小林 與三次(こばやし よそじ、新字体:小林 与三次、191… 小林 與三次(こばやし よそじ、新字体:小林 与三次、1913年〈大正2年〉7月23日 - 1999年〈平成11年〉12月30日)は、日本の内務・自治官僚、実業家。自治省の設立に尽力したのちに下野。読売グループの要職を歴任した。正力松太郎は岳父。 正力家の土建資材を運ぶイカダ舟の船頭・小林助次郎の三男として、富山県大門町(現・射水市)に生まれる。 高岡中学校、第四高等学校を経て、1935年に東京帝国大学法学部独法科を卒業、東大在学中に、高等文官試験の司法科と行政科の両方に合格し、内務省に入省。後藤田正晴によれば、入省時の成績は抜群であったという。入省同期に参議院議員の原文兵衛、陸上幕僚長の山田正雄らがいる。
萩原 進(はぎわら すすむ、1913年〈大正2年〉7月23日… 萩原 進(はぎわら すすむ、1913年〈大正2年〉7月23日 - 1997年〈平成9年〉1月20日)は、日本の歴史学者。群馬県吾妻郡長野原町出身。群馬県の郷土史研究に従事。群馬県議会図書室長、前橋市立図書館長を歴任。 1913年(大正2年)、群馬県吾妻郡長野原町の農業兼雑貨商の父茂一・母いはの第三子(長男)として生まれる。1934年(昭和9年)群馬県師範学校を卒業。 群馬県内の小学校教諭として勤務し、1945年(昭和20年)吾妻郡長野原国民学校教頭。その間1943年(昭和18年)からは群馬県社寺兵事課史蹟主事をつとめる。 戦後は教職員不適格者指定を受け退職し、群馬県農業会に勤める。1948年(昭和23年)群馬県議会書記、翌年同図書室長に就任する。
秋本 正(あきもと ただし、1912年(大正元年)8月21日… 秋本 正(あきもと ただし、1912年(大正元年)8月21日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 兵庫県揖保郡に生まれる。明石中学校、第三高等学校を経て、1933年(昭和8年)4月、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、1935年(昭和10年)10月、高等試験行政科に合格。1936年(昭和11年)3月、同大を卒業し、台湾総督府警務局保安課に奉職する。1939年(昭和14年)7月、台南州新営郡守となり、府事務官警務局保安課勤務を経て、陸軍司政官に転出した。
菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年〈大正元年〉8月20… 菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年〈大正元年〉8月20日 - 1990年〈平成2年〉10月3日)は、日本の政治家(茨城県議会議員、同議長)、実業家、テロリスト。別名は小幡五朗。 茨城県那珂郡前渡村にて農業徳松の三男として生まれ、水戸勤王の遺風を学んで成長した。上京後は自動車の助手を経て岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)に進学。1929年(昭和4年)10月、同校業務課を卒業し、翌1930年(昭和5年)、東武東上線池袋駅に就職するつもりが、紅緑色盲のため鉄道業務に致命的であると判断されて就職できなかった。失意の中、大洗町の護国堂にいた井上日召のもとに通う。 1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮条約をめぐって統帥権干犯問題が起きると、日本国民党(委員長・寺田稲次郎、書記次長・鈴木善一)がその抗議行動のために結成しようとした決死隊に参加。
安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - … 安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - 1995年3月22日 )は日本の歯科医師、歯学者。 東京出身。1930年、旧制日本大学中学校(現・日本大学第一高等学校)卒業、1934年日本大学専門部歯科卒業。1964年、日本大学歯学部歯科放射線学講座第3代教授。1973年から1977年まで日本大学歯学部付属歯科病院長。 日本歯科放射線学会会長、総務理事、日本歯科医学会副会長などを歴任した。 1995年3月22日、心筋梗塞のため死去。
菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年8月20日 - 19… 菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年8月20日 - 1990年10月3日)は、日本の政治運動家、殺人者、テロリスト、超国家主義者、政治家。別名は小幡五朗。
松本 雅明(まつもと まさあき、1912年8月20日 - 1… 松本 雅明(まつもと まさあき、1912年8月20日 - 1993年12月29日)は、東洋史学者。学位は、文学博士(東京大学・1961年)。熊本大学名誉教授。1984年勲二等瑞宝章受章。 熊本県生まれ。1936年東京帝国大学文学部東洋史卒。1961年「詩経における新古の層および思惟展開の径路に関する研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。熊本大学法文学部助教授、文学部教授、1978年定年退官、名誉教授。 1984年勲二等瑞宝章を受章。
沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 199… 沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 1994年6月29日)は、日本の歴史学者、日本史学者。東京大学名誉教授(史料編纂所元所長)。洋学史、日蘭交渉史が専門で、日蘭学会理事長も務めた。 熊本県熊本市出身(出生地は和歌山県)。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1932年第五高等学校 (旧制)卒業、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。東京大学史料編纂所に入り、1954年助教授、1965年教授に就任し、1971年から1973年に所長を務める。1973年から1983年まで東洋大学文学部教授。そのほか、1980年から1983年に日蘭学会理事長。勲三等旭日中綬章受章。
多田 裕計(ただ ゆうけい、1912年8月18日 - 198… 多田 裕計(ただ ゆうけい、1912年8月18日 - 1980年7月8日)は、日本の小説家・俳人。福井県福井市出身。 旧制福井中学校、旧制第二早稲田高等学院、早稲田大学文学部仏文科卒業。横光利一に師事し、石塚友二らと交流する。高等学院時代は、八木義徳、辻亮一、中村八朗らと同人誌「黙示」を創刊。 1940年より上海へ渡り、上海中華映画に勤務、1941年、『大陸往来』に寄せた「長江デルタ」で第13回芥川賞受賞。 1945年福井に疎開するが空襲にあい、三国町(現坂井市)に移住し、三好達治らと交流を持つ。 1947年福井県社会教育委員を務め、福井県文化協議会の設立に参加。「蛇師」で大衆文芸懇話会賞佳作。
磯崎 叡(いそざき さとし、1912年8月16日 - 199… 磯崎 叡(いそざき さとし、1912年8月16日 - 1997年6月19日)は日本の鉄道官僚、第6代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1969年-1973年)。永井岩之丞の孫。 作家・三島由紀夫の父・平岡梓は従兄にあたる。 磯崎と親交があった作家の阿川弘之より命名されたニックネームは「ダッコちゃん」。 東京府東京市本郷区丸山町(現在の東京都文京区千石)で海軍の造船技官であった磯崎清吉と鐘(永井岩之丞二女)の次男として生まれる。名前は当時父が艤装に関わっていた巡洋戦艦『比叡』から一文字取られた。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業後、1935年、鉄道省に入省。
田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日… 田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日 - 1990年(平成2年)12月4日)は、日本の男子陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック金メダリスト。位階は正五位。 大阪府において出生。その後、父の郷里である山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に戻り、岩国尋常高等小・旧制岩国中学(山口県立岩国高校の前身)に進学。兄・田島元も三段跳の日本チャンピオンになったことのあるジャンパーで、旧制広島一中時代の織田幹雄と親交があり岩国中学に来てよく一緒に練習した。この兄と織田の影響で三段跳を始めた。 山口高校(山口大学の前身)を経て京都帝国大学経済学部(現京都大学)を卒業する。 1932年、ロサンゼルスオリンピックに出場し、走幅跳で6位入賞。
亀田 得治(かめだ とくじ、1912年〈大正元年〉8月14日… 亀田 得治(かめだ とくじ、1912年〈大正元年〉8月14日 - 1994年〈平成6年〉3月14日)は、日本の弁護士、政治家。北海道旭川市生まれ。日本社会党の参議院議員、日本社会党大阪府連合書記長、全国革新懇代表世話人を務めた。 生まれてすぐ、家族が石川県に引っ越したため、少年時代を金沢市で過ごす。金沢の第四高等学校に進学。後に日本社会党委員長となる成田知巳と同じクラスで、成績は1、2位を競い合った。2人とも東京帝国大学法学部に合格。社会運動を行っていた賀川豊彦と出会い、キリスト教の洗礼を受けた。賀川牧師のもとで、当時、治安維持法違反で保釈中だった岩本りえと出会い、結婚する。戦時中は弁護士として小作争議などを担当した。
倉林 育四郎(くらばやし いくしろう、1912年8月14日 … 倉林 育四郎(くらばやし いくしろう、1912年8月14日 - 没年不明 )は、日本の経営者。武田薬品工業社長を務めた。 埼玉県児玉郡児玉町出身。1937年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、同年に武田薬品工業に入社。1966年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1976年6月に副社長に就任し、1981年6月には社長に昇格した。武田一族以外では初の社長で、米国への工場進出などの国際化の推進とバイオテクノロジーの研究開発に力を入れた。1986年6月から相談役を務めた。 日本化学工業協会常務理事、関西化学工業協会常任理事、経済団体連合会評議員、関西経済連合会常任理事なども歴任した。 1986年4月には勲二等瑞宝章を受章した。
雀部 高雄(ささべ たかお、1912年8月14日 - 196… 雀部 高雄(ささべ たかお、1912年8月14日 - 1967年6月19日)は、日本の金属工学者。日本の製鉄技術の発展に尽力した。 1912年8月14日に東京で生まれる。東京帝国大学卒。八幡製鉄所を経て、1952年に千葉工業大学金属工学科教授に就任。1961年には東京大学生産技術研究所教授に就任。 1961年5月 東京大学 工学博士 論文は「塩基性平炉精錬に関する研究 」。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
関根 正雄(せきね まさお、1912年8月14日 - 200… 関根 正雄(せきね まさお、1912年8月14日 - 2000年9月9日)は、キリスト教無教会主義の伝道者、聖書学者。 1912年、東京で生まれた。東京帝国大学法学部および文学部で学んだ。大学在学中の18歳の時に内村聖書研究会のペテロ組に入会を許され、内村鑑三の薫陶を受けた。 大学卒業後、1939年から1945年までドイツに留学。旧約の神についての論文を提出して神学博士号を取得。 1949年、塚本虎二から独立し、キリスト教伝道に従事。1962年、学位論文『イスラエルの思想と言語:特にギリシアの思想、言語との対比における』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。1964年、東京教育大学教授に就いた。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。 神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港高等学校)在学中に甲子園に2回出場(春2回〔1929年、1930年〕)。チームの2連覇に一塁手として貢献。自身も1929年春の大会で、打撃賞と塁打賞を受賞した。第一神港商卒業後は慶應義塾大学に進むも中退し、立命館大学に転校して卒業。立命館大学時代のチームメイトに青柴憲一(後に巨人)、村川幸信(後に大東京)がいる。 1936年、名古屋軍の結成に参加し、そのまま入団。堅実な打撃と守備で、草創期の名古屋軍を支えた。4番高橋吉雄の後の5番打者を打つことが多かった。
本山 亨(もとやま とおる、1912年(大正元年)8月11日… 本山 亨(もとやま とおる、1912年(大正元年)8月11日 - 2002年(平成14年)4月2日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。新潟県出身。 1936年(昭和11年)に京都帝国大学法科を卒業。すぐに弁護士となり、以来名古屋で弁護士生活を送り、名古屋弁護士会会長も経験した。保守・タカ派といわれ、愛知県人事委員長の時は数千人に及ぶ春闘の処分強行を主張し、民事の企業代理人として女子の若年制では「生理休暇も取り上げ、深夜労働もさせるか、労働基本法も見直しや必要」とも強調していた。 1977年(昭和52年)8月26日に最高裁判事に就任。日弁連の推薦ではなく、藤林益三最高裁長官による意向によって決定された(ただし、この機会以前に日弁連から最高裁判事候補として推薦を受けた経験はある)。
夢 虹二(ゆめ こうじ、1912年(大正元年)8月11日 -… 夢 虹二(ゆめ こうじ、1912年(大正元年)8月11日 - 1989年(平成元年)7月12日)は、埼玉県加須市出身の作詞家。主に童謡や歌謡曲の作詞を手がけた。本名「須永孝一郎」。 日本大学商学科中退。 古本で1円で買った北原白秋全集を読んだことが、作詞家を志すきっかけとなった。1955年にキングレコードの専属となり、代表作には、童謡「すうじのうた」「とんぼの中にぼくがいる」「北風こぞう」、歌謡曲「まつの木小唄」「ハマの女」、新民謡「わらび摘み唄」などがある。また、18年間日本童謡協会事務局長を務めた。1972年には「とんぼの中にぼくがいる」で日本作詩大賞童謡賞、1988年には第18回日本童謡賞特別賞を受賞。
守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10… 守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10日 - 2003年(平成15年)12月22日)は、岐阜県大垣市出身の日本画家。本名は守屋 正(もりや ただし)。元愛知県立芸術大学教授。文化功労者。文化勲章受章。 1912年(大正元年)、岐阜県大垣市船町の味噌たまり製造元「四代目孫八」の四男(11人兄弟の8番目)として生まれる。生後100日目、分家守屋貞吉(大垣市桐ヶ崎町の米穀商)へ養子に出される。1930年(昭和5年)、岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業。上京し、同郷の前田青邨に師事。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科に入学。在学中に特待生となる。
佐藤 文樹(さとう ふみき、1912年8月10日 - 198… 佐藤 文樹(さとう ふみき、1912年8月10日 - 1987年6月27日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。九州大学名誉教授。18世紀フランス文学が専門。 東京府東京市下谷区(現東京都台東区)生まれ。1937年東京帝国大学文学部仏文科卒、陸軍経理学校経理部嘱託。1938年東調布高等女学校教諭。1939年東大付属図書館嘱託、1944年陸軍通訳官。1948年東洋大学教授。1949年九州大学助教授、1955年教授。1962年「ペイザン・バルブニユとタンザイとネアダルネの初版刊行年」で東大文学博士。1963 - 1964年フランス政府招聘教授、第1回仏蘭西派遣教授団団長として渡仏。1968年九州大学退官、上智大学文学部教授。
北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 19… 北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。東京都立大学名誉教授。専門は近世日本史。 新潟県柏崎市生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、松本高等学校文科乙類を卒業 し、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「徳川幕府直領の研究」。近世政治経済史を専攻し、1962年に「江戸幕府の権力構造」により東北大学から文学博士の学位を授与される。 1950年新潟大学助教授、1951年東京都立大学 (1949-2011)助教授、1959年同大学教授、同大学附属図書館長、1977年定年退官後は立正大学教授を務め、1983年退職。専門書のほか、一般向けの著書・編著を多く著した。
長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日 … 長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日 - 1978年(昭和53年)10月24日)は、広島市建設局長、広島市助役、広島ステーションビル社長を歴任した日本の都市計画家。造園家。日本公園緑地協会で沖縄国際海洋博海浜公園基本計画委員会委員長、広島市河岸緑地整備計画設計協議会委委員も委嘱。設計策定にあたった。豪放な性格で酒を好み周囲から慕われていたという。 父親は戦前日本の植物学者で学習院大学教授、東京海上火災保険社長、貴族院議員を務めた長松篤棐で、長男として生まれる。妻は古市六三の長女。母方祖父に古市公威。 学習院を経て1936年(昭和11年)東京帝国大学農学部を卒業し、内務省神社局に勤める。
鏡島 元隆(かがみしま げんりゅう、1912年8月6日 - … 鏡島 元隆(かがみしま げんりゅう、1912年8月6日 - 2001年2月19日)は、日本の仏教学者。道元・曹洞禅研究を研究。駒澤大学名誉教授。 静岡県生まれ。1935年、駒澤大学仏教学科卒。1961年、「道元禅師と引用経録の研究」で駒澤大学より文学博士の学位を取得。1942年駒澤大学予科講師、1949年佛教学部助教授、54年教授、総長を務め、1993年に退任、名誉教授。
上杉 正一郎(うえうぎ しょういちろう、1912年8月4日 … 上杉 正一郎(うえうぎ しょういちろう、1912年8月4日 - 1990年)は、日本の統計学者、マルクス経済学者。長く東京経済大学で教鞭を執り、同大学名誉教授となった。 上杉は、第二次世界大戦後の経済学界において、「社会統計学派の指導的理論家」であったとされる。 東京に生まれる。父・上杉慎吉は、東京帝国大学法学部教授で、天皇主権説に立つ憲法学者であった。なお、弟・上杉重二郎は、長じて労働運動史の研究者となり、北海道大学教授などを務めた。 1930年に第一高等学校に入学し、1933年に東京帝国大学経済学部に進んだ。学生時代の上杉は、日本共産青年同盟(共青)に参加し、滝川事件に関連して1934年と1935年の2度、検挙勾留された。
賀屋正雄(かや まさお、1912年8月4日 - 1994年1… 賀屋正雄(かや まさお、1912年8月4日 - 1994年1月27日)は日本の大蔵官僚。総理府内閣総理大臣官房審議室参事官、総理府内閣総理大臣官房審議室長、理財局次長、管財局長、為替局長、日本開発銀行理事、日本銀行理事、商工組合中央金庫副理事長、 山一證券投資信託委託会社社長などを務めた。 東京府出身。東京帝国大学法学部法律学科(英法)在学中に高等試験行政科を合格。東京帝大法学部法律学科(英法)卒業。1935年 大蔵省入省。大臣官房文書課属。 1946年7月 理財局国庫課長。1949年3月 外資委員会事務局次長。同年9月 外資委員会事務局長。1953年11月2日 銀行局検査部長。1955年5月 総理府内閣総理大臣官房審議室参事官。
菅原 独去(すがはら どっこ、1912年〈大正元年〉8月4日… 菅原 独去(すがはら どっこ、1912年〈大正元年〉8月4日 - 1990年〈平成2年〉12月20日)は、日本の俳人・僧侶。境港市光祐寺住職。 本名は真哲(しんてつ)。鳥取県倉吉市生まれ。昭和9年、仏教専門学校(現佛教大学)卒業。1935年(昭和10年)より句作をはじめ、1937年(昭和12年)に『ホトトギス』に初入選。その後、高浜虚子に師事し、1954年(昭和29年)よりホトトギス同人となる。1963年(昭和38年)より、句誌『城』の選者を務めた。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
根上 博(ねがみ ひろし、1912年8月3日 - 1980年… 根上 博(ねがみ ひろし、1912年8月3日 - 1980年6月7日)は、北海道余市郡余市町出身の日本の競泳選手。立教大学卒業。1930年代に活躍し、1936年ベルリンオリンピックで入賞した。 余市町大川尋常小学校(現 余市町立大川小学校)時代に本格的に水泳を始め、旧制余市中学校(現・北海道余市紅志高等学校)時代から競泳選手となり、全国大会に出場するが、予選で敗退している。 1931年に立教大学に入学してから徐々に力をつけ、1934年の第10回日本選手権水泳競技大会では男子1500m自由形にて19分16秒2で優勝、そのレースの1000m途中計時で12分41秒8の世界新記録を樹立すると、同年の第十三回全國學生水上競技大會では400m及び800mの自由形で牧野正蔵(早稲田大学)と激しく鍔迫り合いを演じ、2種目とも牧野に及ばず2位となるも800mでは10分8秒4のタイムを出し、10分1秒2を出した牧野とともに世界新記録を更新した。
飯沼 正明(いいぬま まさあき、1912年8月2日 - 19… 飯沼 正明(いいぬま まさあき、1912年8月2日 - 1941年12月11日)は日本のパイロット。1937年純国産機、神風号によって東京-ロンドン間の飛行に成功した。 長野県南安曇郡南穂高村細萱(現・安曇野市)に、飯沼文五郎の五男として生まれた。飯沼家は庄屋も務めた豪農だった。3歳で母と死別し、以後祖母に育てられる。 1924年(大正13年)、長谷川清澄(豊科町出身で日本初の一等操縦士)がサルムソン 2Aに搭乗して各務原飛行場から松本市に飛行している途中に南穂高村上空で旋回飛行をおこなった光景を小学校の教室から目撃し、飛行機への憧れを抱く。 1931年(昭和6年)3月、旧制長野県松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を卒業し、第11期逓信省陸軍委託航空機操縦生として所沢陸軍飛行学校に入学した。
佐伯 正一(さえき しょういち、1912年(大正元年)8月2… 佐伯 正一(さえき しょういち、1912年(大正元年)8月2日 - 2007年(平成19年)9月)は、日本の教育学者。京都教育大学名誉教授。 島根県生まれ。1942年東京文理科大学教育学科卒。1965年「産業革命期イギリスにおける民衆教育発展の実態とその問題点についての研究」で東京教育大学より教育学博士の学位を取得。奈良学芸大学助教授、京都学芸大学助教授、校名変更で京都教育大学教授、1976年定年退官、名誉教授、関西外国語大学教授、1983年退職。1985年勲三等旭日中綬章受勲。2007年9月死去、95歳。 長男は思想史学者の佐伯啓思。
青野 平義(あおの ひらよし、1912年8月2日 - 197… 青野 平義(あおの ひらよし、1912年8月2日 - 1974年12月8日)は、日本の俳優。本名は青野 元太郎。旧芸名に里村 元春、青野 太郎。 1912年(大正元年)8月2日、東京府東京市麻布区六本木(現在の東京都港区六本木)に生まれる。生家は老舗和菓子屋「青野総本舗」で、店の人気商品「鶯もち」も「楽屋でも汚さず食べられる菓子を」と青野が提案したことで作られた。 慶応義塾商工部を中退後の1931年(昭和6年)、劇団自由舞台に入団し『どん底』で初舞台。その後、家業を継ぐが舞台への情熱が忘れられず、1938年(昭和13年)に文学座演劇研究所に第1期生として入所する。卒業後は里村元春の芸名で『若きハイデルベルヒ』『大寺学校』などに出演し、文学座の中堅俳優として活躍した。
清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 19… 清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 1989年7月25日)は、日本の柔道家。 長野県東筑摩郡島立村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、日本体育会体操学校卒業。昭和9年(1934年)母校の体操学校に奉職し、同18年(1943年)教授に就任。同13年(1938年)から慶應義塾大学柔道部師範を兼務。同20年(1945年)から同25年(1950年)まで帰農していたが、同26年(1951年)東京大学講師、慶應義塾大学柔道部師範に復職。同43年(1968年)日本体育大学武道科特任教授、同48年(1973年)学長に就任し、また、柔道整復師養成施設設立を理事会に提案し、日体柔整専門学校初代校長に就任した。
妣田 圭子(ひだ けいこ、1912年〈大正元年〉8月1日 -… 妣田 圭子(ひだ けいこ、1912年〈大正元年〉8月1日 - 2011年〈平成23年〉4月24日)は、日本の芸術家。日本画「草絵」の創始者。本名は梶本 喜久代。 1912年(大正元年)大阪府生まれ。1930年(昭和5年)大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)卒業、大阪毎日新聞(現・毎日新聞大阪本社)学芸部の嘱託になる。1949年随心院(真言宗善通寺派大本山)で得度。和紙を切り台紙に貼って作り上げる日本画『草絵』を創始した。 以後、NHK学園も含め各地で教室を持ち、世界でも草絵を教え個展を開催。1978年(昭和53年)アトリエを山梨県北東部の山間地の牧丘町(現・山梨市)に構え、1982年(昭和57年)から定住。
花井 正八(はない まさや、1912年8月1日 - 1995… 花井 正八(はない まさや、1912年8月1日 - 1995年6月10日)は、日本の実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。旧姓は山本(やまもと)。 トヨタ自動車工業株式会社会長(第4代)、日本高速通信株式会社会長、日本移動通信株式会社会長、日本経営者団体連盟副会長などを歴任した。 愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)出身。岡崎市長を3期務めた竹内京治は叔父。音羽町の旧家花井家の養子となる。 豊橋市立商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)、大分高等商業学校(現・大分大学)を経て、1938年に神戸商業大学(現・神戸大学)卒業。トヨタ自動車工業に入社。入社にあたり、花井家伝来の田畑すべてを売却、全財産を投げうって、勤め先のトヨタ自動車工業の株を大量に買う。
大護 八郎(だいご はちろう、1912年8月1日 - 200… 大護 八郎(だいご はちろう、1912年8月1日 - 2008年)は、日本の郷土史家。 埼玉県入間郡勝呂村(現坂戸市)生まれ。1932年に埼玉県師範学校卒業し、同年3月から所沢小学校訓導となり、また1943年4月国際学友会日本語学校教授となる。1945年に日本大学文理学部高師地歴科卒業。1945年5月13日、埼玉県立川越高等学校で西洋史と社会科の教員となる。その後、1954年埼玉県教育局社会教育課文化財保護係長、1961年同課課長補佐を経て、1964年から埼玉県立文化会館館長などを経て、1974年から埼玉県立博物館館長。埼玉県文化財保護審議委員なども歴任。 専門は考古学・民俗学、特に石造文化財研究。
戸上 研之(とがみ かねゆき/けんし、1912年8月1日 -… 戸上 研之(とがみ かねゆき/けんし、1912年8月1日 - 1986年)は、日本の陸上競技(跳躍)選手。1936年ベルリンオリンピックで男子走幅跳に出場した。 現在の熊本県山鹿市石(旧鹿本郡八幡村)出身。宇土中学校(現在の熊本県立宇土中学校・高等学校)に学び、同窓の谷口睦生(短距離走、八代出身)とともに関西大学に進学した。 1936年ベルリンオリンピックでは日本代表に選ばれ、走幅跳で出場。記録は6.18mで、予選を突破できなかった。 1937年(昭和12年)1月から5月にかけ、村社講平(中央大学)とともにニュージーランドに遠征。クライストチャーチにおいて三段跳で15m58を記録した(当時のニュージーランド記録を越える記録)。
小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 19… 小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 1992年8月8日)は、日本のイベントプロデューサー。兵庫県姫路市竜野町出身。 旧制姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)→早稲田第二高等学院を経て、1935年に早稲田大学卒業。その後1年ほど松竹大船撮影所付属の脚本研究所に入るが、結局松竹を退社して大阪毎日新聞社に入社する。ただ毎日新聞では事業部に配属されたため、第二次世界大戦末期の一時期を除いて新聞記者として働いた時期はほとんどない。毎日新聞社主催の音楽コンクールヴァイオリン部門で第1位となった辻久子のリサイタルを企画した。 1946年に毎日新聞が紙不足の状況下、自社のダミーとして『新大阪』を発行する新大阪新聞社を設立すると、毎日新聞から同社に派遣される形で同社編集局長に就任。
木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2… 木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2006年4月3日)は、日本の植物学者・科学史家。東京大学名誉教授。 1912年、山口県山口市生まれ。旧制長崎中学、旧制山口高校を経て、東京帝国大学理学部に進んだ。大学では中井猛之進に師事。卒業後の1938年、東京帝国大学副手に着任。1939年、同大学助手に昇進。1944年、学位論文『おとぎりそう科ノ研究』を提出して理学博士号を取得。 太平洋戦争後の1949年より、東京大学教養学部生物学科助教授。1960年に同教授に昇進。1973年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は中央大学教授として教鞭をとった。学界では、日本植物分類学会の創設に尽力し、1977年から1980年まで会長を務めた。
中村 立行(なかむら りっこう、1912年7月31日 - 1… 中村 立行(なかむら りっこう、1912年7月31日 - 1995年3月30日)は日本の写真家である。本名は中村立行(なかむらたつゆき)。 神戸市出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業後小学校の図画の先生をしていて、「毎晩1升近く飲んでいた酒を減らせれば」と夜できる道楽を探していて、飲み屋で誰かが借金の支払いとして置いて行った六櫻社(コニカを経て現コニカミノルタ)製のパーレットオプターF6.3付きを安価に入手したのが写真を始めたきっかけになった。ただ押し入れで現像をするようになっても押し入れにコップを持ち込み酒量は減らなかったという。 パーレットはヴェスト・ポケット・コダックのコピー品で撮影範囲を見当で決めなければならず構図を考えるのが難しかったため、厳密に構図を決められる二眼レフカメラのローライが欲しくなったが、月給が60円の時代に数百円したため高価で到底購入できず、1943年末にミノルタ(現コニカミノルタ)製のミノルタフレックスI型プロマーF3.5付きを購入した。
盛田 嘉徳(もりた よしのり、1912年7月30日 - 19… 盛田 嘉徳(もりた よしのり、1912年7月30日 - 1981年7月2日)は、芸能研究者、同和教育者・運動家。 富山県出身。1937年早稲田大学文学部国文科卒。大阪学芸大学助教授、1959年大阪教育大学教授。1976年「中世賤民と雜芸能の研究」で早大文学博士。1978年大阪教育大を定年退官、名誉教授。中世芸能史が専門。部落解放同盟の前身、解放委員会に創立当初から参画し、大阪府をはじめ各地方自治体の同和対策審議会委員を務める。同和教育の研究と実践を進め、1953年全国同和教育研究協議会幹事。1968年部落解放研究所(現部落解放・人権研究所)副理事長。1980年松本治一郎賞受賞。
高木 作之(たかぎ さくゆき、1912年(明治45年)7月2… 高木 作之(たかぎ さくゆき、1912年(明治45年)7月29日 - 2003年(平成15年)2月14日)は日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は陸軍で中佐、航空自衛隊では空将。陸軍中将久納誠一(18期)は義父、陸軍少将小藤恵(20期)は義理の伯父にあたる。 1912年(明治45年)7月29日、愛知県で農家高木作芳の次男として生まれた。翌日には明治天皇が崩御している。 愛知県明倫中学校を経て、1929年(昭和4年)4月に陸軍士官学校予科(市ヶ谷本村町)、1931年(昭和6年)に陸軍士官学校本科に入校、1933年(昭和8年)7月に卒業する(陸士45期騎兵科)。卒業序列は皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて10番/335名。
小野 豊明(おの とよあき、1912年7月29日 - 没年不… 小野 豊明(おの とよあき、1912年7月29日 - 没年不詳)は、日本の実業家、経営学者。 現在の愛媛県新居浜市出身。1936年東京帝国大学法学部法律・政治学科卒。79年「日本企業の組織戦略」で上智大学経済学博士。38年王子製紙入社。49年十条製紙総務部副部長、総務部長、管理部長、小倉工場長、人事室長、取締役、十条キンバリー取締役兼任、常務取締役、フィンレーフォレスト・インダストリーズ取締役兼任、1973年上智大学経済学部経営学科教授。77年経済学部長、1979年産業能率大学経営情報学部教授。カトリック教徒。妻は山路一善の次女。
鈴木 三郎(すずき さぶろう、1912年7月28日 - 19… 鈴木 三郎(すずき さぶろう、1912年7月28日 - 1997年9月23日)は、日本の哲学者。横浜市立大学名誉教授。 広島県出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒。1961年「ヤスパースにおける実存倫理学の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。横浜大学[疑問点 – ノート]助教授、校名変更で横浜市立大学教授を務め、1978年定年退官、名誉教授。 1950年12月、草薙正夫・武藤光朗・金子武蔵らとヤスパース協会創立のための準備会を開き、翌年2月23日(2月23日はヤスパースの誕生日)発足、理事長を務めた。
早川清(はやかわ きよし、1912年7月28日 - 1993… 早川清(はやかわ きよし、1912年7月28日 - 1993年7月9日)は、早川書房の創業者、社長。東京府(現:東京都)生まれ。 専修大学経済学部卒業。大学時代は相撲部に参加。海音寺潮五郎、戸川貞雄主催の同人誌『文学建設』に、黒沼健、乾信一郎らとともに参加。 1935年に早川書房を設立。1945年8月に正式に創業し、文芸書、演劇書を中心として出版を始め、1947年演劇雑誌『悲劇喜劇』を創刊、1952年、株式会社に改組し社長に就任する。 海外ミステリーの翻訳に力を入れ、1953年よりハヤカワ・ポケット・ミステリを創刊し今日まで続いている。1956年『エラリイ・クイーンズ・ミステリマガジン』を創刊、1966年より『ミステリマガジン』として続いている。
里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 19… 里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 1974年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家のひとり。 熊谷中学校出身。浦和画家の須田剋太と同じく光風会に所属し、浦和市(現・さいたま市南区)の別所沼畔にアトリエを構え、須田のアトリエと隣り合っていた。別所沼対岸(稲荷台)の林倭衛のアトリエにも須田としばしば訪れた。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。新文展に初入選で特選を受賞した。県北美術家協会会長、熊谷市教育委員長などを歴任し、文化の振興にも貢献した。作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。
中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 196… 中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 1964年6月5日)は、日本の数学者(環論・表現論)。名古屋大学教授在職中に逝去。 東京生まれ。1935年、東京帝国大学を卒業。1937年から2年間、プリンストン高等研究所に滞在。1941年、大阪帝国大学より博士号を取得。1944年、名古屋大学教授。1954年に日本学士院賞を受賞。1963年日本学士院会員。名古屋数学雑誌(NAGOYA MATHEMATICAL JOURNAL)の創刊、編集に尽力した。代数学における中山の補題で有名。1964年に結核のため死去。晩年、理学部A館4階の研究室まであえぎつつ階段を昇る博士のために置かれたという「中山先生の椅子」の話はいまでも語り継がれている。
高橋 庄次郎(たかはし しょうじろう、1912年(明治45年… 高橋 庄次郎(たかはし しょうじろう、1912年(明治45年)7月23日 - 1995年(平成7年)3月25日)は、日本の政治家。埼玉県議会議長、埼玉県蕨市長。 1912年(明治45年)7月23日、埼玉県に生まれる。1937年(昭和12年)に法政大学を卒業する。 埼玉県蕨町助役、町長を経て、蕨市長に就任する。埼玉県議会議員に当選し、1971年(昭和46年)に副議長、1977年(昭和52年)に議長に就任する。この間、1959年の第5回参議院議員通常選挙に埼玉選挙区から自由民主党公認で立候補して落選した。 1995年(平成7年)3月25日に死去、82歳。 蕨町の青年団長時代に、青年祭(のちに成年式)を主唱・企画し、1946年11月22日に実施する。
権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、19… 権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、1911年8月22日 - 2001年4月3日)は、在日本大韓民国居留民団(現・在日本大韓民国民団)中央団長。在日本大韓民国居留民団顧問。満州国で裁判官、日本で弁護士、韓国で政治家としても活動していた。第8・9代大韓民国国会議員。日本名は権藤嘉郎で、権赫周(권혁주)の名前も使用した。 独立運動家・映画監督の権赫朝は弟。俳優のイム・ドンジン(朝鮮語版)は姪の夫(弟の赫朝の娘婿)。 - 권일(權逸)[リンク切れ] - 国史編纂委員会
半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22… 半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22日 - 1948年(昭和23年)10月21日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は中尉。黒岩利雄とならび、単機格闘戦の名手と謳われた撃墜王である。 福岡県久留米市に生まれる。1928年(昭和3年)、海軍を志し佐世保海兵団入団。艦船勤務を経て1932年(昭和7年)10月、第19期操縦練習生となる。同期生に磯崎千利、高橋憲一、田中平、五島一平。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、戦闘機専修。空母「龍驤」飛行機隊に配属される。 その後、大村に転属。在任中、愛国号献納式典で祝賀飛行に参加した。当時部下だった田中国義はその練習中、編隊スローロール等で苦労していたが、半田機は「定位置を微動だにしない、ついて行くのに汗をかいた」と回想する。
小林 正(こばやし ただし、1911年8月21日 - 197… 小林 正(こばやし ただし、1911年8月21日 - 1975年3月30日)は、日本のフランス文学・比較文学者。東京大学名誉教授。 満州・旅順生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒、1942年東京外国語学校教授、1954年東京大学仏文科助教授。スタンダールが専門で、1962年「『赤と黒』成立過程の研究」で文学博士。 1963年教授、また比較文学講座でも授業を担当し、文学部の西洋近代語近代文学専攻の創設に尽力した。1972年定年退官し名誉教授、同年より成城大学教授。 日本比較文学会理事、東京日仏会館常務理事などを歴任。レジオン・ドヌール勲章を授与された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。