有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 20… 有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 2009年4月15日)は、日本の医学者。医学博士(1946年、東京帝国大学)。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、昭和9年(1934年)日本大学専門部医科修了。日本大学内科及生化学教室での研修後、駿河台日本大学病院内科助手、昭和13年(1938年)同病院医局長、昭和15年(1940年)医学部講師、昭和21年(1946年)助教授、昭和26年(1951年)教授。昭和29年(1954年)内科学第三講座開設に伴い主任教授に就任。昭和43年(1968年)駿河台日本大学病院長。昭和45年(1970年)医学部総合企画委員長、昭和49年(1974年)医学部長。
南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911… 南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911年2月12日 - 2004年12月1日)は、富山県射水郡出身の版画家(銅版画)。夫は版画家の浜口陽三。本名は浜口 桂子(はまぐち けいこ)。
田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月1… 田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月11日 - 平成18年(2006年)1月8日)は、日本の歴史研究家、政治思想家、近現代史評論家、著述家、新聞編集者。戦前・戦時中は松井石根の私設秘書としてアジア解放運動に従事した。 大亜細亜協会編集責任者、戦後は、拓殖大学講師、世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事を務めるほか、近現代史評論家として著述活動を活発に行った。 長野県下伊那郡喬木村出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)卒業。1933年、興亜学塾卒業。松井石根の元私設秘書、松井が設立発起人となった大亜細亜協会編集責任者となる。応召し、無錫で終戦を迎える[要出典]。
續木 湖山(つづき こざん、1911年2月11日 - 200… 續木 湖山(つづき こざん、1911年2月11日 - 2006年4月21日)は、書家。愛知県新城市黒田にて出生。本名は續木敏郎。 書家として数々の作品を発表。また書写書道の分野における教育者/研究者としての活動も多岐に渡る(略歴・著書を参照)。師は石田泉城・青山松亭。
諏訪多 栄蔵(すわた えいぞう、1911年2月10日 - 1… 諏訪多 栄蔵(すわた えいぞう、1911年2月10日 - 1992年5月5日)は、日本の登山家。 東京市日本橋馬喰町生まれ。1928年工学院(現工学院大学)冶金学科卒、トキワ鉛工業に入社。大阪に住み、西岡一雄らの手引きで登山を始める。吉沢一郎、望月達夫、深田久弥らとともに日本のヒマラヤ研究の第一人者であった。
宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日… 宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、日本の武道家、思想家、教育者、社会指導者、社会運動家、宗教家。日本の武道の一つである少林寺拳法の創始者であり、北少林義和門拳第21代正統継承者(事実上の古典的嵩山少林寺における最後の正統継承者) 姓名は中野 理男(なかの みちお)、中野 道臣(なかの みちおみ)を経て、最終的には宗 道臣を名乗った 1911年(明治44年)2月10日、岡山県英田郡江見村(現・美作市)に生まれる。1919年(大正7年)、義父が死亡し、1924年(大正12年)に家出し、祖父の住む満州へと移る。1926年(大正15年)母と妹が死亡、1927年(昭和2年)には妹と祖父が死亡、天涯孤独となる。
天野 節(あまの みさお、1911年2月10日 - 没年不明… 天野 節(あまの みさお、1911年2月10日 - 没年不明)は、日本の洋画家。徳島県麻植郡美郷村(現吉野川市)出身。徳島県師範学校卒業。 日本色彩学会名誉会員。奉天省美術展特選、新世紀美術展大内賞、徳島県出版文化賞などを受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小比類巻 富雄(こひるいまき とみお、1911年〈明治44年… 小比類巻 富雄(こひるいまき とみお、1911年〈明治44年〉2月9日 - 1978年〈昭和53年〉7月31日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。 青森県上北郡大三沢町長、三沢市長。 小比類巻金太郎、ナミの長男として青森県上北郡三沢村(現在の三沢市)に生まれる。1930年(昭和5年)3月、八戸中学校を卒業し、翌年7月に三沢尋常高等小学校の代用教員となる。戦後、1947年(昭和22年)4月、三沢村議会議員に当選。翌年4月に周辺村との合併により大三沢町が発足すると、同町長に就任した。1955年(昭和30年)5月から1959年(昭和34年)4月まで青森県議会議員を務め、同年5月に三沢市長に就任した。
杉浦 正一郎(すぎうら しょういちろう、1911年2月9日 … 杉浦 正一郎(すぎうら しょういちろう、1911年2月9日 - 1957年2月23日)は、日本の俳諧研究者。 兵庫県神戸市生まれ。1934年東京帝国大学文学部卒。大阪高等学校の友人と『コギト』を創刊。志田義秀、潁原退蔵に師事して俳諧を研究。天理図書館、千代田女子専門学校、佐賀高等学校、戦後北海道大学助教授、九州大学助教授、同教授。在職中に46歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 -… 多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 - 1990年(平成2年)3月12日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 千葉県香取郡佐原町(佐原市を経て現香取市)で生まれる。1931年(昭和6年)日本大学商業学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を卒業した。 房総新聞記者となる。以後、千葉県砂糖卸商業組合専務理事、同日用品配給統制組合常務理事、千葉県生活用品販売副社長、東日本産業社長、多田印刷社長、千葉県印刷工業組合理事長、全日本印刷工業組合連合会理事、同常務理事、同副会長、日本印刷工業会理事、全国印刷工業健康保険組合理事、千葉印刷団地協同組合理事長、関東五県印刷工業厚生年金基金理事、千葉陸上競技協会会長、千葉県体育協会副会長、同顧問などを務めた。
小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 197… 小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 1974年1月9日)は、日本の教育者、教育学者。 神奈川県横浜市出身。1943年法政大学文学部国漢科卒。小学校教師を務め、東横学園小学校校長、和光学園主事。日本私立小学校連合会副会長。国語教育が専門。
入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼう… 入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)、1911年(明治44年)2月7日 - 1995年(平成7年)1月12日)は、昭和期の日本の映画女優。 東京市四谷区四谷箪笥町(現・新宿区四谷三栄町)に生まれる。公卿華族・東坊城家(菅原氏)の出身で父の東坊城徳長は子爵、貴族院議員。生母は北村キミ。1922年(大正11年)、父が亡くなり、翌1923年(大正12年)の関東大震災で千駄ヶ谷の東坊城家の住居が半壊し生活に困窮するも、文化学院中学部に入学し油絵を習う。次姉の敏子(1899~1991)が権掌侍「白百合の局」として貞明皇后の女官を長く務めた縁で、宮城の御局から文化学院まで徒歩通学する。
前川 春雄(まえかわ はるお、1911年2月6日 - 198… 前川 春雄(まえかわ はるお、1911年2月6日 - 1989年9月22日)は、東京都出身の第24代日本銀行総裁。兄は建築家前川國男。父は土木官僚の前川貫一。 府立五中、一高を経て、1935年、東京帝国大学法学部を卒業。日本銀行に入行し、イタリア駐在、ドイツ駐在、ニューヨーク駐在等、国際金融のスペシャリストとして歩みを進める。外国為替部門の責任者を経て、一度、輸銀へ転出。1974年、副総裁として日本銀行に復帰する。1979年に森永貞一郎の後を受け、第24代日本銀行総裁に就任。副総裁には、輸銀時代の上司であった澄田智(後任の第25代日銀総裁)を据え「逆転人事」として話題を呼んだ。 日銀総裁就任後、前川は早速、第2次オイルショックによるインフレーションにどう対処するのかという難題に取り組まねばならなかった。
喜多村 俊夫(きたむら としお、1911年2月6日 - 19… 喜多村 俊夫(きたむら としお、1911年2月6日 - 1993年10月24日)は、日本の地理学者。 滋賀県滋賀郡堅田町(現・大津市)生まれ。滋賀県師範学校、東京高等師範学校文科卒、1933年東京文理科大学地理学科卒。滋賀県立小学校訓導、滋賀県師範学校教員、1936年日本経済史研究所研究員、1939年京都帝国大学人文科学研究所助手、1949年助教授、1949年「日本灌漑水利慣行の史的研究」で京大農学博士。同年岡山大学法文学部教授、のち名古屋大学文学部教授となり、1974年定年退官、名誉教授、大阪経済大学教授、1975年大阪学院大学教授を務め、1985年退職。1951年日本農学会賞(日本農学賞)受賞。
中村 光夫(なかむら みつお、1911年(明治44年)2月5… 中村 光夫(なかむら みつお、1911年(明治44年)2月5日 - 1988年(昭和63年)7月12日)は、文芸評論家、作家。本名、木庭一郎(こば いちろう)。第6代日本ペンクラブ会長、文化功労者、日本芸術院会員。私小説批判で有名。
金原 まさ子(きんばら まさこ、1911年2月4日 - 20… 金原 まさ子(きんばら まさこ、1911年2月4日 - 2017年6月27日)は、俳人。東京生まれ。本名:金原 マサ。 父は三和信託に勤めるサラリーマンで家庭は裕福であった。少女時代は友達を作らず『新青年』『苦楽』『譚海』といった文芸雑誌を購読し、夢野久作や初期の江戸川乱歩、龍膽寺雄、川端康成の「片腕」などの作品を好んで読んでいた。三輪田高等女学校を卒業後、飯田橋の料理学校に入り、ここで知り合った友人を介してダンスの世界に触れる。その後結婚し、以降はほぼ専業主婦として生活。戦時下では育児日記を書き綴りNHK『新・ドキュメント太平洋戦争』シリーズで取り上げられた。戦後は49歳で俳句をはじめる。1970年、桂信子主催の『草苑』創刊同人、1973年、草苑しろがね賞を受賞、1979年、草苑賞を受賞。
馬淵 薫(、1911年(明治44年)2月4日 - 1987年… 馬淵 薫(、1911年(明治44年)2月4日 - 1987年(昭和62年)5月3日)は日本の脚本家。筆名は木村 武()。脚本は筆名と本名と両方の名義で執筆していた。東京出身。 関西大学を中退し、1930年に日本共産党に入党。その後、約10年間入獄したのち、日本共産党の佐賀県委員長を務める。1950年(昭和25年)に離党し、その後八住利雄に師事し脚本家になる。 1953年(昭和28年)、映画『赤線基地』で脚本家デビュー。東宝特撮路線を支えたプロデューサーの田中友幸や常連出演者の志村喬とは関西大学からの演劇仲間だが、上京しての映画界入り後も関西演劇界とはつながりがあり、演劇青年時代の筒井康隆とも親交があり、香村菊雄に紹介している。
近藤 吾朗(五郎)(こんどう ごろう、1911年〈明治44年… 近藤 吾朗(五郎)(こんどう ごろう、1911年〈明治44年〉2月4日 - 1999年〈平成11年〉1月11日)は、日本の芸術家。戦前は中国に在住し東洋美術を学び、パリを中心に西洋美術、中近東やアジア諸国の古代文明跡に漂泊の旅を重ね、「写実の美」、「存在のリアリティー」を追求した。 晩年は富士山麓の静岡県裾野市にアトリエ「無暦庵」を構え、黙々と富士山を描き続けた。どの絵画も丹念なマチエールでダイナミックで重厚感のある油絵が特徴である。 他数百点以上の作品を残している。
関 綾二郎(せき あやじろう、1911年(明治44年)2月4… 関 綾二郎(せき あやじろう、1911年(明治44年)2月4日 - 2016年(平成28年)5月29日。本名の正しい読み方は、せき りょうじろう)は、東京都小金井市の市長を1967年から1971年まで務めた。当時のローカル新聞は「関綾二郎助役は旧家の生れであり柔和で清廉の紳士である」と同時に「強固な意志の持ち主である」と綴っている。日本の歴代市長の中では当時は最も長生きし、2016年に105歳で亡くなった。 1911年に小金井にゆかり深い旧家に生まれた。小金井市助役(現在でいう副市長)を務めた後に1967年に小金井市第2代目の市長に就任。「愛情ある、市民と直結した市政」を目指し、「新しい町づくり、みんなの市政に愛情を」と呼びかけた。
坂元 親男(さかもと ちかお、1911年2月2日 - 199… 坂元 親男(さかもと ちかお、1911年2月2日 - 1998年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。 宮崎県北諸県郡高崎町(現都城市)出身。旧制宮崎県立都城中学校(現:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校・附属中学校)を経て、1932年、京都高等蚕糸学校(現:京都工芸繊維大学)卒業。宮崎県議会議員を5期務めた後、1969年の衆院選に自由民主党公認で出馬し初当選。1972年の衆院選で落選。1976年の参議院議員補選に宮崎県選挙区から無所属で出馬し当選。その後自民党に復党。参議院当選3回。自民党では番町政策研究所(三木武夫→河本敏夫派)に所属。1988年12月から翌年の6月まで竹下改造内閣の北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官を務めた。
米沢 滋(よねざわ しげる、1911年 <明治44年> 2月… 米沢 滋(よねざわ しげる、1911年 <明治44年> 2月1日 - 1999年 <平成11年> 5月2日)は、日本の逓信官僚、工学者。日本電信電話公社総裁、経済団体連合会理事、電気通信協会長などを歴任。位階は正三位。 米沢与三七の子として生誕。富山県下新川郡入善町出身。1933年、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省に入省。電気通信省業務局計画部長、日本電信電話公社保全局長、電気通信研究所長、総務理事などを歴任。1965年から1977年にかけて日本電信電話公社の総裁を務める。 超短波電波による無線多重電話方式を提唱し、1940年に世界に先駆けて実用化。また、通信設備の保全を合理化するため、初めて統計的品質管理方式を導入。
黒住 剛(くろすみ つよし、1911年(明治44年)2月1日… 黒住 剛(くろすみ つよし、1911年(明治44年)2月1日 - 1986年(昭和61年)3月19日)は、日本の実業家、興亜化学工業(現・栄研化学)創立者および代表取締役会長、扶桑薬品工業代表取締役社長。 岡山県勝田郡湯郷町(現:美作市)生まれ。1929年(昭和4年)、旧制関西大学第二商業学校(現:関西大学)を卒業後、1939年(昭和14年)に興亜化学工業(現・栄研化学)を設立し、取締役に就任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西村 尚治(にしむら しょうじ、1911年〈明治44年〉2月… 西村 尚治(にしむら しょうじ、1911年〈明治44年〉2月1日 - 1997年〈平成9年〉10月15日)は、日本の郵政官僚、政治家。参議院議員(4期)。国務大臣総理府総務長官兼沖縄開発庁長官。 鳥取県東伯郡大栄町(現・北栄町)出身。亀吉の二男。第六高等学校を経て、1936年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格し逓信省に入省。中野郵便局属。 戦後は郵政省に移り、資材局調整課長、大臣官房文書課長、大臣官房資材部長、大阪郵政局長などを経て、1960年5月に簡易保険局長。1961年6月に郵務局長。1962年5月15日には郵政事務次官に就任した。1964年6月に退官。 1965年7月、第7回参議院議員通常選挙の全国区に自由民主党から出馬し初当選。
石山 キツエ(いしやま キツエ、1911年〈明治44年〉2月… 石山 キツエ(いしやま キツエ、1911年〈明治44年〉2月1日 - 1986年〈昭和61年〉4月21日)は、日本のアイヌ文化伝承者。 北海道雨竜郡雨竜町伏古で誕生した。家はアイヌ歌謡やユカㇻ(英雄叙事詩)の伝承者の家系であり、同じくアイヌ文化伝承者である杉村キナラブック、砂沢クラの姪にあたる。 父方、母方の祖母からそれぞれ、ユカㇻ、アイヌの歌謡を習い覚えた。ヤイサマ(喜びや悲しみの気持ちを即興で歌う歌)を得意としており、ヤイサマの第一人者ともされている。 1928年(昭和3年)に結婚し、旭川市へ移住した。1983年(昭和58年)には夫の石山長次郎や、旭川の他のアイヌ夫妻と共に、アイヌ文化の学習会「ウネウサラ・コトムカ」の講師を務めた。
兼岩 正夫(かねいわ まさお、1911年2月 - 1984年… 兼岩 正夫(かねいわ まさお、1911年2月 - 1984年12月23日)は、日本の歴史学者、東京教育大学名誉教授。専門は西洋中世史。 静岡県庵原郡興津町生まれ。静岡県立静岡中学校に学ぶ。旧制静岡高等学校を経て、1941年、京都帝国大学文学部卒業。旧制静岡高等学校で教えた後、東京教育大学助教授。1958年、同教授。1962年、「中世歴史意識のリアリズム」で京都大学より文学博士の学位を取得、1975年、定年退官、名誉教授。1984年、勲三等瑞宝章受勲。
河合 恒治(かわい つねはる、1911年1月31日 - 20… 河合 恒治(かわい つねはる、1911年1月31日 - 2005年9月17日)は、日本の歌人。 愛知県豊橋市出身。海軍兵学校卒。1943年、徳島県那賀郡羽ノ浦町(現・阿南市羽ノ浦)に移り住む。海軍軍人としての戦争体験から、海を重要な題材として詠み続けた。第一歌集『艦砲射撃』の序文は平出英夫と井上司朗が寄せている。1964年に歌誌「四国水甕」を創刊。1994年に徳島ペンクラブ5代目会長に就任。2000年に第26回徳島県文化賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大久保 清子(おおくぼ きよこ、1911年1月30日 - 2… 大久保 清子(おおくぼ きよこ、1911年1月30日 - 2006年8月4日)は、日本の女優である。出生名笹井 朝子(ささい あさこ)、結婚後の本名は伊藤 朝子(いとう あさこ)。女優引退後は、伊藤大輔夫人として知られる。 1911年(明治44年)1月30日、京都府京都市上京区三条通千本(現在の同府同市中京区三条通千本)に生まれる。父は笹井幸二郎、伯父は千本組当主の笹井三左衛門、従兄に笹井末三郎がいる。旧制小学校(現在の京都市立朱雀第一小学校)、同市東山区の華頂高等女学校(現在の華頂女子高等学校)を卒業した。『芸能人物事典 明治大正昭和』等には「精華高等女学校」を卒業した旨の記述があるが、同校は現在の精華高等学校であり、当時は大阪市住吉区(現在の阿倍野区)晴明通に実在した学校であるが、誤りである。
宮木 高明(みやき たかあき、1911年1月30日-1974… 宮木 高明(みやき たかあき、1911年1月30日-1974年1月9日)は、日本の薬学者。 東京浅草の商家に生まれる。京華中学校、第一高等学校、1935年東京帝国大学医学部薬学科卒、副手、38年助手、42年「Napthyridin誘導体の合成研究」で薬学博士、千葉医科大学附属薬学専門部教授。1947年千葉医科大学教授。49年千葉大学薬学部長、教授。 1974年1月9日、脳出血のため東邦大学医学部大森病院にて死去。62歳。
井上 啓次郎(いのうえ けいじろう、1911年1月30日 -… 井上 啓次郎(いのうえ けいじろう、1911年1月30日 - 1989年4月16日)は、日本の科学技術官僚、工学博士。第4代科学技術事務次官。第6代日本科学技術連盟理事長。 三重県出身。1936年東京工業大学(のちの東京科学大学)電気化学科卒業。1954年「活性炭の製造並びに性状に関する研究」により東京工業大学工学博士の学位を取得。 技術院参技官、科学技術庁原子力局科学調査官、科学技術庁原子力局次長等を経て、1962年科学技術庁資源局長。1963年に日本原子力船開発事業団が設立されると、原子炉担当理事に就任し、むつの基本設計を行った。 1964年から1968年まで科学技術事務次官を務め、東海再処理施設の建設問題への対応を行うなどした。
大島 良雄(おおしま よしお、1911年1月29日 - 20… 大島 良雄(おおしま よしお、1911年1月29日 - 2005年1月11日)は、日本の医学者。日本アレルギー学会名誉会員、東京大学名誉教授、埼玉医科大学名誉病院長。 1911年(明治44年)、北海道札幌市に生まれる。父は農学者の大島金太郎であった。1926年(昭和2年)官立東京高等学校理科2類に入学し、1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科に入学した。1934年(昭和9年)、大学付属病院物療内科に入局した。1940年(昭和15年)、論文「酸性泉の人体に及ぼす影響について」により、医学博士の学位を授与される。1944年(昭和19年)に岡山大学教授となり、終戦直前の1945年(昭和20年)陸軍軍医少尉となる。
東園 基文(ひがしその もとふみ、1911年〈明治44年〉1… 東園 基文(ひがしその もとふみ、1911年〈明治44年〉1月28日 - 2007年〈平成19年〉4月12日)は、日本の華族、宮内官僚。東園家14代当主。初名は伊達 宗文。 東園基光子爵の相続人となる。1934年(昭和9年)9月19日、家督を継承し、子爵を襲爵した。戦後は、宮内庁掌典長や神社本庁統理などを務めた。 伊達邦宗伯爵三男として宮城県仙台市に生まれる。学習院を経て北海道帝国大学農学部に進学した。同大学では馬術部に所属し、1931年に出場した第3回全日本学生馬術選手権大会で優勝したほか、第2代主将を務めた。 1934年大学を卒業し、東宮傅育官任官。同年大日本帝国陸軍騎兵少尉。1940年皇后宮事務官。
柴田 勝治(しばた かつじ、1911年〈明治44年〉1月26… 柴田 勝治(しばた かつじ、1911年〈明治44年〉1月26日 - 1994年〈平成6年〉8月20日)は、日本の元アマチュアボクシング選手・指導者であり、教育者であった人物である。 岩手県二戸郡鳥海村(現在の二戸郡一戸町月館)出身。幼年時代を故郷で過ごした後に旧制日本大学第二中学校へ進学。その後、日本大学高等師範部国語漢文科(現・日本大学文理学部)へ進学。大学時代にボクシング(拳闘)部へ入り、ライト級ボクサーとして活動。1931年(昭和6年)、日本大学2年次の時に日比谷公会堂にて明治大学の選手と公式試合を行った際に最終ラウンドに柴田と対戦相手が互いの強打でキャンパスに沈むダブルノックダウンを喫した。
森 治樹(もり はるき、1911年〈明治44年〉1月26日 … 森 治樹(もり はるき、1911年〈明治44年〉1月26日 - 1988年〈昭和63年〉8月19日)は、日本の外交官である。 福岡県出身。1933年(昭和8年)、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、1935年(昭和10年)に外務省に入省。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦当時は条約局事務官であり、"United Nations"を国際連合と訳したのは森だとする説がある。1952年(昭和27年)の日伊国交回復後、在イタリア日本大使館の参事官となった。1957年(昭和32年)、北米局長に就任。1967年(昭和42年)、OECDの日本での活動を規定する協定に署名した。1970年(昭和45年)7月10日から1972年(昭和47年)4月28日まで外務事務次官を務めた。
倉沢 栄吉(くらさわ えいきち、旧字:倉澤榮吉。1911年1… 倉沢 栄吉(くらさわ えいきち、旧字:倉澤榮吉。1911年1月25日 - 2015年1月24日)は、日本の国語教育学者。学位は、教育学博士(筑波大学・論文博士・1991年)(学位論文「昭和戦後期における読むことの学習指導論の展開」)。東京教育大学教授・千葉大学教授を歴任。 栃木県今市市出身。12歳の時、興津に移り、1923年、静岡県立静岡中学校に入学、1年の秋から寄宿舎生活を送った。1928年、静岡中学卒業。東京文理科大学卒業。1947年、千葉師範学校教授、新制大学移行に伴い千葉大学教授。1949年、大学教授の職を辞して東京都教育委員会(教育庁)指導主事、1951年1月から4ヶ月間、GARIOA(占領地域救済政府資金)による奨学金により米国国語教育を視察。
森 三郎(もり さぶろう、1911年1月25日 - 1993… 森 三郎(もり さぶろう、1911年1月25日 - 1993年8月27日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の童話作家・編集記者。書誌学者の森銑三は16歳年上の兄である。新美南吉、坪田譲治、平塚武二らとともに『赤い鳥』の作家として活躍した。 1911年(明治44年)1月25日、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に生まれた。兄が2人、姉が1人おり、4人兄弟姉妹の末子(三男)である。父親の森五市は呉服商だった。父親は好んで昔話を語る人であり、母親は書物を大切にする人だった。 1917年(大正6年)に亀城小学校に入学し、小学校時代には鈴木三重吉の『世界童話集』を読んでいた。1918年(大正7年)に鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊すると、兄の森銑三によって与えられた創刊号を読んで没頭した。
メイ牛山(メイうしやま、本名・牛山 マサコ、1911年1月2… メイ牛山(メイうしやま、本名・牛山 マサコ、1911年1月25日 - 2007年12月13日)は、日本の美容家、美容師。ハリウッド美容専門学校学長、ハリウッドビューティサロン社長、ハリウッド化粧品のハリウッド株式会社会長を歴任した。山口県防府市出身。牛山清人の後妻。 山口県防府市生まれ。実家は塩田を営んでいた。3歳のとき、父が腸チフスで亡くなり、母の実家に転居。防府市技芸女学校卒業。1929年、18歳で単身上京し、麻布森元町(現在の港区東麻布)に住む叔母の家で働く。 1932年、同郷の友人の紹介で、牛山清人(ハリー牛山)が1927年に東銀座に開業したハリウッド美容室の5階にあったハリウッド美容講習所(ハリウッド美容専門学校の前身)に内弟子として住み込みとなり、すぐ美容師として才能を開花。
岩船 雅一(いわふね まさいち、がいち、1911年〈明治44… 岩船 雅一(いわふね まさいち、がいち、1911年〈明治44年〉1月25日 - 1978年〈昭和53年〉6月9日)は日本の作曲家、ヴァイオリニスト。本名岩船 正治(いわふね しょうじ)。 1911年(明治44年)1月25日、岩手県下閉伊郡磯鶏村(現在の宮古市)に生まれる。帝国音楽学校卒業。ヴァイオリンを鈴木鎮一、指揮を尾高尚忠、作曲を大木正夫、細谷一郎に師事した。鈴木鎮一主宰の東京弦楽団を引き継ぎ同楽団の主宰を勤め、演奏活動を行う傍ら、後進への指導に尽力しており、1961年(昭和36年)3月26日には小野豊文らと共に日本弦楽指導者協会を設立し、その後17年会長を務めた。松本善三はこの協会の創立を「彼の最高の業績」と評している。
築島 謙三(つきしま けんぞう、1911年1月24日 - 1… 築島 謙三(つきしま けんぞう、1911年1月24日 - 1992年4月7日)は、日本の社会心理学者、元東京大学東洋文化研究所教授。 鹿児島県生まれ。1934年旧制第七高等学校造士館文科卒業。1941年東京帝国大学文学部心理学科卒、同年東京府立第三商業学校教諭、1943年東京帝国大学東洋文化研究所助手、1951年専任講師、1962年「文学心理学基礎論」で東洋大学文学博士、1968年東京大学東洋文化研究所教授、1971年定年退官、成城大学文芸学部教授、1980年退職。日本社会心理学会理事長を務めた(1960年 - 1964年、1966年 - 1968年)。 次第に日本文化論に関心を移した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
広瀬 栄一(ひろせ えいいち、1911年〈明治44年〉1月2… 広瀬 栄一(ひろせ えいいち、1911年〈明治44年〉1月23日 - 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍中佐、陸将。 香川県出身。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)より広島陸軍幼年学校に転じ、陸軍予科士官学校に進学。44期生の指導生徒も務めたが、そこの区隊長はのちに二・二六事件の首謀者の一人となる村中孝次であった。1931年(昭和6年)7月、陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍少尉任官、1938年(昭和13年)5月、陸軍大学校(50期)を卒業。砲兵畑を進む。 第二次世界大戦中、日本とフィンランドの間では暗号解読等の対ソ連情報協力が行われていた。
摩寿意 善郎(ますい よしろう、1911年1月23日 - 1… 摩寿意 善郎(ますい よしろう、1911年1月23日 - 1977年4月25日)は、日本の美術史家、東京芸術大学名誉教授。 1911年1月23日、父・善太郎、母・ツヤの長男として東京府麻布区に生まれる。1924年3月、区立南山小学校を卒業。麻布中学校に進み、1928年に卒業した。1929年、第一高等学校文科甲類に入学。一高時代に三谷隆正教授のブルクハルト「イタリア・ルネッサンスの文化」の講義をうけたのが、ルネッサンス美術史研究の端緒となった。1932年京都帝国大学文学部に入学したが、翌年東京帝国大学に転じ、1936年3月、同大学文学部美学美術史学科を卒業。論文は「美術史の哲学的基礎」。大学卒業と同時に都新聞(現:東京新聞)に入社し、文化部美術担当記者となる。
廣安 美代子(ひろやす みよこ、1911年〈明治44年〉1月… 廣安 美代子(ひろやす みよこ、1911年〈明治44年〉1月23日 - 2025年〈令和7年〉7月29日)は、日本のスーパーセンテナリアン。大分県中津市在住の長寿の女性。2025年5月21日から死去まで日本最高齢であった。 大分県中津市に生まれた。東京都内の学校で美術を学び、後に広島県内で美術教師として働いた。そこで夫と出会い結婚。夫婦には3人の子供がいる。 老人ホームに入る前は、中津市の自宅で、地元の小学生を対象に書道や絵画の授業を行っていた。 2018年9月に107歳で中津市内最高齢として市長より祝福を受ける。 2021年4月30日には、大分県の最高齢者となる。同年9月17日、大分県知事からも祝福を受けた。
菅原 克己(すがわら かつみ、1911年1月22日 - 19… 菅原 克己(すがわら かつみ、1911年1月22日 - 1988年3月31日)は、昭和期の詩人。宮城県出身。1927年に室生犀星の『愛の詩集』を読んだことをきっかけにその口語自由詩に影響を受け、私淑する。日本共産党員の時期もあったが、1961年の第8回党大会前に、党の紀律にそむき、意見書や声明を発表し、除名された。新日本文学会の中心メンバーのひとりとしての活動を続けながら詩作を続け、日本文学学校の講師も担当した。 1911年、宮城県亘理郡亘理町に生まれる。父新兵衛、母金の第四子。1914年、父が県視学となり、仙台市に移住。1917年、宮城県立師範学校附属小学校卒業、父が勤務先の角田高等女学校の校長室で急死。
小川原脩(おがわら しゅう、1911年1月21日~2002年… 小川原脩(おがわら しゅう、1911年1月21日~2002年8月29日)は日本の画家。北海道虻田郡倶知安町出身。 旧制中学(現・北海道倶知安高等学校)で油彩を始める。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。在学中に「納屋」(1933年)が帝展に入選。卒業後、福沢一郎らと出会い前衛的な美術団体「エコール・ド・東京」「創紀美術協会」「美術文化協会」などの結成に参加。シュルレアリスム絵画への道を歩んだが、軍の規制が厳しくなり断念。その後、軍の命令により戦争記録画を制作。戦後は郷里・倶知安に戻り、岩船修三、木田金次郎らと「全道美術協会(全道展)」の創立に参加。1958年、野本醇、因藤壽、穂井田日出麿らと「麓彩会」を創立。
前野 直定(まえの なおさだ、1911年〈明治44年〉1月2… 前野 直定(まえの なおさだ、1911年〈明治44年〉1月21日 - 1971年〈昭和46年〉7月24日)は、日本の銀行家。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。 1911年(明治44年)3月8日、吉本家の男子として、高知県高知市鷹匠町2に生まれる。のち前野家を継いで姓を改む。 高知県立高知城東中学校(現・高知追手前高校)卒業後、旧制高知高等学校を経て、1935年(昭和10年)、東京帝国大学法学部法律学科に学ぶ。東京帝大法学部法律学科在学中に高等試験行政科に合格。 東京帝大法学部法律学科を卒業後、横浜正金銀行に入り、1941年(昭和16年)、大蔵省に入省。為替局属。1944年(昭和19年)4月、総務局。
井上 禅定(いのうえ ぜんじょう、1911年〈明治44年〉1… 井上 禅定(いのうえ ぜんじょう、1911年〈明治44年〉1月20日 - 2006年〈平成18年〉1月26日)は、日本の禅僧。元東慶寺住職。相模工業大学教授。学僧として名高く、また自然保護運動でも活躍した。 神奈川県高座郡渋谷村(現・藤沢市)高倉に円覚寺派東勝寺の禅僧の三男として生まれる。大正の初め、父の転住に伴い、足柄上郡南足柄村(現・南足柄市)の狩野極楽寺に移る。この極楽寺は臨済宗円覚寺の末寺であり、そこで少年時代の井上は、晩年の釈宗演の法話を聞き感銘を受ける。1921年春、10歳で親元を離れ鎌倉に赴き、東慶寺住職として釈宗演の跡を継いでいた佐藤禅忠の弟子となる。 神奈川県立湘南中学校(現在の神奈川県立湘南高等学校)、松本高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部印度哲学科で辻直四郎の指導を受け、また和辻哲郎にも学ぶ。
秋月直胤(あきづき なおかず、1911年〈明治44年〉1月2… 秋月直胤(あきづき なおかず、1911年〈明治44年〉1月20日 - 1988年〈昭和63年〉11月)は日本の歌手、教育者。 岡山県岡山市広瀬町出身。東京音楽学校を卒業後も声楽の研究を続けるつもりでいたが、山田耕筰の推薦でコロンビアレコードに入り、青山 薫(あおやま かおる)の芸名で歌手として活動する。青山薫の芸名は西條八十によるものである。流行歌歌手を引退後はクラシック界に復帰し、バリトン独唱者として活躍した。1948年(昭和23年)には大阪音楽大学に声楽部長、教授として招かれ、教鞭をとった。 その後大学を退いて新設音楽大学の設立を計画するもかなわず、1951年(昭和26年)4月からは兵庫県宍粟郡山崎町(現在の宍粟市)に居を移し、兵庫県立山崎高等学校で教鞭をとる。
北川 弥助(きたがわ やすけ、1911年1月20日 - 20… 北川 弥助(きたがわ やすけ、1911年1月20日 - 2005年6月9日)は、滋賀県の政治家、滋賀県議会議員。五個荘町名誉町民。県議を連続14期・約53年間務め、大山広司に更新されるまで全国の県議の在職期間の最長記録保持者だった。戦後の滋賀を語る「県政の生き字引」と呼ばれた。 滋賀県神崎郡旭村伊野部(現東近江市五個荘伊野部町)出身。油の行商の傍ら青年団活動を行い、1950年の第1回統一地方選県議補選で民主自由党から立候補して初当選。その後、連続で14期・19440日間議員を務めた。1970年に藍綬褒章、1981年に勲三等瑞宝章を受章。1998年には都道府県議で初の在職五十年表彰を受賞した。 県議会議長を三回、自民党県連会長三回、全国農業共済協会副会長、県商工連合会長、県農業共済連合会長、県土地改良事業団体連合会長、愛知川沿岸土地改良区理事長など多くの役職を務めた。
藤牧 義夫(ふじまき よしお、1911年〈明治44年〉1月1… 藤牧 義夫(ふじまき よしお、1911年〈明治44年〉1月19日 - 1935年〈昭和10年〉9月2日失踪)は、日本の版画家。1930年代の東京下町を描いた創作版画を手掛け、隅田川周辺を題材にした長大な白描絵巻版画で知られる。24歳で行方不明となり、長い間幻の木版画家だったが、1978年の遺作展によって再び注目された。 群馬県館林市出身。藤牧家は代々館林藩に仕えた士族だが、父は明治維新後永年教職にあり、小学校長も歴任し、「三岳」と号し絵や書をよくした。2歳で実母を、13歳で父親を亡くす。父没後に家族で日用雑貨小売を自宅で始め、その二軒隣りに、七歳年上の藤野隆秋(天光)が住んでいた。 義夫は小学校時代から美術が得意で周囲を驚かせた。
坂田 昌一(さかた しょういち、1911年(明治44年)1月… 坂田 昌一(さかた しょういち、1911年(明治44年)1月18日 - 1970年(昭和45年)10月16日)は、日本の物理学者。元名古屋大学教授。湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした。弟は、物理学者の坂田民雄。 東京市麹町区(東京都千代田区)で生まれる。旧制甲南高等学校を経て、1933年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業する。理化学研究所、大阪帝国大学講師、京都帝国大学講師を経て1942年、名古屋帝国大学教授となる。湯川の中間子論の第2から第4論文の共著者である。 1942年、井上健と共に核力の起源となる中間子と当時宇宙線中に発見された中間子との違いを説明するために、二中間子論を提唱した。
有島 通男(ありしま みちお、1911年〈明治44年〉1月1… 有島 通男(ありしま みちお、1911年〈明治44年〉1月18日 - 1955年〈昭和30年〉)は昭和期の歌手。本名赤尾松三。 石川県金沢市出身。金沢第二中学校を経て1934年(昭和9年)東洋音楽学校卒業。 1934年(昭和9年)9月テイチクレコードからデビュー。「春まだ浅く」、「酒の中から」などのヒットで知られる。1936年(昭和11年)10月にコロナレコードの創設に参加。レコーディング数は多かったものの、コロナの倒産により、翌1937年(昭和12年)7月親会社のポリドール・レコードに移籍。「蒙古旅愁」など数曲が発売されるが、1940年(昭和15年)2月にタイヘイレコードに移籍。1942年(昭和17年)にタイヘイがキングに買収された後は、古巣テイチクに戻り、終戦直前まで「子宝ぶし」などがリリースされている。