三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8… 三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8月20日 - 1970年 <昭和45年> 6月2日)は、日本の経営者、医学博士。参天製薬社長を務めた。位階は正五位。 大阪府大阪市出身。1919年に千葉医学専門学校薬学科を卒業。島商店での勤務を経て、1936年には参天堂に転じ、1940年には社長に就任し、1952年には三田製薬社長も兼任。 1960年10月に藍綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1970年6月2日脳血栓のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
松尾 俊郎(まつお としろう、1897年8月19日 - 19… 松尾 俊郎(まつお としろう、1897年8月19日 - 1979年7月20日)は、日本の地理学者。学位は、文学博士(駒澤大学・1969年)(学位論文『関東山地東辺地帯における集落の人文地理学的研究』)。横浜国立大学教授、駒澤大学教授等を歴任。 佐賀県出身。東京帝国大学卒業。文部省に入省。1949年まで図書監修官として国定地理教科書の編集など行う。のち横浜国立大学教授に就任。1963年3月、横浜国立大学を停年退官。1966年から駒澤大学教授をつとめ、地名を研究。 1969年『関東山地東辺地帯における集落の人文地理学的研究』で、駒澤大学より文学博士の学位を取得した。1973年3月に駒澤大学教授を退任。
福田 力之助(ふくだ りきのすけ、1897年(明治30年)8… 福田 力之助(ふくだ りきのすけ、1897年(明治30年)8月17日 - 1982年(昭和57年)3月24日)は日本の裁判官、弁護士。 東京府南葛飾郡亀戸町(現東京都江東区亀戸)出身。家は金物屋だったがそれが潰れ、商家の小僧となり、青山師範学校卒業、東京市砂町小学校訓導となった後、1922年(大正11年)4月中央大学法律科専門部卒業、1925年(大正14年)12月司法官試験合格、同月高等試験司法科合格、1926年(大正15年)4月司法官試補として東京地方裁判所所属、1927年(昭和2年)12月仙台地方裁判所予備判事転任、福島地方裁判所に次いで1928年(昭和3年)10月山形地方裁判所判事転任、同鶴岡支部所属。
橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 -… 橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 - 1963年11月8日)は、日本の医師、薬学者、日本における医療評論家の先駆者とされる。本名は恵(めぐみ)。男性。 長野県松本市出身。弟に橋爪健、橋爪克巳(1903-1983)がいる。1922年東京帝国大学医学部薬学科卒、1927年千葉医科大学卒。三共製薬社員、別府化学薬品代表、日本薬学会編集主任。川端康成の友人。
川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月… 川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月17日 - 1941年〈昭和16年〉7月17日)は、東京都出身の日本の俳人。本名は信一(のぶかず)。別号に遊牧の民・俵屋春光。日本画家の川端龍子は異母兄。 当初は画家を志し岸田劉生に師事したが、病のために断念し俳句に転向、高浜虚子に師事して「ホトトギス」に拠る。画家の眼を生かし写生に徹しつつも格調の高い句を物し、松本たかし、中村草田男などと共に「四S」以降の「ホトトギス」の代表的俳人として活躍した。 東京市日本橋蛎殻町で生まれ、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。
木村 義雄(きむら よしお、1897年(明治30年)8月16… 木村 義雄(きむら よしお、1897年(明治30年)8月16日 – 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の医師、政治家。 1897年、山口県大津郡仙崎町(現・長門市仙崎)に生まれる。1921年、岡山医学専門学校を卒業。 1937年に妻の従兄弟で当時の日置村長の安倍寛(安倍晋三の祖父)の勧めで大津郡日置村に産婦人科医院を開業。1946年に安倍が死去すると、安倍が出馬を予定していた第22回衆議院議員総選挙に、安倍の長男である安倍晋太郎が被選挙権を得るまでのつなぎ役として出馬し当選するも、戦時中に地元の大政翼賛会の幹部を務めた事により公職追放され、衆議院議員の地位を失う。 1965年から油谷町長を1期務め、1971年には勲四等瑞宝章を受章。
下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月1… 下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月16日 - 1990年(平成2年)4月6日)は、日本の実業家。坂本龍一の祖父。 長崎県諫早市出身。下村代助の三男。生家は小さな農家である。1905年に父の代助は家族を連れ佐世保に移住し、市役所の臨時雇いの雑用夫として働いた。 現在の佐世保市立白南風小学校を卒業後、家が貧しかったため佐世保海軍工廠の見習工になった。しかし、進学が諦め切れず旧制長崎県立佐世保中学校の校長を訪ねて直談判し、試験を受けて中学4年に編入学する。1919年に旧制第五高等学校文科甲類に入学し、池田勇人と友人となり、1922年に卒業。1925年に京都帝国大学法学部を卒業し、小学校時代の恩師の娘・美代と結婚。
兵頭 儁(ひょうどう まさる、1897年(明治30年)8月1… 兵頭 儁(ひょうどう まさる、1897年(明治30年)8月16日 - 1946年(昭和21年)4月16日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。全羅南道知事。 兵頭清行の五男として愛媛県北宇和郡宇和島町(現宇和島市)に生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部政治科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、平安南道属兼警部、慶尚南道地方課長、総督府水産課長、咸鏡南道、慶尚南道各警察部長を経て、1937年(昭和12年)釜山税関長に就任。1939年(昭和14年)7月、大邱税務監督局長となり、1942年(昭和17年)11月、総督府総務局企画室長に任じた。その後、全羅南道知事を務めた。
織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 … 織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 - 昭和63年(1988年)3月1日)は日本の実業家、政治家、ジャーナリスト。元鳥取県会議員。 山陰のジャーナリストの大御所として、政治・経済・文化・スポーツなど幅広い分野で活動した。 鳥取県米子市東町生まれ。父・永太郎は明治37年(1904年)に『角磐日報』を創刊した米子地方におけるジャーナリズムの先駆者だった。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正9年(1920年)7月東亜同文書院卒業(第17期生)。大正12年(1923年)4月大阪毎日新聞社入社、新聞記者となる。 昭和7年(1932年)12月山陰日日新聞社主幹として帰郷。昭和12年(1937年)4月鳥取県会議員補欠選挙に初当選、以来戦後の昭和21年(1946年)公職追放になるまで県政に参画、昭和15年(1940年)12月大政翼賛会鳥取県支部が結成されると庶務部長に就任、昭和20年(1945年)まで翼賛運動に専念。
明石 嘉聞(あかし かもん、1897年8月15日 - 197… 明石 嘉聞(あかし かもん、1897年8月15日 - 1973年10月4日)は、日本の医師。医学博士。財団法人聖マリアンナ会、財団法人日本明星育英会、聖マリアンナ医科大学の創立者で理事長を務めた。 東京府に生まれる。生家はカトリック信者であった。1928年に京都府立医科大学を卒業。1929年に滋賀県八幡町(現・近江八幡市)で開業医となる。1941年には神奈川県川崎市に東横医院を開院する。 妹の志都香は渡米してニューヨークで修道女となっていたが、太平洋戦争中の1944年に死去。戦後届いた遺言に「キリスト教精神に基づく医療・教育・福祉事業」の実現を望む内容が記されていたことから、明石はそれを実行するべく1947年に聖マリアンナ会を設立した。
小出 浩平(こいで こうへい、1897年8月14日 - 19… 小出 浩平(こいで こうへい、1897年8月14日 - 1986年3月17日)は、日本の音楽教育学者。 新潟県南魚沼郡塩沢町(現南魚沼市)出身。1921年東京音楽学校甲種師範科卒。南西海小学校・香川師範学校・東京赤坂小学校・同城東小学校教員。1937年学習院教授。1964年東邦音楽大学教授、のち名誉教授。日本教育音楽協会会長。初等音楽教育の重鎮で、学習院時代、初、中等科の明仁皇太子、現天皇徳仁に音楽を教えた。1947年勲六等。
橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月… 橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月11日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、日本の政治家、技術者。熊本県水俣市長(4期)。日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場勤務時代、水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明。1938年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで水俣工場長を務めた。 現在の北海道札幌市に南部家の四男として生まれる。旧制札幌第一中学校卒業後、1916年(大正5年)、東京市日本橋在住の橋本家の養子となる。1919年(大正8年)、東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社。 1931年(昭和6年)、橋本らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。
小山 敬三(こやま けいぞう、1897年〈明治30年〉8月1… 小山 敬三(こやま けいぞう、1897年〈明治30年〉8月11日 - 1987年〈昭和62年〉2月7日)は、昭和期の洋画家。 父と祖父は小山久左衛門(世襲名)と称した小諸城下・荒町の豪商であり、商家でありながら馬廻り格の士分待遇を小諸藩から受けていた。衆議院議員・初代小諸市長・参議院議員等を務めた小山邦太郎は兄。 出身地の小諸市では、小山敬三の名を冠した「小山敬三記念小諸公募展」が毎年全国から浅間山、千曲川、小諸の風景等を描いた作品を募り、市立小諸高原美術館・白鳥映雪館にて入賞・入選作品展が開催されている。 国際結婚がまだ珍しかった時代にフランス人女性と結婚したことでもしられる。実子はない。自由民主党・三木派の大番頭といわれた三木武夫内閣の官房長官・井出一太郎の妻は、小山邦太郎の女子である。
赤松 常子(あかまつ つねこ、1897年8月11日 - 19… 赤松 常子(あかまつ つねこ、1897年8月11日 - 1965年7月21日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。日本社会党初代婦人部長。 山口県都濃郡徳山村(現・周南市)生まれ。祖父は徳応寺住職の赤松連城。兄に宗教学者の赤松智城、衆議院議員の赤松克麿がいる。 徳山高等女学校(現山口県立徳山高等学校)を経て、1913年、京都女子専門学校入学。在学中は、賀川豊彦の社会事業に協力。その後、2年で大学を中退。1923年、上京し労働運動に取り組む。同年9月に発生した関東大震災における賀川豊彦の罹災者救済活動に協力。 1925年日本労働総同盟婦人部にはいる。この間、野田醤油労働争議に参加。1940年、日本労働総同盟は自主解散し、大日本産業報国会に組み入れられた。
藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 196… 藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 1967年8月8日)は、日本のタレント、政治家。位階は正五位。 自由民主党参議院議員(1期)。資生堂美容学校校長。藤原義江の元妻。中上川彦次郎の庶子。参議院議員時代は本名の中上川(なかみがわ)アキで活動した。旧姓は宮下(前の夫の姓)。筆名、柳園子。 東京府出身。福澤諭吉の実姉:婉の長男であり、山陽鉄道の創設者で三井財閥の近代化に尽力した中上川彦次郎の三女(庶子、母は彦次郎の妾・つね)。本名はアキ。女子学習院に学ぶ。同級生には後に参議院議員になる加藤シヅエがいた。 1913年、17歳のときに一度の見合いもなく、19歳年上の東京京橋の開業医:宮下左右輔(みやした・そうすけ)と強制的に結婚させられて宮下姓となり、二女をもうける。
石黒 敬七(いしぐろ けいしち、1897年8月10日 - 1… 石黒 敬七(いしぐろ けいしち、1897年8月10日 - 1974年10月1日)は、日本の柔道家(講道館8段、大日本武徳会10段)、随筆家、古写真収集家。徳川夢声が創設した「ゆうもあくらぶ」の二代目会長。レジオンドヌール勲章受章者。長男は写真コレクションを引き継いだ石黒敬章。 新潟県柏崎市出身。父親は越後縮布の行商人で、七男なので敬七と名付けられた。 中学時代から柔道に熱を入れ、18歳で講道館に入門。早稲田大学政治経済学部に入学し、学生時代は柔道部の主将を務めた。1922年(大正11年)に同大を卒業。1924年(大正13年)柔道普及のため海外周遊に出発、フランス、英国、トルコ、エジプトなどの陸軍・警察で柔道を教え、ルーマニアでは国王から王冠章を授与された。
大嶌 佐太郎(おおしま さたろう、1897年8月5日 - 1… 大嶌 佐太郎(おおしま さたろう、1897年8月5日 - 1936年6月8日)は、大阪府堺市出身で小野川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は中辻 佐太郎。173cm、94kg。最高位は西前頭11枚目(ただし番付削除の為、番付上の最高位は東前頭12枚目) 大坂相撲の小野川部屋に入門、1913年5月場所初土俵。1917年6月新十両、1918年1月新入幕。1月場所前に入営し、2年間の軍隊生活を経て1920年1月に断髪姿で帰参。1923年5月に大関に昇進した。しかし、その時に起きた紛擾事件(龍神事件)に関与して一時脱退、その後一度十両格で復帰するも再び脱退し、そのまま東西合併を迎えた。 その後東京の出羽海部屋にうつり、1928年1月十両格付出で東京の初土俵という形で角界に復帰した。
久保田 畯(くぼた たおさ、1897年(明治30年)8月4日… 久保田 畯(くぼた たおさ、1897年(明治30年)8月4日 - 1991年(平成3年)5月27日)は、大正から昭和期の内務・警察官僚、弁護士。官選福井県知事、陸軍司政長官。 熊本県阿蘇郡山西村(現在の西原村)出身。久保田愿の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科試験に合格。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し地方局属となる。 以後、北海道庁理事官、愛知県警視、内務事務官兼関東庁事務官、千葉県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、岐阜県書記官・学務部長、群馬県書記官・警察部長、愛媛県経済部長、山梨県総務部長、神奈川県書記官・総務部長などを歴任。
川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8… 川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚、台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、基隆市尹。 宮崎県南那珂郡吾田村に生まれる。1917年(大正6年)宮崎県立宮崎中学校、1921年(大正10年)旧制第五高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科英法を卒業し、朝鮮総督府に奉職。翌年の1925年(大正14年)11月、一時退官し、東京日日新聞に入社。 同月、高等試験行政科に合格し、1929年(昭和4年)3月、台湾総督府に出仕。財務局税務課勤務、同年12月に警部を経て、1930年(昭和5年)1月に地方理事官に進み、澎湖庁庶務課長、同年12月に台南市助役、1931年(昭和6年)5月に台南州新営郡守、1932年(昭和7年)4月に台北市助役を経て、1933年(昭和8年)10月、嘉義市尹に就任した。
中野 義見(なかの よしみ、1897年8月2日 - 1969… 中野 義見(なかの よしみ、1897年8月2日 - 1969年4月3日)は、日本の音楽教育学者。 広島県出身。東京音楽学校卒業、佐賀師範学校教諭となる。のち東京の文京区立湯島小学校訓導、東京都指導主事などを経て、1945年中野区立江古田小学校校長。1956年国立音楽大学教授。
伊東 郁二(いとう いくじ、1897年(明治28年)8月 –… 伊東 郁二(いとう いくじ、1897年(明治28年)8月 – 没年不明)は、日本の実業家、醸造家。伊東合資会社代表。半田商工会議所会頭。愛知県多額納税者であった。 岐阜県出身。矢橋徳次郎の次男として生まれ、1920年(大正9年)、先代早苗の入夫となり家督を相続する。 1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部工科大学機械科を卒業後、酒造業を営み伊東合資会社代表となり、直接国税五千三百三十一円を納め多額納税者となる。 また半田商工会議所会頭、赤坂銀行監査役、衣浦銀行取締役を務めた。
広部 賢二(廣部 賢二、ひろべ けんじ、1897年〈明治30… 広部 賢二(廣部 賢二、ひろべ けんじ、1897年〈明治30年〉8月 - 1985年〈昭和60年〉7月24日)は、日本の会社役員。千代田火災海上(後のあいおい損害保険)専務。 東京出身。広部銀行頭取広部清兵衛の二男。広部鉱業社長広部清一郎の弟。1923年、東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。広部合名会社代表社員、広部銀行千駄ヶ谷支店長などをつとめる。千代田火災保険に入り取締役、常務、専務などをつとめる。 東京土地の大株主であった。趣味はスポーツ、運動。宗教は真宗。東京在籍で、住所は東京都大田区馬込町西。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中村 高一(なかむら たかいち、1897年〈明治30年〉7月… 中村 高一(なかむら たかいち、1897年〈明治30年〉7月31日 - 1981年〈昭和56年〉7月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(社会党、当選8回)。日本社会党顧問。衆議院副議長(第41代)を務めた。弁護士として社会運動や人権活動に取り組んだ。 東京府西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市)出身。中村作兵衛の六男。東京府立第二中学校出身。1922年、弁護士試験に合格。1923年、早稲田大学法学部英法科卒業。弁護士開業。1930年、労農党中央執行委員。1936年、社会大衆党中央執行委員。早くから自由法曹団に参加し、自由法曹団事件で検挙された。 東京市会議員を経て、1937年の第20回衆議院議員総選挙に東京7区から出馬し当選。
北畠 義郎(きたばたけ よしろう、1897年(明治30年)7… 北畠 義郎(きたばたけ よしろう、1897年(明治30年)7月31日 - 1961年(昭和36年)1月15日)は、明治から昭和期にかけての華族、神職。従四位、男爵。 男爵・新田忠純の長男(庶子)として生まれた。1923年明治大学法学部政治学科卒業。男爵・北畠克通の養子となり、1929年に男爵を叙爵。新田神社々司を経て、北畠親房などをまつる霊山神社の宮司に就任した。 山岳をはじめ、スポーツに親しみ、明大山岳会の結成に加わると共に、明大の後輩にあたる陸上競技選手の南昇竜らを後援した。
中河 幹子(なかがわ みきこ、1897年7月30日 - 19… 中河 幹子(なかがわ みきこ、1897年7月30日 - 1980年10月26日)は、日本の国文学者、歌人。中河与一の妻。旧姓は林。 香川県坂出市生まれ。実家は紙問屋林卯吉。香川県立丸亀高等女学校を経て津田英学塾卒。在学中の1920年に中河与一と結婚をする。女性文芸誌『ごぎやう』を創刊し、後に短歌誌『をだまき』と改め主宰となる。門下に高瀬一誌、蒔田さくら子らがいる。共立女子大学教授を務め、共立女子学園歌の作詞も手がけている。 妹の林寿枝子は、初代メイ牛山に師事した美容家で、雑誌で美容指南や対談などもした。
河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 19… 河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 1970年5月9日)は日本の牧師、伝道者、教育者。 1897年(明治30年)兵庫県生まれ。河辺貞吉の長男として淡路島・福良に生まれる。関西学院文学部卒業した後、1920年(大正9年)にアメリカ合衆国に留学しグリーンビル・カレッジに留学し、その後ドルー神学校で学んだ後、イギリスに渡りエディンバラ大学、オックスフォード大学で学ぶ。その後、エルサレムのアメリカ東洋研究所員になり、W・F・オルブライトの指導を受ける。1925年(大正14年)帰国。林順と結婚し、関西学院文学部教授に就任する。のち予科長、高校校長、宗教総主事をつとめる一方、自由メソヂスト教会教職として牧会にも従事する。
小田切 武林(おだぎり たけしげ、1897年7月28日 - … 小田切 武林(おだぎり たけしげ、1897年7月28日 - 1965年2月26日)は、日本の経営者。東京都出身。 1922年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。日本銀行での勤務を経て、1947年には日本貯蓄銀行(のちの協和銀行)頭取に就任した。1962年には会長に就任。 1958年に藍綬褒章を受章。 1965年2月26日胃癌のために死去。67歳没。
是川 銀蔵(これかわ ぎんぞう、 1897年(明治30年)7… 是川 銀蔵(これかわ ぎんぞう、 1897年(明治30年)7月28日 - 1992年(平成4年)9月12日)は、日本の事業家、投資家、相場師、慈善家。最後の相場師と呼ばれた。 現在の兵庫県赤穂市福浦で貧しい漁師の七人兄弟の末っ子、小山銀蔵として生まれる。小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。一家は3歳の時に神戸へ転居し、尋常小学校を卒業した後、14歳で貿易商の好本商会の丁稚となる。1914年に好本商会が倒産すると、ロンドンを目指し出国するが、中継地の中国の大連に着いたときに第一次世界大戦が勃発した。日本軍が山東半島の龍口に上陸したため、軍との商売を目指して龍口へ移った。軍が青島へ向かうと徒歩で追いかけた。
山田 積善(やまだ かつよし 通称: せきぜん、1897年7… 山田 積善(やまだ かつよし 通称: せきぜん、1897年7月25日 - 1976年12月1日)は、法律家、詩吟家。 本業は弁護士であったが、己の修養のため若いころから培ってきた詩吟が有識者の耳にとまり、ラジオで放送されたりレコード化されたりで著名となる。その声量と独特な高音の節まわしによる「修養のための詩吟」が知られるようになり、本業の弁護士の傍ら「包容会」を創設、会誌発行とともに後進の指導にも当たった。 積善は、詩吟は余興や芸能ではなく “祈りであり行(ぎょう)である” として「吟行(ぎんぎょう)」という言葉を用いて指導した。つまり、詩吟は心ある日本人の祈りであり、己を磨き強固な精神を養う修行として吟ぜよ、ということである。
ユン・シムドク(尹 心悳、朝鮮語: 윤심덕、1897年7月2… ユン・シムドク(尹 心悳、朝鮮語: 윤심덕、1897年7月25日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の歌手、俳優。 高身長で首の長い欧米人のような外貌であり、闊達な性格であったとされる。 1897年7月25日、李氏朝鮮で平安道の平壌府(現: 朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市)にて敬虔なキリスト教信者であるユン・ホビョン(父)と金氏(母)のもと、4人兄妹の2番目の娘として生まれた。その後すぐに鎮南浦(現: 南浦特別市)へ移住し、崇義女学校(現: 崇義女子高等学校)を卒業した。同校を卒業後、はじめは医者と教師になるため平壌女子高等普通学校と京城女子高等普通学校で学び、1914年に卒業した。
加賀 操(かが みさお、1897年(明治30年)7月25日 … 加賀 操(かが みさお、1897年(明治30年)7月25日 - 1986年(昭和61年)2月3日)は、大正末から昭和期の農業技術者、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。北海道内初の本格的ハッカ工場に係わり「ハッカの神様」と称された。 岡山県出身。1924年(大正13年)北海道帝国大学農学部を卒業し、同年、北海道庁技手に任官し、その後、同技師となる。 その後、北海道信用購買販売組合聯合会(北聯、現・ホクレン農業協同組合連合会)北見薄荷工場長に就任。北聯理事、北海道農業会理事、全農政協会理事、北海道薬農工業会社社長、上川生果物出荷組合長、日本除虫菊協会理事長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で北海道地方区に無所属で出馬して当選し、緑風会に所属し参議院議員に1期在任した。
大西 雅雄(おおにし まさお、1897年(明治30年)7月2… 大西 雅雄(おおにし まさお、1897年(明治30年)7月24日 - 1994年(平成6年)3月9日)は、大正から平成時代の言語学者、音声学者。別名に大星 雅光。 兵庫県多紀郡城南村野中(現・兵庫県丹波篠山市野中)出身。 1912年(明治45年)篠山高等小学校卒業後、三菱造船所に入社。勤務の傍ら夜学に通い英語を習得し、英文印刷職工に転じ、ついでキリスト教青年会給仕書記を務める。その間、小学校教員検定試験を受け、1917年(大正6年)上京し、中学4年に編入する。 1922年(大正11年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)を、さらに駒澤大学人文学部を卒業し、上智大学教授となる。ついで日本女子高等学院(現・昭和女子大学)教授、法政大学教授、駒沢大学教授、日本音声学会会長、日本言語科学研究所長などを歴任した。
川上 貞夫(かわかみ さだお、1897年(明治30年)7月2… 川上 貞夫(かわかみ さだお、1897年(明治30年)7月23日 - 1977年(昭和52年)7月31日)は、教育者、画家、考古学者である。 元鳥取県文化財専門員、元鳥取文化財協会理事。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
飯沼 金太郎(いいぬま きんたろう、1897年(明治30年)… 飯沼 金太郎(いいぬま きんたろう、1897年(明治30年)7月22日 - 1964年(昭和39年)6月10日)は、日本の航空黎明期のパイロット。「亜細亜航空学校」を創立した。 千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)中尾余町に生まれる。 1915年(大正4年)に千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業後、工兵中尉の澤田秀の書生を務める。 1917年(大正6年)12月、帝国飛行協会の第3期飛行機操縦練習生となる。1918年(大正7年)5月10日、東京奠都50年祝賀飛行に参加した。 同年11月16日には帝国飛行協会研究生に進級する。 1919年(大正8年)9月から翌年4月にかけ、群馬県尾島飛行場に出張し、中島知久平の知遇を得る。
斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1… 斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1996年6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 宮城県大崎市出身。商業・斎藤庄吉の息子として生まれる。旧制古川中学校(現:宮城県古川高等学校)を経て、1919年(大正8年)10月、海軍兵学校(47期)卒業。1920年(大正9年)8月、海軍少尉任官。1923年(大正12年)11月、第8期航空術学生卒。 1925年(大正14年)12月、海軍大尉に昇進し空母「鳳翔」乗組となる。この補職は、当時特別に技量優秀でなければ難しいとされた空母への着艦が努力次第で可能であることを証明するためであり、相婿である、山本五十六の推薦であった。斎藤は同時に推薦された三和義勇とともに任務を成功させた。
斎藤 保太郎(さいとう やすたろう、1897年(明治30年)… 斎藤 保太郎(さいとう やすたろう、1897年(明治30年)7月20日 - 1943年(昭和18年)12月8日)は、日本ホーリネス教会、きよめ教会の牧師である。太平洋戦争中に、治安維持法違反で検挙され、服役中に殉教した。 山形県西置賜郡温海村湯温海(現・鶴岡市)に生まれた。鶴岡市の庄内中学(現・鶴岡南高等学校)に入学したが、中退し上京する。絵画の才能があったので、東京では肖像画を描いて生計を立てていた。 1915年(大正4年)単立教会の本郷浅嘉町教会の牧師小沢勝之助に導かれて洗礼を受ける。 1918年(大正7年)に東洋宣教会の聖書学院に入学する。1921年(大正10年)に卒業し、神田ホーリネス教会の副牧師になり、奥野まつと結婚する。
外崎 千代吉(とのさき / とのざき ちよきち、1897年7… 外崎 千代吉(とのさき / とのざき ちよきち、1897年7月20日 - 1974年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。五所川原市長。 青森県北津軽郡五所川原村出身。日本大学政治経済学部に入るが、中退する。北海道に渡り、函館の床屋で修業し、理髪店を開業する。五所川原町議、青森県議、脇元村村長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で青森2区(当時)から無所属(翼協非推薦)で立候補したが、3,000票余りで落選した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙でも無所属で立候補したが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において青森2区から諸派の社会革新党で立候補して当選した。
加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30年)7… 加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30年)7月19日(※戸籍上は1898年(明治31年)1月17日) - 1985年(昭和60年)12月24日)は、日本の陶芸家、陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村(現・瀬戸市水北町)出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、1960年に永仁の壺事件で古瀬戸の大規模な贋作を行っていたことが発覚し、批判を受ける。事件後は公職を辞任し、作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出、陶壁は唐九郎による造語である。 一ム歳、一ム、野陶、ヤト、陶玄、玄などの号も用いる。 子息の岡部嶺男(長男)、加藤重高(三男)と孫の加藤高宏も同じく陶芸家である。
山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 198… 山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 1980年1月14日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナーである。日本のグラフィックデザインの黎明期における先駆者の一人で、大正期から昭和初期にかけてのモダンなアール・デコスタイルで知られ、資生堂の現在にもつづくキーデザイン、紀ノ国屋のロゴ、新潮文庫の葡萄マークのデザインで知られる。 1897年(明治30年)7月17日、広島県広島市に生まれる。 少年期から竹久夢二や北野恒富、オーブリー・ビアズリーに憧れ、模写に没頭する。旧制・和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)後、1916年(大正5年)、大阪へ出て、赤松麟作が主宰する「赤松麟作洋画研究所」第2期生となり、絵画を学ぶ。
古澤 平作(こさわ へいさく、1897年7月16日 - 19… 古澤 平作(こさわ へいさく、1897年7月16日 - 1968年10月5日)は、日本の医学者、精神科医。東北帝国大学助教授。 日本に精神分析の技法を導入し日本独自の精神分析学を開拓し、力動的な臨床精神医学の基礎をつくることに貢献した。アカデミズムの世界に精神分析学をはじめて導入したのは東北帝大教授であった丸井清泰(1886‐1953)であったとされるが、正統的精神分析療法を習得しこれを広めたのは,丸井の門下であった古沢平作であった。 神奈川県厚木生まれ。旧制第二高等学校、東北帝国大学医学部を卒業。この頃、白内障で二年間の闘病生活を強いられ、右目を失明する。同精神科の丸井清泰の下で助教授を務めたが、丸井と衝突し、1932年-33年にかけてウィーン精神分析研究所に留学、ジークムント・フロイトに学ぶとともに、ステルバ(R.Sterba)の教育分析とフェダーンの指導を受けた。
唐木田 藤五郎(からきだ とうごろう、1897年〈明治30年… 唐木田 藤五郎(からきだ とうごろう、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1968年〈昭和43年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 長野県更級郡屋代町(現千曲市)生まれ、小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)を経て、大正8年(1919年)上田蚕糸専門学校製糸科(現信州大学繊維学部)卒業。横浜の合名会社「茂木」に入社するが、経営難から退社し、翌年東華洋行を創業し、横浜港での国際貿易に当たったが、同12年(1923年)の関東大震災の打撃を受ける。同15年(1926年)日本蚕糸機械商会、昭和5年(1930年)日本ダイガスト、昭和8年(1933年)国光社出版部を創業するなど、京浜地方で多くの企業に関与した。
軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14… 軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1970年〈昭和45年〉10月16日)は日本の考古学者。山形県寒河江市出身。太平洋戦争以前に朝鮮半島に住んで古代百済の遺跡を研究し、敗戦により日本に戻ったあとは、日本大学で教鞭をとりつつ静岡県三島市に住み、伊豆地方の遺跡研究を行った。 1897年(明治30年)に、現在の山形県寒河江市である旧西村山郡醍醐村慈恩寺に生まれる。現在の静岡県伊豆市である旧田方郡修善寺町の修禅寺に来て仏門の修行に入る。以後「慈恩」と名乗る。 1925年(大正14年)に早稲田大学を卒業し、百済研究のため、日本統治時代の朝鮮半島に渡って現地の学校教員をしつつ、公州の三国時代の遺跡を発掘した。
菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月… 菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月14日 - 1980年(昭和55年)12月9日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 群馬県佐波郡茂呂村(現伊勢崎市)で生まれる。織物製造業、養蚕販売業を営む。 1923年、群馬共産党事件を契機に社会運動に加わり、日本労農党に加入し小作争議の指導を行う。全国農民組合茨城県連合会書記長、同会長、日本農民組合茨城県連合会執行委員長、社会大衆党茨城県連合会書記長などを務め、1936年、水海道町会議員となるが、1938年、人民戦線事件で検挙され、懲役3年・執行猶予5年の判決を受けた。 戦後、日本社会党に入党し、1947年4月の総選挙に茨城県第三区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務める。
青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年〈明治30年〉7月1… 青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1986年〈昭和61年〉5月31日)は、日本の内務官僚、政治家。愛知県知事(官選第39代、公選初代)、参議院議員(3期)。 群馬県前橋市に富樫竹次の五男として生まれる。青柳新米の養子となり、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て旧制第二高等学校へ進学。1922年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、横浜正金銀行に入行し、後安田銀行に移った。1926年、高等文官試験に合格。1927年、内務省に入省。北海道、大阪府、福岡県(部長・経済部長)、長野県などで勤務した。 1947年3月5日、愛知県知事の桑原幹根が初の公選愛知県知事選挙に立候補するために辞職。
住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉… 住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1975年〈昭和50年〉1月27日)は、日本の政治家。高崎市長(1955年 - 1971年)、高崎市議会議員、同議長。 高崎市田町の荒物問屋、住谷喜平の長男として生まれる。旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、慶応大学理財科に進むも中退し、1920年(大正9年)早稲田大学専門部法律科を卒業。少壮実業家として高崎セロファン工場を起業する傍ら、高崎中学の同窓であった井上房一郎や蠟山政道と高崎新人会を創設。1932年(昭和7年)に高崎市議会議員に当選し、翌1933年(昭和8年)に市議会議長に選ばれる。戦後は関東ロクロ会社を設立し社長に就任した。
岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月1… 岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月10日 - 1965年(昭和40年)10月10日)は、日本の政治家、外交官。内閣官房長官(第6代)、外務大臣(第72-74代)、衆議院議員(3期)。第二次世界大戦後、吉田茂によって推進された対米協調外交において重要な役割を担った人物。また陸上競技選手(中距離走・長距離走)としての経歴も持つ。 神奈川県横浜市生まれ。米屋を営む岡崎安之助の十男。23歳上の長兄に政治家で日米富士自転車を創業した岡崎久次郎がいる。 厚木中学(現神奈川県立厚木高等学校)、第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学経済学部を卒業。 カルカッタ総領事、外務省調査官、情報局情報官を経て外務省調査局長となる(1945年6月)。
堀込 義雄(ほりごめ よしお、1897年(明治30年)7月1… 堀込 義雄(ほりごめ よしお、1897年(明治30年)7月10日 - 1981年(昭和56年))は、日本の政治家。長野県小県郡神川村長、上田市長。 長野県小県郡神川村蒼久保(現上田市)で生まれた。1916年(大正5年)3月、旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)を卒業。1940年(昭和15年)南佐久郡大日向青年学校長、1944年(昭和19年)同郡北牧穂青年学校長、1945年(昭和20年)北佐久郡軽井沢青年学校長に就任。 1947年(昭和22年)4月、神川村長に当選し2期在任。菅平硫黄採掘反対運動の中心人物として、神川水系1市10ヶ村鉱毒対策委員長に推薦され、要求貫徹に全力を尽くした。1955年(昭和30年)4月、長野県議会議員に選出され1期在任。
宗前 清(そうまえ きよし、1897年(明治30年)7月10… 宗前 清(そうまえ きよし、1897年(明治30年)7月10日 - 1973年(昭和48年)12月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。弁護士。 鹿児島県大島郡知名村(現・知名町)出身。1918年鹿児島県立師範学校卒業。小学校訓導、高等女学校教諭を経て、明治大学専門部法律科に入り、1924年に卒業した。1926年、高等試験行政科試験、同司法科試験に合格し、内務省に入った。 警視庁巡査、同警視、芝高輪警察署長、警視庁消防課長、地方事務官、福岡県警防課長、和歌山県振興課長兼人事課長、同知事官房主事を歴任し、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)において鹿児島3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。
花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉… 花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉7月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、大正・昭和期の漫才師、俳優である。本名:藤木 徳郎。福井県勝山市出身。 生家は法沢寺という寺院であった。幼くして両親とともに大阪に移り住む。父は仏壇職人になった。移住後、アチャコは奉公に出るなどしていたが、遊芸に興味を持ち、1913年に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入って「東明幸四郎」と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の喜劇一座「鬼笑会」に入り、漫才に転向。このとき「花菱アチャコ」を名乗る。芸名のうち、亭号の「花菱」は、生家の家紋が由来である。
長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 196… 長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家。カトリック美術家として、おもにキリスト教黎明期の日本のキリシタンを題材にした日本画による宗教画制作に取り組むとともに、日本のフレスコ・モザイクのパイオニアとして旧国立競技場などの公共施設に多くの壁画作品を制作する。また、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三。 <暁星学校〜東京美術学校時代> <パリ・ヨーロッパ遊学時代> <チヴィタヴェッキア時代> <壁画集団「F・M」の時代> 長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。