大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月2… 大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月21日 - 昭和53年(1978年)12月28日)は、日本の俳優である。綜芸プロ、テアトロ脚光、ハナブサプロ、東京俳優生活協同組合に所属していた。 1899年(明治32年)11月21日、宮城県仙台市に生まれる。 旧制・東京音楽学校(現在の東京芸術大学)乙種師範科卒業。1923年(大正12年)から1929年(昭和4年)まで、旧制・大阪市立難波高等小学校(現在の大阪市立難波元町小学校)と同じく旧制の群馬県師範学校(のちの群馬師範学校、現在の群馬大学学芸学部)に音楽教師として勤務した。1929年、田谷力三、淡谷のり子らと松竹座チェーンのアトラクションに出演し、以後は歌手兼俳優としてカジノ・フォーリーやムーランルージュ新宿座、榎本健一一座などで活躍した。
麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1… 麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1993年5月30日)は、日本のスキー選手、陸上競技選手、登山家。父親は日本銀行の理事、母親はピアニストであった。 東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれる。 旧制暁星中学校を経て、早稲田大学へ進学した。早稲田大学時代には第1回の箱根駅伝より出場し1年目は9区、2年目、3年目は5区で山登り5区を走り、3回とも区間賞を獲得した。その後はベルリン体育大学(ドイツ語版)に留学し、1923年には日本人として初めてマッターホルンに登頂し、翌年にはスキーで冬の槍ヶ岳の登頂に成功している。 1928年にはスイスで開催された1928年サンモリッツオリンピックに日本人として冬季オリンピック初出場を果たす。
鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月… 鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月21日 - 1990年〈平成2年〉5月26日)は、日本の教育者。内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者。初代校長。 山梨県北都留郡七保村大字葛野(現・大月市)で、800年続いた甲斐絹問屋・鈴木商店の店主鈴木治作の次男として生まれる。 1920年、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1924年1月27日、東京府柏木の内村鑑三邸内にある今井館で行われた聖書研究会に出席。6月頃、内村が柏木集会に参加していた青年に山形県小国郷と岩手県の北上山地への伝道を呼びかける。この2ヵ所は、内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な34ヵ所の場所の一つであった。
田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 19… 田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 1985年11月19日)は、日本の実業家。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。和歌山県海南市出身。 座右の銘は「難有り有難し」。 1899年11月20日、和歌山県海草郡日方町(現:海南市日方)で父・田嶋常吉と母・きくえの長男として生まれた。田嶋家は鎌倉時代に大野荘を管理していた大野十番頭を務めた家柄で、祖父・長三郎の代から漆器製造卸業の田嶋長三郎商店を営んでいた。父親は神戸で貿易会社を経営していた。 日方尋常高等小学校、和歌山商業学校を経て、神戸高商を受験したが受からず、親戚が慶應義塾長の鎌田栄吉と知り合いであったことから同大経済学部に進学し、1923年に卒業。
小野 謙次郎(おの けんじろう、1899年11月20日 - … 小野 謙次郎(おの けんじろう、1899年11月20日 - 1983年10月5日)は、日本の元裁判官。名古屋高等裁判所長官、札幌高等裁判所長官などを務めた。 佐賀県に生まれる。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 1925年判事に任官され、福岡地方裁判所判事、長崎控訴院判事部長を経て、1946年2月山形地方裁判所所長に進み、鹿児島地方裁判所所長、福岡高等裁判所判事、福岡地方裁判所所長を歴任の後、1960年11月札幌高等裁判所長官、1963年6月名古屋高等裁判所長官に就任。1964年11月停年退官。
江上 トミ(えがみ とみ、1899年11月19日 - 198… 江上 トミ(えがみ とみ、1899年11月19日 - 1980年7月21日)は、日本の料理研究家。テレビ放送草創期より活躍した料理番組講師の草分けであり、日本の「料理研究家」の元祖。 NHK『きょうの料理』や日本テレビ『キユーピー3分クッキング』などに出演して、暖かいおふくろさんの笑顔と熊本弁で人気を博した。 「ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から」をモットーとし、家庭料理の普及に尽くして江上料理学院を創設。同学院は現在、トミの長男の嫁の江上栄子と孫の江上佳奈美に引き継がれている。 出身地の地元テレビ局であるテレビ熊本 (TKU) が、ドキュメンタリードラマ「郷土の偉人シリーズ」でトミの生涯を描いた「日本の食卓を変えた火の國の女江上トミ」(演:細川ふみえ)を制作し、2006年11月5日に九州7県のフジネットワーク系列局で放送した。
辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1… 辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1979年9月24日)は、日本の古代インド学者・言語学者で、日本におけるインド古典学研究を開拓し、業績は海外の学会でも高く評価された。 ヤジュル・ヴェーダ サーマ・ヴェーダ アタルヴァ・ヴェーダ (アーラニヤカ) (ウパニシャッド)
石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11… 石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11月18日 - 1960年6月18日)は、日本の教育学者。東京教育大学初代教育学部長。専門はギリシア教育史。梅根悟とともに教育課程「コア・カリキュラム」を推進した。伝統的な三読法(通読・精読・味読)を提唱した。 静岡県出身。静岡県浜松師範学校、東京高等師範学校を経て、1929年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。東京文理科大学教授、1949年、東京教育大学初代教育学部長。1952年、「ポリス教育の成立と性格」で広島文理科大学より文学博士の学位を取得。1955年6月、小、中学校における教科書関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月1… 塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月18日 - 1988年(昭和63年)2月27日)は、日本の地方政治家。土佐市長。位階は正六位。 塩見熊吉の長男として高知県高岡郡戸波村(現・土佐市)に生まれる。農業のかたわら青年団に入り戸波青年団会長、高岡青年団会長(5ケ町村連合)などを歴任。1922年(大正11年)戸波村産業組合の職員に採用され、翌年には専務理事に抜擢される。1926年(大正15年)には高知県産業組合中央高知市会の職員となる。 その後高知県農業会高岡支部経理課長、農業会金融課長(昭和20年)となるが、翼賛壮年団長をしていたため、GHQによる公職追放を受ける。サンフランシスコ講和条約の締結により、日本が主権を回復したことに伴い、1953年(昭和28年)追放解除。
大林 良一(おおばやし りょういち、1899年11月17日 … 大林 良一(おおばやし りょういち、1899年11月17日 -1988年10月18日 )は、日本の経済学者である。専門は、社会保障学、保険学。一橋大学名誉教授、第9代成城大学学長。
養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月… 養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉3月22日)は、日本の医師。次男は解剖学者で東京大学名誉教授の養老孟司。 神奈川県津久井郡(現在の相模原市)出身。 神奈川県立横浜第一高等女学校を経て、東京女子医学専門学校卒業。 1936年、鎌倉市で小児科を開業。94歳まで診療を続けた。 はじめに弁護士と結婚して二児をもうけるが、10歳年下の男性と恋愛をして、離婚、再婚をした。 1994年、荻野吟子賞を受賞。 1997年、田嶋陽子は養老静江にインタビューをした内容をもとに『女の大老境』という書籍を著す。 2020年、堀越英美によって著された『スゴ母列伝』に養老静江のことが取り上げられている。
友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11… 友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11月16日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県出身。呉服卸商・友近彦次郎の三男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第4連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1928年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し野戦重砲兵第4連隊中隊長に就任。
松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)1… 松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)11月15日 - 1975年(昭和50年)4月3日)は、日本の新聞記者、評論家、翻訳家。 反権力・個人主義的志向を持つ人物であった。1940年のナチス・ドイツの占領まで長くパリに住み、日仏の文化交流に貢献した。 松尾嘉平・きみの次男として、静岡県引佐郡引佐町金指(現・浜松市北区引佐町金指)に生まれた。家は裕福な呉服商で、嘉平ときみの間には邦之助を含めて三男三女がいた。金崎の小学校、気賀(現・浜松市北区細江町気賀)の高等小学校を経て静岡県立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)を了え、親の希望の旧制高等学校でなく、東京外国語学校フランス語文科に学び、1922年、逓信省の嘱託となり、その秋、嘉平の渋々の承諾を得て渡仏し、パリに住んだ。
呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988… 呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988年12月29日)は、中華民国の政治家、日本のジャーナリスト。初代民選台北市長。 日本統治時代の台湾の嘉義県の寒村頭港仔出身。1919年台湾総督府国語学校国語部を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に進学。留学中日本統治下の台湾における台湾人政治運動に加わり、1920年新民会、東京台湾青年会に参加。同年下村宏台湾総督府総務長官と面会し日本の植民地政策を批判し、その後台湾議会設置運動に参加した。 1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業。陸上競技部出身。卒業後大阪毎日新聞記者となる。1932年台湾新民報が創刊されると編集者として台湾に戻り、論説委員、整理部長、政治部長を兼任した。
筬島 威一(おさじま いいち、1899年11月13日 - 1… 筬島 威一(おさじま いいち、1899年11月13日 - 1973年7月1日)は、日本の実業家。 愛媛県松山市に生まれる。1917年福岡県立中学修猷館、1920年第五高等学校工科を経て、1923年東京帝国大学工学部を卒業。 1923年三井物産に入社し大阪機械支部勤務。1929年から1934年までロンドン支店勤務。帰国後、機械課長、大阪支店長代理、同支店次長、佐世保支店長、福岡支店長を務め、1947年に三井物産が解体されると同時に退社し、三保物産を設立し代表取締役となる。 1948年1月ゼネラル物産(後にゼネラル石油と改称し現東燃ゼネラル石油)佐世保出張所長を委嘱され、1952年8月同社に入社して取締役大阪支店長、1953年6月常務取締役、1958年11月代表取締役を経て、1959年ゼネラル海運代表取締役となり、1962年2月ゼネラル石油代表取締役社長に就任する。
水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 19… 水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 1972年5月4日)は、日本の実業家。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長。元日経連常任理事・経済団体連合会理事・経済同友会幹事。
奥野 信太郎(おくの しんたろう、1899年〈明治32年〉1… 奥野 信太郎(おくの しんたろう、1899年〈明治32年〉11月11日 - 1968年〈昭和43年〉1月15日)は、日本の中国文学者、随筆家。
進藤 英太郎(しんどう えいたろう、1899年11月10日 … 進藤 英太郎(しんどう えいたろう、1899年11月10日 - 1977年12月18日)は、日本の俳優。本名:真藤 辰五郎。 舞台俳優を経て映画界に入り、幅広い演技で620本にもおよぶ作品に出演した。『山椒大夫』『近松物語』『赤線地帯』など溝口健二監督作品の常連として脇役を好演し、東映時代劇では悪役として活躍した。後年はテレビドラマに活躍の場を移し、『おやじ太鼓』などのホームドラマに出演して人気を得た。 1899年(明治32年)11月10日、福岡県福岡市大名町(現在の福岡市中央区大名)に生まれる。生家はカムチャツカ漁業を経営しており、進藤の叔父は北洋漁業の開発者でカムチャッカ漁業の権威である眞藤愼太郎である。
八巻 芳夫(やまき よしお、1899年11月10日 - 19… 八巻 芳夫(やまき よしお、1899年11月10日 - 1990年)は、日本の土木技術者、都市計画家。仙台市の戦災復興都市計画に従事・尽力。 青葉通り、定禅寺通りのケヤキ並木道の設計者。丸森町出身。 東北帝国大学附属工学専門部/旧制仙台高等工業学校土木工学科卒業後、朝鮮総督府に勤務。総督府で地方出先の土木課長などを歴任。朝鮮時代に乱伐された山林をみて緑のない地方道は次々に並木を整備していったという。 1946年に帰国し、仙台市に勤務。仙台市戦災復興局建設部公営課長から後に建設局復興部長、建設局長を歴任。1959年からは仙台市技監。1966年に退職。その後土地区画整理審議会全国連合会などに関わる。
方 定煥(パン・ジョンファン、방정환、1899年11月9日 … 方 定煥(パン・ジョンファン、방정환、1899年11月9日 – 1931年7月23日)は、近代朝鮮の小説家である。本貫は温陽方氏。現在のソウル特別市出身。雅号小波。 善隣商業学校卒業後、東学に入信し、孫秉煕の女婿となる。普成専門学校(高麗大学校)に通い、三・一運動では謄写版の「独立新聞」を配布し逮捕される。釈放後は日本に行き、東京の東洋大学の哲学科で児童文学と児童心理学を学んだ。1923年、朝鮮で最初の児童文化団体であるセクトン会を組織して、子供運動を積極的に展開した。1923年、朝鮮では初めて純粋児童雑誌である『オリニ』を創刊して活動した。 児童のための様々な社会活動を行い、民族啓蒙や児童文学においても先駆的な業績を残した。
亘 四郎(わたり しろう、1899年〈明治32年〉11月8日… 亘 四郎(わたり しろう、1899年〈明治32年〉11月8日 - 1977年〈昭和52年〉4月4日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(8期)、新潟県知事(公選第7・8代、在任1966年 - 1974年)、参議院議員(1期)。日魯漁業創業者の堤清六は実兄。 呉服商「近清」7代目の堤清七・千代の四男(第7子)として新潟県南蒲原郡三条町上町に出生。長兄の清六とは19歳も離れていた。幼くして寺泊の廻船問屋亘信治の養子となる。 寺泊町立尋常科寺泊小学校を経て旧制新潟県立三条中学校を卒業後、アメリカ合衆国ニュージャージー州のラトガーズ大学に留学。建築学や数学を学ぶ一方で、アメリカンフットボール部でも活躍した。
菊池 明(きくち あきら、1899年(明治32年)11月8日… 菊池 明(きくち あきら、1899年(明治32年)11月8日 - 1973年(昭和48年)8月29日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設技監。 香川県に生まれる。1925年(大正14年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省土木局に入り、下関土木出張所、興亜院勤務を経て、1945年(昭和20年)国土局道路課長となる。戦後は、近畿土木出張所、建設院地政局長、建設省道路局長を経て、1952年(昭和27年)建設技監に進む。1956年(昭和31年)退官し、日本道路公団理事となり1960年(昭和35年)まで務めた。ほか、地崎組副社長、地崎道路会長、橋梁コンサルタント社長、日本道路協会会長、道路緑化協会会長、第13回国際道路会議議長、土木学会会長などを歴任した。
難波 大助(なんば だいすけ、1899年(明治32年)11月… 難波 大助(なんば だいすけ、1899年(明治32年)11月7日 - 1924年(大正13年)11月15日)は、日本の共産主義者、極左テロリスト。大正期の反逆的な社会運動家。 1923年(大正12年)12月の虎ノ門事件で摂政宮(皇太子裕仁親王、のちの昭和天皇)を襲撃し、暗殺しようとした。審理が行われた大審院でも皇室否定の主張を曲げず、大逆罪により処刑された。 1899年(明治32年)、山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現:山口県光市立野)の名家に難波作之進の四男として生まれた。難波家は長州藩士ではなく陪臣であり、長州藩寄組清水氏の家臣で、清水宗治の弟難波宗忠を家祖とし、戦国時代から主従関係は変わることはなかった。
小林 節太郎(こばやし せつたろう、1899年11月7日 -… 小林 節太郎(こばやし せつたろう、1899年11月7日 - 1977年8月12日)は、日本の経営者。兵庫県小野市出身。 1924年に関西学院大学高等商業部を卒業。岩井商店、大日本セルロイドでの勤務を経て、1934年1月に富士写真フイルムに転じ、1937年5月に取締役、1943年5月に常務、同年11月に専務、1958年に副社長を経て、1960年6月に社長に就任。1962年には富士ゼロックス社長にも就任。。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1977年8月12日急性心不全のために死去。77歳没。
加茂 儀一(かも ぎいち、1899年11月6日 - 1977… 加茂 儀一(かも ぎいち、1899年11月6日 - 1977年11月7日)は、日本の科学史学者。 兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立神戸第一中学校から神戸高等商業学校(現神戸大学)入学。1921年に東京商科大学(現一橋大学)へ転学し、1924年に卒業。三井物産に就職。中央気象台では気象技術官養成所教授として英語を教える。 戦後東京工業大学教授、東京社会科学研究所理事長。1957年に小樽商科大学学長に就任し、1965年まで務める。 1966年に関東学院大学教授へ転じる。その間日本科学史学会会長(1964年1月 - 1970年5月)を務めた。 1977年11月7日、関東学院大学教授在職のまま死去。78歳没。
榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月… 榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1992年〈平成4年〉1月27日)は、大正末から昭和期の医学者、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、医学博士。心臓外科の創始者。 福井県福井市宝永上町生まれ。幕臣榊原職直の後裔である。開業医の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1925年(大正14年)九州帝国大学医学部を卒業した。 金沢医科大学(現金沢大学)に赴任し副手、助手を歴任。泉伍朗教授の元で脾臓手術を行い認められる。1928年(昭和3年)泉教授と共に岡山医科大学(現岡山大学医学部)に赴任し講師に就任し、1929年(昭和4年)助教授となる。収縮性心包炎の手術に成功して名を知られた。
16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、189… 16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1984年〈昭和59年〉1月8日)は、日本の実業家。大日本除虫菊会長を務めた。大日本除虫菊の創業者上山英一郎の三男。同社会長を務めた上山英介の実父、同じく会長を務めた上山直武の養父。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1924年、京都帝国大学経済学部卒業。日本勧業銀行に入り、検査役・鑑定役・大阪支店副支配人などを歴任し、1938年、退職して大日本除虫菊会社副社長に就任。1943年、勘太郎を襲名し第3代社長に就任。1981年、会長に就任。 上山英一郎の三男、十五代勘太郎、英三の弟であり、1932年に分家した。
那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 196… 那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 1968年12月7日)は、岐阜県出身の実業家・興行師。京都帝国大学卒業。株式会社東京楽天地社長などを歴任した。土木工学者・鉄道官僚の那波光雄は父。日本郵船社長の有吉義弥は義兄。 1899年(明治32年)11月3日に岐阜県に生まれた。父は土木工学者・鉄道官僚の那波光雄である。愛媛県の旧制松山高等学校を第1回生として卒業後、1926年(大正15年)に京都帝国大学法学部を卒業した。旧制松山高校の同窓には後に三和銀行頭取となる上枝一雄、後に日本郵船社長となる有吉義弥などがいた。大学卒業後には小林一三が率いる東宝グループの阪神急行電鉄、東京瓦斯、東京宝塚劇場などに勤務した。
竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月… 竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月1日 - 1991年(平成3年)5月10日)は、日本の大蔵官僚。官選香川県知事。 群馬県前橋市出身。竹内清次郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大蔵省に入省し主計局属となる。 以後、財務書記(英仏駐在)、司税官、主計官を歴任。1935年、対満事務局経済課長に就任。さらに、企画院第五部長、拓務省殖産局長、内務省管理局長、東北興業副総裁を務める。 1946年1月、香川県知事に就任し四国地方行政事務局長官を兼務した。県下の治安維持に尽力。同年6月に知事を辞任。
豊島 章太郎(てしま しょうたろう、1899年(明治32年)… 豊島 章太郎(てしま しょうたろう、1899年(明治32年)11月 - 1981年(昭和56年)10月30日)は、日本の内務・警察官僚。官選愛媛県知事、最後の官選岡山県知事。 広島県出身。第一高等学校を卒業。 1925年、東京帝国大学法学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、内務省に入省し、宮城県属となる。 以後、内務事務官、警保局勤務、警保局外事課長、愛媛県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、警視庁保安部長、同経済警察部長などを歴任。 1945年10月、愛媛県知事に就任。1946年10月、岡山県知事に転任。地方制度の改正や経済対策に取り組み、知事選挙を執行して1947年4月に退任。
野村 健三(のむら けんぞう、1899年(明治32年)10月… 野村 健三(のむら けんぞう、1899年(明治32年)10月31日 - 1948年(昭和23年)6月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。陸軍砲工学校第30期を優等で卒業。東京帝国大学応用化学科卒業。 陸軍省整備局資源課高級課員、兵器局器材課高級課員、野戦兵器長官部員、兵器局器材課長を経て、1941年(昭和16年)8月、陸軍大佐に進む。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部総務部第3課長に転じ、1945年(昭和20年)6月に陸軍少将に進んだのち、翌7月に同本部技術部長に補され終戦を迎えた。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10… 友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10月30日 - 1937年(昭和12年)10月6日)は、日本の新劇俳優。本名は伴田五郎。 1899年(明治32年)、東京市日本橋区(現 : 東京都中央区)に実業家の伴田六之助の子として生まれる。幼い頃から芝居を好んで過ごし、錦城中学校へと進んだ。中学生の頃に土方与志と知り合い、伯母の住む神奈川県茅ヶ崎の家に南湖座と名付けられた芝居小屋を作ってもらい、土方らと素人劇団を作りそこで演劇をしていた。1917年(大正6年)に早稲田大学独文科へと進み、在学中に新劇協会の畑中蓼坡の指導を受けて、1919年(大正8年)に『ワーニャ伯父さん』で本格的な舞台初出演を果たした。
竹内 自益(たけうち じえき、1899年10月30日 - 1… 竹内 自益(たけうち じえき、1899年10月30日 - 1978年7月3日)は、日本の経営者。三重県出身。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年4月に三井倉庫に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年5月に常務、1959年11月に専務、1965年5月に副社長を経て、1968年5月に社長に就任。1972年5月には会長に就任。 1978年7月3日心筋梗塞のために死去。78歳没。
浅利 鶴雄(あさり つるお、1899年10月29日 - 19… 浅利 鶴雄(あさり つるお、1899年10月29日 - 1980年4月15日)は、東京府出身の演劇プロデューサー、俳優である。 明治中学を経て、1922年(大正11年)、慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)卒業。1924年(大正13年)、小山内薫、友田恭助、和田精、汐見洋、土方与志とともに新劇の専門劇場である築地小劇場を創立。後に松竹に移り、俳優として「三田英児」の名でサイレント映画に出演。松竹では社長秘書などの他、プロデューサーを務め、2代目左団次が行った歌舞伎界初のソ連公演には秘書として参加。また、戦前・戦後を通し一時代を築いた浅草国際劇場の初代支配人に就任し、こけら落としではチャップリンを招聘。
小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1… 小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1971年7月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。小原 重厚と表記する文献も有る。 東京府出身(北海道札幌市出身とする資料も有り)。司法官・小原文太郎の長男として生まれる。札幌一中卒を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第25連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、歩兵第25連隊中隊長となる。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となる。同年、ロシア班長の橋本欣五郎が結成した桜会に参加。
小田原 俊彦(おだわら としひこ、1899年(明治32年)1… 小田原 俊彦(おだわら としひこ、1899年(明治32年)10月22日 - 1945年(昭和20年)1月25日)は、日本の軍人。最終階級は海軍少将。 海軍兵学校第48期生で、後の総理大臣となる鈴木貫太郎校長の薫陶を得る。 1899年(明治32年)10月22日、神奈川県横浜市で浜税関吏小田原秀太郎の次男として生まれる(本籍は鹿児島県士族)。 旧制神奈川県立第一横浜中学校を経て、1920年(大正9年)7月、海軍兵学校48期を171名中19番で卒業、少尉候補生。1920年少尉候補生 練習艦隊遠洋航海 司令官:舟越楫四郎 参加艦艇:浅間・磐手 世界周航(南米→アフリカ経由)装甲巡洋艦磐手乗組。1921年(大正10年)6月、少尉任官。
塩谷 定好(しおたに ていこう、本名:しおたに さだよし、1… 塩谷 定好(しおたに ていこう、本名:しおたに さだよし、1899年10月22日 - 1988年10月28日)は、日本の写真家。 鳥取県東伯郡赤崎村(現・琴浦町)に生まれる。生家は廻船問屋である。 明治初期の商家である生家は塩谷家により寄贈され、「NPO法人塩谷定好フォトプロジェクト」により、作品展示を行う記念館として整備され、塩谷定好写真記念館として2014年4月26日に開館した。
佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 19… 佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 1972年4月11日)は、日本の建築家。建築音響工学の先駆者。 日本建築学会元会長、同名誉会員、日本建築家協会終身正会員、英国王立建築家協会名誉会員。日本芸術院賞受賞者。 オーディトリウム設計の第一人者として、さらに市庁舎、市民会館、公会堂などが彼の数多い作品の中でも圧倒的に数が多い。科学者としての学識、一方で新劇運動に熱中し、劇場史を研究するほどの芸術青年で分離派時代の山口文象をしてまったくシャッポを脱がされた、といわしめたほどのスケッチの名手、作品はその天賦の芸術家の才能と、情熱のぬくもりがあるとされ、また塔も多く、”塔の佐藤"ともいわれるゆえんである。
高階 順治(たかしな じゅんじ、1899年〈明治32年〉10… 高階 順治(たかしな じゅんじ、1899年〈明治32年〉10月22日 - 1989年〈平成元年〉7月13日)は、日本の哲学者。 1899年、秋田県仙北郡千屋村(現美郷町)で生まれた。1915年に仙北郡千屋尋常高等小学校補習科を卒業し、代用教員となった。その後秋田県師範学校で学び、1921年に卒業、東京高等師範学校に進み、1925年に卒業。1929年に東京文理科大学に入学した。佐々木秀一の長女・信と結婚する。 卒業後は、1935年から高松高等商業学校教授。1941年から東京高等師範学校教授を務めた。1947年に公職追放の対象となり、その後は金子書房に勤務。 1953年、国士舘短期大学助教授となり、拓殖大学助教授を兼ねた。
内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1… 内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1983年1月28日)は、日本の実業家。キヤノン社長を務めた。 岡山県倉敷市出身。1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に山一證券に入社。 1933年に吉田五郎とともに精器光学研究所を設立し、1936年にハンザキヤノンの発売を開始した。1954年には社長に就任した。 1983年1月28日、肺水腫のために死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
久米 又三(くめ またぞう 1899年10月21日 - 19… 久米 又三(くめ またぞう 1899年10月21日 - 1976年5月9日)は、日本の生物学者。教育者。 1899年、兵庫県神戸市に生まれる。1924年、東京帝国大学理学部動物学科で動物発生学を専攻して卒業後、東京女子高等師範学校を経てお茶の水女子大学教授、同大学付属図書館長、理学部長を経て1960年から1965年までお茶の水女子大学の学長を務めた。学長時代には大学院の設置に尽力した。 学外では、大学基準等研究協議会、大学設置審議会、公立大学調査委員会の各委員を務めた。 1976年5月9日、肺線維症のため聖路加国際病院で死去。76歳。墓所は台東区寛永寺。
具 鎔書(ク・ヨンソ、朝鮮語: 구용서、1899年10月21… 具 鎔書(ク・ヨンソ、朝鮮語: 구용서、1899年10月21日 - 1984年4月24日)は、大韓民国の中央銀行家、政治家。韓国銀行総裁や、韓国産業銀行総裁、大韓民国商工部長官を務めた。 本貫は昌原具氏(朝鮮語版)。日本名具原 一郞。 釜山府出身。父は乙未事変に加担したとして逮捕状が出るなど混乱の渦中にあり、禹範善の子である禹長春や、李容九の子、宋秉畯の孫といった親日派の子女6名で、日本人の酒井姉妹の下で、父から離れて日本で育てられた。 日本人のために作られた京城中学校に通い、1922年東京商科大学(のちの一橋大学)予科修了。1925年同大学卒業、朝鮮銀行入行。同期50人のうち具が唯一の朝鮮人であり、東京支店に配属となったが、給料や昇進、配属などでは差別を受けた。
大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月… 大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、日本の宗教家、俳人。 岡山県井原市出身。大阪貿易語学校(現・開明中学校・高等学校)卒業後、逓信省に入省し、逓信講習所教官、逓信事務官、内閣情報局嘱託、満州国郵政局講師などを務める。戦後愛媛県で著述、社会教育をおこなう。「大耕」主宰。1963年、愛媛県教育文化賞を受賞。種田山頭火の顕彰にも努めた。
栢原 保親(かやはら やすちか、1899年(明治32年)10… 栢原 保親(かやはら やすちか、1899年(明治32年)10月21日 - 1944年(昭和19年)6月22日)は、日本の海軍軍人。商船9隻、43,437tを撃沈する戦果を挙げた「伊10」潜水艦長である。あ号作戦に関連した作戦行動で第二二潜水隊司令として戦死。最終階級は海軍少将。 栢原は愛媛県出身の海兵49期生で、1921年(大正10年)に海軍兵学校を卒業した。皇族2名を除いた席次は174名中43番、翌年5月に少尉へ任官している。栢原は中尉進級と同時に第十四潜水艇隊附となり、その潜水艦歴を開始する。兵科将校は基本的に大尉時代に履修する専門課程によってその専攻が決定される。栢原は運用術練習艦航海学生を卒業した航海専攻士官であった。
風間 彦男(かざま ひこお、1899年10月20日 - 19… 風間 彦男(かざま ひこお、1899年10月20日 - 1945年2月3日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中尉、酒田風間氏分家・東美家第八代当主。
山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - … 山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - 1987年2月2日)は、彫刻家。東京新宿生まれ。本名は豊。 戸張孤雁に師事。1918年から三年間、太平洋洋画会研究所においてデッサンを学ぶ。1923年~28年フランスに留学。パリのグランド・シュミエールで学んだ後、アリスティド・マイヨールの日本人では唯一の直弟子となり四年間学ぶ。フランスから帰国後、乾漆技法を現代彫刻に生かし独自の作風を展開。 1953年第五回毎日美術賞受賞、同年東京芸術大学教授に就任。1957年芸術選奨文部大臣賞受賞。1983年文化功労者。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。
寺尾 琢磨(てらお たくま、1899年〈明治32年〉10月1… 寺尾 琢磨(てらお たくま、1899年〈明治32年〉10月19日 - 1984年〈昭和59年〉9月13日 )は、日本の経済学者。慶應義塾大学名誉教授。専門は統計学と人口論。 1899年静岡県榛原郡相良町生まれ。静岡県立静岡中学校卒業。1924年、慶應義塾大学経済学部卒業。1926年、同学部助手。1929年、イギリス、フランス、ドイツに留学(統計学の研究のため、1932年まで)。帰国後、慶應義塾大学経済学部助教授、1934年、同、教授。1950年、博士号取得。1957年から1959年まで経済学部学部長及び経済学研究科研究科研究科長。 その他、慶應義塾大学産業研究所副所長、同大学国際センター所長、同大学大学院社会学研究科委員長を歴任。
高橋 三郎(たかはし さぶろう、1899年(明治32年)10… 高橋 三郎(たかはし さぶろう、1899年(明治32年)10月19日 - 1985年(昭和60年)10月2日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選高知県知事、東北放送会長。 宮城県栗原郡岩ヶ崎町(現栗原市)出身。高橋珍平の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。大正12年(1923年)12月、高等試験行政科試験に合格。大正13年(1924年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、鹿児島県警察部保安課長、茨城県警視、静岡県警視、埼玉県警視、鳥取県学務部長、岡山県学務部長、福島県書記官・警察部長、内務書記官・警保局検閲課長、神奈川県書記官・警察部長、同県部長・警察部長などを歴任。
仁田 勇(にった いさむ、1899年(明治32年)10月19… 仁田 勇(にった いさむ、1899年(明治32年)10月19日 - 1984年(昭和59年)1月16日)は、日本の物理化学者。東京都文京区小石川生まれ。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授。 1923年3月東京帝国大学理学部化学科を卒業(卒業研究は松原行一教授の指導の下で有機化学を専攻)、直ちに理化学研究所(現在の独立行政法人理研)に入り、西川正治博士の研究室で結晶によるX線回折の研究を始めた。当時はX線回折は純粋に物理学の領域であったが、西川は仁田に有機化合物にX線回折の方法を応用してみることを勧めた。これが後に日本で結晶化学の大きな分野を開く端緒となった。西川はどんな有機化合物が適当かは仁田が自分で決めるように指示した。
佐藤 一村(さとう いっそん、明治32年(1899年)10月… 佐藤 一村(さとう いっそん、明治32年(1899年)10月18日 - 1991年11月、本名: 佐藤 武市(さとう たけいち))は、日本の銀行員、大学教員、俳人である。ホトトギスの同人であった。 明治32年、青森市に生まれる。弘前中学校に通う。大正9年に小樽高等商業学校を卒業した後、太平洋戦争終結による解体まで台湾銀行に勤める。台南勤務、スラバヤへの駐在を経て、蘇州支店長、漢口支店長を歴任する。佐藤は武漢での勤務は「文字どうりの滅私奉公の四年であった」と振り返っている。戦後は日本に引き揚げ、GHQ大阪軍政部の技術顧問となった。後に大阪工業高等専門学校および大阪工業大学短期大学部で講師を務めた。