津川 主一(つがわ しゅいち、1896年11月16日 - 1… 津川 主一(つがわ しゅいち、1896年11月16日 - 1971年5月3日)は、日本基督教団の牧師、教会音楽家。 1896年に愛知県名古屋市に生まれる。旧制名古屋中学校(現:名古屋中学校・高等学校)、関西学院神学部を卒業して、東京麻布美普教会の牧師に就任する。 牧師を辞めて、合唱運動に後半生をささげた。自由学園、恵泉女学園、青山学院神学部、東京YMCAなどの講師をつとめていた。東京オラトリオ、横浜オラトリオ、仙台オラトリオ、東京シンフォニック・コーラス、東京バッハ・ヘンデル協会などを創設して、指揮者を務めた。また、全日本合唱連盟の常任理事(1956年~66年)・名誉会員(1970年)、東京都合唱連盟の理事長(1956~57年)を務めた。
許斐 儀一郎(このみ ぎいちろう、1896年11月16日 -… 許斐 儀一郎(このみ ぎいちろう、1896年11月16日 - 1951年)は、日本戦前期の前衛写真家。 福岡市船町(現・中央区舞鶴)に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、慶應義塾大学に学ぶが、結核療養のため中退し帰郷。療養中は古美術や絵画に親しむが、やがて写真にも興味を持つようになった。 快復後、実家の酒造業・許斐醸造所(のちの花関酒造)を手伝いながら撮影に没頭し、1934年頃に筑紫カメラクラブに入会。1939年には、高橋渡、久野久らと、前衛美術グループ「ソシエテ・イルフ」を結成し、写真雑誌などに作品を発表した。 身近のものを題材にとりながら、被写体の造形的な美を表現するのに優れ、戦前における前衛写真の代表的な作家として知られる。
坂 静雄(ばん しずお、1896年11月16日 - 1989… 坂 静雄(ばん しずお、1896年11月16日 - 1989年10月13日)は、日本の建築構造工学者、構造家。京都大学名誉教授。専門は鉄筋コンクリート工学。東京出身。 1921年東京帝国大学工科大学建築学科卒業。1922年4月京都帝国大学工学部助教授に就任。1928年工学博士。1933年教授に就任。1950年から神戸大学教授を兼任。1959年11月定年退官、名誉教授。 京大工学部の建築構造学講座を担当した。戦中や戦後すぐの時期には社寺建築や木造曲面屋根の研究報告を行っている。シェル構造の理論を広く国内に紹介した。また、建築分野で初めてプレストレストコンクリート技術の設計と施工の全領域を詳述した。
渡辺 寧(わたなべ やすし、1896年11月15日 - 19… 渡辺 寧(わたなべ やすし、1896年11月15日 - 1976年11月17日)は、日本の電子工学者。東北大学名誉教授、静岡大学名誉教授。茨城県出身。 日本における電子工学の先駆者で、日本でのトランジスタ研究の最初期の研究を統括した。他に長距離電話中継用の独自の増幅機や溶接制御用の放電管等を発明した。文化功労者。 一つの線で同時に13局と送信通話のできる電話機や水中電話等を開発した。またPINダイオードの開発でも指導的役割を担った。
大下 宇陀児(おおした うだる、1896年11月15日 - … 大下 宇陀児(おおした うだる、1896年11月15日 - 1966年8月11日)は日本の探偵小説作家。本名、木下龍夫。別名、XYZ。 1896年(明治29年)、長野県上伊那郡中箕輪村(現箕輪町)に父・甚五郎、母・やすのもとに生まれる。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、第一高等学校へ進む。1921年(大正10年)、九州帝国大学](現在の九州大学)工学部応用化学科を卒業。農商務省臨時窒素研究所に勤務。同僚の甲賀三郎の探偵小説文壇における活躍に触発されて探偵小説を書き始めた。 1925年(大正14年)4月、博文館の探偵雑誌『新青年』誌上で、探偵小説『金口の巻煙草』でデビュー。 探偵小説だけでなくSF小説にも関心を示し、「空中国の大犯罪」や『ニッポン遺跡』といった作品を執筆し、星新一の文壇デビューに一役買った。
高橋 広江(たかはし ひろえ、男性、1896年11月15日 … 高橋 広江(たかはし ひろえ、男性、1896年11月15日 - 1952年8月20日)は、昭和期のフランス文学者。 岐阜県生まれ。1926年慶應義塾大学仏文科卒。慶大予科教授を経てフランス領インドシナに渡る。戦後は岐阜大学教授などを歴任。1930年(昭和5年)より『三田文学』に小説、フランス文学に関する評論などを発表した。シャルル・ボードレールやポール・ヴァレリーの翻訳を手がけた。
高ノ山 三郎(たかのやま さぶろう、1896年11月15日 … 高ノ山 三郎(たかのやま さぶろう、1896年11月15日 - 没年不明)は、和歌山県和歌山市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は宮尾 三郎。176cm、94kg。最高位は西前頭6枚目。得意技は右四つ、寄り、投げ。 早稲田実業高校に在学中、自ら角界に飛び込んだインテリ力士。 1912年5月初土俵、1919年5月十両昇進。1922年1月入幕を果たす。病気療養中に家族とともに関東大震災に遭遇し、本人以外の家族は全員死亡したため、悲嘆に暮れてしまい、1924年1月場所前に27歳の若さで廃業した。被災当時、義両親、二人の義姉、妻と二人の子供がいたが、妻は翌月に第三子の出産を控えていたという。 廃業後は家族の冥福を祈るため、高野山で出家得度を受け、満州にいる兄の元に身を寄せ、その後、四国巡礼のお遍路さんになったというが、その後の消息は不明。
岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13… 岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、農商務・商工官僚。1957年から1960年まで内閣総理大臣(第56・57代)を務めた。位階勲等は正二位大勲位。出生名は佐藤 信介(さとう のぶすけ)。 他満洲国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(10期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、皇學館大学総長(第2代)を歴任した。東洋パルプ、日本再建連盟の会長も務めた。A級戦犯被疑者として収監されるが、不起訴となったのち米国CIA(中央情報局)の協力者として活動し、戦後にも権力を得た。
牧野 信一(まきの しんいち、1896年〈明治29年〉11月… 牧野 信一(まきの しんいち、1896年〈明治29年〉11月12日 - 1936年〈昭和11年〉3月24日)は、日本の小説家。神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身。 自然主義的な私小説の傍流としてみなされることが多く、17年間の作家生活の中で珠玉の短編十数編を残して早逝した「マイナー・ポエット」といわれている。「ギリシャ牧野」とも呼ばれた中期の幻想的な作品で新境地を拓いたが、小田原の生家で悲劇的な最期(縊死自殺)を遂げた。享年39歳。 牧野信一は、決して大作家とはいえない一詩人的な作家ではあるが、その「内発的な自我破り、想像力の開放、分裂に処するパロディの方法の発見」などは文学史的には重要な意味があると磯貝英夫は考察し、その後継者的な作家として、井伏鱒二、坂口安吾、石川淳、太宰治らの名を挙げている。
後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年〈明治29年〉11月… 後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年〈明治29年〉11月12日 - 1928年〈昭和3年〉2月29日)は、日本の航空黎明期の民間パイロット。一等操縦士・一等飛行士免許の取得、航空機による旅客輸送、日本一周飛行などにおいて日本初を記録したが、太平洋横断無着陸飛行計画の訓練中に墜落死している。 1896年(明治29年)、宮崎県延岡市南町で裕福な商家の四男に生まれる。幼少期より機械に関心を持ち、宮崎県立延岡中学校(現:宮崎県立延岡高等学校)に入るころには蒸気機関つきの精米機や、水上自転車を製作した。航空機に関心を持つようになったのもこの頃という。 1914年(大正3年)、延岡中学校卒業後に上京、三井物産の自動車部門(ヤナセの前身)で無給の工員として働くが、飛行士白戸栄之助に出会ってその助手となり、複葉水上飛行機・白戸式「巌号」を完成させる。
浅香 末起(あさか すえき、1896年11月10日 - 19… 浅香 末起(あさか すえき、1896年11月10日 - 1971年)は、日本の植民政策学者。 福岡藩士族徳島徳の四男として福岡県に生まれる。1914年福岡県立中学修猷館、1917年第二高等学校を経て、1921年3月京都帝国大学経済学部を卒業。京大在学中に浅香家に迎えられ結婚し、浅香に改姓した。 1921年4月日本銀行に入行するが、研究者を志し、1923年2月台北高等商業学校(現・国立台湾大学管理学院)講師に就任、1924年5月同教授に昇任する。1931年2月大阪商科大学(現・大阪市立大学)助教授に転じ、1933年3月同教授に昇任する。1935年10月から1年間、植民政策研究のため欧米に留学し、1941年7月より1944年9月まで、大阪商科大学に在籍したまま外務省事務嘱託を務める。
芦部 啓太郎(あしべ けいたろう、1896年(明治29年)1… 芦部 啓太郎(あしべ けいたろう、1896年(明治29年)11月9日 - 1986年(昭和61年)2月25日)は、大正末から昭和期の政治家、教育者。長野県駒ヶ根市長(初代)。長男は芦部信喜(憲法学者)。 長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)で、芦部喜一郎、きくよ の四男として生まれた。1919年(大正8年)北海道帝国大学附属水産専門部(現水産学部)卒業後、三菱商事に入社。後に帰郷し、1923年(大正12年)赤穂公民実業学校(現長野県赤穂高等学校)の教諭に転じ、1938年(昭和13年)同校長に就任し1948年(昭和23年)まで在任。1948年(昭和23年)赤穂信用組合(現アルプス中央信用金庫)を設立して専務理事に就任し、1951年(昭和26年)同理事長となり1979年(昭和54年)まで在任した。
小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)1… 小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)11月9日 - 1963年(昭和38年)1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、陸軍参与官、秋田県会議員、秋田県仙北郡西仙北町長、強首村長。 秋田県仙北郡強首村(のち西仙北町を経て、現在の大仙市)出身。早稲田大学専門部政治経済科卒業。陸軍に入り、主計少尉となる。除隊後、帰郷し、強首村議、同村長、同農会長を経て、秋田県議、同参事会員となる。1932年(昭和7年)秋田2区(当時)から立憲政友会公認で立候補し、初当選する。以後、4期連続当選。この間、阿部内閣で陸軍参与官を務めた。太平洋戦争により1943年(昭和18年)に応召されたが、終戦後の1945年(昭和20年)9月に復職した。
東條 猛(とうじょう たけし、1896年11月9日 - 没年… 東條 猛(とうじょう たけし、1896年11月9日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新漢字表記東条 猛、本名竹内 節(たけうち たかし)。新派出身であったが、時代劇にも現代劇にも出演、マキノ・プロダクション、大都映画の作品の脇を固めた助演俳優として知られる。 1896年(明治29年)11月9日、兵庫県印南郡志方村(現在の同県加古川市志方町)に生まれる。 旧制小学校卒業後の満13歳のころ、1910年(明治43年)、壮士芝居出身の縣妻吉(県妻吉)の一座に参加、大阪・道頓堀の朝日座で新派俳優としてデビューする。その後、満19歳となった1926年(大正15年)、京都の日活大将軍撮影所に入社、同年10月に各社競作した『鳴門秘帖』等に出演し、やがて同社を退社して、松竹下加茂撮影所に移籍する。
今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 19… 今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 1981年5月5日)は、日本の画家、童話作家、美術史家、林学者。北海道大学名誉教授。北海道大学では森林気象学関連の研究の他、新島善直の森林美学を継承したと評されている。 画家としては「道展」に創立当時から関わり、1974年には北海道美術協会会長もつとめ、北海道美術界の発展に寄与した。 秋田市で第二子(上に姉があり、長男)として生まれる。父の今田佐吉は養蚕指導者で、父の仕事の都合により1900年から札幌に定住した。北海道師範学校付属小学校(現・北海道教育大学附属札幌小学校)に入学し、水彩画好きな教員の影響を受けて、4-5年生の頃には父に買ってもらった画材により絵を描き始めた。
白根 清香(しらね きよか、1896年11月6日 - 198… 白根 清香(しらね きよか、1896年11月6日 - 1985年12月30日)は、日本の経営者、銀行家。中央信託銀行初代社長を務めた。山口県出身。 1923年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1946年6月に理事に就任し、1947年に大阪支店長、1950年に日本証券金融社長を経て、1962年5月には中央信託銀行社長に就任。1965年12月から1970年12月までに会長を務めた。京阪電気鉄道相談役を務めた。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年12月30日肺炎のために死去。89歳没。
粟野 頼之祐(あわの らいのすけ、1896年11月3日 - … 粟野 頼之祐(あわの らいのすけ、1896年11月3日 - 1970年8月23日)は、ボストン美術館東洋部員、歴史学者、関西学院大学教授。 兵庫県川辺郡六瀬村出身。1896年、川辺郡猪名川町島に生まれる。猪名川町六瀬第二小学校、大阪府立北野中学校、青山学院高等学部卒業後、1927年米国オハイオ州ウェスリアン大学でB.A.、コロンビア大学大学院史学科でM.Aを取得。その後1939年までハーバード大学にて碑文およびパピルス文書などの史料にもとづくヘレニズム史の研究を継続し、一時期ボストン美術館東洋部にも勤務。1939年に帰国後、神戸女学院講師を経て、1951年に招かれて関西学院大学文学部教授に就任し史学科を開設し1967年の定年まで、その充実・発展のために尽力。
山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治… 山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治29年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、衆議院議員(2期)。参議院功労議員表彰。 1896年島根県生まれ。1923年に関西学院大学文学部社会学科卒業後、コロンビア大学に留学し、1929年大学院修了。 関西学院大学で講師を務めた後、1943年マライ半島において陸軍司政官。戦後はシンガポール戦犯裁判所通訳、日本で浜田進駐軍首席通訳、1947年島根県議会議員。 1949年には第24回衆議院議員総選挙島根県全県区で民主党から出馬し、初当選。以後通算2期務める。 1958年には、第4回参議院議員通常選挙島根県選挙区補欠選挙で自由民主党から立候補し、初当選。
岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 19… 岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 1983年6月2日)は、日本の実業家。三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社社長を務めた岩崎久弥の次男。 東京府(現:東京都)出身。 1909年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1915年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1921年に東京帝国大学工学部を卒業。1922年英国グラスゴー大学に留学。 1926年の帰国後三菱製紙に入社。1943年三菱瓦斯(現在の三菱瓦斯化学とは別会社)の会長、1944年三菱製紙の会長に就任。 太平洋戦争後の1947年、財閥解体政策により、父久弥、兄彦弥太、弟恒弥と共に財閥家族に指定され、三菱傘下企業の全役職を辞任。
手島 伝(てじま つたえ、1896年(明治29年)11月2日… 手島 伝(てじま つたえ、1896年(明治29年)11月2日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県門司市助役。 福岡県浮羽郡田主丸町(現在の久留米市)出身。1920年(大正9年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、1922年(大正11年)11月に高等試験に合格した。1923年(大正12年)宮城県属となり、以後、同柴田郡長、青森県商工水産課長を歴任。1928年(昭和3年)に退官するが、1930年(昭和5年)に宮崎県学務課長・社会課長として復帰。その後、香川県農林課長・官房主事、茨城県農林課長、静岡県農務課長、同教育課長・社会課長、青森県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)に愛媛県経済部長に就任した。
座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2… 座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2日 - ?)は、日本の歴史学者。神奈川県相模原市地域の郷土史家として知られる。神奈川県師範学校本科卒業。神奈川県商工実商学校教諭、相模原市立旭中学校校長、相模原市史編纂委員等を歴任。 現在の神奈川県相模原市南区に出生。1974年(昭和49年)の『相模原の歴史』を初めとして複数の郷土史書を著し、『相模原市史第7巻』を著述した。 1980年(昭和55年11月2日)の84歳の折、教え子や有志により相模原市麻溝台字はの原1894番地に肖像が建設された。敷地提供者は座間末治嗣子及び座間功。同像は1989年(平成元年)道路拡幅のため相模原市南区下溝3256-9に移された。
中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)… 中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)は、日本の郷土史家、柔術家である。号は剣堂。 1896年11月1日(明治29年)に三重県花野木村大字下之庄に生まれる。 15歳の春に眼病に罹り一年ほど半盲人同様の身となる。失明は免れたが極端な乱視となり右耳も聞こえなくなった。また後年の柔道修行の際に左耳を負傷したことにより聴力を失った。 1917年(大正6年)に帝國尚武會に入り野口潜龍軒より神道六合流を学ぶ。 帝國尚武會の神道六合流における段位は1920年5月(大正9年)に初段、1921年9月(大正10年)に二段、1923年1月(大正12年)に三段となっている。 1922年(大正11年)4月に上京し早稲田大学政治経済科に入学するが、1923年(大正12年)帰省中に関東大震災が起きる。
関口 鍈太郎(せきぐち えいたろう、1896年10月30日 … 関口 鍈太郎(せきぐち えいたろう、1896年10月30日 - 1981年7月21日)は、日本の造園家。造園研究者、林学者。名古屋市生まれ。 1925年(大正14年)、京都帝国大学農学部林学科に助教授として赴任。日本で初めて造園学を名乗る講座が誕生する。戦後も京都大学農学部林学科で造園研究室を主宰。多くの人材を育成した。 1955年以降は本務の京都大学のほか、西京大学時代の京都府立大学や農科大学時代の島根大学農学部、高知大学農学部など、他大学でも講義を行っている。 第八高等学校を経て東京帝国大学林学科に入学。1912年4月 東京帝国大学農学部林学科卒業。1924年東京帝国大学農学部講師となる。1923年4月京都帝国大学農学部助教授。
石丸 敬次(いしまる けいじ、1896年〈明治29年〉10月… 石丸 敬次(いしまる けいじ、1896年〈明治29年〉10月30日 - 1980年〈昭和55年〉3月27日)は、日本の内務官僚、国会職員。官選第34代富山県知事。 福岡県出身。1916年3月、小倉師範学校本科第一部を卒業し、福岡県遠賀郡内平小学校訓導、小倉師範学校訓導、東京市小石川高等小学校訓導を歴任。1925年3月、日本大学法文学部政治学科英語部を卒業。愛媛県吉田町立吉田中学校教諭となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1926年、内務省に入省し長崎県属となる。 以後、長崎県学務部社会課長、沖縄県課長、長野県農商課長、大阪府地方課長、同議事課長、文部省普通学務局庶務課長、同国民教育局中等教育課長、岐阜県経済部長、宮崎県警察部長、同内政部長、内閣参事官などを経て、東北地方行政事務局長となる。
南 亮三郎(みなみ りょうざぶろう、明治29年(1896年)… 南 亮三郎(みなみ りょうざぶろう、明治29年(1896年)10月28日 – 昭和60年(1985年)5月24日)は、日本の人口学者。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授、北海道立労働科学研究所(現北海道立総合研究機構)初代所長、中央大学教授、日本人口学会会長等を歴任した。藍綬褒章受章。 小樽高等商業学校(現小樽商科大学)入学、大西猪之介に師事、1918年(大正7)9月20日『小樽毎夕新聞』に「社会主義者を検挙する前に」と題する米騒動に関する意見を発表し、筆禍事件に発展、1920年(大正9)同大学卒業卒業。東京植民貿易語学校(現保善高等学校)教諭を経て、1923年(大正12)東京商科大学(現一橋大学)卒業。
遠藤 寿子(えんどう ひさこ、1896年10月28日 - 1… 遠藤 寿子(えんどう ひさこ、1896年10月28日 - 1971年9月24日)は、日本の翻訳家。 北海道函館出身。衆議院議員を務めたことのある政治家の家に育った。津田英学塾卒業後、ウェブスター『あしながおじさん』などの翻訳を手がけた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
飯田 莫哀(いいだ ばくあい、1896年〈明治29年〉10月… 飯田 莫哀(いいだ ばくあい、1896年〈明治29年〉10月27日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は日本の歌人。本名、飯田 昇。 1896年(明治29年)、神奈川県高座郡海老名村に生まれる。日本大学社会課中退後、法政大学、水難救済会、八雲書店等に勤務したのちに天弦社の代表となる。童謡歌手、女優の飯田ふさ江は娘。 作歌を始めたのは厚木中学校在学中であり、莫哀の雅号は旧制中学3年の頃に漢文を担当していた教師がつけたものである。1915年(大正4年)に前田夕暮の『詩歌』に参加した。詩歌の廃刊後は活動を休止するが、1922年(大正11年)『覇王樹』に参加し橋田東声に師事する。東声の死後は森園天涙の『珊瑚礁』に転じたが再び覇王樹に戻っている。
武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1… 武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1952年6月25日)は、日本の農芸化学者。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1920年東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。 1922年から理化学研究所勤務。ハイデルベルク大学留学を経て、1928年京都帝国大学教授となる。1931年京都大学化学研究所所長に就任。1940年から1946年まで京都教育大学学長を務め、戦後は京都市の教育委員も務めたことがある。 主な研究内容としてはデリス根の有効成分ロテノンの化学構造を決定した。 祖父は製糸家の武居代次郎。
蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者・政治家。お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。 新潟県刈羽郡鵜川村で蝋山政次郎と母寛子(衆議院議員・牧口義方の二女)の長男として生まれる。父は1872年8月に蝋山政右衛門の長男として生まれ、同家8代目の当主であった。祖父政右衛門が群馬県高崎市歌川町で蝋山酒造を経営していたため同地で育つ。父は上州銀行や上州信託、高崎倉庫株式会社の取締役をはじめ、上州電気鉄道株式会社の監査役を務めるなど群馬県経済界の重鎮であった。 1913年3月に県立高崎中学校、1917年7月に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。
蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者、政治家、お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。
神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月… 神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月21日 - 1971年(昭和46年)4月8日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・神山郡昭の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1932年(昭和7年)8月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、鉄道省に入省し鉄道局書記に就任。以後、鉄道属、鉄道局副参事、東京鉄道局千葉運輸事務所長、鉄道省輸送実費調査委員会幹事などを務めた。 1940年(昭和15年)11月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日まで一期在任した。
唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月… 唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月19日 - 1977年〈昭和52年〉7月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 野砲兵第1連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、イタリア駐在、陸軍兵器本廠付、陸軍重砲兵学校教官、参謀本部員を経て、1938年(昭和13年)6月から翌年3月まで大本営謀略課長を務めた。イタリア大使館付武官、参謀本部欧米課長、参謀本部謀略課長を歴任し、日中戦争に第13軍参謀長として出征。
平塚 運一(ひらつか うんいち、1895年11月17日 - … 平塚 運一(ひらつか うんいち、1895年11月17日 - 1997年11月18日)は、島根県八束郡津田村(現松江市)出身の版画家。勲三等瑞宝章受章(1977年)、松江市名誉市民(1989年)。 1895年(明治28年)11月17日、島根県八束郡津田村(現松江市)に生まれた。島根県立松江商業学校に入学したが、1913年(大正2年)に中途退学し、松江市役所に勤務。石井柏亭の洋画講習会がきっかけとなり、1915年(大正4年)に上京してデッサンに励み、さらに版画技術を会得。1916年(大正5年)には、二科展に版画作品が入選し、日本美術院展には油彩作品と水彩画作品が入選した。1917年(大正6年)に帰郷して結婚し、公立小学校の図画教員となった。
中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月… 中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月16日 - 1984年(昭和59年)12月11日)は、日本の野鳥研究家で歌人・詩人、天台宗僧侶。文化功労者。日本野鳥の会の創立者。本名は富嗣、悟堂は法名。他に筆名として赤吉(しゃくきち)。 「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語。 1895年(明治28年)、石川県金沢市長町に生まれ、富嗣と命名される。祖父は加賀藩士。父親は海軍軍楽隊教官だったが、悟堂の生後まもなく病死し、母は長崎の実家に帰ったまま行方不明となり、父の兄で中西家十代の当主元治郎(悟玄)の養嗣子となる。3歳頃より四書五経を学び千字文を書写する。
杉本 勝次(すぎもと かつじ、1895年11月14日 - 1… 杉本 勝次(すぎもと かつじ、1895年11月14日 - 1987年1月2日)は日本の政治家。衆議院議員、福岡県知事などを務めた。 福岡県福岡市出身。1914年、中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業。1921年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。 九州帝国大学、福岡高校、福岡女子専門学校の各講師、西南学院専門学校(現・西南学院大学)校長を経て、1946年4月、戦後初の衆議院議員総選挙に福岡1区から社会党所属で出馬し当選、1期務める。1947年4月から2期、福岡県知事を務めて石炭政策を推進した。福岡県知事の任期満了後に両派社会党の推薦で福岡市長選に出馬するが保守系現職の小西春雄に敗れて落選、翌1956年3月から久留米市長となる。
中鉢 常正(なかばち つねまさ、1895年〈明治28年〉11… 中鉢 常正(なかばち つねまさ、1895年〈明治28年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉11月19日)は、日本の経営者。東京都出身。位階は正五位。 1919年に慶應義塾大学法科を卒業。古河鉱業での勤務を経て、1934年に古河電気工業に転じ、1949年に取締役に就任し、1955年3月に常務を経て、1957年2月に日本ゼオン副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1962年11月には相談役に就任。 1971年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年11月19日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月1… 小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月12日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 1895年(明治28年)、高知県高岡郡高石村用石(現土佐市)で生まれた。1915年(大正4年)高知県立第一中学校(現:高知県立高知追手前高等学校)を卒業後、1918年(大正7年)11月、海軍兵学校(46期)を卒業。 海軍水雷学校高等科を経て、駆逐艦「灘風」、重巡洋艦「高雄」「五十鈴」「衣笠」、戦艦「霧島」などの水雷長兼務分隊長、駆逐艦「水無月」「夕霧」「白雪」「白雲」などの艦長、巡洋艦「天龍」「筑摩」の副長、第5駆逐隊司令などを歴任。 太平洋戦争開戦当時は、第12駆逐隊司令としてマレー上陸作戦、ジャワ島上陸作戦、ジャカルタ沖海戦などに参加。
中村 四郎(なかむら しろう、1895年(明治28年)11月… 中村 四郎(なかむら しろう、1895年(明治28年)11月12日 - 1989年(平成元年)2月3日)は、日本の内務・警察官僚。官選徳島県知事。 鹿児島県肝属郡新城村(現在の垂水市)新城で、中村思無邪の四男として生まれた。鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1918年7月、第七高等学校造士館第一部甲類(英法)を卒業。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年8月、内務省に入省し三重県属、内務部地方課勤務となる。同年12月、休職し一年志願兵として歩兵第23連隊に入隊。1922年11月に満期除隊。 1923年4月、三重県内務部学務課兼社寺兵事課兼農商課勤務となる。
本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月… 本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月11日 - 1959年(昭和34年)4月5日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員、行政管理庁長官(第4・10代)、地方自治庁長官(第2代)、自治庁長官(第2代)。位階は正三位、勲等は勲二等。 長崎県南高来郡南有馬町(現南島原市)に、農業・本多福四郎の長男として生まれる。長じて上京し、両国税務署員として働きながら、1925年中央大学法科を卒業する。上京時の下宿先では小澤佐重喜と起居を共にしていた。 関東大震災が起きると、復興局に勤務する傍ら、深川区(現在の江東区北西部)の自宅に法律無料相談所を開いて罹災者の相談に乗り、地元住民の信望を集めていった。
柳井 恒夫(やない ひさお、1895年(明治28年)11月6… 柳井 恒夫(やない ひさお、1895年(明治28年)11月6日 - 1981年(昭和56年)7月21日)は、大正・昭和期の外交官、弁護士。 東京 で医師・柳井貴三の二男として生まれる。1913年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業、第一高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 1919年7月、外務省に入省し外務属として電信課に配属された。同年10月、高等試験外交科試験に合格。以後、シャム、フランス、ベルギー、ブラジル、外務省アジア局第一課などで勤務した。1931年1月、領事に任じられ奉天在勤となり満州事変に遭遇した。以後、アジア局第三課長、東亜局第三課長、兼東亜局第二課長、ドイツ大使館一等書記官、同参事官、ジュネーヴ総領事兼国際会議帝国事務局次長、興亜院経済部長などを歴任。
江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日… 江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月11日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、川崎市長。 山形県南置賜郡南原村猪苗代町(現米沢市)出身。旧米沢藩士・江辺信次(小学校長、郡視学、南原村長)、いよ夫妻の長男として生まれる。1914年3月、山形県立米沢中学校を卒業。第二高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格し逓信省に入省。1921年、内務省に転じ山梨県属・地方課兼学兵課勤務となる。 以後、山梨県西山梨郡長、山梨県警視・警察部警務課長兼巡査教習所長、同保安課長、山口県地方事務官・産業課長、同商工水産課長、同学務課長、富山県書記官・学務部長、山形県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、神奈川県経済部長などを経て、1939年4月、兵庫県総務部長に就任。
清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治… 清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治28年)11月5日 - 1983年(昭和58年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、狭山市名誉市民。入間川ゴム創業者。 1895年(明治28年)、長野県小県郡上田町(現:上田市)で生まれた。日本大学専門部法律科で学んだ。 東北銀行倉庫部支配人、大和ゴム製作所第二工場長、日本工業工場長、入間川ゴム取締役社長、新潟ゴム取締役社長、同会長、扶桑商事取締役会長、日本東部ゴム工業組合理事、日本ゴム工業組合連合会医療用品部長、東京鑑識化学研究所顧問、全国商工会連合会副会長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区に民主自由党所属で出馬して当選。
菊池 武範(きくち たけのり、1895年11月5日 - 19… 菊池 武範(きくち たけのり、1895年11月5日 - 1975年5月14日)は、日本の実業家。タイガー魔法瓶創業者。同社会長を務める菊池嘉人は長男、同社長を務める菊池嘉聡は孫に当たる。 愛媛県西宇和郡三島村皆江(のちに三瓶町、現・西予市)に生まれる。生家は皆江で村長を務めた庄屋であった。12歳の時に父が事業に失敗、さらに脳内出血で病臥するに至り、小学校高等科を中退することを余儀なくされた。 その後、従姉妹の夫が経営するメリヤス製造所(大阪市西区)の店員見習いとなり、この時期に簿記学校に通学した。また、大阪に出て間もない1910年、伊藤喜商店が輸入した魔法瓶を船場で目撃し、以来その商品としての可能性に着目した。
畠山 重勇(はたけやま じゅうゆう、1895年(明治28年)… 畠山 重勇(はたけやま じゅうゆう、1895年(明治28年)11月3日 - 1978年(昭和53年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、秋田県北秋田郡比内町長、同町名誉町民。位階は従五位。 秋田県南秋田郡扇田村(扇田町、比内町を経て現大館市比内町扇田)で生まれる。1914年(大正3年)秋田県立大館中学校(現秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業。 大葛産業取締役社長、同会長、北秋田郡木炭同業組合長、炭谷鉱山経営、扇田通運取締役社長、秋田県木炭取締役、北秋通運取締役、秋田県木材取締役、秋田県燃料商業組合理事長、東北木材興業専務取締役、同社長などを務めた。 政界では、扇田町会議員を務め、1939年(昭和14年)から1949年(昭和24年)まで秋田県議会(県会)議員に3期在任し、同参事会員も務めた。
大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - … 大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - 1973年2月17日)は、日本の経営者。川崎製鉄会長を務めた。二女の夫は三菱レイヨン社長を務めた永井弥太郎。 岡山県岡山市出身。1920年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1947年に取締役を経て、翌年には常務に就任した。 1953年に川崎製鉄会長に就任。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていたため、第一銀行が大森を会長に送り込んだ背景がある(この際大森は岡田貢助を伴うことを求めたため、岡田も同社財務部長として出向した)。
久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年… 久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年10月31日)は、日本の武道家。大東流合気柔術の継承者である。 1895年、高知県安芸郡佐喜浜村(現・室戸市)出身。大阪の成器商業学校(現在の大阪学芸高等学校・附属中学校)を卒業後、神戸高等商業学校に入学(第13回生)。神戸高商では相撲部のキャプテンを務め、関西学生相撲大会で優勝するなどした。 1919年(大正8年)に神戸高商を卒業し、鈴木商店に入社。鈴木商店と深い関係がある高知商業学校(現在の高知商業高等学校)の校友となり、職務の間に同校をたびたび訪れて相撲部のコーチを務めた。鈴木商店内には「高商派」(神戸高商出身者)と「土佐派」(高知県出身者、とくに高知商業出身者)の派閥があり、久はその双方に属し得る立場であったが、金子直吉の側近を自負した久は土佐派の中核となって行動し、台湾銀行からの金子退陣要求に対して強い抵抗を示した。
中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 199… 中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 1998年10月4日)は、日本の経営者。ゼネラル石油社長を務めた。愛媛県南宇和郡愛南町出身。 1920年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1947年7月にゼネラル物産(のちのゼネラル石油)に転じ、1948年4月に取締役に就任し、1953年4月に副社長を経て、同年11月から1967年11月までに社長を務めた。1961年5月から1963年5月までに石油連盟会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年10月4日心不全のために死去。102歳没。
守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2… 守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2日 - 1943年(昭和18年)5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・梶田。 岡山県出身。梶田寿平の五男として生まれ、守屋弁之助の養子となる。岡山第一中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。陸士生徒隊付、山砲兵第11連隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級。
中松 澗之助(なかまつ かんのすけ、1895年(明治28年)… 中松 澗之助(なかまつ かんのすけ、1895年(明治28年)11月1日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の弁護士、弁理士。日本弁護士連合会会長、日本弁理士会会長、国際工業所有権保護協会日本部会(現日本国際知的財産保護協会)会長。 1895年(明治28年)11月出生。中松盛雄の長男。1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部英法科を卒業し東京帝国大学大学院に入り産業法を専攻。弁護士・弁理士資格を取得し、1946年(昭和21年)には、父・盛雄が開設した中松特許法律事務所の代表となる。 1963年(昭和38年)に、国際工業所有権保護協会日本部会の第2代会長に就任。日本国際知的財産保護協会では、その功績を記念して1996年(平成8年)にAIPPI中松記念スカラーシップ(中松澗之助スカラーシップ)を設けている。
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月… 池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 - 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。長男は同じく画家の池田道夫。 岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。 1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。