前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月3… 前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月31日 - 1983年(昭和58年)12月17日)は、日本の放送経営者、ジャーナリスト。 第10代NHK会長。ワンマン会長として組織の拡大充実に努め、『NHK中興の祖』と仰がれた。 北海道旭川市出身。庁立旭川中学校を経て東京外語学校(現東京外国語大学)イタリア語科卒業後、ヨーロッパに留学、ローマ大学法科に学ぶ。 1936年朝日新聞ローマ支局に現地入社、記者としてイタリアのエチオピア侵入(第二次エチオピア戦争)などをスクープ。1947年大阪本社外報部長を最後に退社。 出版社経営を経て1950年、NHKに解説委員として入局。その後報道局長・編成局長・専務理事・副会長などを経て1964年、阿部眞之助会長が在職中に死去した事に伴い会長就任、1973年まで務めた。
懸田 克躬(かけた かつみ、1906年1月30日 - 199… 懸田 克躬(かけた かつみ、1906年1月30日 - 1996年3月1日)は、日本の医学者・精神科医。専門は、精神分析学・脳波学。学校法人順天堂第七代堂主、第四代理事長、順天堂大学学長など歴任。順天堂大学名誉教授。学位は、医学博士。 日本における精神分析学・臨床脳波学の基礎を築いた人物である。フロイト精神分析を研究した。また、エリッヒ・フロム『愛するということ』の翻訳はロングセラーになった。学校法人順天堂において、初の創立者一族以外から理事長に就任した。
秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2… 秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2007年4月25日)は、日本の医学者・精神科医。 長野県長野市出身。一家は旧諏訪藩士の家系。3歳時に一家で上京。旧制京華中学、1925年旧制松本高等学校理科甲類を卒業、1929年東京帝国大学(後の東京大学)医学部卒業。その後北海道帝国大学(後の北海道大学)医学部助手に就任。その後、東京帝国大学医学部副手、同学部講師、旧制金沢医科大学(後の金沢大学医学部)教授を経て1958年に東京大学医学部教授に就任した。1936年医学博士(北海道大学)。論文の題は「失行症本質論 」。 長く日本の精神医学界の権威として活躍。帝銀事件に関して、平沢貞通の有罪の証拠とされた精神鑑定の結果を誤りであると指摘し注目を集めた。
小原 嘉登次(こはら かとじ、1906年 <明治39年> 1… 小原 嘉登次(こはら かとじ、1906年 <明治39年> 1月28日 - 1999年 <平成11年> 9月22日)は、日本の実業家、佐賀県議会議員(11期)。佐賀県議会議長。位階は従四位。 佐賀県藤津郡吉田村(のち嬉野町、現・嬉野市)の材木商の長男に生まれる。 吉田高小卒業。実業家を目指して大阪に出て、吉田村の焼き物の行商などをして修行を重ね、フィリピンに渡ってマニラ麻の栽培やホテル勤めをするなどして帰国。1937年に吉田村議に初当選した。 1943年に嬉野温泉の旅館を買収し、「和多屋別荘」を興した。宴会客の確保へ大広間整備、客室ごとの風呂場設置、花火大会の開催などアイデアを次々と打ち出して旅館業を発展させるとともに、佐賀県経済人としての地位を築く。
山根 銀二(やまね ぎんじ、1906年1月27日 - 198… 山根 銀二(やまね ぎんじ、1906年1月27日 - 1982年9月14日)は日本の音楽評論家。ベートーヴェン研究家として知られる。1934年から『朝日新聞』に音楽批評を執筆し、続いて『東京日日新聞』、1946年から再び『東京新聞』『讀賣新聞』の音楽批評を担当。『東京新聞』での批評は1961年まで続いた。
山中直治(やまなか なおじ、1906年1月27日 - 193… 山中直治(やまなか なおじ、1906年1月27日 - 1937年2月13日)は日本の作曲家。童謡「かごめかごめ」を採譜して全国に広めた人物である。31年という短い生涯の中で、200曲以上の曲を残した。 千葉県東葛飾郡梅郷村(現・野田市山崎)出身の作曲家。近隣で歌われていた「かごめかごめ」を採譜し、世に広めた人物。野口雨情、斎藤信夫らとも交流があった。 千葉県野田尋常高等小学校(現・野田市立中央小学校)の教員をしながら童謡の作曲を行った。昭和7年(1932)にコロムビア・レコードの作曲部の専属作家となってからは、『こんこん小山の白狐』(作詞は野口雨情)をはじめ多数の楽曲がレコード化された。昭和12年に31歳という若さでこの世を去ってしまったものの、実に200曲以上も超える作品を作った(未発表も含む)。
山本 伊三郎(やまもと いさぶろう、1906年1月25日 -… 山本 伊三郎(やまもと いさぶろう、1906年1月25日 - 1971年7月8日)は、日本の政治家、参議院議員(3期)。位階は従四位。勲等は勲二等。浪華商業学校、関西大学専門部卒業。 大阪市生まれ。1918年(大正7年)小学校卒業。社会主義理論の原典を知りたいとの思いから大阪キリスト教青年会英語学校入学。 1926年(大正15年)、大阪市役所採用。1947年(昭和22年)、日本社会党入党。1948年(昭和23年)、大阪市職員労働組合委員長。 1956年(昭和31年)、全日本自治団体労働組合中央執行委員長。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙全国区当選。1965年(昭和40年)、第7回参議院議員通常選挙二選。
今井 誉次郎(いまい たかじろう、1906年〈明治39年〉1… 今井 誉次郎(いまい たかじろう、1906年〈明治39年〉1月25日 - 1977年〈昭和52年〉12月16日)は、日本の国語教育者、児童文学作家。 岐阜県出身。岐阜師範学校卒。岐阜県で小学校教師となり、のち上京、雑誌『綴方生活』の編集に携わる。東京で再度教師となり、1950年『農村社会科カリキュラムの実践』で毎日出版文化賞受賞。52年設立された日本作文の会委員長に就任。著作集全6巻がある。
陸奥錦 秀二郎(むつにしき しゅうじろう、1906年1月25… 陸奥錦 秀二郎(むつにしき しゅうじろう、1906年1月25日 - 1974年2月19日)は、振分部屋に所属した大相撲力士。引退後は12代玉ノ井を襲名し、年寄として後進の指導に当たった。本名は鎌田 修二郎(旧姓今井)。青森県南津軽郡平賀町(現平川市)出身。170cm、95kg。最高位は西十両筆頭。 1920年5月初土俵、1933年5月十両昇進。13場所在位し同部屋の鷹城山と長く十両を務めた。筆頭まで上がるも入幕はならず、1940年1月に引退、浪ノ音健藏の養子になり12代玉ノ井を襲名した。一時振分部屋を引き継ぎ玉ノ井部屋を経営したがすぐに弟子を返した。 その後は木戸主任などを務め、1971年1月定年退職。
中野 鈴子(なかの すずこ、1906年(明治39年)1月24… 中野 鈴子(なかの すずこ、1906年(明治39年)1月24日 - 1958年(昭和33年)1月5日)は、日本の詩人。 福井県坂井郡高椋村(現在の坂井市丸岡町)一本田に生まれた。作家、政治家の中野重治は次兄。坂井郡立女子実業学校(現福井県立三国高等学校)を卒業、郷里で2度望まない結婚をし、2度離婚を勝ち取った。 1929年4月、中野をたよって上京。1930年、検挙された小林多喜二の救援活動の中心を、原泉や村山籌子とともに担った。この活動を通して第一線のプロレタリア詩人として成長し、1931年日本プロレタリア作家同盟に加入した。1932年1月、宮本百合子編集長のもとで『働く婦人』編集部員となり、昭和東北大凶作取材記事を3回にわたり同誌に連載するなどの仕事をした。
水田 文雄(みずた ふみお、1906年1月23日 - 199… 水田 文雄(みずた ふみお、1906年1月23日 - 1994年 9月30日)は日本の小説家、広告評論家。 サラリーマンのかたわら書いたベストセラーを含み著作は多数で、マルチ広報活動エッセイストとしても活躍した。 第七高等学校造士館文科卒業。1930年東京大学文学部支那哲学科卒業、文学博士。 ベルリン及びミユンヘン大学留学 - 新聞研究室に在籍。 1930年朝日新聞入社。 南京、上海、欧州主にドイツ駐在で、ロシアを含み欧州各国を取材で回る。 自由言論弾圧にあい朝日新聞退社。 東宝(株)入社、宣伝部長。 後楽園スタヂアム支配人。 花王石鹸入社、中国駐在となり、上海公司取締役社長、天津支社長兼工場長。
名渡山 愛順(などやま あいじゅん、1906年(明治39年)… 名渡山 愛順(などやま あいじゅん、1906年(明治39年)1月22日 - 1970年8月4日)は、沖縄県出身の洋画家。 那覇市松下町のかすり問屋の長男に生まれる。父が幼少時に死去したため、母の手一つで育てられた。 1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校に入学するが、生来病弱であったため、病気で2年間休学する。1922年(大正11年)、美術教諭として赴任してきた比嘉景常から西洋画と琉球文化の指導を受け、それが名渡山の進路に影響を与えた。中学卒業後1年の浪人を経て、1927年(昭和2年)、東京美術学校西洋画科に進み、和田三造、金山平三に指導を受ける。翌1928年(昭和3年)には帝展入選を果たした。
広田 達雄(ひろた たつお、1906年〈明治39年〉1月21… 広田 達雄(ひろた たつお、1906年〈明治39年〉1月21日 - 没年不明)は、埼玉県蕨市の第3代市長(1963年6月-1967年6月)。勲五等瑞宝章受章。 生家は前橋市で、父曽田軍平が酒造業を営む。日本酒名:東之井(あずまのい) 長兄曽田新十郎は、実家の新潟県中頸城郡柿崎村大字東谷内(現・新潟県上越市柿崎区東谷内)にて、家を継ぐ。新潟県中頸城郡の柿崎村、吉川村は、頸城杜氏を多く輩出し、冬場の出稼ぎ先として全国の酒造業に展開した。その中には、新たな酒造業を興すものも輩出した。達雄が次男として父・曽田軍平と共に、前橋市にて事業を営む。 現在、大正時代に新築したレンガの酒蔵は、前橋市の歴史建造物として、市民の多目的施設として利用されている。
阪本 越郎(さかもと えつろう、1906年(明治39年)1月… 阪本 越郎(さかもと えつろう、1906年(明治39年)1月21日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本の詩人・ドイツ文学者。
植松 正(うえまつ ただし、1906年(明治39年)1月21… 植松 正(うえまつ ただし、1906年(明治39年)1月21日 - 1999年(平成11年)2月3日)は、日本の刑法学者・裁判官・検察官・弁護士。一橋大学名誉教授。 千葉県出身。台北帝国大学教授を経て、一橋大学刑法講座初代専任教授を務めた。NHK放送文化賞受賞。紫綬褒章受章。司法試験考査委員、日本尊厳死協会長等を歴任。死刑存置を主張するなど、保守的な立場を取る。1989年には大喪の礼に出席。位階は正四位。 安楽死に違法性がない場合もあるとし、1986年から1996年にかけて日本尊厳死協会会長を務めた。 弟子に福田雅章(一橋大学名誉教授)、日高義博(元専修大学学長)、齊藤誠二(筑波大学名誉教授)、村井敏邦(一橋大学名誉教授)、神山敏雄(岡山大学名誉教授)、庭山英雄(元専修大学教授、弁護士)、野村幸雄(元国連アジア極東犯罪防止研修所教官)等。
高洲 九郎(たかす くろう、1906年1月21日 - 198… 高洲 九郎(たかす くろう、1906年1月21日 - 1981年3月8日)は、日本の経営者。ゼネラル石油社長を務めた。佐賀県出身。 1928年に早稲田大学商学部を経て、1932年にバーミンガム大学高等部を卒業し、1933年に三井鉱山に入社した。1934年に三井物産を経て、1947年9月にゼネラル物産(のちのゼネラル石油)取締役に就任し、1952年11月に常務、1955年6月に専務、1965年11月に会長を経て、1967年11月から1974年2月までに社長を務めた。 1981年3月8日心不全のために死去。75歳没。
四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20… 四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20日 - 1981年(昭和56年)7月16日)は、昭和期の歌手、声楽家。息子は元日本テレビプロデューサーの横田岳夫。 東京府出身。東京府立第三高等女学校の1学年上には女優の高島愛子がいた。東京音楽学校でネトケ=レーヴェに師事。首席で卒業後、「不壊の白珠」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名で吹き込みも行っていた。
瀬谷 誠一(せや せいいち、1906年(明治39年)1月20… 瀬谷 誠一(せや せいいち、1906年(明治39年)1月20日 - 1978年(昭和53年)2月7日)は、日本の経営者、銀行家。東邦銀行頭取を務めた。 福島県出身。1932年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、浅野物産での勤務を経て、1934年7月に白河瀬谷銀行に入行。 1941年に郡山商業銀行、会津銀行、白河瀬谷銀行が合併し東邦銀行が発足。1948年10月に取締役に選任され、1964年5月に常務、1969年11月に副頭取に就任し、1972年2月には頭取に昇格。 1978年2月7日、急性心不全のために死去。72歳没。
牛島 義友(うしじま よしとも、1906年 <明治39年> … 牛島 義友(うしじま よしとも、1906年 <明治39年> 1月19日- 1999年 <平成11年> 8月20日)は、日本の教育心理学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1953年)(学位論文「精神発達の規準に関する研究」)。九州大学名誉教授。位階は正四位。 長崎県長崎市生まれ。1923年福岡県立中学修猷館、1925年旧制福岡高等学校文科乙類を経て、1928年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 卒業後、東京帝国大学文学部副手となり、立教大学助手も兼務。1929年立教大学文学部教授、1945年10月東京女子高等師範学校教授、1949年6月校名変更でお茶の水女子大学教授、1949年愛育幼稚園園長、1950年九州大学教育学部教授を兼務、恩賜財団母子愛育会愛育研究所教養部長、1953年「精神発達の規準に関する研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。
上田 保(うえだ たもつ、1906年(明治39年)1月19日… 上田 保(うえだ たもつ、1906年(明治39年)1月19日 - 1973年(昭和48年)4月11日)は、日本の英文学者。 1906年(明治39年)、山口県吉敷郡大道村(現・山口市)で生まれた。慶應義塾大学文学部英文科で学び、1929年に卒業。 1934年に第一書房に入社し、『セルパン』で西洋文化の紹介を担当。1941年、慶應義塾大学予科教員に転じた。1949年、慶應義塾大学経済学部教授に就いた。1972年に慶應義塾大学を定年退職し、名誉教授となった。
東光 武三 (とうこう たけぞう、1906年1月19日 - … 東光 武三 (とうこう たけぞう、1906年1月19日 - 1945年4月1日)は、日本の外交官。阿波丸事件で死去した。死後設立された阿波丸会では、妻の孝子(日加協会事務局長)が中心的立場となった。 この項目は、外交官に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ政治)。
黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11… 黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11月8日)は、日本の経済学者。 鹿児島市生まれ。第七高等学校造士館卒、1931年京都帝国大学経済学部卒、1960年「日本工業の構造」で京都大学経済学博士。1938年建国大学助教授、1944年教授、1948年同志社大学経済学部教授。59-61年経済学部長、1976年定年、名誉教授となる。
水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 197… 水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 1971年5月16日)は、日本の映画美術家・美術監督。 1906年(明治39年)1月17日、岐阜県に生まれる。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。同校在学中である1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所に入社、大道具課装置係に配属される。同校はのちに卒業した。同撮影所では、1929年(昭和4年)、清水宏監督の『不壊の白珠』、1930年(昭和5年)、小津安二郎監督の『朗かに歩め』にいずれも「舞台設計」としてクレジットされたほか、作品名は定かではないが牛原虚彦、豊田四郎、斎藤寅次郎らの作品も手がけた。 その後、関西の映画会社・帝国キネマ演芸に移籍し、再びクレジットが見られるのは同社が新興キネマに改組されたのちの1933年(昭和8年)、溝口健二監督の『祇園祭』であり、「美術」とクレジットされている。
吉永 登(よしなが みのる、1906年1月16日 - 198… 吉永 登(よしなが みのる、1906年1月16日 - 1989年1月28日)は、日本の国文学者。 奈良県出身。1927年関西大学専門部国文科卒。1960年「万葉集の研究」で関西大文学博士。1943年関西大学専門部教授、1948年同文学部教授、1976年定年、名誉教授。1978年勲三等旭日中綬章受章。
北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 19… 北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 1977年1月23日)は、日本の農芸化学者。専門は応用微生物学。 長野県上伊那郡長藤村(現・伊那市)生まれ。1923年旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業、1926年旧制大阪高等工業学校卒業、1929年京都帝国大学農学部農林化学科卒業。同年京都帝大講師、助教授となり、1940年農学博士取得。1947年京都大学食糧科学研究所教授、1953年東京大学応用微生物研究所第1研究部(現・東京大学定量生命科学研究所)主任教授に転じた。1963年同大学同研究所所長。 1966年に退官、東京農業大学教授となり、1976年から同大客員教授となった。
池上 隆祐(いけがみ たかすけ、1906年(明治39年)1月… 池上 隆祐(いけがみ たかすけ、1906年(明治39年)1月15日 - 1986年(昭和61年)4月3日)は、日本の民俗学者、政治家。衆議院議員、信濃木崎夏期大学理事長。 1906年、長野県東筑摩郡松本町(現松本市)で、商家・池上良三の五男として生まれた。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科乙類を経て、東京帝国大学で学んだ。学生時代は柳田国男に師事し、赤羽一雄ら信州白樺派の教員とも交流を持った。 卒業後は農林省研究所に勤務。義兄の有賀喜左衛門とともに民俗学雑誌『郷土』の編集と発行にあたり、菅江真澄遊覧紀の刊行にあたっては信濃の部を担当した。長野県をたびたび訪れた折口信夫らとも交誼を深めた。
椎井 康雄(靖雄、しい やすお、1906年(明治39年)1月… 椎井 康雄(靖雄、しい やすお、1906年(明治39年)1月15日 - 1989年(平成元年)5月25日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県宮崎郡佐土原町(現宮崎市)出身。1920年(大正9年)宮崎商業学校(現宮崎県立宮崎商業高等学校)を卒業した。 1937年(昭和12年)昭和水産合資会社常任理事に就任。その他、対満薬品工業社長、ツシマ化粧品社長、宮崎県運搬業組合長、社団法人華陽会理事会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で宮崎県地方区に日本社会党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、参議院議員に1期在任した。その後、1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に立候補したが落選した。
藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 19… 藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 1991年 2月10日)は、神戸又新日報記者、大日本帝国陸軍情報将校、大手前大学創立者。大阪府守口市出身。 藤井健造は1906年(明治39年)、大阪府北河内郡守口町(現・守口市)に、樋口家の長男として生まれた。幼い頃から馬と自動車に興味を持ち、関西大学へ進学後は馬術部で活躍し、第4回全国乗馬大会では個人三等で入賞している。 神戸又新日報記者時代 大学卒業後、神戸又新日報に記者として入社するも、馬と車に情熱を燃やした。1932年ロサンゼルスオリンピックでは、バロン西の愛称で知られる男爵の西竹一陸軍中尉が障害飛越競技で出場することから、自費通信員の資格を得て、民間人で唯一の付き人として同行渡米し、担当記者として取材。
秋田 大助(あきた だいすけ、1906年(明治39年)1月1… 秋田 大助(あきた だいすけ、1906年(明治39年)1月14日 - 1988年(昭和63年)11月29日)は、昭和期の政治家。衆議院議員(12期)、自治大臣(第17代)、法務大臣(第27代)。父は衆議院議長を務めた秋田清。「策士」と称された父親と対照的に、地味で穏健な学究肌の政治家であった。 徳島県三好郡足代村(現東みよし町)に生まれる。旧制高知高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部経済学科を卒業、東邦電力に入社する。戦前は実業界で活躍し、西樺太商事取締役、土佐電気専務取締役、大阪プレス製作所専務取締役、松本鋳造鉄工所専務取締役、田中鉄工所取締役社長、太陽通商取締役、日東海運産業取締役、日東自動車監査役などを務めた。
李 孝祥(イ・ヒョサン、朝鮮語: 이효상、1906年1月14… 李 孝祥(イ・ヒョサン、朝鮮語: 이효상、1906年1月14日 - 1989年6月18日)は、大韓民国の詩人、哲学者、教授、政治家。第6・7代国会議長、参議員、第6・7・9・10代韓国国会議員。 本貫は星山李氏(朝鮮語版)。号はハンソル。カトリック教徒。 1906年に大邱で生まれた。1930年に東京帝国大学(現・東京大学)文学部独文学科卒、帰国後は嶠南学校で教職を務め、1940年に校長に就任した。解放後は慶尚北道学務局長を経て、1952年に慶北大学校文理科大学教授に着任した。1954年にルーヴェン・カトリック大学で哲学と文学を修学し、帰国後は慶北大学校文理科大学の初代学長を務めた。他には大倫教育財団理事、嶺南大学校財団理事長、国際新聞編集者協会・アジア新聞編集者協会韓国代表、大邱毎日新聞社理事など教育・新聞界でも活動した。
小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 199… 小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 1993年6月6日)は、日本の分子物理学者、生物物理学者。理学博士。東京大学・東京理科大学名誉教授、東京理科大学元学長。京都府京都市生まれ。明仁上皇の教育係を務めた。 田艇吉の二男哲と、柏原銀行頭取や柏原町長を務めた小谷保太郎の長女ふきの子として生まれる。父が小谷家に婿養子に入ったため、小谷姓を名乗った。 1929年に東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。卒業後は、東京帝国大学工学部講師、理学部助教授、後に教授昇進。東京大学理学部長、大阪大学基礎工学部教授をつとめた。また京都大学でも教鞭をとり、京都大学兼任教授も務めた。 1960年に日本生物物理学会を創設。
井上 東治郎(いのうえ とうじろう、1906年(明治39年)… 井上 東治郎(いのうえ とうじろう、1906年(明治39年)1月13日 - 1980年(昭和55年)9月29日)は、日本の農業指導者、政治家。衆議院議員。旧姓・升。 宮城県柴田郡村田町で升健蔵の長男として生まれ、井上ちせの養子となった。1924年(大正13年)市立仙台商業学校(現仙台市立仙台商業高等学校)を卒業した。新聞販売業を営んだ。 村田町農会長、全国治水砂防協会評議員、同県支部長、宮城県森林組合連合会長、同県蒟蒻栽培生産組合連合会副会長、全国蒟蒻原料配給統制協議会常任理事、宮城県蒟蒻原料統制 (有) 取締役社長、商工組合中央会理事、宮城県蚕糸連盟評議員などを務め、農民の福祉の向上に尽力した。
古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973… 古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973年10月30日)は、日本の出版人、筑摩書房の創業者、初代社長。
柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997… 柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997年3月16日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。 1906年、京都市下京区で生まれた。京都府立第一中学校を経て、第三高等学校に進学。1925年に卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。三浦周行、西田直二郎の指導を受け、1930年に卒業。 1930年、京都帝国大学文学部副手に採用された。1932年に助手昇格。 1946年に助教授昇格。1950年、京都大学分校(後の教養部)教授に昇格。1963年から1965年まで京都大学教養部長をつとめた。1969年3月に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。同1969年4月より関西大学文学部教授。1970年からは財団法人元興寺仏教民俗資料研究所人文科学室長をつとめた。
森長 英三郎(もりなが えいざぶろう、1906年1月10日 … 森長 英三郎(もりなが えいざぶろう、1906年1月10日 - 1983年6月1日)は、日本の弁護士。徳島県出身。 小学校を首席で卒業し、県立農学校(後の徳島県立城西高等学校)に学ぶ。作家を志して明治学院に進むが除籍となり、山谷や浅草で放浪生活を送り帰郷。再上京後、1932年に日本大学を卒業。1936年、弁護士登録。治安維持法違反事件を担当、戦後は自由法曹団に参加、労働事件を担当。三島由紀夫「宴のあと」訴訟でプライバシー権を提起、大逆事件の再審請求も担当。
楫西光速(かじにし みつはや、1906年1月9日-1964年… 楫西光速(かじにし みつはや、1906年1月9日-1964年3月19日)は、日本の経済史学者。 大阪市西区出身。1923年、大阪高等学校文科に入学。1926年3月に卒業し、翌月、東京帝国大学経済学部経済学科に入学。1929年に卒業。1958年「下総行徳塩業史」で東京大学経済学博士。大阪の商業学校で教えたのち、1938年に渋沢敬三のアチック・ミューゼアム(のちの日本常民文化研究所)研究員。戦後1948年法政大学教授となり、1950年東京教育大学教授。この間、土屋喬雄を助けて『渋沢栄一伝記資料』を編集。『東京商工会議所史』の編纂に当たったほか、日本資本主義発達史を中心とする多数の著書、論文、社会科の教科書も執筆した。
小坂 佐久馬(こさか さくま、1906年(明治39年)1月8… 小坂 佐久馬(こさか さくま、1906年(明治39年)1月8日 - 1988年(昭和63年)7月20日)は、昭和期の日本の出版事業家。 現在の北海道旭川市に生まれる。 1928年、旭川師範学校(現在の北海道教育大学旭川校)を卒業後、北海道内の小学校で教員として勤務した。 穂高書房社長などを経て、1948年、設立に参画した教育出版専務となる。以後、副社長(1963年)を経て、1967年に社長に就任した。1975年に社長を宍戸馨に禅譲、のち相談役に退く。他に教科書協会常務理事などを務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 193… 篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 1936年9月11日)は、日本の俳人。本名は篠原国堅(くにかた)。旧号は未踏、雲彦。鹿児島県出身。無季俳句で有名。 1906年(明治39年)、鹿児島市で生まれる。1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)を卒業。1926年(大正15年)第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1929年(昭和2年)東京帝国大学法学部を卒業。不景気のため就職口がなく、また病弱のため都会での就職を避け郷里で句作に没頭。1928年(昭和3年)、「ホトトギス」に初入選。「ホトトギス」、「京鹿子」、「馬酔木」など、初学時代は多くの俳誌に投句した 1931年(昭和6年)より沖縄県立宮古中学校 (旧制)の英語教諭を務める。
宮田 慶三郎(みやた けいざぶろう、1906年1月7日 - … 宮田 慶三郎(みやた けいざぶろう、1906年1月7日 - 1997年5月22日)は、日本の教育者、実業者、歯科医である。コープオリンピア、中野ブロードウェイなどを開発した東京コープ販売社長、南国酒家経営者、城西歯科大学、岐阜歯科大学創立者。慶應義塾大学医学博士。三男は宮田侑。 特記なきものは著書『一瞬と永遠――建学の精神の基礎にあるもの』著者略歴より。 北海道の湧別町川西に早期開拓民として高知県から入植した宮田亀之助の3男として1906年1月7日に生まれる。上京後、逓信官吏練習所(もしくは逓信講習所)で無線や電気材料学を学ぶかたわら、大阪歯科医学専門学校に通う。1923年に父親が病死したため生活は苦しく、運転手などをして学費を稼ぎ、1931年3月に卒業、同年12月に東京・大塚駅北口に宮田歯科医院を開業する。
杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 20… 杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 2002年5月29日)は、日本の生理学者、性評論家、翻訳家、医師。医学博士(東京帝国大学・1940年)。文部省国民精神文化研究所文化部主任、東京教育大学・専修大学教授を歴任。旧姓は渡辺。 大阪府堺市生まれ。第二高等学校卒業。1928年、東京帝国大学医学部卒業。橋田邦彦の下で電気生理学を専攻。1940年、「筋負傷電位の電源の座に関する研究」にて東京帝国大学医学博士。 日本的科学に賛同し1941年国民精神文化研究所文化部主任。1947年3月 - 1951年8月 公職追放。1946年 - 1951年『医学書院』編集長、1952年 - 1969年東京教育大学教授、1956年『人間の科学』で毎日出版文化賞受賞。
杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年〈明治39年〉1月6… 杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年〈明治39年〉1月6日 - 1997年〈平成9年〉4月4日)は、広島県広島市出身の新劇の女優。本名:石山 春子。旧姓:中野。 築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表する女優。称号は東京都名誉都民。 1906年、当時の軍都、広島県広島市西地方町(現在の広島市中区土橋町、河原町付近)生まれ。芸者の母、軍人だったとされる父が春子の幼時に死んだため、花柳界の中にある建築資材商と置屋経営者の養女となる。養父は近所の寿座という西日本一の芝居小屋の株主だった関係で、幼少期から歌舞伎や新派、歌劇、文楽などに親しむ。
草野 一郎平(くさの いちろうべい、1906年1月5日 - … 草野 一郎平(くさの いちろうべい、1906年1月5日 - 1973年11月22日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲章は勲二等旭日重光章。衆議院議員(6期)。自由民主党所属。 滋賀県東浅井郡出身。高等小学校卒業後に電力会社勤務の傍ら近江新聞の通信員となり、大谷大学卒業後に新聞記者をしながら農民運動に参加。1933年に27歳で大津市会議員に当選し、新聞記者と政治家・農民運動家として活動し滋賀新聞編集局長を歴任した。 国政選挙では、1942年の翼賛選挙で滋賀選挙区に東方会(非推薦)から立候補したものの落選。終戦直後の1946年の総選挙でも無所属で立候補したが次点に終わり、公職追放で一時期政治から遠ざかることになる。
川上 良作(かわかみ りょうさく、1906年1月4日 - 不… 川上 良作(かわかみ りょうさく、1906年1月4日 - 不明)は、長野県出身のプロ野球選手。 赤穂実業から八王子実業団を経て1937年に名古屋金鯱軍へ入団。開幕戦となる3月28日の東京巨人軍戦では8番サードでスタメン出場した。 同年の秋季リーグ終了後に退団した。
八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 196… 八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 1968年6月3日)は、日本の都市計画家、行政官僚。 内務省や厚生省、建設省で官僚として活動し、全国区画整理協会連合会会長、歴史的風土審議会委員、帝都高速度交通営団管理委員会委員、財団法人都市計画協会理事を歴任した。 富山県新湊町(現・射水市)に生まれる。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)から旧制第四高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に入学する。在学中高等文官試験に合格し、1930年に卒業後、内務省に勤める。福島県や岩手県、愛知県、兵庫県を転任し、1942年鹿児島県官房長となる。1943年に福島県経済部長に移る。ここまでは警察や経済部といった部署を歩んだ。
田中 伊三次(たなか いさじ、1906年〈明治39年〉1月3… 田中 伊三次(たなか いさじ、1906年〈明治39年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月11日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(15期)。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 衆議院副議長(第44代)、法務大臣(第22・23・31代)、自治庁長官(第7・8代)等を歴任した。 兵庫県にて田中宗吉の二男として生まれる。家が貧しく、17歳の時に郷里の兵庫県姫路の在からナマ米をかじりながら鉄道線路を歩いて大阪に出る。新聞配達、めし屋の注文取りなどをしながら貯めた金で汽車に乗り、京都に移る。 立命館中学、府立第二中学校、京都予備学校(のちの京都商業)を経て、立命館大学に入学した。1931年、高等文官試験に合格。
豊田 四郎(とよだ しろう、1906年1月3日 - 1977… 豊田 四郎(とよだ しろう、1906年1月3日 - 1977年11月13日)は、日本の映画監督。多くの文芸映画を作り、「文芸映画の巨匠」と呼ばれた。
南部 政二(なんぶ まさじ、1906年1月3日 - 1987… 南部 政二(なんぶ まさじ、1906年1月3日 - 1987年7月4日)は、日本の経営者。東亜燃料工業社長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。大和鉱業、小倉石油での勤務を経て、1944年8月に東亜燃料工業に転じ、1950年1月に取締役に就任し、1951年11月に常務、1959年9月に専務、1963年8月に副社長を経て、1965年9月には社長に就任した。1976年3月に会長を経て、1984年3月には相談役に就任。 1966年10月に藍綬褒章を受章。 1987年7月4日、脳梗塞のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
木下 重範(きのした しげのり、1906年(明治39年)1月… 木下 重範(きのした しげのり、1906年(明治39年)1月3日 - 1977年(昭和52年)8月13日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 大分県西国東郡岬村(のち香々地町、現豊後高田市)で生まれる。1926年(大正15年)日本大学専門部法律科を卒業した。 弁護士を開業し、日本弁護士連合会理事、同代議員、福岡県弁護士会小倉部会長、小倉市信用組合監事などを務め、日本水産、朝日新聞西部本社、三菱化成工業などその他多くの企業の顧問弁護士を務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から無所属で出馬して当選し、同友会に所属し衆議院議員に1期在任した。
三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日… 三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉7月18日)は、日本の俳優。本名・長岡 正雄(ながおか まさお)。 東京都で生まれ、新潟県三島郡与板町(現・長岡市)に育つ。本名は長岡 正雄(ながおか まさお)。元与板藩士で、陸軍軍人となり三條中学校の助教諭や、帝国生命保険の書記などを務めた父・茂雄と母・マツの間に6人兄弟(男4人・女2人)の長子、長男として生まれた。1924年(大正13年)に獨協中学校(旧制中学校)を卒業し、茂雄がのめりこんでいた影響で演劇(新劇)の世界に足を踏み入れる(茂雄も演者として舞台に立っていたようである)。同年に『ヴェニスの商人』で初舞台を踏んだ。
山田 和男(やまだ かずお、1906年1月2日 - 1985… 山田 和男(やまだ かずお、1906年1月2日 - 1985年12月15日)は、日本の英語学者。 静岡県静岡市生まれ。静岡県立静岡商業学校卒業、1927年東京外国語学校英語部貿易科卒業。京北実業学校教諭、1928年米沢高等工業学校講師、助教授、1935年東京商科大学予科講師、1938年同付属商学専門部教授、1949年一橋大学商学部教授、1969年定年退職、名誉教授。