与儀 達敏(よぎ たつびん、與儀 達敏、1901年5月19日… 与儀 達敏(よぎ たつびん、與儀 達敏、1901年5月19日 - 1965年2月25日)は、宮古民政府及び琉球政府の政治家。1956年4月から1958年3月まで立法院議長を務めた。沖縄県宮古郡下地村(現宮古島市)出身。 明治34年(1901年)5月19日生まれ。昭和4年(1929年)に東洋大学専門部倫理科を卒業し、地元の沖縄県立宮古中学校(現沖縄県立宮古高等学校)の教諭となり、教職に就いた。 沖縄戦後は、宮古民政府の副知事に就任した。1952年の第1回立法院議員総選挙に当選し立法院議員となった。 そして、比嘉秀平とともに新党結成に奔走し、「琉球民主党(後の沖縄自由民主党)」を立ち上げた。 行政主席の比嘉秀平の下で行政副主席を務めた後、立法院議長に選ばれた。
もっと読む
原島 進(はらじま すすむ、1901年5月17日 - 197… 原島 進(はらじま すすむ、1901年5月17日 - 1972年7月27日)は、日本の衛生学者。 東京出身。1926年慶應義塾大学医学部卒。1930年「麻醉の本態に関する研究」で医学博士。慶大助手、講師、1932年米国に渡り、1935年ジョンズ・ホプキンズ大学卒、帰国して慶大助教授、1946年教授。1967年定年、名誉教授、桃山学院大学教授。WHO専門委員、中央公害審議会委員、HLO労働衛生専門委員、厚生省生活環境審議会公害部会長を務めた。工業中毒、環境生理学、社会医学を研究した。
もっと読む
古在 由重(こざい よししげ、1901年5月17日 - 19… 古在 由重(こざい よししげ、1901年5月17日 - 1990年3月6日)は、日本の哲学者。元名古屋大学教授。元日本共産党員。 東京帝国大学総長を務めた農芸化学者・古在由直と、作家・清水紫琴の次男として東京府(現・東京都)に生まれる。兄・由正は東洋史学者・幣原坦の次女・澄江と結婚している。千葉大学学長を務めた農芸化学者・古在豊樹は由重の息子であり、国立天文台初代台長を務めた天文学者・古在由秀は由重の甥(由正・澄江夫妻の長男)にあたる。 旧制第一高等学校、東京帝国大学文学部哲学科卒業。1932年、戸坂潤らと唯物論研究会を設立し、1933年および1938年の二度、治安維持法違反で検挙される。出獄後は上智大学でカトリック文献の翻訳や、四王天延孝の回教協会に勤務して、戦時下を過ごした。
もっと読む
石川 善助(いしかわ ぜんすけ、1901年〈明治34年〉5月… 石川 善助(いしかわ ぜんすけ、1901年〈明治34年〉5月16日 - 1932年〈昭和7年〉6月27日)は、日本の詩人。 宮城県仙台市国分町芭蕉の辻(現・青葉区内)に生まれる。生家は小間物問屋だった。幼少時に柿の木から落下する事故に遭い、片足が不自由となる。1914年(大正3年)に市立仙台商業学校(現・仙台市立仙台商業高等学校)へ入学。商業学校時代から詩作を始める。一方、入学翌年に生家が破産した。 商業学校卒業後、酒販店の勤務を経て、1920年から藤崎呉服店計算課に勤める。1923年に同人誌『感触』を友人とともに発行する。1924年には『日本詩人』に初めて詩が掲載された。この年、前年廃刊にした『感触』のメンバーも含める形で『北日本詩人』を創刊する。
もっと読む
里見 明(さとみ あきら、1901年〈明治34年〉5月16日… 里見 明(さとみ あきら、1901年〈明治34年〉5月16日 - 1972年〈昭和47年〉12月27日)は、日本の俳優である。サイレント映画時代の映画スターである。本名は松本 米三(まつもと よねぞう)。「浅草オペラ」のスターから映画俳優に転向した。旧芸名小松 明(こまつ あきら)。 1901年(明治34年)5月16日、東京府東京市本所区向島須崎町(現在の東京都墨田区向島4-5丁目のあたり)に生まれる。兄はのちの映画監督の松本英一である。築地工手学校(現在の工学院大学)予科を修了後、太平洋画会(現在の太平洋画会研究所)で洋画を学んだが、兄同様に芝居に転向していく。 佐藤紅緑の劇団「日本座」に入団し函館で初舞台を踏み、浅草公園六区の「観音劇場」、新日本劇団を経て、「浅草オペラ」の根岸大歌劇団に入団、「小松明」名で一躍人気を集めた。
もっと読む
宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 19… 宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 1982年12月17日)は、日本の教育評論家、児童文学作家。男性。 長野県下伊那郡市田村(現高森町)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、慶應義塾大学文学部心理学科卒。同幼稚舎教師を経て、戦後は小原國芳の湘南学園設立に参加し初代園長、杉野女子大学短期大学部教授。 自ら児童読物を多く書いたほか、教育指南書を著し、旧文部省の「幼稚園指導要綱」作成委員なども歴任した。 子に演劇評論家・「朝日ジャーナル」編集長の宮下展夫、ドイツ文学者・慶應義塾大学名誉教授の宮下啓三。
もっと読む
杉 健一(すぎ けんいち、1901年5月15日 - 1948… 杉 健一(すぎ けんいち、1901年5月15日 - 1948年7月6日)は、日本の岩石学者。学位は、理学博士(1932年)(学位論文「On the metamorphic facies of the Misaka series in the vicinity of Nakagawa, Prov. Sagami(相模中川附近に於ける御坂層起原の変成岩相に就て)」)。 日本岩石学は、明治初期の小藤文次郎を基とし、1910年代後半神津叔祐、坪井誠太郎を経て鈴木醇、富田達、“杉健一”が1920年代に活躍し始め、基礎を築いた。 杉の変成岩岩石学の日本輸入移植は、特に現代の岩石学の基盤を築き上げた大表者と目されるに至ったのである。
もっと読む
河野 謙三(こうの けんぞう、1901年(明治34年)5月1… 河野 謙三(こうの けんぞう、1901年(明治34年)5月14日 - 1983年(昭和58年)10月16日)は、日本の政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 参議院議員(5期)、衆議院議員(1期)、参議院議長(第11・12代)を歴任した。 神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)に河野治平、タミ夫妻の三男として生まれる。河野一郎は兄、河野洋平は甥に当たる。 神奈川県立小田原中学校(現在の神奈川県立小田原高等学校)時代から長距離選手として活躍し、早稲田大学在学中は競走部(陸上競技部)に入り、兄一郎と共に箱根駅伝の選手として活躍、2度の総合優勝を経験した。第3回大会では区間2位の選手に10分37秒差をつけた。
もっと読む
小川 裕人(おがわ ひろと、1901年5月14日 - 197… 小川 裕人(おがわ ひろと、1901年5月14日 - 1974年10月27日)は、日本の歴史学者。専門は東洋史。東方文化学院研究員(東亜研究所委託事業嘱託、1939年1月 - 1944年)、大谷大学教授、大阪商業大学教授。 長野県出身。京都帝国大学文学部卒業。1933年に外務省の文化事業部は満蒙文化研究事業という名目で助成金を出し、東京帝国大学と京都帝国大学に委託したが、京都帝国大学では羽田亨を中心に、田村実造、若城久治郎、外山軍治、小川裕人らが研究を行った。 京都帝国大学は1938年から『満蒙史論叢』を刊行したが、小川裕人が第2巻の編集を担当している。 関西大学講師、大谷大学教授、大阪商業大学教授を務めた。
もっと読む
橋本 乾三(はしもと けんぞう、1901年(明治34年)5月… 橋本 乾三(はしもと けんぞう、1901年(明治34年)5月14日 - 1983年1月21日)は、日本の検事。東京市渋谷区出身。 大日本麦酒(現・サッポロビール)の常務を務めた橋本卯太郎の三男で、首相を務めた橋本龍太郎、高知県知事を務めた橋本大二郎兄弟の伯父にあたる。 1901年(明治34年)5月14日、日本麦酒社員・橋本卯太郎とマツの三男として生まれた。旧制第一高等学校を経て、1926年(大正15年)6月に東京帝国大学法学部を卒業。 1927年(昭和2年)3月司法官試補、東京地方裁判所詰。1928年(昭和3年)12月検事 東京地方裁判所予備検事。秋田地方裁判所予備検事。 1929年(昭和4年)12月秋田区裁判所検事。
もっと読む
吉田 孝雄(よしだ たかお、1901年5月12日 - 197… 吉田 孝雄(よしだ たかお、1901年5月12日 - 1979年1月24日)は、日本の経営者。東京都出身。 1924年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、同年に中島飛行機に入社。設計主任として、多くの海軍機の設計に携わり、1955年に岩崎通信機社長を経て、1956年から1963年までに富士重工業社長を務めた。 1962年5月に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1979年1月24日肺癌のために死去。77歳没。
もっと読む
佐藤 正能(さとう まさよし、1901年(明治34年)5月1… 佐藤 正能(さとう まさよし、1901年(明治34年)5月10日 - 1979年(昭和54年)11月14日)は、日本の教育者、ドイツ法学者、横浜国立大学教授、財団法人荘内館理事。栄典は、正四位・勲三等旭日中綬章。 ※この歌は佐高信が自著で取り上げた事で有名になった。
もっと読む
高橋 庸弥(たかはし つねや、1901年(明治34年)5月1… 高橋 庸弥(たかはし つねや、1901年(明治34年)5月10日 - 1970年(昭和45年)2月7日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選鳥取県知事。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て第八高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し大分県属となる。 以後、警視庁特別高等警察部第一課長、石川県書記官・警察部長、内務省警保局警務課長、企画院書記官などを経て、大阪府警察局長となる。 1945年4月、鳥取県知事に就任。同年10月、厚生省労政局長に転じ、労働組合法の原案作成に関わった。
もっと読む
和合 恒男(わごう つねお、1901年(明治34年)5月10… 和合 恒男(わごう つねお、1901年(明治34年)5月10日 - 1941年(昭和16年)5月16日)は、日本の農本主義者で、長野県東筑摩郡波多村(現松本市)に農本主義に基づく学校をつくった。
もっと読む
足利 惇氏(あしかが あつうじ、1901年〈明治34年〉5月… 足利 惇氏(あしかが あつうじ、1901年〈明治34年〉5月9日 - 1983年〈昭和58年〉11月2日)は、日本のインド・ペルシア学者。第5代東海大学学長。京都大学・東海大学名誉教授。文学博士(京都大学、1949年)。日本オリエント学会会長。 東京市本郷区駒込千駄木林町(現:東京都文京区千駄木)生まれ。インド学において業績を残すとともに日本に本格的なイラン学を導入した。東海大学付属図書館には『足利惇氏文庫』と冠して資料が所蔵されている。 関東公方系足利氏で旧喜連川藩家の足利子爵家当主。先代当主足利於菟丸と後妻ヒロの長男。前名・惇麿。妻は有馬頼寧の次女・澄。父の隠居に伴い、1935年(昭和10年)12月2日に子爵を襲爵した。
もっと読む
佐藤 雪夫(さとう ゆきお、1901年5月7日 - 1931… 佐藤 雪夫(さとう ゆきお、1901年5月7日 - 1931年12月21日)は、日本の翻訳家、雑誌記者。群馬県室田町(現高崎市)出身。 東京神田の順天中学校を卒業後、1924年に東京外国語学校イタリア語科卒業。同年5月に発行された文芸雑誌「南歐文學」の編集人を務め、イタリア文学紹介、翻訳などで活躍した。同誌の発行元は三田書房、発行人は甲斐田イヨ。南ヨーロッパの文学を紹介・研究することを目的とし、原語からの翻訳やエッセイなどが掲載された。全2冊で、1号は同年5月に発行され、巻頭にポール・クローデルの肖像と題字「水に聴く」を掲載。2号は翌6月の発行。 翌1925年にキネマ旬報社に編集部員として入社し、映画評論、脚色等で活躍した。
もっと読む
新垣 美登子(あらかき みとこ、1901年〈明治34年〉5月… 新垣 美登子(あらかき みとこ、1901年〈明治34年〉5月6日 - 1996年〈平成8年〉12月9日)は、日本の作家、美容師。 作家としての代表作は、処女作の『花園地獄』、『黄色い百合』など。甥はレーザー医学の第一人者とされる医師の大城俊夫。 沖縄県那覇区上之蔵で誕生した。小学校4年生の頃から文学を愛好した。沖縄県立高等女学校に入学後、昼間は県立図書館に入り浸りとなり、当時の県立図書館の館長を務めていた伊波普猷との出会いがあった。大正デモクラシーの最中の女学生には、読書好きが多かったが、特に美登子はその筆頭といえ、女学校2年のとき『チャタレイ夫人の恋人』を読み、大人を真似てフランスやイギリス文学にも手を伸ばしていた。
もっと読む
高橋 重威(たかはし じゅうい、1901年5月5日 - 19… 高橋 重威(たかはし じゅうい、1901年5月5日 - 1981年7月28日)は、元夕刊フクニチ新聞社社長、福岡銀行頭取。栃木県出身。東京帝国大学独法科卒業。 1927年、日本銀行に入行。1945年、福岡銀行に移り、副頭取に就任したが、四ヶ月後に頭取に昇格した。他に、日本海上工事会長、日本海上工事顧問、日産建設会長などの要職を歴任し、戦後経済の復興に尽力した。1948年、梅林組に対する融資問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1972年、勲三等瑞宝章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
もっと読む
呉 緯泳または呉 緯永(オ・ウィヨン、오위영、1901年5月… 呉 緯泳または呉 緯永(オ・ウィヨン、오위영、1901年5月5日または1902年5月5日または1905年 - 1978年10月2日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の銀行家、政治家。朝鮮信託銀行(韓一銀行を経て現・ウリィ銀行)頭取、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は海州呉氏。号は石耘。第3回ミスコリアの呉賢珠は四女、カトリック教会の聖職者の姜禹一(朝鮮語版)は外孫。 慶尚南道蔚山郡彦陽面(現・蔚山広域市蔚州郡彦陽邑)東部里出身。1921年釜山公立商業学校卒、しばらく朝鮮銀行で勤務して、1924年にまた神戸高等商業学校予科に入学し、1928年本科卒。1928年慶尚南道金融組合連合会理事見習、彦陽金融組合代理理事、1929年陜川草渓金融組合理事、1932年鎮海金融組合理事、1935年朝鮮信託会社群山支店支配人代理、1941年同社大邱支店首席支配人代理、1945年同社常務取締役・営業部長、1946年朝鮮火災保険会社取締役、1947年朝鮮換金銀行(現・韓国銀行)参与・重役、同年から1950年まで朝鮮信託銀行頭取、1948年交通部諮問委員、1949年中央経済委員会委員・物価分科委員長、同年財政金融委員会委員を歴任した。
もっと読む
富永 太郎(とみなが たろう、1901年(明治34年)5月4… 富永 太郎(とみなが たろう、1901年(明治34年)5月4日 - 1925年(大正14年)11月12日)は、日本の詩人、画家、翻訳家である。
もっと読む
今井 はつ(いまい はつ、1901年(明治34年)5月3日 … 今井 はつ(いまい はつ、1901年(明治34年)5月3日 – 1971年(昭和46年)4月6日)は、日本初の女性国会議員の一人。 1901年、福井県大野郡勝山町(現在の勝山市)に出生。私立水田高等技芸学校卒。結婚後四国に渡り、高等小学校の代用教員や新聞記者をした。その後、上京し、裁縫塾を開き、戦災で故郷の福井に戻った。 男女普通選挙制度が採用されて初の選挙である1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から立候補し、日本初の女性国会議員の一人となった。しかし、当選後、大阪府立清水谷高女中退を卒業としていた学歴詐称が発覚、書類送検となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で福井県(全県1区)から日本自由党で立候補したが落選した。
もっと読む
田中 諭一郎(たなか ゆいちろう、1901年5月1日 - 1… 田中 諭一郎(たなか ゆいちろう、1901年5月1日 - 1983年11月25日)は、日本の農学者。柑橘類の研究で知られる。 愛知県出身。愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)を1919年に卒業、農商務省園芸試験場の助手となり、台北帝国大学園芸教室の助手、講師を務めた。1941年から静岡県柑橘試験場の技師となった。1942年、台北帝国大学から『日本在来果樹、特に柑橘、栗、梅に関する譜学的研究』で農学博士号を得た。1946年、静岡県柑橘試験場長となった。柑橘類の分類と育種を専門とし、静岡県内のミカン栽培の巡回指導をした。温州ミカンの品種、「宮川早生」、「肥後早生」、「青島温州」などの育種、普及に貢献した。
もっと読む
川上 拙以(かわかみ せつい 1901年5月1日 - 197… 川上 拙以(かわかみ せつい 1901年5月1日 - 1976年12月3日)は、日本の日本画家。戦前は風景花鳥を得意としたが、戦後は人物画を多く描いた。 1901年(明治34年)愛媛県新居浜郡生まれ。京都市立絵画専門学校を卒業後、西山翠嶂に師事。1922年(大正11年)の第4回帝展から帝展に出品を続ける。1934年(昭和9年)第15回帝展に出品した「幽香煎茗」は特選に選ばれた。1936年(昭和11年)文展招待展には「清風聽声」を出品。京都市展、大阪市展などにもそれぞれ委員、無鑑査等により出品している。 第二次世界大戦後も、1950年(昭和25年)の第6回日展から出品を行っている。 1976年(昭和51年)12月3日、心筋梗塞により京都専売病院で死去。
もっと読む
武市 健人(たけち たてひと、1901年5月1日 - 198… 武市 健人(たけち たてひと、1901年5月1日 - 1986年2月16日)は、日本の哲学研究者。学位は、文学博士(東北大学・1950年)。神戸大学名誉教授。 1901年、高知県で生まれた。東北帝国大学法文学部で学び、卒業後は東北帝国大学講師に就いた。 戦後の1948年、神戸大学文理学部教授に就任。1950年、学位論文『弁証法論理の研究』を東北大学に提出して文学博士の学位を取得。1965年、神戸大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は大阪経済法科大学教授として教鞭を執った。 ヘーゲル、史的唯物論を研究テーマとし、ヘーゲルの著作を数多く翻訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
もっと読む
壷田 修(つぼた おさむ、1901年5月1日 - 1981年… 壷田 修(つぼた おさむ、1901年5月1日 - 1981年2月9日)は、日本の鉄道官僚、経営者。南海電気鉄道社長、会長を務めた。 三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)出身。1926年、早稲田大学在学中に高等文官試験行政科に合格。1927年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に鉄道省に入省。札幌鉄道管理局、陸軍司政長官、運輸省での勤務を経て、1947年5月に退官し、同年6月に南海電気鉄道取締役に就任。 常務、専務を経て、1956年11月に副社長に就任し、1959年6月には社長に昇格。1966年10月に会長に就任し、1968年4月には顧問に就任。南海ホークスオーナーも務めた。 1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。
もっと読む
有田 喜一(ありた きいち、1901年4月30日 - 198… 有田 喜一(ありた きいち、1901年4月30日 - 1986年2月9日)は、日本の政治家、逓信及び運輸官僚。文部大臣(第87代)、科学技術庁長官(第17代)、防衛庁長官(第24代)、経済企画庁長官(第22代)、衆議院議員(9期)。 兵庫県氷上郡氷上町(現丹波市)出身。旧制兵庫県立柏原中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。逓信省大阪逓信局長や運輸省海運総局長を経て政界入り。政治家となってからは芦田均と行動をともにしたが、保守合同により自由民主党が結成されると旧芦田派の一部とともに岸派に入り、岸派の分裂後は福田派に属した。福田赳夫の右腕といわれ1966年8月、福田が大蔵大臣を務める第1次佐藤第2次改造内閣で文部大臣兼科学技術庁長官として初入閣。
もっと読む
香月 保(かつき / かずき たもつ、1901年(明治34年… 香月 保(かつき / かずき たもつ、1901年(明治34年)4月30日 - 1964年(昭和39年)3月12日)は、日本のジャーナリスト。福岡県田川市長。 福岡県田川郡方城村大字弁城(方城町を経て現福智町弁城)に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を卒業、同級生には後に朝日新聞で同僚となる笠信太郎と益田豊彦がいる。1923年東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 東京朝日新聞に入社し、同社ロンドン支局長、亜細亜部長を経て、1945年朝日新聞大阪本社編集局長に就任する。 1947年4月第1回大阪府知事選挙に日本社会党公認候補として立候補するが、修猷館の同級生である赤間文三に敗れ落選する。 1951年田川市長に当選し、1955年まで務める。
もっと読む
三輪 晁勢(みわ ちょうせい、本名:三輪 信郎、1901年〈… 三輪 晁勢(みわ ちょうせい、本名:三輪 信郎、1901年〈明治34年〉4月30日 - 1983年〈昭和58年〉9月7日)は、日本画家。日本芸術院会員、京都府美術工芸功労者、京都市文化功労者、与板町名誉町民(現在は長岡市名誉市民)。堂本印象の義弟。 1901年(明治34年)新潟県三島郡与板町長丁(現長岡市)に生まれる。父は洋画家の三輪越龍(本名:三輪大次郎)。与板町立与板尋常小学校卒業後、画家修業の為に京都へ移住し1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校入学。1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。 堂本印象に師事し、当初は超世と号した。1927年(昭和2年)第8回帝展に「東山」が初入選。
もっと読む
井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 198… 井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 1985年2月6日)は、日本の翻訳家、ジャーナリスト。 広島県生まれ。1923年(大正12年)、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語部卒業。東京帝国大学文科選科に入るが中退。1926年に東京外国語学校英語部選科を卒業、報知新聞に入社。特派員として渡米するが1927年に退社し、サンフランシスコの日本新聞の記者となる。その後パリに渡りソルボンヌ大学で学ぶ。再び米国に戻り、ロサンゼルスの日米新聞編集長を務め、加州毎日新聞の創設に参画。サンフランシスコの北米朝日新聞編集長を務めた後、1933年に帰国。外務省を経て、1936年3月に同盟通信社(以下、同盟)へ入社。
もっと読む
原 実(はら みのる、1901年(明治34年)4月29日 -… 原 実(はら みのる、1901年(明治34年)4月29日 - ?)は、日本の市民運動家。 鎌倉市の自然保護をめぐる市民運動の先駆者の一人で、その活動は古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法、いわゆる古都保存法の成立に結実した。全国歴史的風土保存連盟(以下「全風連」)の初代事務局長、同名誉会長を歴任。神奈川文化賞を受賞。 父は日本鉄道、鉄道院に勤務した原勇。父は沼津、母は会津出身である。幼時は各地を転々としたが、母方の実家から会津中学に通学し、1919年(大正8年)に卒業。慶應義塾に進学し、小泉信三に師事した。卒業後慶應義塾大学学生局、鉄道院図書館に勤務し、ロバート・モリソン・マキーバー(英語版)の『共同社会・結社・国家』を訳説したほか、『青年のために – 勉学について』を著す。
もっと読む
一本松 珠璣(いっぽんまつ たまき、1901年4月29日 -… 一本松 珠璣(いっぽんまつ たまき、1901年4月29日 - 1985年1月24日)は日本の実業家。電気工学者。元日本原子力発電社長、同最高顧問。従三位勲一等工学博士。日本の原子力発電事業の草分け的存在。 広島県佐伯郡能美村(現:広島県江田島市能美町)出身。1924年京都帝国大学工学部電気工学科卒。大阪市電気局(現:大阪市交通局)を経て関西配電(現:関西電力)入社。1942年同社企画課長を経て取締役神戸支店長。1945年「大都市電力系統計画論」で工学博士。1947年常務、1950年アメリカ視察で渡米。1956年、石川一郎原子力委員団長らと副団長として第1回の訪英調査団派遣に参加。世界最初の実用規模の原子力発電所・コールダホール型原子力発電所を視察、またアメリカの状況も視察した。
もっと読む
尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29… 尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は日本のジャーナリスト・評論家。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。共産主義者であり、ソ連のスパイ・扇動者としても活動した。 近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。 共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加。最終的にゾルゲ事件(「ゾルゲ゠尾崎事件」とも呼ばれる)として1941年(昭和16年)に検挙され、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。
もっと読む
慶谷 隆夫(けいや たかお、1901年4月29日 - 197… 慶谷 隆夫(けいや たかお、1901年4月29日 - 1972年11月27日)は、台湾総督府官僚。伊勢市長(4期)。 三重県出身。1926年東京帝国大学法学部政治学科卒。台湾総督府に入り、台中州勧業、地方、水利の各課長、新竹州警務部長、庶務、海事、社会の各課長、高雄州総務部長などを務め、1943年花蓮港庁長になる。戦後、帰国後の1946年宇治山田市長選挙に立候補したが落選。1947年三重県監査委員に就任する。1949年8月宇治山田市長に初当選。戦後の復興期にあり、都市基盤の整備、産業の振興、福祉の向上、教育施設の整備充実などに力を入れた。2年後の1951年の選挙では無投票で再選。翌1952年の市長選で中西幸重に敗れて落選した。
もっと読む
桜田 佐(さくらだ たすく、1901年4月29日 - 196… 桜田 佐(さくらだ たすく、1901年4月29日 - 1960年12月20日)は、フランス文学者、翻訳家、児童文学作家。 東京生まれ。旧制暁星中学・旧制一高を経て、東京帝国大学仏文科卒。立教大学教授、法政大学教授。 アルフォンス・ドーデの作品などを翻訳、晩年は児童文学を自ら書いた。
もっと読む
澤 重民(さわ しげたみ、1901年(明治34年)4月29日… 澤 重民(さわ しげたみ、1901年(明治34年)4月29日 - 1993年(平成5年)12月21日)は、日本の内務官僚、実業家。官選奈良県知事。 実兄に空母「瑞鶴」飛行隊長として真珠湾攻撃に参加した嶋崎重和がいる。 三重県出身。澤重元の長男として生まれる。第八高等学校を首席で卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科を首席で卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、国際労働機関帝国事務局勤務、佐賀県勤務、岐阜県勤務、内務省土木局河川課長、同地方局監督課長、同会計課長などを歴任。 1943年7月、奈良県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1945年2月、厚生省衛生局長に転任。
もっと読む
竹島 卓一(たけしま たくいち、1901年4月29日 - 1… 竹島 卓一(たけしま たくいち、1901年4月29日 - 1992年1月14日)は、建築史家。名古屋工業大学名誉教授。中国建築史に関する研究の第一人者。特に、北宋時代の建築書『営造法式』の研究で知られる。 1901年(明治34年)4月29日、三重県生まれ。1927年(昭和2年)に東京帝国大学工学部建築学科卒業。その後、東方文化学院東京研究所(現・東京大学東洋文化研究所)研究員をへて、名古屋高等工業学校に着任。法隆寺国宝保存工事事務所所長を兼任。1951年(昭和26年)、名古屋工業大学教授。1973年(昭和48年)『営造法式の研究』により第36回日本学士院恩賜賞授与。法輪寺三重塔を復元設計。1992年(平成4年)1月14日、死去。
もっと読む
重盛 寿治(しげもり としはる、1901年〈明治34年〉4月… 重盛 寿治(しげもり としはる、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1997年〈平成9年〉12月14日)は日本の労働運動家。政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(1期)。 長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)生まれ。大正8年(1919年)旧制蔵前工業専修学校(東京工業大学附属科学技術高等学校)建築学科卒業。昭和9年(1934年)東京市電気局自動車課に入局し、同年の労働争議に参加。同14年(1939年)東京交通労働組合の大会で常任委員に就任し、翌15年(1940年)同組合中央執行委員長に就任。 同20年(1945年)日本社会党に参画し、前記の労働組合を再建し、初代中央執行委員長に就任。同25年(1950年)第2回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から出馬し初当選。
もっと読む
森滝 市郎(森瀧 市郎、もりたき いちろう、1901年4月2… 森滝 市郎(森瀧 市郎、もりたき いちろう、1901年4月28日 - 1994年1月25日)は、日本の倫理学者、原水禁運動家。日本原水爆被害者団体協議会理事長、原水爆禁止日本国民会議代表委員などを務めた。 広島県双三郡君田村(現三次市)生まれ。1925年に広島高等師範学校文科2部を卒業し県立三次中学校の教員となるが、1927年に京都帝国大学文学部哲学科に進学し1930年に卒業。その後入学した同大学の大学院を1931年に卒業、出身校である広島高師教授に任じられ同年末に西しげと結婚。 1945年の原爆投下に際し、広島高師教官として動員学徒を引率していた市内江波(現・中区)の三菱重工広島造船所江波工場(爆心から4km)で被爆、爆風で飛散した窓ガラスの破片で右目を失明した。
もっと読む
佐藤 邦雄(さとう くにお、1901年4月28日 - 199… 佐藤 邦雄(さとう くにお、1901年4月28日 - 1996年9月20日)は、日本の弁護士、経営者。東北銀行監査役、取締役、岩手ヤクルト販売社長、ヤクルトスワローズ球団社長などを務めた。 宮城県出身。1927年に中央大学法学部を卒業。高等試験に合格して1928年に内務省に入省したが3年で辞め、1931年6月に弁護士として登録し、岩手県弁護士会に所属する。盛岡銀行の取り付け騒ぎに端を発する預金者からの訴訟では、頭取金田一国士の弁護人を務めた。日本弁護士連合会理事、盛岡弁護士会会長など弁護士会の役職を歴任したほか、同和対策協議会委員、中央公害対策審議会委員、全国人権擁護委員連合会会長(1979年から1989年まで)など各種の委員を務めた。
もっと読む
村上 俊亮(むらかみ しゅんすけ、1901年4月28日 - … 村上 俊亮(むらかみ しゅんすけ、1901年4月28日 - 1977年3月19日)は、日本の教育学者。 宮崎県出身。1927年、東京帝国大学文学部教育学科卒。文部省視学官。1949年、国立教育研究所に入り、1952年に所長。1956年、東京学芸大学学長。のち、青山学院大学学長、岐阜女子大学学長。元東京大学教授の村上泰亮は子。
もっと読む
龍胆寺 雄(りゅうたんじ ゆう、1901年4月27日 - 1… 龍胆寺 雄(りゅうたんじ ゆう、1901年4月27日 - 1992年6月3日)は茨城県出身の作家、サボテン研究家。龍膽寺雄とも表記。 千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)味噌部屋生まれ。茨城県真壁郡下妻町(現在の下妻市)育ち。本名は橋詰雄(はしづめ ゆう)。父橋詰孝一郎は長塚節の親友で、雄の出生当時は千葉県立佐倉中学校の国語教師だった。母の兄の連れ合いは松原姓で、その実兄にジャーナリストの松原二十三階堂がいる。 生後まもなく、父の転任に伴って下妻に移住。1918年、茨城県立下妻中学校卒業。第二高等学校 (旧制)を受験したが失敗し、その翌年、水戸高等学校 (旧制)受験の途次、急性の結核性頸部淋巴腺腫に倒れて受験を断念し、東京の順天堂医院に入院。
もっと読む
鈴木 武雄(すずき たけお、1901年4月27日 - 197… 鈴木 武雄(すずき たけお、1901年4月27日 - 1975年12月6日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。武蔵大学学長。 1901年、兵庫県生まれ。神戸一中、第三高等学校を卒業。東京帝国大学経済学部に進んで1925年に卒業。 卒業後は、1928年京城帝国大学助教授に着任。1935年、教授昇進。敗戦で日本に引き揚げ、1949年に武蔵大学教授・経済学部長となった。1957年、東京大学経済学部教授となる。1961年、経済学博士号を取得。1962年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は武蔵大学教授となり、学長もつとめた。
もっと読む
飯村 義美(いいむら よしみ、1901年4月27日 - 19… 飯村 義美(いいむら よしみ、1901年4月27日 - 1986年9月16日)は日本の法律家。最高裁判所裁判官。 長野県東筑摩郡笹賀村(現松本市)生まれ。浦和高等学校を経て、1929年東京帝国大学法学部卒業、同年高等文官試験司法科合格。翌年同試験行政科合格。1931年東京府で弁護士開業。1943年中外製薬監査役に就任。1948年東京弁護士会副会長、1950年日本弁護士連合会常任理事となる。1967年から1971年まで最高裁判所裁判官を務める。1973年勲一等瑞宝章受章。 その他、法制審議会の民事訴訟法部・商法部委員や東京家庭裁判所の調停委員も務めた。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。
もっと読む
稲田 安良(いなだ やすよし、1901年〈明治34年〉4月2… 稲田 安良(いなだ やすよし、1901年〈明治34年〉4月27日 - 1981年〈昭和56年〉11月26日)は、陸軍歩兵(大佐)。正五位、勲四等。 1901年(明治34年)4月27日、北諸県郡山之口(現都城市)において稲田安彦の長男として生まれる。父・稲田安彦は元陸軍中尉であり、都城中学校の兵式体操の教官を務めていたこともある。1916年(大正5年)9月、都城中学校の第2学年から広島陸軍地方幼年学校に入校し、同校を経て、同年12月7日に陸軍士官学校本科を卒業(陸士第35期生)した。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第64連隊附となる。 1925年(大正14年)5月、歩兵第13連隊附に補せられる。
もっと読む
越後 正一(えちご まさかず、1901年(明治34年)4月2… 越後 正一(えちご まさかず、1901年(明治34年)4月26日 - 1991年(平成3年)4月2日)は、日本の実業家。元伊藤忠商事社長・会長。戦後再発足した伊藤忠商事・初代社長・小菅宇一郎の後任者。「伊藤忠中興の祖」、「繊維相場の神様」とよばれた。滋賀県出身。
もっと読む
平田 内蔵吉(ひらた くらきち、1901年4月26日 - 1… 平田 内蔵吉(ひらた くらきち、1901年4月26日 - 1945年)は、日本の医学者(民間療法家)、詩人。兵庫県赤穂市出身。弟の平田晋策は『新戦艦高千穂』などの作品がある戦争小説家。長男の平田穂生はシナリオライター。孫の平田オリザは劇作家である。 その他、民間療法の他に、坐の哲学と日本精神の真髄を追究したり、吉凶判断も研究したりしていた。平田は、自らが創始した療法体系を「皇方医学」(皇法医学)と名付けた。平田に学んだ奥山龍峰 (初代)が開いた八光流柔術に「皇方医学」(皇法医学)や吉凶判断は受け継がれたが、八光流の皇方医学は、指圧を中心に、整骨法、体操(護身体操、脊椎運動法)などのみで、平田の皇方医学の全てを伝えていない。
もっと読む
竹山 祐太郎(たけやま ゆうたろう、1901年4月25日 -… 竹山 祐太郎(たけやま ゆうたろう、1901年4月25日 - 1982年7月7日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。元建設大臣・静岡県知事。長男は元参議院議員の竹山裕。 静岡県磐田郡見付町(現・磐田市)に、農業・竹山宗一郎の長男として生まれる。中泉農業学校(現・静岡県立磐田農業高等学校)を経て、1922年東京帝国大学農学部実科(1935年東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)を卒業。農商務省に入省する。農林技官として、1930年代の農山漁村経済更生運動(いわゆる“自力更生運動”)に取り組み、全国各地を回った。1941年からは東京高等農林学校教授を兼任した。 1945年農林省を退官し、全国農業会指導部長となる。
もっと読む
酒井 喜四(さかい きし、1901年4月25日 - 1974… 酒井 喜四(さかい きし、1901年4月25日 - 1974年7月1日)は、日本の官僚・実業家。 帝国石油総裁・社長を務めた。 北海道札幌市出身。1924年に東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省。商工事務官、商工省鉱山局燃料課長、燃料局第一部油政課長兼資源課長兼商工書記官、燃料局石油部長、札幌鉱山局長などを歴任。商工事務官時代に旧石油業法の起案に携わり、1934年の同法の成立に尽力した。1941年10月鉄鋼局長、1943年鉄鋼統制販売株式会社社長。戦後も商工省燃料局長を務めたが、1947年に退官。同年の第23回衆議院議員総選挙において北海道1区から立候補したが落選した。1948年に帝国石油総裁となり、1950年の民営化後も引き続き1952年まで社長を務めた。
もっと読む
高橋 掬太郎(たかはし きくたろう、1901年(明治34年)… 高橋 掬太郎(たかはし きくたろう、1901年(明治34年)4月25日 - 1970年(昭和45年)4月9日)は、昭和期の作詞家。函館日日新聞の記者時代に作詞した『酒は涙か溜息か』が戦前の大ヒットとなった。位階は従五位。 1901年(明治34年)4月25日、北海道根室郡根室町(現・根室市)で漁師の息子として生まれ、「菊太郎」と名付けられた。根室商業学校を中退後、根室新聞社に入社。この頃から「高橋春波」のペンネームで文筆活動を始める。 1922年(大正11年)、函館日日新聞に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら文芸同人誌に参加。詩や小説、脚本などを手がけた。 1931年(昭和6年)、『酒は涙か溜息か』で作詞家デビュー。
もっと読む
松岡 忠男(まつおか ただお、明治34年(1901年)4月2… 松岡 忠男(まつおか ただお、明治34年(1901年)4月24日 - 昭和61年(1986年)6月6日)は日本の教育者。元鳥取県中学校長会長、元米子市教育長。 教育長在任中は福市遺跡の史跡指定、校区再編成問題、カギっ子学級の開設、陸上競技場の新設、中国オリンピック大会開催など、大きな業績を残した。 鳥取県西伯郡大篠津村(現在の米子市大篠津町)の農家に生まれた。父は3歳頃渡米したので、母が中心で下男を雇って農業経営(養蚕業)をし、祖父は町の名誉職で毎日を費やしていた。 愛労小、米子中学校(現米子東高校)を経て大正10年(1921年)鳥取県師範学校卒業。愛労小、中浜小訓導。 米子市立青年学校校長、米子市立第二中学校校長等を歴任し、昭和31年(1956年)退職。
もっと読む