本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 19… 本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 1997年6月8日)は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 本名・本堂 安次(読みは同じ)。1952年から1962年は本堂 保弥(ほんどう やすや)、1963年の監督就任以降は本名(1969年のみ本堂 安治〈読みは本名と同じ〉)を登録名としていた。 幼少のときに兄の影響で野球を始める。「授業料だけでなく生活費の面倒も見てやる」という勧誘もあり、進学した日新商業学校では一塁手として活躍。春夏通じて5度の出場を果たしたが、いずれも初戦敗退に終わる。日新商の1年先輩だった山口政信の誘いで、高校卒業後の1937年に大阪タイガースに入団。
長島 敦(ながしま あつし、1918年3月17日 - 200… 長島 敦(ながしま あつし、1918年3月17日 - 2004年10月15日)は、日本の検察官。最高裁判所判事。栃木県出身。伯父の長島毅は大審院長。 1941年(昭和16年)京都帝国大学法科を卒業。1942年(昭和17年)に司法官試補。検事になったのは起訴猶予になった容疑者が立ち直った例をみたのがきっかけ。その後海軍法務科士官となり、大尉で終戦。 第一線で被疑者の取調べなど検察の実務経験は短く、約3年間しかない。それ以外は法務省で秘書課長や青少年課長など事務、政策立案作業に携わった。1956年(昭和31年)から日米法律学者の交換計画でアメリカのスタンフォード大学に2年間留学した。1970年(昭和45年)4月にアジア極東犯罪防止研究所の所長に就任し、日本人として初の所長となる。
室 淳介(むろ じゅんすけ、1918年3月17日 - 200… 室 淳介(むろ じゅんすけ、1918年3月17日 - 2000年11月16日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 兵庫県生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業。早大教授、1988年定年、名誉教授。
久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日… 久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日 - 1992年〈平成4年〉6月28日)は、広島県広島市出身の実業家。第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者。現エディオン社長、サンフレッチェ広島会長・久保允誉は長男、上新電機取締役を経てエディオン専務取締役の浄弘晴義は次男。 広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町)生まれ。久保家は代々江州屋の屋号で刀剣商を営んでいた。寺下辰夫の小説『サンパギタ咲く戦線で』に太平洋戦争中、陸軍報道班員として広島宇品港からフィリピンに向かう寺下、尾崎士郎、石坂洋次郎らが、その前日、今日出海の短刀を軍刀に拵えるため、ふと久保刀剣店に立ち寄り、刀が出来る間、店の二階で御馳走に与り、訣れの酒宴を行なったエピソードが書かれている。
小坂 秀二(こさか ひでじ、1918年3月16日 - 200… 小坂 秀二(こさか ひでじ、1918年3月16日 - 2003年4月6日)は、日本の歯科医、相撲評論家、著作家、アナウンサー。 太平洋戦争で軍医として徴用され終戦まで中国の陸軍病院に勤務。その後NHK・TBSで相撲等でスポーツアナウンサーとして活躍。1974年にアナウンサーを引退。1975年に歯科医に復帰後は、相撲評論家・著作家としても活動し、「柏鵬時代」の命名者でも知られる。 東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)出身。幼年期から相撲になじみ、学生時代が双葉山の全盛と重なっていたこともあって、さらに没頭する。 東京高等歯科医学校卒業。卒業後、歯科医となる。 東京高等歯科医学校時代、翌日に解剖学の大事な卒業試験を控え猛勉強中に「双葉山70連勝ならず!」の一報が入り、その衝撃で試験のことが頭に入らなくなり、翌日、追試験覚悟で臨んだところ、厳格で知られる試験官の藤田恒太郎教授が相撲好きの人で、「小坂君、双葉山負けたね!」といきなり話をふられた。
福岡 成忠 (ふくおか しげただ、1918年 <大正7年> … 福岡 成忠 (ふくおか しげただ、1918年 <大正7年> 3月14日 - 2004年 <平成16年> 9月7日)は、日本の経営者。ニコン社長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。武蔵高等学校を経て、1940年に東京帝国大学工学部造兵学科を卒業し、同年に日本光学工業(のちのニコン)に入社。同年9月に海軍に技術大尉として入隊し、1943年1月に復帰。1973年5月に取締役に就任し、1977年6月に常務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1993年6月に相談役を経て、2000年6月から特別顧問を務めた。 1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。
三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田… 三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田、1918年〈大正7年〉3月13日 - 2005年〈平成17年〉12月9日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・オペラ歌手・音楽教育者。二期会の創設者の一人。夫はピアニストでフェリス女学院短期大学教授兼学長の三宅洋一郎。 福岡市生まれ。父は英文学者・九州帝国大学教授の豊田実。1939年(昭和14年)東京音楽学校を卒業する。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 実質的なデビューは1939年(昭和14年)12月の新交響楽団(現: NHK交響楽団)定期演奏会のベートーヴェン『フィデリオ』マルツェリーネである。 戦時中の1945年(昭和20年)1月においても新交響楽団の演奏会に出演しているのが確認できる。
杉浦 睦夫(すぎうら むつお、1918年3月13日 - 19… 杉浦 睦夫(すぎうら むつお、1918年3月13日 - 1986年8月26日)は、日本で初めて胃カメラを開発した技術者である。 静岡県浜松市生まれ。1938年4月にオリンパス光学工業株式会社に入社。35ミリカメラの開発などに取り組む。 1949年7月、東京大学付属病院小石川分院の外科医、宇治達郎が勤務先のオリンパス光学工業に相談に来て、杉浦がその対応にあたった。胃の中の写真を撮る「胃カメラ」を開発したいが可能かどうか尋ねられたところ、「光があり、レンズがあり、フィルムがあればたとえカメラがどこにあっても撮影は出来る」という内容にて回答したという。当時は胃の病気の診断を、レントゲンか胃鏡で実施していたが、レントゲンでは胃の内壁まではわからず、胃鏡では診断できる者が少ない上、確認しづらい部分があることや患者に与える苦痛も大きかったという状況であった。
佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999… 佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999年4月14日)は、日本競馬会、国営競馬および日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。騎手時代には八大競走で3勝、中央競馬史上初めての通算500勝を記録した。調教師転身後も1975年に全国リーディングトレーナー(年間最多勝利調教師)を獲得、天皇賞(春)優勝馬ヒカルポーラ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬オペックホースなどを管理し、通算1074勝を挙げた。騎手500勝・調教師1000勝は中央競馬史上唯一の記録である。 1933年、北海道上川郡士別町(現・士別市)に、小作農の長男として生まれる。少年期は教師を志していたが、家計の逼迫から学業を断念。
岸 伊一郎(きし いいちろう、1918年〈大正7年〉3月11… 岸 伊一郎(きし いいちろう、1918年〈大正7年〉3月11日 - 1984年〈昭和59年〉11月14日)は、日本の政治家、地主。山形県議会議員(自民党)。山形県最上郡金山町長。山形県土地改良事業団体連合会長。泉田川土地改良区理事長。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 山形県最上郡金山町出身。1939年、東京農業大学卒業。金山町長を経て1963年、山形県議会議員に当選。1973年3月23日に山形県議会議長(第9代)に就任し、1975年4月29日に退任する。1984年11月死去。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。 趣味は読書、釣り。住所は山形県最上郡金山町大字金山。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
小泉 袈裟勝(こいずみ けさかつ、1918年3月10日 - … 小泉 袈裟勝(こいずみ けさかつ、1918年3月10日 - 1998年)は、日本の計量史研究者。度量衡、計測の研究に尽力した。 長野県北佐久郡浅科村(現佐久市)生まれ。1938年東京物理学校卒業。1939年商工省中央度量衡検定所に入所し、光波干渉式標準気圧計を開発、1968年工業技術院計量研究所第4部長となる。1971年退官とともに日本計量機器工業連合会常務に就任し、1976年同専務理事。1988年春、勲四等瑞宝章受勲。1992年「ものさし」で経済学博士(京都大学)。日本計量史学会副会長も務めた。
湯川 宏(ゆかわ ひろし、1918年3月9日 - 1986年… 湯川 宏(ゆかわ ひろし、1918年3月9日 - 1986年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5 期)。 1918年、和歌山県海南市生まれ。和歌山県立和歌山中学校を経て第三高等学校文科甲類卒業。東京帝国大学法学部在学中、高等文官試験行政科試験に合格。大学卒業後、厚生省に入省した。短期現役海軍主計科士官(6期)を志願し、1941年4月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年8月、経理学校を卒業。飛龍に配属。第15警備隊勤務を経て、1942年8月、旭東丸主計長に就任。同年11月、主計大尉に進み、以後、第二軍需部部員、第四南遣艦隊スラバヤ連絡所長を歴任し同副官として敗戦を迎えた。1945年9月、海軍主計少佐に進む。
斉藤 信義(さいとう しんぎ、1918年3月8日 - 200… 斉藤 信義(さいとう しんぎ、1918年3月8日 - 2009年11月26日)は、日本の曹洞宗の僧、鶴岡高専校長、山形県最上郡出身。前大本山總持寺監院。前同寺副貫首 善宝寺41世 号劫世
藏内 修治(くらうち しゅうじ、1918年〈大正7年〉3月8… 藏内 修治(くらうち しゅうじ、1918年〈大正7年〉3月8日 - 1993年〈平成5年〉12月29日)は、日本の政治家。自由民主党所属衆議院議員(6期)。参議院議員(1期)。 福岡県築上郡築城町(現:築上町)出身。次郎作の長男。 1942年、東京帝国大学国史学科卒。大日本帝国陸軍に入り、中国で終戦を迎える。 帰国後、西日本新聞社の政治部記者を経て、河野一郎農相秘書官となる。 1958年の第28回衆議院議員総選挙で旧福岡4区から自民党公認で立候補して初当選。6期務める。この間、労働、外務の各政務次官、衆議院商工、内閣の各委員長を歴任した。 1979年の第35回衆議院議員総選挙で落選。翌1980年の第12回参議院議員通常選挙で福岡県から自民党公認で立候補して当選。
愼 道晟(シン・ドソン、朝鮮語: 신도성、1918年3月7日… 愼 道晟(シン・ドソン、朝鮮語: 신도성、1918年3月7日〈陰暦正月25日〉 - 1999年9月6日)は、大韓民国の政治学者、政治家。元慶尚南道知事・国土統一院長官、第3代韓国国会議員。本貫は居昌慎氏。 元国会議員、逓信部長官の李慈憲は娘婿。 1918年に慶尚南道居昌郡または京城府で誕生。1941年に東京帝国大学法学部政治科を卒業。1944年に東京帝国大学大学院を修了。1969年に慶熙大学校で法学博士号を取得。 1945年に延禧専門学校(現延世大学校)助教授。1946年にソウル大学校政治学科教授。1952年に東亜日報論説委員。1954年に民主国民党宣伝部長。1954年から1958年まで民議院議員。
川口 大助(かわぐち だいすけ、1918年3月5日 - 19… 川口 大助(かわぐち だいすけ、1918年3月5日 - 1981年2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、秋田市長(3期)を務めた。 秋田県河辺郡新屋町(現在の秋田市新屋)出身。秋田県立秋田中学校(旧制、現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業後、国鉄に入り、国労秋田地方本部委員長を務める。その後秋田県議になり、日本社会党秋田県本部書記長、同顧問となり、1959年の秋田市長選では社会党公認で立候補して初当選した。以来3期。1971年の秋田市長選では保守系候補の荻原麟次郎に敗れて落選した。1976年の第34回衆議院議員総選挙で秋田1区から日本社会党公認で立候補して当選。1979年の秋田県知事選に立候補したが落選した。
梅村 魁(うめむら はじめ、1918年3月5日 - 1995… 梅村 魁(うめむら はじめ、1918年3月5日 - 1995年1月31日)は、日本の建築構造工学者。建築構造の研究および東京大学、芝浦工業大学で後進の育成にあたる。日本コンクリート工学会第8代会長(1978年-1980年5月)をつとめ、1983年5月名誉会員となる。工学博士。東京大学名誉教授。1988年日本建築学会大賞受賞。 1970年から1972年、日本建築学会関東支部 第12代歴代支部長、1979年から1981年日本建築学会 会長、1993年から1995年一般社団法人 日本免震構造協会 初代会長を歴任する。 東京出身。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て[要出典]、1941年、東京帝国大学工学部建築学科卒業、そのまま武藤清研究室の大学院学生になった。
林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 … 林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 - 1990年〈平成2年〉12月18日)は、日本の写真家である。 山口県生まれ。木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄などと並ぶ昭和を代表する写真家の一人である。太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の風俗や文士、風景など多岐にわたる写真を撮影した。 特に文士を撮影したものは有名で、銀座のバー「ルパン」で知り合った織田作之助・太宰治・坂口安吾の酒場での姿や、坂口安吾の紙屑に囲まれた仕事場の風景は、林忠彦の名を世に知らしめた。 太宰治の写真を撮った時のことについて、林は以下のように回顧している。ルパンは銀座の文春画廊の裏横丁にあって、仕事の連絡場所として林が使っていたバーだった。
中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)… 中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)3月5日 - 1997年(平成9年)12月25日)は、日本の小説家・文芸評論家・詩人。なお旧字体の「眞一郎」名義での出版もある。
渡部 徹(わたなべ とおる、1918年3月5日 - 1995… 渡部 徹(わたなべ とおる、1918年3月5日 - 1995年3月16日)は、日本の社会運動史学者、京都大学名誉教授。専門分野は戦前の労働・社会運動史。 大阪府出身。京都帝国大学を卒業。大阪経済大学助教授から京都大学人文科学研究所に移り、1969年に教授に昇格する。1982年に定年退官となり、愛知女子短期大学教授に転じた。
染谷 誠(そめや まこと、1918年3月3日 - 1992年… 染谷 誠(そめや まこと、1918年3月3日 - 1992年1月22日)は日本の政治家。元自由民主党衆議院議員(5期)。
稲葉 誠一(いなば せいいち、1918年(大正7年)3月3日… 稲葉 誠一(いなば せいいち、1918年(大正7年)3月3日 - 1996年(平成8年)5月4日)は、昭和から平成初期の弁護士、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。 東京都新宿区出身。1941年(昭和16年)中央大学専門部法科を卒業。高等試験司法科に合格し、司法官試補に任官後、大阪・東京・宇都宮地検の検事を経て1947年(昭和22年)に退官、弁護士になる。 日本社会党に入党。同党栃木県本部書記長、同委員長を務め、1955年(昭和30年)栃木県議会議員選挙に当選し2期在任した。1962年(昭和37年)第6回参議院議員通常選挙に栃木県地方区から社会党公認で当選した。1968年(昭和43年)第8回通常選挙で落選。
美川 陽一郎(みかわ よういちろう、1918年3月2日 - … 美川 陽一郎(みかわ よういちろう、1918年3月2日 - 1976年6月2日)は、日本の俳優である。本名は三川 義一(みかわ よしかず)、旧芸名は美川 洋一郎。東京市生まれ。 世田谷中学(私立)を卒業後、義母との折り合いが悪く家出、17歳の時に榎本健一の付き人となったのが芸能界入りのきっかけである。1937年、19歳の時に新国劇に入団、当初から老け役を得意とし、『白野弁十郎』、『大菩薩峠』などに出演した。 終戦後の1952年、映画『次郎長三国志』(東宝、マキノ雅弘監督)の次郎長役に抜擢され、新国劇を退団するが、東宝の創業者・小林一三の意向で、次郎長役は小堀明男に決定したため、美川は端役に回された。
室木弥太郎(むろき やたろう、1918年3月1日 - )は、… 室木弥太郎(むろき やたろう、1918年3月1日 - )は、日本の日本演劇・芸能研究者。金沢大学名誉教授、金沢女子大学名誉教授。1969年日本演劇学会河竹賞受賞、1992年勲三等旭日中綬章受章。 石川県金沢市育ち。1940年東京帝国大学文学部国文学科卒。金沢大学助教授、教授、Ⅰ975-76年大阪大学文学部教授を併任。1983年金沢大学名誉教授、金沢女子大学教授、1999年退任、名誉教授。1969年『金平浄瑠璃正本集』全3巻で日本演劇学会河竹賞受賞。1992年勲三等旭日中綬章受勲。
汐ノ海 運右エ門(しおのうみ うんえもん、1918年3月1日… 汐ノ海 運右エ門(しおのうみ うんえもん、1918年3月1日 - 1983年7月18日)は、兵庫県印南郡(現:兵庫県姫路市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は岸本 忠夫(きしもと ただお)。最高位は西大関。得意手は右四つ、寄り、筈押しなど。現役時代の体格は180cm、113kg。 1918年3月1日、兵庫県印南郡(現:兵庫県姫路市)で生まれた。小学生の頃から体格が良く腕力も強かったことから、大人と同じ塩田作業に従事していたが、岸本少年の素質を見出した同郷の好角家に笠置山勝一を紹介され、出羽海部屋へ入門した。笠置山は当時としては珍しい大学出身(早稲田大学)のインテリ力士で、当時の出羽海部屋では「打倒双葉」を合言葉に双葉山の連勝を止めるための研究・対策を繰り広げていた。
佐藤 正之(さとう まさゆき、1918年2月28日 - 19… 佐藤 正之(さとう まさゆき、1918年2月28日 - 1996年12月16日)は、日本の演劇・映画プロデューサー。妻は女優の菅井きん。北海道小樽市生まれ。 明治学院大学卒業。1942年、満州映画協会脚本部に入社後、現地で応召。シベリア抑留後の1948年に帰国。 1948年俳優座に入団、主に舞台や映画の企画、製作に携わる。映画部長となり、仲代達矢を育てる。1968年俳優座映画放送設立とともに社長に就任。俳優座映画放送は1985年、俳優座から独立し「仕事」に社名を変更した。 1991年、日本映画テレビプロデューサー協会会長となる。 代表作に、佐分利信監督「広場の孤独」、森川時久監督「若者たち」、小林正樹監督「いのちぼうにふろう」、野村芳太郎監督「砂の器」、村野鐵太郎監督「月山」、五社英雄監督「鬼龍院花子の生涯」、「陽暉楼(企画)」、熊井啓監督「深い河」など。
望月 邦夫(もちづき くにお、1918年(大正7年)2月27… 望月 邦夫(もちづき くにお、1918年(大正7年)2月27日 - 1990年(平成2年)3月5日)は、昭和期の建設技官及び官僚、政治家。参議院議員(1期)、水資源開発公団(現水資源機構)総裁、工学博士。 滋賀県甲賀郡水口町(現甲賀市)で生まれる。1942年(昭和17年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業した。 戦後、建設省に入省し、河川局開発課長、同河川計画課長、国土総合開発審議会専門委員、建設省大臣官房技術参事官などを歴任し、1968年(昭和43年)近畿地方建設局長(現近畿地方整備局)に就任。退官後、水資源開発公団理事を務めた。 1974年(昭和49年)7月の第10回参議院議員通常選挙に滋賀県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員を1期務めた。
松形 祐堯(まつかた すけたか、1918年2月26日 ‐ 2… 松形 祐堯(まつかた すけたか、1918年2月26日 ‐ 2007年8月23日)は、日本の政治家、官僚。 宮崎県知事(公選第10‐15代)、林野庁長官を歴任。 宮崎県えびの市出身。宮崎県立小林中学校(現・宮崎県立小林高等学校)、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)、九州帝国大学農学部卒業。1942年農林省に入省。林野庁長官などを歴任後、1976年の参議院議員補欠選挙に宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補したが落選。1979年当時の宮崎県知事黒木博の任期途中での辞職により同県知事選に立候補し当選、2003年まで宮崎県知事を6期務めた。6期目では全国で最高齢の知事であった。2004年旭日大綬章受章。
山村 昌(やまむら さかえ、1918年(大正7年)2月26日… 山村 昌(やまむら さかえ、1918年(大正7年)2月26日 - 2005年(平成17年)6月7日)は、日本の電気工学者。リニアモーターの理論的研究で知られる。日本学士院会員(1988年12月12日-2005年6月7日)。長女は化学者の松本和子。 1918年、鳥取県鳥取市で生まれた。父は第9代鳥取市長を務めた山村栄太郎。 1936年に鳥取県立鳥取第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業し、1940年に東京大学工学部電気工学科を卒業。1941年より同大学工学部に助手として奉職。1943年から同学部講師を経て、1944年から助教授を務め、助教授在職中の1950年にオハイオ州立大学に留学し研究を続け、1953年に同大学から博士号(Ph.D)を授与された[要出典]。
藤田 晴子(ふじた はるこ、1918年2月25日 - 200… 藤田 晴子(ふじた はるこ、1918年2月25日 - 2001年10月20日)は日本のピアニスト、音楽評論家、法学者。選挙制度審議会委員。
長谷川 泉(はせがわ いずみ、1918年2月25日 - 20… 長谷川 泉(はせがわ いずみ、1918年2月25日 - 2004年12月10日)は、日本の国文学者。近代文学専攻。 千葉県山武郡生まれ。1942年、東京帝国大学国文科を繰り上げ卒業。在学中に「帝国大学新聞」の編集に携わる。 医学書を刊行する医学書院に入社。これは妻の兄が創業者・金原一郎の女婿だった縁故である。1944年、母校の大学院に入学し、1949年まで在籍。その間に最初の著書『近代への架橋』を刊行。戦中戦後にかけて「東京大学新聞」を編集し、1945年に青年文化会議の事務局長となる。 学習院大学講師、國學院大學講師、東京大学講師、清泉女子大学教授を歴任するが、その間、医学書院勤務を続け、1979年に社長就任。
本田 早苗(ほんだ さなえ、1918年2月25日 - 没年不… 本田 早苗(ほんだ さなえ、1918年2月25日 - 没年不明 )は、日本の官僚、経営者。丸善石油社長を務めた。香川県出身。 1942年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、通商産業省に入省した。1969年7月に企業局長に就任し、1972年6月までに務めた。1976年6月に丸善石油副社長に就任し、1977年11月から1981年3月までに社長を務めた。 1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。
国谷 純一郎(くにや じゅんいちろう、1918年〈大正7年〉… 国谷 純一郎(くにや じゅんいちろう、1918年〈大正7年〉2月23日 - 1986年〈昭和61年〉11月14日)は、日本の宗教哲学者、明治大学教授。 群馬県邑楽郡千江田村(現・明和町)生まれ。千江田村の小学校で学んだ後、同郡館林町(現・館林市)へ引っ越す。1935年(昭和10年)旧制館林中学校を卒業。明治大学予科を経て、1944年(昭和19年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業。1947年(昭和22年)同大学院修了。 1947年(昭和22年)明治大学予科講師となり、翌年同教授。1949年(昭和24年)に新制明治大学が誕生すると文学部助教授となり、1958年(昭和33年)教授。1969年(昭和44年)から1970年(昭和45年)にかけてドイツ・イギリスへ留学。
内田 宏(うちだ ひろし、1918年(大正7年)2月23日 … 内田 宏(うちだ ひろし、1918年(大正7年)2月23日 - 2014年(平成26年)8月25日)は日本の外交官。駐フランス大使などを歴任。山梨県出身。 同期に西堀正弘(国連大使)、魚本藤吉郎(駐ソ連大使)、吉野文六(駐独大使)、奈良靖彦(駐加大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。
山科 直治(やましな なおはる、1918年〈大正7年〉2月2… 山科 直治(やましな なおはる、1918年〈大正7年〉2月22日 - 1997年〈平成9年〉10月28日)は、日本の経営者。バンダイの創業者。位階は正五位。 石川県金沢市出身。1935年に金沢商業学校を卒業し、兵役予備役中尉を経て、1948年に繊維業の万代産業に入社。 1950年に萬代屋(後のバンダイ)を設立し、社長に就任し、1980年6月には会長に就任。社長時代には、おもちゃ業界で初めて保証玩具制度を実施するなど品質を重視した堅実な経営により、同社を業界トップに育て上げた。1984年に日本おもちゃ図書館財団を設立し、日本玩具協会会長も務め、業界の発展に尽力した。 1979年11月に藍綬褒章を受章し、1989年4月に勲三等瑞宝章を受章。
田中 徹雄(たなか てつお、1918年2月22日 - 昭和5… 田中 徹雄(たなか てつお、1918年2月22日 - 昭和54年(1979年)12月21日)は、日本の陸軍軍人(大尉)、地方公務員。山梨県副知事。 山梨県出身。上海の東亜同文書院を出て、南満州鉄道本社に勤めているうちに応召となり、日中戦争に参加した。 戦後、上海連絡班として中国に残った。総連絡班長は南京にいた今井武夫少将である。昭和21年(1946年)12月に上海発の最後の引揚船に今井少将たちと乗船し、翌月日本に帰国した。その直前に上海に拘束されていた嵯峨浩(満州国皇弟・溥傑夫人)・愛新覚羅嫮生母娘を救出した。 引揚後、郷里の山梨県庁に勤務し、のちに副知事まで務めた。1967年の第31回衆議院議員総選挙で山梨県から自民党公認で立候補したが落選した。
カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918… カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918年2月21日 - 2005年11月24日)は、アメリカ合衆国の軍人。連合国軍占領下の日本において、ダグラス・マッカーサーの個人通訳を務め、昭和天皇と一人で謁見した唯一の日系2世として知られる。 また、樫葉章(英語版)付きの青銅星章をはじめとして、アメリカ従軍記章、アジア・太平洋従軍章(英語版)、進駐軍記章(英語版)、第二次世界大戦戦勝記念章、戦闘歩兵バッジ(英語版)、朝鮮従軍記章(英語版)、国土防衛従軍章、国連朝鮮戦争従軍章(英語版)、予備軍年功記章(英語版)、キャリア・インテリジェンス・メダル(英語版)など、全部で11の勲章を授与された。
永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011… 永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011年6月21日)は、日本の英語教師、社会活動家、元陸軍通訳。 岡山県都窪郡福田村(現:岡山県岡山市南区福田地域)生まれ。 1941年青山学院文学部英語科を卒業。同年12月、英語通訳として陸軍省に入省する。1943年、婚約者を置いてタイに赴き泰緬鉄道の建設にあたり、『建設作戦要員』として通訳に従事する。6万2千人ちかくのうち約1万3千人が死んだといわれる連合軍捕虜(en:Far East prisoners of war)虐待(泰緬鉄道建設捕虜虐待事件)の現場に出くわし、戦後において、この一件についての証言活動に至る。1945年9月、イギリス軍の墓地捜索隊の通訳となる。
小林 国夫(こばやし くにお、1918年2月19日 - 19… 小林 国夫(こばやし くにお、1918年2月19日 - 1979年6月19日)は、日本の地質学者。 1918年、静岡県に生まれる。 1942年に東京帝国大学理学部地質学科卒業。後に信州大学講師、信州大学助教授を経て、1959年に信州大学教授に就任。 この年には研究グループとともに放射性炭素年代測定を用いて日本列島の成立時期(約2万年前)を提唱した。また、長野県内の地質を研究する中で日本アルプスの地質、自然に関する著作も多く執筆。1963年には氷河地形の研究で日本地質学会賞を受賞した。 1979年、心臓発作のため長野県松本市の自宅で死去。61歳。戒名は羣氷院釈浄國居士。墓所は東京都調布市の深大寺墓地。
篠原 康次郎(しのはら こうじろう、1918年2月17日- … 篠原 康次郎(しのはら こうじろう、1918年2月17日- 2018年2月7日)は、日本の実業家。広島相互銀行頭取や広島総合銀行会長を務めた。藍綬褒章受章、オーストリア共和国有功大栄誉報賞受賞、広島経済大学名誉博士。 福岡県福岡市出身。福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)、長崎高等商業学校を経て、1941年12月に旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、1942年1月日本銀行に入行。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官し、秋田県田沢湖付近の補給工場で終戦を迎える。 1945年福岡に復員し、1945年10月から1年間広島支店に配属。
黒江 保彦(くろえ やすひこ、1918年(大正7年)2月17… 黒江 保彦(くろえ やすひこ、1918年(大正7年)2月17日 - 1965年(昭和40年)12月5日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。日本陸軍航空隊で戦闘機操縦者として日中戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争で多数の空戦に参加して、エースパイロットの一人となった。航士50期。最終階級は、日本陸軍では陸軍少佐、戦後に奉職した航空自衛隊では1等空佐。 鹿児島県日置郡中伊集院村(現:日置市)にて、陸軍砲兵大尉・黒江敬吉の四男として生まれる。伊集院中学を経て陸軍士官学校予科(後の陸軍予科士官学校)に進んだ。日本統治時代の朝鮮の平壌における飛行連隊での隊附勤務を経て、1938年(昭和13年)6月に陸軍航空士官学校(航士)卒業・航空兵少尉任官(航士50期)。
金関 寿夫(かなせき ひさお、1918年2月17日 - 19… 金関 寿夫(かなせき ひさお、1918年2月17日 - 1996年7月6日)は、日本の英文学者・翻訳家。東京都立大学名誉教授。専門はアメリカ現代詩、先住民の詩。数多くの翻訳で知られる。 1918年、島根県松江市で生まれた。同志社大学文学部英文科に入学し、アメリカ文学および文化を専攻した。 神戸大学教授、旧・東京都立大学教授、駒澤大学教授を務めた。 アメリカの現代詩、口承詩に関する著作を多く書いており、詩人の谷川俊太郎と友人であった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
堀内 俊夫(ほりうち としお、1918年2月16日 - 20… 堀内 俊夫(ほりうち としお、1918年2月16日 - 2009年10月26日)は、日本の政治家。環境庁長官(第19代)、参議院議員(3期)、奈良県天理市長(第3代)。 奈良県天理市生まれ。1938年、奈良師範学校(現奈良教育大学)専攻科卒業。 1966年、奈良県天理市長に初当選。天理市長在任中は近畿市長会会長も務める。1975年秋の褒章で県議会議員や市長として公共の福祉に奉仕し地方自治の発展に貢献したとして藍綬褒章受章。1976年、参議院奈良県選挙区補欠選挙に自由民主党公認で立候補し、当選。以後参議院議員を3期務める。1982年、参議院文教委員長に就任。1987年、竹下内閣で環境庁長官に任命される。
千代 賢治(ちしろ けんぢ、1918年2月16日 - 201… 千代 賢治(ちしろ けんぢ、1918年2月16日 - 2017年3月14日)は、日本の経営者。住友生命保険社長、会長を務めた。 鳥取県西伯郡西伯町(現南部町)出身。旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高等学校文科乙類を経て、1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年住友生命保険に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業し摩耶に配属された。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進み、海軍艦政本部付で終戦を迎えた。 1946年1月に終戦により復職。1963年1月に経理部長に就任し、人事部長、取締役、常務、専務を経て、1978年7月に副社長に就任し、翌年7月に社長に昇格した。
玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月1… 玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月16日 - 1997年7月26日)は、大韓民国の教授、実業家、政治家。第6代韓国国会議員。 平安南道順川生まれ、ソウルまたは慶尚南道統営出身。平壌公立中学校、山口高等学校文科、東京帝国大学法律学科卒。株式会社朝鮮ポンプ製作所重役、新興大学校・慶熙大学校法科大学教授、漢陽大学校政経大学講師、国家再建最高会議交逓委員会諮問委員、高等考試委員、民主共和党京畿第13区党委員長・国会対策委員、民主共和党所属の第6代国会議員を務めた。 1997年7月26日、持病によりソウル大病院で死去。享年79。
須之部 量三(すのべ りょうぞう、1918年2月15日 - … 須之部 量三(すのべ りょうぞう、1918年2月15日 - 2006年2月14日)は、日本の外交官・外務事務次官・杏林大学名誉教授。東京府出身。 旧制浦和中学(浦和高校)、旧制静岡高校文科甲類(静岡大学)を経て、東京帝国大学法学部卒業。 1941年12月、外務省に入省。1950年ガリオア基金にて米国留学。経済局第四課長(イギリス連邦担当)、1955年在連合王国大使館一等書記官、1958年大臣官房人事課長、1961年条約局外務参事官、1964年在ソ連大使館参事官、1966年駐米公使、1968年外務省アジア局長。駐オランダ大使、駐インドネシア大使、駐韓国大使を経て、1981年に外務事務次官に就任した。
水川 八重子(みずかわ やえこ、1918年2月15日 - 1… 水川 八重子(みずかわ やえこ、1918年2月15日 - 1976年7月25日)は、日本の女優。本名:目黒 やゑ(旧姓:角西)。東京市浅草区(現在の東京都台東区)生まれ。夫は近衛十四郎、長男は松方弘樹、次男は目黒祐樹。孫に目黒大樹、仁科克基、仁科仁美、近衛はながいる。 大正7年(1918年)、浅草の象牙職人の娘として生まれる。 上野高等女学校(現:上野学園高等学校)卒業後の昭和10年(1935年)、大都映画に入社。同年「御存知猿飛佐助」に脇役でデビュー。以後、主に時代劇の相手役として可憐な姿を見せるようになり、売れっ子になる。 昭和14年(1939年)、軍隊帰りの近衛十四郎主演作品に助演し、その後も相手役をつとめ、昭和16年(1941年)、近衛と結婚。
有馬 頼義(ありま よりちか、1918年〈大正7年〉2月14… 有馬 頼義(ありま よりちか、1918年〈大正7年〉2月14日 - 1980年〈昭和55年〉4月15日)は、日本の小説家。中間小説、社会派推理小説の分野で活躍した。旧・筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。 伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山(現・東京都港区青山)に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第2王女。 頼寧の母・寛子(頼義の祖母)は岩倉具視の五女。頼義の妹の澄子は足利惇氏の妻。姉の正子は亀井茲建の妻であり、衆議院議員亀井久興は甥にあたる。 兄2人の早世と病弱により早くから伯爵家を嗣ぐことを決められる一方、有馬家と母の実家・北白川宮家の複雑な家庭環境を肌で感じる多感な幼少期を過ごした。
三縄 一郎(、1918年〈大正7年〉2月14日[要出典] -… 三縄 一郎(、1918年〈大正7年〉2月14日[要出典] - 2017年〈平成29年〉12月16日[要出典])は、日本映画の音響効果技師。東京都文京区本郷真砂町[要出典]出身。 日本映画における効果音の基礎を築いた人物とされる。 歌手を目指し東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で声楽を学んだ。新協劇団の女優であった姉の手伝いで[要出典]陰歌を手伝ったことをきっかけに、舞台音効の道へ進む。ミリオンレコード社へ入社するも[要出典]日中戦争の激化で同社が解散となり、自身も召集を受ける。 中国から帰国後の1942年(昭和17年)、東宝に入社し効果係となる。半年ほど助手を務めたが、再び召集を受け、戦後から映画の音響効果を本格的に携わるようになる。
佐竹 五三九(さたけ ごさく、1918年2月14日 - 19… 佐竹 五三九(さたけ ごさく、1918年2月14日 - 1977年10月12日)は、昭和時代の労働運動家。全国金属労働組合(全金)委員長、日本労働組合総評議会(総評)副議長。 大阪府三島郡富田村(現高槻市)生まれ。1933年高等小学校卒業。洋服屋の店員を経て、1934年大阪毛織に入社。同年11月の日本労働組合全国評議会(全評)結成に参加。1935年全評関西繊維労働組合淀川分会長。同年12月に検挙・拘留されて退職。1936年大阪市の日の出鉄工所に入社。働きながら野田職工学校(二部)を卒業。同時に全評金属関西地方協議会青年部長として活動。1937年12月人民戦線事件で再検挙。1939年高野実、柳本美雄と連絡をとり上京。