水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21… 水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21日 - 1976年(昭和51年)3月6日)は、日本の実業家。三井製糖社長や、初代精糖工業会会長を務めた。 岐阜県出身。1937年東京商科大学(現一橋大学)卒業。台湾製糖入社後、1949年第一物産入社。砂糖部長などを務め、1965年国際連合砂糖会議日本政府代表顧問。1970年三井製糖専務。1972年三井製糖社長。1974年全日本精糖工業会会長。同年全日本精糖工業会と日本精糖工業会が合併した精糖工業会の会長に就任。1976年に死去し、正五位勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
塩崎 源一郎(しおざき げんいちろう、1912年(明治45年… 塩崎 源一郎(しおざき げんいちろう、1912年(明治45年)6月21日 - 2000年(平成12年)5月25日)は、日本の紙芝居師である。 長野県須坂市に生まれ、17歳で上京し、ブリキ問屋に奉公するが後に紙芝居師としての活動を始める。1939年(昭和14年)に大阪市西成区に転居して紙芝居を始める。1947年(昭和22年)に紙芝居を制作・配給する三邑(さんゆう)会を設立する。後に全国に配給する絵元へと発展する。絵元とは、紙芝居を企画し、画家(原画)や作家(文章)に依頼して紙芝居として完成させ全国の紙芝居師に貸し出す仕事です。 1950年代には日本全国で紙芝居を披露し、多くの人々にその観賞に楽しむことに尽力する。
布施 津三(ふせ しんぞう、1912年6月20日 - 200… 布施 津三(ふせ しんぞう、1912年6月20日 - 2004年12月8日)は、日本の経営者。北越製紙社長、会長を務めた。 新潟県出身。1933年に長岡高等工業学校機械工学科を卒業し、同年に北越製紙に入社。1963年12月に取締役に就任し、1971年12月に常務、1973年12月に専務を経て、1977年7月に社長に就任。1983年7月に会長に就任し、1984年5月には越智泰二郎社長の体調不良により、再び社長に就任。1987年7月に会長を経て、1989年6月には相談役に退いた。 1941年9月に勲五等瑞宝章を受章し、1975年10月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2004年12月8日急性呼吸不全のために死去。
野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年)6月2… 野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年)6月20日 - 没年不明)は、日本の無線技師、実業家、作家。元ラジオ山陰(現山陰放送)常務。 鳥取県米子市長・野坂康夫の伯父。洋食のレストランおよびレコード、楽器店を営んだ野坂康久(“十字屋”経営主)の長男。 鳥取県西伯郡米子町(現米子市)出身。康久の長男。 昭和7年(1932年)無線電信講習所本科卒業。大阪商船外国航路通信士。上海華中電気通信股份有限公司日立造船各勤務を経て、昭和29年(1954年)3月ラジオ山陰(現山陰放送)に弟陞三と勤める。 その間昭和13年(1938年)サンデー毎日大衆文芸第一席に当選。週刊朝日小説に三席入賞以後作品約十五発表。
和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19… 和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19日 - 1952年〈昭和27年〉8月14日)は、戦前から戦後にかけて活動したNHKのアナウンサー。妻は後輩アナウンサーの大島(旧姓)実枝子(1918年(大正7年)- 2016年(平成28年)、1939年入局)。 東京府に生まれ、東京府立第五中学校、第二早稲田高等学院を経て早稲田大学に進学するも中退した。1934年に日本放送協会(当時は社団法人)へ第1期アナウンサーとして入局した。 和田が一躍有名になった場面は、1939年の大相撲1月場所の実況中継である。和田はこの場所の実況中継を初日から4日目まで担当したが、4日目(1月15日・日曜日)に70連勝を目指していた双葉山定次が、結びの一番で安藝ノ海節男に外掛けで敗れ、連勝が69で止まった。
秀村 欣二(ひでむら きんじ、1912年6月19日 - 19… 秀村 欣二(ひでむら きんじ、1912年6月19日 - 1997年4月8日)は、日本の西洋史学者(古代ローマ史)。東京大学教養学部名誉教授。 1912年、福岡県福岡市で生まれた。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高校)、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学文学部西洋史学科に進学。1936年に同大学を卒業。 東京大学教養学部教授。1973年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は青山学院大学文学部教授として教鞭を執り、1984年に退職した。
池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17… 池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の俳優。本名:池田清二。別名:池田生三。長男は脚本家の池田太郎。長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。 4人兄弟の末っ子として生まれる。 旧制諏訪中学校卒業。日本大学経済学部卒業後、日本プロレタリア演劇同盟の演劇研究所の第1期研究生となり、東京左翼劇場を経て新築地劇団で活動。 1940年には思想統制により新築地劇団、新協劇団関係者らの一斉検挙が行われ、池田も検挙された。 戦時中は、丸山定夫らの苦楽座(後の移動演劇『桜隊』)に参加。広島への劇団疎開に参加したが、妻の実家の戦災見舞いのために静岡県沼津市に向い、広島原爆投下当日には広島にいなかった。
勝本 信之助(かつもと しんのすけ、1912年6月17日 -… 勝本 信之助(かつもと しんのすけ、1912年6月17日 - 1987年12月2日)は、日本の経営者。東京都出身。 1937年に東京帝国大学経済学部を卒業し、ゴム統制会、ブリヂストンでの勤務を経て、1954年に日本合成ゴム(現在のJSR)に入社。1962年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1975年5月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1987年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年12月2日肺炎のために死去。75歳没。
丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 19… 丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 1989年11月22日)は日本の映画監督。男性映画を得意とする一方、司葉子のデビュー作を撮った監督としても知られる。代表作に『男ありて』『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『日本海大海戦』など。
大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1… 大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1983年1月16日)は昭和時代日本のジャーナリスト、新聞経営者。元中日新聞社代表取締役。愛知県出身。 出生名は大島 克巳(おおしま かつみ)で、1952年(昭和27年)3月24日付で「一芳」へ改名した。 1912年(明治45年)、愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)で大島寿太郎の長男として出生。祖父の大島竹三郎は小幡大島本家第12代当主で、分家の東大島家第2代当主となった後に新愛知新聞社を創業した大島宇吉は一芳の大叔父に当たる。 1936年(昭和11年)に慶應義塾大学経済学部を卒業して大叔父の宇吉が経営する新愛知新聞社へ入社、戦時中は上海支局駐在。
朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月1… 朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月14日 - 1999年1月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教育者、公務員、政治家、実業家。朝鮮大学校の共同設立者で第1・4・7代総長、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)。 本貫は密陽朴氏、族譜名は玟洙。漢字表記は朴喆雄とも。父は朝鮮末期の農民戦争に参加した農民軍の朴学俊。実業家の朴誠燮、コラムニストの朴誠賢(朝鮮語版)ら4男3女がいる。 全南高興出身。全州新興学校在学中光州学生運動に参加して全州刑務所に29日間収監された。1941年明治大学政経学部政治科卒。1943年日本高等科法制経済教員免許取得。全羅南道運輸課長、光州夜間大学院設立者、朝鮮大学園設立者・総長、朝鮮大学附属中学院・中学校設立者・校長・理事長、初代・第4・7代朝鮮大学校総長(1948年5月26日~1960年5月26日、1963年11月6日~1980年8月6日、1986年12月2日~1987年12月25日)、光州新報社長、無所属および自由党所属の民議員、無所属の参議員、国際連合韓国協会全南支部長・韓国首席代表、誠実工高技術学校設立者、木浦工業技術校設立者、木浦護国工高校設立者、全羅南道8郡農工技術校設立者、高麗セメント会長を務めた。
小林 大祐(こばやし たいゆう、1912年6月13日 - 1… 小林 大祐(こばやし たいゆう、1912年6月13日 - 1994年8月21日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。 兵庫県多可郡加美町(現多可町)出身。1935年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。同年に富士通信機製造に転じ、1964年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1976年3月に社長に就任。1981年6月に会長に就任し、1986年5月に取締役相談役を経て、1987年6月から相談役を務めた。 1965年に毎日工業技術賞を受賞し、1971年に紫綬褒章を受章し、1978年に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1994年8月21日、気管支肺炎のために死去。
高橋 安人(たかはし やすんど、1912年(明治45年)6月… 高橋 安人(たかはし やすんど、1912年(明治45年)6月12日 - 1996年(平成8年)10月29日)は、日本の機械工学者。工学博士(東京帝国大学)、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授、豊橋技術科学大学名誉教授。当初は伝熱工学を専攻していたが、太平洋戦争後は日本の制御工学の草分けとして活躍した。世界の先端技術を日本に広めるとともに、日米の懸け橋としても功績がある。 名古屋帝国大学助教授、東京大学生産技術研究所教授、カリフォルニア大学バークレー校教授、豊橋技術科学大学教授を歴任。1978年にRufus Oldenburger Medal(英語版)、1994年に計測自動制御学会最初の功績賞を受賞。
森岡 健二(もりおか けんじ、1912年〈大正元年〉6月11… 森岡 健二(もりおか けんじ、1912年〈大正元年〉6月11日 - 2008年〈平成20年〉3月27日)は、日本の国語学者、上智大学名誉教授。 宮城県栗原郡生まれ。教員だった父の転勤で山形県、佐賀県に移り、佐賀高等学校を経て、1940年東京帝国大学国語国文学科卒。大学院に進むが、兵役のため1945年に退学。満洲勤務を経て1946年に広島高等学校教授、1949年に国立国語研究所所員、1953年に東京女子大学助教授、1958年に同教授。1970年に上智大学教授、1988年に定年退職、名誉教授。学外では、国語審議会委員をたびたび務めた。 兄は岡山大学教授・森岡常夫。 近代語の成立に関して、英華辞典や英和辞典における訳語を方法の変遷から調査し、それを中村正直や西周などの翻訳や聖書和訳と対照することで、それぞれの果たした役割を明らかにした。
林 百郎(はやし ひゃくろう、1912年6月10日 - 19… 林 百郎(はやし ひゃくろう、1912年6月10日 - 1992年6月1日)は、日本の政治家、弁護士。日本共産党衆議院議員。日本共産党議員所属初の「永年在職議員表彰」
オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45… オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45年〉6月8日 - 1986年〈昭和61年〉11月30日)は、日本の抽象画家、芸術家。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。10歳から群馬県桐生市で育つ。 津田青楓の津田洋画塾出身。戦後はヴェネツィア・ビエンナーレやその他欧米の美術展に積極的に出品・参画した。グッケンハイム美術館や、日本各地の美術館に作品が収蔵されている。モザイク状の幾何学的抽象様式が知られ、版画、シルクスクリーン作品も多い。 1912年(明治45年) - 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に、長野県立飯田中学校の教師、小野里万蔵の長男として生まれる。 1919年(大正8年) - 父万蔵が北甘楽郡立実科高等女学校に転勤になり、一家は群馬県富岡町へ移住。
大羽 綾子(おおば あやこ、1912年6月8日 - 没年不明… 大羽 綾子(おおば あやこ、1912年6月8日 - 没年不明)は、日本の労働官僚・婦人問題評論家・翻訳家。 東京生まれ。父は元日本興業銀行理事の二宮基成(1873年2月3日 - 1920年1月9日)。東京女子大学英文科卒。労働省に入り、婦人労働課長。婦人雇用研究室長。国際婦人連絡会代表委員などを務め、女性の地位向上に尽くした。
山代 巴(やましろ ともえ、1912年〈明治45年〉6月8日… 山代 巴(やましろ ともえ、1912年〈明治45年〉6月8日 - 2004年〈平成16年〉11月7日)は、日本の作家である。マルクス主義の立場に立つ作家・運動家であり、代表作『荷車の歌』で農村女性を描いて人気を得た。戦後民衆文化史研究の文脈でも注目されている。旧姓は徳毛 巴。 広島県芦品郡栗生村(今の府中市栗柄町)に生まれた。1929年(昭和4年)、東京女子美術専門学校(今の女子美術大学)に入学した。 家の没落で学資が途絶えて学校を中退した後、貧民救済事業の先駆者とされる涌井まつとの出会いを機に、労働者解放運動へと身を投じた。1932年(昭和7年)、日本共産党に入党した。その後は女工向けの夜学やサークル活動を行なう一方で、反戦デモや党防衛カンパ闘争などの非合法の活動にも参加した。
奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7… 奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7日 - 2003年(平成15年)2月15日)は日本画家。元・日本芸術院会員。1984年(昭和59年)に文化勲章受章。本名は奧田 嚴三(おくだ げんそう)。妻は人形作家の奥田小由女。 「元宋の赤」と言われる独特な赤色が特徴。「美術人名辞典」(思文閣)によれば「自然と自己の内面を照応した幽玄な山水で精神性の濃い絵画世界を築く」と評されているほか、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には「日本の風景美の伝統を受け継いだ静かで神秘的な水墨画の世界に、多彩な色使いによる色彩美を加え、新朦朧派と評される独自の風景画を確立した」と解説されている。 歌人としても著名で、1981年正月には宮中歌会始の召人に選ばれた。
森 主一(もり しゅいち、1912年6月7日 - 2007年… 森 主一(もり しゅいち、1912年6月7日 - 2007年2月25日)は、日本の生物学者(生態学・時間生物学)。勲二等。京都大学名誉教授、滋賀大学名誉教授、静岡女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学・1945年)。 ラテン文字転写の際にSyuiti Moriと表記される場合もある。 京都大学理学部教授、京都大学理学部附属大津臨湖実験所所長、京都大学理学部学部長、日本学術会議会員、静岡女子大学学長(第3代)、滋賀大学学長(第7代)、滋賀大学経済短期大学部学長(第7代)、環境市民代表(初代)などを歴任した。 徳島県出身の生態学や時間生物学を専攻する生物学者である。「日本の生態学の草分け」と評されており、太平洋戦争後の日本における生態学の確立に大きな役割を果たした。
青山 杉雨(あおやま さんう、1912年6月6日 - 199… 青山 杉雨(あおやま さんう、1912年6月6日 - 1993年2月13日)は、書家。愛知県葉栗郡草井村大字村久野(現・江南市)生まれ。大東文化大学教授。号は杉雨、本名は文雄。
梅原 文雄(うめはら ふみお、1912年(明治45年)6月6… 梅原 文雄(うめはら ふみお、1912年(明治45年)6月6日 - 1986年(昭和61年)11月14日)は、日本の実業家、合唱指揮者。元共和証券株式会社取締役常務、逝去時同社監査役。 神奈川県に生まれる。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1935年(昭和10年)慶應義塾大学経済学部卒業。在学時は慶應義塾ワグネル・ソサィエティーに所属。バリトンソリスト及び学生指揮者として活躍した。木下保に師事。 1935年(昭和10年)から家業の共和証券株式会社に奉職。 1939年(昭和14年)に、慶應ワグネルの指揮者であった山口雅章が死去し、その後「やむをえず」(第88回定期演奏会(1963年)プログラムにおける梅原の寄稿より)OBの梅原が合唱パートの指揮者を引き継ぐこととなった。
新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろ… 新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、日本の小説家、気象学者。無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業。 中央気象台に勤めるかたわら執筆。山を舞台に自然対人間をテーマとする、山岳小説の分野を開拓した。『強力伝』(1955年)で直木賞受賞。作品に『孤高の人』(1969年)、『八甲田山死の彷徨』(1971年)などがある。 長野県諏訪郡上諏訪町角間新田(かくましんでん)(現在の諏訪市上諏訪角間新田)に藤原彦、りゑの次男として生まれる。ペンネームは“新田の次男坊”から(「しんでん」を「にった」と読み替え)。旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現在の電気通信大学の母体)・神田電機学校(現在の東京電機大学の母体)卒業。
鹿間 時夫(しかま ときお、1912年6月6日 - 1978… 鹿間 時夫(しかま ときお、1912年6月6日 - 1978年12月12日)は、日本の古生物学者。 1912年、京都府で生まれた。旧制成蹊高等学校を経て、東北帝国大学理学部に進学。1931年から1939年にかけて、栃木県葛生町周辺に広く分布する古生代石灰岩の割れ目にたまった第四紀の堆積物の中から発見された化石を調査。東北帝国大学理学部を卒業。 1942年、満洲国の新京工業大学教授に就任。 戦後は1947年から3年間、長野県飯田高松高校教諭として勤務。このとき直接の影響を受けた卒業生には長谷川善和、鎮西清高、加賀美英雄(海洋地質学)、山田哲雄(岩石学)、松島信幸(日本地質学会名誉会員)がいる。ほか、本多勝一(ジャーナリスト)や富永明夫(仏文学者)、近藤信道(画家)もその時期の教え子であった。
梶 一郎(かじ いちろう、1912年6月6日 - 1978年… 梶 一郎(かじ いちろう、1912年6月6日 - 1978年1月20日)は、将棋棋士、九段。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は12。東京府東京市(現:東京都台東区)の生まれ。 元号が明治から大正に変わる前月の明治45年(1912年)6月の生まれである。 1928年、土居市太郎に入門。同年9月に関東の奨励会が創設されている。 プロ入り(四段昇段)は1934年。以降昇段を重ね、戦時中の1943年に八段まで上り詰める。 戦後に始まった第1期順位戦(1946年度)では、A級(八段リーグ)からスタート。4勝9敗の成績で陥落枠7名の中に入り、第2期はB級で指す。 第11期(1956年度)B級2組順位戦で2位(9勝4敗)の成績を収め、B級1組に復帰。
鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1… 鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1959年8月13日)は、岩手県出身のプロ野球選手。ポジションは三塁手。 1929年に旧制岩手県立福岡中学校(現在の岩手県立福岡高等学校)を卒業後、明治大学などを経て、1950年に発足したばかりの広島東洋カープへ入団。しかし当時すでに38歳となっていて、結局一軍公式戦は3試合の出場となり1年限りで引退。 指導者として非凡な才能を発揮し、昭和6年、昭和15年、昭和22年の母校福岡中学の甲子園出場は鈴木の指導に追うところが多かった。「練習は厳しく、試合はリラックス」を指導方針とし、選手が試合中に失敗しても決して怒ることがなかったが、練習では伝説の猛ノックで選手を鍛えた。
大犮 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年… 大犮 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年〉6月5日 - 1985年〈昭和60年〉9月27日)は、山口県出身の俳優。本名:中富 正三。 新国劇出身。戦後の東映時代劇映画で数多く主演を務めた剣劇スター。晩年はテレビの現代劇でも活躍した。 父親は山口県柱島(現岩国市)出身、母親は広島県能美島(現江田島市)の出身で、大犮は母親の実家に近い広島市中の棚(現在の同市中区立町付近)で生まれ、父親は出生届を柱島で出した。生後間もなく柱島で育ち、小学校3年から5年までは山口県屋代島(周防大島)(現同県大島郡)で育った。1935年(昭和10年)、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、大阪へ出て新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。
佐々木 省三(ささき しょうぞう、1912年6月5日 - 2… 佐々木 省三(ささき しょうぞう、1912年6月5日 - 2001年6月29日)は、日本の経営者。綜合警備保障社長を務めた。 宮城県出身。1936年に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。 1960年6月に取締役、1963年に常務、1966年に専務、1971年6月に監査役を経て、同年8月に綜合警備保障常務に就任し、1980年11月には社長に昇格。1986年9月に相談役に就任。 1968年6月から1981年6月までに早稲田大学理事と1970年5月から1974年5月までに大東京興産社長を務め、巣鴨学園理事も務めた。 2001年6月29日、急性呼吸不全のために死去。89歳没。
森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日… 森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日 - 1946年(昭和21年)10月6日)は、日本の劇作家、演出家、翻訳家。代表作として『女の一生』や『華々しき一族』などがある。 1912年(明治45年)、大阪府西成郡中津町下三番(現・大阪市北区)に生まれる。中津第二尋常小学校、旧制北野中学校を経て第三高等学校文科へと進んだ。三高在学中は、ノエル・カワードやサマセット・モームなどのヨーロッパ近代戯曲を読みふけて過ごし、1932年(昭和7年)には処女作となる一幕ものの戯曲『ダムにて』を発表している。三高卒業後、京都帝国大学文学部英文科に進んだ森本は、入学から時を経ずして胸部疾患のために療養生活を余儀なくされた。
白勢 正衛(しろせ まさえ、1912年〈明治45年〉6月4日… 白勢 正衛(しろせ まさえ、1912年〈明治45年〉6月4日 - 没年不明)は、日本の農民、資産家、大地主。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢友彌の長男。白勢文三郎の甥。1915年、家督を相続した。農業を営み、新潟県下の大地主であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
亀井 孝(かめい たかし、1912年6月3日 - 1995年… 亀井 孝(かめい たかし、1912年6月3日 - 1995年1月7日)は、日本の国語学者、言語学者。一橋大学名誉教授。 東京府生まれ。ユーラシア史学者・亀井高孝の長男。哲学者・亀井裕は弟 慶應義塾幼稚舎、武蔵高等学校 (旧制)を経て、1935年東京帝国大学文学部卒業。1938年同大学大学院を中退し、同大助手に就任。東京商科大学(のちの一橋大学)予科非常勤講師、同教授を経て、戦後、一橋大学助教授を経て教授。1977年定年退官し、名誉教授になる。成城大学教授、1984年に東洋文庫研究員となる。 「国語学よ、死して生れよ」をテーゼとし、方法論それ自体に対する手厳しい批判精神に満ちていた。いわば「学問の在り方を問う立場の飽くなき提示」という知的運動こそが、亀井の学問の真骨頂であった。
板倉 譲治(いたくら じょうじ、明治45年(1912年)6月… 板倉 譲治(いたくら じょうじ、明治45年(1912年)6月3日 - 平成9年(1997年)4月8日)は、日本の財界人。三井銀行取締役社長、全国銀行協会連合会会長等を歴任。父親は貴族院勅選議員の板倉卓造。東京出身。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部卒業。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
槇村 浩(まきむら こう、1912年6月1日 - 1938年… 槇村 浩(まきむら こう、1912年6月1日 - 1938年9月3日)は、日本のプロレタリア詩人。本名は吉田 豊道(よしだ ほうどう)。 高知県高知市生まれ。1931年、日本プロレタリア作家同盟高知支部を作り、その後、「槇村 浩(まきむら こう)」のペンネームで作家活動をした。反戦運動・労働運動にも参加し、反戦詩『間島パルチザンの歌』は代表作とされている。 槇村の作品は朝鮮人民との連帯、植民地解放を訴え、日本兵士に中国軍兵士と共同して日本軍への反乱を呼びかけるなど、当時のプロレタリア文学においても例のない国際連帯の視点に貫かれていた。これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去。
高橋 幸八郎 (たかはし こうはちろう、1912年6月1日 … 高橋 幸八郎 (たかはし こうはちろう、1912年6月1日 - 1982年7月21日)は、日本の歴史学者。専門は西洋経済史・フランス史。 福井県今立郡河和田村(現在の鯖江市河和田町)の地主の家に生まれる。1929年、第一高等学校文科甲類に進学し、1932年に卒業。同年、東京帝国大学文学部西洋史学科入学。同期入学に林健太郎、秀村欣二らがいる。1935年に卒業し、大学院に進学する。東京市立上野中学校教諭等を経て、1941年に京城帝国大学助教授に任じられる。1947年東京大学社会科学研究所赴任。1950年5月に助教授、1952年6月に教授となる。その間、1952年から1953年にフランス政府招聘客員教授も務めた。
安津 素彦(あんづ もとひこ、1912年5月31日 - 19… 安津 素彦(あんづ もとひこ、1912年5月31日 - 1985年11月28日)は、神道学者。國學院大學名誉教授、信州豊南短期大学学長。専攻は神道思想史。 東京市下谷区(現・台東区東上野)生まれ。1930年開成中学校卒業。1935年國學院大學道義学科倫理科卒業。國學院大學道義研究室助手。1938年財団法人日本文化中央聯盟研究員。1940年國學院大學講師。1944年同大学に国学研究所が設置され、研究員に委嘱。1946年同大学に神道研究部が設置され、研究員に委嘱。1948年國學院大學文学部が発足し、宗教学科教授に就任。宗教学概論・教派神道概論を担当。1953年「神道研究序論」で文学博士(國學院大學)。
栗本 一夫(くりもと かずお、1912年(明治45年)5月2… 栗本 一夫(くりもと かずお、1912年(明治45年)5月27日 - 1992年(平成4年)11月27日)は、日本の裁判官。最高裁判事。「四畳半襖の下張事件」で裁判長を務めた。なお、長男に経済人類学者の栗本慎一郎がいる。 岐阜県稲葉郡則武村(現在の岐阜市)に栗本兵治郎の次男として生まれる。 旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業。東京帝国大学在学中の1934年(昭和9年)11月、高等試験司法科に合格。1935年(昭和10年)3月、東京帝国大学法学部を卒業。同年5月から司法官試補となり、東京地裁、仙台地裁、浦和地裁などで裁判官生活を送り、陸軍司政官を務め、終戦後は終戦連絡中央事務局連絡管を務めた。
谷口 紀男(たにぐち のりお、1912年 <明治45年> 5… 谷口 紀男(たにぐち のりお、1912年 <明治45年> 5月27日 - 1999年 <平成11年> 11月15日)は、日本の材料科学者。山梨大学名誉教授。 大分県出身。「ナノテクノロジー」の命名者。位階は正四位。 1912年5月27日、大分県に生まれる。1936年3月、東京帝国大学工学部造兵学科卒業後、民間企業を経て、1940年3月、山梨大学工学部の前身山梨高等工業学校機械工学科に教授として着任。以後26年にわたって勤務し、1953年山梨大学工学部教授以後、山梨大学教授として工学部機械工学科、精密工学科(現機械システム工学科)に勤務。1961年第4代山梨大学工学部長に就任。山梨大学を退官後、理化学研究所主任研究員、東京理科大学理工学部機械工学科教授などを歴任。
齋藤 磯雄(さいとう いそお、1912年5月26日 - 19… 齋藤 磯雄(さいとう いそお、1912年5月26日 - 1985年9月3日)は、日本の仏文学者。山形県庄内出身。 山形県東田川郡清川村(現:庄内町)生まれ。戸籍上は4月26日生まれ。実家は大庄屋格で、幼少時より漢籍と文語体聖書に親しんで育つ。 旧制酒田中学校在学中から仏文学を志す。辰野隆の教えを受けるつもりで、1929年、法政大学予科に入学。当時既に辰野は法政を退職していたために望みは果たせなかったが、戦後初対面した折にボードレール『悪の華』訳文を激賞された。法政で豊島与志雄や漢詩人阿藤伯海(あとう・はくみ)に師事。同級に安藤鶴夫と近藤光治がおり「三藤」と称して親しく交際した、在学時に次兄(筆名:西東徳之介)も加わり、文芸同人誌『秩序』(7号まで)を発行、プルースト短編やヴィリエ・ド・リラダンの翻訳を寄稿。
塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体: 鹽田 卓爾、1912年… 塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体: 鹽田 卓爾、1912年(明治45年)5月26日 - 1996年(平成8年)4月17日 )は、日本の大蔵官僚でもあり、実業家である。国内セラミックス大手3社の一角であった九州耐火煉瓦(現:黒崎播磨)の代表取締役社長を務めた。その後、同社の会長、相談役となる。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)現在の岡山県高梁市にて出生。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、陸上選手で研究者の柳井深造がいる。1930年(昭和5年)同校を卒業し、第六高等学校理科甲類へ進学するが、その後、途中で大病を患って退学。 3年後の1933年、塩田は理系から文転し、第六高等学校文科甲類へ再入学する。
松井 清(まつい きよし、1912年5月26日 - 1972… 松井 清(まつい きよし、1912年5月26日 - 1972年9月6日)は、日本の経済学者。元京都大学大学院経済学研究科・経済学部教授。 岡山市生まれ。第三高等学校卒、1934年京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。副手をへて1936年同講師、1947年助教授、1949年教授、1950年「世界経済学批判」で、経済学博士(大阪商科大学)の学位を取得。1960-1961年京都大学経済学部長。60歳で教授在任中に死去。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
徳恵翁主(トクヘオンジュ、とくけいおうしゅ、韓国語: 덕혜옹… 徳恵翁主(トクヘオンジュ、とくけいおうしゅ、韓国語: 덕혜옹주、1912年5月25日 - 1989年4月21日)は、朝鮮国王・大韓帝国皇帝高宗の王女。日本領朝鮮京畿道京城府出身。出生名は李 德惠(イ・トクヘ、り とくけい、韓国語: 이덕혜)。「翁主」は、大韓帝国皇帝の後宮所生の皇女の称号。ただし、徳恵は韓国併合後の出生かつ特例的に王族(王公族)として扱われ、徳恵姫(とくえひめ)となった。 結婚後の日本名は宗 徳恵(そう とくえ)、離婚後は梁 徳恵(ヤン・トクヘ、りょう とくけい、韓国語: 양덕혜)。 日韓併合から2年後の1912年(明治45年)5月25日、日本の王族・徳寿宮李太王となっていた高宗と側室の梁春基との間に誕生。
鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 199… 鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 1991年12月27日)は、日本の子爵・鳥尾敬光の妻。旧姓下條(げじょう)。のち鳥尾佳代、鳥尾多江と名乗った。美貌と社交術に長け、マダム鳥尾としてマスコミを賑わせた。下条正雄の孫。 日本画家で貴族院議員の祖父・下條桂谷(正雄)の末子・小四郎の娘として、祖父の持つ東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の豪邸で生まれ贅沢に育つ。母方祖父は津田出。1919年、女子学習院初等科に入学。平民出身のため華族の生徒からいじめられた。祖父が亡くなったことで麹町の家は嗣子の伯父のものとなり、1923年3月、鶴代一家は神奈川県大磯の祖父の別荘に転居。派手な都会暮らしに慣れた父は帝国ホテルにも部屋を借り、鶴代も1年ほどホテルから通学、その後一家は、麹町の伯父宅2階を借りるなど転居を繰り返し、最終的に隠田(現・原宿)に落ち着く。
磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2… 磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2008年7月25日)は、日本の歴史学者。山梨大学名誉教授。山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編さん委員会委員長。専門は日本古代史。 岐阜県土岐郡時村(瑞浪市土岐町)に、父・磯貝謙造、母・操の長男として生まれる。磯貝家は岩村藩大給松平家家臣で、母方の実家伊東家は長百姓の家柄。磯貝家は祖父や叔父が製糸工場を経営しており、父の謙造は小学校校長。 岐阜県大垣中学校、第八高等学校を経て、1936年(昭和11年)に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、大学院へ進む。大学時代は古代史学を専攻し坂本太郎に学び、卒業論文は「律令時代に於ける地方政治、特に郡司を中心として」。
中村 久次(なかむら ひさつぐ、1912年(明治45年)5月… 中村 久次(なかむら ひさつぐ、1912年(明治45年)5月23日 - 2002年(平成14年)10月21日)は、日本の実業家、音響技術者。 子爵加納久朗の次男として生まれる。男爵中村貫之の娘・妙子の婿になり中村姓を名乗った。1938年(昭和13年)に京都帝国大学理学部物理科を卒業して、日本ビクターに入社し、戦後は不二音響工業、サンウエーブ工業等の社長を歴任する。 戦前、陸軍兵技少佐として陸軍技術研究所に勤務したことがあった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年〈明治45年〉5月… 山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年〈明治45年〉5月23日 - 1997年〈平成9年〉1月30日)は、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。主に1930年代後半に活躍し、全日本テニス選手権でシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。世界的な評価も高く、1938年に世界ランキング8位になった。 1937年全米選手権で4回戦に進出。これは71年後に錦織圭が進出するまで最後の日本人男子全米4回戦以上進出記録だった。 キリンビールの重役などを務めた山岸慶之助の次男として生まれる。兄の成一も三菱商事のテニス選手。慶應大学政治科卒業後、旭硝子勤務。妻の辰子(日比谷平左衛門孫)はスカル選手。
澤田 瑞穂(さわだ みずほ、1912年5月23日 - 200… 澤田 瑞穂(さわだ みずほ、1912年5月23日 - 2002年1月28日)は、日本の中国文学者。中国の怪異研究の第一人者。跡見学園女子大学助教授、天理大学教授、早稲田大学文学部教授を歴任した。娘婿は清末小説研究家の樽本照雄(大阪経済大学名誉教授)。 高知県幡多郡大方町(現・黒潮町)生まれ。小学校3年生の時に大阪へ転居。1934年國學院大學高等師範部卒。1940年、北京日本大使館嘱託として中国に渡り、1942年に帰国する。1944年5月東亜交通公社華北支社附属伝習所講師として再び中国に渡る。1946年3月に帰国。中学校や高校で教鞭を執った後、1957年天理大学に着任。1973年同大学を定年退職。
宇山 厚(うやま あつし、1912年5月23日 - 2003… 宇山 厚(うやま あつし、1912年5月23日 - 2003年7月5日)は、日本の外交官。台湾断交時の駐中華民国特命全権大使を経て、駐ブラジル特命全権大使を務めた。正三位勲一等瑞宝章。 島根県出身。松江高等学校を経て、1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1949年外務省政務局経済課長。1950年在サンフランシスコ日本政府在外事務所所長。1952年外務省経済局第一課長。 在オーストラリア日本国大使館参事官を経て、1959年外務省アジア局兼大臣官房外務参事官。1962年外務省アジア局賠償部長。1963年在連合王国日本国大使館特命全権公使。1967年駐イラン特命全権大使。1968年初代在イラン日本国大使館付属日本人小学校校長。
豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23… 豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23日 - 1975年〈昭和50年〉10月9日)は、日本のピアニスト、音楽教育者。日本藝術院会員。佐賀県佐賀市出身。 1933年、東京音楽学校卒。高折宮次、レオ・シロタらに師事。1936年ドイツに留学、1943年東京音楽学校教授。その後、京都市立音楽短期大学教授を経て、1959年に武庫川女子大学音楽部長となった。 1940年にベートーヴェンのピアノソナタとピアノ協奏曲全作品の連続演奏会、1949年にバッハ死後200年記念ピアノ曲連続演奏会、さらに1950年にもバッハのピアノ曲全作品の連続演奏会をおこなった。1956年、日本人として初めてベルリンフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に出演した(指揮はヨーゼフ・カイルベルト)。
白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月… 白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月23日 - 2007年〈平成19年〉6月15日)は、日本の画家。本名は白鳥 九寿男(くすお、九壽男)。長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)出身。日本画家の伊東深水に師事し、美人画を中心に制作。晩年、脳梗塞を患いながらも制作を続け、「不屈の画家」と呼ばれた。 1912年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)滝原で農業を営む一家の長男として生まれる。生後、間もなくして母を失う。このとき母は23歳の若さであり、生前の写真は1枚も残っていない。1919年(大正8年)、小学校入学。1920年(大正9年)、父をも失う。当時の大里村立大里尋常小学校、現在の小諸市立水明小学校で伊東深水の美人画を目にし、母親の面影を見出したことで画家を志す。
西嶋 庄次郎(にしじま しょうじろう、1912年5月21日 … 西嶋 庄次郎(にしじま しょうじろう、1912年5月21日 - 2004年(平成16年)12月22日)は口腔解剖学者、大阪大学名誉教授。奈良県生駒郡出身。旧制・大阪府立高津中学校を経て大阪大学卒業。 1951年(昭和26年)に大阪大学に歯学部が設立された際、口腔解剖学講座として開設され、1951年(昭和26年)から1976年(昭和51年)まで初代主任教授を務めた。口腔解剖学講座は2000年(平成12年)の大学院部局化に伴い口腔分化発育情報学講座口腔解剖学第一教室となった。1985年(昭和60年)勲三等旭日中綬章受章。 1950年大阪大学医学博士、論文名は「歯牙硬組織缺損の法医学的研究 」。 2004年(平成16年)12月22日、老衰のため92歳で死去。