泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 195… 泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 1959年4月9日 )は、日本の政治家、詩人、教育者。名瀬市長(1期)。 鹿児島県大島郡伊仙村生まれ。1924年3月、鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学教育学部)卒業。卒業後は、小学校の教員として鹿児島と東京の学校を転々とした。1931年、日本大学専門部国文科中退。 1950年8月、奄美大島社会民主党を結成し、書記長、中央執行委員長を歴任した。同年、群島議会議員選挙に同党公認で立候補したが、次点で落選した。1951年2月、奄美大島復帰協議会を結成して、議長となった。同年8月1日から5日まで日本復帰の断食祈願を行った。その後、奄美各地で決起集会が開かれ、参加者が24時間の断食を行うなどの広がりを見せた。
川崎 プッペ(かわさき ぷっぺ、1905年3月18日 – 1… 川崎 プッペ(かわさき ぷっぺ、1905年3月18日 – 1978年3月30日)は、日本の人形作家。本名は、川崎恒夫。文明堂のCMで用いられるマリオネットの制作者で知られる。 福島県白河市生まれ。1920年、東京府立工芸学校に入学し、陽咸二に彫刻を学ぶ。1933年、伊東屋での第1回フランス人形展で特選となる。1937年、同展は「すみれ人形展」と改称され、自らの制作の人形を発表し続けた。1940年、人形劇団「劇団国民人形劇」を主宰し、全国を慰問してまわった。戦後の1946年、人形劇団くるみ座設立に参加した。また、自ら「のすみれ会」を主宰し、人形制作の指導を行った。1976年10月、のすみれ会第11回展において、「創作人形五十五年川崎プッペ人形展」が開かれた。
鳥羽 陽之助(とば ようのすけ、1905年3月16日 - 1… 鳥羽 陽之助(とば ようのすけ、1905年3月16日 - 1958年10月10日)は、日本の俳優である。本名は鳥羽 輝雄(とば てるお)、高勢実乗との「極楽コンビ」で知られる。 1905年(明治38年)3月16日、東京府東京市(現在の東京都区部)に「鳥羽輝雄」として生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、大倉高等商業学校(現在の東京経済大学)を3年次で中途退学し、満17歳になる1922年(大正11年)、新劇の東京自由劇場俳優養成所の研修生となる。1923年(大正12年)に伊川八郎の「国精劇」、1926年(大正15年)には明石潮の一座に参加する。 同年、京都・御室のマキノ・プロダクションで、二川文太郎らが監督した月形龍之介主演作『修羅八荒』に出演して映画界にデビューした。
三井 礼子(禮子、みつい れいこ、1905年(明治38年)3… 三井 礼子(禮子、みつい れいこ、1905年(明治38年)3月16日 - 1989年(平成元年)1月13日)は、日本の女性史研究者、歴史家。 東京市出身。(三井高棟〔三井家総領家当主〕)四女に生まれる。女子学習院高等科に進み、蒙古史や東洋歴史論などで著名な河野元三に師事すると1924年(大正13年)卒業。東京帝国大学文学部(現東京大学文学部)に聴講生として通いはじめマルクスやエンゲルスに立脚する歴史を学ぶ。同年に三井高篤と結婚後、1929年から4年余りを海外で過ごし、やはり海外赴任に帯同していた石本(加藤シヅエ)に出会う。 1946年(昭和21年)民主主義科学者協会設立に参画すると、そのもとに婦人問題研究会を組織した。
浅地 庄太郎(あさじ しょうたろう、1905年〈明治38年〉… 浅地 庄太郎(あさじ しょうたろう、1905年〈明治38年〉3月16日 - 1983年〈昭和58年〉8月8日)は、日本の実業家。位階は正五位。 日本不動産管理を設立し、日本初の契約によるビル管理業を生み出した。ビル管理業、ビルメンテナンス業界の発展に尽力し、ビルメンテナンス協会を設立。ビル管理業・業界のあり方を規定する社会的な取り組みを行った。 1905年(明治38年)3月16日、石川県金沢市瓢箪町に浅地伊三郎・すずの長男として出生。兄弟は、姉の葉留と弟の多吉、妹の光子の4人であった。実家は機を織る機屋「浅庄」を経営していた。1912年(大正元年)に瓢箪町尋常小学校に入学し、小将町高等小学校に進学。
福田 繁芳(ふくだ しげよし、1905年〈明治38年〉3月1… 福田 繁芳(ふくだ しげよし、1905年〈明治38年〉3月15日 - 1977年〈昭和52年〉2月12日)は、日本の政治家。自由民主党の衆議院議員。 1927年関西大学専門部法律学科卒業後、1946年の第22回衆議院議員総選挙に立候補するが次点で落選。しかしその後三木武吉の公職追放により繰り上げ当選となる。 1951年10月5日、高松地方検察庁に観音寺競輪場誘致運動資金の一部を横領した容疑で逮捕される。 1961年3月、日興連汚職事件で福田に対して懲役1年の実刑判決が確定し、公民権停止となったため国会法の規定で退職(自動失職)。賄賂罪の実刑判決が確定して国会議員が退職(失職)となったのは初めてであった。
多賀 安郎(たが やすろう、1905年(明治38年)3月15… 多賀 安郎(たが やすろう、1905年(明治38年)3月15日 - 2002年(平成14年)5月31日)は、昭和期の新聞編集者、実業家、政治家、アマチュアボクシング選手、プロボクサー。衆議院議員。 岡山県窪屋郡、現在の倉敷市出身。1940年(昭和5年)早稲田大学専門部法律科を卒業した。 東京吉井洋行を経営。合同新聞記者となり、大阪時事新報記者、満州新聞大阪支社営業部長、山陽民報主筆を歴任。南北アメリカ、アフリカ、インド、中国、満州等の各地を取材して回り、また従軍記者として中国大陸や南方に派遣された。その他、在外同胞帰還促進会理事、日本漁民組合瀬戸内海部長、倉敷体育協会副会長、備中板金加工業組合理事長、遠藤青汁取締役社長、ほか内海高速汽船(のち琴平高速汽船)社長、遠洋漁業協同組合理事長などを務めた。
馬場 克三(ばば かつぞう、1905年 <明治38年> 3月… 馬場 克三(ばば かつぞう、1905年 <明治38年> 3月14日 - 1991年 <平成3年> 10月29日)は、日本の経営学者、会計学者。九州大学名誉教授。位階は従三位。 滋賀県彦根市出身。1926年彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)卒業。1931年九州帝国大学(現九州大学)法文学部経済科卒業。卒業後も同大学に残り、副手、講師、助教授を経て、1945年教授昇任。1968年に退官後は西南学院大学(1968年~1977年3月)、広島修道大学(1977年~1981年3月)等でも教鞭を執った。1966年藍綬褒章受章、1976年勲二等瑞宝章受章。1991年没。死没日付をもって従五位から従三位に進階した。
秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1… 秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1967年9月18日)は、日本の経営者、銀行家。埼玉銀行頭取を務めた。群馬県館林市出身。 秋元春朝子爵の長男として生まれる。1928年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、1929年には大蔵省に入省。 1932年に茨木税務署長、大阪税務監督局管内茨木税務署所轄内相続税審査委員。1933年に淀川税務署長、大阪税務監督局轄内淀川税務署所轄内相続税審査委員。1934年に北税務署長、大阪税務監督局管内北税務署所轄内相続税審査委員。 1940年に関税等不服審査会幹事、阿片委員会幹事、台湾関税等不服審査会委員、不当廉売委員会幹事。
志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982… 志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982年〈昭和57年〉2月11日)は、日本の俳優。本名は島崎 捷爾()。身長163cm。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物。 兵庫県朝来郡生野町出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。映画出演本数は400本以上に及び、特に黒澤明監督作品には欠かせない俳優であった。 1905年(明治38年)3月12日、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市生野町)に生まれる。三菱生野鉱業所の冶金技師をする父・島崎毛登女(もとめ)と、母・喜与の次男として口銀谷の生野鉱山社宅(甲社宅)で育つ。祖父・雄次は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった。
内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38… 内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38年)3月12日 - 1989年(平成元年)10月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡石地町長。 新潟県刈羽郡石地町(朝日町、西山町を経て現柏崎市西山町石地)で、素封家・内藤鷲郎(内藤久寛養子)の長男として生まれる。1930年(昭和5年)早稲田大学経済科を卒業した。 1931年(昭和6年)9月、新潟県会議員に当選し、同参事会員も務めた。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に新潟県第3区から立憲民政党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その他、石地町長、新潟県町村長会副会長、刈羽郡町村長会長、新潟県大陸開拓協会副会長、大政翼賛会刈羽郡支部長、柏崎税務署管内家屋賃貸価格調査委員、青少年団長、帝国在郷軍人会石地分会長、石地町農会長などを務めた。
加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3… 加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3月11日 - 1936年(昭和11年)1月5日)は日本の登山家。大正から昭和にかけて活躍した。兵庫県美方郡新温泉町出身。兵庫県立工業学校夜間部卒業。 複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされる山岳界の常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残した。登山に対する精神と劇的な生涯から、小説(新田次郎著『孤高の人』、谷甲州著『単独行者 アラインゲンガー 新・加藤文太郎伝』)やドラマのモデルとなった。 1905年(明治38年)3月11日、兵庫県美方郡浜坂町(現在の新温泉町)浜坂にて、加藤岩太郎・よねの四男として生まれる。 1919年(大正8年)に浜坂尋常高等小学校高等科卒業後、郷里を出て神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に勤務しながら、1923年(大正12年)兵庫県立工業学校別科卒業、1926年(大正15年)神戸工業高等専修学校電気科を卒業。
海後 勝雄(かいご かつお、1905年3月11日 - 197… 海後 勝雄(かいご かつお、1905年3月11日 - 1972年11月1日)は、日本の教育学者、埼玉大学名誉教授。茨城県出身。
河合 堯晴(かわい たかはる、1905年3月11日 - 19… 河合 堯晴(かわい たかはる、1905年3月11日 - 1985年6月6日)は、日本の経営者。岡山県出身。 1929年に京都帝国大学工学部採鉱冶金科を卒業し、同年に日本鉱業に入社。 1950年5月に取締役に就任し、1957年11月に常務、1959年5月に専務を経て、1964年5月に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1974年5月に会長を経て、1976年6月には相談役に就任。日本鉱業協会会長、全日本剣道連盟会長なども歴任。 1964年10月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1985年6月6日急性心不全のために死去。80歳没。
七尾潟 直右エ門(ななおがた なおえもん、1905年3月11… 七尾潟 直右エ門(ななおがた なおえもん、1905年3月11日 - 1943年9月16日)は、現在の石川県七尾市出身で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は浜田 兵吾。175cm、88kg。最高位は西十両筆頭。 1924年5月初土俵、1932年2月に春秋園事件の余波により、十両昇進。十両筆頭まで躍進したが、1933年5月に廃業した。
南沢 十七(みなみざわ じゅうしち、一部文献にある「なんざわ… 南沢 十七(みなみざわ じゅうしち、一部文献にある「なんざわ としち」は誤り、1905年3月10日 - 1982年9月26日)は日本の探偵小説・科学小説家、翻訳家。ペンネームの「十七」は17歳のときに父親を亡くしたことによる。代表作に『緑人の魔都』などがある。 本名である川端 男勇(かわばた まさお)名義では科学者の伝記の翻訳や、ノンフィクションの執筆を行った。別名義に本名をもじった川端 勇男(いさお)や、巳貴 千尋、米田 華舡 がある。雑誌『科学画報』の編集長を務めた。 中国研究家の米田祐太郎は叔父。 宮城県仙台市出身。三田中学(現・三田学園高校)を卒業(一説によれば幼児の頃に満州に渡って成人まで滞在していたという)。
嶽山 貞治郎(たけやま ていじろう、1905年 <明治38年… 嶽山 貞治郎(たけやま ていじろう、1905年 <明治38年> 3月9日 - 1989年 <平成元年> 11月4日)は、日本の経営者、銀行家。滋賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 滋賀県出身。1927年に彦根高等商業学校を卒業し、1928年に八幡銀行(のちの滋賀銀行)に入行。1951年に取締役に就任し、1957年10月に常務を経て、1963年10月には頭取に就任。1971年11月に会長を経て、1973年11月には相談役に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1989年11月4日、急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
高橋 貞樹(たかはし さだき、1905年3月8日 - 193… 高橋 貞樹(たかはし さだき、1905年3月8日 - 1935年11月2日)は、日本の水平運動家、共産主義者。 1920年代から30年代前半、すなわち、大正末期から昭和初期にかけての社会主義運動・水平運動・労農運動の先駆者の一人であり、理論と実践の両面で足跡を残した。ただし主著『特殊部落一千年史』は「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」(1919年7月)の「無断まる写し」とも指摘されている。 大分県に生まれる。出生地には諸説があり、速見郡御越町(現在の別府市)内竈とする資料もあれば、「僕は大分県速見郡亀川村の部落出身」と自称していたこともあり、「速見郡海門寺に生れたりというも、かかる村は全然なし」と報じられたこともある。
岩佐 東一郎(いわさ とういちろう、1905年3月8日 - … 岩佐 東一郎(いわさ とういちろう、1905年3月8日 - 1974年5月31日)は、日本の詩人。 東京府生まれ。父親の岩佐藤次郎(1880年生)は東洋染料や鱗与商店の重役を務めた実業家。暁星中学校を経て法政大学仏文科卒。暁星中学の頃、当時父堀口九萬一とともにブラジルに在った堀口大学に手紙で入門を請い、その門人第一号となる。1923年に第一詩集『ぷろむなあど』を18歳で上梓する。1925年に正岡容、藤田初巳(俳人)とともに雑誌『開花草紙』を創刊。1931年城左門と『文藝汎論』、1946年北園克衛と『近代詩苑』を創刊する。モダニズムと抒情の混交した詩を書いた。俳句、随筆、或いは小学校唱歌の作詞(「アマリリス」「よろこびの歌」等)でも知られ、1935年創刊の日本のモダニズム詩人による俳句雑誌「風流陣」の初代編輯・発行人であった。
石川 ハナ (いしかわ ハナ、1905年3月8日 - 199… 石川 ハナ (いしかわ ハナ、1905年3月8日 - 1997年12月30日) は、日本の教師、政治家。1955年から1971年まで横浜市の市議を4期務めた。 神奈川県津久井郡小原町(現・相模原市緑区)に生まれ。地元の小学校高等科を卒業後、横浜の女子師範学校(現・横浜国立大学教育学部)へ進学。師範学校卒業後は青根小学校や日吉台小学校で教師として勤務した。 1948年に夫が死去すると、多方面で活動するようになり、横浜市教職員組合副委員長として女性教師の待遇改善に取り組んだほか、新生活連合婦人会を立ち上げて婦人学級の主催や託児所の開設に取り組んだ。また、1955年には教師を辞して横浜市会議員選挙に港北区選挙区から無所属で立候補して当選。
佐々木 武雄(ささき たけお、1905年3月7日 - 198… 佐々木 武雄(ささき たけお、1905年3月7日 - 1986年3月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は予備役大尉。 1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて日本の降伏に際して発生し未遂に終わった宮城事件に呼応し、出身校である横浜工業専門学校の有志らを募って国民神風隊を編成し、首相官邸と時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の私邸などを相次いで焼き討ちにする事件を起こした。事件後は憲兵などの目をかいくぐる逃亡生活を行った末、比較的早い時期に大山 量士(おおやま かずひと)として世に現れる。改名後は「亜細亜友之会」を立ち上げて事務局長および理事長として活躍し、アジア出身の留学生から「オヤジ」として慕われた。
船越 平八郎(ふなこし へいはちろう、1905年(明治38年… 船越 平八郎(ふなこし へいはちろう、1905年(明治38年)3月4日 - 没年不明)は、昭和時代の政治家。福岡県筑紫野市長。 福岡県筑紫野市出身。 1922年(大正11年)福岡県立朝倉中学校卒業。 1937年(昭和12年)山口村議会議員当選。1942年(昭和17年)、1947年(昭和22年)の連続三選する。 1949年(昭和24年)山口村長選当選、山口村村長となり、1953年(昭和28年)まで村長を務める。 1955年(昭和30年)筑紫野町議会議員当選。1959年(昭和34年)、1963年(昭和38年)の連続三選する。 1967年(昭和42年)筑紫野町長選にて当選、筑紫野町長となる。 1972年(昭和47年)4月1日の市制施行にあたり、初代筑紫野市長となる。
鵜崎 多一(うざき たいち、1905年(明治38年)3月4日… 鵜崎 多一(うざき たいち、1905年(明治38年)3月4日 - 1971年(昭和46年)9月11日)は日本の政治家。福岡県知事(公選)を2期8年務めた。 1905年(明治38年)、学校法人鎮西学院院長などを務めた宗教家鵜崎庚五郎の四男として京都府京都市で生まれる。鎮西中学校、第二高等学校理科甲類を経て1928年(昭和3年)に東京大学農学部農経科卒業。卒業後、農林省に入省し、福島県農地部長や福岡地方経済安定局調整部長、福岡県知事室長などを歴任した。 1959年(昭和34年)4月に行われた福岡県知事選に出馬し当選。当時、全国で唯一の社会党公認知事として、日本のエネルギー政策の転換期において産炭地域であった福岡県が直面した問題に取り組んだ。
田村 平治(たむら へいじ、1905年3月3日 - 1996… 田村 平治(たむら へいじ、1905年3月3日 - 1996年2月18日)は、日本の料理人。日本料理研究会名誉師範。 福井県小浜市出身。生家は魚問屋で、14歳で京都の料亭に入門した。複数の店舗で経験を積んだのち、1932年に東京・築地の藍亭で料理長となる。1946年、築地に懐石料理店「つきぢ田村」を開店した。 料理番組や女子栄養大学の講師も務めた。 子は「つきぢ田村」二代目の田村暉昭、孫は同三代目の田村隆。
小山 貞雄(こやま さだお、1905年3月3日 - 1969… 小山 貞雄(こやま さだお、1905年3月3日 - 1969年8月22日)は日本の政治家。下谷区議(2期)、東京都議(5期)、第20代都議会議長。 1905年3月3日、東京都に生まれる。東北帝国大学(現東北大学)卒業。1937年から下谷区議会議員を2期5年。1943年9月13日の第1回東京都議会議員選挙で当時の下谷区選挙区から初当選、5年在任。1951年都議に再選後は交通委員会委員長(1952−53年)、都議会自民党幹事長(1956−57年)、交通水道委員会委員長(1958−59年)を歴任。1965年3月、第20代東京都議会議長選挙で当選、全国都道府県議会議長会会長にも就任するが、この選挙でいわゆる東京都議会黒い霧事件に関与した15名の現職議員が一斉摘発、自身も同年3月16日に贈賄容疑で家宅捜査を受け、同年4月16日に現職議長として逮捕。
細川 亀市(ほそかわ かめいち、1905年(明治38年)3月… 細川 亀市(ほそかわ かめいち、1905年(明治38年)3月2日 - 1962年(昭和37年)4月5日)は、日本の法学者、歴史学者、弁護士。元法政大学教授、元専修大学教授。専門は法制史、社会経済史。 香川県三豊郡麻村(現三豊市)に生まれる。1928年3月、法政大学専門部第二部政治経済科卒業。 1933年から法政大学で法制史を講義し、1936年に教授に就任する。1945年、『日本獄制史論』で法政大学から法学博士の学位を授与される。 1947年に公職追放されるが、1951年に解除される。1955年、専修大学教授に就任する。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1… 川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1日 - 1986年(昭和61年)3月29日)は日本の実業家。日産自動車中興の祖として知られ、同社の社長や会長、日本自動車工業会初代会長、経団連副会長、日経連副会長などを歴任した。 茨城県東茨城郡上大野村大字吉沼(現在の水戸市吉沼町)に生まれる。川又家は、昔はこの集落の庄屋のような家柄だった。明治になって子供がいなかったので、旧水戸藩士の田辺家から養女を迎えた。これが母錦(きん)である。母が17歳のとき、同じ土地の丹下という家から父の操(みさお)が養子にきた。父は水戸の専売局の太子出張所に勤める一役人にすぎず、いわば半農半勤の家計だったので、母は慣れない農事に精を出しながら、しだいに田畑を手放していかざるをえなかった。
井狩 彌治郎(いかり やじろう、1905年(明治38年)3月… 井狩 彌治郎(いかり やじろう、1905年(明治38年)3月1日 - 1999年(平成11年)7月19日)は、昭和期の実業家。大丸社長を務めた。位階は従四位。 滋賀県出身。膳所中学校(現・滋賀県立膳所高等学校)時代は野球部に所属。慶應義塾大学経済学部を経て、同大学院修了後の1931年に大丸入社。 常務、専務、副社長を経て、1963年に社長に就任し21年間在任した。その間にはパリ、シンガポールなど海外出店を積極的に進め、1984年に相談役に退いた。 1974年から2年間にわたり日本百貨店協会会長、1970年から19年間にわたり社団法人大阪工芸協会会長を歴任。毎日放送取締役なども務めた。1999年死去。
益田 義信(ますだ よしのぶ、1905年(明治38年)3月1… 益田 義信(ますだ よしのぶ、1905年(明治38年)3月1日 - 1990年(平成2年)1月10日)は、日本の洋画家。益田農事株式会社取締役。 益田太郎冠者の子として東京に生まれる。兄弟は5人とも「信」の字を名前に含むため、俗に「五信」と呼ばれる。慶應義塾大学卒。梅原龍三郎に師事する。パリ留学後、国画会に所属した。ヴェネツィア・ビエンナーレなど国際展のコミッショナー。国際造形芸術連盟会長。 日本自動車連盟(JAF)のマークは、1963年(昭和37年)の創立当時に理事を務めていたことから益田がデザインした。色については、制作当初から白とブルーと決めていたとのことで、全9種の試作のうち5枚をJAFに持参し、最終決定されたものが、益田の一番のお気に入りのデザインだったというエピソードが残されている。
渋川 驍(しぶかわ ぎょう、1905年3月1日 - 1993… 渋川 驍(しぶかわ ぎょう、1905年3月1日 - 1993年1月24日)は、日本の小説家、文芸評論家。福岡県福岡市生まれ。本名・山崎武雄。東京帝国大学倫理学科卒。同人誌『日暦』、『人民文庫』などに参加して小説家として立つ。1938年、『龍源寺』で第7回芥川龍之介賞候補。戦後は評論にも進出した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
竹脇 潔(たけわき きよし、1905年(明治38年)3月1日… 竹脇 潔(たけわき きよし、1905年(明治38年)3月1日 - 1988年(昭和63年)1月16日)は、日本の動物学者である。 富山県富山市に生まれ、後に上京し東京帝国大学理学部(現在の東京大学大学院理学系研究科・理学部)動物学科に入学する。1928年(昭和3年)に卒業後は留学のため渡米し、シカゴ大学に入学した。卒業後は帰国し母校の助手を経て講師となり、教鞭を執り1936年(昭和11年)には理学博士を取得する。 その後は助教授を経て1948年(昭和23年)には教授に昇格。1955年(昭和30年)には皇居に招かれて生物学に関する合同進講に出席。「内分泌 特にホルモン間の相関問題に就き」と題する進講を行った。
川村 勝巳(かわむら かつみ、1905年3月1日 - 199… 川村 勝巳(かわむら かつみ、1905年3月1日 - 1999年3月11日)は、日本の経営者。大日本インキ化学工業社長を務めた。 栃木県出身。1929年に東京商科大学を卒業。三井物産での勤務を経て、1937年に大日本インキ化学工業取締役に就任し、1944年に常務、1950年に専務を経て、1958年4月には社長に就任し、1978年6月までに務めた。1969年に日本経営者団体連盟会長にも就任。 1967年3月に藍綬褒章を受章し、1982年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1999年3月11日心不全のために死去。94歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小沢 専七郎(小澤、おざわ せんしちろう、1905年(明治3… 小沢 専七郎(小澤、おざわ せんしちろう、1905年(明治38年)3月1日 - 1966年(昭和41年)12月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。実業家。 福島県石城郡上遠野村(のち遠野町、現在のいわき市)出身。東京高等工科学校(現在の日本工業大学駒場高等学校)電機科で学ぶ。法律事務所勤務を経て、1938年(昭和13年)日本防空食糧株式会社(のち大日本防空食糧株式会社)を設立する。ほか日本国民食糧、日本製塩、茨城県合同罐詰、小沢木材工業などを創立、各社長となった。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙において、福島3区から民主党より出馬し、当選。同党総務委員となる。翌1948年(昭和23年)6月には民主党を離党し、「日本国民党結成準備会」を結成、10月には会派を「新自由党準備会」に改名。
長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日… 長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日 - 1997年(平成9年)4月10日)は、岩波書店の元専務、竹久夢二研究者。 1919年(大正8年)に岩波書店に入店以来1972年(昭和47年)に退職するまで、『漱石全集』をはじめとする岩波書店の主要出版物にかかわり、編集・経営の両面において長く同書店の中心的存在であり続けた。「岩波新書」の命名者でもある。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。成人する前に父をなくしたため、高等小学校を14歳で卒業すると上京し、岩波書店に入る。 いわゆる『決定版漱石全集』(1935年 - 1937年刊行)においては、企画から出版まで、小宮豊隆を補佐し、完成に最後まで責任を持った。
黒川 巳喜(くろかわ みき、1905年(明治38年)3月 -… 黒川 巳喜(くろかわ みき、1905年(明治38年)3月 - 1994年(平成6年)1月2日)は、愛知県海部郡蟹江町出身の建築家。愛知県総務部営繕課に勤務した後に独立して黒川建築事務所を設立し、公共建築を多く手掛けた。建築家の黒川紀章と黒川雅之と黒川喜洋彦は息子。 1905年(明治38年)3月、愛知県海部郡蟹江町蟹江新田に生まれた。1924年(大正13年)、旧制私立東海中学校を卒業した。 1927年(昭和2年)3月には名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)建築科を卒業。卒業設計は「或美術協会」の洋画自由研究所である。卒業後には愛知県総務部営繕課の建築助手となった。昭和塾堂(1929年)の設計主任は足立武郎であり、実施設計は黒川が担当した。
竹重 貞蔵(たけしげ ていぞう、1905年3月-1997年8… 竹重 貞蔵(たけしげ ていぞう、1905年3月-1997年8月5日)は、日本の都市計画家。土地区画整理技術者。 戦後広島の戦災復興都市計画立案、また1955年発足した日本住宅公団の初期事業に携わる。 福岡県旧甘木町(現朝倉市)生まれ。 17歳から胸を病み青年壮年期30年間大半を病床に送っていたというが、著書の土地区画整理用語辞典を編纂したのは80歳の時である。 広島県時代は後に市長となった浜井信三助役が1946年当時に原爆ドーム周辺を公園用地に指定した。このため県都市計画課長だった竹重は独断で取り壊し中止を決定し国からの解体予算危険建造物整理事業補助を返上。残すかどうかの決定を先送りにした。また公園の都市計画決定の際、世界平和復興を「記念」する公園として制定した。
永瀬 義春(ながせ よしはる、1905年(明治38年)3月 … 永瀬 義春(ながせ よしはる、1905年(明治38年)3月 - 1988年(昭和63年)12月)は日本の実業家。元永瀬石油代表取締役会長。全国生コンクリート協同組合理事。 永瀬石油社長永瀬正治の父。 1981年(昭和56年)永瀬石油代表取締役会長。 山陰地区生コンクリート(協)理事長、鳥取県生コンクリート工業組合理事長、鳥取県地方労働基準審議会委員、鳥取県石油(協)理事長、米子西部自動車学校理事長、鳥取地方裁判所調停委員、鳥取県西部砂利生産販売(協)理事長、米子ロータリークラブ会長などを歴任。 勲五等瑞宝章、鳥取県中小企業団体中央会功労表彰、全国石油(協)連合会特別功労表彰 (島根県簸川郡斐川村、鳥取県米子市尾高町・米子市宗像) この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 -… 築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 - 1989年6月27日)は、日本の東洋史学者。 京都府京都市生まれ。京都府立第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)卒、東京高等師範学校地歴科卒、1934年東京文理科大学東洋史学科卒、群馬県立高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)教諭、神戸市立第一中学校(現神戸市立葺合高等学校)教諭、岩手県師範学校教授、北海道第三師範学校教授、青森師範学校教授、弘前大学助教授、1968年「唐代政治制度の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。西京大学助教授、1953年京都府立大学教授、1969年定年退官、名誉教授、園田学園女子大学教授、京都産業大学教授。
秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 200… 秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 2000年1月3日)は、日本の運輸官僚。海運総局長官・運輸事務次官を務めたのち、日本空港ビルデング初代社長や東京モノレール社長を歴任した。通産官僚の秋山收は子。 岡山県岡山市出身。1924年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1928年京都帝国大学法学部卒業。逓信省に入省(淀橋郵便局)。海運局次長、運輸省参事官、海運局長などを経て、1948年海運総局長官。1949年6月運輸事務次官。1952年1月退官。日本空港ビルデングの設立に参加、民間資本を集めて1953年に初代社長に就任した。のち相談役。このほか、東京モノレール社長(1965年)、東京シティ・エアターミナル会長、ロイヤルパークホテル社長、国際港湾協会初代事務総長、日本航空協会会長(1991年)も務めた。
藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 198… 藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 1988年10月6日)は、昭和期の経済学者、立教大学名誉教授。専門は財政学。財政学研究の第一人者として、地方財政論を開拓した権威。 1905年(明治38年)、京都府宮津市に生まれる。1930(昭和5年)九州帝国大学(現・九州大学)経済学部卒業。1934年(昭和9年)京都大学大学院修了。 立命館大学講師、財団法人東京市政調査会(現・後藤・安田記念東京都市研究所)調査課長、明治大学講師、中央大学講師を務めたのち、1946年(昭和21年)、立教大学教授に就任。 1952年(昭和27年)、立教大学経済学部経済学科長に就任。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)まで経済学部長を務め、大学施設の増築にともない大学院読書室の開設を実現し、経営学科(現・経営学部)関連のスタッフの充実に尽力した。
師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年… 師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年〉2月26日 - 1991年〈平成3年〉2月28日)は、日本の実業家、無産運動家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡飯能町(現飯能市)で生まれる。1926年(大正15年)、明治大学専門部法律科を卒業。武州産業代表取締役に就任し、木工業大栄商会を設立した。 大学卒業後、無産運動に加わり、日本労農党中央委員、全国農労大衆党中央執行委員、社会大衆党西多摩支部長を務めた。 戦後の1945年(昭和20年)に日本社会党に入り、1948年(昭和23年)、同埼玉連合会長に就任。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第2区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月… 安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大尉。二・二六事件に関与した皇道派の人物で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。 1905年(明治38年)2月25日、岐阜県揖斐郡揖斐町が本籍、父・栄次郎が石川県立金沢第二中学校の英語教師を在職中(1903年4月 - 1907年8月)に金沢市で三男として生まれる。父はその後慶応普通部の英語教師となる。輝三は宇都宮中学校、仙台陸軍幼年学校、陸士予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校38期を207番/340名で卒業する。同期に二・二六事件の首魁のひとり磯部浅一(元近衛歩兵第4聯隊附、元一等主計)がいた。
鈴樹 忠信(すずき ただのぶ、1905年〈明治38年〉2月2… 鈴樹 忠信(すずき ただのぶ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。弁護士。台東庁長。 栃木県宇都宮市に生まれる。1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、在学中に高等試験行政科に合格する。同年8月、台湾総督府営林所勤務を拝命し、1931年(昭和6年)5月、台北州淡水郡守に任じた。ついで新竹州警務課長、台北州警務課長、同教育課長、高雄州地方課長、知事官房文書課長兼務、興亜院廈門連絡部在勤、米穀局総務課長を経て、台東庁長に就任した。 戦後、弁護士となり、熊谷、墨田、渋谷、久喜各簡易裁判所判事を経て、1975年(昭和50年)定年退官した。
筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月2… 筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月20日)は、日本の元皇族。旧華族。山階宮菊麿王第3王子。靖国神社第五代宮司。位階勲等は従三位勲一等侯爵。皇族時代の名と身位は藤麿王。 1905年(明治38年)2月25日午後10時15分、山階宮菊麿王の第3王子として誕生。御七夜の3月3日に「藤麿」と命名された。 1925年(大正14年)2月25日、皇族として貴族院議員に就任。同年3月23日勲一等旭日桐花大綬章受章。 皇族男子として初めて皇族軍人としての義務を免除され、東京帝国大学国史学科で黒板勝美に師事する。義務を免除された理由は、明治天皇により、将来、伊勢の神宮の祭主となることが定められていたためとされる。
萬田 五郎(まんだ ごろう、1905年(明治38年)2月25… 萬田 五郎(まんだ ごろう、1905年(明治38年)2月25日 - 1994年(平成6年)5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、日立市長(3期)。 秋田県出身。1929年東京帝国大学英法科卒。日立製作所に入り、日立工場に勤務する。同工場労務係長、庶務課長を経て1943年総務部長に就任する。この間1939年に日立市議に選出された。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた後、日立電鉄専務取締役を経て、社長に就任した。1963年日立市長に就任、3期務め、1975年に引退した。1994年死去。死去後日立名誉市民に選ばれた。
白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 19… 白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 1981年11月10日)は、元軍人、マスコミ学者。 旧制山口高等学校を経て、九州帝国大学文学部哲学科卒。師範学校で教育学を教え、1937年応召、陸軍中尉として1941年『戦陣訓』を草す。戦後は日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の創設期に調査部長、のち東京造形大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
丹羽 廉芳(にわ れんぽう、1905年(明治38年)2月23… 丹羽 廉芳(にわ れんぽう、1905年(明治38年)2月23日 - 1993年(平成5年)9月7日)は日本の僧。曹洞宗大本山永平寺第77世貫首。曹洞宗管長。道号法諱「瑞岳廉芳」、慈光圓海禅師。
生方 たつゑ(うぶかた たつえ、1905年〈明治38年〉2月… 生方 たつゑ(うぶかた たつえ、1905年〈明治38年〉2月23日 - 2000年〈平成12年〉1月18日)は、日本の歌人。沼田市名誉市民。日本歌人クラブ初代会長、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員、現代歌人協会理事。戦後の女流歌人の第一人者と称される。旧姓・間宮。 三重県宇治山田町宮後(現・伊勢市)生まれ。父・間宮斎一、母・きよの四女。出生時は7ヶ月の未熟児だった。宇治山田高等女学校(現・三重県立宇治山田高等学校)を経て、1926年(大正15年)に日本女子大学家政科卒業。帝国大学哲学科聴講生となる。同年10月、横山有策の媒酌により生方誠と結婚。群馬県沼田市で薬局「かどふぢ(角藤)」を経営する生方家に入る。
増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年… 増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年)2月23日 - 昭和45年(1970年)12月13日)は日本の実業家、政治家。境港商工会議所第2代会頭。元増谷薬局代表取締役。元境町会議員。三代目当主。本名は正巳。 鳥取県境港市出身。実家は薬種商。 米子中学校(現米子東高校)、金沢医科大学付属薬学専門部(現在の金沢大学薬学部)卒業。 大正14年(1925年)から大阪で自家製剤を修行して帰郷し、家業の薬種商・増谷薬店“杏花堂”を手伝う。昭和22年(1947年)境町の町会議員を務める一方、境港商工会議所初代会頭松本豊の後を受けて2代目会頭に就任する。 昭和25年(1950年)境町だけでなく米子駅前にも出店し、実弟・芳郎とともに有限会社増谷薬局を設立するなど、会社を大きく発展させた。
上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま ま… 上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま まさすけ)、1905年(明治38年)2月23日 - 1989年(平成元年)4月11日)は、日本の劇作家・小説家。姉は童謡詩人の金子みすゞ。