早田 文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 19… 早田 文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 1934年1月13日)は日本の植物学者。 1871年、新潟県加茂生まれ。1903年東京帝国大学を卒業。台湾総督府の依頼で台湾の植物を研究し、さらにインドシナでも調査を行った。その後東京帝大理学部教授および東大附属植物園長となった。 台湾植物の命名にあたってはフランス人神父のユルバン・ジャン・フォーリー (Urbain Jean Faurie) が残した資料に拠る部分が多かったため、謝意を表するため日本人から寄付を募り、1917年に神父の銅像を建てた。 死後の1936年、台湾総督府は功績をたたえ記念碑を現台北植物園の腊葉館前に建てたが太平洋戦争の混乱により、フォーリー神父の銅像ともども行方不明となってしまった。
もっと読む
石破 市造(いしば いちぞう、1874年〈明治7年〉12月2… 石破 市造(いしば いちぞう、1874年〈明治7年〉12月2日 - 1941年〈昭和16年〉1月19日)は、日本の農民、政治家。鳥取県八頭郡大御門村長、同村会議員、同信用組合理事を歴任。 参議院議員や第39代鳥取県知事を務めた石破二朗の父で、第102・103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁の石破茂の祖父。 鳥取県八東郡大御門村大字殿(後の郡家町、現・八頭町)で石破常七の長男として農家の家に生まれた。高等小学校卒業後は家業たる農業に従事したが、明治27年(1894年)隼村役場書記を拝命。明治28年(1895年)大御門村役場に転じ明治33年(1900年)辞任。明治35年(1902年)村書記復職。
もっと読む
相見 香雨(あいみ こうう、1874年(明治7年)12月1日… 相見 香雨(あいみ こうう、1874年(明治7年)12月1日 - 1970年(昭和45年)6月28日)は、日本の美術史家、新聞記者。本名は相見繁一(はんいち)。 96歳で没するまで約60年に亘り在野で実証的研究を続け、美術史界における「在野の大立者」(田中一松)と評された。生涯に書き継いだ自筆の調査記録は42帙240冊(九州大学文学部所蔵)にのぼる。87歳で紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受章した。 1874年、相見家(商家・野波屋)の長男として島根県松江魚町(現松江市魚町)に生まれた。白潟小学校(現松江市立中央小学校)、進取学館(のちの私立中学修道館)を経て、島根県尋常中学校(前身は松江中学)に進学。
もっと読む
前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1… 前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1906年4月24日、 英語 Shinpei MaekawaまたはShinpei Mykawa)は、愛知県出身の農業技術者。渡米し、テキサス州の南東部に稲作を導入させた。ヒューストンのMykawaという地域名、ならびにMykawa Roadという道路は彼の名にちなんで命名された。"Mykawa"は当初マエカワと発音させるためのスペリングであったが、米国での発音は“マイカワ”である。 前川は高等商業学校(のちの東京高等商業学校→東京商科大学、現・一橋大学)を卒業した。同校は当時、東京の商業学校の筆頭に位置づけられていた。 1903年、海軍士官だった前川は、翌年開催されたセントルイス万国博覧会日本使節団の一員として渡米した。
もっと読む
伊吹 元五郎(いぶき もとごろう、1874年(明治7年)11… 伊吹 元五郎(いぶき もとごろう、1874年(明治7年)11月28日 – 1959年(昭和34年)3月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 長崎県長崎市出身。1898年(明治31年)、陸軍士官学校を卒業。最終階級は陸軍大佐。シベリア出兵に従軍した。帝国在郷軍人会長崎市聯合分会長、同本部評議員、同西彼杵郡聯合分会長、長崎護国会長、大政翼賛会長崎県協力会議長、同中央協力会議員などを務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に長崎1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。
もっと読む
二木 洵(ふたつぎ まこと、1874年(明治7年)11月25… 二木 洵(ふたつぎ まこと、1874年(明治7年)11月25日 - 1936年(昭和11年)1月29日)は、日本の政治家・蚕種業者。衆議院議員。 筑摩県東筑摩郡和田町村(現長野県松本市)に窪田畔夫の次男として生まれる。東京物理学校を卒業後、明治31年(1898年)同郡本郷村の秋蚕種製造業者、二木秀一の養子となる。大正3年(1914年)片倉組の今井五介らとともに一代交雑種普及団を組織して新種の普及に努め、同5年(1916年)から東筑摩郡製糸同業組合長に就任する。同10年(1921年)製糸会社「筑摩社」を設立し社長となり、同15年(1926年)帝蚕倉庫の取締役となる。昭和3年(1928年)長野県蚕糸調査会の設立とともに委員となり、同5年(1930年)副会長となる。
もっと読む
田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月… 田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月24日 - 1955年(昭和30年)2月20日)は、明治から昭和前期の教育者、僧侶、政治家。衆議院議員(7期)。 愛知県愛知郡、のちの篠原村(松葉村、常磐村大字篠原を経て現名古屋市中川区)で、豪農・田中平八、タキ夫妻の二男として生まれる。熱心な真宗信徒の父が中学進学を認めなかったため、13歳で出家得度し真宗大谷派名古屋別院内の普通学校(現名古屋大谷高等学校)に入学し、校長南条文雄の薫陶を受けた。1891年(明治24年)12月に上京し東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学し、1892年(明治25年)夏、哲学館(現東洋大学)に転じた。
もっと読む
渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月… 渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月24日‐1961年(昭和36年)9月29日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 1874年11月24日に東京府四谷区荒木町に生まれる。名は啓三。1892年(明治25年)に高橋玉淵に入門、また川端玉章にも師事した。1896年(明治29年)の日本絵画協会第1回絵画共進会、1897年(明治30年)春季の日本絵画協会第2回絵画共進会二作品を出品、同年7月に東京美術学校を卒業。同年秋季の日本絵画協会第3回絵画共進会に「木枯」を出品し、二等褒状を得る。1898年(明治31年)春季の日本絵画協会第4回絵画共進会に「秋致」を出品した後、2、3年山形県、群馬県の中学校教員を務めて1900年(明治33年)に帰京する。
もっと読む
堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1… 堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1963年7月6日)は、日本の英語学者。 愛媛県今治市出身。1884年徳冨蘆花の英語塾に学び、1888年上京、東京英語学校入学、1894年東京専門学校(早稲田大学)英文科卒、ここで坪内逍遙の講義を受け、神田の国民英学会で英語を教えた。1894年東京府立城北中学校、1897年岡山県立第一中学校に勤め、1902年江田島海軍兵学校教授。1916年-1945年慶応義塾大学教授。この間1932年-1941年NHK英語講座担当。1949年-1954年戸板女子短期大学英文科長。
もっと読む
五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月2… 五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月22日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の国文学者。号は巴千。修辞学・国文学・国語学の領域で多くの業績を残した。 日本の近代修辞学史上、最も多くの修辞学関係書を著した人物である。 山形県米沢市生まれ。米沢中学校を経て、1894年7月、東京専門学校卒業。翌年『早稲田文学』記者に就任。近松同人研究会の一員として、坪内逍遙の指導を受ける。卒業後10年ほどは国文学から離れるが、逍遙の勧めで国文学研究に戻る。1901年、東京専門学校講師。1920年、新たに設置された早稲田大学文学部国文科主任教授に就任。後に文学部学部長を勤めた。1945年、自宅の甲鳥園が空襲によって焼失し、早稲田大学文学部内の五十嵐記念文庫も焼失した。
もっと読む
西山 金蔵(にしやま きんぞう、1874年〈明治7年〉11月… 西山 金蔵(にしやま きんぞう、1874年〈明治7年〉11月19日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主。 西山常次郎の長男。西巣鴨町会議員、池袋第二小学校小学会副会長、西巣鴨町第四部青年団長、西山会第一部長、氏神氷川神社世話人である。また1930年2月17日より1931年6月29日まで西巣鴨町助役をつとめた。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋(のち東京都豊島区池袋1丁目)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
もっと読む
三輪田 輪三(みわた りんぞう、1874年(明治7年)11月… 三輪田 輪三(みわた りんぞう、1874年(明治7年)11月16日 - 1961年(昭和36年)10月8日)は、日本の教育者。 愛媛県出身。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学数学科を卒業。山口高等学校教授となり、1901年(明治34年)に第六高等学校教授に転じた。1920年(大正9年)、山形高等学校初代校長に就任した。退官後、松本亀次郎らが設立した東亜高等予備学校学監を務めた。
もっと読む
小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉1… 小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉11月15日 - 1934年〈昭和9年〉5月19日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選秋田県知事、静岡市長。 群馬県勢多郡駒形町(現・前橋市)出身。小島彦右衛門の二男として生まれる。群馬県尋常中学校、私立日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し総務局属となる。 以後、広島県参事官、内務省参事官、関東州民政署事務官・旅順支署長、関東都督府民政署長、長崎県事務官・第四部長、静岡県事務官・内務部長などを経て、1913年6月、兵庫県内務部長となる。
もっと読む
今村新吉(いまむら しんきち、1874年11月15日 - 1… 今村新吉(いまむら しんきち、1874年11月15日 - 1946年5月19日)は、日本の精神医学者。 石川県金沢市出身。今村有隣の長男。1897年帝国大学医科大学卒。ウィーン留学後京都帝国大学医学部教授となり、精神医学教室を創設、初代教授となる。1904年医学博士。渡辺久吉の日本心霊学会にかかわり、人文書院と改称した時の命名者である。妄想性精神病、神経症など精神病理学の研究で知られた。弟は今村次吉。千里眼事件では、福来友吉らとともに御船千鶴子の売り出しを行っている。
もっと読む
真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、18… 真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、1874年(明治7年)11月13日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、京都市生まれの有機化学者。大阪帝国大学総長などを歴任。
もっと読む
久野 工(ひさの たくみ、1874年〈明治7年〉11月10日… 久野 工(ひさの たくみ、1874年〈明治7年〉11月10日 - 1960年〈昭和35年〉6月3日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。神奈川県横須賀市長。海軍主計中将正四位勲二等。 旧土佐藩士・久野克記と母・亀の長男として高知県土佐郡久万村(初月村を経て現・高知市)に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1891年(明治24年)高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)を経て、明治法律学校2年修了。 1896年(明治29年)海軍少主計候補生を命ぜられ、佐世保海兵団附、佐世保鎮守府監督部附を経て、1905年(明治38年)海軍主計少監に進む。ついで、英国出張(鹿島回航委員)に赴き、1910年(明治43年)造船造兵監督会計官に任官すると、英国へ再度赴任し、1912年(明治45年)帰朝する。
もっと読む
西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)1… 西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)11月6日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 雅楽部長・竹屋光昭の四男として生まれる。子爵・西大路隆修の死跡を相続し、1896年(明治29年)2月3日、子爵を襲爵した。 1901年(明治29年)東京帝国大学農科大学林学実科を修了。同年、営林技手に就任。以後、同主事兼大林区署書記、山林局技手兼林務官官補、山林技師、林務技師などを歴任し、森林主事教習講師、農商務省嘱託も務めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
もっと読む
川崎 佐治右衛門(かわさき さじえもん、1874年〈明治7年… 川崎 佐治右衛門(かわさき さじえもん、1874年〈明治7年〉11月6日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、資産家、醸造家、実業家。川崎肥料社長。和泉商店代表。泉醤油取締役。和泉洋反物監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡岸和田町北町(現・岸和田市)の人。川崎佐治郎の長男。1882年、家督を相続する。醤油醸造業を営む。諸会社の重役である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
もっと読む
中川 末吉(なかがわ すえきち、1874年(明治7年)11月… 中川 末吉(なかがわ すえきち、1874年(明治7年)11月6日 - 1959年(昭和34年)4月9日)は、大正・昭和時代の実業家。古河財閥の幹部として、古河電気工業社長、日本軽金属社長などを務めた。旧姓・赤塚。 滋賀県高島郡下古賀村(現在の滋賀県高島郡安曇川町字下古賀)の庄屋の五男として生まれる。地元の小学校を卒業後、隣村の村役場の雑用係として働いていたが、足尾銅山の調馬係・中川武三に請われて養子となり、1889年に琵琶湖疏水工事に従事していた人夫400人を足尾銅山に移す作業を武三と請け負い、その会計と日誌係を担当する。 銅山の経営者・古河市兵衛の誘いで、日本橋瀬戸物町の市兵衛の店で働きはじめ、23歳くらいの頃、向学心が認められて商工中学校や早稲田専門学校へも通ったが、井上公二、岡崎邦輔、山口熊野ら店の上司たち同様米国留学を希望し、中退して1903年に渡米、ペンシルベニア大学、エール大学で学び、6年間滞在する。
もっと読む
十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえも… 十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえもん、1874年(明治7年)11月5日 - 1945年(昭和20年)5月6日)は、大正から戦前昭和の歌舞伎を代表する役者の一人。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名は市村 録太郎(いちむら ろくたろう)。 二枚目や若衆役を中心とする白塗りの立役として活躍。時代を代表する美男子で、そのあまりの美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。 東京府出身。出生の事情については長らく謎だったが、死後里見弴が著書『羽左衛門伝説』の中で、十五代目は外交官のチャールズ・ルジャンドルと芸者の池田絲(いけだ いと、松平春嶽の私生児)の間に生まれた私生児だったという説を発表し、現在ではこれが定説になっている。
もっと読む
長尾 元太郎(ながお もとたろう、1874年(明治7年)11… 長尾 元太郎(ながお もとたろう、1874年(明治7年)11月2日 - 1935年(昭和10年)3月28日)は、明治から昭和前期の林業家・農業経営者・地主・実業家・政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、岐阜県武儀郡菅田町長。 岐阜県武儀郡、のちの沙田村(菅田村、菅田町、益田郡金山町を経て現下呂市金山町)で、素封家・長尾四郎右衛門の長男として生まれ、1916年(大正5年)家督を相続した。慶應義塾、東京高等商業学校(現一橋大学)で学んだ。 帰郷して農業、林業を営む。また、大垣銀行監査役、美濃銀行取締役、濃飛農工銀行取締役、岐阜不動産取締役、菅田町農会長、同町教育会長、武儀郡教育会員、岐阜県農事協会理事などを務め、小作制度の改善などに尽力した。
もっと読む
金森 鍬太郎(かなもり くわたろう、1874年(明治7年)1… 金森 鍬太郎(かなもり くわたろう、1874年(明治7年)11月1日 - 1927年(昭和2年)1月26日)は、明治から大正時代の土木工学者、内務官僚。旧姓は伊藤。 伊藤宗兵衛の二男として愛知県に生まれ、金森きくの養子となり、1899年(明治32年)8月に家督を相続した。1900年(明治33年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省第五区(大阪)土木監督署に奉職する。淀川改修工事では瀬田川の洗堰、浚渫などを指揮した。ほか、琵琶湖の治水に携わった。 1911年(明治44年)内務省土木局調査課へ転じ、土木局第一技術課、第二技術課長を歴任した。この間、臨時治水調査会、港湾調査会委員などを務めたが、在職中に死去した。
もっと読む
上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 … 上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 - 1916年(大正5年)7月9日)は、日本の英文学者・詩人・翻訳家。学位は、文学博士。京都帝国大学文科大学教授。族籍は静岡県士族。「柳村」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。 外国文学、とくに西欧の象徴詩の紹介と翻訳を精力的に行った。名訳詩集『海潮音』(1905年)は、日本の詩壇を覚醒させ、「パンの会」結成などに影響を与えた。作品に訳詩集『牧羊神』(1920年)など。 1905年(明治38年)に本郷書院で刊行された訳詩集『海潮音』で知られ、日本にベルギー文学や南仏プロヴァンス文学、象徴派や高踏派の詩を紹介した。 『海潮音』に収められたドイツの詩人カール・ブッセの詩『山のあなた』より「山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。
もっと読む
原田 藤次郎(はらだ とうじろう、1874年(明治7年)10… 原田 藤次郎(はらだ とうじろう、1874年(明治7年)10月21日 - 1948年(昭和23年)1月5日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家。衆議院議員。 原田佐治郎の長男として、青森県西津軽郡森田村(現・つがる市森田町)に生まれる。農業を営む傍ら青森県農工銀行取締役を歴任する。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で青森県第4区から立憲政友会所属で出馬して当選し、2期務めた。 在任中は五能線の五所川原以西の延伸に尽力し、1924年(大正13年)には陸奥森田駅まで列車が走るようになり、翌年には鰺ケ沢まで、1934年(昭和9年)には深浦まで開通した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)までは西津軽郡土淵堰、悪水路の両水利組合議員を務め、農業水利の改善に尽くした。
もっと読む
小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18… 小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18日 - 1933年(昭和8年)10月5日)は、日本の実業家。郷里の和歌山県で日高川水力電気での水力発電事業を成功させたのち、南紀白浜温泉を開発。明光バスなども設立した。 和歌山県日高郡島村(現・御坊市)に生まれる。小学校、中学校時代を首席で通し、1893年に御坊村の小竹家の養子となった。 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1894年に高等高等商業学校(現・一橋大学)に進学した。 同校を病気で中退後、鎌倉市の円覚寺で2年間修行し、和歌山に帰郷し兄弟で家業の木材業を再興し、資産家となった。 日高郡で初となる製材所として、1901年に日高製材所を設立。
もっと読む
安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - … 安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - 1931年8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 滋賀県出身。明治法律学校で学ぶ。滋賀県議、同議長となる。また、近江重布(株)、高島銀行各取締役を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀2区から立憲政友会公認で立候補して当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では87票差で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では滋賀県全県区から立候補して返り咲いた。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1931年死去。
もっと読む
脇村 市太郎(わきむら いちたろう、1874年(明治7年)1… 脇村 市太郎(わきむら いちたろう、1874年(明治7年)10月18日 - 1960年(昭和35年)4月8日)は、日本の薬剤師、実業家。田辺銀行監査役、田辺町会議員。田辺市名誉市民。 現在の田辺市で脇村市太夫の長男として生まれた。1893年(明治26年)帝国大学医科大学中退。家業の薬種商、山林業を営む。 1956年(昭和31年)に脇村奨学会を設立し、和歌山県の大学進学者に育英奨学金を支給している。 田辺市文化交流センター「たなべる」には脇村市太郎像が設置されている。
もっと読む
棚次 辰吉(たなつぐ たつきち、明治7年(1874年)10月… 棚次 辰吉(たなつぐ たつきち、明治7年(1874年)10月15日 - 1958年5月19日)は、日本の発明家、実業家。 東かがわ市における手袋産業の育ての親とされる人物である。東かがわ市の白鳥神社の敷地内にある手袋神社に銅像がある。 讃岐国大内郡松原村(現在の香川県東かがわ市松原)出身。明治22年に教蓮寺に奉公に出る。明治24年に大阪に行き、メリヤス商店に入り、従兄弟の両児舜礼の下で手袋などの製造販売を修得する。明治27年に独立した。明治30年にメリヤス加工のミシンを考案した。明治32年に教蓮寺内に積善商会を起こし、手袋の製造を始める。大正5年に大阪手袋工場を創業した。 その後、第一次世界大戦の特需により、東かがわ市内に手袋会社や工場が多く作られ、現在まで続く東かがわ市における手袋産業発展のきっかけになった。
もっと読む
平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月… 平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月13日 - 1943年(昭和18年)4月8日)は、日本の天文学者。 宮城県仙台市出身。寺尾寿の弟子で、天体力学及び古暦の研究で有名。小惑星の「族」を発見した功績により月の裏側のクレーターに「ヒラヤマ」と名づけられた。ヒラヤマは清次と同姓の天文学者・平山信(太陽の理論的な研究、小惑星の観測や発見及び軌道決定、日食観測、天体物理学・恒星天文学及び測地学に多大な業績を残した)の2人の名前に由来しているが、清次と信の間には血縁・姻戚関係はない。墓所は仙台市泰心院。 平山清次の門下生には萩原雄祐、鏑木政岐、広瀬秀雄らがいる。
もっと読む
坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 … 坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 - 1944年11月14日)は、日本の官僚・内務技官。土木技師・土木工学者。関西高等工学校・関西高等工業学校(現:大阪工業大学)第2代理事長。工学博士(東京帝国大学)。内務省大阪土木出張所元所長。土木学会元関西支部長。元阪神上水道組合長。河川工学(特に淀川)の権威の一人。位階は従三位、勲等は勲三等。 専門は、土木工学・河川工学/海岸工学、水工学。 1874年宮城県仙台生まれ。1900年東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省第5区(大阪)土木監督署にて主任として、淀川第1工区改修工事に従事。1911年同省東京土木出張所に異動し、利根川第3期改修工事従事に従事。
もっと読む
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)1… 満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)10月11日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の洋画家である。十五老とも称した。 1874年10月11日に満谷準一郎と世辞との間に三男として、岡山県賀陽郡門田村(もんでむら・現総社市門田)に生まれた。現在は「満谷国四郎先生 生誕之地」と刻まれた石碑が建てられている。叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人で、幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に進むと松原三五郎に画才を認められた。1891年(明治24年)、ついに中学を3年で退学。
もっと読む
池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月… 池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月11日 - 1944年(昭和19年)5月26日)は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩・御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。
もっと読む
八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9… 八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9日 - 1938年(昭和13年)1月16日)は、日本の政治家、実業家、陸軍軍人である。幼名は吉之丞。立憲政友会所属の衆議院議員。馬議員、鉄道代議士、百姓代議士などの異名があった。 日本医科大学教授で衆議院議員の八田貞義は息子。 福島県河沼郡日橋村(現・会津若松市)出身。福島中学を経て、陸軍軍人となり歩兵大尉まで進級している。故郷である日橋村村長となったのが政治家としての第一歩で、県会議員、参事会員を歴任。実業家としては福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員を務めている。 1917年(大正6年)福島二区から衆議院議員に初当選。
もっと読む
新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 197… 新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 1974年11月4日)は、日本の歴史学・教育学者。 愛知県名古屋市生まれ。実家は旧尾張藩の藩主の鉄砲を管理する御手筒同心の家柄だった。旧制第一高等学校から東京帝国大学(現 東京大学)文科大学史学科卒業。1903年に広島高等師範学校に赴任し、日本最初の「歴史教授法」を開講した。1908年にライプツィヒ大学に留学しカール・ランプレヒトに師事、1912年帰国。1916年“Die Geschichte der Buke- Herrschaft in Japan”(邦訳『日本における武家政治史』)により文学博士を取得。 1929年広島文理科大学教授、史学科初代主任教授、国史学・西洋史学を専攻。
もっと読む
志賀 和多利(しが わたり、1874年(明治7年)10月7日… 志賀 和多利(しが わたり、1874年(明治7年)10月7日 - 1945年(昭和20年)6月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 岩手県胆沢郡西根村(現在の金ケ崎町)出身。日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、1901年(明治34年)に高等文官試験と判検事登用試験に合格し、盛岡地方裁判所に司法官試補・検事代理として勤務した。しかし間もなく退官して弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回の当選を重ねた。その間、田中義一内閣で鉄道参与官を、齋藤内閣で逓信政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で立候補したが落選した。
もっと読む
高橋 元四郎(たかはし もとしろう、1874年(明治7年)1… 高橋 元四郎(たかはし もとしろう、1874年(明治7年)10月6日 - 1933年(昭和8年)6月22日)は、日本の政治家、実業家。 栃木県上都賀郡西方村(現・栃木市)出身。渡邊文平の次男。上京して田村順之助や星亨の書生となり、明治法律学校卒業後、故郷に戻って高橋家の養子となる。印刷業に従事し、後に鹿沼印刷会社社長に就任。また、政治家として、栃木県会議員、同副議長などを経て、1924年に衆議院議員に当選(以来、当選3回)。立憲民政党に所属し、党会計監督、栃木県支部長などを務めた。
もっと読む
田村 茂三郎(たむら もさぶろう、前名・茂登馬、1874年〈… 田村 茂三郎(たむら もさぶろう、前名・茂登馬、1874年〈明治7年〉10月6日 - 1963年〈昭和38年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家(吾妻郡会議員、沢田村長)、群馬県多額納税者。田村旅館(現四万たむら)12代目当主。 群馬県・先代茂三郎の長男。慶應義塾で学び、福澤諭吉に直接薫陶を受ける。1896年、慶應義塾正科を卒業。1905年、父茂三郎の退隠により家督を相続し、茂登馬を改め襲名する。 1911年から1915年まで第9代沢田村長を務めた。1919年からは吾妻郡会議員となる。郡会では鉄道敷設を県会・帝国議会へ陳情し、のちに長野原線の開通として結実することとなった。 温泉旅館業を営む。
もっと読む
留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874… 留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874年(明治7年)10月4日 - 1933年(昭和8年)4月19日)は留岡幸助の妻。社会福祉活動家。愛媛県喜多郡内子町出身[信頼性要検証]。 愛媛県喜多郡天神村(現在の内子町)に寺尾家の長女として誕生した。その後、設立したばかりの岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)にあった順正女学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。1901年(明治34年)6月1日に留岡幸助と結婚した。菊子が26歳のときだった。 結婚した年の10月に菊子は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、1906年7月には財団法人なった。
もっと読む
公田 連太郎(こうた れんたろう、1874年10月3日 - … 公田 連太郎(こうた れんたろう、1874年10月3日 - 1963年7月27日)は、日本の漢文学者。 1874年、島根県出雲市古志町生まれ。21歳で上京し、根本通明に約十年師事。在野の漢学者として、多くの漢文の注釈を刊行した。1927年数え54歳で結婚。 1913年、下獄後の失意の北原白秋を勇気づけたことでも知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
もっと読む
遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10… 遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10月2日 - 1946年〈昭和21年〉2月5日)は、日本の思想家、社会学者、教育者。私立巣鴨学園の創設者である。 1874年(明治7年)前橋藩の下級士族・遠藤千次郎、はる夫妻の長男として現在の群馬県前橋市神明町で生まれた。父・千次郎は福澤諭吉の思想に共鳴していた。隆吉は桃井学校に学び、1892年(明治25年)群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業した。第一高等学校に進学し、1896年(明治29年)に卒業。東京帝国大学文科大学哲学科に進んで、1899年(明治32年)に卒業。同校学長の井上哲次郎、心理学教授・元良勇次郎、外国人教師・ケーベルから強く影響を受けた。
もっと読む
太田 光凞(おおた みつひろ、1874年10月1日 - 19… 太田 光凞(おおた みつひろ、1874年10月1日 - 1939年10月14日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 山口県出身。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法英科を卒業後、鉄道省に奉職する。京阪電気鉄道設立(1906年)時の専務取締役渡辺嘉一より鉄道省からの人材斡旋を依頼されたのをきっかけに、実業界を目指す第一歩として1907年(明治40年)自らが鉄道省を辞して京阪電気鉄道に入社し、庶務課長に就任。建設中だった京阪本線の線路選定や用地買収等一切の事務を担当した。 開業後も同社の実務を切り回し、1910年(明治43年)取締役就任、1911年(明治44年)には常務取締役、1925年(大正14年)には農林大臣就任のため退任した岡崎邦輔の後を受ける形で社長に就任する。
もっと読む
原 吉郎(はら きちろう、1874年〈明治7年〉9月30日 … 原 吉郎(はら きちろう、1874年〈明治7年〉9月30日 - 1955年〈昭和30年〉12月17日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、新潟県刈羽郡枇杷島村(のち同郡柏崎町、現在の柏崎市)長、同郡柏崎町長、初代柏崎市長。 現在の新潟県柏崎市出身。東京専修学校(現専修大学)に学び、日露戦争に参加する。その後は代々続く造酒屋(原酒造)の四代目として経営、同社の中興の祖となる。枇杷島村会議員、同村長、刈羽郡会議員を歴任した。1903年(明治36年)、新潟県会議員選挙に刈羽郡選挙区から進歩党公認で立候補して当選した。同年10月から1904年(明治37年)3月まで第17代新潟県会副議長を務めた。
もっと読む
斎藤 賞資(さいとう しょうすけ、1874年(明治7年)9月… 斎藤 賞資(さいとう しょうすけ、1874年(明治7年)9月28日 - 没年不明)は、日本の弁護士、日本興業銀行副支配役。族籍は島根県平民。 島根県美濃郡二条村大字桂平(現・益田市)出身。斎藤真佐加の三男。1899年、第二高等学校第一部法科を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補を拝命し、横浜地方裁判所に勤務したが間もなく官を辞し、東京で弁護士並びに特許弁理士の事務に従事する。 後に不動貯金銀行に入り、貸付課長、名古屋・日本橋各支店支配人、本店検査課長等をつとめた。後に日本興業銀行に入り、同行副支配役に挙げられる。住所は東京市本郷区菊坂町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
もっと読む
太田 半六(おおた はんろく、1874年(明治7年)9月26… 太田 半六(おおた はんろく、1874年(明治7年)9月26日 - 1960年(昭和35年)10月24日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。東京瓦斯社長、貴族院勅選議員。 千葉県夷隅郡大多喜城下(現大多喜町)で、太田資長(太田道灌)の後裔、旧大多喜藩士・太田満直の二男として生まれる。1894年(明治27年)東京専門学校政治科を卒業して、大蔵省に入省し大蔵属として主税局に配属された。 1899年(明治32年)に退官し、1900年(明治33年)北海道炭礦鉄道に入社し、東京本社販売主任、室蘭出張所長などを歴任。1912年(大正元年)に退職し海運業を営む。1917年(大正6年)経営難の北海道瓦斯からの要請で入社して業績を回復させた。
もっと読む
中西 清一(なかにし せいいち、1874年(明治7年)9月2… 中西 清一(なかにし せいいち、1874年(明治7年)9月25日 - 1927年(昭和2年)9月23日)は、明治期〜大正期の官僚。逓信次官。南満州鉄道副社長。
もっと読む
木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 19… 木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 1923年9月6日)は、日本の鉄道官僚。鉄道事業を旅客サービス業としてとらえ、鉄道サービスの向上を旨として尽力したが、改主建従の考えで時の政権と対立して左遷された。 日本を観光による経済振興および観光による鉄道旅客収入増加の必要性を説き、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社)の生みの親となった。また東京ステーションホテル開設に尽力し、日本を欧米に紹介するために発行された旅行ガイドブックである『An Official Guide to Eastern Asia』(東アジア旅行案内)の発案者でもある。 1874年9月23日、京都府熊野郡神野村(現在の京丹後市久美浜町神野)の酒蔵の長男として生まれる(旧名梅蔵)。
もっと読む
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月2… 菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。 1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校(現追手町小学校)で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。
もっと読む
伴 房次郎(ばん ふさじろう、1874年9月20日 - 19… 伴 房次郎(ばん ふさじろう、1874年9月20日 - 1956年11月19日)は日本の法学者、教育者。専門は民法。小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長。長男伴素彦はサンモリッツオリンピックスキージャンプ日本代表で日本製粉株式会社の会長も務めた。 1874年(明治7年)京都市伏見区生まれ。京都府尋常中学校、第四高等学校 (旧制)を経て1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し京都帝国大学法科大学講師となる。翌1903年(明治36年)助教授となり、1908年(明治41年)からイギリス、フランス、ドイツへ留学。1912年(明治45年)帰国し7月より北海道の小樽高等商業学校に教授として赴任する。
もっと読む
万井 源太郎(よろい げんたろう、1874年〈明治7年〉9月… 万井 源太郎(よろい げんたろう、1874年〈明治7年〉9月19日 - 1947年〈昭和22年〉6月22日)は、日本の商人(茶商)、実業家、政治家。昭和バラス社長。鳥取商工会議所会頭。日ノ丸自動車監査役。鳥取市会議長(22代)。 鳥取県八頭郡八東村(現・八頭町)出身。茶商、茶器販売業を営む。1917年(大正6年)、鳥取市会議員に当選する。1931年(昭和6年)5月31日、鳥取市会議長に就任する。 1947年6月22日、鳥取市川端4丁目の自宅にて急性腹膜炎のため死去。 宗教は浄土宗。趣味は碁、読書。住所は鳥取市川端4丁目。
もっと読む
瀬下 清(せじも きよし、1874年9月18日 - 1938… 瀬下 清(せじも きよし、1874年9月18日 - 1938年9月24日)は日本の銀行家。三菱銀行元会長。 長野県佐久郡三塚村(現佐久市)に代々庄屋を務めた豪農の瀬下七兵衛の三男として生まれ、親族の瀬下起十の養子となる。6歳で上京し、東京英語学校、大手町商業予備門に学び、明治26年(1893年)東京高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校卒業。第百九国立銀行に入行し、同28年(1895年)三菱合資会社銀行部に移る。同神戸支店長時代には灘の酒造メーカー「桜政宗」に破格の融資を行って立ち直らせた。また勧業銀行による森永製菓の救済も仲介した。2年間イギリスに留学し、大正8年(1919年)三菱合資会社銀行部が三菱銀行として分離独立すると、常務取締役に昇格した。
もっと読む