小林 清周(こばやし せいしゅう、1909年9月25日 - … 小林 清周(こばやし せいしゅう、1909年9月25日 - 1994年)は、日本の建設官僚、建築生産・建築計画学者。建設省営繕局計画課長・技官、大阪工業大学工学部建築学科元教授、建築学教室担当。日本建築学会建築経済委員会専門委員、鴻池組取締役を歴任した。 専門は、建築生産・建築物維持管理、建築計画。 新潟県高田市(現・上越市)出身。1934年に東京工業大学建築学科を卒業後、海軍技師に。小林の就職時の逸話として「清水建設を30秒で落ち、 海軍省を30秒で合格」して海軍省に入った、というのがある。これは清水建設の面接の際に途中で社長が入ってきたときだれだかわからず、挨拶をしなかったところ、専務から「君は請負に向かない」と断られ、その話を海軍省の面接でするとその場で合格となったということからきている。
中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没… 中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没年不明)は、日本の林学者、造園学者。 京都大学、島根県立島根農科大学(現在の島根大学生物資源科学部)、信州大学、名城大学などで長く教育と研究にあたる。専門は防火樹に関する実験的研究であるが、別に観光レクリエーションと日本庭園史を手がけた。 1929年、第八高等学校文科乙類を卒業する。東京帝国大学法学部法律学科に進学するが、結核にかかり1935年に中途退学した。療養後の1942年9月から京都帝国大学に入学し、1945年、京都帝国大学農学部林学科を卒業した。同年より京都大学農学部助手(演習林、造園学教室)を経て1953年に京都大学講師となる。
岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 19… 岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 1959年2月22日)は、日本の演出家。美術史家の岡倉天心の甥。 新築地劇団、ぶどうの会と民衆芸術劇場(のち劇団民藝)と渡り、歌舞伎やオペラなどの演出にも携わった。 東京市本郷区丸山新町(現・文京区白山)出身。 立教大学在学中の1929年に発足した新築地劇団に参加する。演出は土方与志から指導を受けた。大学卒業後も引き続き劇団に在籍した。新築地劇団在籍中に『土』(長塚節作、1937年)や『綴方教室』(豊田正子作、1938年3月)を演出して評価を受ける。1940年8月に新築地劇団を退団するが、治安維持法違反で[要出典]検挙され、翌年保釈された。
鴨 良弼(かも よしすけ、1909年〈明治42年〉9月23日… 鴨 良弼(かも よしすけ、1909年〈明治42年〉9月23日 - 1994年〈平成6年〉5月4日)は、日本の法学者・裁判官・教育者。刑事訴訟法学者。東北大学名誉教授。東北大学法学部教授を経て、一橋大学法学部で刑事訴訟法講座の初代教授を務めた。 1909年、福島県石城郡湯本町生まれ。1929年、青山師範学校を卒業。卒業後は、東京の旧制尋常小学校に教員として勤務した。1940年、司法試験(旧制)合格。九州帝國大学法文学部に入学し、1941年に卒業。司法修習生(旧制)となる。 1942年、東京地方裁判所判事。1944年からは秋田地方裁判所判事。その後、仙台地方裁判所判事を経て、1952年東北大学法学部助教授に着任。
大谷 省三(おおたに せいぞう、1909年9月23日 - 1… 大谷 省三(おおたに せいぞう、1909年9月23日 - 1994年5月6日)は、日本の農業経済学者、東京農工大学名誉教授。子は大谷禎之介。 島根県出身。東京帝国大学卒。帝国農会などで日本農業の生産力構造などを研究。東京農工大学助教授。1951年、教授。1972年、退官、岐阜経済大学教授。マルクス主義農業経済学者で、1963年には農業問題研究会議の創設に加わる。日本農業経済学会会長。 1958年に大躍進政策が行われている中華人民共和国を訪問し、試験田で敷き詰められた稲の上に乗った経験から、毛沢東らが主導した「密植」の成果であると主張したが、当時の中国では他の場所で育てた苗を敷き詰めるなどの偽装が頻繁に行われていた(実際には「密植」は植物の生態を全く無視した疑似科学であり、これらの誤った農業指導が中華人民共和国大飢饉をもたらして大量の死者を出している)。
上尾 庄次郎(うえお しょうじろう、1909年9月20日 -… 上尾 庄次郎(うえお しょうじろう、1909年9月20日 - 1988年6月26日)は、日本の薬学者(天然物化学・植物塩基化学)。勲等は勲二等。学位は薬学博士(東京帝国大学・1937年)。京都大学名誉教授、静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 東京帝国大学医学部講師、京都帝国大学医学部助教授、大阪大学医学部教授、大阪大学薬学部教授、大阪大学薬学部学部長、京都大学薬学部教授、京都大学薬学部学部長、社団法人日本薬学会会頭(第36代)、武庫川女子大学薬学部教授、静岡薬科大学学長(第4代)などを歴任した。 天然物化学や植物塩基化学を専攻する薬学者である。ヒガンバナの有毒成分の研究で知られており、リコリンをはじめとするアルカロイドの構造を解明するなど、ヒガンバナ科植物塩基に関する研究では世界をリードした。
大ノ濵 勝治(おおのはま かつじ、1909年9月20日 - … 大ノ濵 勝治(おおのはま かつじ、1909年9月20日 - 1979年1月1日)は、現在の千葉県銚子市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は若山 勝治。167cm、107kg。最高位は東前頭4枚目。 1927年1月初土俵、1932年1月十両昇進、1932年2月新入幕(春秋園事件の余波)したが、1933年5月に廃業した。もろ差しからの速攻を磨き、幕下時代には6戦全勝の優勝同点も記録した。春秋園事件の影響で幕内に上がったが、地力が伴わず4場所とも勝ち越せなかった。廃業後は千葉県内で鮮魚店を営み、巡業の勧進元を務めた。
本野 亨一(もとの こういち、1909年9月19日 - 19… 本野 亨一(もとの こういち、1909年9月19日 - 1993年5月28日)は、日本のドイツ文学者である 東京出身。1934年京都帝国大学文学部独文科卒。立命館大学教授を退職後は、1976年から1980年まで甲南女子大学教授。フランツ・カフカを専攻し、最初に作品を訳・刊行した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
河崎 一郎(かわさき いちろう、1909年9月19日 - 2… 河崎 一郎(かわさき いちろう、1909年9月19日 - 2004年8月13日)は、日本の外交官。駐アルゼンチン特命全権大使在任中、日本人は身体的魅力に乏しいと主張する書籍を出版したことが問題となり、外務大臣により事実上解任された。 大阪生まれ。1929年(昭和4年)に大阪高等学校文科甲類を卒業後、1932年(昭和7年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1939年在(昭和9年)サンフランシスコ副領事。1941年(昭和16年)在バンクーバー領事、日本赤十字社バンクーバー特別委員長。1942年(昭和17年)在ソビエト連邦大使館二等書記官。 1951年(昭和26年)賠償庁特殊財産部長、賠償庁次長心得。
平岡 敏男(ひらおか としお、1909年(明治42年)9月1… 平岡 敏男(ひらおか としお、1909年(明治42年)9月18日 - 1986年(昭和61年)8月6日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 毎日新聞社社長(1976年2月 - 1980年12月)。 北海道旭川市出身(留萌市生まれ)。弘前高等学校では新聞部に所属し、一期下の太宰治とも親交があった。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、東京日日新聞社(後の毎日新聞東京本社)に入社。経済部記者、東京本社経済部長、論説委員、ロンドン支局長などを経て、1963年取締役。1966年西部本社代表、1968年常務。 1976年2月、巨額の負債を抱え、経営危機に瀕していた毎日新聞社の社長に就任。永野重雄に救済を仰ぎ、翌年「新旧分離方式」の経営再建の方針を固め、登記上の本社で発行部門を担当していた大阪本社を、負債の整理・清算に専念させ(「株式会社毎日(旧社)」)、東京本社(編集部門)と経営を一本化させる形で、新たに東京に新会社「毎日新聞株式会社(新社)」を設立した。
鈴鹿 俊子(すずか としこ、1909年9月18日 - 200… 鈴鹿 俊子(すずか としこ、1909年9月18日 - 2008年2月20日)は、日本の歌人・随筆家。川田順の後妻。本名・川田俊子。 京都生まれ。同志社女子専門学校(のち同志社女子大学)中退。17歳のとき、家に下宿していた京都帝国大学経済学部教授の中川与之助と結婚、3子をもうける。中川は苦学から身を起こして帝大教授となった人物であったが、結婚生活は幸せなものではなかった。 1942年、吉沢義則主宰の歌誌「ハハキギ」に入会。1944年、島文次郎の妻で教師の楳乃が自宅で開いていた古典講義会で歌人の川田順に出会い、師事して頻繁に出入りするようになるうちにやがて恋へと発展した。一方、夫の中川は敗戦後の公職追放で帝大を辞職させられていた。
土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年… 土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年)9月17日 – 1933年(昭和8年)9月9日)は、戦前日本のエスペランティスト。詩人土井晩翠の長男。第二高等学校在学中からエスペラント運動に取り組み、特にドイツの小学校長ヨハネス・シュレーダーと親交した。東北帝国大学入学後、ハンセン病患者救済のため寄附金付切手の導入を働きかけたが、在学中に病没した。 1909年(明治42年)9月17日、土井晩翠・八枝夫妻の長男として生まれた。片平丁尋常小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)在学中に教師に飛び級を勧められ、5年次修了後に宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)に入学した。1年生の夏期休暇には原釜海水浴場で鰹漁船まで泳いだり、蔵王に登山するなど健康だったが、4年生の秋に発火演習で無理をしてから体調を崩した。
原田 鋼(はらだ こう、1909年9月17日 - 1992年… 原田 鋼(はらだ こう、1909年9月17日 - 1992年7月17日)は、日本の政治学者。元中央大学学長。専門は、政治学。特に、政治思想史・政治哲学・政治権力。後年、法哲学も研究した。政治学分野から初めての文化功労者である。 中国大連生まれ。栃木県大田原市で育つ。1936年、早稲田大学政治経済学部卒業。1941年から1945年にかけて、早稲田大学政治経済学部非常勤講師。1942年11月、法学博士(東京帝國大學)(学位論文「法治国家論」)。 1948年、中央工学専門学校専任講師。1949年、中央大学法学部教授。政治学原論・政治史・法哲学を担当。1965年、中央大学評議員( - 1973年)。1969年、中央大学学長。
前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月1… 前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月17日 - 1993年〈平成5年〉4月16日)は、日本の社会運動家。市民運動関係者からは「前田のじいさん」と呼ばれた。 福岡県鞍手郡宮田村(現・宮若市)出身。1917年に父が他界したため、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・行橋市延永)に移り、延永小学校に転校。1926年、福岡県立豊津中学校を卒業して、東京方面へ行く。 労働組合運動に関わり、1931年、日本共産党に入党する。関西地区のオルグを担当する。1932年、治安維持法・陸軍刑法違反で検挙される。懲役7年の実刑判決を受け、福岡刑務所に下獄。1940年に保安処分となり門司市に移り住むが、再度治安維持法違反で起訴され、禁固10ヶ月の判決を受ける。
片山 豊(かたやま ゆたか、1909年(明治42年)9月15… 片山 豊(かたやま ゆたか、1909年(明治42年)9月15日 - 2015年(平成27年)2月19日)は、日本の企業家である。 米国日産の初代社長を務め、1970年代に「ダットサン」ブランドで日産車を販売し、アメリカ国内での日本車トップに押し上げた。長男は元サッカー選手で1968年メキシコシティーオリンピック銅メダリストの片山洋。 静岡県周智郡気多村(現・浜松市天竜区春野町気田)で生まれる。日産自動車創業者の鮎川義介の親戚にあたる。 現在の鎌倉市立第一小学校から旧制中学校の神奈川県立湘南中学校、慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業後、1935年(昭和10年)に日産自動車へ入社。 当初は設計部門の配属を希望していた。
前田 武男(まえだ たけお、1909年9月15日 - 197… 前田 武男(まえだ たけお、1909年9月15日 - 1977年5月21日)は、日本の実業家。キヤノン2代目社長を務めた。 気を見るに敏にして積極果断で、難局に当っては慎重に事を進める。私生活ではユーモアに理解があり、囲碁とゴルフを趣味とした。 1909年9月15日:山梨県都留市に生まれる。 1930年3月:早稲田大学政治経済学科卒業。その後山一証券勤務を経て、1934年5月キヤノン株式会社の前身である精機光学研究所に移った。 1937年8月10日:精機光学研究所を基盤とする新会社:精機光学工業株式会社設立に合わせ、同社営業部長に就任。 1946年8月:同社取締役に就任。 1947年9月:同社がキヤノンカメラ株式会社に改名。
山西 きよ(やまにし きよ、1909年〈明治42年〉9月15… 山西 きよ(やまにし きよ、1909年〈明治42年〉9月15日 – 1996年〈平成8年〉1月7日)は日本の政治家。茨城県小川町(現・小美玉市)長(1期)。航空自衛隊百里基地建設反対運動(百里基地訴訟)の先頭に立った。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)に生まれ、茨城県鹿島郡中野村(現・鹿嶋市)に移る。小川町の肥料商山西家に嫁ぎ、町のPTA連合会や婦人会の役員を務める。 1956年(昭和31年)に防衛庁(現・防衛省)は小川町百里に航空自衛隊の基地を設置することを計画した。これに対し、小川町の基地設置反対派は基地反対期成同盟や愛町同志会を結成し、山西は愛町同志会婦人部長になり、反対闘争に加わった。
井上 究一郎(いのうえ きゅういちろう、1909年9月14日… 井上 究一郎(いのうえ きゅういちろう、1909年9月14日 - 1999年1月23日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、エッセイスト。東京大学名誉教授。本名・九一郎。マルセル・プルースト研究の第一人者であり、『失われた時を求めて』の個人全訳で知られる。 大阪府出身。東京帝国大学フランス文学科卒業。1949年、東京大学教養学部助教授。1953年、フランス渡航中の森有正が辞表を出したため、その代わりとして文学部仏文科助教授、61年教授。70年定年退官後は武蔵大学教授。1999年1月23日に心肺不全のため、89歳で死去した。娘の金沢公子もフランス文学者で、その子(井上の孫)金沢英之は、国文学者である。
平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1… 平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1977年3月7日)は、日本の外交官。NHK解説委員。 香川県丸亀市生まれ。平沢家は岩手県和賀郡西和賀町沢内の旧家で、父の代に転居した。1930(昭和5)年3月に第一高等学校(一高)を卒業し、1934(昭和9)年に文官高等試験外交科試験に合格。1935(昭和10)年3月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。翌月、外務省に入省し、書記生となる。1936(昭和11)年7月にベイツ大学を卒業し、1938(昭和13)年4月まで外交官補として在米大使館に勤務。斎藤博アメリカ合衆国駐箚日本国特命全権大使在任中に大使秘書官を務める。 1938年4月、バンクーバーから一時帰国のために横浜港に向かう氷川丸に乗船した際、偶然にもIOC委員で、エジプト・カイロでのIOC総会から帰国の途にあった嘉納治五郎と出会い、交友を深めた。
中田 弘二(なかた こうじ、1909年9月14日 - 没年不… 中田 弘二(なかた こうじ、1909年9月14日 - 没年不詳)は、俳優、政治家である。本名は中田 博二(なかた ひろじ)。 1909年(明治42年)9月14日、長崎県長崎市瀬ノ脇町(現在の同市飽の浦町)に生まれる。父中田猪十郎(生年不詳 - 1914年)は貿易商・土木労力請負業を経営する傍ら、国家主義者頭山満の政治結社玄洋社に入社し、孫文(1866年 - 1925年)の第三革命にも参加していた。 朝日尋常小学校(現在の長崎市立朝日小学校)から長崎県立瓊浦中学(現在は廃校)を経て、1930年(昭和5年)、日本大学専門部芸術科を卒業。卒業後、直ちに野戦銃砲第6聯隊に幹部候補生として入隊。除隊した1932年(昭和7年)10月、スカウトされて日活太秦撮影所に入社。
鈴木 雄二(すずき ゆうじ、1909年9月12日 - 没年不… 鈴木 雄二(すずき ゆうじ、1909年9月12日 - 没年不明)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 東京市芝区神谷町(現・東京都港区虎ノ門)出身。上智大学で学ぶ。小田原水産興業(株)に入り、同社員となり、取締役となる。相海漁業経営組合、神奈川県水産業会各理事、相洋水産化学研究所理事長、青年民主政治研究会顧問、(株)小田原魚市場社長を歴任する。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で神奈川県から諸派で立候補したが落選。1947年の第23回衆議院議員総選挙において神奈川3区から日本社会党公認で立候補して当選。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。
鈴木 良一(すずき りょういち、1909年9月12日 - 2… 鈴木 良一(すずき りょういち、1909年9月12日 - 2001年4月3日)は、日本の歴史学者。専攻は中世史。土一揆・国一揆の研究で先駆的業績をあげる。その後に有力説となった戦国時代の明応の政変始期説を提唱する。 京都府生まれ、神奈川県出身。1930年第三高等学校文科乙類卒業、1933年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「中世に於ける農民の統制(特に社寺を中心として)」。愛知県女子師範学校(現・愛知教育大学)、愛知県半田中学校で教諭。戦後は神奈川県で高校教師となる。のち平塚市史編さん協議会委員長。
益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月1… 益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月11日 - 1993年12月1日)は、日本の俳優。昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。
雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明… 雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明治42年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉8月25日)は、日本の皇族。秩父宮雍仁親王の妃。旧名は松平節子(まつだいら せつこ)。身位は親王妃。お印は菊(きく)。 旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。 父の任地イギリスのロンドンで生まれる。生後数か月で帰国し、その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごす。1925年(大正14年)に渡米し、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)で学び卒業。いわゆる帰国子女で、英語に堪能なだけでなく、外国人を前にした英語のスピーチはお手のものだったという。
小川 半次(おがわ はんじ、1909年9月9日 - 1994… 小川 半次(おがわ はんじ、1909年9月9日 - 1994年12月26日)は日本の政治家。衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。 京都予備学校(のちの京都商業)を経て、1932年、立命館大学法学部卒業。京都市議会議員(1936-1939年の3期)、京都府議会議員(左京区選出、1940年より1期)を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党より出馬し初当選。以後衆議院(京都1区)10回、参議院(京都府選挙区)1回当選。改進党、日本民主党を経て保守合同で自由民主党に参加。所属派閥は岸派→福田派。 厚生大臣秘書官、衆議院予算委員長・文化委員長、自民党副幹事長、全国組織委員長、中央政治大学院学長、国民運動本部長、参議院予算委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長などを歴任。
八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 198… 八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 1986年12月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(9期)。 現在の福島県会津若松市出身。父は陸軍省参与官などを務めた八田宗吉。会津中学を経て1933年に日本医科大学を卒業後、東京市衛生試験所医学部長、厚生省国立衛生試験所細菌部長、日本医科大学教授を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙に自由党公認で福島2区から立候補し初当選。以後通算当選9回。恩給問題に詳しく、予算編成では党の実力者として恩給予算の適正化に尽力した。 自由民主党では池田→前尾→大平派に所属し、1962年には第2次池田内閣第2次改造内閣において内閣官房副長官を務めるなどしたが、1963年に同一選挙区から初当選した伊東正義が大平正芳の古くからの親友であったため、以降伊東に地盤を切り崩されるようになる。
片桐 典徳(かたぎり つねのり、1909年9月8日 - 19… 片桐 典徳(かたぎり つねのり、1909年9月8日 - 1991年9月21日)は、日本の実業家、鉄道実業家。京浜急行電鉄代表取締役社長、会長など重職を歴任。中興の祖と言われる。 長野県下伊那郡神稲村(現豊丘村)生まれ、旧制飯田商業学校(長野県飯田長姫高等学校)を経て、1930年昭和鉄道学校高等科卒業、湘南電気鉄道入社、駅務係として勤務しながら旧制横濱専門学校高等商業科(現:神奈川大学)1934年卒業。大東急解体後、京浜急行電鉄1955年総務部長、1975年5月27日から1981年6月25日まで社長。1975年からエヌケービー代表取締役社長。1980年12月に横浜新都市センターが設立されると同社社長に就任。
位野木 寿一(いのき(いのぎ) かずいち、1909年(明治4… 位野木 寿一(いのき(いのぎ) かずいち、1909年(明治42年)9月8日 - 2006年(平成18年)7月16日)は、日本の地理学者。学位は、理学博士(東京教育大学)。大阪教育大学名誉教授。 香川県生まれ。1935年東京文理科大学地理学科卒、1935年静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)教諭、1936年大阪府天王寺師範学校教諭、1949年大阪学芸大学助教授、校名変更で大阪教育大学教授、1966年附属図書館長、1975年定年退官、名誉教授。1961年「戦後における戦災衛星都市堺の変貌」で、理学博士(東京教育大学)。 2006年7月16日、心不全のため死去。
出雲 八重子(いずも やえこ、1909年9月8日 - 没年不… 出雲 八重子(いずも やえこ、1909年9月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名は泉 ヤエ(いずみ やえ)。別名に出雲 八枝子、出雲 八恵子がある。 1909年(明治42年)9月8日、青森県八戸町(現八戸市)に生まれる(原籍地は鹿児島県鹿児島市新照院町九八)。実科高等女学校卒業後、エリアナ・パヴロワのもとでダンスを習う。 1930年(昭和5年)5月、松竹蒲田撮影所に入社、五所平之助監督の『微笑む人生』で映画デビューする。1932年(昭和7年)に斎藤寅次郎監督の『女は寝て待て』で主演の小倉繁の相手役に抜擢され、以来、剽軽で愛敬のある顔が買われて、斎藤監督の短編喜劇映画に重用された。『腰の抜けた女』では主役を務め、キネマ旬報ベストテンに第7位でランキングされた『この子捨てざれば』では女房役を好演、短編喜劇の三枚目女優として活躍した。
平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 198… 平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 1989年10月26日)は、日本の経営者。富士写真フイルム(現在の富士フイルム)社長を務めた。 大分県中津市出身。1933年に関西学院高等商学部を卒業し、1934年に富士写真フイルムに入社。1954年に取締役に就任し、1964年に常務、1969年6月に専務を経て、1971年6月に社長に就任。1980年5月に会長に就任。 1974年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年10月26日、呼吸不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金丸 吉生(かなまる よしお、1909年 <明治42年> 9… 金丸 吉生(かなまる よしお、1909年 <明治42年> 9月6日 - 1995年 <平成7年> 9月20日)は、日本の経営者、銀行家。百五銀行頭取を務めた。位階は正五位。 三重県鈴鹿市出身。1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1940年に百五銀行に入行。1955年10月に取締役に就任し、1957年10月に常務、1963年10月に専務を経て、1969年5月に副頭取に就任し、1977年11月に頭取に昇格。1991年6月に会長に就任。1987年6月から1995年6月までに近畿日本鉄道取締役を務めた。 1980年11月に勲五等瑞宝章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年9月20日心筋梗塞のために死去。
中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 200… 中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 2004年)は、日本の映画監督、脚本家である。伊世 亜夫の筆名も持つ。 1909年(明治41年)9月5日、大阪府に生まれる。 1926年(大正15年)、旧制・大阪府立今宮職工学校(現在の大阪府立今宮工科高等学校)を卒業、1930年(昭和5年)、新興キネマ演出部に入社した。1934年(昭和9年)、田坂具隆監督の『月よりの使者』に助監督としてついた後に、脚本部に異動した。1939年(昭和14年)、須山真砂樹監督の『泣き笑ひの天国』で脚本家としてデビューした。 その後、読売新聞社映画部、日本映画社に移籍し、ドキュメンタリー映画の製作に携わる。1940年(昭和15年)、『オモチャの科学』で監督としてデビューした。
大谷 日出夫(おおたに ひでお、1909年9月4日 - 19… 大谷 日出夫(おおたに ひでお、1909年9月4日 - 1971年)は、日本の俳優である。サイレント映画末期の主演俳優で、トーキー以降、とくに第二次世界大戦後は脇に回った。本名鈴木 盛夫(すずき もりお)。 1909年(明治42年)9月4日、福島県、現在の郡山市に生まれる。安積中学を卒業後、一時期鉄道工場に勤務する。 1932年に日活太秦撮影所に入社し、1933年(昭和8年)2月1日、東京・浅草公園六区の富士館等で公開された、辻吉朗監督、湊邦三原作のサイレント映画『霧行燈』に主演して、満23歳で映画界にデビューした。 1934年(昭和9年)、新興キネマの発足に参加、多くの映画に主演した。1942年(昭和17年)の戦時統制による同社の大映(現在の角川映画)への合併後は、出演作の記録がない。
時実 利彦(ときざね としひこ、1909年9月4日 - 19… 時実 利彦(ときざね としひこ、1909年9月4日 - 1973年8月3日)は、日本の生理学者。東京大学名誉教授。専門は大脳生理学。医学博士。岡山県和気郡備前町(現備前市)生まれ。その名前を冠した時実利彦記念賞もある。 時実は、実験脳生理学の手法を日本に導入、大脳皮質の活動水準を調節し行動に至る神経活動を電気生理学的に体系づけた。 大学の恩師に橋田邦彦がいる。また数学者の岡潔と親交があり、岡の晩年は時実よりも岡の方が大脳生理学の師に近い関係であった。
江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4… 江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4日 - 1944年(昭和19年)6月15日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。五二一空陸上爆撃機搭乗員として参加したあ号作戦で戦死した。最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)9月4日、広島県芦品郡有磨村下有地(現・福山市芦田町)に農家の九右衛門とキタの三男として生まれる。江草家は旧家で代々地主である。江草姓は、同地方の戦国時代の豪族などに見られ、広島と岡山の県境に多く見られる。 1925年(大正14年)、海軍兵学校と陸軍士官学校の両方を合格。江草は海兵に行く気だったが、入校直前の身体検査で結核と誤診されて海兵57期には入校できなかった。
池田 遊子(いけだ ゆうし、本名:保夫、1909年9月3日 … 池田 遊子(いけだ ゆうし、本名:保夫、1909年9月3日 - 2006年4月9日)は日本の彫刻家。仏像の制作を中心に制作活動を行う。その傍らアバンギャルドな作品も多数制作。1950年代には大阪市立美術館の三階屋根裏部屋を仕事場とし、次々と意欲的な作品を生み出した。
鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 199… 鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 1995年10月2日)は、日本の国会職員、日本の法学者。第4代衆議院法制局長。衆議院法制局退官後は、城西大学と近畿大学の教授を務めながら商法を研究。位階は正三位。 鹿児島県日置郡東市来村長里(現・日置市東市来町長里)にて生まれ、1922年3月鶴丸尋常小学校卒業。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学し、2年次から修了まで首席。1926年に同中を4年修了して、第七高等学校造士館 (旧制)へ進学し同校文科でも首位の成績。1930年3月第七高等学校造士館文科卒業。同年東京帝国大学法学部法律学科に入学、1933年、同学科を卒業。 1932年の高等試験司法科に合格し、1933年大学卒業後函館地方裁判所司法官補に任じられ、1934年12月より判事(東京地方裁判所、水戸地方裁判所)。
小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2… 小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2日 - 1945年(昭和20年)1月24日)は、日本の能楽研究者。研究のみならず能評、さらに新作能の創作など才気にあふれた活動で将来を嘱望されたが、第二次世界大戦で戦死した。 東京世田谷の生まれ。1932年(昭和7年)、早稲田大学文学部国文学科卒業。卒業論文は能作者・観世信光について研究した「観世小次郎信光事蹟考」。これら能作者の研究は後に、代表作『謡曲作者の研究』(1942年(昭和17年))に結実することとなる。大学卒業後から読売新聞・国民新聞などに能評を掲載する一方、大学院在学中の1933年(昭和8年)には『能楽史料・第一輯』を刊行。
石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日… 石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日 - 1943年〈昭和18年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家、千葉県多額納税者。計器製作業、合資会社石橋計器製作所代表社員。 千葉県香取郡本大須賀村久井崎(のち昭栄村、大栄町、現成田市)出身。石橋敬五郎の長男。石橋計器を創立、自動車関係メーターの製作に従事する。 本大須賀教育会長、村会議員、郡農副会長、県山林会評議員、郡産業組合共同処理所管理組合長、郡家禽購買販売利用組合長、東京市葛飾産業報国連合会理事、千葉木材工業社長、石橋計器製作所長、北総自動車合同、成鉄タクシー、常総合同運輸各取締役をつとめる。 その他、1935年〈昭和10年〉3月、千葉県立中央図書館落成記念として、父敬五郎蒐集の漢籍類1,041冊を寄贈したことでも知られる。
岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月… 岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月1日 - 1982年(昭和57年)6月23日)は、日本の実業家、政治家。山形屋会長、貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市で、実業家・岩元善蔵(岩元信兵衛弟)の三男として生まれ、伯父・信兵衛の養嗣子となり、山形屋の6代目を継承した。第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1934年(昭和9年)慶應義塾大学法学部を卒業した。その後、東京銀座の松屋に入社し、デパート経営を経験した。 1935年(昭和10年)山形屋の取締役に就任し、1943年(昭和18年)会長となる。その他、田辺鉄工所監査役、新生工業副社長、日本瓦斯取締役、小牧組取締役などを務めた。
中村 佳永子(なかむら かえこ、1909年(明治42年)9月… 中村 佳永子(なかむら かえこ、1909年(明治42年)9月1日 - 1987年(昭和62年))は、日本のピアニスト。元徳島文理大学音楽学部教授。 神戸絢、井口秋子に師事し、1931年(昭和6年)に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)甲種師範科を卒業。卒業の際、二条厚基賞を受賞。 音楽学校卒業後は徳島女子短期大学部音楽科(現:徳島文理大学短期大学部音楽科)の講師となり、後に徳島女子大学音楽学部(現:徳島文理大学音楽学部)の教授に就任する。 第二次世界大戦後の徳島県内のピアノ教育に尽力し、東京芸術大学・桐朋学園大学・神戸女学院大学・大阪音楽大学などの大学にピアニストを輩出した。また門下生に相愛大学名誉教授の片岡みどりなどがいる。
エドガートン・ハーバート・ノーマン (英語: Edgerto… エドガートン・ハーバート・ノーマン (英語: Edgerton Herbert Norman 、1909年9月1日 - 1957年4月4日)は、カナダの外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。終戦直後に、日本通であるため、GHQにも影響を与えた。1956年に在エジプト・カナダ大使として、カイロに赴任し、スエズ動乱における国際連合緊急軍の派遣を成功に導くことに尽力し、和平に貢献した。ソ連のスパイの疑いをかけられ自殺した。 1909年、在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として現在の長野県軽井沢町で生まれた。父ダニエル(1864年 - 1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くしたが、ハーバート自身はシェリー酒を嗜みながら雑誌を読むタイプだった。
水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 19… 水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 1978年2月25日)は、日本のジャズボーカリスト。鹿児島県出身。本名は永田喜子。立教高等女学校卒業。トニー相良名義でも活動していた。 日本のジャズ草創期を代表する女性ボーカリスト。また自らも歌手として活動する一方で、1957年には「水島早苗ボーカル研究所」を設立して後進の育成にも取り組み、弟子にはマーサ三宅、金子晴美、佐良直美、前野曜子、伊集加代らがいる。 死後の1985年には、ジャズ専門紙『ジャズワールド』が水島の功績を称える意味で「水島早苗ジャズヴォーカル賞」(現在の日本ジャズヴォーカル賞)を創立するなど、その功績は高く評価されている。
見砂 直照(みさご ただあき、1909年8月30日 - 19… 見砂 直照(みさご ただあき、1909年8月30日 - 1990年6月20日)は、日本のジャズミュージシャン、バンドマスター。石川県金沢市出身。自身のバンド「見砂直照と東京キューバン・ボーイズ」を率いた。 父は追分節の名手である見砂東楽、息子は2005年に再結成した東京キューバン・ボーイズのリーダー・見砂和照(みさご かずあき)。また、娘が岩佐徹(フジテレビ・WOWOWの元アナウンサー)と結婚したことから、岩佐にとっては義父に当たる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
細谷 俊夫(ほそや としお、1909年〈明治42年〉8月29… 細谷 俊夫(ほそや としお、1909年〈明治42年〉8月29日 - 2005年〈平成17年〉5月16日)は、日本の教育学者。 東京府北多摩郡清瀬村生まれ。旧制東京府立第六中学校、旧制浦和高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部教育学科を卒業。尋常小学校の訓導を経て、1946年岡崎高等師範学校教授、名古屋大学教育学部の創設に参加、1949年名大教授。1952年東大教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授、立教大学教授。白梅学園短期大学学長。産業技術教育を研究、日本産業教育学会理事長。1937年には教育科学研究会技術教育研究部会に参加した。 妻は入沢宗寿(教育学者)の長女。長女はコロンビア大学C・V・スター東アジア図書館司書で、牧野成一(言語学者、プリンストン大学名誉教授)の妻。
太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 19… 太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 1996年11月15日)は、昭和・平成期の歌人、漢文学者、法政大学名誉教授。専門は中国詩学。文学博士。歌誌『潮音』主宰。妻(後妻)は歌人の太田絢子。青丘の娘は京都大学国語国文科卒の木村雅子(生母は満喜子)で『潮音』現主宰。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)生まれ。本名・兵三郎(ひょうざぶろう)。太田水穂の兄・嘉曾次の三男で、父の没後に水穂・四賀光子夫妻の養子となる。当初は漢詩の創作から始まり、1928年(昭和3年)水穂の歌誌『潮音』に入会。旧制武蔵高等学校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部中国文学科卒。東大大学院をへて文部省国民精神文化研究所所員。
藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979… 藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979年10月23日)は、東京市出身の俳優、元ラグビー選手。日本代表・キャップは1。
大西 芳雄(おおにし よしお、1909年(明治42年)8月2… 大西 芳雄(おおにし よしお、1909年(明治42年)8月28日 - 1975年(昭和50年)3月4日)は、日本の憲法学者。京都帝国大学法学部教授・立命館大学教授を経て、立命館大学名誉教授。妻は藤井行徳の娘。 京大憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事。1940年から1947年まで京都大学の憲法学講座を担当した(40年から43年までは黒田覚と分担。帝国憲法第一章、同第二章を黒田覚が担当。大西芳雄の担当は第三章以下。)。戦後、同僚の教授が大西の著作を地方軍政部に投書したことが端緒となり、戦中の著作である『国家と法律学』の記述内容を問題視され、国家主義者として佐伯千仭と共に教職追放処分を受ける。
田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 200… 田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 2002年4月17日)は、日本の国文学者・国語学者・教育者。学位は、文学博士(國學院大学・1961年)。國學院大学名誉教授、元国学院女子短期大学初代学長。三重県亀山市生まれ。東京都育ち。田邊正男とも表記される。 国語学者として中学校・高等学校の多くの国語教科書・古文教科書・指導要領の策定に関わった この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
大久保 忠利(おおくぼ ただとし、1909年8月28日 - … 大久保 忠利(おおくぼ ただとし、1909年8月28日 - 1990年6月1日)は、日本の言語学者・国語学者・文筆家。 神奈川県小田原市生まれ。1929年東京外国語学校卒。新聞記者、ユーモア作家、中学教師などを経て、東京都立大学教授。言語学、国語学、国語教育などについて多くの著述活動をした。