究」で東京大学理学博士。58年福岡学芸大学教授、1968年東京水産大学教授併任。75年福岡教育大学を退職、名誉教授。 「ひかり幼育園」を設立し、仏法に基づく幼児教育を行い、特に浄土真宗系の仏教研究を進めた。92年勲三等瑞宝章受勲。
福尾 武彦(ふくお たけひこ、1919年3月9日 - 200… 福尾 武彦(ふくお たけひこ、1919年3月9日 - 2009年3月17日)は、日本の社会教育学者。 福島県出身。東京文理科大学卒、岩手大学教育学部助教授、1961年千葉大学教育学部助教授、教授、83年定年退官、名誉教授、大阪経済法科大学教授、89年退任。
金高 清吉(かねたか せいきち、1919年3月9日 - 19… 金高 清吉(かねたか せいきち、1919年3月9日 - 1960年2月16日)は、将棋棋士。贈八段。木村義雄十四世名人門下。千葉県天津小湊町(現・鴨川市)出身。 1946年、順位戦C級に参加し、成績上位のために六段へ跳び昇段。翌年にB級に昇段する。B級2組在籍のまま、1960年に逝去。 珍形、変形、手損等は気にしない棋風で、「悪力の金高」の異名があった。 海釣りが好きで、釣った魚のことをけなされると、闘志満々で戦ったという。 非常に酒が好きであり、清野静男、間宮純一との三人で「将棋界の三奇人」とよばれた。 将棋の現行規則においては、指し手に反則行為が生じた場合には反則を犯した対局者の即負けが規定されているが、かつては反則を定めた明文規定がなく、反則規定が設けられたのは昭和32年頃であった。
田川 亮三(たがわ りょうぞう、1919年〈大正8年〉3月8… 田川 亮三(たがわ りょうぞう、1919年〈大正8年〉3月8日 - 1995年〈平成7年〉9月18日)は、日本の官僚、政治家。三重県知事を務めた。 神奈川県横須賀市生まれ。旧制神奈川県立横須賀中学(現:神奈川県立横須賀高等学校)卒業。1942年(昭和17年)京都大学農学部卒業。農林省から三重県秘書課長、企業庁長、三重県副知事を歴任。1971年(昭和46年)9月、副知事を退任した。 退任後は三重テレビの副社長となった。その後、1972年(昭和47年)、次期衆院選に旧三重1区から民社党公認で立候補することを表明した。しかし、知事の田中覚が同じ三重1区から立候補を表明。これを受け、急遽離党して三重県知事選挙に立候補することになった。
水上 勉(みずかみ つとむ、1919年3月8日 - 2004… 水上 勉(みずかみ つとむ、1919年3月8日 - 2004年9月8日)は、日本の小説家。福井県生まれ。社会派推理小説『飢餓海峡』、少年時代の禅寺での修行体験を元にした『雁の寺』、伝記小説『一休』などで知られる。禅寺を出奔して様々な職業を経ながら宇野浩二に師事、社会派推理小説で好評を博して、次第に純文学的色彩を深め、自伝的小説や女性の宿命的な悲しさを描いた作品で多くの読者を獲得。その後は歴史小説や劇作にも取り組む一方、伝記物に秀作を残した。作品の映像化も多い。日本芸術院会員、文化功労者。位階は正四位。 福井県大飯郡本郷村(現おおい町)の、佐分利川沿いの集落で棺桶造りや宮大工をしていた家に生まれ[要ページ番号]、5人兄弟の次男として育った。
佐古 純一郎(さこ じゅんいちろう、1919年〈大正8年〉3… 佐古 純一郎(さこ じゅんいちろう、1919年〈大正8年〉3月7日 - 2014年〈平成26年〉5月6日)は、日本の文芸評論家、二松学舎大学名誉教授、日本基督教団中渋谷教会名誉牧師。 大正8年(1919年)、徳島県名西郡神山町生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)を経て朝鮮全羅南道光州東中学校を卒業。 昭和13年(1938年)、二松学舎専門学校入学。在学中の昭和15年(1940年)に亀井勝一郎を訪問。以後師事する。昭和16年(1941年)、二松学舎専門学校卒業。同年、日本大学法文学部宗教学科入学。同年5月、改造社が募集した第一回文芸推薦評論に『歴史と人間』が佳作入選。大学在学中の昭和18年(1943年)、創元社に入社。
芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年〈大正8年〉3月… 芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年〈大正8年〉3月6日 - 1990年〈平成2年〉10月2日)は、日本の元アナウンサー、ナレーター、司会者。本名は同じ。東京府(現・東京都)出身。 1951年10月にラジオ東京(現TBS)にアナウンサー第1期生として入社。1959年12月にラジオ東京を退社。1960年1月にフリーとなり芥川企画を設立し司会者・ナレーターとしても活躍した。日本におけるナレーターの草分け的存在でもあり、時代劇、演歌番組において、芥川節と呼ばれるめりはりのきいた渋い語り口で活躍。代表作には『木枯し紋次郎』、『必殺シリーズ』、『西遊記』、『水戸黄門』等。顔のない名優といわれた。妻はラジオ東京アナウンサー第1期生の本田節子。
吉田 喜一(よしだ きいち、1919年(大正8年)3月6日 … 吉田 喜一(よしだ きいち、1919年(大正8年)3月6日 - 1944年(昭和19年)12月21日)は、昭和時代戦前の競泳選手。 大分県出身。早稲田大学在学中、1936年ベルリンオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場し5位に入賞した。 太平洋戦争が勃発すると陸軍に召集され飛行第73戦隊に所属した。1944年(昭和19年)12月、ミンダナオ島にて特攻により戦死した。
持永 只仁(もちなが ただひと、1919年3月3日 - 19… 持永 只仁(もちなが ただひと、1919年3月3日 - 1999年4月1日)は、日本のアニメーション監督、人形アニメーション作家。 芸術映画社でアニメーションの世界に入り、満州映画協会入社後、日本敗戦後も中国東北部に残留して中国名「方明」でアニメーション映画を製作し続け、中華人民共和国建国後は上海に移動して上海美術映画製作所の前身となるアニメスタジオの設立に携わった。帰国後、人形アニメーション映画の製作に関わる。日本アニメーション協会名誉会員。中国にはその貢献を称えて「持永只仁賞」「持永只仁奨学金」などが存在している。 題名末尾の▲印は監督・演出(導演)以外のスタッフ参加作品 ※以降の監督作品はカラーフィルムにより製作 この時期は、タイトル上の役職はAnimagic〈時にSupervisor〉
店村 新次(たなむら しんじ、1919年3月3日 - 199… 店村 新次(たなむら しんじ、1919年3月3日 - 1991年8月20日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。同志社大学名誉教授。 フランス文学のほか、音楽関係の翻訳が多い。 満洲奉天生まれ。1941年東京外国語学校フランス語科卒。大日本航空に入りシンガポールで終戦を迎え抑留ののち復員。京都府立第三中学校(のち京都府立山城高等学校)教諭) 1950年天理大学助教授) 1953年同志社大学商学部助教授、教授。1983年「ロジェ・マルタン・デュ・ガール研究」で京都大学文学博士。1985年定年退任、聖隷学園聖泉短期大学教授。1991年8月20日、大腸癌のため死去。
辰見 敏夫(たつみ としお、1919年3月3日 - 2005… 辰見 敏夫(たつみ としお、1919年3月3日 - 2005年8月5日)は、日本の教育心理学者。東京学芸大学名誉教授。1992年勲三等旭日中綬章。 東京文理科大学教育学部心理学科卒業、東京学芸大学助教授、教授、1983年定年退官、名誉教授。1987年社会福祉功労厚生大臣表彰。1992年勲三等旭日中綬章を受章、厚生省の中央児童審議会家庭児童健全育成対策部会長。
渡邊 高之助(わたなべ たかのすけ、1919年(大正8年)3… 渡邊 高之助(わたなべ たかのすけ、1919年(大正8年)3月3日 - 2003年(平成15年)7月1日)は、日本の声楽家(テノール)・音楽教育者。新字体で、渡辺 高之助と表記されることがある。 東京府四谷区生まれ。1941年(昭和16年)東京音楽学校声楽科卒業。木下保に師事。東京放送合唱団などで活躍。1952年(昭和27年)の二期会創立以来のメンバー。オペラ歌手として、二期会、グルリット・オペラ協会、長門美保歌劇団等、数多くのオペラに出演し、昭和音楽大学オペラ研究所に記録されているだけでも出演回数は58回にのぼる。 音楽教育面においては1958年(昭和33年)東京芸術大学助教授となり、1960年(昭和35年)声楽科主任、1969年(昭和44年)教授。
柴田 泰男(しばた やすお、1919年〈大正8年〉3月3日 … 柴田 泰男(しばた やすお、1919年〈大正8年〉3月3日 - 2014年〈平成26年〉4月16日)は日本の実業家、元豊田通商社長。元トヨタ自動車・元愛知陸運各監査役。元豊田理化学研究所監事。愛知県瀬戸市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
早川 良一郎(はやかわ りょういちろう、1919年3月3日 … 早川 良一郎(はやかわ りょういちろう、1919年3月3日 - 1991年4月26日)は、日本の随筆家。東京都出身。サラリーマン生活を経て文筆家として活動した。1991年(平成3年)、72歳で死去。 1919年(大正8年)3月3日、東京市麻布区材木町に生まれる。旧制麻布小学校を卒業後、麻布中学に進学するが3年で中退し、ドイツで医学を学ぶための足掛かりとしてイギリスに渡るが、語学力が乏しく、教授の薦めでロンドン大学へ聴講生として入学する。この時早川は教授がくゆらせていたパイプに興味を持ち、パイプを嗜むようになる。イギリスでは学業もそこそこに、ピカデリー・サーカスで射的をして過ごすことが多く、結局志なかばで帰国する。
松下 和則(まつした かずのり、1919年3月3日 - 20… 松下 和則(まつした かずのり、1919年3月3日 - 2007年11月9日)は、フランス文学者、東京大学名誉教授。 父の任地、現在の青森県弘前市に生まれ、翌年東京に移転。第一高等学校理科から、1941年東京帝国大学理学部物理学科を繰り上げ卒業、1942年同地震研究所助手、1943年同文学部仏文科に入学し、1946年卒業。大学院研究生を経て1951年中央大学助教授、1954年東京大学教養学部助教授、1967年教授、1979年定年退官、名誉教授。上智大学教授を務め1984年退職。1981年から1985年まで日本フランス語フランス文学会会長、1984年フランス政府より教育功労章を授与される。1992年勲三等旭日中綬章。
伊東 博(いとう ひろし、1919年〈大正8年〉3月2日 -… 伊東 博(いとう ひろし、1919年〈大正8年〉3月2日 - 2000年〈平成12年〉8月19日)は、日本の心理学者。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 秋田県生まれ。東京文理科大学卒、ミズーリ大学大学院に学び、横浜国立大学教育学部助教授、教授、1983年定年退官。1984年、東京国際大学教養学部教授、1994年、退職。カール・ロジャーズの著作を多く翻訳した。 2000年8月19日、呼吸不全のため死去。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。
石田 寛(いしだ ひろし、1919年3月1日 - 2019年… 石田 寛(いしだ ひろし、1919年3月1日 - 2019年1月22日)は、日本の地理学者、広島大学名誉教授。岡山県出身。 岡山県熊山村(後の熊山町→赤磐市)に生まれ、岡山県第二岡山中学校(後の岡山県立岡山操山中学校・高等学校の前身)から広島高等師範学校地歴科に進み、1940年3月に文科第三部乙を卒業、さらに京都帝国大学文学部で地理学を学んだ。1942年9月、文学部史学科地理学専攻を繰り上げ卒業後、大学院に進んだが、召集を受け10月に中部第48部隊(歩兵第10連隊留守隊)に入隊した。1944年8月兵科見習士官として陸軍中央通信調査部に配属され、アメリカ軍の暗号解読に従事した。1945年1月陸軍少尉に昇進したが、敗戦を受け、9月に召集解除となった。
知野 虎雄(ちの とらお、1919年3月1日 - 2009年… 知野 虎雄(ちの とらお、1919年3月1日 - 2009年6月2日)は、日本の官僚、国会職員。衆議院事務総長や会計検査院長、地方財政審議会委員を務めた。 1919年に和歌山県串本町で生まれる。1942年に九州大学法学部卒業後、内務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進む。海軍省大臣官房勤務時に終戦を迎える。 熊本県庁へ出向後、1946年に衆議院書記官となる。衆議院委員部第一課長、庶務部長兼人事課長事務取扱、委員部長、事務次長を経て1967年に衆議院事務総長に就任した。
佐波 正一(さば しょういち、1919年〈大正8年〉2月28… 佐波 正一(さば しょういち、1919年〈大正8年〉2月28日 - 2012年〈平成24年〉9月10日)は日本の実業家、元東芝社長・会長、国際基督教大学理事長。東京都出身。 曽祖父は佐倉藩士で蘭学者の佐波銀次郎(1825 - 1891)。手塚律蔵に学び、藩命で樺太探検、幕府蕃書調所教授手伝、神奈川奉行で外交文書の翻訳などに当たった。祖父の佐波一郎は、銀次郎の甥で養嫡子。一郎は横須賀造船所黌舎で学んだのち、フランス留学を経て海軍技師として軍艦設計に携わり、海軍兵学校の教官も務めた。一郎の実姉の淑は依田学海に嫁ぎ、次女は、一郎の学友で『八十日間世界一周』の訳者として知られる横浜正金銀行員の川島忠之助と結婚するも、のちに離婚する。
森 澄雄(もり すみお、1919年(大正8年)2月28日 -… 森 澄雄(もり すみお、1919年(大正8年)2月28日 - 2010年(平成22年)8月18日)は、日本の俳人。長崎県出身。本名、森澄夫。加藤楸邨に師事、「杉」を創刊・主宰。 「寒雷」に投句、のちに編集長を務める。日常の哀歓を材とし、古典回帰を重んじた格調高い句を詠んだ。句集に『雪櫟』(1954年)、『花眼』(1969年)、『四遠』(1986年)、『深泉』(2008年)などがある。 兵庫県旭陽村(現・姫路市網干区)に生まれ、5歳より長崎県長崎市で育つ。父・貞雄、母・まゑの長男。父は歯科医で冬比古の俳号を持つ俳人であった。長崎市立朝日尋常小学校、長崎県立瓊浦中学校、長崎高等商業学校(現長崎大経済学部)卒業。
瀬谷 英行(せや ひでゆき、1919年2月28日 - 200… 瀬谷 英行(せや ひでゆき、1919年2月28日 - 2008年12月16日)は、日本の政治家。元日本社会党参議院議員。元参議院副議長。正三位勲一等旭日大綬章。 東京府に生まれ、1931年、中央大学法学部卒業後、鉄道省に就職。戦後国鉄労働組合(国労)の結成に参加し反共連盟→民主化同盟で活動、埼玉県国営企業体等労働組合協議会議長を歴任した。 大沢雄一の辞職(第29回衆議院議員総選挙出馬)に伴う1960年11月の参議院議員補欠選挙(第29回衆議院議員総選挙と同日)に埼玉県地方区(1983年の参院選より埼玉県選挙区)から社会党公認で出馬し落選するも、1962年7月参院選に同区より再び社会党公認で出馬し当選、以後連続6期務める。
山根 有三(やまね ゆうぞう、1919年2月27日 - 20… 山根 有三(やまね ゆうぞう、1919年2月27日 - 2001年5月22日)は、日本の美術史学者。東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授。近世初期の長谷川等伯、俵屋宗達、尾形光琳など琳派の研究が専門。紫綬褒章受章、叙正四位、叙勲二等授瑞宝章。 大阪府出身。父は花道家の山根廣治(号翠道)。1940年第三高等学校卒業、1942年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同大学大学院進学。1944年恩賜京都博物館館員、1951年神戸大学文理学部助教授を経て、1969年1955年東京大学文学部助教授、1969年同大学教授。1979年定年退官、名誉教授。1980年群馬県立女子大学教授。 画家の伝記的研究に努め、1990年から1999年まで美術誌「國華」の主幹を務めた(後に名誉主幹)。
神津 康雄(こうづ やすお、1919年2月27日 - 201… 神津 康雄(こうづ やすお、1919年2月27日 - 2013年4月16日)は、日本の内科医。医学博士。日本寮歌祭を主催する日本寮歌振興会の委員長を1964年から30年以上務めた。 長野県北佐久郡志賀村(現、佐久市)の豪農・神津「赤壁家」に生まれる。 旧制山形高等学校から、1944年東北帝国大学医学部卒業、同医学部内科教室(教授・黒川利雄)に入局。1951年、青森県浪岡町立病院(現・青森市立浪岡病院)院長。1954年東京都世田谷区若林に自宅開院。 日本寮歌祭には1962年に山形高校参加にあたって中心となって以来、1964年には日本寮歌振興会委員長、2002年には日本寮歌祭会長となった。 日本寮歌祭会長、日本寮歌振興会委員長、東京校歌祭会長、旧制高等学校懇話会代表、海軍櫻医会会長、日本臨床内科医会会長(1989年就任、のち名誉会長)、日本医師会常任理事(1982年 - 1984年)、東京都医師会理事、東京内科医会会長、東京都各科医会協議会会長、世田谷区医師会会長、日本の高等教育を考える会専務理事、日本病院管理教育協会理事長、東京尚仁会会長などを歴任。
黒田 三郎(くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26… 黒田 三郎(くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26日 - 1980年(昭和55年)1月8日)は、日本の詩人。 東大経済学部卒。戦後の『智恵子抄』とも言える恋愛詩集『ひとりの女に』(1954年)と、妻の入院中、父娘2人の生活をうたった絶唱『小さなユリと』(1960年)で現代詩を誰にもわかる平明なものにした。ほかに『時代の囚人』(1965年)など。 広島県呉市出身。呉海兵団の副団長であった父・勇吉(海軍兵学校第21期)の退役に伴い、3歳からは、父の故郷・鹿児島で育つ。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制) 、第七高等学校造士館 (旧制) を経て東京大学経済学部卒業。戦時中、会社から派遣されたり現地召集で南洋の島々で過ごした。
岩持 静麻(いわもち しずま、1919年(大正8年)2月25… 岩持 静麻(いわもち しずま、1919年(大正8年)2月25日 - 2005年(平成17年)11月9日)は、日本の政治家。全国農業協同組合中央会(JA全中第六代)会長。岩手県議会議員(5期)。1989年(平成元年)勲二等旭日重光章受賞。旧姓沼倉。 岩手県西磐井郡萩荘村(現・一関市)に生まれる。3歳の時に父を事故で失い、以後、母は女手一つで7人の子供を育てる。1933年(昭和8年)市野々尋常高等小学校卒。1937年(昭和12年)宮城県農学校(現・宮城県農業高等学校)入学。1941年(昭和16年)同校卒業。同年官立盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)入学。1943年(昭和18年)同校卒業。同年農林省(現・農林水産省)に入り、農政局農業保険課に勤務する。
城山 良彦(しろやま よしひこ、1919年2月25日 - 1… 城山 良彦(しろやま よしひこ、1919年2月25日 - 1996年3月29日)は、日本のドイツ文学者。 広島県出身。1943年東京帝国大学文学部独文科卒。学習院大学助教授、東京都立大学 (1949-2011)教授、1982年定年退官、日本大学教授。カフカを研究した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岡部 多喜子(おかべ たきこ、1919年(大正8年)2月24… 岡部 多喜子(おかべ たきこ、1919年(大正8年)2月24日 - 2020年(令和2年)10月15日)は、日本の声楽家(ソプラノ、メゾソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。 東京府出身。東京音楽学校卒業。長坂好子に師事。 1942年(昭和17年)2月6日 第13回全日本新人紹介演奏会(夜 日比谷公会堂)でヴェルディ『ドン・カルロス』よりエボリ姫の詠唱、清水脩『春の寺』(記録は『メツォソプラノ』である)を歌う。また、レコードの吹込みも行うなど、戦時中も途切れず音楽活動を行う。 戦後、オペラにおいて、1950年(昭和25年)6月11日に長門美保歌劇團公演 日比谷公会堂 モーツァルト『フィガロの結婚』ケルビーノ(指揮:金子登)、1954年(昭和29年)12月24日、25日、26日、28日 俳優座劇場 二期会 メノッティ『アマールと夜の訪問者』アマールの母(指揮:伊藤栄一)を演じている。
高品 格(たかしな かく、1919年2月22日 - 1994… 高品 格(たかしな かく、1919年2月22日 - 1994年3月11日)は、日本の俳優。本名、向後 直吉(こうご なおきち)。 千葉県出身。北川事務所、スタッフ・アップに所属していた。息子は作家・カウンセラーの向後善之(1957年生)。本名からわかる通り、同じ旭市出身の高品剛とは無関係。 千葉県海上郡飯岡町に漁師の息子として生まれる。千葉県匝瑳郡八日市場小学校高等科を卒業後、八日市場区裁判所に勤務する。 1935年、東京市杉並区高円寺の「東邦拳闘倶楽部」に入ってプロボクサーになり、東洋フライ級チャンピオンまで登り詰めるが、日本映画に感動して俳優を志し1938年、日活多摩川撮影所に入社。1939年、田坂具隆監督の戦争映画『土と兵隊』でデビュー。
弥勒 祐徳(みろく すけのり、1919年2月20日 - 20… 弥勒 祐徳(みろく すけのり、1919年2月20日 - 2024年5月16日)は、宮崎県内で活動した日本の画家。西都市にて生まれ、在住も死没地も同市であった。珍しい名前だが、本名である。宮崎県立都農高等学校講師、宮崎県美術協会理事。息子はテレビ宮崎役員の弥勒猛。 精力的に活動を続け、350回を越える個展を開いた。自宅の近くに展示室『神楽館』を設けており、作品を見ることができるほか、アートカフェや美術館で作品展示を行った。主に神楽や桜をテーマにする画家として有名。代表作に、銀鏡神楽(しろみかぐら)で舞われた「山の神」を描いた百二十号の大作など。
百瀬 晋六(ももせ しんろく、1919年2月20日 - 19… 百瀬 晋六(ももせ しんろく、1919年2月20日 - 1997年1月21日)は日本の航空機・自動車技術者。 富士重工業の四輪自動車ブランド「スバル」の初期車種開発(1951年 - 1960年代)で設計統括を担い、日本の自動車史における卓越したエンジニアの一人に数えられる。主な作品に、日本初のモノコック構造リアエンジンバス「ふじ号」、スバル・360、初代スバル・サンバー、スバル・1000などがある。 1919年(大正8年)2月に、長野県塩尻市の造酒家の家に生まれる。松本高等学校 (旧制)を経て、1939年に東京帝国大学工学部航空学科へ入学し原動機を専攻。1941年12月の卒業後、翌1942年1月に中島飛行機株式会社に入社。
宮永 岳彦(みやなが たけひこ、1919年2月20日 - 1… 宮永 岳彦(みやなが たけひこ、1919年2月20日 - 1987年4月19日)は、日本の画家。 静岡県磐田郡(現・磐田市)生まれ。名古屋市立工芸学校(現名古屋市立工芸高等学校)卒業後、松坂屋名古屋本店に入社。その後、第二次世界大戦の兵役の後、実家の神奈川県秦野市に戻り、松坂屋銀座店宣伝部に勤務しながら秦野市、後に東京都新宿区にて創作活動を行う。 油絵をはじめ、小田急電鉄や全日本空輸、横浜開港祭のポスター、童画、週刊漫画TIMESなどの表紙画、挿絵、水墨画などの作品を残した。特に1955年の発売以来、現在に至るまでパッケージに使用されている「ぺんてるくれよん」のイラストがつとに有名である。その多才さから「器用貧乏」と揶揄されたが、「器用貧乏が勝つか、不器用が勝つか、勝負だ」と意に介さなかった。
金瀬 俊雄(かねせ としお、1919年(大正8年)2月19日… 金瀬 俊雄(かねせ としお、1919年(大正8年)2月19日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県君津郡佐貫町(現在の富津市)生まれ。千葉県立木更津中学(現在の千葉県立木更津高等学校)を経て、千葉師範学校卒業。君津郡内の小学校や青年学校の教員となる。戦後直ぐに千葉県教職員組合の結成に関わり、日本社会党に入党。1947年に千葉県議会議員(君津郡選出)に当選し、途中離党して民主社会党に参加するも直ぐに社会党へ復党し7期務める。長年、県議会議員として公共の福祉に奉仕して地方自治の発展に貢献したとして1968年、藍綬褒章受章。1972年の第33回衆議院議員総選挙で千葉3区から社会党公認で立候補し、初当選。
児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 200… 児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 2008年9月3日)は、大分県大分市出身のプロ野球選手(内野手)、野球解説者。
松永 市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月1… 松永 市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月18日 - 2005年(平成17年)3月31日)は、日本の軍人。元海軍大尉。作家。 父は海軍中将松永貞市、子にiモード開発者の松永真理がいる。
広瀬川 惣吉(ひろせがわ そうきち、1919年2月18日 -… 広瀬川 惣吉(ひろせがわ そうきち、1919年2月18日 - 1979年8月6日)は、宮城県柴田郡柴田町出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した元大相撲力士。本名は及川 惣吉(おいかわ そうきち)→片岡 惣吉(かたおか -)。身長180cm、体重105kg。最高位は東前頭3枚目(1952年1月場所・1953年3月場所)。 なお、四股名の表記については、「広」の字が旧字体の「廣」となっている文献も見受けられる。 17歳の時上京して角界入りし、1937年1月、元関脇・清瀬川率いる伊勢ヶ濱部屋より初土俵を踏んだ。 序二段に付いてから負け越しなしで1941年1月場所で新十両昇進、そして、1943年1月場所で入幕を果たした。
鈴木 祥蔵(すずき しょうぞう、1919年2月17日 - 2… 鈴木 祥蔵(すずき しょうぞう、1919年2月17日 - 2009年7月30日)は、日本の教育学者。関西大学名誉教授。専門は教育哲学、部落解放教育。部落解放教育運動の全国的指導者で、教職員組合運動や幼児教育運動などにも影響を与えた。 宮城県白石市生まれ。1943年京都帝国大学文学部哲学科卒業。同大学大学院に入学するが、兵役のため休学、中国東北部に派遣され、敗戦後はシベリア抑留を経験。復員後の1949年京都大学大学院に復学。1951年同大学院教育学研究科退学、関西大学文学部助教授、1957年同教授。1967年の教育学科創設の中心となり、文学部長、部落問題委員会委員長、部落問題研究室(1974年創設、1985年人権問題研究室に改組)初代室長を歴任。
影山 衛司(かげやま えいじ、1919年 <大正8年> 2月… 影山 衛司(かげやま えいじ、1919年 <大正8年> 2月17日 - 1998年 <平成10年> 11月20日)は、日本の官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。位階は正四位。 広島県出身。第六高等学校を卒業。1939年10月、高等試験行政科試験に合格。1940年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、商工省に入省し燃料局属に任官。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進し、第101海軍燃料廠セラム支廠勤務で終戦を迎えた。 戦後、商工省、通商産業省での勤務を経て、1966年4月から1967年9月までに中小企業庁長官を務めた。
亀井 要(かめい かなめ、1919年(大正8年)2月17日 … 亀井 要(かめい かなめ、1919年(大正8年)2月17日 - 没年不詳)は、日本の実業家、株式会社三省堂元会長、社長。 東京府(現東京都)出身。1919年、亀井寅雄(三省堂書店創業者・亀井忠一の四男)の長男として生まれる。 1942年、立教大学文学部卒業。大学卒業後、家業の株式会社三省堂に入社。(株式会社三省堂は、父・寅雄の提案により1915年に三省堂書店から出版事業部が分離独立して設立されている。) 1947年、三省堂常務、1951年同社専務と歴任し、1956年三省堂社長に就任。 その後一旦、社長を退くが、1961年三省堂取締役に再任され、1965年に会長に就任。1970年に再び三省堂社長となった。
今井 源衛(いまい げんえ、1919年2月16日 - 200… 今井 源衛(いまい げんえ、1919年2月16日 - 2004年8月12日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(九州大学・論文博士・1971年)(学位論文「王朝文学の研究」)。九州大学名誉教授、梅光女学院大学名誉教授。1989年勲二等瑞宝章受章。 三重県四日市市に生まれる。1943年第一高等学校卒業、1947年東京大学国文科卒業、大学院進学、高校教師を経て、1953年清泉女子大学助教授、1956年九州大学助教授、1971年「王朝文学の研究」で、九州大学より文学博士の学位を取得、教授昇任。1978年文学部学部長、1982年定年退官、梅光女学院大学教授。1989年勲二等瑞宝章受章。 『源氏物語』をはじめ、王朝物語研究における一方の雄だが、日本古典のレズビアン物語とされる『我身にたどる姫君』の訳註を行ったり、論文「女の書く物語はレイプからはじまる」(『王朝の物語と漢詩文』収録)で、『源氏』などのセックスの多くは強姦であると論じて、三田村雅子らの反論を呼んだ、大胆さをもった研究者であった。
石田 治夫(いしだ はるお、1919年2月16日 - 202… 石田 治夫(いしだ はるお、1919年2月16日 - 2021年6月3日)は、日本の銀行家。武蔵野銀行頭取を務めた。 東京都出身。1940年に明治学院高等部を卒業。満鉄での勤務を経て、1953年に武蔵野銀行に転じ、1970年11月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1979年6月に専務を経て、1983年6月に頭取に就任。1987年6月に会長、1992年6月に取締役相談役を経て、1997年6月には相談役に就任。 1989年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 2021年6月3日老衰のために死去。102歳没。
森村 國夫(もりむら くにお、1919年〈大正8年〉2月16… 森村 國夫(もりむら くにお、1919年〈大正8年〉2月16日 - 2010年〈平成22年〉11月15日)は、日本の経営者。エバラ食品工業の創業者。 群馬県佐波郡剛志村上武士(現・伊勢崎市境上武士)出身。織物業に従事する森村和一郎・志づの第5子(末子)として生まれる。幼少期に父の事業が倒産したことから、境町の借家に引っ越して境町尋常小学校に学んだ。のちに清水建設社長を務める吉野照蔵は小学校の同級であった。 1933年に上京し、兄の経営するソース製造販売事業に従事しながら町田報徳学舎の夜学で学ぶ。1940年に第14師団に入営し、独立歩兵第1連隊に配属され満洲に派遣された。1943年に除隊。 終戦直後には代用醤油の製造を手がけたこともあった。
尾上 康治(おのえ やすはる、1919年2月15日- 200… 尾上 康治(おのえ やすはる、1919年2月15日- 2003年12月24日 )は、日本の経営者、理学博士。徳山曹達(現在のトクヤマ)社長、会長を務めた。 山口県出身。1947年に九州大学理学部化学科を卒業し、1948年に徳山曹達(のちのトクヤマ)に入社した。1969年に取締役に就任し、1974年5月に常務、1977年6月に専務を経て、1982年6月には社長に就任。1989年6月に会長に就任し、1995年6月には相談役に就任。 山口朝日放送社長も務めた。 1974年に紫綬褒章を受章し、1994年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2003年12月24日、肺炎のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。