錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 -… 錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 - 1960年3月1日)は、鹿児島県姶良郡福山町(現霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は豊平 才蔵。最高位は関脇(関西角力協会では大関をつとめた)だった。現役時代の体格は176cm、111kg。得意技は押し、寄り、掬い投げ。 井筒部屋に入門し、1917年5月場所に初土俵をふむ。1923年5月、新十両、1925年1月に新入幕を果たす。出足早く、攻めの相撲で鳴らした。1925年5月場所には、前頭12枚目で10勝1敗の好成績を挙げたが、優勝は同じ平幕でも上位の大蛇山酉之助に奪われた。そこから上昇気流に乗り、1927年10月には新小結、1928年には関脇に昇進した。
中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900年(明治33年)7… 中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900年(明治33年)7月4日 - 1962年(昭和37年)4月11日)は、日本の物理学者、随筆家。位階は正三位。勲等は勲一等。学位は理学博士(京都帝国大学・1931年)。 北海道大学理学部教授を北海道帝国大学時代から務め、世界で初となる人工雪の製作に成功した。考古学者・中谷治宇二郎は弟。 1900年、温泉地の石川県江沼郡片山津町(現・加賀市)で生まれる。学齢期になると母方の親族に預けられ、大聖寺町(現・加賀市)に転居。 1913年、大聖寺町立錦城尋常高等小学校卒業後、間もなく父を失う。同年、旧制小松中学(現・石川県立小松高等学校)に入学、その後5年間の寄宿舎生活を送った。
上田 常隆(うえだ つねたか、1900年〈明治33年〉7月4… 上田 常隆(うえだ つねたか、1900年〈明治33年〉7月4日 - 1980年〈昭和55年〉10月14日)は、日本の新聞社経営者。毎日新聞社社長(1961年1月 - 1968年1月)。 大阪府大阪市出身。祖父は盛岡藩士で、母は原敬の姪に当たる。天王寺中学校(旧制)、佐賀高等学校を経て、1926年に京都帝国大学法学部を卒業、大阪毎日新聞社(後の毎日新聞大阪本社)に入社。販売一筋でキャリアを築き、1951年大阪本社営業局長、監査役、取締役(経理担当)、常務などを経て、1961年代表取締役社長に就任。在任中はアジア調査会の設立などに関わった。またこの間、日本新聞協会の会長も務めた。1968年退任し、最高顧問になる。
倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年(明治33年)7月2… 倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年(明治33年)7月2日 - 1986年(昭和61年)11月8日)は、日本の政治家。労働大臣、農林大臣、法務大臣。位階は正三位。 長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)に、製糸用繭問屋を経営していた倉石万平の子として生まれる。少年時代の友人に漫画家の近藤日出造がいる。長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1925年に法政大学法科 を卒業。法大在学中は法政大学弁論部で活動。森恪の知遇を得て、立憲政友会の院外団にも参加する。この活動で同じく院外団メンバーだった大野伴睦と知り合った。 大学卒業後は婦人雑誌を発行していた「婦女界社」に入社する。同社社長の都河竜に目をかけられ二女徳子と結婚、媒酌人は森格が務め、音羽の鳩山一郎邸に一時身を寄せた。
松浦 栄(まつうら さかえ、1900年7月1日 - 1990… 松浦 栄(まつうら さかえ、1900年7月1日 - 1990年5月3日)は、日本の法学者、警察官僚、衆議院議員(当選1回)。専門は行政法。地方自治法や警察法を研究対象としている。 福井県福井市で生まれ、まもなく北海道追分町(のち安平町)に移住。1922年(大正11年)に北海道帝国大学農学部卒業。1924年、京都帝国大学法学部英法科卒業。 北海道庁警部兼通訳、北海道警察練習所所長、北海道庁外事課長・警視課長、沖縄県警察部長、長崎県警察部長、宮城県学務部長、茨城県内務部長、茨城新聞社理事などを歴任。 1947年には、第23回衆議院議員総選挙で日本自由党公認で、北海道4区から出馬し初当選するが、1949年の第24回衆議院議員総選挙では落選。
山崎 巌(やまざき いわお、1900年7月1日 - 1979… 山崎 巌(やまざき いわお、1900年7月1日 - 1979年4月19日)は、日本の経営者。横河電機製作所(現在の横河電機)社長を務めた。山形県出身。 1927年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1938年8月に横河電機製作所(現在の横河電機)に転じ、同年12月に取締役に就任し、1945年11月に常務、1949年12月に専務を経て、1960年11月に社長に就任。1966年11月には会長に就任。 1962年9月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1979年4月19日尿毒症のために死去。78歳没。
森 正蔵(もり しょうぞう/せいぞう、1900年(明治33年… 森 正蔵(もり しょうぞう/せいぞう、1900年(明治33年)7月1日 - 1953年(昭和28年)1月11日)は、新聞記者。毎日新聞東京本社社会部長・出版局長取締役・論説委員長などを歴任し、戦後書いた「旋風二十年」がベストセラーとなった。 森正蔵は、1900年(明治33年)7月1日滋賀県滋賀郡小松村(現滋賀県大津市北小松)に生まれ、1924年(大正13年)東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語部を卒業し、2年後に毎日新聞社大阪本社に入社した。毎日新聞ではハルピン・奉天特派員を経てソ連特派員としてモスクワに駐在した。帰国後大阪本社外信部ロシア課長になり、当時の新聞界において有数のソ連通と言われた。
信夫 韓一郎(しのぶ かんいちろう、1900年7月1日 - … 信夫 韓一郎(しのぶ かんいちろう、1900年7月1日 - 1976年8月23日)は、日本の新聞記者。元朝日新聞社代表取締役専務取締役。 父信夫淳平は、外交官で、国際法学者として早稲田大学教授にもなった。弟信夫清三郎は、政治学者・歴史学者で名古屋大学教授であった。大韓帝国時代の仁川で生まれる。 早稲田大学政治経済学部卒。「早稲田大学新聞」の創刊に携わる。早稲田大学在学中の1923年7月に父との不仲から家出して、大学の友人相馬安雄(中村屋第2代社長)の母親、相馬黒光の世話になる。信夫家は、韓一郎の弟3人、満二郎(自殺)、清三郎、墺四郎(自殺)もいずれも家出しており、一家は離散している。 1925年3月の朝日新聞社入社以降、入社試験の成績が悪かったこともあって、特に出世コースを歩んでいた訳ではなかったが、副社長緒方竹虎の退社(1944年7月)以降もくすぶり、敗戦で再燃した社内の緒方派と反緒方派の対立で、社主の村山長挙社長ら反緒方派の経営陣が退陣し、公職追放で村山長挙、上野精一(会長)両社主が追放され、緒方が社内権力基盤のひとつとしていた東京本社政治部出身の長谷部忠(信夫の1年後輩)を会長(1949年12月に社長)とする緒方派経営陣が成立する中で、1945年11月大阪本社編集局次長兼整理部長、1946年4月大阪本社編集局長、1949年12月東京本社編集局長。
島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 19… 島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 1994年6月30日)は、日本の写真家。 長野県埴科郡松代町(後の長野市松代)に、医師の息子として生まれ、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を卒業する。中学校時代は画家志望であったが、結核にかかり療養を余儀なくされる中で、病床で目にしたシベリア出兵の報道写真をきっかけに、報道カメラマンを志すようになり、1920年に中学校を卒業して上京した。 1920年、朝日新聞東京本社に入社して社会部写真係に所属する報道カメラマンとなり、1923年に『アサヒグラフ』が創刊されるとその写真班員となった。以降、関東大震災(1923年)、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)などの取材にあたった。
阿部 金剛(あべ こんごう、1900年6月26日 - 196… 阿部 金剛(あべ こんごう、1900年6月26日 - 1968年11月20日)は、日本の洋画家。 岩手県盛岡市出身。父は内務省官僚で、東京府知事でもあった阿部浩。東京府立第一中学校を経て、慶應義塾大学文学部予科中退。在学中から岡田三郎助に師事し、1926年渡仏。1929年東郷青児と共に油絵展覧会を開催。同年二科会展に初入選した。以後もメキシコやアメリカにて創作活動に励む。二科会会員。 超現実主義(シュルレアリスム)的な作品で脚光を浴び、また萩原朔太郎の「詩人の運命」の装丁もした。 1930年三宅艶子との結婚も当時の新聞紙上を賑わした。娘はエッセイストの三宅菊子、息子は彫刻家の阿部鷲丸。1968年11月20日、心筋梗塞のため東京逓信病院で死去。
小笠原 明峰(おがさわら めいほう、1900年6月26日 -… 小笠原 明峰(おがさわら めいほう、1900年6月26日 - 1946年6月20日)は、日本の映画監督、脚本家、無声映画時代の京都の映画会社「小笠原プロダクション」を率いた実業家である。名は明峯とも表記される。本名は長隆(ながたか)。子爵小笠原長生の長男である。 1900年6月26日、旧唐津藩主、子爵小笠原家第14代当主小笠原長生(元海軍中将、元宮中顧問官、元学習院御用掛)を父とし、秀子(元前橋藩主、伯爵松平直方の長女)を母とし、その長男として東京府東京市に生まれる。 1923年、「小笠原明峰」を名乗り、23歳にして京都で「小笠原プロダクション」を設立、片岡千恵蔵(当時本名の植木進)らが専属となった。
湯地 孝(ゆち たかし、1900年6月26日 - 1973年… 湯地 孝(ゆち たかし、1900年6月26日 - 1973年3月10日)は、日本近代文学研究者。 第一高等学校を経て、1925年東京帝国大学文学部国文科卒。1926年、卒業論文を『樋口一葉論』として刊行し、以後片岡良一とともに近代文学研究に先鞭をつける。「たけくらべ」の末尾における美登利の変貌を、初潮ゆえと論じたのは孝が最初である。1950年4月、開学して間もない山梨大学に着任。同大学の近代文学文庫は湯地の提案により設立された。1961年(昭和41年)退官。その後は、青山学院大学教授、淑徳大学学長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月… 竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月25日 - 1984年〈昭和59年〉3月21日)は、日本の実業家、政治家。掛合町名誉町民。島根県議会議員、掛合村長、竹下酒造代表取締役などを務めた。旧姓は武永(たけなが)。 第74代内閣総理大臣・竹下登の実父。漫画家・影木栄貴、ミュージシャン・DAIGOの曾祖父。 島根県簸川郡今市町(現:出雲市)出身。武永貞一の弟。掛合町(現:雲南市)竹下儀造の養子となった。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て、1923年(大正12年)早稲田大学専政科(現、政治経済学部)卒業。 竹下家は日本三大山林王の一家として出雲一円に権勢を誇っていた田部家の傘下で庄屋を務めており、掛合一の旧家であった。
出光 計助(いでみつ けいすけ、1900年6月24日 - 1… 出光 計助(いでみつ けいすけ、1900年6月24日 - 1994年1月8日)は、日本の実業家。出光興産第2代社長。石油連盟会長も務め、勲二等旭日重光章を受章した。 出光興産の創業者である出光佐三の末弟。出光謙介元出光興産厚生年金基金理事長は長男。株式公開や脱創業家を行い、出光家出身の最後の社長となった出光昭第7代出光興産社長は二男。 福岡県の生まれ。旧制東筑中学(のちの福岡県立東筑高等学校)、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。卒業後南満洲鉄道に入社。系列の鉄鋼会社や商社を経て、戦後、兄である出光佐三社長に勧められ出光興産入社。 1952年に専務を務めていた際、石油メジャーから原油購入を拒否されていたモハンマド・モサッデク政権下のイランに渡航、原油購入契約を締結、自社タンカーの日章丸でイギリス海軍の海上封鎖を突破してイラン原油を日本に持ち帰り、世界の注目を集めた(日章丸事件)。
井口 海仙(いぐち かいせん、1900年6月24日 - 19… 井口 海仙(いぐち かいせん、1900年6月24日 - 1982年6月8日)は、日本の茶道家。京都市に、13代千宗室の3男として生まれた。名は三郎、号は宗含。裏千家宗家の父に茶道を学ぶ。茶道教授をしながら、機関誌「茶道月報」を主宰。戦後は淡交社社長として茶道書の出版、執筆に活躍した。
桑田 笹舟(くわた ささふね、1900年〈明治33年〉6月2… 桑田 笹舟(くわた ささふね、1900年〈明治33年〉6月24日 - 1989年〈平成元年〉7月31日)は、日本の書道家。福山市名誉市民。本名・桑田 明。 広島県福山市坪生町出身。1922年、神戸市立教員養成所に入学し、安東聖空に師事。1924年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験習字科に合格し、教員生活を始める一方、西谷卯木らとかな書の研究を始め、古筆研究家の田中親美に師事。同年、一楽書学院(一楽書芸院)を設立して笹舟と号す。1927年『かなとうた』発刊。1932年、関西書道会展、東方書道会展で最高賞受賞。1940年、教員を退職し、創作と学院の運営に専念する。 戦後は日本かな書道界を牽引し、現代かな書の先駆けとなる。
柳 満珠雄(やなぎ ますお、1900年6月22日 - 198… 柳 満珠雄(やなぎ ますお、1900年6月22日 - 1983年6月25日)は、日本の銀行家である。三井銀行(現・三井住友銀行)の社長を務め、全国銀行協会連合会会長、日本ポルトガル協会初代会長を歴任した。 柳満珠雄は1900年6月22日、東京府(現在の東京都)に生まれた。父親は、三井家再興および三井銀行の基礎を築いた三井財閥の重鎮・柳荘太郎である。満珠雄は慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業した。 大学卒業と同年の1923年、三井銀行に入行した。同行では、ニューヨーク支店長や大阪支店長などを務めた。戦後は1958年に副社長に就任し、翌1959年には佐藤喜一郎の後を継ぎ、三井銀行の社長に就任した。
平山 洋三郎(ひらやま ようざぶろう / ようさぶろう、19… 平山 洋三郎(ひらやま ようざぶろう / ようさぶろう、1900年(明治33年)6月22日 - 1970年(昭和45年)10月11日)は、大正から昭和期の農林官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 貴族院勅選議員・平山成信の三男として生まれる。父の死去に伴い、1929年(昭和4年)12月2日、男爵を襲爵した。 第一高等学校を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格し、1925年、農林省に入省し農林属に就任。以後、山林事務官、農林事務官、営林局事務官、農林書記官、東京営林局長、日本高等女学校長事務取扱、日本高等家政女学校長事務取扱、帝国女子専門学校長(現相模女子大学)などを務めた。
山越 邦彦(やまごし くにひこ、1900年6月22日 - 1… 山越 邦彦(やまごし くにひこ、1900年6月22日 - 1980年4月7日)は、日本の建築家。建築設備設計技術者。東京出身。 東京帝国大学工学部(現東京大学工学部)建築学科を経て戸田組に入社。建築家として勤務の傍ら、モダニズムの啓蒙雑誌『建築時潮』を編集。分離派建築に代表される芸術家としての建築家像を否定し、自ら「構築家」と称して科学性と社会性のある建築を提唱した。戸田組退社後は横浜国立大学理工学部教授となり、環境問題にも関心を持った。 主な作品のうち、1933年に発表した自邸・ドモディナミカ(動力学の家)では、乾式工法と床暖房、ピロティを採用し設備や間取りの考え方など、当時としては画期的な提案を行っている。
伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、19… 伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、1900年〈明治33年〉6月20日 - 1982年〈昭和57年〉4月26日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。柔道八段。 群馬県前橋市向町(現住吉町)で、食品製造業・伊藤勝次郎、かめの三男として生まれる。1915年(大正4年)前橋久留万高等小学校を卒業、同年関口孝五郎の弘道館に入門し柔道を習う。1920年(大正9年)群馬師範学校本科一部を卒業し、久留万高等小学校訓導に就任。その後、東京高等師範学校に入学し、1924年(大正13年)同校本科を卒業した。 1924年、神奈川県立湘南中学校(現神奈川県立湘南高等学校)教諭に就任し、横浜高等商業学校嘱託を務めた。
林 賢材(はやし けんざい、1900年6月19日 - 199… 林 賢材(はやし けんざい、1900年6月19日 - 1995年9月1日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。東京都出身。 1924年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1945年に常務に就任し、1947年から1960年までに社長を務めた。 1971年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年9月1日にがん性腹膜炎のために死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - … 松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - 1989年3月19日)は、日本の陸軍軍人、競馬騎手、調教師。 大日本帝国陸軍において一貫して騎兵畑を進み、1936年にはベルリンオリンピックに総合馬術競技日本代表として出場した。太平洋戦争後に軍籍を離れ、1956年より騎手、翌1957年より調教師として日本中央競馬会に所属した。1985年引退。 1900年、秋田県雄勝郡三輪村(現羽後町)に、農業を営む菅原良吉、ヨシの間に五男として生まれる。小学校卒業後に母方の叔父に当たる陸軍中将・松井庫之助の養子となり、東京に移った。旧制早稲田中学入学後、3年次から陸軍幼年学校に転じ、軍人への道を進み始める。
徐 淳永(ソ・スニョン、朝鮮語: 서순영、1900年6月17… 徐 淳永(ソ・スニョン、朝鮮語: 서순영、1900年6月17日 - 1983年5月9日)は、大韓民国の法曹、政治家。制憲韓国国会議員。 号は然斎。法曹の徐柱演(朝鮮語版)は甥、韓大鉉(朝鮮語版)(韓聖寿(朝鮮語版)の息子)は娘婿。 慶尚南道晋州郡(現・晋州市)または巨済島出身。巨済普通学校、東亜商業高等学校を経て、36歳の時に日本大学専門部法科本科を卒業した。40歳の時に朝鮮弁護士試験および高等文官試験司法科に合格し、その後京城弁護士試補試験にも合格した。1941年より大邱地方法院(朝鮮語版)所属の弁護士、大邱控訴院判事、釜山地方法院晋州支院上席判事などを務めた。地元の要請により1948年の初代総選挙で統営乙選挙区(現在の巨済市にあたる)より無所属で出馬して当選し、国会法制司法委員、反民族行為特別調査委員会特別裁判部第3部裁判長を務めた。
小早川 欣吾(こばやかわ きんご、1900年6月16日 - … 小早川 欣吾(こばやかわ きんご、1900年6月16日 - 1944年6月15日)は、日本の法学者(法制史)。元京都帝国大学法学部教授。兵庫県神戸市生まれ。 立命館中学校を卒業し、1922年山口高等学校に入学。1925年に同校を卒業し、京都帝国大学法学部法律学科に入学。1929年3月に卒業し、翌月、日本法制史の研究のため、大学院に進学。1934年、同大学助教授に就任。同志社大学講師も務める。その後、1944年教授に任じられ、また人文科学研究所員に補される。 日本法制史の担当であったが、東洋法制史の講義を担当した。没後の1944年12月、蔵書が「小早川文庫」として京都帝国大学法学部に受け入れられた。
権 五鍾(クォン・オジョン、朝鮮語: 권오종/權五鍾、190… 権 五鍾(クォン・オジョン、朝鮮語: 권오종/權五鍾、1900年6月16日 - 1960年2月1日または6月1日)は、大韓民国の政治家。元慶尚北道議会(朝鮮語版)議員、第3・4代韓国国会議員。本貫は安東権氏(朝鮮語版)。 慶尚北道安東郡出身。明治大学法科卒。大韓独立促成国民会安東郡支部長、国民会安東郡支部長、安東金融組合長、安東煙草耕作組合長などを務めた。第4代国会議員在任中の1960年1月8日に民主党を離党し自由党に入党したが、同年2月1日、ソウル市城北区の自宅で肝炎により死去。61歳没。 1957年、同姓同本間の結婚についての民法案発議時、結婚容認に猛反対した。
重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月… 重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月16日 - 1979年(昭和54年)2月17日)は、昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身。1910年(明治43年)に出家したが1918年(大正7年)に還俗。1920年(大正9年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。1925年(大正14年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年農林省に入省し農務局雇となる。同年、一年志願兵として入隊し、1926年に除隊した。1927年(昭和2年)農林省に復帰し、同年12月、高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)東京府に出向し農林主事補、同属となり、1932年(昭和7年)に退官した。
瀬山 誠五郎(せやま せいごろう、1900年6月14日 - … 瀬山 誠五郎(せやま せいごろう、1900年6月14日 - 1977年7月19日)は、日本の経営者。東京都出身。 1925年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に住友銀行に入行。1936年2月に住友本社東京支店に出向し、1947年3月に住友商事常務に就任し、1952年6月には専務に昇格した。1956年11月に住友不動産社長に就任し、1974年5月には会長に就任した。経済団体連合会理事も務めた。 1970年11月に勲二等瑞宝章を受章し、1976年に勲一等瑞宝章を受章した。 1977年7月19日気管支肺炎のために死去。77歳没。
安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月… 安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月10日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の美術史家。日本の仏寺、中国美術、鑑真、書道などを研究した。 東京出身。本名は正輝。早稲田中学を経て東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業。早稲田大学仏文学科へ進むも中退(1924年)。 会津八一に師事し、1923年、奈良美術研究会を創設(のち東洋美術研究会)。1929年に研究誌『東洋美術』を創刊。1938年、中華民国に渡り、新民印書館に勤務。安藤が編集した『北京案内記』は、北京に関する案内書としては、名著と言われ、評価が高い。1966年、多摩美術大学で教授を務めた。戦後は早稲田大学教授を務めた。
内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982… 内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982年1月17日)は、日本の医師。歌人としてのペンネームは内田 守人(もりと)と称する。九州療養所国立療養所菊池恵楓園、国立療養所長島愛生園、国立療養所松丘保養園で医師として働いた。ハンセン病研究家。ハンセン病療養所入所者に短歌の指導を行った。戦後は医院開業後、熊本短大で社会福祉を研究、講義した。ハンセン病資料を多数集め、熊本県立図書館に内田文庫として寄贈した。 熊本県菊池郡泗水村(現・菊池市)にて1900年(明治33年)6月10日父常平、母波津の3男として出生。県立中学済々黌(せいせいこう)を経て、旅順工科学堂を中途退学、1920年(大正9年)県立熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)に入学。
尾形 亀吉(おがた かめきち、1900年6月8日- 1971… 尾形 亀吉(おがた かめきち、1900年6月8日- 1971年10月1日)は日本文化史学者。尾形裕康(早稲田大学教授・日本教育史)は兄。 福島県出身、東京文理科大学国史科卒。日本大学経済学部教授、1948年「近世奢侈の社会経済史的研究」で日大経済学博士、1956年「日本中世芸能史研究」で日大文学博士。日本大学芸術学部長、同理事などを経て、本州大学・本州女子短期大学初代学長に就任。1968年病気療養のため辞任。 1965年、長野県塩田町(現在の上田市)の要請を受け、同地での大学設置に尽力し、1967年に文部省からの認可を得た。この当時、地方の町村が大学を招致したのは画期的として全国の注目を集めた。
水池 亮(みずいけ りょう、1900年(明治33年)6月7日… 水池 亮(みずいけ りょう、1900年(明治33年)6月7日 - 1976年(昭和51年)7月7日)は、日本の内務官僚、実業家。内務省警保局長、海軍司政長官。 兵庫県出身。農業・水池亀松の三男として生まれる。小野中学校を経て、第一高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年4月、内務省に入省し警保局保安課に配属。 1926年11月から1927年10月まで北京に駐在。以後、地方事務官・鹿児島県勤務、地方警視・奈良県警察部特別高等警察課長、北海道庁警察部特別高等警察課長、警察講習所教授、内務事務官・警保局保安課勤務、宮内書記官・大臣官房総務課勤務、警視庁官房主事、内務書記官・警保局警務課長、警視庁特別高等警察部長、内務書記官・大臣官房文書課長などを歴任。
西村 関一(にしむら せきかづ、1900年6月4日-1979… 西村 関一(にしむら せきかづ、1900年6月4日-1979年8月15日)は、日本の牧師、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)。アムネスティ・インターナショナル日本支部理事長。川北対合衆国事件の時には、減刑嘆願運動の中心的な人物として活動した。 新東京国際空港(現・成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった。
北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ、1900年〈明治33年〉6月… 北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ、1900年〈明治33年〉6月3日 - 1990年〈平成2年〉4月12日)は、日本の詩人、映画評論家。『悪夢』(1947年)などの小説作品もある。本名は田畔 忠彦(たぐろ ただひこ)。 第1詩集『三半規管喪失』(1925年)を自費出版、詩誌「詩と詩論」を創刊し、新散文詩運動を展開した。戦後は新現実主義を提唱し、現代詩の可能性を追究した。作品に詩集『戦争』(1929年)など。 滋賀県大津に生まれながら、父親の仕事関係で満州で育ち、軍国主義の旅順中学で5年間寄宿舎生活を送った。 1919年(大正8年)に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科丙類(フランス語必修)に入学。
岩生 成一(いわお せいいち、1900年(明治33年)6月2… 岩生 成一(いわお せいいち、1900年(明治33年)6月2日 - 1988年3月21日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。東京大学文学部教授、日本大学文理学部教授、法政大学文学部教授を歴任。日本学士院会員。 1900年(明治33年)、東京で生まれた。東京帝国大学文学部国史学科で学び、1925年(大正14年)に卒業。 卒業後は東京帝国大学史料編纂掛に勤務。のち台北帝国大学教授となり、南洋史講座を担当した。 戦後の1948年(昭和23年)、東京大学文学部教授となった。1951年(昭和26年)、学位論文『南洋日本町の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1961年(昭和36年)に東京大学を定年退官し。
小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 … 小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 - 1933年(昭和8年)1月6日)は、日本の小説家、劇作家。 1900年6月1日、宮城県仙台市に生まれる。長野県旧制松本中学(現在の長野県松本深志高等学校)を経て、1924年に早稲田大学文学部哲学科卒業。在学中に横光利一や中山義秀と同人誌『塔』を発行した。卒業後はプロレタリア文学に傾倒し、1925年、『早稲田文学』に「地平に現れるもの」を発表したが発禁処分となる。翌年には『新小説』に「遥かなる眺望」、創作集『ケルンの鐘』などの戯曲を発表して、社会主義とモダニスムを併せ持つ作風で注目を集めた。当初は労農芸術家連盟に所属していたが、その後第二文戦打倒同盟をへて日本プロレタリア作家同盟に参加した。
春山 定(はるやま さだむ、1900年 <明治33年> 6月… 春山 定(はるやま さだむ、1900年 <明治33年> 6月1日 - 1974年 <昭和49年> 7月10日)は、日本の経営者。大分県大分市出身。位階は従四位。 1925年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、帝国生命保険に入社。 1947年3月に取締役、同年7月に朝日生命保険常務を経て、1961年5月には社長に就任。1965年5月から1971年5月までに会長を務めた。 1965年6月から1967年6月までに生命保険協会会長を務めた。 1965年9月に藍綬褒章を受章し、1940年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年7月10日急性心不全により死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996… 加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996年1月1日)は、日本の政治家、教育者。宮城県角田市長(初代・2代・3代)。元宮城県議会議員(1期)。元角田町長。角田市名誉市民。位階は正六位。 1900年(明治33年)に現在の角田市内で生まれ、1918年(大正7年)3月、角田中学校を卒業し、1919年(大正8年)宮城師範学校本科第2部を卒業。角田小学校などの校長を務めた。 戦後1947年(昭和22年)の宮城県議会議員選挙に当選し、県議会議員となった。 1954年(昭和29年)10月の新設合併により拡大した角田町の町長選挙が11月に行われ出馬し、当選。初代町長に町長に就任した。1958年(昭和33年)10月1日、市制施行により角田市が誕生。
大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900… 大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900年6月1日 - 1961年7月28日)は、東京都浅草出身の日本の男性アニメ監督である。 戦前期には江戸千代紙を用いた切り絵アニメーション、戦後は影絵と色セロファンを用いたアニメーションを個人で作り続け、とりわけ後者は日本のアニメーションとして初めて国際的な評価を受ける。特に1953年にカンヌ国際映画祭短篇部門に出品した『くじら』(1952年完成)は上映会場で画家パブロ・ピカソにも絶賛された。手塚治虫は「わが国のアニメーションの最初の功労者」としている。没後、大藤の生涯の業績を記念して毎日映画コンクールの中に大藤信郎賞が設けられた。 東京浅草の蓄音機録音スタジオを経営する家で、8人兄弟の7番目の子として生を享ける。
チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不… チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不詳)は、イギリス統治下のビルマ(現ミャンマー)出身のエンジニア、陸上競技選手、日本のサッカー指導者。日本に留学中の1920年代に、日本サッカーの技術、戦術の伝統の基礎を作ったとして知られる。名をモン・チョー・ディンとする資料もある。 チョウ・ディンの経歴は断片的に調査・紹介されているものの、1920年代前半の日本への留学時代以外については不明な点が多い。第一次世界大戦では宗主国であったイギリスの兵士として従軍し、負傷したという。 チョウ・ディンは走高跳の選手だったが、ミャンマーは他の東南アジア同様、古くからサッカーが盛んであり、チョウ・ディンもショートパス戦法を編み出したスコットランド人にサッカーを学んだという。
今岡 賀雄(いまおか よしお、1900年(明治33年)6月 … 今岡 賀雄(いまおか よしお、1900年(明治33年)6月 - 1944年(昭和19年)3月14日)は、昭和時代前期の電気工学者、通信技術者、実業家。 東京府士族・今岡純一郎の長男として生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学物理学科を卒業後、東京電気株式会社(のちの東京芝浦電気株式会社→東芝)に入社、1935年(昭和10年)製造部長、取締役、技師長を歴任する。1944年(昭和19年)3月14日、激務による過労により川崎駅にて事故に遭い殉職した。 東京電気にて無線通信機および真空管の研究に従事し、1935年(昭和10年)に150kWの大電力放送機を完成させた。ほか、「マツダランプ」の開発および製造で培った知見をもとに、無線用真空管「サイモトロン」などを開発した。
井坂 圭一良(いさか けいいちろう、1900年〈明治33年〉… 井坂 圭一良(いさか けいいちろう、1900年〈明治33年〉5月31日 - 1945年〈昭和20年〉)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平安南道知事。 井坂圭松の子として北海道に生まれる。九州帝国大学を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学経済学部を卒業する。この間、1924年(大正13年)に高等試験に合格した。朝鮮総督府に奉職し、殖産局属、慶尚南道属を経て、1928年(昭和3年)総督府事務官内務局勤務に転じた。ついで全羅北道、平安南道各警察部長、総督官房文書課長兼国勢調査課長、殖産局商工課長兼企画部第三課長、商工第一課長兼物資調整第二課長、総督官房審議室勤務兼東京事務所長などを経て、1944年(昭和19年)9月、平安南道知事に就任した。
舟橋 諄一(ふなばし じゅんいち、1900年5月31日 - … 舟橋 諄一(ふなばし じゅんいち、1900年5月31日 - 1996年11月21日)は、日本の法学者(民法)。九州帝国大学名誉教授。穂積重遠、末弘厳太郎に師事。藍綬褒章受章。 1930年には北九州市に開校された九州法学校の理事に就任、同校で民法の講義も行った。九州大学退官後は法政大学教授、創価大学教授、八幡大学社会文化研究所客員教授などを歴任した。 不動産登記法・物権法に関する研究で著名である。民法177条の「第三者」に何らかの主観的な制限をつけるべきかという問題において、舟橋は、当初悪意者排除説を主張していたが、その後、牧野英一が提唱した、単なる悪意者は含まれないが、背信的悪意者は排除されるとの背信的悪意者排除説に改説した。
若林 義孝(わかばやし よしたか、1900年(明治33年)5… 若林 義孝(わかばやし よしたか、1900年(明治33年)5月30日 - 1981年(昭和56年)5月17日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員(2期)。福井県敦賀市長、大阪府箕面市長。 三重県上野市にて生まれる。1927年(昭和2年)京都帝国大学法学部を卒業し、同大学生監事務嘱託を経て、国民同志会に入る。同会では理事に進み、長らく国民の政治教育に傾倒した。のち、学士会倶楽部大阪支部書記長を経て、1938年(昭和13年)12月12日に前福井県敦賀市長の森本一雄が逝去すると、同職の後任となった。 ついで、日本人造皮革工業連合会長、黒住教顧問などを歴任。1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙岡山全県区に自由党から出馬して当選し、第24回総選挙でも当選して計2期在任した。
正木 清(まさき きよし、1900年(明治33年)5月30日… 正木 清(まさき きよし、1900年(明治33年)5月30日 - 1961年(昭和36年)4月12日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(7期)。衆議院副議長(第40代)を務めた。 福島県石城郡好間村(現いわき市)出身。小学校卒業後、炭坑の給仕などを経て1921年(大正10年)に上京するが、関東大震災で帰郷。1924年(大正13年)24歳の時北海道小樽市に移住し、鉄筋工などとして働く。小樽総労働組合に参加し、北海道地方評議会常任執行委員として多数の争議を指導する。1928年(昭和3年)の三・一五事件で2年間投獄される。出獄後は日雇労働を経て、1931年(昭和6年)、新労農党に参加。1934年(昭和9年)、全札幌労働者組合の支持を得て8年ぶりとなる無産派の札幌市議に選出される。
稲本 早苗(いなもと さなえ、1900年(明治33年)5月2… 稲本 早苗(いなもと さなえ、1900年(明治33年)5月28日 ‐ 1977年(昭和52年)1月21日) は、昭和期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡岩城村長。 愛媛県越智郡岩城村(現上島町)で、酒造業・稲本幸次郎の長男として生まれた。1922年(大正11年)早稲田大学専門部商科を卒業した。 1929年(昭和4年)岩城村長に就任し1946年(昭和21年)3月まで在任。この間、産業組合の改組、産業振興、道路整備、河川改修、診療所設置などに尽力した。1937年(昭和12年)9月、愛媛県会議員補欠選挙に当選し、1939年(昭和14年)9月に再選され1946年4月まで在任し、同参事会員も務めた。
喜多野 清一(きたの せいいち、1900年5月27日 - 1… 喜多野 清一(きたの せいいち、1900年5月27日 - 1982年12月20日)は、日本の社会学者。文学博士(東北大学)。専門は、農村社会学。弟子に正岡寛司他。 和歌山県西牟婁郡田辺町(田辺市)出身。1921年、第三高等学校卒業。1925年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。法政大学予科専任講師。1927年、東京帝国大学大学院(旧制)退学(指導教授:戸田貞三)。1933年、法政大学文学部専任講師。1942年、日本社会学会理事。仙台高等実務学校(仙台法経専門学校)副校長。1946年、連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局顧問。1948年、九州大学法文学部教授。1949年、同文学部教授。1949年、同産業労働研究所教授。
長 守善(ちょう もりよし、1900年(明治33年)5月26… 長 守善(ちょう もりよし、1900年(明治33年)5月26日 - 1971年(昭和46年)6月8日)は、日本の経済学者。中央大学名誉教授、松商学園短期大学第4代学長。 1900年、愛媛県松山市生まれ。第四高等学校から、東京帝国大学経済学部に進み、1926年に卒業した。大学院在籍ののち満鉄調査部へ勤務。ベルリン大学留学。 戦後は1948年に中央大学教授となり、経済学部長、経済学研究所長(1964年 - 1966年)などを歴任した。その間、1959年に「福祉国家イギリスの研究:その理念、形成、政策」を一橋大学に提出し、経済学博士の学位を取得。 中央大学を退職して名誉教授となり、1970年4月1日から松商学園短期大学の第4代学長に就任して、4年制大学への昇格を目指すに取り組みに着手したが、在職中の1971年6月8日に急逝した。
藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 19… 藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 1983年4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)。衆議院議員時代は、山崎 道子(やまざき みちこ)で活動した。 1900年5月26日、岡山県児島郡(旧宇野町、現玉野市)出身。幼少期に生家が没落したため小学校を5年で中退して印刷女工などをしながら後に上京、1915年看護婦試験に合格。賀川豊彦の影響を受けてクリスチャンとなる。派出看護婦、巡回産婆も経験し1925年日本労農党の山崎釼二と結婚、夫婦で貧困と戦いながら農民運動に勤しんだ。1946年の総選挙で静岡県(大選挙区の全県1区)から日本社会党より「山崎道子」として立候補して初当選。
杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月2… 杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。
佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月… 佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月25日 - 1985年〈昭和60年〉12月24日)は、日本の政治家。元衆議院議員、第5代日本社会党委員長。 宮城県本吉郡(現在の登米市津山町柳津石貝)に農民の子として生まれる。両親が家出をしているときに出来た子どもだったため、11歳になるまで戸籍に登載されず、小学校教育も十分に受けることは出来なかった。若いころは炭焼きなど、故郷で重労働に従事した。1924年(大正13年)、一念発起して、仙台市に出て、製糸工場の臨時人夫をして金をため、東京に出る。その後、苦学しながら日本大学専門部政治科を卒業した。 1928年(昭和3年)、勤務先の自転車会社でストライキを指導して解雇される。