香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 19… 香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 1979年1月12日)は、日本の英文学者・能楽研究者。 岡山県倉敷市出身。東京帝国大学文学部英文科卒業、甲南高等学校教授となるが病気のため辞職、1942年米穀会社に入り、兵庫米穀社長・会長。戦前から能楽研究を行い『謡曲界』などに多くの論文を発表。戦後、雑誌『宝生』に「とらうきやう考」を発表した後、表章との交流が始まり、世阿弥研究の基礎となる多くの功績を残した。1963年法政大学能楽研究所顧問。甲南高校時代の教え子に武智鉄二がいる。長男は元住友化学工業社長の香西昭夫。次男は日本経済研究センター理事長や政府税制調査会会長を務めたエコノミストの香西泰。
山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 -… 山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 - 1967年9月12日)は、日本の経営者。 宮城県仙台市出身。1927年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に凸版印刷に入社。1937年に取締役に就任し、1941年に常務、1943年に専務を経て、1948年12月には社長に就任。1950年からは東京書籍社長も務めた。 1967年9月12日、肝臓病のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
久留 勝(くる まさる、1902年〈明治35年〉11月28日… 久留 勝(くる まさる、1902年〈明治35年〉11月28日 - 1970年〈昭和45年〉9月8日)は、日本の医学者。医学博士。がんの外科学研究で知られる。 三重県伊勢市豊川町の生まれ。1926年に東京帝国大学を卒業と同時に塩田広重教授の塩田外科に入局。1931年より2年間、文部省の在外研究員として欧米への外科学の研究のため留学。1933年1月に東京帝国大学医学博士。論文の題は「人の類黄色腫性病竈より培養せられたる一新病原性糸状菌イサリア・シオタエに就て (独文)」。1933年11月に、塩田教授の推薦で癌研究会の康楽病院外科医長として赴任。その後、1941年金沢医科大学の外科学教授として赴任。1954年1月に大阪大学の外科学教授を歴任、1962年国立がんセンター病院長に就任、1967年国立がんセンター総長となる。
菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 193… 菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 1937年11月9日)は青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身の画家、喜劇作家。 本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 1915年青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)に入学、青森中時代から油絵を描き始める。1920年青森中卒業後、東京美術学校・慶應義塾大学部理財科の受験に失敗して故郷の青森大林区署(後の青森営林局)管理課で働いていたが、翌年退職して再び上京。日本大学法文学部文学科(芸術学)および川端画学校に学ぶ。 浅草六区に通ううちに榎本健一と知り合い、当初は美術スタッフとして協力していたが、次第に脚本にも関わるようになる。
岩田 誠(いわた まこと、1902年11月26日 - 198… 岩田 誠(いわた まこと、1902年11月26日 - 1985年2月9日)は最高裁判所判事。東京都出身。
保岡 武久(やすおか たけひさ、1902年11月25日 - … 保岡 武久(やすおか たけひさ、1902年11月25日 - 1983年2月7日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。 奄美大島にある鹿児島県大島郡宇検村の生まれ。旧制鹿児島県立大島中学校と旧制第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒。1929年、高等文官試験行政科に合格。群馬県警察警部補を振り出しに、1934年内務省警視庁警視に任命される。海軍司政官、二・二六事件を担当、1939年大阪府刑事課長、地方警視、鹿児島県副知事などを経て、1951年の第2回鹿児島県知事に自由党公認で立候補したが落選。1954年に行われた奄美群島の日本復帰に伴う衆院選に奄美群島区から自由党公認で立候補した。
玉城 肇(たまき はじめ、1902年11月25日 - 198… 玉城 肇(たまき はじめ、1902年11月25日 - 1980年1月11日)は、日本の経済学者、歴史学者。 専門は家族史、経済史。 宮城県出身。第二高等学校卒、東北帝国大学経済学科卒。東北学院大学教授、愛知大学第6代学長、法経学部教授。1957年「近代日本における家族構造」で関西学院大学文学博士。1960年中日文化賞受賞。 長男・徹は歌人、次男・哲は農業経済学者・専修大学教授、三男・素は現代コリア研究所理事長。歌人花山多佳子は孫、花山周子は曾孫。
高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日… 高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日 - 1990年6月7日)は、日本の農業経済学者・歴史学者。北海道大学名誉教授。農業経済学・北海道史・アイヌ文化史で業績がある。 1902年、北海道帯広市で実業家・高倉安次郎の子として生まれた。札幌中学校(現北海道札幌南高等学校)で学び、1920年に北海道帝国大学入学した。農学部教授であった高岡熊雄に師事し、農政学植民学を学んだ。1926年、北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 卒業後は同年より、北海道帝国大学農学部副手に就き、1927年に助手、1936年に植民学講座の助教授に就任した。1945年、北海道帝国大学に学位論文『アイヌ政策史』を提出して農学博士号を取得。
山口 長男(やまぐち たけお、1902年11月23日 - 1… 山口 長男(やまぐち たけお、1902年11月23日 - 1983年4月27日)は、洋画家。日本の抽象絵画の先駆者である。武蔵野美術学園長を務めた。 京城府(現・韓国ソウル)出身。1921年に19歳で日本に来るまでを京城ですごした。 本郷洋画研究所で岡田三郎助に学び、20歳になった1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1927年、同校卒業と共に渡仏。フランスではパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、それに当時渡仏中だった佐伯祐三にも刺激を受ける。また、彫刻家のオシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形をも習得に努めた。戦後、二科展の再結成にあたり会員として参加し、1962年まで二科展1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加し、1954年に会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。
佐藤 井岐雄(さとう いきお、1902年〈明治35年〉11月… 佐藤 井岐雄(さとう いきお、1902年〈明治35年〉11月22日 - 1945年〈昭和20年〉8月11日)は日本の生物学者。サンショウウオを中心とする両生類研究の世界的権威であった。 岐阜県郡上郡奥明方村(現・郡上市)に生まれる。命名の由来は、父の出身地・岐阜県の「岐」と母の出身地福井県の「井」にちなむ。 奈良県の中学を卒業したのち広島高師に入学し長野県の自然誌を研究[要出典]、高師卒業後は長野県で中学校教諭として勤務した。その後旧制広島文理科大学(現在の広島大学)に入学、阿部余四男教授に師事した(のち佐藤は自分が確認した新種のサンショウウオに命名する際、恩師の名にちなみ「アベサンショウウオ」とした)。
荒牧 寅雄(あらまき とらお、1902年11月22日 - 1… 荒牧 寅雄(あらまき とらお、1902年11月22日 - 1994年8月8日)は、日本の自動車技術者、実業家。いすゞ自動車社長や、同社会長、自動車技術会会長、日本兵器工業会会長などを務めた、正四位勲二等瑞宝章。 福岡県田川郡糸田町出身。1926年横浜高等工業学校(現横浜国立大学理工学部)機械工学科卒業、東京帝国大学工学部助手。1928年東京石川島造船所入社、自動車部。1937年東京自動車工業鶴見製造所設計課長。1944年ヂーゼル自動車工業技術部次長。1946年同社取締役。1952年いすゞ自動車常務取締役。1962年同社専務取締役、自動車技術会会長。1966年藍綬褒章受章。同年からいすゞ自動車取締役副社長を務め、1970年からは代表取締役社長としてゼネラルモーターズとの提携を行った。
佐伯 孝夫(さえき たかお、1902年11月22日 - 19… 佐伯 孝夫(さえき たかお、1902年11月22日 - 1981年3月18日)は、日本の作詞家。 東京市出身。本名、和泉 孝夫(いずみ たかお)。 早稲田大学文学部仏文科卒業。在学中西條八十に師事し、その主宰する雑誌『白孔雀』『愛誦』に詩を発表していた。1931年に国民新聞社(現:東京新聞社)入社、1937年には東京日日新聞(現:毎日新聞社)へと移る。1939年、ビクターレコード専属作詞家となる。西條八十門下生の1人。 戦前は、佐々木俊一と組み、多くを小畑実や灰田勝彦に作品を提供。戦後は、作曲家・吉田正とコンビを組み、『有楽町で逢いましょう』、『東京ナイト・クラブ』、『潮来笠』、『いつでも夢を』(第4回日本レコード大賞受賞曲)、『恋をするなら』など数々のヒット曲を生み出した。
板野 道夫(いたの みちお、1902年(明治35年)11月2… 板野 道夫(いたの みちお、1902年(明治35年)11月21日 - 1969年(昭和44年)3月28日 )は、日本の実業家。関西配電取締役を経て関西電力常務取締役となり、オーム社理事も務めた。大阪陶業(現:日本ネットワークサポート)代表取締役・会長。岡山県総社市出身。 1902年(明治35年)岡山県吉備郡秦村(現:総社市秦)の板野柳一の長男として出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、京城帝国大学教授となる森谷克己がいた。1921年(大正10年)同校を卒業し、第六高等学校文科乙類へ進学する。森谷と同じクラスであった。1924年(大正13年)同校を卒業し、森谷は東大法学部へ、板野は京都帝国大学法学部へそれぞれ進学した。
桑田 忠親(くわた ただちか、1902年11月21日 - 1… 桑田 忠親(くわた ただちか、1902年11月21日 - 1987年5月5日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。勲三等瑞宝章受章。 1902年、東京市麹町区で生まれた。國學院大學国文学科に学び、卒業論文『明治時代の小説に表われた自然主義の研究』をまとめ、1926年卒業。1927年より東京帝国大学史料編纂所に勤務し、1945年に退官。この間、1942年に國學院大學講師に就任した。 埼玉県立川越高等女学校教諭を経て、1946年に母校の國學院大學文学部教授に就いた。戦国時代史を研究テーマとし、千利休などの茶人を研究。1952年、学位論文『茶道の大成』で國學院大學より文学博士の学位を取得。1973年に國學院大學を定年退職し、以降は客員教授として教鞭を執った。
伊勢崎 陽山(いせざき ようざん、1902年11月21日 -… 伊勢崎 陽山(いせざき ようざん、1902年11月21日 - 1961年)は、陶芸家。備前焼で岡山県重要無形文化財保持者。岡山県和気郡伊部(現:備前市伊部)出身。 沼田一雅に師事。陶彫、細工物に優れた。姑耶山中の古窯を調査し復元。 など陶像の大作を製作。 花器、宝瓶、香炉にも秀作が多い。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月2… 実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月20日 - 1996年(平成8年)12月20日)は、日本の海軍軍人、著作家。 米内光政海相時代の大臣秘書官や、駐米大使館附武官補佐官を務め、太平洋戦争においては情報解析に実績を残す。海軍大佐で終戦を迎え11年半の巣鴨プリズン生活をおくった後は主として海軍関係の書を著し、刊行数は100点近くにおよんだ。 小学校校長の長男として佐賀県武雄市に生まれ 海軍兵学校に進んだ。母校の佐賀中学は佐賀藩の藩校弘道館の流れをくみ、当時の最難関校の一つであった海軍兵学校に多くの合格者を送り出した中学である。実松は海兵51期生として中位の席次で卒業後、「浅間」乗組みとして実務訓練を受ける。
小椋 広勝(おぐら ひろかつ、1902年11月19日 - 1… 小椋 広勝(おぐら ひろかつ、1902年11月19日 - 1968年11月6日)は、日本の経済学者。東京出身。東京商科大学(現在の一橋大学)卒。共産党系の文化団体・プロ科で活動しつつ法政大学商業学校(現在の法政大学中学高等学校の前身のひとつ)で教えるが、1928年、三・一五事件で検挙され退職。1937年、同盟通信社に入社。戦後はレッドパージにあい、世界経済研究所理事、1959年、立命館大学教授。在職中に死去。
大場 千秋(おおば ちあき、1902年11月18日 - 19… 大場 千秋(おおば ちあき、1902年11月18日 - 1978年11月28日)は、日本の文化人類学者。 北海道出身。早稲田中学校 (旧制)、水戸高等学校 (旧制)卒業。1928年、東京帝国大学文学部心理学科卒業。東大副手、水戸高等学校教授を経て、1949年茨城大学教授。66年定年退官、名誉教授、茨城キリスト教大学教授。73年定年退職。長男は大場牧夫、次男は大場幸夫。
水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 197… 水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 1979年2月14日)は、日本のフランス文学者・翻訳家。 長野県北佐久郡高瀬村(現佐久市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1926年東京帝国大学仏文科卒業。 東大図書館に勤務しつつ、オノレ・ド・バルザックを主として数多くの翻訳を行った。豊島与志雄の『レ・ミゼラブル』の翻訳の誤訳や脱漏を指摘し、豊島に喜ばれ、自らの翻訳を刊行した。 明治大学では非常勤講師、中央大学では専任講師としてフランス語を教えた。 没後、旧蔵書の中でバルザックに関係する資料は武蔵大学附属図書館で水野文庫として保存され、目録が刊行された。
大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - … 大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - 1987年9月23日)は、日本の実業家。元いすゞ自動車社長。勲二等瑞宝章。 岐阜県出身。1920年旧制岐阜中学校(のちの岐阜県立岐阜高等学校)卒業。のちに第三代在京岐阜高校同窓会会長を務めた。 1928年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、東京石川島造船所自動車部(のちのいすゞ自動車)に入る。 1965年いすゞ自動車社長に就任。自動車業界再編の中、1966年に富士重工業と提携。同年藍綬褒章受章。1970年に日産自動車と提携。 1970年日産自動車との提携を機に社長を退任。この退任は、ワンマン社長として知られた大橋が、同じくワンマン社長として知られ、大学の1年後輩である、日産自動車の川又克二社長に主導権を握られるのを嫌ったことが理由との見方もされた。
山本 照(やまもと てる、1902年11月18日 - 199… 山本 照(やまもと てる、1902年11月18日 - 1998年10月27日)は、愛知県出身のNHKアナウンサーである。日本の相撲中継において、松内則三に続く2人目のアナウンサーであった。 4人兄妹の三男。少年時代に地元の草相撲を見て以来の相撲好きであった。愛知県立第四中学校(後の時習館高校)では相撲部に所属、身体は小さかったが腕力は強く、右四つからの上手投げが得意で県下の中学校対抗相撲大会にも出場した。東京外国語学校(後の東京外国語大学)時代、大相撲の本場所の時期に語学以外の授業をサボっては国技館に通い詰め、学友からは「角狂」と呼ばれるほどであった。 東京外国語学校スペイン語科を卒業後、1925年4月に萬朝報に入社、1927年10月には國民新聞に移り相撲記者として活躍。
石田 一松(いしだ いちまつ、本名同じ、1902年11月18… 石田 一松(いしだ いちまつ、本名同じ、1902年11月18日 - 1956年1月11日)は、日本の政治家、演歌師、演歌歌手。作詞家、作曲家。位階は正五位。 芸人で、吉本興業(東京吉本)所属。戦前の一時期、石田一涙と芸名を名乗る。戦後は並行して衆議院議員を務め、タレント議員第一号とされる。身長五尺四寸、体重十七貫(自著記載より)。なぎら健壱は孫弟子にあたる。諷刺の先駆者、及びシンガーソングライターの先駆けともされ、その弾き語りは一世を風靡した。 広島県安芸郡府中村字山田(現府中町)生まれ。3歳で実母とは生き別れて、その後4人の継母に育てられた。うち3人の継母から虐められこれを耐え抜いたという。父・石田喜一は井戸堀職人で、その後米相場で失敗。
錦城山 勇吉(きんじょうざん ゆうきち、1902年11月18… 錦城山 勇吉(きんじょうざん ゆうきち、1902年11月18日 - 1987年12月18日)は、兵庫県津名郡(現:兵庫県洲本市)出身で小野川部屋に所属した大相撲力士。本名は村上 幸作(むらかみ こうさく)。 1902年11月18日に兵庫県津名郡(現:兵庫県洲本市)で生まれる。草相撲が盛んであった淡路島は小野川部屋の勢力基盤であり、宮相撲で活躍したことで若者頭に見出され、小野川部屋(大坂相撲)に入門した。当初の四股名は小鳴門だったが、大阪城の別名が「錦城」であることに因んで「錦城山」と改名した。 1923年5月場所が龍神事件によって同年6月へ延期、さらに片番付での開催となった影響で、1924年1月場所で新入幕を果たした際はいきなり前頭2枚目になった。
森本 孝順(もりもと きょうじゅん、1902年(明治35年)… 森本 孝順(もりもと きょうじゅん、1902年(明治35年)11月17日 - 1995年(平成7年)6月19日)は、律宗の僧侶。第81世唐招提寺長老(住職に相当)。律宗管長。 奈良県磯城郡生まれ。10歳で京都の壬生寺に入寺。大谷大学卒。1940年、奈良県五條市の講御堂寺、住職就任。以後、講御堂寺を自坊とす。荒廃していた唐招提寺の再興に尽くし、1946年、長老に就任。1980年、鑑真和上坐像(国宝)の中国里帰りを実現。1983年、130年ぶりに戒壇を復興した。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
伊東 三郎(いとう さぶろう、1902年11月16日 - 1… 伊東 三郎(いとう さぶろう、1902年11月16日 - 1969年3月7日)は、日本のエスペランティスト、農民運動家。本名は宮崎巌。旧姓は磯崎。筆名はほかに伊井迂(イーウ)。 岡山市北区天瀬生まれ。大阪外国語学校(現大阪大学)中退。1925年エスペラント青年同盟を結成。1928年国際文化研究所の設立に参加。1930年日本共産党に入り農民運動を指導、全国農民組合(全農)戦闘化協議会の機関誌『農民闘争』の編集にあたる。1931年3月7日の全農第4回大会(大阪)で、運動方針の討議にあたって全農本部の杉山元治郎以外の大半が全国大衆党を支持するにあたって、特定政党の支持強制反対にあたり分裂する。本部反対派は、8月15日~16日の京都での会議(鞍馬会議)を開催し、全農全国会議(正式名称「労農政党支持強制反対全農全国会議」)派の創立および組織化を指導、1932年逮捕され豊多摩刑務所に入り、1936年保釈出獄、1940年に再検挙され巣鴨刑務所に入る。
小宮 孝(こみや たかし、1902年11月15日 - 197… 小宮 孝(こみや たかし、1902年11月15日 - 1975年11月16日)は、日本の経済学者。関西学院高等商業学部教授、関西学院大学経済学部教授、同学院院長などを歴任した。 神奈川県横浜市出身。兵庫県立神戸商業学校(現:兵庫県立神戸商業高等学校)、第一神港商業学校(現:神戸市立神港高等学校)を経て、1929年(昭和4年)に、東京商科大学(現:一橋大学)卒業後、関西学院高等商業学部(のちの関西学院高等商業学校、現関西学院大学経済学部・商学部)の経済学担当教授に就任した。 関西学院初代教職員組合長、初代宗教活動委員会委員長を経て、1950年(昭和25年)から1954年(昭和29年)まで関西学院大学経済学部長を務めるなどし、関西学院におけるキリスト教活動の活性化及び民主化に尽力した。
高田 三郎(たかだ さぶろう、1902年〈明治35年〉11月… 高田 三郎(たかだ さぶろう、1902年〈明治35年〉11月14日 - 1994年〈平成6年〉5月12日)は、日本の西洋哲学史(中世哲学)研究者、京都大学名誉教授。 大阪府に生まれる。1927年(昭和2年)京都帝国大学文学部哲学科(西洋古代中世哲学専攻)卒業。同年大学院に進学。1929年(昭和4年)から1932年(昭和7年)までの3年間ヨーロッパに留学し、オックスフォード大学のウィリアム・デイヴィッド・ロス(英語版)や、ベルリン大学のヴェルナー・イェーガーらのもとで西洋古典哲学を学んだ。 帰国後に広島文理科大学哲学科に講師として赴任。1936年(昭和11年)同大助教授、1947年(昭和22年)より京都大学文学部助教授、1950年(昭和25年)同大教授、1966年(昭和41年)定年退官し名誉教授。
伊藤 隆男(いとう たかお、1902年11月12日 - 19… 伊藤 隆男(いとう たかお、1902年11月12日 - 1992年10月12日)は、日本の経営者。資生堂社長を務めた。 大阪府出身。1916年に茨木中学校を卒業し、同年に資生堂に入社した。1927年に取締役に就任し、1948年に大阪資生堂専務に就任し、1959年8月から1964年12月までに社長を務め、1964年12月から1967年までに会長を務め、それ以後は相談役を務めた。 1966年10月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 1992年2月10日、慢性気管支炎のために死去。89歳没。
渋田 黎明花(しぶた れいめいか、1902年11月12日 -… 渋田 黎明花(しぶた れいめいか、1902年11月12日 - 1978年10月10日)は、昭和時代日本の小説家、作詞家、俳人。本名は渋田 喜久雄(しぶた きくお)で、作詞家としては戦前・戦後を通じて多数のペンネームを使い分けていた。 1902年(明治35年)、福岡県糟屋郡席内村(現在の古賀市)庄に生まれる。吏員だった父親の転勤により、新潟県西蒲原郡赤塚村(現在の新潟市西区赤塚)で幼少の一時期を過ごした。 福岡へ戻った後は官営八幡製鐵所付属の幼年職工養成所を卒業し、旋盤工を務めていたが文芸を志して上京、1930年(昭和5年)に『サンデー毎日』誌の大衆文芸へ応募した時代小説『変幻花鳥図』が佳作を受賞、同年5月1日号に掲載される。
齋藤 晃(さいとう あきら、1902年11月11日 - 19… 齋藤 晃(さいとう あきら、1902年11月11日 - 1981年5月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。右翼活動家。 福島県出身。福島県立磐城中学校卒。1925年立憲養正会に入会。福島県の村議会議員を務めながら、立憲養正会福島県連支部長や同会復勢幹事長を歴任。1947年第23回衆議院議員総選挙に福島3区から出馬し初当選。片山哲首班指名では自分に一票を投じた。院内では第一議員倶楽部を組織し、衆議院厚生委員会委員や衆議院石炭鉱業特別委員会委員を務めたが、第24回衆議院議員総選挙では落選。その後も、福島県遺族会会長、日本遺族会厚生連盟委員長として、遺族の援護活動に尽力。立憲養正会顧問として自主憲法制定運動も展開した。
趙 炳漢(チョ・ビョンハン、朝鮮語: 조병한/趙炳漢、190… 趙 炳漢(チョ・ビョンハン、朝鮮語: 조병한/趙炳漢、1902年11月10日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚北道聞慶郡(現・聞慶市)出身。聞慶公立普通学校(現・聞慶初等学校)、大邱高等普通学校、旧制の第三高等学校、東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒。 株式会社テドン貿易公社社長、マンジュ家畜振興株式会社監査役などを務めた。朝鮮戦争時の1950年9月2日、鐘路区にて北朝鮮側の関係者3名により拉致された。 1956年7月より在北平和統一促進協議会中央委員を務め、1958年に江界市方面の農場に移住したとされるが、以後消息不明。
矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日… 矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、日本の政治学者、評論家。東京帝国大学法学部教授、拓殖大学総長などを歴任した。政治学博士。旧姓横山。 1902年11月9日、鳥取県気高郡美穂村大字向国安(現・鳥取市向国安)の農家に生まれる。のち、愛媛県今治市出身の司法官・矢部安男の養子となる。美穂小学校、旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部に入学。1926年3月同大学法学部政治学科を卒業、矢内原忠雄博士から教育者になることをすすめられ、政治学の創始者たる恩師・小野塚喜平次博士に従って政治学者への道を進むこととなる。
倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 -… 倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 - 1986年9月27日)は、日本の作家、囲碁将棋観戦記者。 日本文芸家協会会員、棋道懇談会会員、将棋盤側クラブ会長。 京都府京都市生まれ。父親は郵便局長。兄弟は兄が一人。祇園町にあった弥栄尋常小学校でのクラスメートに、後の嵐寛寿郎がいた。京都市立中学校を経て慶應義塾大学に入学。文学部国文科に籍を置き、在学時には『三田文学』に作品を発表。1929年卒業。1935年、東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)入社。記者として囲碁将棋の観戦記者となった。 1938年応召。1943年に退社。終戦後、作家生活に入ったが、毎日新聞社の要請で再度、観戦記者となる。
島津 フミヨ(しまづ フミヨ、1902年〈明治35年〉11月… 島津 フミヨ(しまづ フミヨ、1902年〈明治35年〉11月9日 - 1967年〈昭和42年〉12月31日)は、昭和期の日本の女性放射線医学者。弟に熊倉正弥。 栃木県喜連川町出身。父熊倉弥五郎、母ソメの三女。姫路の島津愛之と結婚する。 東京府立第一高等女学校を経て、東京女子医学専門学校を卒業し、母校病院のレントゲン科に入局する。1942年4月に放射線医学教室の初代教授となる。1951年には、梯子式連続撮影装置の試作に成功し、心臓外科の発展に大きく貢献した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
岩澤 誠(いわさわ まこと、1902年(明治35年)11月9… 岩澤 誠(いわさわ まこと、1902年(明治35年)11月9日 - 1984年(昭和59年)5月6日)は、日本の弁護士、学校経営者。札幌弁護士会会長。学校法人札幌大学理事長。 千葉県出身。万治郎の次男。 1927年(昭和2年)明治大学法科卒業。北海道庁に入る。 1932年(昭和7年)弁護士を開業。札幌法務局、北海道石炭鉱業連盟、札幌信用組合、東銀、北海道石炭、日本ゴム、北海道購買農協連、北海道販売農協連、北海道漁業協組連合、各顧問となる。1953年(昭和28年)日弁連副会長に就任。 趣味は野球、写真。宗教は真言宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明… 北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明治35年)11月7日 - 1996年(平成8年)5月19日)は、劇作家、演出家、著述家。本名:飯野 秀二(いいの ひでじ)。 大阪市西区西長堀生まれ。 大阪市立甲種商業学校(現大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進む。同校本科には進まず、1920年に日本電力に入社。同社で働きながら、関西大学専門部文学科(夜間)を卒業。 商業学校在学中の1919年に、室町銀之助の筆名で宝塚少女歌劇の第5回脚本公募に応募し、一等に入選する。1920年7月、宝塚公会堂劇場で入選脚本が「コロンブスの遠征」として上演された。 1926年、久松一声の誘いで宝塚歌劇団に入社の話があったが、面接での宝塚幹部の態度が傲慢だと感じ、入社拒否。
井東 安久(いとう やすひさ、明治35年(1902年)11月… 井東 安久(いとう やすひさ、明治35年(1902年)11月7日 - 昭和58年(1983年)12月1日)は日本の実業家。井東建設元代表取締役。境港商工会議所の常議員、監事、参与などを歴任。井東家の八代目。 明治35年(1902年)11月7日、鳥取県西伯郡中浜村大字佐斐神(現在の境港市佐斐神町)に父・井東藤重、母・ゑせのの長男として生まれた。出身地の佐斐神は明治20年代から桑栽培・養蚕業が主産業になった。若いころは馬車曳きの仕事をした。 昭和22年(1947年)洋瓦の製造販売を創業、昭和30年(1955年)法人に改組した。 昭和30年(1955年)4月境港商工会議所議員に就任し、その後常議員、監事を歴任、昭和52年(1977年)4月から参与を務め、地域経済の振興、発展に尽力した。
岡田 刀水士(おかだ とみし、1902年〈明治35年〉11月… 岡田 刀水士(おかだ とみし、1902年〈明治35年〉11月6日 - 1970年〈昭和45年〉9月30日)は、大正・昭和時代に活躍した日本の詩人、教員。 1902年(明治35年)群馬県前橋市大字才川(現・若宮町)に生まれる。群馬郡久留馬小高等科を経て、1925年(大正14年)群馬師範学校本科第一部(現・群馬大学教育学部)を卒業。 倉賀野尋常高等小学校を振り出しに、高崎北尋常高等小学校、高崎中央尋常高等小学校で勤務。1930年(昭和5年)ごろからは自由教育の実践に取り組んだ。1936年(昭和11年)退職して上京、東京府八王子第二小学校に代用教員として勤めるが間もなく退職し、1937年(昭和12年)より高崎市片岡尋常高等小学校に勤務。
上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉1… 上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉11月4日 - 2001年〈平成13年〉3月11日)は日本画家。花鳥画の近代化に貢献し、文化功労者となりさらに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学教授。 本名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。未婚で松篁を出産した松園はその父について自ら語ることはなかったが、一部の書籍では松園の師の日本画家・鈴木松年が父であるとみなされている。松年が実の父であることは、松篁が著作中で明らかにしており、13歳のころに初めて松年を父と紹介されたとしている。 息子は同じく日本画家の上村淳之。 1902年(明治35年)、上村松園の長男として京都府京都市中京区四条堺町に生まれる。
馬場 義続(馬場 義續。、ばば よしつぐ、1902年11月3… 馬場 義続(馬場 義續。、ばば よしつぐ、1902年11月3日 - 1977年2月24日)は、日本の検察官。位階は正三位。元検事総長。子に馬場義宣(弁護士、学習院大法科大学院教授、元最高検公安部長、法務省保護局長)。 福岡県(現 朝倉市秋月)出身。生家は貧乏であったが、幼少期よりすべての科目で秀才の誉れが高く、特に数学では並外れた才能を持っていたため、上級学校進学の援助者があり、田川中学、五高を経て、1927年3月に東京帝国大学法学部法律学科英法科卒業。同年12月に高文行政科・司法科試験に二度目で八番で合格。 翌年の1928年に司法官試補、1929年に検事任官。同期の柳川真文、井本臺吉らと共に“3羽ガラス”と称され、一期下に田中萬一がいた。
木戸 吉備夫(きど きびお、1902年 <明治35年> 11… 木戸 吉備夫(きど きびお、1902年 <明治35年> 11月3日 - 1981年 <昭和56年> 11月4日)は、日本の経営者。日本酸素社長、会長を務めた。位階は正五位。 京都府出身。1927年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入行。1950年1月に日本酸素常務に就任し、1959年6月に副社長を経て、1963年6月に社長に就任。1974年12月に会長を経て、1978年9月には相談役に就任。 1972年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1981年11月4日心筋梗塞のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年〈明治35年〉11月… 高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年〈明治35年〉11月3日 - 1967年〈昭和42年〉4月21日)は、日本の俳優、映画監督、映画プロデューサー。初期には片岡 慶左衛門(かたおか けいざえもん)、片岡 慶三郎(かたおか けいさぶろう)と名乗った。本名は慶吉(-けいきち)。身のこなしの軽さから「鳥人」として知られる。 1902年(明治35年)11月3日、長野県下諏訪町に「高木慶吉」として生まれる。神田英語学校卒業。 1920年(大正9年)、マキノ俳優養成所に入り、牧野省三に師事した。1923年(大正12年)6月、片岡 慶左衛門、片岡 慶三郎の名で映画に出演し始める。1925年(大正14年)の東亜キネマからの牧野の分離独立後も、東亜キネマに残留する。
胡 風(こ ふう、フー・フォン、1902年11月2日 - 1… 胡 風(こ ふう、フー・フォン、1902年11月2日 - 1985年6月8日)は、中国の文芸理論家、文学評論家、翻訳家、詩人。本名は張光人、他の筆名に谷非、高荒、張果などがある。魯迅との親交もあった。 左翼作家として知られ、七月派と呼ばれる作家集団を作った。1955年、共産主義に反したとして仲間と共に逮捕され、1965年まで投獄される。一度は解放されるが1965年に懲役14年の判決が下り、1979年1月まで投獄される。1985年6月8日、死去。 1925年、清華大学英文科に入学、1929年日本に留学、東亜高等予備校で学び、1931年、慶應義塾大学文学部英文科に入学。プロレタリア科学研究所芸術部会に参加した。
甲斐 仁代(かい ひとよ、1902年11月2日 - 1963… 甲斐 仁代(かい ひとよ、1902年11月2日 - 1963年7月28日)は、日本の女流洋画家で、一水会会員。 佐賀県佐賀市赤松町の甲斐靖の二女として1902年11月2日に生まれる。 明治42年(1909年)4月、佐賀市赤松尋常小学校に入学。一年生から六年生まで成績はすべて甲、学年で一番の成績で、周囲から天才、秀才、才女と騒がれた。 父は公務員で大正5年(1916年)、中華民国山東省の青島(チンタオ)、民政署教育課長になったので家族とともに引越、青島女学校に転入。 1919年(大正8年)4月、青島女学校卒業後、画家を目指し単身東京に同郷の岡田三郎助を尋ね、東京女子美術学校(現・女子美術大学)西洋画科高等科に入学、岡田三郎助に指導を受ける。
武部 英治(たけべ えいじ、1902年(明治35年)11月2… 武部 英治(たけべ えいじ、1902年(明治35年)11月2日 - 1973年(昭和48年)12月7日)は、昭和期の鉄道官僚、政治家。衆議院議員、実業家。 武部定吉の次男。として石川県能美郡小松町東町(現小松市東町)で生まれる。第四高等学校を経て、1925年(大正14年)11月、高等試験行政科に合格。1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。1926年(大正15年)、鉄道省に入省する。1944年(昭和19年)に、台湾総督府交通局鉄道部長となり終戦を迎えた。戦後、運輸省事務官を務めて退官。1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で石川県第1区から改進党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
薄田 太郎(すすきだ たろう、1902年11月1日 - 19… 薄田 太郎(すすきだ たろう、1902年11月1日 - 1967年4月23日)はNHKの元アナウンサー、郷土史家、大衆芸能評論家。 NHK広島局の初代アナウンサーであり、戦前の広島市の大衆文化史を記録した『がんす横丁』の著者として知られる。 広島市に生まれ、1908年創立されたばかりの広島市立竹屋小学校に入学。卒業後、県立広島商業学校(現在の県立広島商業高校)に入学し、学生野球の応援団長として名を馳せた。その後、素人劇団「広島十一人座」の同人となり、1928年の広島放送局の開局とともに初代アナウンサーの一人となり、特にスポーツ実況で知られた。敗戦前後は南方にいたため原爆には被災せず、翌1946年夏に引揚船により帰国。
甲木 保(かつき たもつ、1902年(明治35年)11月1日… 甲木 保(かつき たもつ、1902年(明治35年)11月1日 - 1975年(昭和50年)11月30日)は、昭和期の文部官僚、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県三潴郡蒲池村(現柳川市)で、甲木鹿松の二男として生まれる。福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)を経て、1926年(大正15年)日本大学専門部法律科を卒業した。 文部省に入省し、同省嘱託、文部属兼厚生属、文部理事官などを歴任。1942年(昭和17年)大政翼賛会に転じ、錬成部副部長に就任。1944年(昭和19年)翼賛会を退職し、三笠製薬研究所を設立。戦後に株式会社に改組し三笠製薬社長に就任。三笠物産社長も務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第3区から民主自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
小園 安名(こぞの やすな、1902年〈明治35年〉11月1… 小園 安名(こぞの やすな、1902年〈明治35年〉11月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第51期卒業。最終階級は海軍大佐剥奪。 1902年(明治35年)11月1日、鹿児島県川辺郡万世町(現・南さつま市)に生まれる。旧制鹿児島県立川辺中学校を経て1920年8月26日に海軍兵学校第51期に入学。同期に樋端久利雄、山本祐二、三代一就、大井篤らがいる。1923年7月14日、同校を卒業し、少尉候補生。練習艦「磐手」乗組み。 1926年3月、霞ヶ浦海軍航空隊第14期飛行学生、11月、卒業。空母「赤城」分隊長着任。霞ヶ浦航空隊教官着任。小園に思想的影響を受けた飛行学生の中尉らが五・一五事件を起こし、小園も「皇道革新」を主張し五・一五事件を支持したことから転勤させられる。
金田 千鶴(かなだ / かねだ ちづ、1902年11月 - … 金田 千鶴(かなだ / かねだ ちづ、1902年11月 - 1934年8月17日)は、昭和初期のアララギ派の女流歌人。 長野県下伊那郡泰阜村平島田の庄屋の家に生まれ、長野県立飯田高等女学校(後の長野県飯田風越高等学校の前身校の一つ)に学ぶ。卒業後に飯田町の寺に嫁いだが、程なくして離婚し、上京して帝国女子専門学校(後の相模女子大学の前身)に学ぶ。 在学中に『アララギ』の選者であった岡麓と知り合い、師事する。 1924年、小学校時代の教師だった彫刻家の倉沢興世と再会し、恋愛関係となるが、程なくして結核に罹患し、帰郷することとなった。 帰郷後も作歌を続け、1929年には『アララギ』の準同人となり、自然や人間関係を主題としたもののほか、昭和恐慌下で困窮する山村の姿を捉えた「社会詠」も手掛けた。
新谷 寅三郎(しんたに とらさぶろう、1902年〈明治35年… 新谷 寅三郎(しんたに とらさぶろう、1902年〈明治35年〉10月30日 – 1984年〈昭和59年〉12月16日)は、日本の政治家、官僚。郵政大臣、運輸大臣を歴任。 新谷寅蔵の三男として、奈良県高市郡八木町(現・橿原市)で誕生。畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)4年修了、1922年3月第一高等学校文科甲類、1925年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 逓信省に入省。灯台局長、海務院総務局長を経て、運輸通信省海運局長時代に東條英機首相から木造船の増産を命じられるも、「船釘を作る鉄が不足? 隠匿物資を探して来い」式のむちゃな指示にたまりかね辞職する。 戦後の1945年、同期入省の松前重義の要請により、逓信院次長となる(総裁は松前)。