加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - … 加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - 1962年1月15日)は、日本の実業家。デンツプライ三金の創業者、初代社長・初代会長。
1881年(明治14年)生まれ:307人
加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - … 加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - 1962年1月15日)は、日本の実業家。デンツプライ三金の創業者、初代社長・初代会長。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
松本 喜一(まつもと きいち、1881年8月12日 - 19… 松本 喜一(まつもと きいち、1881年8月12日 - 1945年11月13日)は、埼玉県秩父郡出身の官僚・教育者。東京高等師範学校教授、帝国図書館長を歴任。 第二高等学校を経て、1906年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。山口県萩中学校教諭、群馬県師範学校教諭、茨城県女子師範学校長、茨城県師範学校長を経て、1921年に東京高等師範学校教授。1921年には田中稲城の後任として帝国図書館長事務取扱に就任したが、図書館界との関りがなかった松本が就任したことで反対の声も上がっている。 1923年1月11日、田中の後任として帝国図書館長(2代目)に就任。1926年から1927年にはアメリカ・ドイツ・イギリスの図書館を視察している。
望月 歓厚(もちづき かんこう、1881年8月12日 - 1… 望月 歓厚(もちづき かんこう、1881年8月12日 - 1967年11月28日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 山梨県出身。旧姓は田中。号・日電秋江。1888年得度。1910年日蓮宗大学林(現立正大学)卒業。研究院に学び内地研究員を経て、日蓮宗大学教授。1926年立正大学教授、文学部長、1944年学長、日蓮宗学研究所長。1952年定年退任、名誉教授。1957年「日蓮教学の研究」で東洋大学文学博士。静岡・富西寺住職、本覚寺住職、東京・宣明院住職、山梨・妙法寺住職。記念として日蓮宗の仏教研究に対する望月学術賞が創設されている。
斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年… 斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年)8月12日 - 1925年(大正14年)7月18日)は、衆議院議員(革新倶楽部)。新聞編集者。 山形県東田川郡渡前村(現在の鶴岡市)出身。1903年(明治36年)、早稲田大学邦語政治科を卒業。渡前村長、東田川郡会議員、同参事会員、同副議長、同議長、東田川西田川両郡組合会議員、同参事会議員を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、両羽実業新聞を経営した。
潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月… 潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月11日 - 1955年〈昭和30年〉1月9日)は、日本の内務官僚。後に内務大臣兼文部大臣、最後の枢密院副議長を務める。 1881年(明治14年)、綿職人・潮房太郎の二男として島根県美濃郡横田村(後に同郡豊田村字横田となり、現在は益田市横田町)に生まれる。郁文館中学、一高を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学卒業後に内務省入省。行政法の専門家として活動、衛生局長・地方局長などを歴任した。1928年(昭和3年)に田中義一内閣の内務次官となり、濱口内閣・第2次若槻内閣で次官を務めた後に1931年(昭和6年)に貴族院勅選議員となる(研究会所属)。
木村 泰賢(きむら たいけん、1881年8月11日 - 19… 木村 泰賢(きむら たいけん、1881年8月11日 - 1930年5月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶(岩手県東慈寺住職)で、インド哲学者・仏教学者。日本における近代仏教学の確立に貢献した。学位は、文学博士。東京帝国大学教授。 1881年に岩手県滝沢村一本木(現在の滝沢市一本木)に、父亀治と母リツの次男として生まれる。幼名二蔵。一家は1984年に大更村(現在の八幡平市大更)へ移り住み、父は当地で酒造業を営む工藤家の家事手伝いを勤めた。1891年に父が亡くなった後、母の労苦を見かねて酒造店で小僧修業していたところ、東慈寺の住職であった十九世村山実定に見込まれて養子となり出家。実定の号である泰山から一字を与えられ、泰賢と称した。
中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)… 中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)8月6日 - 1946年(昭和21年)11月15日)は、日本の海軍軍人、教育者。最終階級は海軍大佐。 1881年(明治14年)8月6日、高知街通町の商家阿波屋・中山友治の長男に生まれる。海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1901年(明治34年)12月、海軍兵学校(29期)を卒業し、少尉候補生になる。1903年(明治36年)1月に海軍少尉任官。 その後、兵学校教官、「富士」航海長などを歴任。第一次世界大戦では駆逐艦艦長として紀淡海峡の警備につく。また地中海では第二特務艦隊第22駆逐隊(第10駆逐隊から改称)司令として英国商船の護衛に当り、ドイツ潜水艦を捕獲し勇名をあげた。
太田 茂(おおた しげる、1881年(明治14年)8月5日-… 太田 茂(おおた しげる、1881年(明治14年)8月5日-1940年(昭和15年)2月26日)日本のスポーツジャーナリスト。筆名は太田四州、太田志蹴。 1881年(明治14年)8月5日に香川県に生まれる。高松中学校を卒業し、1902年(明治35年)に和仏法律学校(現在の法政大学)法律科を卒業する。 『二六新報』、『読売新聞』、『国民新聞』などに大学野球の記事を書き、1921年(大正10年)から雑誌『運動界』を主宰する。スポーツジャーナリストの草分け的人物であり、神宮球場の建設など、学生野球の発展に尽力した。1940年(昭和15年)2月26日に死去、享年60。 1972年(昭和47年)、野球の啓蒙に尽瘁し、生涯を野球批評のために貫き、文筆をもって学生スポーツの健全な発展に献身した功績により野球殿堂(特別表彰)入りする。
長 延連(ちょう のぶつら、1881年〈明治14年〉8月4日… 長 延連(ちょう のぶつら、1881年〈明治14年〉8月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月21日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、警視総監。 静岡県敷知郡浜松常盤町(浜名郡浜松町大字常盤を経て現浜松市中央区常盤町)出身。長唯連の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1907年に京都帝国大学法科大学を卒業。文部省に入り普通学務局属となる。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格。文部省普通学務局第三課長を務める。 内務省に移り、香川県事務官、高知県事務官・警察部長、山梨県警察部長、福岡県警察部長兼港務部長、大分県・山口県・京都府の各内務部長などを歴任。 1922年6月、岡山県知事に就任。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
鍵和田 良平(かぎわだ りょうへい、明治14年(1881年)… 鍵和田 良平(かぎわだ りょうへい、明治14年(1881年)8月1日 - 昭和31年(1956年)7月24日)は、日本の工学者。 電気起重機の発明で有名。 神奈川県足柄下郡足柄村(現・小田原市)出身。父は明治13年(1880年)頃に村長を務めた。明治40年(1907年)に京都帝国大学機械工学科を卒業した。すぐに芝浦製作所に入所し、設計係となった。明治44年(1911年)に石川島造船所に転じ、多くの発明を行った。昭和3年(1928年)9月に昭和肥料会社理事に就任した。 1956年7月24日、脳出血のため東京都渋谷区青葉町の自宅で死去。 娘の貴代は、子爵の堤経長と結婚した。
西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年… 西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年)8月 - 不明 )は日本の銀行家であり弁護士である。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県阿哲郡上市村井村(現:新見市上市)の西村幸三の6男として生まれる。20歳の時、1902年(明治35年)旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、旧制第六高等学校文科へ入学。ドイツ語を専攻する。1905年(明治38年)7月に同校を卒業し、京都帝国大学法科大学へ入学した。その後、仮面浪人を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学へ入学し、1912年(大正元年)10月に同大学独法学科を31歳で卒業した。 卒業後は村井銀行へ就職。
原 正鼎(はら せいてい、1881年(明治14年)8月 - … 原 正鼎(はら せいてい、1881年(明治14年)8月 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 山形県米沢市出身。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業して、司法官試補となった。京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、1909年(明治42年)に朝鮮に渡り、京城区裁判所判事、京城地方裁判所判事、京城覆審法院判事、高等法院判事を歴任。1920年(大正9年)、朝鮮総督府法務局民事課長に転じ、1923年(大正12年)に欧米に出張した。帰国後、高等法院判事、京城地方法院長、高等法院部長を経て、1932年(昭和7年)に大邱覆審法院長となり、1939年(昭和14年)に高等法院長に就任した。
大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1… 大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1920年1月20日)は、日本の俳人・俳論家。福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)生まれ。本名・績(いさお)。 祖父は儒学者の神林復所で父は漢学者で漢詩人の大須賀筠軒。福島尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)、宮城県第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から第二高等学校(現在の東北大学)を経て東京帝国大学文科大学国文科卒業。卒業後は教員として中学、高等女学校で教えたのち、若くして東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任した。東大卒で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。『海紅』の河東碧梧桐に師事、同じ旧制二高出身(ただし碧梧桐は中退)で才能も評価された乙字に対し碧梧桐の期待は高かったが、海紅堂事件に端を発する海紅同人同士の内部対立により1915年5月に離脱。
長井 真琴(ながい まこと、1881年〈明治14年〉7月28… 長井 真琴(ながい まこと、1881年〈明治14年〉7月28日 - 1970年〈昭和45年〉8月8日)は、日本の仏教学者。学位は、文学博士(東京帝国大学)。福井県丹生郡殿下村(現福井市)出身。浄土真宗高田派勝鬘寺の長井真応住職の長男。真向法創始者長井津、海軍少将長井満は実弟。長男に仏教学者長井真先、四女に鎌倉女子大学学園主松本紀子、次男に東京大学名誉教授長井善見。姪孫に仏教学者佐々木閑。 日本におけるパーリ語仏典研究の草分けと評される。1924年(大正13年)、高楠順次郎らとパーリ語仏典の律の注釈書『サマンタパーサーディカー』の校訂に着手し、30年をかけて完成させている。NHKのパーリ語のラジオ講座も担当した。
小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月2… 小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月26日 - 1928年〈昭和3年〉12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した日本の劇作家、小説家、演出家、批評家、詩人。 日本の演劇界の革新にその半生を捧げた"新劇の父" 。 1909年に「自由劇場」を、1924年に土方与志らと「築地小劇場」を設立し、新劇運動に尽力した。戯曲に『第一の世界』(1920年)、『息子』(1922年)などがある。また、1919年に松竹本社理事兼松竹蒲田撮影所撮影総監督となり、1920年松竹キネマ俳優学校校長、松竹キネマ研究所設立を通して、トーキー(発声映画)が登場する日本映画黎明期に深く関わった。 1881年(明治14年)7月26日、広島陸軍衛戍病院長・小山内建の二男として後の広島市細工町(現在の大手町一・二丁目付近)に生まれた。
荒川 真郷(あらかわ まさと、1881年(明治14年)7月2… 荒川 真郷(あらかわ まさと、1881年(明治14年)7月25日 - 1951年(昭和26年)10月26日)は、日本の陸軍軍人、政治家。衆議院議員、陸軍少将。 熊本市出身。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。1903年(明治37年)2月12日、歩兵少尉に任官。その後、日露戦争・済南事件に従軍した。1928年(昭和3年)8月10日、歩兵大佐に昇進し富山連隊区司令官に就任。1931年(昭和6年)8月1日、歩兵第21連隊長に転じた。1933年(昭和8年)8月1日、陸軍少将に進級し待命となり、同年8月30日、予備役に編入された。 その後、熊本県選挙粛正地方委員、九州司法保護事業聯盟評議員、熊本県社会教育協会副会長、帝国在郷軍人会熊本市聯合分会長などを務めた。
大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 -… 大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 - 1968年5月19日)は、日本の実業家、稲川部屋所属の元大相撲力士。四股名は鷲尾嶽。太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称された。戦後の一時期は菊池寛実、南俊二とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。ホテルニューオータニ創業者。 富山県西礪波郡正得村(現・小矢部市)水落集落出身。 貧農の家庭に長男として生まれ、31歳になるまで一家を養うために農家の小作として使われる生活を送った。31歳の時、僅かな金(20銭)を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。 やがて力自慢でならしていた米太郎に稲川部屋から声がかかり、大相撲力士となる。
松井 房治郎(まつい ふさじろう、1881年(明治14年)7… 松井 房治郎(まつい ふさじろう、1881年(明治14年)7月23日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、朝鮮総督府官僚。 京都府愛宕郡岩倉村(現在の京都市左京区)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学を卒業。大蔵省を経て、朝鮮総督府で財務部長や税関長を務め、全羅南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任し、1929年(昭和4年)に咸鏡南道知事に就任した。 1930年(昭和5年)に退官した後は、朝鮮米穀倉庫株式会社社長、朝鮮郵船株式会社取締役、朝鮮農会副会長などを務めた。
高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946… 高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946年11月27日)は、明治-昭和時代前期の日本の医学者。泌尿器科学における日本のパイオニア。九州帝国大学医学部泌尿器科を設立し、初代教授となる。1933年皆見省吾と雑誌「皮膚と泌尿」を創刊。皮膚疾患治療剤グリテールを開発した。また、江戸末期の浮世絵師、歌川国芳に注目し、その作品を収集。息子である高木健太郎が繁の遺志を継ぎ、健太郎の妻の節子が平成12年に「高木繁浮世絵コレクション」として約530点を名古屋市博物館に寄贈。『名古屋市博物館資料図版目録二』に全作品が掲載されている。 下山順一郎(日本最初の薬学博士、東京大学教授、私立薬学校:現東京薬科大学の創立者、初代校長)と母志満の長男として、東京都神田区新石町に生まれる。
岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没… 岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没年不明)は、日本の工学者。 オイルシェール(油母頁岩)から含有される石油を採取する方法を発明した。この発明を実施しつつあった南満洲鉄道株式会社撫順炭鉱の1938年の生産量は、粗油14万5千トン(重油8万5百トン)に達した。1939年の日本の十大発明家の1人に選出されている。 1906年に京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。その後、八幡製鉄所に入る。1910年に京都市技師を経て、1913年に南満洲鉄道株式会社に入る。1928年に撫順炭鉱臨時製油工場建設事務所長となり、同社の研究所長、化学課長を歴任した。1934年に退社した。
松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14… 松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14日 - 昭和12年〈1937年〉12月29日)は、大正・昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。長崎・平戸出身。 旧平戸藩士・松山雲八の五男。私立尋常中学猶興館より海軍兵学校に入学。海兵30期を187名中74位で卒業。30期の首席は百武源吾大将。同期8名の中将の中では156位の重岡信治郎中将、99位の湯地秀生中将に次ぐハンモックナンバー下位のスタート。「松島」での遠洋航海を終えて「磐手」乗組が初任地。日露戦争をそのまま「磐手」のクルーとして経験し、蔚山沖海戦・日本海海戦に参加。蔚山沖海戦後の明治38年(1905年)1月12日、中尉に進級している。
細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 -… 細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 - 1968年6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県多可郡松井庄村(現・多可町)生まれ。1907年、早稲田大学商科卒。農業の傍ら、松井庄村議、多可郡議、同参事会員、兵庫県参事会員となる。また、松井庄商事(株)専務理事、多可郡工業会長、兵庫県播州織工業組合、工業組合中央会、商工組合中央会各理事、兵庫県織物組合連合会、同県織物統制組合各理事長を歴任した。 1923年9月25日の兵庫県会議員選挙に多可郡選挙区から立候補して、当選した。しかし、1924年4月11日に失職した。その後、1927年9月25日に返り咲いた。1931年、1935年、1939年の選挙にも当選した。
村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 … 村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、日本の会計学者。元東京商科大学(現・一橋大学)附属商学専門部教授。日本会計学会発起人。 愛知県出身。1899年愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業、同校嘱託教員。1903年東京高等商業学校(現・一橋大学)附属商業教員養成所卒業。1923年ペンシルベニア大学ウォートン・スクール卒業、MBA(経営学修士)。 熊本県立商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)教諭時代の教え子に、のちに同僚になる堀潮がいた。小倉市立小倉商業学校(現・福岡県立小倉商業高等学校)校長を経て、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)教授在任中、1921年から1924年までイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国に留学。
松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7… 松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7月9日 - 1938年(昭和13年)3月2日)は、大正・昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は輝夫。 播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。父は松岡操。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。 幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。
綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 19… 綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 1927年10月27日)は、現在の青森県青森市出身で追手風部屋に所属した力士。本名は一戸 源逸。8代湊川。179cm、101kg。最高位は東関脇。 6代高砂の遺弟子。1900年5月序ノ口、1909年1月十両昇進、1910年1月新入幕。幕下時代に日露戦争に従軍し、金鵄勲章功六級と勲八等白色桐葉章を授与された。後に土俵入りで化粧廻しに勲章をつけて人気を博した。1911年2月に横綱梅ヶ谷と引き分け、1912年5月関脇昇進。1915年5月には新鋭栃木山を破っているが1916年1月引退し、8代湊川を襲名。湊川部屋を再興し、綾錦や楢錦を育てた。 二所ノ関部屋を率いた玉錦が若い頃に酒で暴れて立場を悪くした時、綾浪は親身になって玉錦を庇って救った。
須藤 新吉(すどう しんきち、1881年〈明治14年〉7月4… 須藤 新吉(すどう しんきち、1881年〈明治14年〉7月4日 - 1961年〈昭和36年〉12月21日)は、日本の哲学者、論理学者、心理学者。第一高等学校名誉教授。 新潟県中蒲原郡能登村(現 新潟市南区能登)出身。1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1905年(明治38年)7月に第三高等学校を卒業、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)を卒業。 1908年(明治41年)10月から1910年(明治43年)7月まで、浦和中学校に嘱託教師として勤務。1909年(明治42年)9月から1914年(大正3年)7月まで、東京帝国大学文科大学大学院で心理学を研究(「リズムノ生理心理的研究」)。
張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳… 張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳)は、日本の鉄道技術者。 山口県士族張至誠の長男として生まれる。1901年福岡県立中学修猷館を経て、1908年7月東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。 四日市製紙、富士製紙などに勤務した後、1912年鉄道院の技手となり、鉄道技師に進み、鉄道大臣官房研究所兼経理局第二課勤務を経て、1929年鉄道大臣官房研究所第一科長に就任。1935年5月退官する。
大八木 喬輔(おおやぎ きょうすけ、1881年7月 - 没年… 大八木 喬輔(おおやぎ きょうすけ、1881年7月 - 没年不詳)は、日本の陸軍法務官、弁護士。 福岡県遠賀郡底井野村(現・中間市)に生まれる。1900年福岡県中学修猷館、1904年7月第一高等学校独法科を経て、1907年7月京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 卒業後、直ちに志願兵として小倉歩兵第14連隊に入隊し三等主計に任官。1909年東京第1師団軍法会議法務官、次いで岡山第17師団軍法会議法務官、1912年台湾総督府軍法会議法務官、1916年青島守備軍軍法会議法務官兼青島守備軍法院裁判官、1920年小倉第12師団軍法会議法務官を歴任し、軍事法務上の一大権威と称されるが、1925年官を辞し、小倉市で弁護士を開業。
溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月2… 溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月27日 - 1919年(大正8年)11月6日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。大分市出身。 溝部竹太郎(三男、四女)の長男として、府内城下中上市町(現大分市中央町)に生まれる。1894年(明治27年)大分県尋常中学校入学。四年の課程を終え、五年次の8月に海軍兵学校を受験し合格。入校時成績順位は137名中第5位。1898年(明治31年)12月海軍兵学校入校(第29期)。卒業時成績順位は125名中第1位(首席、望遠鏡を下賜さる)。1913年(大正2年)海軍大学校(甲種13期)に入校し首席卒業、恩賜の長剣を拝受する。 資性闊達にして明敏、帝国海軍きっての逸材であり将来は将官と期待されたが、戦艦伊勢にて大演習中に病に罹り、38歳の働き盛りで病没。
小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26… 小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の弁護士。書家。号は雨堂。1907年に弁護士登録してから約46年にわたり弁護士として活動した。 1881年(明治14年)6月26日、長野県南安曇郡温村楡(現在の安曇野市三郷温)に小穴善平とちよの二男として生まれた[要出典]。小穴家は、貞享騒動に加担して処刑された小穴善兵衛の末裔家である。 若くして、松本の弁護士界の重鎮であり親戚筋でもある森山儀文治の書生となる[要出典]。 1901年(明治34年)9月、森山儀文治の支援により上京して明治法律学校(明治大学の前身校の一つ)に入学する。1904年(明治37年)7月、明治大学法科(1903年3月専門学校令に基づき明治法律学校から名称変更)を卒業した。
山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月… 山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 高知県香美郡岩村(現南国市金地)出身。政治家山本忠秀の長男として生まれるが、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。
岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)… 岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)6月25日 - 昭和27年(1952年)4月30日)は日本の官僚、政治家、弁護士。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市)出身。明治法律学校を卒業し第10回高等文官試験に合格し、1904年に大蔵省入省。 司法官試補、専売局事務官、広島専売局長などを歴任し、1920年退官。 弁護士としては、日本弁護士連合会理事、税務弁理士会監事(民政・愛知)などを務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選(以後、第16回・第17回・第19回・第20回・第22回と計6回当選)。立憲政友会政務調査会長や立憲民政党総務、農林参与官などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月2… 後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月22日 - 1977年〈昭和52年〉7月9日)は、大正・昭和期に愛知県名古屋市を拠点に活動した実業家である。株式相場で財を成した後藤安太郎の長男で、日本車輌製造社長や中央製作所社長をはじめ多数の会社役員を務めた。 美術品収集家でもあり、死後の1978年(昭和53年)になって自邸跡に美術品を一般公開する「昭和美術館」が開館した。 1881年(明治14年)6月22日、岐阜県海津郡今尾町(現・海津市)出身。後藤安太郎の長男として生まれた。後藤は1904年(明治37年)7月に京都の第三高等学校を卒業し、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 -… 石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 - 1965年10月30日)は、日本の音楽家、ドイツ文学者。 1881年、東京生まれ。1898年、東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)を卒業。東京帝国大学を卒業。東京音楽学校講師、第四高等学校(金沢)教授、第八高等学校(名古屋)教授、第七高等学校(鹿児島)教授をつとめた後、高知高等学校校長、大阪高等学校校長、大阪理工科大学予科長。1953年からは相愛女子短期大学教授を務めた。 1903年(明治36年)、東京音楽学校での日本人最初のオペラ(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」)の訳詞を、乙骨三郎、近藤朔風などと共に担当し、ラファエル・フォン・ケーベルのピアノ、ノエル・ペリの指揮、実業家の渡部朔(出演者の一人、渡部康三の兄)の資金援助による上演の成功に尽力した。
中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1… 中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1945年10月28日)は、日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。
川上 法励(かわかみ ほうれい、1881年(明治14年)6月… 川上 法励(かわかみ ほうれい、1881年(明治14年)6月10日 - 1944年(昭和19年)7月28日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 新潟県西蒲原郡吉田村(現在の燕市)出身。1909年(明治42年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、中国に留学した。『北越新報』記者、同社主筆を経て、新潟中央新聞社社長となった。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6… 小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6月9日 - 1962年(昭和37年)7月15日)は、日本の彫刻家。香川県出身。 香川県立工芸学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を1907年(明治40年)に卒業。 1908年(明治41年)に「指導」で文展初入選。 1913年(大正2年)に大正博覧会に「霹靂」を出品し、二等銀牌を獲得。以後、官展で次々入賞し、1916年(大正5年)の第10回文展で「闇路の人々」が特選となった。 1920年(大正9年)に渡仏。フランスにおける近代彫刻の巨匠ロダンに師事し、1921年(大正10年)に日本に帰国。その後は滝野川彫刻研究所を創立し、後進を指導した。
楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9… 楠 基道(くすのき もとみち、1881年〈明治14年〉6月9日 - 1967年〈昭和42年〉2月25日)は、日本の僧侶、政治家。衆議院議員(1期)。龍谷大学教授。 岐阜県大野郡、のちの揖斐郡大野村(現大野町)出身。1907年、東京帝国大学史学科卒。京都帝国大学大学院に進み、西蔵史を研究する。龍谷大学教授兼図書館長、山東省済南高等師範学校教授、台北高等女学校教諭兼台北高等商業学校教授、台南第二、第一の各高等女学校校長を経て、台湾総督府在外研究員として欧米各国に留学する。帰国後、台北高等学校、台北高等商業学校各教授、台北第一中学校校長を歴任する。仏教更新社を創立、社主となり、月刊紙「更新」を発行した。
武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 19… 武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 1942年6月27日)は、日本の経済学者・歴史家(経済史・経済学史専攻)。長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の旧制前身校)の教授を長く務めた。従三位・勲三等。 1881年、愛知県海部郡津島町(現・津島市)に武藤長八の二男として生まれた。東京高商専攻部(のちの旧制東京商科大学、一橋大学の前身)貿易科に進学して、1905年7月に卒業。 卒業後は東亜同文書院講師に就いた。1907年より長崎高等商業学校教授。1909年から 1912年まで、商学研究のためにアメリカ・イギリス・ドイツに3年間留学。この間、小泉信三などと交流をもった。1936年、長崎高等商業学校を退官し、名誉教授となった。
藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 196… 藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 1964年8月27日)は、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)出身の工芸家・図案家。 1881年(明治14年)6月6日、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)に生まれた。父親は忠三郎、母親はかぎ。兄が2人、姉が1人、妹が2人いる。母親のかぎは西加茂郡挙母村(現・豊田市)出身である。 藤井は幼少の頃から手先が器用であり、「針吉」や「凧吉」などとも呼ばれていた。 1888年(明治21年)に棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)に入学し、さらには医師の杉村修平の塾で学んだ。11歳だった1892年(明治25年)に棚尾小学校を卒業し、知多郡大野町(現・常滑市)の木綿問屋である尾白株式会社(尾白商会)に奉公に入った。
草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 … 草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 - 1972年(昭和47年)5月12日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者。 長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)の草間代次郎の二男・偉瑳武として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州鉄道に入社。別府線建設に従事したのち鉄道院に転じ日豊線建設を担当する。1909年(明治42年)母校の東京帝国大学工科大学助教授に転じ、1918年(大正7年)から衛生工学の研究のため、2年間の欧米留学でイリノイ大学、コーネル大学、ハーバード大学などでに微生物学、水理学などを学び、帰国後は逝去した中島鋭治に代わり1921年(大正10年)教授に進み土木工学講座担任となり、1942年(昭和17年)退官した(名誉教授)。
渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - … 渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - 没年不明)は、大正期から昭和初期の銀行家。武州銀行東京支店支配人を務めた。父は元老院議官や貴族院議員を務めた渡正元。 貴族院議員・錦鶏間祗候を務めた渡正元の次男として生まれる。早稲田大学を卒業後、1906年に日本銀行へ入行し、1921年に武州銀行東京支店の支配人となる。 弟の渡正監(上海共同租界警視総監)を養子に迎えた。
安藤 袈裟一(あんどう けさいち、1881年(明治14年)6… 安藤 袈裟一(あんどう けさいち、1881年(明治14年)6月 - 1931年(昭和6年)9月29日)は、朝鮮総督府官僚。従四位勲五等。 佐賀県出身。1912年(明治45年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。埼玉県警部、同秩父郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、黄海道警察部長、平安南道警察部長、平安北道警察部長、京畿道警察部長、鉄道局参事、忠清南道内務部長、全羅北道内務部長、京城府尹、咸鏡北道知事を歴任した。 1931年(昭和6年)9月29日、病気のため死去、50歳。死没日をもって正五位から従四位に叙される。
中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月… 中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月 - 1945年(昭和20年))は、日本の鉱物学者。 神奈川県中郡旭村(現在の平塚市)出身。出縄善太郎の二男として生まれ、中川隣之助の養子となった。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業し、農商務省東京鉱務署に勤務した。1908年(明治41年)、ドイツに留学。1910年(明治43年)、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)教授嘱託となり、1921年(大正10年)に同校が文部省に移管されると教授に就任した。採鉱冶金科長を経て、1933年(昭和8年)からは校長を務めた。1941年(昭和16年)、退官。 その他、九州帝国大学講師、戸畑商工会議所顧問、海外鉱業協会仏印研究所長を務めた。
橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月… 橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月7日)は、日本の漢文学者。旧制第七高等学校教授。 1981年6月、東京府生まれ。士族・橋本自聽(よりさと)の二男。父自聽は鹿児島県の谷山小学校校長に招聘された人物。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館第一部文科を卒業(第1回卒業生)。第七高等学校での同級生に東郷茂徳外務大臣や池田俊彦第二鹿児島中学(旧制)校長らがいる。1909年、東京帝国大学文科大学支那文学科卒業。長崎県立島原中学校 (旧制)、福岡県立東筑中学校 (旧制)、福井県立大野中学校 (旧制)各教諭を務めた後、1922年から第七高等学校造士館の漢文学教授。卒業生から初の母校教授となる。
岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月… 岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月29日 - 1946年(昭和21年)10月9日)は、日本の華族。貴族院男爵議員。 1881年岩倉具視の四男として生まれる。1896年分家して、同年12月3日、父の勲功により男爵を叙爵。学習院を経て、東京帝国大学文科大学修了。1909年欧米視察。1911年7月10日、貴族院議員となる。福徳生命保険、大成漁業各取締役、十五銀行監査役。1932年以降米穀対策調査会、石油業委員会、液体燃料委員会、帝国石油、台湾拓殖、樺太開発その他各設立委員、川崎造船所、千代田火災保険各取締役を務め、翼賛政治会常任総務を歴任した。 戦後の1946年5月8日に貴族院男爵議員を辞職し、その後公職追放となり、間もなく死去した。
山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月… 山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月29日 - 1950年(昭和25年)1月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・平沢。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)で平沢家に生まれる。1903年6月、東京高等商業学校を卒業。外交官を目指したが、同年8月、北海道松前郡福山町の富豪、3代山本久右衛門の養子となる。1906年、一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計まで昇進して除隊。その後、養父が小樽区に移りその事業を補佐。小樽区会議員、小樽市会議員、小樽商工会議所顧問、小樽倉庫社長、小樽商船社長、北日本汽船取締役、北海道製綿取締役、大正製麻取締役、小樽新聞取締役、北海道練乳監査役、定山渓鉄道監査役、松前造林 (資) 社長などを歴任。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 19… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 1964年10月5日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県南置賜郡三沢村赤芝(現・米沢市)出身。佐藤丑松の三男として生れる。米沢尋常中学興譲館を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。陸軍戸山学校付などを経て、1912年11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸士教官、参謀本部員、支那公使館付武官補佐官、参謀本部員、兼陸大教官、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部課長、欧州出張、歩兵第46連隊長、第3師団司令部付(済南駐在)などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。