真田 重蔵(さなだ じゅうぞう、1923年5月27日 - 1… 真田 重蔵(さなだ じゅうぞう、1923年5月27日 - 1994年5月30日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(投手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。
1923年(大正12年)生まれ:754人
真田 重蔵(さなだ じゅうぞう、1923年5月27日 - 1… 真田 重蔵(さなだ じゅうぞう、1923年5月27日 - 1994年5月30日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(投手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。
石毛 善衛(いしげ ぜんえい、1923年5月26日 - 20… 石毛 善衛(いしげ ぜんえい、1923年5月26日 - 2014年10月24日)は、日本の競馬騎手、調教師。 1942年に日本競馬会(日本中央競馬会の前身)で騎手デビュー。1947年にトヨウメ、1958年にセルローズで、それぞれ天皇賞(秋)に優勝した。1948年に結婚するまでは「小林善衛」の名で騎乗。1964年より調教師に転じ、1998年に定年引退。日本中央競馬会調教師の石毛善彦は次男。 1923年、群馬県邑楽郡大川村(後の大泉町)に、東武鉄道の職員であった小林定五郎、きぬ夫妻の長男として生まれる。近郊には地方競馬の館林競馬場があった。旧制館林中学1年生のころに騎手の姿に憧れ、1937年、父の知人の紹介で名騎手の評が高かった石毛彦次郎(中山競馬場)の門下に入る。
桑原 富雄(くわばら とみお、1923年(大正12年)5月2… 桑原 富雄(くわばら とみお、1923年(大正12年)5月26日 - 2010年(平成22年)2月7日)は、日本の政治家。愛媛県西条市長、西条市名誉市民。 愛媛県西条市本町に生まれる。西条農業学校卒業(現愛媛県立西条農業高等学校)を卒業。旧 西条市職員、助役を経て、1979年(昭和54年)当時現職の伊藤一を破り市長に初当選、以後、1995年(平成7年)12月まで4期16年(13 - 16代)にわたり西条市長を務めた。 市長在任中、東部臨海土地造成による臨海造成地への企業誘致を図り、同地には電機・機械・食品飲料等の有力企業が立地し、愛媛県東部の工業都市としての発展の礎を築いた。 また、「水の都」として、市中心部における親水公園や公共下水道の整備を推進したほか、「市民の森」、西条運動公園、「こどもの国」や、刑務所跡地への文化会館の設置など都市施設を整備充実させたほか、松山自動車道の開通や主要幹線道路など都市基盤の整備にも尽力した。
鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月… 鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月24日 - 2017年〈平成29年〉2月13日)は、日本の映画監督・俳優。本名:鈴木 清太郎(すずき せいたろう)。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる。 日活の専属監督として小林旭、高橋英樹、宍戸錠ら当時の日活の主力俳優の主演作品を多く手がけ、その「清順美学」と評される独特の映像表現で名を馳せた。特に宍戸錠主演の『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。一方でその実験的とも言える作風が当時の日活の経営陣の不興を買い会社を追われるなど、境遇は波乱に富んでおり、映画作家として約10年間の空白期間がある(「鈴木清順問題共闘会議」参照)。
藤間 紫(ふじま むらさき、1923年〈大正12年〉5月24… 藤間 紫(ふじま むらさき、1923年〈大正12年〉5月24日 - 2009年〈平成21年〉3月27日)は、東京都文京区根津出身の日本舞踊家、女優。本名:喜熨斗 綾子(旧姓:河野→藤間)。 日本医科大学元学長で理事長、日本私立大学協会会長も務めた河野勝斎の長女(9人兄弟のうち、4人が芸能、2人が医師)。12歳の時、六世藤間勘十郎に入門した。 夫は三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁、二代目藤間紫)。三世藤間勘祖(藤間高子)と俳優藤間文彦は、前夫六代目藤間勘十郎(二世藤間勘祖)との子。二代目中村藤太郎(前夫の養子となり3代目藤間大助を襲名後、六代目中村歌右衛門の芸養子になり中村藤太郎を襲名)、六代目中村東蔵は弟。
梅田 正巳(うめだ まさみ、1923年5月24日 - 没年不… 梅田 正巳(うめだ まさみ、1923年5月24日 - 没年不明)は、広島県出身のプロ野球選手。
萬年 甫(まんねん はじめ、1923年5月23日 - 201… 萬年 甫(まんねん はじめ、1923年5月23日 - 2011年12月27日)は、日本の神経解剖学者。東京医科歯科大学医学部名誉教授。脳解剖学専攻。 千葉県出身。旧制府立高等学校を経て、1947年東京帝国大学医学部を卒業。1956年「脂質含有色素粒子の分布より見たる人脳の細胞構築に就いて」で東京大学医学博士。東大助教授をへて1963年に東京医科歯科大学教授となり、1989年に定年退官。 中枢神経系の神経細胞を研究。1983年藤原賞を受賞。1988年「猫脳ゴルジ染色図譜」(英文)を刊行した。弟の萬年徹(1930年- )は東大医学部名誉教授。弟子に岩田誠がいる。
曲谷 守平(まがたに もりへい、1923年5月23日 - )… 曲谷 守平(まがたに もりへい、1923年5月23日 - )は、日本の映画監督、脚本家である。 1923年(大正12年)5月23日、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区大井)に生まれる。 慶應義塾大学経済学部卒業。 第二次世界大戦後、東宝争議中の東宝の第三組合(新東宝の前身)でアルバイトしていた関係から、1947年(昭和22年)3月に新東宝映画製作所(のちの新東宝)演出部に入社する。助監督として斎藤寅次郎に師事し、斎藤監督のもと、太泉映画(現在の東映東京撮影所)演出部に出向したこともある。斎藤のほか、阿部豊、中川信夫、並木鏡太郎といったヴェテランたちにも師事し、チーフ助監督に昇進した。 1956年(昭和31年)には、監督に昇進、『美男をめぐる十人の女』で監督としてデビューする。
月形 那比古(つきがた なひこ 1923年(大正12年)5月… 月形 那比古(つきがた なひこ 1923年(大正12年)5月22日 - 2006年(平成18年)8月16日)は、日本の陶芸家。鬼志野創始者、鬼志野宗家。昭和中期から平成中期にかけ、現代美濃陶芸界における志野焼黎明期〜発展期〜成熟期で活躍した日本を代表する荒川豊蔵の次の直接の第二世代の陶工作家。「炎の陶工」「炎の陶人」「沙門の陶工」と言われた。代表作は美濃陶芸の他に、絵画、書、彫刻、篆刻作品などにも秀作を手掛けた。志野焼誕生地の美濃・岐阜県土岐市にて没。享年84(満83歳没)。 1923年(大正12年)新潟県糸魚川市に生まれる。当時の実家は専業農家。5人兄弟姉妹の三男。父は石刻匠、母は華道家。父が那比古5歳の時に不慮の事故で急逝。
合沢 栄(合澤 榮、あいざわ さかえ、1923年(大正12年… 合沢 栄(合澤 榮、あいざわ さかえ、1923年(大正12年)5月22日 – 1986年(昭和61年)12月25日)は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県北海部郡一尺屋村(佐賀関町を経て現大分市)の農家に生まれる。臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を経て、1943年(昭和18年)大分高等商業学校を卒業。海軍飛行予備学生となり、海軍中尉で解員(復員)し帰郷した。 1946年(昭和21年)一尺屋農業会に務めた。その後、佐賀関農業協同組合長、大分県果実農協連常務理事、同県経済農業協同組合連合会会長、全国購買農業協同組合連合会理事、全国農協観光協会理事、大分協和飼料取締役、東九州協同食品取締役、大分協同建設事業団代表取締役、大分陸運社長などを務めた。
初代 藤本 琇丈(しょだい ふじもと ひでお、1923年5月… 初代 藤本 琇丈(しょだい ふじもと ひでお、1923年5月21日 - 2006年2月28日)は昭和から平成期に活躍した民謡・端唄三味線の演奏家。藤本流初代家元・藤本会会長・日本民謡歌謡学院院長。小唄の芸名は蓼胡穣・哥沢の芸名は三代目哥沢芝梅。多種の三味線を弾き分け、尚且つそれぞれの分野で第一人者であった。現在の民謡三味線を譜面化・通信教育によって全国へ普及させ、また多くの三味線奏者、歌手を育て、民謡界に藤本帝国を築き上げた。 没後の2007年(平成19年)4月24日、長男の洋久(前名藤本博久)が二代目を襲名した。 1923年(大正12年)5月21日、東京市滝野川区田端町に、父・山田縫次郎、母・滋(しげ)の次男として生まれる(長男・光夫は1924年(大正13年)に病没)。
伴 勇資(ばん ゆうじ、1923年5月20日 - 2003年… 伴 勇資(ばん ゆうじ、1923年5月20日 - 2003年7月29日)は、福岡県出身のプロ野球選手(捕手、三塁手)。野球監督。
北岡 徹(きたおか とおる、1923年(大正12年)5月20… 北岡 徹(きたおか とおる、1923年(大正12年)5月20日 - 2013年(平成25年)12月21日)は日本の実業家、元日本セメント(現・太平洋セメント)社長、元日本コンクリート工学協会会長。愛媛県出身。
重森 完途(しげもり かんと、1923年5月19日 - 19… 重森 完途(しげもり かんと、1923年5月19日 - 1992年12月31日)は日本の作庭家。造園家。造園史家。庭園研究家で京都林泉協会会長等を歴任。重森三玲の長男。名前はイマヌエル・カントに由来する。 京都府京都市出身。1943年に早稲田大学文学部国文科を卒業後、兵役を経て1945年に重森三玲研究所で庭園の研究を開始するが、1955年には重森完途庭園設計研究所を設立し、設計活動を開始する。1958年より芝浦工業大学講師を兼任する。1966年、外務省文化使節としてオセアニアに派遣される。京都工芸繊維大学講師で作庭家の重森千青は息子である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
吉川 博(よしかわ ひろし、1923年5月18日 - 200… 吉川 博(よしかわ ひろし、1923年5月18日 - 2008年7月2日)は、日本の政治家。 愛知県海部郡十四山村長(4期)、愛知県議会議員(4期)、参議院議員(2期)、農林水産政務次官、参議院農林水産委員長などを歴任。地元では「水の神様」と呼ばれた。 愛知県海部郡十四山村(現弥富市)出身。祖父も父親も十四山村議会議員だった。1941年(昭和16年)3月、愛知県立津島中学校(現愛知県立津島高等学校)を卒業。その後、東京第三師範学校(現東京学芸大学)を卒業。 戦後、十四山村議会議員を務め、1949年(昭和24年)に十四山村長に初当選し、4期務めた。1965年(昭和40年)に、愛知学芸大学名古屋分校4年課程設置の陳情を行った。
池田 諭(いけだ さとし、1923年〈大正12年〉5月18日… 池田 諭(いけだ さとし、1923年〈大正12年〉5月18日 - 1975年〈昭和50年〉6月9日)は、文筆家。 広島県生まれ。広島文理科大学卒業。高校教諭、雑誌編集などを経て、文筆活動に入る。
福岡 義登(ふくおか よしと、1923年(大正12年)5月1… 福岡 義登(ふくおか よしと、1923年(大正12年)5月18日 - 2001年(平成13年)3月25日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(4期)、三次市長(4期)などを歴任した。
久保 吾一(くぼ ごいち、1923年5月17日 - )は、静… 久保 吾一(くぼ ごいち、1923年5月17日 - )は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手(主に中堅手)、一塁手。
越智 重明(おち しげあき、1923年5月17日 - 199… 越智 重明(おち しげあき、1923年5月17日 - 1998年8月23日)は、日本の中国史学者。 愛媛県出身。東京大学文学部東洋史学科卒、同大学院中退。1979年「漢六朝社会史研究」で九州大学文学博士。愛媛大学文理学部助教授、1955年九州大学文学部助教授を経て、1972年教授、1976年文学部長を務め、1987年定年退官、名誉教授、久留米大学教授。貴族 (中国)の項に越智が加わった論争について記述がある。魏晋南朝政治史が専門。
永谷 嘉男(ながたに よしお、1923年(大正12年)5月1… 永谷 嘉男(ながたに よしお、1923年(大正12年)5月16日 - 2005年(平成17年)12月28日)は、日本の実業家。 東京府東京市出身。永谷宗円の子孫の1人。永谷園創業者、名誉会長。 現在の東京都出身。東京市立京橋商業學校卒業後、太平洋戦争に従軍。復員後、戦争で焼失した実家の茶の製造業再建を目指し、「江戸風味お茶づけ海苔」を開発。1952年に発売され、瞬く間に大ヒット商品へと成長させた。 1953年株式会社永谷園本舗(現・株式会社永谷園ホールディングス)を設立。日本の和風料理に革新的なアイデアを取り入れ、インスタントの味噌汁(あさげ等)、お吸い物をはじめ、寿司のもと・すし太郎やふりかけなどを製造・販売。
原 正敏(はら まさとし、1923年5月16日 - 2010… 原 正敏(はら まさとし、1923年5月16日 - 2010年8月30日)は、日本の図学者、技術教育者。 大阪府出身。1945年東京帝国大学工学部造兵科卒。東京都立江戸川高等学校、東京都立世田谷工業高等学校教諭を経て、1964年東京大学教養学部助教授(図学)、1970年北海道大学教授、1976年東大教養学部教授に戻り、1983年名誉教授となり、静岡大学教授、1986年千葉大学教授。図学、技術教育、技術教育史。技術教育研究会の設立発起人。
宮本 四郎(みやもと しろう、1923年5月16日 - 没年… 宮本 四郎(みやもと しろう、1923年5月16日 - 没年不明)は、日本の弁護士、官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。奈良県出身。 1943年12月から1946年7月までに陸軍歩兵少尉を務め、1948年に東京大学法学部政治学科を卒業し、高文行政科にも合格し、同年10月に商工省に入省。1980年10月に通商産業省産業政策局長に就任し、1981年4月に日本長期信用銀行顧問、1985年に世界経済情報サービス理事長を経て、1987年11月に商工組合中央金庫理事長に就任。1993年6月に顧問に就任し、2008年3月には弁護士に登録。 1999年4月に勲二等旭日重光章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
坂部 三次郎(さかべ さんじろう、1923年(大正12年)5… 坂部 三次郎(さかべ さんじろう、1923年(大正12年)5月16日 - 2001年(平成13年)2月3日)は、実業家・変光星観測者。京都府出身。東京理科大学第4代理事長。ダイニック元代表取締役社長・会長。ダイニックアストロパーク天究館創立者。 (5825) ラクヨウは坂部三次郎の助言で命名された。また、(5435) カメオカは三次郎の出身地京都府亀岡市から命名された。
池宮 彰一郎(いけみや しょういちろう、1923年5月16日… 池宮 彰一郎(いけみや しょういちろう、1923年5月16日 - 2007年5月6日)は、日本の脚本家、小説家。 本名の池上 金男(いけがみ かねお)で脚本家として活動、『十三人の刺客』など数多くの映画・テレビドラマの制作に関わった。1992年に小説『四十七人の刺客』を発表して以降、池宮彰一郎のペンネームを用いて歴史小説を著したが、2002年に司馬遼太郎作品との類似問題により活動をほぼ停止した。作家の池上司は息子。 東京府に生まれる。静岡県沼津市に育ち、静岡県立沼津商業学校(現・静岡県立沼津商業高等学校)を卒業する。 第二次世界大戦中は満州で陸軍に徴兵される。兵舎に放火して南方送りとなり、ペリリュー島逆上陸作戦に参加、3000名いた部隊で生き残ったのは20~30名だったという。
富塚 良三(とみづか りょうぞう、1923年5月15日 - … 富塚 良三(とみづか りょうぞう、1923年5月15日 - 2017年1月12日[要出典])は、日本のマルクス経済学者、中央大学名誉教授。千葉県生まれ。 千葉県生まれ。旧制第三高等学校を卒業し、京都大学文学部西洋史学科に入学。その後1949年東京大学経済学部卒業、指導教授は大河内一男。利潤率の傾向的低下の法則を証明したことでも有名。また、著書である「恐慌論研究」において均衡蓄積軌道論を提示し、再生産論および恐慌論の発展に寄与した。 東京大学在学中に山田盛太郎の再生産論を、大原社会問題研究所では久留間鮫造から資本論を学ぶ。福島大学に所属していたときに熊谷尚夫との間で繰り広げられた、「相対的過剰人口」での討論は、近代経済学、マルクス経済学の有意義な論争の一つである。
倉田 隆文(くらた たかふみ、1923年5月15日 - 19… 倉田 隆文(くらた たかふみ、1923年5月15日 - 1998年5月9日)は、日本の実業家。伊勢電子工業(のちのノリタケ伊勢電子)社長として同社を再建したのち、ノリタケカンパニーリミテド社長・会長や中部経済同友会代表幹事を務めた。スリランカラトナ勲章受章。 東京都出身。神田の本屋街で育つ。1948年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業、日本陶器入社。 ニューヨーク支店、社長室、海外事業部長、常務等を経て、1974年から1981年まで経営悪化に陥っていた伊勢電子工業(のちのノリタケ伊勢電子)の社長を兼務。工場や従業員を半減するなど減量経営を行い、6年で再建を果たす。 1981年1月専務、1981年8月副社長を経て、1982年、杉本悌二郎の後任としてノリタケカンパニーリミテド社長就任。
山田 隆之(やまだ たかゆき、1923年5月14日 - 19… 山田 隆之(やまだ たかゆき、1923年5月14日 - 1994年5月16日)は、日本の脚本家。 青森県八戸町出身。八戸中学を卒業後、早稲田大学に進学、在学中の1943年に学徒出陣する。復員後、八戸に戻り、終戦後は地元で劇団を設立し、演出などを担当するかたわら、役者として自ら出演もしていた。 1949年に上京し、ラジオドラマの脚本を書くようになり、その後、テレビ時代への移行とともにテレビドラマ(主に時代劇)の脚本を書くようになる。 1994年5月16日、埼玉県秩父市の自宅で死去。
真鍋 大覚(まなべ だいかく、1923年5月14日 - 19… 真鍋 大覚(まなべ だいかく、1923年5月14日 - 1991年4月26日)は、日本の航空工学者。暦法家。九州大学工学部航空工学科助教授。
石井 久(いしい ひさし、1923年5月13日 - 2016… 石井 久(いしい ひさし、1923年5月13日 - 2016年4月22日)は、日本の実業家。立花証券の父として知られ、最後の相場師などの異名をとった。 13人兄弟のうちの7番目の五男として福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)牛頸(うしくび)の小農家藤井家に生まれる。地元の尋常高等小学校を卒業ののち、昭和13年(1938年)4月に渡辺鉄工所(九州飛行機)に入所。8年後の昭和21年(1946年)8月に弁護士を志して上京するが、警視庁警察練習所に入所、のち昭和22年(1947年)3月をもって24歳で巡査となる。同年11月に5歳年下の石井愛子と結婚、石井姓へ。 警視庁を退官ののち昭和23年(1948年)6月に東京自由証券株式会社に入社、株式新聞の記者などを経て、昭和28年(1953年)3月29歳のときに石井株式研究所を創立する。
牟田口 義郎(むたぐち よしろう、1923年5月11日 - … 牟田口 義郎(むたぐち よしろう、1923年5月11日 - 2011年1月22日)は、日本の歴史家、中東地域研究者、翻訳家。朝日新聞特派員・支局長を歴任した。 神奈川県生まれ。1948年東京大学仏文科卒、1949年に朝日新聞社に入社。報道記者として外報畑を主に歩み、カイロ(エジプト)支局長、パリ(フランス)支局長を務め、また論説委員を務めた。1982年退社、その後成蹊大学教授、東洋英和女学院大学教授、中近東文化センター理事長を歴任。 中東・アラブ地域の現代史に詳しく、地中海世界を軸に多くの著書・翻訳書を刊行した。 2011年1月22日、腎不全のため死去。87歳没。
井上 次平(いのうえ じへい、1923年5月11日 - )は… 井上 次平(いのうえ じへい、1923年5月11日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。
岡部 正(、1923年〈大正12年〉5月11日 - 没年不詳… 岡部 正(、1923年〈大正12年〉5月11日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。 同姓同名で医学博士の岡部正とは別人である。 1923年(大正12年)5月11日、埼玉県入間郡飯能町(現・飯能市)に生まれる。日本大学芸術科を卒業。 小学校教諭を経て東宝の専属俳優となり、戦後の早い時期から1970年代前半にかけて、ジャンルを問わず多くの作品に出演した。主に端役、時には脇役として活躍。 東宝特撮映画も多く出演し、学者や医師、またはそれらの助手など白衣の役が多い。また、クレージー映画の出演も多数ある。 1960年代にはテレビドラマにも出演。ウルトラシリーズでは、1966年(昭和41年)に放送された『ウルトラQ』の一の谷博士(江川宇礼雄)の助手・本多や、翌1967年(昭和42年)に放送された『ウルトラセブン』の医師・キタムラ博士を演じた。
中山 修(なかやま おさむ、1923年5月10日 - 201… 中山 修(なかやま おさむ、1923年5月10日 - 2010年4月13日)は、新潟県五泉市(旧村松町)出身の実業家、元全日本トラック協会副会長。
町井 正登(まちい まさと、1923年(大正12年)5月8日… 町井 正登(まちい まさと、1923年(大正12年)5月8日 - 2006年(平成18年)10月17日)は、日本の政治家。舞鶴市長。舞鶴市名誉市民。1979年から1995年まで、4期16年に渡り舞鶴市長を務めた。 京都府綾部市生まれ。金沢高等工業学校(現・金沢大学)を卒業後、舞鶴市役所へ就職。助役を務めたのち、1979年市長選に出馬し当選。在任期間中は、道路や市民病院の整備を進めたほか、軍港である赤煉瓦を見直して舞鶴市政記念館をオープンするなど、多くの公共事業を進めた傍ら、財政については黒字を維持することに成功した。 1995年、妻の体調を理由に不出馬。同年、舞鶴市名誉市民条例にもとづき、名誉市民の認定を受ける。
北田 傀子(きただ かいじ、本名:北田 茂(きただ しげる)… 北田 傀子(きただ かいじ、本名:北田 茂(きただ しげる)、1923年(大正12年)5月7日 - 2019年(令和元年)9月)は、日本の自由律俳句の俳人。自由律俳句結社「草原」主宰、月刊随句誌『草原』を発行する随句社社主。前号は千秋子。 山口県大島郡小松町中田(現・周防大島町小松)に生まれる。 1938年に上京し、淀橋区の薬局で働き始めるとともに、夜間学校に入学する。1940年、自由律俳句結社「層雲」に入門。荻原井泉水に師事する。この時の俳号は千秋子。1944年、応召され、広島船舶通信連隊補充隊に配属される。1945年、台北の野戦病院で終戦を迎える。同年、東芝に入社。以降、1983年に定年退職を迎えるまで、途中タイへの出向をはさみつつ、同社に勤務する。
土居 晴夫(どい はるお、1923年(大正12年)5月6日 … 土居 晴夫(どい はるお、1923年(大正12年)5月6日 - 2018年(平成30年)2月16日)は、日本の歴史家、坂本龍馬研究家。龍馬の甥にあたる坂本直寛の孫。 兵庫県神戸市生まれ。報徳商業学校(現在の報徳学園)卒。神戸市職員、八代学院大学(現・神戸国際大学)講師。神戸史学会、土佐史談会、高知海南史学会に所属。龍馬研究会顧問・東京龍馬会顧問・愛媛龍馬会顧問を歴任した。
西江 一郎(にしえ いちろう、1923年5月6日 - 没年不… 西江 一郎(にしえ いちろう、1923年5月6日 - 没年不明)は福岡県飯塚市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球監督。 旧制嘉穂中学(現:嘉穂高校)、社会人野球の日鉄二瀬を経て、1948年秋に大阪タイガースに入団。 入団初年度の1948年から31試合に出場した。1950年には、前年まで遊撃手のレギュラーだった長谷川善三(1949年オフに西鉄に移籍)に代わって遊撃手のレギュラーとして135試合に出場した。この年は、セ・リーグ遊撃手シーズン最多失策記録である71失策を記録した。翌1951年には白坂長栄の台頭で、レギュラーの座を奪われるものの貴重な控え選手として活躍した。1954年オフに自由契約になり、東映フライヤーズに移籍。
山内 逸郎(やまのうち いつろう、1923年5月6日 - 1… 山内 逸郎(やまのうち いつろう、1923年5月6日 - 1993年6月8日)は、日本の医師。 岡山県岡山市出身。1947年岡山医科大学卒、1955年医学博士(岡山大学)。1952年国立岡山病院小児科医長。1955-1957年米国ニューヨーク州立大学生理学教室に学ぶ。1975年全国に先駆けて小児医療センターを設立、新生児の救急医療体制を整備。小児医療センター長、副院長を経て、1982年院長となる。1979年未熟児網膜症の診療を容易にした「経皮黄疸計」を開発。また母乳運動をすすめ、1986年には全国初の乳房センターを開設した。1976年の鹿児島の5つ子誕生の際には現地で医師団を指導した。1989年退官。
渡辺 信夫(わたなべ のぶお、1923年5月5日 - 202… 渡辺 信夫(わたなべ のぶお、1923年5月5日 - 2020年3月27日)は、日本の神学者、牧師。日本キリスト教会の指導者。 京都大学哲学科卒業。ジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』の翻訳者として知られる。 大阪府出身。田舎のクリスチャン・ホームに生まれたが、両親は神社参拝をしてもよいと教えていた。当時から主流派キリスト教会は、宗教的な妥協の道を歩んでいたのである。旧制高校時代は、偶像礼拝という意識がないままに、級長として神社参拝を行っていた。また戦争中は日本軍の将校として、神社拝礼を指揮した。1949年京都大学文学部哲学科卒。1977年「カルヴァンの教会論」で京都大学文学博士。大学卒業後、神学を学ぶ過程で、その行為が「教会」を通して行われた背信行為であり、神の前(コーラム・デオ)に偶像礼拝の罪であるという意識を持つに至った。
江村 稔(えむら みのる、1923年〈大正12年〉5月5日 … 江村 稔(えむら みのる、1923年〈大正12年〉5月5日 - 2017年〈平成29年〉11月6日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。1999年に勲二等瑞宝章授与。位階は正四位。専門は監査会計。東京都杉並区出身。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没… 大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である。当初、本名の大西 三郎(おおにし さぶろう)で俳優として活動、戦後、上記の筆名で助監督から監督へ昇進、のちに大西 孝典(おおにし こうてん)、橋本 忠典(はしもと ちゅうてん)とも名乗る。 1923年(大正12年)5月3日、京都府南桑田郡亀岡町(現在の同府亀岡市)に生まれる。 1938年(昭和13年)3月、旧制・亀岡尋常高等小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)を卒業、その3年後の1941年(昭和16年)、京都・太秦の日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社、俳優課に配属される。「持ち前の明るい人柄」を評価され、前年に自らのプロダクションを解散して日活に入社して当時同社の看板スターだった片岡千恵蔵の内弟子になる。
雲井 洋(くもい よう、1923年5月2日 - 1993年6… 雲井 洋(くもい よう、1923年5月2日 - 1993年6月10日)は、日本の経営者、銀行家。百五銀行頭取を務めた。三重県出身。 1946年に早稲田大学商学部を卒業し、1951年に百五銀行に入行。1959年に取締役に就任し、1962年11月に常務、1969年5月に専務を経て、1977年6月に副頭取に就任し、1991年6月に頭取に昇格し、1993年4月までに務めた。 1993年6月10日心不全のために死去。70歳没。
矢田 次夫(やだ つぎお 、1923年〈大正12年〉5月1日… 矢田 次夫(やだ つぎお 、1923年〈大正12年〉5月1日 - 2012年〈平成24年〉4月24日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海兵72期。第13代海上幕僚長、第13代統合幕僚会議議長。 鳥取県倉吉市出身。旧制鳥取県立倉吉中学校を経て海軍兵学校を卒業。太平洋戦争中は主として潜水艦に乗組み、終戦は太平洋上で当時世界最大の潜水艦「伊四〇一」で迎えた。横須賀に帰港した途端、他の姉妹艦2隻の乗員とともに全員捕虜となった。伊四百型潜水艦を接収するための整備補修を命じられ、終戦後にもかかわらず米軍の監視の下、約40日間収容所生活を送った。その後、復員局に召集され復員輸送に従事し、公職追放となる。 海上自衛隊に入隊後は海幕防衛部長、佐世保地方総監、自衛艦隊司令官などの要職を経て第13代海上幕僚長に就任。
大矢 雅彦(おおや まさひこ、1923年5月1日 - 200… 大矢 雅彦(おおや まさひこ、1923年5月1日 - 2005年3月3日)は、日本の地理学者(自然地理学)。早稲田大学名誉教授。葛飾区郷土と天文の博物館名誉館長。愛知県名古屋市出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高原 駿雄(たかはら としお、1923年〈大正12年〉5月1… 高原 駿雄(たかはら としお、1923年〈大正12年〉5月1日 - 2000年〈平成11年〉2月26日)は、日本の俳優。本名、高瀬 勲(たかせ いさお)。 東京府東京市(現:東京都区部)出身。明治大学専門部文科(文芸科)卒業。文学座に所属していた。 明大在学中の1941年に文学座研究所に入所し、1943年の舞台『田園』でデビュー。1966年のプロフィールでは、両親の知り合いである漫談家で俳優の徳川夢声に弟子入りし、徳川の勧めで文学座入りしたと紹介されている。また、芸名の高原 駿雄は、徳川の本名である福原 駿雄から採ったものである。 1953年に文学座を退座すると、岡田英次、木村功らと共に劇団青俳を結成。
逸見 謙三(へんみ けんぞう、1923年5月 - )は、日本… 逸見 謙三(へんみ けんぞう、1923年5月 - )は、日本の農業経済学者。農学博士(1961年)。東京大学名誉教授、東洋英和女学院大学名誉教授。 1923年5月、東京都生まれ。1947年10月、東京大学農学部農業経済学科卒業。同1947年、農林省農業総合研究所。 1962年「世界農業の構造的不均衡」で農学博士の学位を取得。1962年1月東京大学助教授、1972年7月同大教授、1984年定年退官、名誉教授。亜細亜大学経済学部教授。1989年、東洋英和女学院大学社会科学部教授。
阿南 惟晟(あなみ これあきら、1923年〈大正12年〉5月… 阿南 惟晟(あなみ これあきら、1923年〈大正12年〉5月 - 1943年〈昭和18年〉11月20日)は、日本の陸軍軍人。太平洋戦争末期の陸軍大臣、阿南惟幾の三男。 1941年東京府立第一中学校を卒業後、[要出典]陸軍士官学校に入学。同校56期卒業生。 陸軍砲兵少尉として太平洋戦争に出陣したが、1943年(昭和18年)11月20日、常徳殲滅作戦に於いて戦死。20歳没。戦死後、一階級昇進し中尉となった。墓所は多磨霊園。
李 鍾煥(イ・ジョンファン、韓国語:이종환、1923年5月〈… 李 鍾煥(イ・ジョンファン、韓国語:이종환、1923年5月〈戸籍上は1924年1月9日〉 - 2023年9月13日)とは、大韓民国の実業家、慈善家。三栄化学グループ(朝鮮語版)の創業者。号は「冠廷」。 慶尚南道宜寧郡生まれ。本貫は広州李氏。馬山中学校を卒業後、1942年に明治大学商経科に留学。「日本人を越えるには日本人より勉強しないといけない」と考えていたが、1944年に徴兵され満洲に送られた。1945年8月に部隊は沖縄へ移動となったが、その途中の朝鮮半島で終戦を迎える。この時の考えから、青年がお金の心配をせず勉強できなければならないという考えを抱いた。 戦後は精米所の事業を始め、朝鮮戦争後は東大門市場で小規模な商社を営み種銭を集める。
山本 亨介(やまもと きょうすけ、1923年4月29日 - … 山本 亨介(やまもと きょうすけ、1923年4月29日 - 1995年11月10日)は、日本の将棋観戦記者、将棋史研究者、小説家。ペンネームは天狗太郎。日本文芸家協会会員。 和歌山県東牟妻郡古座町出身。1943年、彦根高等商業学校卒業。 1946年に大阪日日新聞に入社し、吉井栄治の後をうけて将棋を担当。1951年に上京してサンケイ新聞記者となり、将棋・囲碁を担当、天狗太郎のペンネームで観戦記を執筆。1960年朝日新聞東京本社に移り、観戦記に健筆をふるう。1963年に退社してフリーの文筆活動に。 かたわら1953年頃から将棋史の研究に着手し、「将棋文化史」「将棋庶民史」「名棋士名勝負」「勝負師の門」「学徒出陣ふたたび」などを発表。
渡邉 久藤(わたなべ ひさと、1923年(大正12年)4月2… 渡邉 久藤(わたなべ ひさと、1923年(大正12年)4月28日 - 2007年(平成19年)2月23日)は、日本の教育者、金属工学者(冶金学者)。千葉工業大学9代目学長(後に名誉学長)・教授。哈爾濱工業大学・北京理工大学・吉林大学名誉教授。千葉工業大学の発展(大学院修士課程、後期博士課程の設置など)に尽力。千葉工業大学卒業生で初の学長でもある。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。