山城 章(やましろ あきら、1908年5月3日 - 1993… 山城 章(やましろ あきら、1908年5月3日 - 1993年2月3日)は、日本の経営学者。一橋大学・創価大学名誉教授。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現・日南町)に生まれる。1927年島根県立商業学校(現・島根県立松江商業高等学校)卒、1930年高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)卒、1933年東京商科大学(現・一橋大学)卒。増地庸治郎の指導を受けた。1961年「現代企業の経営学的研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。横浜市立横浜商業専門学校(現・横浜市立大学)教授、東京商科大学教授、1949年一橋大学助教授、1952年教授。1972年定年退官、名誉教授、東洋大学経済学部教授、1978年創価大学経営学部教授、のち名誉教授。
菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日… 菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日 - 1985年(昭和60年)4月30日)は、日本の彫刻家。第1回毎日芸術賞を受賞。 菊池契月の長男として、京都市に生まれる。1926年(大正15年)に上京し、第一高等学校で藤川勇造から彫刻を学んだ。卒業後、1929年(昭和4年)に創設されたばかりの二科会の彫刻科に早川巍一郎らと共に所属し、塑像を制作する。後の1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部に入学し、在学中に自身の作品が初めて入選された。 卒業後の、1936年(昭和11年)留学のためフランスに渡り、シャルル・デスピオに師事する。1939年(昭和14年)に帰国し、2年後の1941年(昭和16年)に新制作派協会員の一員となった。
南 政善(みなみ まさよし 1908年5月3日 - 1976… 南 政善(みなみ まさよし 1908年5月3日 - 1976年4月28日)は、日本の洋画家。人物画を得意とした。 1908年(明治41年)5月3日、石川県羽咋郡志加浦村川尻(現・志賀町川尻)に生まれる。1935年(昭和10年)、東京美術学校油画科卒業。在学中には藤島武二に師事し、卒業の年に第二部会に出品して以降、官展、光風会展などに出品。1939年(昭和14年)の文展では「赤いチョッキ」で特選を受賞する。 第二次世界大戦中は中国への取材旅行を通じて戦争画も手掛けるようになり、1942年(昭和17年)の第二回聖戦美術展では「砲列布置」で陸軍大臣賞、「輸送船団」で海軍大臣賞を受賞した。 戦後は光風会の同志で交流のあった朝井閑右衛門、井手宣通、伊藤悌三、大河内信敬、須田剋太らとともに新樹会を創立。
日野原 保(ひのはら たもつ、1908年5月2日 - 199… 日野原 保(ひのはら たもつ、1908年5月2日 - 1999年11月20日)は、日本の鉄道技術者。京浜急行電鉄副社長、東京電機社長、会長などを務めた。 1908年(明治41年)横浜市生まれ。電鉄技術者を志した日野原は1929年(昭和4年)に東京高等工業高校(現、東京工業大学)を卒業したが、折しくも世界恐慌で、なんとか開業準備中の湘南電気鉄道の金沢工場でに実習生のもと無給ながら湘南電気鉄道デ1形電車の装備品の取り付け工事などをし、当時の最新技術を体に叩き込んだ。そして1931年(昭和6年)、京浜電気鉄道に入社した。その後、戦時合併で大東急を経て発足した京浜急行電鉄だが、日野原は戦争で疲弊した鉄道の施設や車両をみて、電車部次長時代に1952年の4月から4ヶ月の間アメリカ、カナダの鉄道視察に出かけた。
土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 198… 土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 1982年12月17日)は日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を通算3期務めた。日本共産党中央委員会顧問。 島根県簸川郡多伎町(現・出雲市)出身。1931年に明治大学法学部を卒業し、1934年に東京中央郵便局へ入る。戦後は全逓信労働組合(全逓、現・日本郵政公社労働組合)結成に関わり、初代委員長に就任。全日本産業別労働組合会議(産別会議)副議長として1947年の二・一ゼネストを主導した。翌年、1947年12月16日付全逓信従業員組合声明書及び同年12月29日付全逓新聞第79号記事に関する件に関し、衆議院逓信委員会に証人喚問された。
稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 … 稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐。
新城 正一(あらしろ せいいち、1908年(明治41年)5月… 新城 正一(あらしろ せいいち、1908年(明治41年)5月 - 1943年(昭和18年)8月)は、日本の作曲家、教師。 1908年(明治41年)、沖縄県恩納村名嘉真にて、瀬喜田、喜如嘉、宜野座、恩納の各小学校長を歴任した正成の長男として生まれる。沖縄県師範学校在学中に、恩師宮良長包と出会う。東京武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)卒業。 1938年(昭和13年)から、福岡県旧制小倉中学校・八幡中学校・門司中学校の教員となる。同年、陸軍省の愛馬進軍歌の作曲募集に応募、約5万件の応募作品の中から、一等に当選。 1943年(昭和18年)、喉頭結核にて35歳没。
釘本 久春(くぎもと ひさはる、1908年4月28日 - 1… 釘本 久春(くぎもと ひさはる、1908年4月28日 - 1968年5月11日)は、日本の国語学者、国文学者。 東京出身。群馬県立男子師範学校附属小学校、旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。旧制第一高等学校を経て、1932年、東京帝国大学国文科卒業。中央大学予科教授を経て、1939年9月文部省図書監修官。戦時中は石黒修などとともに大東亜共栄圏への日本語普及政策に関わっていた。戦後はGHQと連携を取りながら、西尾実とのコンビで国語改革や、国立国語研究所の創設に参与。1960年、東京外国語大学教授。在職中に死去。 一高と東大で同級生だった中島敦の親友で、パラオ南洋庁赴任の職の斡旋をし、死後の全集編纂などに尽くした。
国分 直一(國分 直一、こくぶ なおいち、1908年4月28… 国分 直一(國分 直一、こくぶ なおいち、1908年4月28日 - 2005年1月11日)は、日本の民族学者、考古学者。梅光女学院大学名誉教授。台湾の歴史、考古学などを研究した。 1908年、東京に生まれ、台湾で育つ。1930年、台湾総督府台北高等学校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。1933年に卒業論文「近世初頭に於ける精神的轉向に就いて」をまとめて、卒業。 在学中に学生運動にかかわったため当局ににらまれ、台湾に戻って台南州立台南第一女学校教諭。鹿野忠雄の影響を受けて民族学や考古学に関心を持つようになり、1937年に鹿野・御園生暢哉とともに現地人シャーマン・カリヤルの助けを借りて蘭嶼で民族調査を行った。
寺田 竹雄(てらだ たけお、1908年4月27日 - 199… 寺田 竹雄(てらだ たけお、1908年4月27日 - 1993年9月10日)は、洋画家。日本芸術院会員。
山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年〈明治41年〉4月… 山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年〈明治41年〉4月27日 - 1970年〈昭和45年〉10月31日)は、日本の銀行家。紀陽銀行頭取、大阪植木社長、大日本除虫菊取締役、白浜温泉ホテル監査役を務めた。父は紀伊貯蓄銀行頭取を務めた山口孫七。 和歌山県海草郡山口村(現・和歌山市)出身。山口孫七の長男。1931年、東京農業大学農学部卒業。大日本除虫菊監査役・取締役・専務を経て、1949年紀陽銀行取締役、1952年常務、1955年頭取。 趣味は美術工芸品、ゴルフ、運動、煙草。宗教は浄土宗。住所は大阪府泉北郡高石町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
楢岡 力(ならおか つとむ、1908年〈明治41年〉4月26… 楢岡 力(ならおか つとむ、1908年〈明治41年〉4月26日 - 没年不明)は、日本の実業家。菱光証券会長。東証正会員協会理事。旧姓・戸次。 福岡県山門郡城内村(現・柳川市)出身。戸次純一の六男。楢岡徹の養子となる。1929年、横浜高商を卒業する。川崎第百銀行に入る。1943年、合併により三菱銀行に入る。 1953年、四日市支店長。1956年、浅草橋通支店長。1959年、京橋支店長。1960年、札幌支店長。1962年に丸ビル支店長、同年加賀証券(のち菱光証券)社長に就任。1974年に会長に就任。 趣味は庭球。住所は神奈川県横浜市神奈川区六角橋3丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 19… 大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 1999年10月27日)は、日本の小説家、劇作家。 第4代日本作家クラブ会長。日本放送作家組合(現・日本脚本家連盟)の創立以来、理事長を務め、日本著作者団体協議会会長など文化団体の会長、理事、評議員など歴任。 東京府立第一中学校を卒業後に慶應義塾大学仏文科入学。1932年に同校中退後、1933年同人雑誌「大衆文学」を創刊。1939年に長谷川伸が主宰する新鷹会に入会した。1939年頃、長谷川伸主宰の劇作研究会で舞台脚本を執筆。 1943年に野間文芸奨励賞を受賞。 戦後は都会風俗を描き、ラジオ、テレビの脚本を多く書き、「あの波の果てまで」などの人気テレビドラマの脚本を手掛けた。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。
山下 三郎(やました さぶろう、1908年4月25日 - 1… 山下 三郎(やました さぶろう、1908年4月25日 - 1999年7月13日)は、商船三井の前身のひとつである山下新日本汽船の社長などを歴任した、日本の実業家。青年期には、短編小説などでも注目された。 神奈川県横浜市に、「泥亀」、「船成金」などと称された山下汽船の創業者・山下亀三郎の次男として生まれる。 慶應義塾大学に学び、在学中には川端康成、室生犀星らと交わり、同人誌に短編小説発表するなどして、文学者としての将来を期待されたが、1931年に法学部を卒業すると、父の命に従い山下汽船に入った。北原武夫らと文芸誌『新三田派』を創刊したが、直後に渡仏した。山下の文筆活動は、卒業後もしばらく続き、1938年には短編集『室内』が出版された。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。 和歌山県出身。1928年建畠大夢に師事。帝展に出品、1933年東京美術学校彫刻科卒、1935年同研究科修了、文展に出品、1938年特選、1939年自由学園講師、1947年日展特選、1953年日展審査員、1962年日展評議員、1969年日展文部大臣賞受賞、1970年日本彫塑会理事、1972年武蔵野美術大学教授。1973年和歌山県文化賞受賞、1974年日本芸術院賞受賞、1975年日展理事、1977年日本芸術院会員、1978年日展常務理事、1979年勲三等瑞宝章受章。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
大野 百合子(おおの ゆりこ、1908年〈明治41年〉4月2… 大野 百合子(おおの ゆりこ、1908年〈明治41年〉4月24日 - 1938年〈昭和13年〉9月26日)は、日本の詩人。才能に恵まれながらも早世した女流詩人とされる。 1908年(明治41年)4月24日、北海道余市町で誕生した。1917年(大正6年)に小樽区に転居。小樽高等女学校(後の北海道小樽桜陽高等学校)に入学したが、病気により中退。上京して洋裁を学び、1926年(大正15年)に小樽洋服裁縫女学院を設立した。1932年(昭和7年)の解院までに、約200人の卒業生を送り出した。 20歳代から、詩作に本格的に取り組み、文学雑誌『新短歌時代』『詩歌建築』などに詩を投稿した。詩人の宮崎丈二に認められたことで、宮崎に師事し、1931年(昭和6年)、同人誌『河』に参加した。
関 四郎五郎(せき しろごろう、1908年4月23日 - 1… 関 四郎五郎(せき しろごろう、1908年4月23日 - 1971年11月7日)は昭和期の洋画家である。春陽会会員。 長野県東筑摩郡芳川村野溝(現在の松本市)に生まれる。名前の由来は、4男(姉を入れると第5子)だったので、末子の意味を込めて名付けられたのだが、その後に5人弟妹ができた。1920年に芳川小学校で開催された岸田劉生個展に深い感銘を受け、画家をこころざす。芳川村農業会に勤めながら独学で絵を描き始める。やがてフランス帰りの宮坂勝が主宰する松本洋画研究会に参加し、洋画を学ぶ。旺玄会展、白日会展、1935年第13回春陽展に初入選する。1937年に二科展に出品し入選、1938年(昭和13年)に上京し、二科会研究所に入所して熊谷守一の指導を受ける。
波多野 善大(はたの よしひろ、1908年4月22日 - 1… 波多野 善大(はたの よしひろ、1908年4月22日 - 1998年5月11日)は、日本の東洋史学者。 三重県鈴鹿郡関町(現・亀山市)出身。京都帝国大学文学部東洋史学科卒、1962年「中国近代工業史の研究」で京都大学文学博士。1944-1946年東方文化学院研究員、名古屋大学文学部助教授、教授、1972年定年退官、名誉教授となり、愛知学院大学教授を務め、1980年退任。
赤塚 藤七(あかつか とうしち、1908年4月22日 - 1… 赤塚 藤七(あかつか とうしち、1908年4月22日 - 1979年5月17日)は、関東軍憲兵、満州国警察古北口国境警察隊保安局特務警察官、奉天市鉄西消防分署長、フジオ・プロダクション初代経理担当。 漫画家・赤塚不二夫(本名:赤塚 藤雄)の実父であり、漫画『天才バカボン』に登場する「バカボンのパパ」のモデルとしても知られる。フジオ・プロダクション現社長・赤塚りえ子の祖父。 1908年(明治41年)4月22日、新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(現・新潟市西蒲区潟東地区井随)で小作農家を営む厳格な水呑百姓の父親と穏和な母親の間に七人兄姉の末っ子として生まれる、藤七という名前は七人目の子供であることから命名された。
北村 晴朗(きたむら せいろう、1908年4月21日 - 2… 北村 晴朗(きたむら せいろう、1908年4月21日 - 2005年7月16日)は、日本の心理学者。 宮城県加美郡(現仙台市)出身。1935年東北帝国大学法文学部心理学科卒。1962年「心理学における自我の諸問題」で東北大学文学博士。1947年第二高等学校教授、1950年東北大学文学部助教授、1960年教授となり、1972年定年退官、名誉教授、秋田大学教授、1974年から東北福祉大学教授を務めた。後年には仏教に基づく心理学を研究した。
並木 芳雄(なみき よしお、1908年(明治41年)4月20… 並木 芳雄(なみき よしお、1908年(明治41年)4月20日 - 1975年(昭和50年)1月19日)は、昭和期の政治家。位階は従四位。 東京府西多摩郡西多摩村(羽村町を経て現羽村市)で、並木俊蔵の息子として生まれる。1931年(昭和6年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。 大阪商船に入社。アメリカに留学し、ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行に入社し英語と事務管理を研究した。同行マニラ支店に転じマニラ軍政部通訳を兼務した。その後、比島留日学生寄宿舎監、駐日比島大使館に出向して終戦を迎え、銀行を退社した。 戦後、郷里で農村文化の向上に尽力し、民間側の通訳も担った。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に東京都第7区から民主党公認で立候補して当選し、その後、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙まで連続して再選され、衆議院議員に連続5期在任した。
飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20… 飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の造園家、作庭家、庭園作家、造園研究者、造園指導者、造園教育者。元千葉大学園芸学部教授。農学博士。茨城県龍ケ崎市出身。
若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 … 若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 - 1999年12月25日)は、日本の日本史学者。 京都府出身。1936年京都帝国大学文学部国史学科卒。金沢大学教育学部助教授、奈良女子大学教授を務め、1972年定年退官、龍谷大学教授、大手前女子大学教授を務めた。能登地方の市町村史誌を数多く手がけたことから「能登守」と呼ばれた。
田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18… 田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18日-2000年(平成12年)7月8日)は日本の書家。全日本書芸文化院名誉代表。本名は田上重利。 1908年(明治41年)4月18日、熊本県に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部を卒業する。1933年(昭和8年)に田代秋鶴に師事し、書を始める。教職の傍ら、書学に励み、1938年(昭和13年)に文部省検定(文検習字科)に合格する。 共立女子専門学校、白百合女子大学で書道の指導にあたり、1950年(昭和25年)に日本書道美術院審査員、1951年(昭和26年)に全日本書芸文化院副会長、1965年(昭和40年)に日本書道美術院理事、1971年(昭和46年)に全日本書芸文化院代表を歴任する。
三宅 泰雄(みやけ やすお、1908年4月17日 - 199… 三宅 泰雄(みやけ やすお、1908年4月17日 - 1990年10月16日)は、日本の地球化学者。東京教育大学教授。 岡山県岡山市にて誕生。岡山県立岡山中学校、静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1931年東京大学理学部化学科を卒業。 北海道大学理学部助手、中央気象台、同台研究部(戦後はそのまま気象庁・同庁気象研究所に改称)勤務。1940年 東京大学にて、「西部北太平洋の海洋科学」の論文で理学博士号を取得。 1957年、東京教育大学教授。 1954年のビキニ事件を発端にビキニ周辺海域・大気の放射能汚染を調査、研究し、高い評価を得た。以後、海洋や大気の放射能汚染の危険性を訴えつづけた。第五福竜丸の船体の保存にも尽力。
神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月… 神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月16日 - 1986年(昭和61年)8月25日)は、日本の農業経済学者。京都大学名誉教授。専門は農業経営学で、農家家計経済、農村社会学的日本農民論、近代経済学的農業経営論を主に研究。農学博士。 鹿児島県姶良郡清水村(現:霧島市)の後の国分清水地域出身。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1931年(昭和6年)3月に第五高等学校 (旧制)理科甲類卒業。1934年(昭和9年)3月に京都帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、同年9月より朝鮮総督府技手。旧制五高・京大在学中は学生野球選手で、京大では関西六大学リーグ優勝を経験。1940年(昭和15年)京都帝国大学農学部教務嘱託、同年7月京都帝国大学農学部助手就任、1941年(昭和16年)3月京都帝国大学農学部講師嘱託。
泉川 寛喜(いずみかわ かんき、1908年4月16日 - 1… 泉川 寛喜(いずみかわ かんき、1908年4月16日 - 1967年11月1日) は、剛柔流を学んだ空手の達人。神奈川県川崎市に本部を置き、東京、大阪、大田、神奈川県に支部を持つ泉武館道場の創始者。 沖縄県那覇市で武家のもとに生まれる。 東恩納寛量の高弟許田重発(那覇テ)に師事し、宮城長順(剛柔流の創始者)と修身を受けた。 日本本土で剛柔流や比嘉世幸の伝統を広め、空手道を広めるために南米に渡り、新館県を設立。先輩学生には、荒川武仙(倫武館)、市川素水(素水館)、高頭勉(太田仙館支部長)、原田彪太朗(誠心塾)、ケネス村上(ハワイ・仙室)、吉丸京社が含まれる。 泉武館道場は1939年に設立された。 泉武館道場は泉川寛文に受け継がれ、後に泉武会と改称。
杉田屋 守(すぎたや まもる、1908年4月15日 - 19… 杉田屋 守(すぎたや まもる、1908年4月15日 - 1972年5月11日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)生まれのプロ野球選手(外野手)・監督。ハワイ移民の日系2世。
松本重雄(まつもと しげお 1908年4月15日 - 199… 松本重雄(まつもと しげお 1908年4月15日 - 1992年11月14日)は、日本銀行の理事。
渡辺 三男(わたなべ みつお、1908年4月15日 - 20… 渡辺 三男(わたなべ みつお、1908年4月15日 - 2000年2月1日)は、国文学者、博士。駒澤大学教授。専門は中古文学。 1961年3月『中国の文献に見える日本語文資料の研究』で博士号(国文学、駒澤大学)取得。駒澤大学文学部国文学科助教授を経て、教授に就任。同大学文学部国文学研究室の代表などを務める。 著書に「紫式部日記要解」「大鏡要解」など。 渡邊 梢(わたなべ しょう)の別名もあり、その名義では1冊のみ著書がある。 2000年2月1日、肺炎のため死去。 「国立国会図書館サーチ」を参照 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鑓水 速太(やりみず はやた、1908年4月14日 - 20… 鑓水 速太(やりみず はやた、1908年4月14日 - 2017年9月10日)は、日本の政治家。浮羽町長(6期)を務めた。 1908年4月14日、福岡県浮羽郡浮羽町(現うきは市)に生まれる。1935年、福岡師範学校(現福岡教育大学)専攻科卒業。1941年3月、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験日本史東洋史に合格し、1942年1月より、福岡県学務部社会教育課兼学務課勤務となった。その後、三井地方事務所教育課長、教育庁三井出張所長、糟屋出張所長、福岡県教育委員会社会教育課長を歴任し、1963年8月に福岡県国民健康保険課長在職時に退職した。1969年12月、浮羽町長に無投票で初当選した。1981年11月21日、無投票で6選を果たした。
湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13… 湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13日 - 1994年(平成6年)10月19日)は、日本のアララギ派の歌人。ペンネーム: 杉 鮫太郎(すぎ さめたろう)、岡山県岡山市出身。位階は正五位。 1908年(明治41年)岡山県岡山市に住む父・湯浅立太郎、母・いなよの長男として出生する。その後、父が警察官であるため、岡山県内を転々と転勤し、岡山市内の小学校から、旧制岡山県立第二中学校(現:操山高校)入学を経て、旧制津山中学(現:津山高校)、旧制高梁中学(現:高梁高校)へ転校する。高梁中学を1928年(昭和3年)に卒業する。 同年(昭和3年)、岡山県警察部へ就職し、通信技手として働く。
秦 藤樹(はた ふじき、1908年4月13日 - 2004年… 秦 藤樹(はた ふじき、1908年4月13日 - 2004年3月25日)は、日本の医師。医学者。専門は微生物科学。元北里大学学長。旧姓は藤松。細菌学者の秦佐八郎の養子となった。 長野県東筑摩郡会田村(現・松本市)出身。1934年慶應義塾大学医学部卒業。内科入局、助手、1934年12月 - 1936年3月、短期現役軍医、1936年北里研究所研究員となり(生化学、藤田秋治部長)、1938年7月 - 1945年12月、軍務(山西省陸軍病院、東京第一陸軍病院)、1939年医学博士。論文の題は「組織内Cytoclirom C定量法の研究」。 1948年北里研究所同研究所長、1954年8月-1955年11月、ラトガース大学微生物研究所留学、1961年北里研究所所長。
井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日… 井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日)は、日本の電子技術者、実業家、教育者、弁理士。位階は正三位。 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)出身。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。 祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる。日露間で樺太・千島交換条約が締結された後、祖父基が公務員として千島列島を巡回し、明治11年に占守島を訪れているが、その際に現地で撮影された集合写真に収まっていた吏員の一人が祖父基であることを後に井深大自身が確認している。
山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月1… 山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月11日 - 1995年(平成7年)10月16日)は、日本の洋画家、教育者。長崎県長崎市出身。 代表作に「長崎の唐寺境内」、三部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」など。 1908年(明治41年)、長崎県長崎市に生まれる。 1933年(昭和8年)に大阪美術学校を卒業、同年第1回東光展に作品が入選。 1937年(昭和12年)より郷里長崎県に戻り、長崎市立商業学校の教諭を務める。 戦後の1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけて3年連続で日展に出品した3部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」が全作入選した。 1966年(昭和41年)に東光会委員に推挙を受け、1969年(昭和44年)には東光会審査員を務める。
田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 197… 田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 1977年7月19日)は、日本の植物学者。シダ植物の分類学的な研究で知られる。 1908年、大阪府大阪市で、3人兄妹の次男として生まれた。兄は陶芸家の田川基一、弟は独文学者の田川基三。 1930年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部に入学、植物学教室で小泉源一に師事した。同時期には大井次三郎や北村四郎も在籍していた。1933年に同大学を卒業し、大学院に進学、本格的にシダの研究を始めた。 1939年に理学部副手を嘱託されたため、大学院を退学、1942年に理学部講師となる。1953年に助教授、1970年に教授へと昇進し、研究、教育活動を行った。1972年に定年退職、京都大学名誉教授となった。
高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1… 高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1993年4月20日)は、日本の経営者。アサヒビール社長、会長を務めた。高橋龍太郎の長男。 愛媛県喜多郡内子町出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友銀行に入行。京都支店長、取締役、常務、専務などを歴任し、1967年3月に副頭取に就任した。1971年2月に朝日麦酒社長に就任し、1976年2月から1980年3月までに会長を務めた。金蘭会学園理事長も務めた。 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1993年4月20日急性呼吸不全のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小林為太郎(こばやし ためたろう、1908年4月10日 - … 小林為太郎(こばやし ためたろう、1908年4月10日 - 1985年11月12日)は、日本の弁護士である。 高知県幡多郡下川口村大津(現在の土佐清水市)出身。旧姓・上岡為太郎。長男は元・タレント漫才師の上岡龍太郎。映画監督の小林聖太郎、兄弟お笑いコンビのミキは孫に当たる。 1908年(明治41年)4月10日、上岡岩吉、マサノの三男として出生。高等小学校卒業後、しばらく村の三等郵便局に勤務するが、18歳までサツマイモを作ったり、テングサをとったりイカ釣りをしていた。その間、独学で小学校教員資格試験を三度受験する。 1926年(大正15年)3月、働きながら勉学する決心をして高知市に出る。キリスト教系団体によって運営されていた『学生労働会』に入り、牛乳配達をしながら自学する。
古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日… 古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日 - 1997年〈平成9年〉11月23日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱罪で有罪となった海軍中尉である。戦後、不二人と改名し、不二流体術を創始。 長崎県佐世保市で生まれ、佐賀県佐賀市で育つ。佐賀中学を経て、1928年、海軍兵学校56期卒。王師会会員となる。 1931年(昭和6年)12月、霞ケ浦海軍飛行学生、海軍中尉となる。 1932年(昭和7年)五・一五事件では牧野伸顕邸や警視庁を襲撃。 事件後、横須賀鎮守府軍法会議で反乱幇助罪に問われ、禁錮15年の刑を受け失官。小菅刑務所に服役する。これにより従七位を失位、大礼記念章(昭和)を褫奪された。
宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 197… 宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 1970年6月22日)は日本の教育学者、東京大学名誉教授。同僚の勝田守一(教育学)、宮原誠一(社会教育学)と並び、「東大教育の3M(スリー・エム)」と称された。
斯波 忠夫(しば ただお、1908年(明治41年)4月9日 … 斯波 忠夫(しば ただお、1908年(明治41年)4月9日 - 1988年(昭和63年)5月25日)は、昭和時代の日本の化学者。 東京府出身。東京帝国大学理学部卒業。1953年(昭和28年)東京工業大学教授、1968年(昭和43年)同大学長となる。翌年の1969年(昭和44年)5月、長期学生ストなどの責任を取り辞任。触媒の研究で1964年(昭和39年)石油学会賞を受賞。ほか、石油学会理事・同会長、学術奨励審議会専門委員、触媒学会会長、有機合成化学協会会長などを歴任した。
大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 … 大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 - 1959年(昭和34年)1月12日)は、日本の政治家である。
入交 好脩(いりまじり よしなが、1908年(明治41年)4… 入交 好脩(いりまじり よしなが、1908年(明治41年)4月8日 - 1999年(平成11年)6月8日)は、日本の日本経済史学者、早稲田大学名誉教授。 早大卒、早大商学部教授を1978年まで務め、徳川時代の経済史、および幕末土佐藩史を研究した。兄は坂本龍馬の銅像を建てた入交好保。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
野村 千春(のむら ちはる、1908年(明治41年)4月6日… 野村 千春(のむら ちはる、1908年(明治41年)4月6日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の洋画家。夫は児童文学者、歌人の巽聖歌。結婚後、東京都日野市に居住し、創作活動を行なった。 諏訪郡平野村(現:岡谷市)の豪農の二女として生まれた。三女一男の家であった。 平野高等女学校(現:長野県岡谷東高等学校)時代、同校の教師だった諏訪郡原村出身の洋画家 清水多嘉示に画才を認められて画家を志した。1925年、同校を卒業後、父の反対を押し切って上京し、キリスト教伝道者の姉・菊枝の下に身を寄せる。1929年、洋画家 中川一政に内弟子として師事し、春陽会研究所に学ぶ。その後、同郷の武井直也から彫刻を学び、妹・百代とともに武井家に留守番として住まわせてもらう。
岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 199… 岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 1992年12月2日)は、日本の経営学者・商学者。専門は、中小企業経営論。元・旭川大学学長。元・札幌大学学長。小樽商科大学名誉教授。 京都府亀岡市出身。桃山中学校(旧制)(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。1932年関西大学第二部商科卒業。1936年(昭和11年)神戸商業大学卒業。その後、小樽高等商業学校講師を経て、1940年(昭和15年)小樽高等商業学校教授。1951年(昭和26年)小樽商科大学商学部教授。1970年(昭和45年)小樽商科大学停年退官。同名誉教授。札幌大学学長代行代理。1971年札幌大学学長。1974年札幌大学学長を退任。
永田 義直(ながた よしなお、1908年4月5日 - 198… 永田 義直(ながた よしなお、1908年4月5日 - 1983年4月18日)は、日本の国文学者、民俗学者、翻訳家。 神奈川県横浜市生まれ。1931年東洋大学卒。兵庫県の公立高校の教員、校長を経て文筆家。古典文学、日本神話、民俗学、芸能などについて執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日… 野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日 - 1989年〈平成元年〉4月11日)は、日本の新聞記者、経営者。プロ野球中日ドラゴンズ球団社長を務めた。愛知県豊橋市出身。 第八高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部を卒業し、1936年に新愛知新聞社に入社。 新聞記者として勤務し、名古屋タイムズ社社長を経て、1962年には中部日本新聞社(現在の中日新聞社)取締役に就任。1964年には球団史上初めての中日ドラゴンズ球団社長に就任し、1967年までに務めた。 1989年4月11日食道ガンのために死去。81歳没。 著書に「天国と地獄の間」がある。
杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000… 杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000年4月23日)は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島2丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。 杉浦の創作活動は3期に分けられる。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される。
奈良岡 良二(ならおか りょうじ、1908年4月2日 - 1… 奈良岡 良二(ならおか りょうじ、1908年4月2日 - 1992年6月2日)は、日本の陸上競技(競歩)選手、保健体育学者。青森県出身。1936年ベルリンオリンピックに50キロメートル競歩で出場した。競歩競技では日本初のオリンピック選手である。 青森県南津軽郡浪岡町(現青森市浪岡)出身。実弟の奈良岡健三ものちに競歩選手となる。 青森県師範学校に学び、在学中は短距離走・駅伝からスキーまでをこなした。同校を卒業し、1931年に東京に出る。「いつでもトレーニングできる種目」として競歩を選んだといい、競歩がオリンピック種目として復活すると、1936年ベルリンオリンピックに向けて計画的にトレーニングを重ね、国内予選を突破して日本代表選手に選ばれた。