田辺 熊一(たなべ くまいち、1874年(明治7年)1月25… 田辺 熊一(たなべ くまいち、1874年(明治7年)1月25日 - 1940年(昭和15年)4月17日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡巻町長を務めた。 新潟県蒲原郡(後の西蒲原郡巻町、現新潟市西蒲区)で、古着商・田辺間吉の長男として生まれる。1897年、中央大学卒業。巻町役場臨時雇を経て、1898年2月、第4代巻町長に就任し、同年12月まで在任した。その後上京し、西蒲原郡出身の小柳卯三郎代議士の書生となり、東京法学院で学び、1901年に卒業した。その後、斎藤和平太代議士の指導を受けた。 1903年、新潟県会議員に当選。1908年5月、第10回衆議院議員総選挙で新潟県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
星村 市平(ほしむら いちへい、1874年(明治7年)1月2… 星村 市平(ほしむら いちへい、1874年(明治7年)1月25日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。戒名海徳院釋無量宝寿居士 熊本県玉名市出身。1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。 1923年(大正12年)8月に陸軍歩兵大佐・小倉連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に歩兵第16連隊長を経て、1928年(昭和3年)8月10日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に、のち1933年(昭和8年)4月に後備役に編入した。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月24日 - 1965年〈昭和40年〉1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。新潟県中頸城郡下堀之内村(現:上越市諏訪)出身。犬養毅の娘婿。 大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。 1925年1月20日の北京での日ソ基本条約締結時、その5日前にスケートで腰の骨を折った為、ベッドの上で調印した。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月24日 - 1965年(昭和40年)1月5日)は、新潟県中頸城郡高田(のち上越市)出身の日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 父は諏訪村初代村長の芳澤襄良。
黒谷 了太郎(くろたに りょうたろう、1874年1月23日 … 黒谷 了太郎(くろたに りょうたろう、1874年1月23日 - 1945年5月11日)は、日本の官吏、都市計画家、第3代旧鶴岡市長。 酒田県田川郡鶴岡(現・山形県鶴岡市)生まれ。名古屋の都市計画に携わっていた折、イギリスの田園都市の設計を担当したレーモンド・アンウィンに教えを請うたことがきっかけで、アンウィンに傾倒するようになる。田園都市思想を日本の事情を踏まえたうえで、「山林都市」という形で具現化すべく提唱するも、賛同を得るに至らなかった。後に請われて生地、鶴岡市の市長となるも、教育人事をめぐる政争がきっかけで、排斥運動が起き、辞任する。名古屋時代の部下に石川栄耀がいる。石川のことを可愛がり、親しい友人でもあった。
山本 美越乃(やまもと みおの、1874年(明治7年)1月2… 山本 美越乃(やまもと みおの、1874年(明治7年)1月22日 - 1941年(昭和16年)5月13日)は、明治から昭和時代前期の日本の経済学者。京都帝国大学総長。 旧鳥羽藩士・山本昇平の三男として三重県志摩郡鳥羽町に生まれる。鳥羽商船学校を飛び級で卒業し、同志社普通学校を経て、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学選科を卒業する。 大阪高等商業学校(現・大阪市立大学の前身)教諭を経て、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部の構成母体)教授となり、同校の命にて、1905年(明治38年)経済学研究のため欧米に留学。コロンビア大学夏季講座を経て、ウィスコンシン大学大学院で経済学のほか、ポール・ラインシュより殖民政策を学び、文学修士を取得。
近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月2… 近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月20日 - 1942年(昭和17年)6月8日)は、日本の実業家、衆議院議員。号は井堂。秋田県出身。小牧近江(翻訳家・社会運動家)、島田晋作(衆議院議員)は子。 秋田県南秋田郡一日市村(現八郎潟町)の生まれ。旧姓名は畠山留吉。16歳のとき、土崎港(現在の秋田市土崎港)の商人近江谷家の養子となる。最終学歴は、秋田中学校中退。1889年(明治22年)栄治(のちに栄次)の名を襲名すると、20代の青年にして地元経済の基盤作りに取り組み始める。 私財を投じての秋田港改修工事は、13年かかって1902年(明治35年)に終了。改修後の港は近江谷が招請した廣井勇にちなんで「廣井波止場」と名づけられたが、「近江谷波止場」とも呼ばれた。
常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19… 常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19日 - 1922年6月19日)は、茨城県東茨城郡(のちの水戸市)出身の大相撲力士。第19代横綱。本名は市毛 谷右衛門(いちげ たにえもん)。 大相撲を「国技」に押し上げ、その品格力量から角聖と呼ばれた。出羽ノ海部屋師匠として3横綱4大関など多くの力士を育て、出羽海一門を角界の保守本流として確立したほか、ちゃんこ鍋や後援会などの風習を始めたとされる。 1874年(明治7年)、旧水戸藩士だった市毛高成の長男として水戸の宝鏡院の門前に生まれる。市毛高成は明治維新後に河川運送業と倉庫業を営んだが、荷主から預かった商品を騙し取られ、責任を一身に負って弁償してからは経営が悪化して両方とも倒産してしまった。
森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明… 森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明治7年〉1月18日 - 1938年〈昭和13年〉4月12日)は、日本の医学者、精神科神経科医。(森田)神経質に対する精神療法である「森田療法」を創始した。 高知県野市町(現・香南市)生まれ。号は形外。 高知県立第一中学、第五高等学校、東京帝国大学医科大学を卒業。東京帝国大学では呉秀三門下。巣鴨病院に勤務。根岸病院顧問(1906-29)。東京慈恵会医科大学教授を務める。 1919年(大正8年)、妻の久亥の助けを借りながら、自宅を利用して神経症の入院療法を開始する。
賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月… 賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月16日 - 1949年〈昭和24年〉4月6日)は、日本の農商務官僚、実業家。台湾総督府総務長官。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町佐田)で、佐田賀来氏一族の賀来重八郎の長男として生まれ、親戚の賀来熊次郎(本名は惟達、『大神系譜』の著者)の養子となる。第五高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、農商務省に入り、鉱山局属となる。 1900年(明治33年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。東京鉱山監督署で鉱山監督官として勤務。1903年(明治36年)9月、台湾総督府に転じ、同年10月、民政部通信局庶務課長に就任。
小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1… 小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)を卒業し、日立製作所専務取締役や同社の初代取締役社長などを歴任した。 1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。 小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、東京英語学校を卒業。第一高等中学校を受験するも失敗し、その間に父が多額の借金を遺して病没。
岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)… 岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)1月14日 - 1942年(昭和17年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。自転車輸入商、相模鉄道社長。衆議院議員(通算6期)。 神奈川県横浜市相生町で、米屋・岡崎安之助の長男として生まれる。10歳で家出し上京、漢学塾の書生となり、1889年に高等商業学校(現一橋大学)に入学、同期に佐野善作(経済学者)、石井健吾(元第一銀行頭取)などがいた。1895年に卒業後三井物産に入り、取引先のアメリカ人に同行して渡米、一年余欧米を視察し、帰国の船中で徳富蘇峰と知り合う。三井に戻り結婚ののち、独立し京橋に日米商店(のち日米富士自転車)を開く。1898年よりたびたび海外へ視察に向かい、主要メーカーと特約を結び、大阪にも支店を持つなど成功する。
横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日… 横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日 - 1938年(昭和13年)4月14日)は、日本の政治家・衆議院議員(公友倶楽部)、貴族院議員、石川県多額納税者、資産家、実業家。温泉電軌、横山鉱業部、ボルネオ護謨各社長。共同生命保険、金沢電気瓦斯各取締役。尾小屋鉱山監査役。金沢倉庫相談役。金沢商業会議所会頭。族籍は石川県士族。 加賀八家横山氏一門で、石川県士族の横山隆興(11代当主横山隆章三男)の長男。金沢市生まれ。1895年、東京物理学校を卒業。以来専ら自家経営の鉱業に従事し、1906年、満韓巡遊の途に上り親しく鉱業を視察する。1912年、金沢市で開催された第2回帝国菓子飴大品評会会長に就任する。
赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942… 赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942年3月28日)は、日本の実業家。三菱財閥に入社し、小岩井農場場長、三菱地所社長・会長などを務めた。熊本県八代郡鏡町上鏡(現在の八代市鏡町上鏡)出身。法科大学(現在の東京大学法学部)卒業。 熊本県八代郡の豪農・下山群太の二男として生まれてすぐ熊本藩士・赤星五郞八の養子となる。旧制五高を経て東京帝国大学法科大学政治科卒業後、三菱財閥に入社。小岩井農場が岩崎家によって直接経営されるようになった際に同農場の場長に抜擢され、1916年まで場長を務めた。当時小岩井農場は多額の累積赤字を抱えており、従業員の待遇は非常に悪かった。陸治は農場のオーナーであった岩崎久弥の全面的な支持のもと、従業員の給料を引き上げ、日用品を安く提供し、借金の返済の相談に応じるなど数々の待遇改善策を打ち出した。
長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 193… 長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 1931年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 現在の宮崎県宮崎市で生まれた。1894年(明治27年)宮崎県尋常中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)を第1回生として卒業。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科を中退し、アメリカのテキサスに留学し農業を学ぶ。その後、中国に渡り、天津に在留し、肥料製造及び販売業に従事し、その傍ら倉庫業を経営し、天津商工銀行取締役となる。また、天津居留民団行政委員会議員、同議長、天津日本人商業会議所評議員を歴任する。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において宮崎県区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。
香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954… 香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。 帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。 千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。
岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 … 岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 - 1943年〈昭和18年〉7月23日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。官選栃木県知事、樺太庁長官、警視総監、貴族院議員。旧姓・浜田。 山形県出身。米沢市関東町にて餌差(足軽階級)であった浜田長之助の長男として生まれ、岡田義質の養子となる。米沢尋常中学興譲館を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学撰科を卒業。同年12月、文官高等試験に合格し、内務属となり警保局に配属された。 1899年5月、沖縄県参事官兼臨時沖縄県土地整理事務局事務官に就任。以後、山梨県警察部長、千葉県警察部長、新潟県事務官・第四部長、警視庁第二部長、同官房主事などを歴任。
成毛 基雄(なるげ もとお、1874年(明治7年)1月1日 … 成毛 基雄(なるげ もとお、1874年(明治7年)1月1日 - 1950年(昭和25年)2月20日)は、日本の内務官僚。内閣拓殖局長、官選奈良県知事。 1874年(明治7年)1月、成毛勝蔵の長男として千葉県香取郡高岡村に生まれる。帝国大学農科大学乙科、東京専門学校英語政治科(現早稲田大学政治経済学部)、和仏法律学校(現法政大学)法律科(1901年(明治34年))を卒業する。 1905年(明治38年)11月に高等文官試験行政科に合格して、大蔵省に入省し内務省に転じた。宮城県玉造郡長、富山県事務官・警察部長、秋田県・熊本県・兵庫県の警察部長、埼玉県・兵庫県・愛知県の内務部長を歴任する。 1922年(大正11年)に奈良県知事に就任し、1927年(昭和2年)に内閣拓殖局長に就任する。
中山 龍次(なかやま りゅうじ、1874年(明治7年)1月1… 中山 龍次(なかやま りゅうじ、1874年(明治7年)1月1日 - 1962年(昭和32年)6月29日)は、日本の逓信官僚。新潟県十日町市長。 新潟県中魚沼郡十日町村(現在の十日町市)出身。1892年(明治25年)、東京郵便電信学校を卒業。逓信技手に任じられ、東京郵便電信学校教授、通信技師、逓信技師を歴任した。イギリス・ドイツ留学後、1913年(大正2年)から在官のまま中華民国交通部顧問を務めた。 1928年(昭和3年)に退官した後は日本放送協会関東支部常務理事となり、1934年(昭和9年)からは日本放送協会常務理事・業務局長となった。1937年(昭和12年)に退任した後は、1938年(昭和13年)から電気通信協会初代会長を務めた。
近藤 賢二(こんどう けんじ、明治7年(1874年)1月 -… 近藤 賢二(こんどう けんじ、明治7年(1874年)1月 - 昭和23年(1948年))は、日本の実業家。横浜商工会議所常議員。東洋麻糸紡績、朝日スレート、日本カーボン、石綿織機、眞崎大和鉛筆、日の出石綿工業社、横浜耐火煉瓦、横浜帆布各(株)社長、昭和電極製造、昭和特殊鋼、松尾礦業、日本炭素工業、湘南電気鉄道、太平運輸、木曽発電各(株)取締役。東洋電機製造(株)監査役。 近藤家は兵庫県津名郡生穂村に住し代々庄屋を務めた家柄である。近藤正惠の長男として明治7年(1874年)1月出生し後先代みねの養子となる。明治21年(1888年)家督を相続。 明治27年(1894年)同志社を卒業。台湾総督府に勤めた後実業界に入り、サミュエル商会(シェルの前身)・ライジングサン石油(昭和シェル石油の前身)に勤務する。
志村 烏嶺(しむら うれい、1874年 - 1961年)は、… 志村 烏嶺(しむら うれい、1874年 - 1961年)は、日本の教職者、高山植物研究家、写真家、登山家。 栃木県那須郡烏山町生まれ。本名は志村寛(しむら ひろし)。1892年栃木師範入学、1896年栃木県上都賀郡西方小学校に訓導として教職に就く。1898年、検定にて師範学校と中学校の地誌・地文・動物・植物の教員資格を取得。栃木県の第一中学および第二中学、茨城師範、仙台第一中学、長野中学(1903年~)、台中の中学校(1916年~)で教える。1922年帰国、教職を引退。晩年は植物採集・標本整理や園芸などをして過ごした。 ドイツから帰国した三好学が語った高山植物についての話がきっかけで、1904年から、休日に飯縄、戸隠、浅間山、八ヶ岳、白馬岳へ登り、高山植物の採集と栽培と研究、植物と山岳の写真撮影を行うようになり、前田曙山主宰の園芸雑誌に記事と写真を寄せた。
谷河 梅人(たにかわ うめんど、1874年(明治7年) - … 谷河 梅人(たにかわ うめんど、1874年(明治7年) - ?)は、日本新聞社記者。 盛岡生まれ。郷里の中学校を卒業。1897年12月、慶應義塾大学部文科を卒業後、栃木県立宇都宮中学校の教員となり、転じて茨城県立水戸中学校の教員となる。その後陸実が創業した日本新聞社に入社し、記者として活躍した。社長が伊藤欽亮に交代した後もその任に当たる。
石田 孫太郎(いしだ まごたろう、1874年 – 1936年… 石田 孫太郎(いしだ まごたろう、1874年 – 1936年)は、日本の養蚕技術指導者。 福井県遠敷郡遠敷村(現・小浜市)生まれ。群馬県藤岡の高山社で養蚕改良の勉強をし、後、明治28年からは農商務省農務局西ヶ原蚕業試験場(現・東京農工大学)で勉強した。卒業後、養蚕技術指導者として、各地に赴いた。
月川喜代平(つきがた きよへい、1874年〈明治7年〉-19… 月川喜代平(つきがた きよへい、1874年〈明治7年〉-1948年〈昭和23年〉)は日本のニュージーランド移住者。 ノダアサジロー、国岡白市らとともに戦前からのニュージーランド在住者として知られる。 長崎県五島列島の宇久島出身。10代で上海に渡り、イギリス船の水夫となる。 1895年(明治28年)、勤務していたアメリカ船がニュージーランドのダニーディン港に入港した際に脱走。砂金採取や農場で働いた後、1902年(明治35年)に一時帰国。翌1903年に再度ニュージーランドに渡る。 1907年(明治40年)にニュージーランド国籍を取得。1908年に船長の免許を取得し、クルサ川公社に勤務する。 マイケル・ジョセフ・サヴィッジ首相より推薦状を得て、1936年(昭和11年)に来日。
鈴木 表朔(すずき ひょうさく、明治7年(1874年) - … 鈴木 表朔(すずき ひょうさく、明治7年(1874年) - 昭和18年(1943年))は、明治から昭和にかけての漆芸家。京塗表派の承継者。 鈴木表朔は、明治7年(1874年)に現在の滋賀県高島市安曇川町に生まれた。幼名井上捨吉と称し、明治17年(1884年)頃京都に出て、蒔絵師鈴木長真の養子となり鈴木表朔を名乗るが、後に髹漆(きゅうしつ)に転じ二代木村表斎に師事した。 表朔の塗り技術への評価は高かく、明治42年(1909年)伊勢神宮の神宝、また大正2年(1911年)御大礼に際して高御座、御帳台、万歳幡の塗を担当した。大正5年(1916年)には内務省御用となった。 京都で活発に活動し、大正8年(1919年)には、神坂雪佳主宰の佳都美村に参画し、意欲的に漆器の創作にも携わった。
内藤 岩雄(ないとう いわお、1874年(明治7年) - 1… 内藤 岩雄(ないとう いわお、1874年(明治7年) - 1944年(昭和19年))は、鳥取県日野郡の教育者で郷土史家。1901年(明治34年)から1925年(大正14年)まで、途中2年間を除き、山上尋常高等小学校の校長の職にあり、「山上学園」と称される全村教育の基礎を作った 。 校長在職中から郷土の宣揚に努め、職を辞した後は『日野郡史』の編纂委員として編集及び刊行を成し遂げたほか、神職として船通山(鳥髪の峯)での宣揚祭を挙行し、祭主を務めた。和歌や絵画に秀で、特に得意であったのが馬の絵で、皇紀2600年を記念して2600匹の馬と富士山を描いた『奔馬二千六百之図』は圧巻である。 内藤の独創的な教育方針は、山上学園の校風として浸透し、県内外から注目を集めた。
山下 宅治(やました たくじ、1874年 - 1959年)は… 山下 宅治(やました たくじ、1874年 - 1959年)は、愛媛県八幡浜生まれの公民権運動家。さまざまな社会的・法的障壁のあった時代に、在米アジア人にとっての三大障壁すなわち市民権取得、職業参入、土地所有における障壁に自ら立ち向かった。 1893年、宇和島明倫館を1年で修了し渡米。残されている写真などによると、タコマ高校を2年で卒業後、ワシントン大学法学部に第2期生として入学。1902年に同大学を卒業し法学士号を取得、抜群の成績でワシントン州の司法試験に合格する。1906年にアメリカ市民権を取得。 山下の弁護士開業申請に対しワシントン州最高裁は「帰化関連法に照らして、日本出生者には市民権認定の資格があるか疑わしい」とする命令を出した。
飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年(明治7年) - 19… 飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年(明治7年) - 1913年(大正2年)6月10日)は静岡県出身の鉄道技術者。日本統治時代の台湾総督府鉄道部所属の技師(1897年 - 1913年)。 静岡県沼津市で父飯田弘と吉田姓の母の間に生まれる。東京工手学校(現在の工学院大学)に進学し、土木工学を修めた。
前田 栄次郎(まえだ えいじろう、明治7年(1874年) -… 前田 栄次郎(まえだ えいじろう、明治7年(1874年) - 昭和36年(1961年))は、愛知県豊田市出身の実業家。
陣幕 徳太郎(じんまく とくたろう、1874年(明治7年) … 陣幕 徳太郎(じんまく とくたろう、1874年(明治7年) - 1937年(昭和12年)11月15日)は福岡県怡土郡雷山村(現・糸島市)出身の大相撲力士。本名は村里(村尾説あり)徳太郎。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 湊に入門し、荒木山 徳蔵の名で1894年(明治27年)4月四段目が初見。1895年(明治28年)10月雷山 徳太郎と改名。1903年(明治36年)1月入幕。171cm108kgの体格で左四つ寄り、上手投げを得意とし食い下がって粘る取り口も見せた。 1906年(明治39年)2月小結、1907年(明治40年)1月関脇に昇進。1908年(明治41年)1月二枚鑑札で11代陣幕 徳太郎を襲名、この場所8勝1敗と優勝相当成績を上げ気を吐いた。
森 円蔵(もり えんぞう、1874年(明治7年)- 1950… 森 円蔵(もり えんぞう、1874年(明治7年)- 1950年(昭和25年)10月14日)は、日本の政治家。稲城村長、東京府会議員を務めた。 稲城村初代村長の森清之助の次男に生まれる。若い頃、窪全亮の奚疑塾で学ぶ。その後、稲城村会議員になる。 1915年(大正4年)、村長の原田所左衛門が死去したため、1916年(大正5年)に稲城村の村長に就任する。1923年(大正12年)、東京府会議員になるため、村長を辞職した。1924年(大正13年)、東京府会議員に当選する。1928年(昭和3年)に再選されるも、1932年(昭和7年)に議員を辞職した。 その後は政界から離れ、息子の森一郎が村長になるのを見届けて、1950年(昭和25年)に死去した(満76歳没)。
大嵜 爲之助(おおさき ためのすけ、1874年 - 1929… 大嵜 爲之助(おおさき ためのすけ、1874年 - 1929年6月23日)は、現在の宮城県大崎市出身で尾車部屋、朝日山部屋、再度尾車部屋に所属した力士。世話人。本名は佐々木 爲之助。164cm、75kg。最高位は東前頭5枚目。 1893年5月初土俵、1900年5月十両昇進。その後大坂相撲に属したが、復帰し1905年1月入幕を果たす。大砲万右エ門の太刀持ち、露払いを務め、1910年1月に廃業したが、他に適職がなく1911年2月に角界に復帰。1915年1月に引退し世話人に転じた。 荒川 爲之介→大嵜 爲之助(1898年1月場所-)
永野 武二郎(ながの たけじろう、1874年(明治7年) -… 永野 武二郎(ながの たけじろう、1874年(明治7年) - 1946年(昭和21年)10月)は、日本聖公会の祭司である。 1874年(明治7年)島根県松江市に生まれる。聖公会の宣教師バークレー・バックストンにより1891年(明治24年)に洗礼を受ける。 1906年にバックストン家に滞在中に、イギリスを旅行中の中田重治に会う。献身し、1909年6月6日には執事の按手礼を受ける。1911年祭司の按手礼を受ける。自転車に乗り松江を中心とした山陰地方に巡回伝道をした。 1936年に奉天聖公会に赴任した。
大沢 豊子(おおさわ とよこ、1873年(明治6年)12月3… 大沢 豊子(おおさわ とよこ、1873年(明治6年)12月31日 - 1937年(昭和12年)6月15日)は、明治から昭和にかけての速記者、ジャーナリスト。群馬県館林市生まれ。生涯で三度職業を変え、それぞれの分野を女性の職業とする先鞭をつけた。 旧館林藩士であった父大沢師容、母やをの長女として生まれる。小学校を卒業後の1888年(明治21年)、15歳で東京に出て、遠縁であった佃与次郎の速記塾に入り、2年間速記を学んだ。 翌1889年(明治21年)、講演速記として業務を始め、7月、大日本婦人衛生学会の講演会の速記を初めて担当。同年の12月9日には、設立3年目であった婦人矯風会が主催した廃娼演説会で、同門の中村たま子と共に植木枝盛らの演説を速記した。
小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948… 小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948年12月13日)は、日本の登山家、随筆家、文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。本名は小島 久太。 1873年(明治6年)香川県高松生まれ。横浜商業学校卒業。横浜正金銀行に入行。銀行は定年まで勤め、シアトル支店長などを歴任。 横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を持つ。銀行に入ってから、1896年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。 また、登山家としても知られ、1897年立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、1899年休暇に浅間山 - 木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。
星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 -… 星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)は、福島県いわき市出身の実業家・政治家。略称、ホシピン。SF作家星新一の父。写真植字機を開発した石井茂吉と森澤信夫が出会うきっかけとなった星製薬を築いた。また、星薬科大学の創立者。
松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1… 松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1947年5月24日)は、日本の物理化学者。京都帝国大学総長、立命館大学学長、日本物理化学研究会初代会長。
本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月2… 本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月23日 - 昭和9年(1934年)4月9日)は、日本の華族(子爵)。平戸藩主松浦詮の六男。初名は松浦復。長尾藩主本多正憲の娘・純子の婿養子となり名を改める。子に房子、本多正震、稲葉正弘(稲葉正顕養子)、恒子(田中真茂妻)。 学習院高等科を卒業。宮内省に入り、東宮侍従、掌典次長を歴任、その後宮中顧問官を務めた。大正15年(1926年)7月に養父が隠居し家督を継ぐ。昭和9年、62歳で没した。墓所は青山霊園(1イ20-23)で、藩主の墓所を浅草徳本寺や谷中霊園から改葬している。
滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日… 滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日 - 1945年(昭和20年)5月17日)は、日本の美術史家。東京帝国大学教授。 東京生まれ。滝和亭の長男。号は拙庵。東京帝国大学哲学科卒、1914年、母校の文学部に美術史学講座が開設された際に初代教授となり、昭和9年(1934年)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。1925年帝国学士院会員。1927年文学部長。大阪朝日新聞客員、東方文化学院理事長、会長を務め、『国華』の編集に携わる。1940年朝日文化賞受賞。 かつて滝に新聞学講座開設を阻止された小野秀雄の恨みを買い、没後、小野の回想録で憎悪に満ちた批判を受けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月… 朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。 福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。 1874年(明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。 1878年(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、初等科首席卒業し、飛び級により同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。
山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月1… 山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月15日 - 1962年(昭和37年)3月2日)は、日本の海軍・外務官僚、政治家、国際法学者。法学博士、貴族院議員、法制局長官。 長崎県出身。山川景範の長男として生まれる。長崎中学、第五高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)3月、海軍省に入り参事官に就任。その後、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員などを歴任。1919年(大正8年)4月、法学博士号を取得。 1920年(大正9年)4月、外務省に移り臨時平和条約事務局第1部長に就任し、さらに条約局長となる。
木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月… 木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月7日 - 1944年(昭和19年)5月7日)は、日本の登山家。 1873年(明治6年)12月7日、群馬県新田郡寺井村(現・太田市寺井町)の農家の長男として生まれる。東京の私立郁文館中学校を卒業後仙台の旧制第二高等学校に進み1897年(明治30年)に卒業した。さらに東京帝国大学に進学しはじめ哲学科、ついで史学科で学んだが、中途退学した。その後は博文館の雑誌『ハガキ文学』の編集に従事し、『泰西名画鑑』を著した。1907年(明治40年)からは東京市史料編纂室嘱託となり、亡くなるまで東京市史稿編集に携わった。 若年時から登山を趣味としていたが、田部重治と知り合ったことをきっかけに1913年(大正2年)9月に日本山岳会に入会した。
山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6… 山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6日 - 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の宮内官僚。教育者。 福島県人の山辺知一の子。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。一年志願兵として陸軍歩兵少尉となり、その後中等教育に従事した。1903年(明治36年)、北白川宮成久王の教育掛となり、1910年(明治43年)より北白川宮家家令を務めた。その後宮内事務官・式部官を務めた。1922年(大正11年)、秩父宮別当に就任し、1926年(大正15年)からは北白川宮永久王・美年子女王・佐和子女王・多恵子女王の保育係を務めた。1930年(昭和5年)、宮中顧問官に就任し、北白川宮家別当となった。
江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 -… 江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 - 1932年〈昭和7年〉9月18日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。幼名は恵助(えすけ)。 1873年(明治6年)12月5日、山口県御庄村(現在の岩国市)に酒造業を営む羽村卯作の三男として生まれる。山口中学校、山口高等中学校予科、本科を経て、東京帝国大学法科大学英法科へ進学、1897年(明治30年)5月17日に、枢密顧問官、文部大臣、貴族院議員となる江木千之の養子となる。同年7月、帝大を卒業し、大学院に進学。1898年(明治31年)12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)1月、内務省に入省する。神奈川県事務官、法制局参事官、1910年(明治43年)には拓殖局部長を歴任する。
高田 耘平(たかだ うんぺい、1873年(明治6年)12月1… 高田 耘平(たかだ うんぺい、1873年(明治6年)12月1日 - 1957年(昭和32年)6月29日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。衆議院有数の弁論家で農政通として知られた。 栃木県那須郡、のちの荒川村(南那須村、南那須町を経て現那須烏山市)で、高田啓三郎、トヨ夫妻の長男として生まれる。1892年(明治25年)栃木県尋常中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。1902年(明治35年)11月に家督を相続し、農業を営む。 荒川村役場書記、栃木県会書記、税務属、荒川村助役、同村会議員、那須郡会議員を務め、1907年(明治40年)栃木県会議員に選出され2期在任し、参事会員も務めた。
和田 信二郎(わだ しんじろう、1873年12月 - 195… 和田 信二郎(わだ しんじろう、1873年12月 - 1950年8月29日)は、日本の国文学者・文部官僚。 若狭国小浜藩士・和田義比の次男。弟は和田光石。父の弟は和田維四郎、その子で従弟に推理作家の大坪砂男がいる。妹の夫は正木直彦。和田謹吾は五男。1891年東京英語学校、国語伝習所卒。1895年國學院卒。芳賀矢一に師事。奈良県立第一中学校(現奈良県立郡山高等学校)に赴任、のち津に移り、古事類苑編纂部に勤める。1903年文部省に入り、中学校高等学校教科書編纂官。1943年退任。
水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 … 水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 - 1914年(大正3年)5月23日)は、明治時代から大正時代の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。号は酔香で、俳人としても活動した。 旧尾張藩の勘定吟味役の水野尋樹の次男として姫路市龍野町に生まれる。父は明治維新後、東京に出て刑部省の役人となり、1872年に兵庫県庁に転職し1876年に淡路島洲本の支庁に移った。母は産後の肥立ちが悪く、産んだ5年後の1878年に没した。家は貧しかった。 幸吉は姉の栄子を頼り苦学し、1885年に京都の平安義校を卒業後、第三高等中学校に入学した。愛知県出身者のための愛育社の奨学金により、1897年に東京帝国大学政治学科を卒業。
齋藤 俊吉(さいとう しゅんきち、1873年(明治6年)12… 齋藤 俊吉(さいとう しゅんきち、1873年(明治6年)12月 - 1945年(昭和20年))は、日本の工学者。専門は繊維工業。元東京工業大学紡織学科主任教授。 1894年東京工業学校(現東京工業大学)化学工芸部染織工科卒業。1896年東京工業学校助教授着任。1902年から1906年まで文部省外国留学生としてイギリス及びドイツ帝国へ留学し、毛紡織研究を行った。 1906年東京高等工業学校教授に昇格。1929年東京高等工業学校の大学昇格に伴い東京工業大学附属工学専門部教授に就任し、のち東京工業大学紡織学科主任教授となった。1930年臨時産業合理局国産品愛用委員会委員。1939年蔵前工業会理事長。長女年子は陸軍中将北島熊男の妻。
三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月… 三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月27日 - 1943年〈昭和18年〉4月5日)は、明治から大正時代の日本の判事(裁判官)、教育者。大審院判事・部長、東京控訴院判事・部長、東京地方裁判所判事・部長、立教大学教授。 1873年(明治6年)11月、東京府人・三橋久實の長男として東京市小石川区で生まれる。その後、家督を相続する。 1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、翌年3月に司法官試補(東京区裁判所詰)となる。 その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院部長を歴任。 1924年(大正13年)1月、大審院判事に任じられ、1933年(昭和8年)1月には大審院部長に就任。
岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1… 岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1962年6月21日)は明治時代から昭和時代中期にかけて活動した日本のジャーナリスト、労働運動家。 筆名は香摘(こうてき)。栃木県出身。 栃木県河内郡宇都宮町(現在の宇都宮市)で元宇都宮藩の士族・岸上安敬の四男として生まれる。尋常小学校の頃は成績優秀であったが、教師に吃音をからかわれたことが原因で不登校となったため、従兄を頼って埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市浦和区)へ移り住んだ。 従兄は印刷工を営んでいたが、ここで知り合った高木旭山の誘いにより劣悪な環境での労働を強いられていた工員の待遇改善活動へ身を投じ、活版工懇話会の設立に参加して機関紙の編集委員となった。