丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(18… 丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(1868年2月20日) - 昭和8年(1933年)7月18日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。親戚は衆議院議員 大滝伝十郎、貴族院議員 大竹貫一。 越後国頸城郡武士村(現在の新潟県上越市)出身。慶應義塾に入学するが、徴兵により歩兵第16連隊に配属された。除隊後も日清戦争の際には補充員召集により従軍した。 その後、菅原村長、中頸城郡会議員、同参事会員を歴任した。また「高田日報」を創刊し、社長に就任した。 1912年、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。
内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年… 内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年1月25日)- 1965年(昭和40年)10月4日 )は、日本の裁判官、海軍法務官、政治家。最終階級は海軍法務中将。貴族院議員。旧姓は平井。山口県出身 長門国豊浦郡、のちの山口県豊浦郡内日村(現下関市 )で、清末藩士・平井貢蔵の二男として生まれ、1892年(明治25年)11月、下関市清末の内田護の養子となった。 関西法律学校(後の関西大学)、和仏法律学校(後の法政大学)卒業後、1890年(明治23年)12月、文官高等試験に合格。1891年(明治24年)1月、司法官試補に任官し千葉地方裁判所詰となる。以後、千葉区裁判所検事、弘前区裁判所判事、栃木区裁判所判事、前橋区裁判所判事を歴任。
岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年… 岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。 田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、齋藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。 総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。
丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(… 丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(1868年2月14日) - 昭和19年(1944年)2月5日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→政友本党)、弁護士。 越後国魚沼郡馬場村(現在の新潟県十日町市)出身。1887年(明治20年)に第一高等中学校に入学し、1891年(明治24年)に卒業。同年、東京帝国大学法科大学に入学し、1894年(明治27年)に卒業した。卒業後は弁護士事務所を新潟市に開いた。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、第6回、第9回、第13回、第14回の計5回当選を果たした(第9回は補欠当選)。 その他、新潟商業会議所特別会員、新潟県弁護士会長、新潟県競馬倶楽部会長を務めた。
森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月… 森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月11日〉 - 1924年〈大正13年〉1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。前名は平吉。 上野国山田郡桐生本町(現・群馬県桐生市本町)に、町会議員を務めた森卯平の子として生まれる。先代の長次郞の養子となり、1878年(明治11年)12月、家督を相続する。桐生学校、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。 1890年(明治23年)陸軍士官学校第1期卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科21番/103名で卒業している。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1894年(明治27年)中尉となり日清戦争に従軍。
狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月… 狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1947年(昭和22年)12月13日)は、日本の中国学者。中国文学、中国哲学、敦煌学に業績を残す。京都帝国大学名誉教授。字は子温、号に君山、半農人がある。内藤湖南・桑原隲蔵と並ぶ京都学派東洋史学の創始者の一人。肥後国(現:熊本県)生まれ。 1868年(明治元年)狩野直恒の三男として熊本市京町に生まれる。竹馬の友に中国文学者の古城貞吉がいる。1879年(明治12年)、創設まもない同心学舎に入学し、明治17年に後身の済々黌を卒業。その後上京し、共立学校で英語・数学を学んだのち、大学予備門に入り1892年(明治25年)に卒業。東京帝国大学文科大学漢学科に入学。
樋口 典常(ひぐち のりつね、慶応4年1月18日(1868年… 樋口 典常(ひぐち のりつね、慶応4年1月18日(1868年2月11日) - 昭和21年(1946年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、鉄道政務次官。 筑後国八女郡長峰村(現在の福岡県八女市)出身。1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)法律科を卒業。福岡県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、台湾総督府評議会員、台湾農林株式会社社長、台湾製塩株式会社取締役を務めた。 1923年(大正12年)、衆議院補欠選挙に当選。第17回衆議院議員総選挙と第18回衆議院議員総選挙で再選され、その間に岡田内閣で鉄道政務次官を務めた。
阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4… 阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1937年(昭和12年)5月12日)は、日本の実業家、政治家。族籍は滋賀県平民。 近江国彦根(滋賀県彦根市)出身。辻兼三の長男。阿部家の養子となり、1896年(明治29年)に分家して一家を創立する。 1892年(明治25年)、慶應義塾正科を卒業。 1894年(明治27年)、近江銀行、1900年(明治33年)、近江精油取締役、1901年(明治34年)、阿部製紙(王子製紙の前身のひとつ)専務、1904年(明治37年)経営不振の金巾製織に専務として入り、再建に尽力する。その後金巾製織は1906年(明治39年)に大阪紡績と、1914年(大正3年)に三重紡績と合併して東洋紡績が発足、山辺丈夫社長の下で専務となった。
安藤 新太郎(あんどう しんたろう、1868年2月9日(慶応… 安藤 新太郎(あんどう しんたろう、1868年2月9日(慶応4年1月16日) - 1919年(大正8年)2月13日)は、日本の政治家、実業家。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡大久保村(大久保町を経て現明石市大久保町)出身。明治法律学校卒業。 庄屋橋本家から大久保宿本陣を務めた安藤家に養子入りし、当主となる。 1903年(明治36年)、衆議院議員に初当選した後、連続4期務め、第16回列国議会同盟会議などに参加した。 1905年に創設された辰馬本家汽船部に、辰馬本家と共に資金を出仕し取締役として経営に参画、1917年に辰馬本家酒造が創設された際には監査役を務めるなど、同族経営の辰馬財閥に於いて重きをなした。
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) … 堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。 慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。 同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった。
田中 銀次郎(たなか ぎんじろう、1868年2月4日〈慶応4… 田中 銀次郎(たなか ぎんじろう、1868年2月4日〈慶応4年1月11日〉 - 1937年〈昭和12年〉2月16日)は、北海道において開拓使廃止後の明治時代から昭和初期にかけて活躍した日本の建築技術者であり実業家。島根県松江市寺町出身。北海道の建設業、株式会社田中組の創立者。同じく北海道の建設業、伊藤組土建の創始者伊藤亀太郎と共に伊藤組の創立に深くかかわると共に、北海道建設業協会、札幌建設業協会、旭川建設業協会それぞれの設立にも携わり、北海道の民間建設業黎明期において重要な役割を果たした。 島根県意宇郡寺町(現 松江市寺町)で田中佐兵衛とヒデとの間に誕生。六男だったこともあり生活の活路を求め北海道に渡り25歳、伊藤亀太郎と出会い協力関係となる。
水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4… 水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4年1月10日〉- 1949年〈昭和24年〉11月25日)は、日本の内務官僚、政治家。勲等は勲一等。内務大臣、朝鮮総督府政務総監、文部大臣、貴族院議員などを歴任した。 江戸詰の秋田藩士水野立三郎の子として1868年2月3日(慶應4年1月10日)、江戸浅草鳥越町の秋田藩邸で生まれた。立三郎は秋田の出でなく埼玉の出で、江戸で取り立てられた武士である。立三郎は秋田藩主佐竹義堯の弟佐竹義諶(よしつま)に仕えた。佐竹義諶は秋田藩の支藩岩崎藩主で、1869年(明治2年)義諶(1870年死去)、13歳の佐竹義理(よしただ)が継いだ。 立三郎は戊辰戦争で官軍についた秋田藩のために、妻生後間もない水野と2人の姉を連れて現在の秋田県湯沢市岩崎に避難。
宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1… 宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1月8日〉- 1937年〈昭和12年〉4月3日)は、日本の官僚、外地行政官、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。新潟県出身。 越後国頸城郡広島村の名主・宮尾権九郎の長男として生まれた。父はこののち同村の助役となるが、この村は宮尾家の祖先が開いた地として知られていた。1881年(明治14年)、小島荷裳塾に入塾。1886年(明治19年)、第一高等中学校予科に入学、1889年(明治22年)には本科に進学する。下宿の隣家に寄寓していた神戸の瓦煎餅の職人が店の出資者を探しているとの話に興味を持ち、実家の父を説得して資金を出してもらい翌年11月には両国でせんべい屋「紀文堂」を開業したところ、これが大当たりとなって多忙を極めるようになり、そのため学校の方は欠席がかさんで1891年(明治24年)に本科2年を落第の憂き目に遭う。
大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日… 大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、日本の農学者(農芸化学)。勲等は勲二等。学位は農学博士(1911年)。旧姓は鈴木(すずき)。 農事試験場や特許局で技師として勤務し、農芸化学に関する研究に従事したのち、九州帝国大学農学部で教鞭を執った。土壌酸性がアルミニウムに因ること(大工原酸度, Daikuhara acidity)を世界で初めて発見した。九州帝国大学や同志社大学で総長を務めた。 信濃国伊那郡南向村(現長野県上伊那郡中川村)の鈴木家に生まれ、のちに飯田の大工原孝吉の養子となる。松本中学校、東京農林学校を経て1894年、帝国大学農科大学農芸化学科を卒業。
山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1… 山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1月25日) - 明治33年(1900年)10月22日?)は、日本の革命運動家、大陸浪人である。熊本の宮崎滔天らと共に孫文の支援者となり辛亥革命に参加。実弟の山田純三郎も兄の遺志を継いで孫文を支援した。 陸奥国弘前(後の青森県弘前市)に津軽藩士の子として生まれる。山田家は思想家の陸羯南の実家と真向かいにあったこともあり、良政は少年時代から羯南の影響を受けていたとされる。伯父の菊池九郎が経営する東奥義塾で学んだ後に地元の青森師範学校へ進学したが、2年時に全寮制の寮内での賄経費を巡る騒動(賄征伐)が発生した際に、騒動の首謀者となった友人をかばう形で退学処分を受けた。
大島 雅太郎(おおしま まさたろう、1868年1月25日(慶… 大島 雅太郎(おおしま まさたろう、1868年1月25日(慶応4年/明治元年1月1日) - 1948年(昭和23年)6月9日)は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。 大島の父で塚本長民の弟でもある大島景保は旧日向国延岡藩藩士で、北条流兵学指南役であり、西南戦争では西郷隆盛率いる西郷軍に呼応する党薩諸隊の一つの延岡隊の小隊長となる。
松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶… 松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶応4年1月1日) - 1945年(昭和20年)11月3日)は、日本の法学者。専門は海商法。大阪府出身。民法典・商法典起草補助委員の一人。 1868年(慶応4年)岸和田藩士の松波仁右衛門と、妻・八重の長男として大阪岸和田並松町に生まれる。1881年(明治14年)同志社英学校普通科に入学。1886年(明治19年)卒業。キリスト教に対しては批判的だったが、新島襄はそういったことを理由に学生を差別するようなことは全くなく深い感銘を受けたという。同志社卒業後は帝国大学予備門に進学。東京帝国大法科大学に進み、卒業後は1893年(明治26年)に法典調査会起草委員補助に任命され梅謙次郎を補佐、日本民商法典成立に貢献した。
斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24… 斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24日(慶応3年12月30日) - 1904年(明治37年)4月13日)は、明治時代の小説家、評論家。本名・賢(まさる)。「正直正太夫」をはじめ、「江東みどり」「登仙坊」など別名も多数ある。幸田露伴がつけたという戒名は「春暁院緑雨醒客」。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1868年1月21日(慶… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1868年1月21日(慶応3年12月27日) - 1931年3月29日)は、日本の実業家、味の素の創設者。神奈川県出身。従五位勲四等。
石川 重之(いしかわ しげゆき、1868年1月19日〈慶応3… 石川 重之(いしかわ しげゆき、1868年1月19日〈慶応3年12月25日〉 - 1950年〈昭和25年〉12月20日)は、日本の華族(旧常陸下館藩、子爵)。位階は正三位。幼名・重之助。 石川家の祖主殿頭忠総の二男播磨守総長2万石を分与され、後常州に移り、9世を経て総管に至る。重之は総管の長男である。学習院出身である。 1880年、家督を相続する。1884年、子爵を授けられる。1887年に都合により爵位を返上したが、1899年さらに華族に列し子爵を授けられる。 1899年、叙従五位。1917年、叙正四位。 1946年1月15日、数え80歳を迎えたことにより鈴木貫太郎・小笠原長生と共に御紋付木盃と酒肴料を下賜された。
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応… 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。歴代内閣総理大臣のなかで史上最高齢の77歳で就任した。 海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。 枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第62代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。
鈴木 光愛(すずき こうあい、慶応3年12月20日(1868… 鈴木 光愛(すずき こうあい、慶応3年12月20日(1868年1月14日) - 昭和5年(1930年)4月9日)は、日本の教育者。 岡山藩士島村円造の二男として生まれ、鈴木光輝の養子となった。岡山中学校を経て、1889年(明治22年)に高等師範学校を卒業した。同訓導、女子高等師範学校助教諭、同助教授、東京府師範学校教諭・附属小学校主事を歴任した。1897年(明治30年)、台湾総督府国語学校教授となり、1899年(明治33年)に東京府師範学校首席教諭に戻った。1900年(明治33年)、栃木県師範学校校長に就任し、1906年(明治36年)に京都府師範学校校長に転じた。1909年(明治42年)からは東京府女子師範学校校長・東京府立第二高等女学校を務めた。
横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3… 横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3年12月20日) - 1929年(昭和4年)12月12日)は、日本の漢詩人、陸軍軍医。本名は徳郎。雅号は唐陽山人。 信濃国諏訪郡神戸村(→四賀村→現・長野県諏訪市四賀)に生まれる。第一高等中学校医学部(現・千葉大学医学部)を卒業後、陸軍軍医となる。日露戦争では第1師団衛生隊の医長として従軍、のち浜松衛戍病院長、善通寺衛戍病院長、第7師団軍医部長を歴任。また『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂にも従事。 漢詩は森槐南らに師事。落合東郭、野口寧斎、森川竹磎らと親しく交わり、陸軍軍医であった森鷗外とも漢詩を通じた交遊があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
相島 勘次郎(あいしま かんじろう、慶応3年12月19日(1… 相島 勘次郎(あいしま かんじろう、慶応3年12月19日(1868年1月13日) - 昭和10年(1935年)4月4日)は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。俳人としても活動し、虚吼と号した。 常陸国筑波郡小田村(現在の茨城県つくば市)出身。慶應義塾大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入社。1900年(明治33年)から1902年(明治35年)までのアメリカ留学を経て、1906年(明治39年)に大阪毎日新聞社が東京に毎日電報社を創設すると副主幹となり、1911年(明治44年)に大阪毎日新聞社が東京日日新聞社を買収するとやはり副主幹として編集にあたった。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
高橋 光威(たかはし みつたけ、1868年1月13日〈慶応3… 高橋 光威(たかはし みつたけ、1868年1月13日〈慶応3年12月19日〉- 1932年〈昭和7年〉4月9日)は、日本のジャーナリスト、政治家。立憲政友会所属の衆議院議員として活動した。 慶応3年12月19日(1868年1月13日)、越後国蒲原郡菅谷村(現在の新潟県新発田市菅谷)において、父・幾左衛門と母・ヨシとの四男として生まれる。幼名は富吉。知人に同行して上京し、1884年(明治17年)に慶應義塾に入学するものの、生活に困窮するなどして卒業は1889年(明治22年)となる。 1890年(明治23年)に開設された慶應義塾の大学部(法律科)に再び入学。在学中は、洋書の翻訳などで生計を立てるほか、菊代と結婚する。
山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶… 山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶応3年12月18日〉- 1931年〈昭和6年〉2月6日)は明治・大正期に司法省の建築家として五大監獄を設計した。族籍は鹿児島県士族。 妻の直子は「日本のミスコン優勝者第一号」の末弘ヒロ子の姉。孫(二男・啓輔の子)のジャズピアニスト山下洋輔は啓次郎の事跡を訪ね、小説『ドバラダ門』を書いた。 1868年(慶応3年)、薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(後の鹿児島市西田町)に、薩摩藩士・山下房親の次男として生まれる。1876年(明治9年)、上京。第一高等中学校を経て1892年(明治25年)、帝国大学工科大学造家学科(後の東京大学工学部)卒業。辰野金吾のもと建築を学んだ。
尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年… 尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。 帝国大学国文科中退。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。 泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。 俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。 1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の芝大門)に生まれる。
関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月… 関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 1935年(昭和10年)7月29日)は、日本の建築史学者、建築家・美術史・考古学者。東京帝国大学名誉教授。 高田藩士関野峻節とヤエの次男として生まれた。旧制一高を経て、1895年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業。卒業論文は平等院の研究であった。辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。 1889年に平城宮址を発見した。1922年、国の史跡(のちに特別史跡・特別名勝)に指定された。
永松 達吾(ながまつ たつご、 1868年1月9日(慶応3年… 永松 達吾(ながまつ たつご、 1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 没年不詳)は、明治期から大正期に活躍した日本の実業家、ジャーナリスト。玉川電気鉄道株式会社(現・東急株式会社)代表取締役、草津軽便鉄道創立委員総代、時事新報記者、西武軌道(後の都電杉並線)取締役、交詢社評議員。 豊前国宇佐郡、のちの駅館村(現大分県宇佐市)で永松貞民の長男として生まれた。大阪・英和学舎(現・立教大学)を経て、慶應義塾にて修学。 1891年(明治24年)、横浜の生糸問屋に勤務する傍ら『横浜蚕糸貿易事情』を出版。 その後、時事新報の記者となり、時事新報において『群馬県下の蚕業』などを執筆したのち、東京信託会社に務める。
千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)… 千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)1月8日 - 昭和15年(1940年)5月22日 。)は出雲大社東京分祠の神職・宗教家。幼名は房麿 。 明治元年1月8日、島根県簸川郡大社町(現出雲市)に生まれる。島根の武士の家の長男で、幼少期から聡明で学問を好み、平田町の漢学者・雨森精翁のもとで数年間学ぶ。その後上京して東京専門学校(後の早稲田大学)に入学し卒業。卒業後すぐに大社教東京分院長に任じられた 。 宗教者として数多くの国葬・葬儀を司り、伊藤博文・大山巌・松方正義などの国葬では斎主を務めた。また、乃木希典、大隈重信などの葬儀の斎主も務めている。さらに、明治天皇や各宮家、貴族の葬儀にも祭主または副祭主として参加し、幅広い信望を集めた 。
小松山 与三松(こまつやま よさまつ、慶応3年12月14日(… 小松山 与三松(こまつやま よさまつ、慶応3年12月14日(1868年1月8日) - 大正6年(1917年)5月17日)は、加賀国能美郡(現在の石川県小松市)出身で八角部屋に所属した大相撲力士。本名は本田 与三松(ほんだ よさまつ、旧姓:太田)。身長175cm、体重90kg。最高位は西前頭2枚目。養女の夫は元小結鶴ヶ濱(13代玉垣)。 1889年1月幕下附出しで初土俵。1893年1月十両昇進、1893年5月入幕。粘り強い足腰を生かして吊るか打っ棄る取り口。1897年5月横綱小錦を破り、1898年5月にも小錦と預かりの相撲をとる。朝汐に強く、1896年1月、1902年1月に引分、1901年1月、1903年1月に勝利している。
藤井 啓一(ふじい けいいち、1868年1月7日〈慶応3年1… 藤井 啓一(ふじい けいいち、1868年1月7日〈慶応3年12月13日〉 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(山口県第一区選出、当選3回)。 山口県厚狭郡厚東村(現在の宇部市)出身。山口県平民・藤井仁介の長男。初等学を寺子屋に学び、のち漢学を修める。 1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。法学博士・江木衷の門下生となり、薫陶を受け、弁護士試験に合格。その後、下関市に事務所を開いた。弁護士の業務に従事。山口県弁護士会会長、山口県会議員、下関商業会議所特別議員・同顧問などに選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3… 田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3年12月12日) - 1935年(昭和10年)3月30日)は、三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・実業家・政治家。第8代豊橋市長(1926年-1930年)。教育者の田部井鉚太郎は兄。 出生地は江戸赤坂の刈谷藩藩邸。刈谷藩士である田部井清蔵の二男である。出身地は三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)であるとされる。兄の田部井鉚太郎は教育者となり、愛知県内の学校の訓導や校長、富山県視学などを務めている。 兄と同じように愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、1891年(明治24年)に愛知県師範学校の訓導となった。その後愛知県師範学校の助教諭となり、1898年(明治31年)4月には額田郡視学となった。
清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)… 清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)下旬 - 1933年(昭和8年)7月31日)は、明治期の女性作家、自由民権運動の女性活動家。出生届出は1868年1月。 出身地は岡山県、出生地は京都府。本名は清水豊子、筆名は生野ふみ子、つゆ子。戦前の興信録では名を「トヨ」としているものもある。 京都府立第一高等女学校卒。1885年(明治18年)、自由民権派の弁護士・岡崎晴正と結婚。晴正とともに自由民権運動に携わるが、晴正は結婚前から交際していた女性を紫琴と結婚後も妾として囲っていたため、1888年(明治21年)自由民権運動家でありながら晴正と異なり男女同権の立場を取っていた植木枝盛と出会い、その後は女権運動に携わるようになる。
阪井 徳太郎(さかい とくたろう、1868年 - 1954年… 阪井 徳太郎(さかい とくたろう、1868年 - 1954年 )は、日本の実業家、国家公務員、牧師。第25代三井合名会社理事、内閣総理大臣秘書官、外務大臣秘書官。同志会学生寮設立者。ルドルフ・トイスラーを支援し、聖路加病院の国際化に貢献した。聖公会信徒。 愛知県の士族、阪井久の長男として1868年(明治元年6月)に名古屋で生まれる。 立教大学校(現・立教大学)に入学。1888年(明治21年)には、築地聖三一教会でチャニング・ウィリアムズより洗礼を受ける。1892年(明治25年)、立教大学卒業。 1892年(明治25年)12月に米国に渡り、1894年(明治27年)にニューヨーク州ホバート大学(英語版)を卒業。
松本 文作(まつもと ぶんさく、旧姓・山口、1868年(明治… 松本 文作(まつもと ぶんさく、旧姓・山口、1868年(明治元年) - 没年不明)は、日本の政治家(埼玉県児玉郡本庄町長、埼玉県会議員)、実業家。族籍は埼玉県平民。 群馬県人・山口清平の二男。先代紋三郎の養子となり、1891年、家督を相続する。1890年、東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科卒業。 本庄電気軌道取締役社長、松本商店代表取締役、上信電気鉄道専務取締役、本庄商業銀行、高崎水力電気各取締役、本庄運輸倉庫監査役などをつとめた。住所は埼玉県児玉郡本庄町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三瀬 俊蔵(みせ しゅんぞう、1868年(慶応4年) - 1… 三瀬 俊蔵(みせ しゅんぞう、1868年(慶応4年) - 1936年(昭和11年))は、日本の政治家・愛媛県会議員、愛媛県喜多郡大谷村長、篤農家。 伊予国喜多郡大谷村(現・愛媛県大洲市)出身。里正・三瀬通綱の三男。1902年から1918年、大谷村長を務めて村政を担当した。篤農家として知られた。畜牛の改良発展に尽力した。 『喜多郡の華 附・上浮穴郡小田郷』には「本郡今日に於ける産牛の進歩は一に氏の尽力に帰すものと謂うべし、本県に於ける畜産王として世人の推称浅からず」とある。1911年から1915年、県会議員に在職して政友会に所属した。1922年、再び大谷村長に選任された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
巌 如春(いわお じょしゅん、1868年(明治元年)−194… 巌 如春(いわお じょしゅん、1868年(明治元年)−1940年(昭和15年)、石川県金沢市)は、石川県金沢市の風景を描いた絵師。 巌如春は、1868年(明治元年)に、金沢市竪町に生まれる。幼名は甚太郎。甚蔵の襲名である。宮嶋恒信の教えから数多き作品を残している。
大塚 太郎(おおつか たろう、T. R. Otsuka、18… 大塚 太郎(おおつか たろう、T. R. Otsuka、1868年 - 没年不詳)は、アメリカ合衆国で「ガーデンキング」と呼ばれるほど活躍した造園家。 1897年に日本から米国に移住し、1905年頃からシカゴに滞在、1905年から1930年代半ばにかけて、主にアメリカ中西部に数十の日本庭園を造園した。 彼の代表作は、イリノイ州ジェノバにあるジョージとネレファビアンの日本庭園(1910年頃)、オハイオ州アクロンのスタンハイウェットにある日本庭園(1916年)、ミシガン州マッキナック島のミルトントゥートルジュニアの庭(1910年以前)、そして1933年から1934年のシカゴ万国博覧会の公式日本庭園などである。
武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)… 武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)は、明治時代から昭和時代の漢学者、詩人、教育者。諱は潜、字は伯龍。 越後国南蒲原郡中之島村大字長呂(後に新潟県中通村)の名主武石弘六の長男として生まれる。長岡の誠意塾に学び、頭脳明晰で師匠の高橋竹之助の信任厚く、塾頭に選ばれる。ここで堀口九萬一と知り合い親友となり、義兄弟の契を結ぶ。長呂の若宮社には、弟の武石弘三郎が制作した2人の胸像が建つ。 後に故郷に戻り自邸にて漢詩塾および修斉館を開き地域の教育に尽力した。東北日報(新潟日報の前身)の漢詩撰者を務め、同紙の同時期の俳句撰者は会津八一であった。また、水田区画整理事業の「島田他三ケ字耕地整理」に従事、ツツガムシ対策により名古屋大学医学部の林直助を村に招待、信濃川流域の荒地に柳を植樹し行李の生産を勧めるなど地域振興に努め、農業整備や架橋、信用組合創立に取り組んだ。
七代目 伊藤 長兵衛(しちだいめ いとう ちょうべえ、186… 七代目 伊藤 長兵衛(しちだいめ いとう ちょうべえ、1868年(明治元年)- 1941年(昭和16年))は、日本の実業家。初代伊藤忠兵衛は義理のおじにあたる。 近江国犬上郡河瀬村犬方(現・滋賀県彦根市犬方町)の若林又三郎の次男として生まれる。幼名は長次郎。16歳で伊藤長兵衛商店に丁稚奉公に入る。22歳で六代目伊藤長兵衛の養子となり、1892年(明治25年)に長兵衛の次女やすと結婚して、翌年七代目伊藤長兵衛を襲名した。滋賀県内外への商売が結実して伊藤長兵衛商店は拡大していき、1921年(大正10年)には伊藤忠商店を合併し、丸紅商店を設立して初代社長に就任した。これが現在の丸紅の前身にあたる。 近隣に診療所が皆無であったことを懸念した長兵衛は、1925年(大正14年)に私財と自宅敷地の大部分を寄付し、豊郷病院を開設した。
水月 哲英(みづき てつえい、1868年 - 1948年4月… 水月 哲英(みづき てつえい、1868年 - 1948年4月)は、日本の宗教家、教育者。筑紫高等女学校(現・筑紫女学園)創立、初代校長。
本庄 京三郎(ほんじょう きょうさぶろう、1868年(明治元… 本庄 京三郎(ほんじょう きょうさぶろう、1868年(明治元年4月)- 1938年(昭和13年)12月)は、日本の実業家。 1868年、岡山県に生まれる。1891年に東京法学院(現・中央大学)を卒業した。 1918年5月に甲陽土地株式会社を設立し、甲陽園を開発し、旅館、温泉、運動場、動物園、劇場、映画撮影所(甲陽撮影所)などを設け、さらに周辺の宅地開発もおこなった。 1920年には第14回衆議院議員総選挙に岡山県第8区から無所属で立候補したが、次点で落選した。 また、教育事業として1922年には関西工学専修学校(現在の大阪工業大学、学校法人としては常翔学園)の設立者・校主となり、建築家の片岡安を初代校長として創設した。
瀧澤 又市(たきざわ またいち、1868年〈明治元年9月〉 … 瀧澤 又市(たきざわ またいち、1868年〈明治元年9月〉 - 1937年〈昭和12年〉)は、日本の教育者。長野県出身。 翠嵐高校の自由な校風として「大平凡主義」というものを掲げていた。
野村 一郎(のむら いちろう、1868年 - 1942年7月… 野村 一郎(のむら いちろう、1868年 - 1942年7月28日)は、日本の建築家。 大阪と台湾、朝鮮を拠点に、旧台湾総督官邸(現台北賓館)、旧朝鮮総督府庁舎などの設計を手がけた。また、台湾総督府に在任中、台北市の都市計画にも携わった。
藤田 精一(ふじた せいいち、1868年(慶応4年) - 1… 藤田 精一(ふじた せいいち、1868年(慶応4年) - 1938年(昭和13年)7月5日)は、日本の歴史学者。 山城国綴喜郡田辺村興戸(現・京都府京田辺市)出身。号・南山。1894年帝国大学文科大学史学科卒。1898年陸軍教授。広島中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)校長、大阪陸軍幼年学校教頭、広島陸軍幼年学校教頭。1938年、「新田氏研究」で東京帝国大学文学博士。妻は戸水寛人の妹。長男・法学士・藤田春太郎、次男・農学士・藤田二郎は、1926年頃相次いで死去。五男は日本史学者の藤田五郎。
唐渡 房次郎(からと ふさじろう、1868年(明治元年) -… 唐渡 房次郎(からと ふさじろう、1868年(明治元年) - 1924年(大正13年)3月16日)は、日本の裁判官。 1868年、香川県にて出生。明治法律学校卒業。 1891年、第1回判検事登用試験に合格し、甲府区裁判所検事となる。 1892年、松本区裁判所検事代理。 1893年、内閣の任命により判事となる。 静岡区裁判所判事事務取扱。 静岡区裁判所判事代理。 1899年、奈良区裁判所検事、奈良区地方裁判所検事 1900年、鳥取地方裁判所検事。 1902年、宮津区裁判所検事。 1907年、徳島地方裁判所検事。 1910年、福井地方裁判所検事正。 1915年、松江地方裁判所検事正。 1920年、広島控訴院検事。
フランク安田または安田恭輔(Frank Yasuda、186… フランク安田または安田恭輔(Frank Yasuda、1868年 - 1958年1月12日)は、アメリカ合衆国アラスカ州で村人を導いて新しい村をつくった日系アメリカ人一世。その活躍から「ジャパニーズモーゼ」あるいは「アラスカのサンタクロース」などとも呼ばれている。 家族には、妻でイヌイットのネビロ安田。娘は、ハナ安田。孫は、ヒュー・デブリン。 1868年宮城県石巻市に生まれた。五人兄弟の三番目で、他に兄二人と妹、弟がいる。両親は医師で15歳の時に亡くなっている。生計を立てる為、三菱社の船積みで働き、太平洋を横断もし、22歳の時にアメリカのカリフォルニア州に渡った。1891年アメリカ沿岸警備船「ベアー号」の乗り組み員となる為、フランク・ハーレイ船長に頼み、ベアー号の雑用係になった。
木村 竹香(きむら ちっこう、男性、明治元年(1868年) … 木村 竹香(きむら ちっこう、男性、明治元年(1868年) - 昭和18年(1943年 1月28日))は、近代日本の篆刻家である。篆刻界で有名な『羅漢印譜』を編集・刊行したことで知られる。 名は政平、竹香は号で斎号に酔古堂がある。現・新潟県新潟市出身。山田正平の実父。 白根の生まれ。はじめ名工大江萬里の門戸を叩いたが断られ、そのまま東京に赴いて中井敬所の門人となる。一年程修行し、敬所に香の一字を許されて竹香と号する。新潟に帰り萬里の真向いの古町通りで開業。版木屋を営む。その篆刻技術の高さに萬里は舌を巻いたという。妻はマス。詩文もよくし、骨董趣味に高じた。あるとき、人の借金の保証から家財を没収され、蒐集した骨董品すべてを失ってしまった。
大瀧 道助(おおたき みちすけ、1868年(明治元年) - … 大瀧 道助(おおたき みちすけ、1868年(明治元年) - 1911年(明治44年)11月24日)は、日本の海軍軍人。第十水雷艇隊司令として第三回旅順港閉塞作戦や日本海海戦を戦った。第十二駆逐隊司令在任中座礁事故で殉職。最終階級は海軍中佐正六位・勲四等・功四級。 米沢藩士の大瀧義重の子として生まれる。海兵17期生となる。1890年(明治23年)7月に88名中39番の成績で海軍兵学校を卒業した。「金剛」または「比叡」に配乗となって実務訓練を受け、少尉任官は1892年(明治25年)5月である。日清戦争では「金剛」分隊士として威衛海攻略戦に参戦した。 「松島」分隊長を経て、1903年(明治36年)9月、第三艦隊に所属する第十水雷艇隊司令(少佐)に補され、麾下4隻の水雷艇を率いて日露戦争に参戦する。