鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日… 鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。太平洋戦争において軍令部作戦課員などを務め、戦後は海上自衛隊に入隊。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。父は鈴木孝雄陸軍大将で、その次男。妻は岡田啓介首相の娘、喜美子。枢密院議長や内閣総理大臣を歴任した鈴木貫太郎海軍大将は伯父(父の長兄)。 千葉県出身。東京府立四中を経て海軍兵学校に入校(第55期)。席次4番、恩賜組で卒業した。同期生に藤村義一、寺内正道、のちに義兄となる岡田貞外茂がいる。鈴木は搭乗員であり専門は飛行艇であった。中尉に進級後の1930年(昭和5年)12月、第21期飛行学生を命ぜられ、首席で修了。
亀井 文夫(かめい ふみお、1908年4月1日 - 1987… 亀井 文夫(かめい ふみお、1908年4月1日 - 1987年2月27日)は、日本の映画監督。 福島県原町(現・南相馬市)生まれ、幼少時に仙台市門前町に転居し、南材木町尋常小学校(現・仙台市立南材木町小学校)に通う。早稲田中学校卒業。 1928年 - 文化学院大学部を中退後、ソビエト美術を学ぶため1929年にソビエトへ渡る。ソビエトで見た映画に感動し、映画の道を志し、レニングラード映画技術専門学校の聴講生になったのが映画監督になるきっかけ。 特に記録映画の分野で活躍し、社会派の記録映画とともに、自然科学分野の記録映画、企業映画などもつくった。日中戦争では反戦的ともみえる映画を撮ったことで上映禁止処分や治安維持法違反で逮捕・投獄を受ける要因となり、戦後は日本の帝国主義侵略を告発した映画がときの権力層の何らかの忌諱に触れ、GHQから上映禁止処分を受ける要因となっている。
許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1… 許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1日 – 1983年6月30日)は台湾の政治家・医師である。台湾で初めて博士号を取得した女性であり、台湾で最初の女性市長、女性市議会議員、女性高等学校長でもある。また、日本で3人目の女性医師である。 1908年4月1日に台南庁(現台南市)で生まれた。父親の許煥章は、清王朝の学者を務めた。日本統治時代の台湾に生まれた世賢は、幼い頃から植民地主義に反対した。 台南州立高等女学校(現国立台南女子高級中学)を経て、東京女子医科大学に入学した。学生時代は、天皇誕生日を認めることを拒否し、泉漳語を話す人を擁護した。卒業後、台湾に戻り、台南州立台南病院に就職した。
野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1… 野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、日本の鉄道実業家、工学博士。阪神電気鉄道社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年(昭和5年)に同校を卒業、同年に阪神電気鉄道に入社した。 技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた。1952年5月に取締役に就任し、1957年5月に常務、1965年1月に専務、1967年11月に副社長を経て、1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ。
松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1… 松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、日本の神学者(神学博士)。関西学院大学名誉教授。 1908年、東京生まれ。第三高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に進学。1933年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1937年に京都帝国大学講師に採用され、1942年に助教授昇格。 太平洋戦争終結後、戦時中の言動を元に京都大学文学部・教職員適格審査委員会による公職追放の対象となり、1946年に辞職。1950年、日本基督教団の正教師の按手を受ける。 1951年、関西学院大学文学部教授に就任。翌1952年の神学部復興とともに神学部教授、1954年に関西学院宗教総主事となり、1962年に神学部長に就任。
真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日… 真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日 - 2001年〈平成13年〉11月14日)は、日本の外交官。1959年から1964年までと1969年から1989年まで宮内庁で昭和天皇の通訳を務めた。 陸軍大将の真崎甚三郎は父。貴族院議員の長谷川赳夫は妻の父。 佐賀県出身。東京府立第四中学校、一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部卒業。1934年に外務省情報部嘱託。1939年に外務省翻訳官。1940年に大使館二等通訳官・中華民国・上海駐在。1941年にアメリカ在勤。1942年1月に中華民国在勤、上海駐在、9月に一等通訳官、10月に帰国。1943年5月に陸軍通訳官・比島軍政監部付、10月に大使館三等書記官を歴任。
猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月… 猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月- 1987年(昭和62年)4月11日 )は、日本の植物生態学者である。資源科学研究所研究員を経て、山に牛を放牧する酪農である山地酪農を提唱し日本に広めた。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)に岡山県高梁市で出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学を経て、1928年(昭和3年)に鹿児島市にある第七高等学校理科甲類へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、1932年(昭和7年)東北帝国大学理学部生物学教室へ入学する。1935年(昭和10年)3月に同大学を卒業した。 猶原は大学卒業後、1938年(昭和13年)30歳とき、東京府大泉師範学校の設立時教諭となり、同時期に、企画院の外郭団体として設立された大日本帝国の国策調査・研究を行う機関である東亜研究所に所属する。
遊亀 教授(ゆうき さずく、1908年4月 - 1997年1… 遊亀 教授(ゆうき さずく、1908年4月 - 1997年1月27日)は、日本の倫理学者、浄土真宗の僧侶。 福井県武生出身。1932年龍谷大学文学部倫理学科卒、1936年同研究科修了。京都女子大学講師、1960年「鎌倉仏教の倫理学的研究」で龍谷大学文学博士、龍谷大学文学部助教授、教授、1971年学長代行。1979年名誉教授。 浄土真宗本願寺派(西本願寺)伝道院萇。教善寺住職。
塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 197… 塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 1971年6月4日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授、学位は理学博士。専攻は植物栄養化学。 岡山県出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1930年(昭和5年)東京帝国大学理学部化学科卒業。台湾総督府工業研究所技師、第一高等学校教授、東京大学教授を経て、東邦大学教授在職中の1971年(昭和46年)逝去。
成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 199… 成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 1992年3月17日)は、日本の建築家。宮城県仙台市出身。1950年に国鉄施設局建築課長となり、鉄道建築の総締めの地位につく。位階は従五位。 国鉄の建物の多くは木造であり、成田は建築物の不燃化に取りくみ、「不燃化の成田さん」として知られた。 終戦直後の1945年10月、伊藤滋鉄道省建築課長から「鉄道に来てくれるような良い建築技師が軍にいないだろうかと相談を受けた」のちに同僚となる太田和夫は成田春人を陸軍航空本部に訪ねた。成田は同僚の井上英彦と高山馨を誘うことを約束し、同年12月に3人が鉄道省に入ることになったという。 井上英彦によると木造の格納庫建築のために木造大張間構造の実現が求められ、陸軍航空本部では木材の接合部の処理を釘とジベルの2つとし、釘は高山馨、ジベルは成田が中心となって担当することとなり、いずれの工法も成功して鋼材の節約に貢献したという。
沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30… 沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30日 - 1988年〈昭和63年〉5月5日)は、日本の教育者、政治家。元高崎市長(4期)、群馬県立高崎商業高等学校校長、上武大学副学長。旧姓は反町。位階は従五位。 群馬県群馬郡京ヶ島村大字京目(現・高崎市京目町)に、反町延太郎・チウ夫妻の三男として生まれる。生家の反町家は庄屋の家柄で、父・延太郎は京ケ島村長・群馬県会議員などを務める傍ら実業補習学校を設置するなど教育面に熱心だった。祖父・反町覚哉は群馬県会議員、長兄・反町久弥も群馬県議会議員・京ヶ島村長・群南村長を務めた。 地元の京ヶ島小学校を経て、1926年(大正15年)旧制高崎商業学校を卒業。
田中 重弥(田中 重彌、たなか しげや、1908年(明治41… 田中 重弥(田中 重彌、たなか しげや、1908年(明治41年)3月30日 - 1993年(平成5年)2月25日)は、日本の出版実業家、俳人、衆議院議員(2世議員)。雅号は茂哉(しげや)。田中弥助の長男。 長野県長野市に生まれる。1926年(大正15年)旧制長野商業学校卒業。父業を継いで第一法規出版社長となる。1950年(昭和25年)、全法令を網羅した『現行法規総覧』全100巻を出版して行政関係者必備の書との声価を得て、1953年(昭和28年)から日本の古今の全裁判例を網羅した『判例体系』全300巻を刊行した。さらに一般書籍まで出版を広げ、美術書「光悦」、歴史書「日本政治裁判史録」は毎日出版文化賞特別賞受賞。
花村 仁八郎(はなむら にはちろう、1908年3月30日 -… 花村 仁八郎(はなむら にはちろう、1908年3月30日 - 1997年1月4日)は、日本の財界人。従三位。 福岡県飯塚市生まれ。嘉穂中学校 (旧制)、山口高等学校 (旧制)を経て、1932年東京帝国大学経済学部を卒業。 卒業後、国立福岡少年院教官を経て、1942年に東大経済学部時代の同期であった帆足計に誘われ、経団連の前身である重要産業協議会に入り、1946年経済団体連合会(経団連)の設立に伴い、総務部次長となる。 1953年から1954年の海運造船疑獄事件で政治献金への世間の不信が高まったのをきっかけに、当時、経団連副会長であった植村甲午郎の下でそれまでの個々の企業からの献金をやめ、経団連を通じての自由民主党への献金システム作りを担当、企業献金に関わるようになり、後に財界政治部長の異名を取る。
朝長 正軌(ともなが まさのり、1908年3月30日 - 1… 朝長 正軌(ともなが まさのり、1908年3月30日 - 1999年10月21日)は、日本の経営者。JCB社長を務めた。長崎県出身。 1933年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三和銀行に入行。1962年11月に取締役に就任し、1964年11月に常務を経て、1967年11月に専務に就任。1970年7月にJCB社長に就任し、1981年2月から相談役を務めた。 1999年10月21日心不全のために死去。91歳没。 妻は、全日本テニス選手権の女子ダブルスで優勝(1948、49、51 - 55年)した、テニス選手の朝長慶子。
久保田 音二郎 (くぼた おとじろう、1908年 <明治41… 久保田 音二郎 (くぼた おとじろう、1908年 <明治41年> 3月30日 - 1979年 <昭和54年> 7月1日)は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 大阪市住吉区安立町生まれ。1931年関西学院高等商業部卒業。1934年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。平井泰太郎ゼミで会計学を専攻した。同年関西学院高等商業学校講師。1938年同教授。1941年山口高等商業学校教授。1945年神戸経済大学助教授。1949年神戸大学教授。1954年経営学博士の学位を取得。1962年神戸大学経営学部学部長。1965年企業会計審議会委員。1968年日本学術会議会員。1971年神戸大学名誉教授、関西学院大学教授。
井野川 利春(いのかわ としはる、1908年3月30日 - … 井野川 利春(いのかわ としはる、1908年3月30日 - 1976年6月16日)は、岡山県玉野市出身のプロ野球選手・監督・審判員。 関西中学校在学時代から捕手。明治大学ではレギュラーをつとめる。その堂々たる体格は「その面貌、あくまで頑猛無比」と称された。1931年の日米野球にも日本代表として選出される。 1932年に明治大学を卒業後、当時九州の実業団で強豪と謳われた門司鉄道局に入局。中心打者として1936年には監督兼任捕手としてチームを都市対抗野球大会覇者に導き、この年導入された「橋戸賞」の初代受賞者に輝いている。その間の1934年には日米野球の全日本選抜メンバーに選出され、全18試合中11試合に出場し、23打数8安打1本塁打,打率.348とチームトップの成績を残した。
池田 辰巳(いけだ たつみ、1908年3月30日 - 196… 池田 辰巳(いけだ たつみ、1908年3月30日 - 1969年7月10日)は、長崎県長崎市出身の実業家・政治家。自由民主党所属。長崎県議会議員(4期、1958年~1969年)、長崎県議会議長(1969年)。長崎県議会議長在職中に刺殺された。 1908年(明治41年)3月30日、長崎県長崎市大黒町に生まれた。学歴こそ低いが、度胸や行動力のある人物だったとされる。 温泉街である南高来郡小浜町(現・雲仙市)で、遊廓、旅館、映画館の小浜映劇などを経営した。 1958年(昭和33年)3月、馬渡謙蔵の死去に伴う補欠選挙によって長崎県議会議員に初当選し、1961年(昭和36年)には自由民主党長崎県連幹事長に就任した。
石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1… 石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1973年10月19日)は、医師、病理学者。父は同じく医学博士の石川日出鶴丸。別名「石川 太刀雄丸」(いしかわ たちおまる)、「石川 大刀雄」いしかわ たちお)。 1908年、石川日出鶴丸の息子・太刀雄丸として富山県射水郡下村で誕生。本人の弁によると、自分としては太刀雄であるが戸籍係の間違いで丸の字がついたのだ、といわれている。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年、京都帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、同大医学部講師に就任。1938年、医学博士の学位を取得した。京都帝国大学の病理学者清野謙次の勧めで、大日本帝国陸軍技師として満州国にわたった。
平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3… 平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3月29日 - 1980年 <昭和55年> 9月19日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1932年に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年5月に日動火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1962年6月に常務、1964年1月に専務を経て、1966年2月には社長に就任。1969年5月から1972年6月までに会長を務めた。 19809月19日急性腎不全のために死去。72歳没。
杉田 馨子(すぎた けいこ、1908年(明治41年)3月29… 杉田 馨子(すぎた けいこ、1908年(明治41年)3月29日 – 1992年(平成4年)12月23日)は日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓塚本。 東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。実家は精密機械製造・輸入業を営んでいた。1930年日本女子大学高等学部英文科卒。萬朝報の記者だった杉田省吾と結婚。その後は北京中央広播電台放送科に勤務する。1946年の第22回衆議院議員総選挙に茨城県から公職追放により立候補不可となった夫に代わって日本自由党公認で立候補して当選した。同年暮れに夫が死去した。 翌年の総選挙で茨城3区から立候補したが落選。落選後の1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
相磯 貞三(あいそ ていぞう、1908年3月28日 - 19… 相磯 貞三(あいそ ていぞう、1908年3月28日 - 1960年4月13日)は、日本の国文学者。 静岡県出身。國學院大學文学部国文科卒。1960年「記紀歌謡論」で國學院大学文学博士。慶應義塾大学文学部教授。52歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
植村 敏夫(うえむら としお、1908年3月28日 - 19… 植村 敏夫(うえむら としお、1908年3月28日 - 1995年5月5日)は、日本のドイツ文学者。 宮崎県宮崎市郊外に生まれる。1932年東京帝国大学独文科卒。NHK勤務。満洲国建国大学助教授。戦後、NHK嘱託。文化放送教養部長、1966年「ゲーテと音楽」で日本大学文学博士、日本大学法学部教授。1979年定年退任。1995年5月5日、肺炎のため死去。
穂刈 四三二(ほかり しさんじ、1908年3月28日 - 2… 穂刈 四三二(ほかり しさんじ、1908年3月28日 - 2004年1月2日)は、日本の数学者。旧・東京都立大学名誉教授、元城西大学学長 元中央ゼミナール校長 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
川村 琢(かわむら みがく、1908年3月28日 - 199… 川村 琢(かわむら みがく、1908年3月28日 - 1993年3月19日)は、日本の農学者・経済学者。学位は、経済学博士(東北大学・論文博士・1961年)(学位論文「農産物の商品化構造」)。昭和期の農業経済学の大家。北海道大学名誉教授。1990年勲三等瑞宝章受章。秋田県大曲市(現・大仙市)生まれ。 1929年弘前高等学校卒業。1932年東北帝国大学法文学部経済学科卒業。 同法文学部助手。1934年北海道帝国大学農学部助手。1940年北海道農業研究会常任幹事。 1942年治安維持法違反容疑で拘禁(北海道農業研究会事件)。1945年GHQ指令で釈放。 北海道農業会農業経営調査課長。1948年北海道信用農業協同組合連合会参事。
渡辺 操(わたなべ みさお、1908年3月28日 - 197… 渡辺 操(わたなべ みさお、1908年3月28日 - 1970年2月20日)は、日本の地理学者。北海道の地域研究で知られる。 1908年、北海道根室市で生まれた。小学校を卒業後、北見や小樽などで小学校教員となった。幼少の頃から地理学に関心をもっており、勤務の傍ら18歳ごろからほぼ独学で北見のハッカ、羊蹄山麓の農業など北海道各地の実態調査を行っていた。1938年、研究を深めるために明治大学専門部文科に入学。1942年に卒業し、文部省図書局勤務に勤務した。 戦後、1946年に明治大学講師に就いた。同時に農林省開拓研究所研究員も兼任し、その調査結果はその後の開拓行政の大きな指針となった。1948年に教授昇格。
有馬 英治(ありま えいじ、1908年3月27日 - 197… 有馬 英治(ありま えいじ、1908年3月27日 - 1976年5月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 福岡県出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、時事新報経済部記者を経て読売新聞政治部記者となる。 第21回衆議院議員総選挙で当選し護国同志会を経て無所属倶楽部に所属。政府提出の市町村制改正案に対して官僚の権力増強案だとして反対して議会に波乱をおこし、東條英機の怒りを買って指名召集を受け軍隊に強制入隊。のちに復員し、商工大臣秘書官、大蔵省委員、商工省委員。 戦後は推薦議員のため公職追放となり、追放解除後は鳩山一郎の側近として活躍し、鳩山内閣で内閣総理大臣秘書官。第2次池田第1次改造内閣で運輸政務次官、次いで鉄道建設、九州地方開発各審議会委員。
岸上 慎二(きしがみ しんじ、1908年3月26日 - 20… 岸上 慎二(きしがみ しんじ、1908年3月26日 - 2002年1月29日)は、日本の国文学者。専門は日本中古文学。『後撰和歌集』『枕草子』の研究で知られ、特に『枕草子』の作者とされる清少納言の伝記を解明した。 岐阜県養老郡出身。1925年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業。1928年、日本大学高等師範部国語漢文科卒業。1931年、日本大学法文学部文学科卒業。1943年、日本大学農学部予科教授。1949年、日本大学文学部教授。1960年、「清少納言傳記攷」で日本大学より文学博士の学位を取得。同年、日本大学文理学部教授。1978年、定年退職、名誉教授。1980年、勲三等瑞宝章を受章。
井上 義海(いのうえ よしみ、1908年(明治41年)3月2… 井上 義海(いのうえ よしみ、1908年(明治41年)3月26日 - 2000年(平成12年)4月22日)は、広島県出身の官僚、実業家。大蔵省印刷局長、神戸製鋼所社長などを務めた。
平野 赳(ひらの たけし、1908年3月26日 - 1988… 平野 赳(ひらの たけし、1908年3月26日 - 1988年8月13日)は、日本の実業家。新潟県出身。 1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日魯漁業に入社。経理部長、常務、専務を経て1972年1月に社長に就任。1975年1月には相談役に就任。 日本経済調査協議会委員長として、生鮮食品流通の問題点を取りまとめ、改善の議論の必要性を提起する(1973年)等の食生活改善のための活動、特にコールドチェーンの整備に関する言及が知られる。 1973年11月に藍綬褒章を受章。 1988年8月13日脳血栓のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高木 純一(たかぎ じゅんいち、1908年3月25日 - 1… 高木 純一(たかぎ じゅんいち、1908年3月25日 - 1993年10月29日)は、日本の工学者。 東京市麻布生まれ。1931年早稲田大学理工学部電気工学科卒、1950年工学博士。私立中野中学校講師、1933年早稲田第一高等学院専門部工科講師、早大理工学部助教授、教授、理工学部長、高等学院長、理事、1978年定年、名誉教授。 1971年紫綬褒章受勲、1973年NHK放送文化賞受賞、1980年勲三等旭日中綬章。 啓蒙的な著作を多く書いた。高木は、日本で最初の電気技術史家と言うべき人物である。
井上 信貴男(いのうえ しぎお、1908年(明治41年〉3月… 井上 信貴男(いのうえ しぎお、1908年(明治41年〉3月24日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、奈良県生駒郡安堵名誉村長、井上繊維工業社長。 奈良県生駒郡安堵村(現安堵町)で生まれる。1927年(昭和2年)奈良県立郡山中学校(現奈良県立郡山高等学校)を卒業。土木請負業を経営し、その他、皮革加工、繊維メリヤス製造、布帛加工、ゴム工業などの分野でも経営を行った。井上工業所顧問、奈良日日新聞社取締役、同会長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で奈良県全県区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、民主自由党会計総務を務めた。
三宅 貞祥(みやけ さだよし : 1908年(明治41年)3… 三宅 貞祥(みやけ さだよし : 1908年(明治41年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月30日)は、昭和・平成期の日本の動物学者。農学博士。十脚目、特に異尾類の分類で功績を残した。九州大学名誉教授、日本甲殻類学会会長。 日本甲殻類学会設立時のメンバーの一人であり会長も務めるなど、甲殻類研究の発展に寄与した。 1908年(明治41年)3月23日、香川県小豆島に生まれ、1920年(大正9年)に岡山県へ移った。1931年(昭和6年)に岡山市の旧制第六高等学校を卒業し、九州帝国大学(現 : 九州大学)農学部に入学した。指導教官の大島広は棘皮動物研究者であったが、三宅の最初の論文はカクレガニの幼生についてのものであった。
山田 長司(やまだ ちょうじ、1908年(明治41年)3月2… 山田 長司(やまだ ちょうじ、1908年(明治41年)3月23日 - 1972年(昭和47年)3月2日)は、日本のジャーナリスト、農民運動家、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。 栃木県安蘇郡新合村閑馬(田沼町を経て現佐野市閑馬町)で生まれる。1925年(大正14年)に上京し、苦学して1932年(昭和7年)日本大学法律科を卒業した。萬朝報、時事新報、名古屋新聞の記者を務めた。1935年(昭和10年)時事新報社解散反対ストライキを主導した。1936年(昭和11年)日本無産党栃木県支部連合会長に就任したが、1937年(昭和12年)12月の人民戦線事件で検挙された。その後、情報局嘱託、日本移動展協会専務理事、日本輿論研究所長などを務めた。
中川 英造(なかがわ えいぞう、1908年(明治41年)3月… 中川 英造(なかがわ えいぞう、1908年(明治41年)3月23日 - 1999年(平成11年)10月14日)は、日本の実業家。朝日新聞社で業務部門を歩み、代表取締役専務を経てテレビ朝日第7代社長。広島県出身。 1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、東京朝日新聞社入社。大学時代は、漕艇部に所属し、のちに日本漕艇協会(現日本ローイング協会)の顧問なども務めた。 庶務、販売、会計各部長、業務局次長、経理総務などを歴任。1959年(昭和34年)2月には、新設の北海道支社の初代支社長となり、翌年取締役となる。1963年の村山事件の折には、矢島八洲夫、横田武夫らともに辞表を提出し、業務関係の役員不在という異常事態に陥るが、村山長挙が社長を辞任したことで同事件は収束し復職した。
川喜多 かしこ(かわきた かしこ、1908年3月21日 - … 川喜多 かしこ(かわきた かしこ、1908年3月21日 - 1993年7月27日)は、昭和期の映画文化活動家。位階は正五位。川喜多記念映画文化財団理事長で東和映画の代表。 1908年(明治41年)3月21日大阪で生まれた。生後100日目に東京に転居し、横浜・大連・秋田へと、移り住んだ。 1921年、横浜の祖父の家に戻りフェリス和英女学校(現在のフェリス女学院)に入学する。関東大震災で父を失い神戸に移るが、まもなく復学した。 フェリス女学院を卒業後は、1929年1月、英語でタイプライターを打てる女性秘書として、東和商事という貿易会社の川喜多長政に採用された。最初の仕事は、長政が輸出を計画していた溝口健二の『狂恋の女師匠』のシノプシスの英訳だった。
吉村 清三(よしむら せいぞう、1908年3月21日 - 2… 吉村 清三(よしむら せいぞう、1908年3月21日 - 2009年12月4日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。奈良県御所市出身。 1934年に東京帝国大学経済学部を卒業し、大阪市電気局(のちの関西電力)に入社した。 芦原義重の後を継ぐ形で1970年からは社長を務め、1975年からは副会長を務めた。液化天然ガスの導入と原発建設の推進などにより、燃料の多様化に取り組んだ。 その一方で、1968年4月から1970年4月までに関西経済同友会代表幹事を務め、関西生産性本部会長も務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2009年12月4日肺炎により死去。101歳没
宮田 一松(みやた いちまつ、1908年〈明治41年〉3月2… 宮田 一松(みやた いちまつ、1908年〈明治41年〉3月21日 - 1986年〈昭和61年〉5月2日)は、愛知県出身の政治家。刈谷市長(4期16年間)を務めた。 1908年(明治41年)3月21日、愛知県碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町上)に生まれた。1920年(大正9年)3月、碧海郡刈谷町の刈谷町立亀城尋常小学校を卒業した。 宮田家は瓦製造業者であり、1933年(昭和8年)に宮政製瓦工場の営業主となった。1951年(昭和26年)には短期間だけ三州瓦工業組合理事長を務めている。1962年(昭和37年)12月には宮政瓦工業株式会社の取締役社長に就任した。1965年(昭和40年)2月に刈谷ライオンズクラブが設立されると、1966年(昭和41年)6月まで初代会長を務めた。
岸井良衞(きしい よしえ、1908年〈明治41年〉3月21日… 岸井良衞(きしい よしえ、1908年〈明治41年〉3月21日 - 1983年〈昭和58年〉11月15日)は、昭和時代の劇作家、演出家、プロデューサー、時代考証家。本名は良雄。弟に俳優岸井明がいる。 1908年(明治41年)3月21日、東京市日本橋区小網町三丁目上田回漕店(上田辰之助の実家)裏店に、弁護士の岸井辰雄とりうの長男として生まれる。 岸井家は江戸時代には裕福だったが、嘉永2年生まれの祖父弁吾の代で散財した。父辰雄は1880年(明治13年)4月2日に現在の埼玉県深谷市に生まれ、貧困の中苦学して青山学院中等部を経て明治法律学校(現在の明治大学)を1903年に首席で卒業。1904年に判事検事登用試験に合格し、浦和地方裁判所に勤務。
田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1… 田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1972年10月16日)は、日本の実業家、元サッカー選手、サッカー指導者。大阪府出身。1972年勲三等瑞宝章。 田辺製薬株式会社(現・田辺ファーマ株式会社)代表取締役社長、代表取締役会長を歴任した。
伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17… 伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17日 - 1987年(昭和62年)4月10日)は、日本の考古学者。東北地方の縄文・弥生・古墳時代、古代・中世・近世史、樺太(サハリン)の先史時代研究に大きな業績を残した。東北大学名誉教授。 1957年に東北大学考古学講座初代教授に就任した。東北地方の原始・古代文化を考古学的手法により解明し、「東北の考古学の父」と呼ばれた。伊東は、山内清男とともに東北の古い縄文土器の編年を確立し、特に青森県垂柳遺跡の発掘において、東北地方の稲作農耕を明らかにする研究を進めた。 戦前には、通説として「東北の古代文化は遅れていた」、「東北地方は鎌倉時代まで石器時代が続いた」とされていた。
服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 200… 服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 2008年8月2日)は日本の作曲家。日本におけるクラシック音楽の大衆化に努めた。 同姓の服部良一やその息子の服部克久などとの縁戚関係はない。 東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身。青山学院中等部を経て慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、三井生命保険に入社したが40日で退社。学生時代にはマンドリンクラブに所属。1930年に「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。その後、菅原明朗に師事した。 1932年、帝国音楽学校講師となる。 1933年、『管弦楽のための組曲』を山田耕筰指揮・日本交響楽団演奏にてNHKより放送。
前田 利建(まえだ としたつ、1908年(明治41年)3月1… 前田 利建(まえだ としたつ、1908年(明治41年)3月17日 - 1989年(平成元年)9月19日)は、日本の宮内官僚、華族(侯爵)。旧加賀藩前田家第17代当主。 第16代当主・前田利為の長男で、母は渼子(前田利嗣長女)。父の戦死に伴い1943年(昭和18年)1月15日、家督を継承し侯爵を襲爵。同日、貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部を卒業した。1936年(昭和11年)宮内省に入省し式部官兼主猟官に就任。以後、兼内大臣秘書官、帝室博物館嘱託、臨時内大臣府御用掛なども務めた。 1947年(昭和22年)10月29日、金沢市に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、前田家の成巽閣が宿泊所となった。
松本 敏夫(まつもと としお、1908年(明治41年)3月1… 松本 敏夫(まつもと としお、1908年(明治41年)3月17日 - 1987年(昭和62年)7月24日)は、日本の剣道家。段位は範士九段。 兵庫県伊丹市出身。1917年(大正6年)、小西酒造修武館に入門し、富山円に剣道を学ぶ。伊丹中学校を卒業後関西学院に進学。 1927年(昭和2年)、第4回明治神宮体育大会剣道競技大学、高専校の部で優勝。 1929年(昭和4年)、関西学院を卒業。同年、第5回明治神宮体育大会剣道競技青年団の部で優勝。 南海鉄道勤務を経て、関西学院書記となる。 1934年(昭和9年)、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会府県選士の部に兵庫県代表として出場。 1964年(昭和39年)、関西学生剣道連盟会長に就任。
小河内 芳子(こごうち よしこ、1908年3月16日 - 2… 小河内 芳子(こごうち よしこ、1908年3月16日 - 2010年3月3日)は、日本の児童図書館員。東京の公共図書館に勤務し、児童サービスに従事した。児童図書館研究会の設立メンバーであり、30年ちかく会長をつとめたほか、日本図書館協会児童青少年委員会の設立に寄与し初代委員長をつとめるなど、児童サービスの普及と発展に尽力した。「児童図書館員の草分け」「児童図書館員のパイオニア」と評されている。 1908年(明治41年)3月16日、三重県桑名町に生まれた。小河内家は桑名藩の重役で、父の小河内弥兵衛は桑名町助役をつとめる有力者だった。 1924年(大正13年)三重県立桑名高等女学校を卒業。1925年(大正14年)に上京して日本女子大学校国文科に入学した。
西村 節朗(にしむら せつろう、1908年(明治41年)3月… 西村 節朗(にしむら せつろう、1908年(明治41年)3月16日 - 1997年(平成9年)8月23日)は、日本の政治家。秋田県能代市長。秋田県議会議員(4期)。 秋田県出身。1931年、東北帝国大学工学部機械工学科卒。同年、中島飛行機に入り、技術部長などを務める。戦後、帰郷し、家業の酒造業に携わる。1948年、秋田県教育委員となり、1951年、秋田銀行取締役となる。1963年、秋田県議会議員(自由民主党)に当選し、4期務める。1969年に議長に就任した。1975年、能代市長に当選する。1979年と1983年も当選し、能代市長を3期務め、1987年に退任した。ほかに秋田県酒類卸協同組合理事長、全国酒類卸協同組合連合会会長、秋田県国民健康保険団体連合会理事長などを務めた。
星野 仁十郎(ほしの にじゅうろう、1908年(明治41年)… 星野 仁十郎(ほしの にじゅうろう、1908年(明治41年)3月16日 - 1986年(昭和61年)7月22日)は、日本の政治家、アイスホッケー選手。栃木県(旧)日光市長を務めた。 日光町清滝水沢に生まれる。1942年(昭和12年)5月、日光町議会議員となる。その後、日光町の市制施行に伴い市議会議員となり1969年(昭和44年)7月まで議員を務めた。同年8月23日の日光市長選挙で当選。同月28日から1981年(昭和56年)8月27日まで市長を務めた。 市長在任中には前任者の佐々木耕郎と同様に観光施設の整備などに力を注いだ。さらに、清滝バイパスや霧降高原有料道路の開通など道路を整備することによる観光客増加を図った。
塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - … 塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - 2000年7月11日)は、日本の経営者。愛知県名古屋市出身。 1931年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社。1948年に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1967年に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格した。1977年4月から1987年4月までに会長を務めた。 日本経営者団体連合会常任理事、経済団体連合会常任理事も務めた。 1972年10月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年7月8日肺炎のために死去。92歳没。
倉茂 武(くらしげ たけし、1908年(明治41年)3月15… 倉茂 武(くらしげ たけし、1908年(明治41年)3月15日 - 1998年(平成10年)2月1日)は「競輪の生みの親」とも称される人物。通称は倉茂 貞助(くらしげ ていすけ)。 父の赴任地宮城県仙台市生まれ、新潟県中頸城郡吉川町(現上越市)出身。倉茂家は新田義貞の一統が落武者となり、その子孫と伝えられる。父は陸軍中将倉茂三蔵、叔父(父の弟)倉茂周蔵は陸軍少将。福岡太刀洗近郊の旧制中学4年を修了し、陸軍士官学校に入る。市ヶ谷台の大きな池を泳ぐ奇行で教官に呆れられ、禁煙の場所で煙草を吸っていたことで営倉に入れられた。1928年(昭和3年)、陸軍士官学校第四十期生として卒業、近衛騎兵連隊に配属。同年の昭和天皇の大礼で東京への還幸で東京停車場-宮城間の鹵簿に列する。
上村 孝二(かみむら たかじ、1908年(明治41年)3月1… 上村 孝二(かみむら たかじ、1908年(明治41年)3月14日 - 1996年(平成8年)3月25日)は、日本の国語学者・方言学者。九州の方言学における重鎮だった。文学博士。鹿児島大学名誉教授。 1908年、佐賀県武雄町で出生。本籍は鹿児島県上甑村(甑島列島、現在の薩摩川内市の一部)。生後すぐ母が亡くなったこともあり、上甑村中甑の上村家の養子となった。同村の中津尋常高等小学校を経て、1925年(大正14年)に本土の鹿児島県立川内中学校 (旧制)を卒業。 旧制中学卒業後に帰郷し、上甑村の江石尋常高等小学校で1年間代用教員を務めた。その後、九州帝国大学法文学部国文学科に入学して学び、1933年3月に卒業。
石川 準吉(いしかわ じゅんきち、1908年(明治41年)3… 石川 準吉(いしかわ じゅんきち、1908年(明治41年)3月14日 - 1989年(平成元年)4月14日)は、日本の官僚、歴史学者。行政管理庁行政管理局長、法学博士。 兵庫県朝来郡生野町(現:朝来市生野町)で、石川伊兵衛の四男として生まれる。第一高等学校を卒業。1932年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。1935年10月、高等試験行政科試験に合格。1936年、内閣に入り内閣調査局属となる。 以後、企画庁属、企画院事務官・内政部勤務、地方事務官・富山県勤務、埼玉県地方課長、同商工課長、奈良県地方課長兼振興課長、静岡県官房主事、企画院調査官、軍需省軍需官などを歴任。 戦後、東北地方行政事務局第一兼第二部長、宮城県経済部長、大阪管区経済調査庁査察部物資課長、東京管区監察局第二部第二課長、岡山地方監察局長、名古屋管区行政監察局第二部長、行政管理庁行政監察局監察審議官などを歴任し、1963年12月、行政管理庁行政管理局長に就任。