山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1… 山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1980年12月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 警察署長・山崎重光の長男として生れる。海南中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業。席次は入校時120名中16番、卒業時118名中20番。翌年12月、海軍少尉任官。1920年11月、海軍水雷学校高等科を卒業し、海軍潜水学校教官、「第13潜水艦」艦長、第2潜水戦隊参謀などを歴任。1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。第一次世界大戦末期に第二特務艦隊に配属となり、戦利潜水艦の回航に携わる。 「呂号第18潜水艦」・「呂号第67潜水艦」の各艦長、第1潜水戦隊参謀、潜水学校教官、海大教官などを歴任。
大野 正直(おおの まさなお、1893年1月20日 - 19… 大野 正直(おおの まさなお、1893年1月20日 - 1951年10月20日)は、日本の大正から昭和前期にかけて活動した弁護士。 愛知県海部郡佐屋村(現在の愛西市)出身。愛知県第三中学校(現在の県立津島高校)を経て日本大学に入学し、1920年(大正9年)に弁護士試験合格、岡崎正也法律事務所に3年間在籍ののち帰郷し、1923年(大正12年)に名古屋市で個人事務所を開設する。 以降、名古屋市会議員を務めるなど中京圏の法曹界における重鎮とされ、スポーツ全般への造詣の深さから1936年(昭和11年)に新愛知新聞社が結成した職業野球チームの名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)設立に当たっては社外から会長として迎えられた。
南 洋一郎(みなみ よういちろう、1893年1月20日 - … 南 洋一郎(みなみ よういちろう、1893年1月20日 - 1980年7月14日)は、日本の児童文学・冒険小説・ノンフィクション作家、翻訳家。教員としては東京府東京市牛込区余丁町尋常小学校などで訓導を務めた。 東京府西多摩郡東秋留村(現在の東京都あきる野市)出身。本名は池田宜政(いけだ よしまさ)。南洋一郎以外にも荻江信正(おぎえ のぶまさ)などの筆名や本名を用い、数々の著作を発表した。 東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒業。1915年にカトリックの洗礼を受ける。 12歳で父を亡くし、高等小学校卒業後、学校からの紹介で小石川の商家に住み込み奉公へ出る。働く合間に独学で学んでいたが、約1年で体調を崩してしまい、帰郷する。
林 虎雄(はやし とらお、1893年1月18日 - 1970… 林 虎雄(はやし とらお、1893年1月18日 - 1970年9月8日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1917年に名古屋高等工業学校を卒業。三井物産、豊田自動織機での勤務を経て、1943年にトヨタ自動車工業取締役に就任し、1949年12月には日本電装社長に就任した。1967年3月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲三等瑞宝章を受章した。 1970年9月8日脳軟化症のために死去。77歳没。
小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 19… 小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 1980年2月12日)は、日本の郷土史家、考古学者、教員。 埼玉県児玉郡長幡村(現上里町)の立石半五郎の三男として生まれる。1913年埼玉県師範学校師範学科第一部卒業。師範学校に訓導として勤務。1917年、文部省から「博物ノ内植物」の「師範学校、中等学校、高等女学校教員免許状」を授与され、1918年埼玉県立熊谷高等女学校教諭。1920年には「博物科ノ内動物及生理」の「師範学校、中学校、高等女学校教員免許状」を授与される 。1947年熊谷市立桜田中学校校長を経て、1949年熊谷市立女子高等学校校長となり、翌1950年熊谷市立公民館長。 高校の教員として教壇に立つ傍ら、鳥類の観測記録を日本鳥学会の機関誌に投稿を続けた一方で、埼玉郷土会などに活動の場を広げ、民俗・伝承や考古資料の調査・研究を行い、1939年には熊谷郷土会の例会で、熊谷地方の板碑について発表している 。
東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1… 東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1月16日 - 1983年〈昭和58年〉5月26日)は、日本の政治家、医学者、厚生官僚。東京大学名誉教授。位階は正三位。東京都知事(第4・5代)、日本赤十字社社長(第10代)などを歴任した。 位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長など。 父は医師の東藤九郎。弟は野球選手の東武雄。武雄は東大野球部の投手として活躍し、龍太郎はボート部の選手として活躍した。妻は東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(枢密顧問官、男爵)の三女・照子。 大阪府大阪市中央区久太郎町に、医師の東藤九郎の長男として生まれる。
八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15… 八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15日 - 1980年(昭和55年)6月9日)は、日本の教育者・植物研究家。教員として愛媛県師範学校に長年勤務し、多くの優秀な理科教員を養成するとともに、愛媛県理科教育研究会の会長として愛媛県の理科教育に貢献した。また、教員として勤務するかたわら、牧野富太郎に師事して地元の植物研究に打ち込み、オキチモズクやツバキカンザクラなどを発見したことでも知られている。 1893年(明治26年)1月15日、愛媛県野間郡波方村樋口(現今治市波方町樋口)に生まれた。農家の父・鶴吉と母・ハルの間の11人兄弟の10人目であった。1908年(明治41年)に波方尋常高等小学校(現今治市立波方小学校)高等科を卒業すると、越智郡岩城村の岩城尋常高等小学校(現上島町立岩城小学校)に代用教員として勤務しながら愛媛県師範学校を目指し、1910年(明治43年)に同校に合格、入学した。
細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉… 細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉1月12日 - 1964年〈昭和39年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、埼玉県議会議員(1期)、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県高麗郡飯能町(のち入間郡飯能町、現:飯能市)で生まれる。埼玉県立川越中学校を中退。 1908年(明治41年)、織物製造業を継いで細田織物工場を設立した。その後、埼玉染絨取締役、埼玉県農業会理事、所沢毛織物工業所代表取締役、武蔵織物工業所代表取締役、武蔵織物工業協同組合常務理事、関東羊毛工業協同組合理事長、飯能商工会議所会頭、武蔵織物社長、西部編織社長、所沢毛織会長などを務めた。 政界では、飯能町会議員を務める。
大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - … 大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。 1893年(明治26年)1月11日、東京府(現・東京都)に生まれる。 大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現・東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。父・重五郎は、幕府の御家人出身で、小牧(こまき)が本姓であった。熊本藩出身の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった。 元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、 「元雄は、幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。
鈴木 九平(すずき きゅうへい、1893年 <明治26年> … 鈴木 九平(すずき きゅうへい、1893年 <明治26年> 1月11日 - 1980年 <昭和55年> 8月21日)は、日本の経営者。位階は正四位。 静岡県磐田市出身。1918年に東京高等商船学校を卒業。日本郵船での勤務を経て、1935年に日本捕鯨(のちの日本水産)に入社し、1950年には社長に就任。1951年には会長も兼務し、1963年には相談役に退いた。 1960年5月に藍綬褒章と紺綬褒章を受章し、1972年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1980年8月21日急性心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10… 石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第26期、東京帝国大学工学部火薬学科卒業。1932年(昭和7年)に陸軍造兵廠火工廠研究課長に就任し、1936年(昭和11年)に陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所に転じた。1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級し、陸軍造兵廠火工廠技術課長に着任。1939年(昭和14年)3月に兼陸軍造兵廠火工廠検査課長を経て、1940年(昭和15年)1月20日に陸軍燃料廠附となる。 同年8月1日に陸軍燃料廠整備部長兼研究部長に就任し、1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級した。
井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月… 井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月7日 - 1963年〈昭和38年〉8月12日)は、日本の商学博士。日本大学名誉教授。東京簿記学校名誉学長。明治大学商学部教授。 神奈川県都筑郡田奈村大字長津田(のち横浜市緑区長津田町)出身。井上傳五左衛門の二男。錦城商業学校、東京府立第四中学校を卒業。専門学校検定試験合格。 1917年、第一高等学校第一部文科を卒業。1920年、東京帝国大学経済学部を卒業。1922年、日本大学商学部講師。1924年、日本大学商学部教授兼学監心得。 1924年より1926年まで経済政策研究の為独逸及び英国に留学。1927年、日本大学商経学部教授兼学監。1936年、主論文「商業使用人問題の研究」及び副論文「商店法論」により「商学博士」を授与される。
鳥畠 徳次郎(とりばたけ とくじろう、1893年(明治26年… 鳥畠 徳次郎(とりばたけ とくじろう、1893年(明治26年)1月7日 - 1969年(昭和44年)12月25日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、石川県議会議長。 石川県石川郡上金石町(金石町を経て現金沢市金石)で生まれる。1911年(明治44年)京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業した。 商社などで勤務。1927年(昭和2年)北陸自動車商会を設立し、取締役支配人に就任。その他、石川合同自動車社長、朝日車輛代表、金沢交通専務取締役、石川交通社長、石川日産自動車販売社長、朝日物産社長、大阪光タクシー社長、大阪尼ケ崎自動車工業社長、石川定期運輸社長、大阪中央自動車工業会長、大阪宝タクシー取締役、北国証券金融取締役、北陸放送取締役、金沢商工会議所常議員などを務めた。
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 19… 柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。
島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日… 島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日 - 1990年(平成2年))は大正から昭和期の海軍軍人。正五位勲三等。最終階級は海軍大佐。
馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年… 馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年10月5日)は、医師・産児制限運動家。 愛知県出身。愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)卒。旧姓は浜田。通称は僴(かん)。新聞ではドクトル馬島として取り上げられた。賀川豊彦に共鳴して神戸で医療救済活動にあたる。1920年(大正9年)欧米に留学して産児調節を学ぶ。1928年(昭和3年)、太田慶太郎、その妻太田操らとともに、解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を創設、東京市本所松倉町に労働者診療所を開設、1929年(昭和4年)東京市議。1930年(昭和5年)東京市芝公園5号地に愛児女性協会が設立した産児制限相談所に参画。第二次世界大戦後も産児調節運動を推進した。
神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1… 神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉9月10日)は、日本の土木工事技術者、経営者。間組社長を務めた。 神奈川県足柄上郡南足柄村で裕福な家庭に生まれる。南足柄小学校高等科を経て、1909年(明治42年)に岩倉鉄道学校建設科を卒業し、同年10月に間組に入社した。約10年にわたって朝鮮半島で道路建設に従事した。 1923年(大正12年)6月、山梨県南巨摩郡で榑坪発電所(後の早川第一発電所)の工事を管轄していた早川出張所の主任が急死し、神部がその後任に就いた。1925年7月、当時50歳の松永安左エ門が大井川水系の電源調査のために赤石山脈を縦走することになり、神部が案内役として先導した。
住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月… 住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1968年〈昭和43年〉10月2日)は、経営者、東京都副知事、海事史研究家で日本海事史学会会長を務めた。 愛媛県下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に移り、広島県立第三中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、第六高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治学科卒。当時日本一の総合商社だった神戸の鈴木商店に入社、同船舶部勤務。鈴木商店の「大番頭」金子直吉の秘書を永く務めた。金子直吉名義の唯一の著書「経済野話」(1924年、巌松堂書店)は、東京ステーションホテル20号室で金子が住田に語った内容を住田が口述筆記の形でまとめたものである。
操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994… 操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994年9月11日)は、日本の医学者、内科学者、感染症学者、ウイルス学者。臨床医学の日本における紹介者で、ウイルス性疾患研究の第一人者だった。九州大学名誉教授、日本感染症学会名誉会員。 鹿児島県の沖永良部島の現・和泊町出身。代々村長かつ学者の家系だった操家に生まれる。名前の由来は王陽明の「信歩行来皆坦道」。西郷隆盛が沖永良部島に流刑になった際は祖父・操坦栽が世話をし、隆盛が父の操坦勁のために書いた家族生活の心得や曾祖父の操坦晋が遺した家訓「清慎」のもと、坦道は育てられた。1906年4月に鹿児島市の鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学。同校の寄宿舎「成徳寮」で暮らす。
武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1… 武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1日 - 1958年(昭和33年)1月19日)は、日本の内務官僚。秋田県知事、関東局総長、企画院総裁心得、満洲国総務長官。 本籍・石川県。旧加賀藩士・長崎県師範学校長兼教授、武部直松の四男として長崎で生まれる。東京府立四中、第一高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年7月、内務省に入り東京府属兼内務属として地方局府県課に配属された。 1919年10月、長崎県理事官・内務部農林課長に就任。以後、福岡県学務課長、内務事務官・都市計画局、帝都復興院書記官・同建築局庶務課長兼営繕課長、復興局建築部庶務課長、復興局長官官房計画課長、同長官官房文書課長、復興事務局文書課長、同計画課長、同庶務課長、兼内務書記官・内務大臣秘書官、内務書記官・大臣官房会計課長などを歴任。
小町谷 操三(こまちや そうぞう、1893年1月1日 - 1… 小町谷 操三(こまちや そうぞう、1893年1月1日 - 1979年1月5日)は、日本の商法学者。専門は海商法。学位は法学博士(東京帝国大学)。東北大学名誉教授。 長野県出身。旧制第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法科卒業。東京地方裁判所判事を経て欧米各国に留学し帰国。1924年(大正13年)東北帝国大学教授。1929年(昭和4年)法学博士(東京帝国大学)。第二次世界大戦後は東北大学教授、1956年まで務め名誉教授。退官後は法政大学、次いで愛知学院大学で教授を務める。戦前に旧法制審議会幹事、戦後に法制審議会商法部会委員を務めた。 二高時代には阿波研造の下で弓道を嗜み、東北帝大教授時代には、『弓と禅』で知られるオイゲン・ヘリゲルと阿波の通訳を務めた。
近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年… 近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。従四位、勲一等。 1893年1月1日、愛知県中島郡平和町(現在の稲沢市)の農家に生まれる。高等小学校時代の1905年11月頃、伊勢湾に凱旋入港した第三戦隊の千歳を見学に行った際、司令官である出羽重遠中将に声をかけられ、海軍に対する憧れを抱く。その後、愛知県立第三中学校在学中、学費の都合上高等学校に行けそうになかったため、当時流行っていた米国への出稼ぎを考えていたが、排日運動の機運が高まっていたため断念し、同じく海外に行ける可能性があり、また憧れもあった海軍兵学校受験を決意し、1911年(明治44年)9月11日、海兵42期生として入校する。
水野 敏雄(みずの としお、1893年 - 1981年)は、… 水野 敏雄(みずの としお、1893年 - 1981年)は、日本の教育学研究者。島根大学第4代学長。 東京市に生まれる。1911年、第一高等学校入学、1914年、東京帝国大学文科大学哲学科入学。1920年、山口高等学校(現・山口大学)教授。1927年、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授。1937年、文部省教学局指導部指導課長。1945年、岡崎高等師範学校(現・名古屋大学教育学部)校長。1950年に公職追放を受ける。日本育英会理事、理事長を経て、1962年から1968年まで島根大学学長。
佐々木 周一(ささき しゅういち、1893年 - 1982年… 佐々木 周一(ささき しゅういち、1893年 - 1982年)は、日本の実業家。三井船舶代表取締役社長や、日本船主協会会長、日本海難防止協会会長等を歴任した。 1893年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業、三井物産入社。イギリス駐在等を経て、1942年三井船舶専務取締役。1944年三井本社代表取締役常務理事。日本の降伏後1945年三井船舶代表取締役社長に就任。1946年には日本船主協会会長も兼務したが、同年公職追放となり退任。1962年三井ライン興業取締役。1968年から日本原子力船開発事業団理事長を務め、むつの開発などを進めた。日本海難防止協会会長、海上安全審議会会長なども歴任した。
小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 19… 小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 1974年(昭和49年))は、日本の化学者、理研化学工業社長。 茨城県水戸市生まれ。1914年茨城県立工業学校応用化学科卒、17年上田蚕糸専門学校製糸科卒、満鉄中央試験所勤務、志賀潔に見出され、京城医学専門学校助教授、1927年京都帝国大学農学部入学。30年卒業、36年ニンニクの無臭有効成分をスコルヂニンと命名。40年日生化学研究所を設立。1953年「「にんにく」の生化学的研究」で京大農学博士。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受勲。理研化学工業社長。「にんにく博士」として知られた。 次男の小湊壌(ゆずる、1940 - )はのち理研化学工業社長。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。 1893年(明治26年)、香川県高松市に生まれた。本名は良助。小学校時代、竹内流腰廻を竹内緑に、無相流柔術を松井三蔵に、直心影流剣術を井上正広に学ぶ。中学校時代には、柔道を岡野好太郎に、竹内流を竹内兵衛に、剣道を上原宗九郎、植田平太郎(天真正伝神道流)らに学んだ。 1913年(大正2年)、慶應義塾大学部理財科に入学。剣道部に入り、真貝忠篤(窪田派田宮流)に学ぶ。また中山博道の道場・有信館に入門して神道無念流剣術を修行した。
市橋 鐸(いちはし たく、1893年(明治26年) - 19… 市橋 鐸(いちはし たく、1893年(明治26年) - 1983年(昭和58年))は、愛知県犬山出身の郷土史家。 1893年(明治26年)、犬山藩成瀬氏に仕える御典医をしてきた鈴木家に鈴木鐸麿として生を受けた。國學院大學卒業後、函館商業学校で教鞭を執る。1920年(大正9年)、一宮の市橋家の養子となる。1927年(昭和2年)、小牧中学校に移る。同校において郷土室に勤め、郷土資料写真集を発行するなど、郷土歴史教育に取り組んだ。また、このときの教え子に後に郷土史家となる水谷盛光がいる。1941年(昭和16年)、名古屋市の依頼により、『名古屋叢書』の編纂に携わることとなった。この編纂事業の途中、名古屋大空襲などの困難はあったものの、1949年(昭和24年)に完成し、1959年(昭和34年)に発刊された。
横山信二(よこやま しんじ、1893年 - 1939年)は、… 横山信二(よこやま しんじ、1893年 - 1939年)は、日本の造園家。官庁造園技師として活躍し、関東大震災後の東京の隅田・浜町・錦糸の三大復興事業公園、東京緑地計画、東京の風致地区策定等に対し大きな業績を残した。福井県生まれ。 第八高等学校 (旧制)を経て、1921年(大正10年)、東京帝国大学農学部農学科第一部を卒業し、この年10月明治神宮造営局外苑課に入局した。翌年工務課に移り、1924年、造営局技手となった。神宮内外苑工事完了後に帝都復興事業がはじまり、1925年、内務省復興局技手となる。1927年(昭和2年)には復興局技師に就任。 1930年(昭和5年)、復興局官制廃止による復興事務局設置により、1932年の復興事務局官制廃止までは内務省東京地方委員会技師兼復興事務局建築課技師を拝命し、その後内務省都市計画地方委員会技師として専念するが、1938年から病で倒れ翌年47歳で天逝した。
松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本… 松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本の文筆家、詩人、翻訳家。筆名に松山 敏(まつやま さとし)。 宮崎県生まれ。金星堂に勤務し、1921年雑誌『人間』の編集長を務め、作家たちと交友。1930年東京外国語学校卒業。 松山敏の名で詩集や詩の翻訳本などを刊行するが、原典訳ではないものも多い。一時期、同人誌『銀皿』を刊行。 戦時中は時局的な著作を悦三の名で多く刊行、戦後も敏名義で活動するが、悦三名義で往年の作家の思い出などを綴った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大塚 豊美(おおつか とよみ 1893年-1978年)は、日… 大塚 豊美(おおつか とよみ 1893年-1978年)は、日本の医学博士、歯科医師、教育者。配偶者の須磨は星野元治の五女。 1893年、群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市)に生まれる。1913年、東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業。はじめ静岡県で歯科医師として活動を開始し、後に山梨県に移り山梨県歯科医師会長に就任した。その後ドイツに留学し、クルップ社の開発した歯科金属材料技術、ウイプラ(Wipla)床圧印を同社とのライセンス契約に基づいて日本に導入した。1929年には日本歯研工業株式会社の前身である大日本歯科技術研究所を東京都品川区大崎本町(現品川区西五反田)に開設。1972年には東京歯科大学の協力の下に歯科技工士養成のため東京歯科技工専門学校を開校。
河村 只雄(かわむら ただお、1893年 - 1941年)は… 河村 只雄(かわむら ただお、1893年 - 1941年)は、日本の社会学者。 山口県熊毛郡勝間村生まれ。1920年同志社大学第二神学部卒業。満州大連のYMCA勤務。キリスト教徒であり、渡米しシカゴ大学神学部入学、社会学に転科、24年卒業。大学院に学び28年社会学博士。同年帰国、文部省専門学務局学生調査課嘱託、学生思想問題の調査にあたる。 1929年立教大学文学部教授。立教大学では社会学と英語を教えたが、当時の自宅は目白の関口台町(現・文京区関口)にあり、自宅に招いた学生らにすき焼きをよくご馳走していた。 1932年国民精神文化研究所発足と同時に所員(兼任)。1936年から沖縄、南西諸島、台湾の民俗学的調査を行う。
阿部 三郎太郎(あべ さぶろうたろう、1893年 - 没年不… 阿部 三郎太郎(あべ さぶろうたろう、1893年 - 没年不詳)は、日本の数学者、教育者。立教大学予科教授、立教大学学生主事。立教大学体育会水泳部の部長としてプールの建設に尽力し、多くのオリンピック選手を育てるなど「立教水泳の恩人」と知られ、熱心なクリスチャンでもあった。 1893年生まれ。1924年、東北帝国大学理学部物理学科卒業。 1927年、立教大学予科に着任し、予科教授として数学を講じた。 1929年に立教大学体育会水泳部部長に就任。部長となった阿部はプールの建設のため、建築費の資金調達に水泳部OBの本井の協力も得て尽力した。建築費3万円のうち1万円は校友からの募金で得られ、残り2万円は銀行から借入れし、阿部と水泳部OBの野村憲夫らが保証人となって調達された。
李 東華(イ・ドンファ、이동화、1893年 - 没年不詳)は… 李 東華(イ・ドンファ、이동화、1893年 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮と日本で社会運動をしていた人物。江原道通川郡出身で、李慶圭(イ・キョンギュ)という別名もある。日本名は李家實(りのいえ さとる)。 日本大学に在学中であった1920年8月、京城日報の後援で開催された東京学生朝鮮視察団巡回講演会の講演者として活動し、同年9月には青年内鮮融合会で活動した。1922年、東京で内鮮融合と黄色人種の団結を目的とした出版社である黄人社を設立し、発行人兼編集者、社長を務め、1920年代から1930年代まで日本と朝鮮を巡りながら、内鮮融合と内鮮一体をテーマとした講演を行った。 1932年12月、黄人社の機関誌『黄人公論』を創刊した。
帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965… 帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965年)は、日本の教育者。立教大学学監、旧制立教中学校校長、立教学院理事。立教を廃校にしようと画策した配属将校や軍部の迫害から立教を護った人物として高く評価されている。北辰一刀流の剣豪、千葉周作の曾孫、旧名は千葉秀三郎。 1893年、北辰一刀流の開祖である千葉周作の曾孫、千葉秀三郎として生まれる。 父・千葉周之介之胤(玄武館第5代宗家)は東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)の教員として撃剣及び剣道の師範を務めた。 兄が旧制立教中学校で学んだことから、1909年に同じく旧制立教中学校に入学。 1913年、立教大学文科(現・文学部)に入学。
石川 丹八郎(いしかわ たんぱちろう、1893年 - 197… 石川 丹八郎(いしかわ たんぱちろう、1893年 - 1979年)は、名古屋市南区笠寺に生まれた作家、占い師。 当地に伝わる伝説・昔話、歴史上の人物などを調べる郷土史家であったという。また、趣味として易を為した。名古屋市南区鳥山町2丁目の私有地に丹八山と命名し、公園として整備。丹八山公園として、名古屋市に寄贈したことでも知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、愛知県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/愛知県)。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - 1983年(昭和58年))は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。
尾中 蘆山(おなか ろざん、1893年(明治26年)‐196… 尾中 蘆山(おなか ろざん、1893年(明治26年)‐1963年(昭和38年))は大正時代から昭和時代の日本画家。
島田 孝一(しまだ こういち、1893年(明治26年) - … 島田 孝一(しまだ こういち、1893年(明治26年) - 1987年(昭和62年))は、日本の交通経済学者。商学博士。 早稲田大学名誉教授。第6代早稲田大学総長(1946年 - 1954年)、流通経済大学初代学長(1965年-1974年)、日本交通学会初代会長(1941年-1973年)。初代日本私立大学連盟会長(1951年 - 1955年)。 東京麹町の番町(現・千代田区四番町)で生まれた。島田三郎の長男。父・三郎は民権運動の功労者で、衆議院議長に挙げられた。 1906年に東京高等師範学校附属小学校(現、筑波大学附属小学校)、1911年に東京高等師範学校附属中学校(現、筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
嶋野三郎(島野三郎、しまの さぶろう、1893年 - 198… 嶋野三郎(島野三郎、しまの さぶろう、1893年 - 1982年1月24日)は、日本のロシア研究家・アナリスト。石川県出身。 1911年、金沢第一中学校を卒業。石川県の県費留学生として選抜され、日露貿易のために必要なロシア語を習得するため、ウラジオストクで語学研修を行う。この時、一緒に留学生に選抜されたのが宮崎正義(石原莞爾のブレーンとなる)である。 1914年、南満洲鉄道株式会社の社費留学生となり、モスクワの大学を経て、1916年にペテルブルク大学に入学。哲学・ロシア史を学ぶ。1917年、ロシア2月革命に遭遇し、7月に帰国。その年、南満洲鉄道株式会社に入社し、東京支社東亜経済調査局(後に調査部)に所属する。
平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年)… 平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年) - 1918年(大正7年)11月11日)は、三重県四日市市出身の実業家。平田家の3代目当主である。2代目平田佐次郎の長男で、佐次郎から一旦平田家の家督を継承し、平田紡績の3代目社長も務めた。スペイン風邪の病死者である。 2代目平田佐次郎とたきの長男として、三重県三重郡富洲原村の富田一色本町(現在の四日市市富田一色地区七軒本町)で出生した。祖父は、平田紡績創業者の初代平田佐次郎である。初代と2代目の親子2代で「平田佐次郎」を襲名していたが、3代目当主は「佐十郎」を名乗った。8男4女の12人兄弟であり、母親の平田たきは吉川家出身で、最後に平田佐貞などの双子の男子を出産をした際に体調が悪化して病死した。
中北 辨造 (なかきた べんぞう、1893年-1965年)は… 中北 辨造 (なかきた べんぞう、1893年-1965年)は、日本の実業家。中北製作所の創業者。 1893年、大阪天満宮の近くで江戸時代より扇屋庄兵衛を代々名乗る、呉服や質屋を営む家の三男として生まれる。1912年、旧制都島工業学校(現・大阪府立都島工業高等学校)機械科を第一期生として卒業。その後、専売局(現・日本たばこ産業)へ入社し機械設計に従事。1930年、中北製作所を創業。以後、新製品の開発に取り組み中北製作所の基礎を固める。1965年、死去。
横山芳介(よこやま よしすけ、1893年〈明治26年〉 - … 横山芳介(よこやま よしすけ、1893年〈明治26年〉 - 1938年〈昭和13年〉1月30日)は、日本の作詞家。農林省技師。東京出身。
和田 精(わだ せい、1893年(明治26年) - 1970… 和田 精(わだ せい、1893年(明治26年) - 1970年(昭和45年))は、音響演出家。日本における音響効果の創始者であり、築地小劇場では創立メンバーの一人として音響や照明を担当した。イラストレーターの和田誠の父。ロックバンド・TRICERATOPSの和田唱の祖父。
伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - … 伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。広島県出身。
宮道 悦男(みやみち えつお、1893年 - 1992年3月… 宮道 悦男(みやみち えつお、1893年 - 1992年3月15日)は、日本の薬学者(薬品化学)。学位は薬学博士(東京帝国大学・1931年)。岐阜薬科大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 富山薬学専門学校教授、岐阜薬学専門学校校長(第2代)、岐阜薬科大学学長(初代)、静岡県立薬学専門学校校長(初代)、静岡薬科大学学長(初代)、大阪薬科大学学長(第3代)、学校法人大阪薬科大学理事長(第5代)、岐阜女子大学学長(第2代)などを歴任した。 薬品化学を専攻する薬学者である。アミノ酸誘導体の研究で知られている。富山薬学専門学校にて教鞭を執るなど、後進の育成に努めた。岐阜薬学専門学校の最後の校長を務め、同校を母体とする岐阜薬科大学でも初代学長に就任するなど、数十年にわたって同校のトップを務め、岐阜県の薬学の振興発展に尽力した。
鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、189… 鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、1893年または1901年6月27日 - 1965年1月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、初代慶尚北道知事、第4代忠清北道知事を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。号は白下(ペカ、백하)。 慶尚北道安東郡出身。早稲田大学卒。新幹会安東支会長を経て、解放後は朝鮮日報主筆、時代日報主筆を務めた。1948年の初代総選挙で当選したが、同年10月19日に慶尚北道知事に任命されたため議員を辞職した。以後初代慶尚北道知事(1948年10月18日~1950年1月23日)、第4代忠清北道知事(1952年9月~1953年11月)、自由党政務委員長、民友党結党発起人を務めた。
齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) -… 齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) - 1987年(昭和62年)4月6日)は、日本の教育者。藤島町教育委員会教育長、山形県東田川郡校長会長、山形県連合小学校長会評議員、栄典・称号は、従五位・勲五等・双光旭日章・藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)