三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31… 三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31日 - 1987年(昭和62年)6月6日)は、日本の東洋学者、考古学者。日本学士院会員、東京大学名誉教授、出光美術館理事、中近東文化センター理事長。号は「白水子」。 1907年、京都府宮津町(現・宮津市)で生まれた。小学5年生まで宮津で過ごし、その後、家族と共に北海道へ移住した。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1932年に卒業。東亜考古学会の留学生として、中華民国に渡り、東洋美術や考古学の勉学に励んだ。 1939年、東京大学文学部講師に就いた。1949年に同教授昇格。この時期、鎌倉アカデミアでも講義した。1951年5月から9月にかけて、皇居に招かれて歴史関係の科学委員会合に出席。
石井 泉(いしい いずみ、1907年〈明治40年〉3月31日… 石井 泉(いしい いずみ、1907年〈明治40年〉3月31日 - 1982年〈昭和57年〉2月4日)は、日本の農業経営者、政治家。長野県小県郡泉田村長、上田市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長野県小県郡泉田村(現上田市)で、石井基、うた の長男として生まれた。泉田実業補習学校を卒業。農業を営む。 1944年(昭和19年)泉田村半過区長に就任。1951年(昭和26年)6月、泉田村助役となり、1955年(昭和30年)5月、同村長となり、翌年上田市に合併し、同市専門委員となる。1959年(昭和34年)5月、上田市議会議員に当選し、1963年(昭和38年)同議長を務めた。1969年(昭和44年)上田市監査委員に就任。
森田 茂(もりた しげる、1907年(明治40年)3月30日… 森田 茂(もりた しげる、1907年(明治40年)3月30日 - 2009年(平成21年)3月2日)は、茨城県出身の、日本の洋画家。 茨城県真壁郡下館町(現在の筑西市)に生まれ、東京都に住んでいた。文化勲章受章、日本芸術院会員、日展顧問、東光会会長、茨城県名誉県民、豊島区名誉区民、筑西市名誉市民。 原色を多用し、色を塗ったというより絵具を擦り付けたという様な、力強い筆致の重厚な画風が特徴である。初期の作品は、人形や人物の絵が多いが、1965年(昭和40年)の東南アジア巡遊後は風景画も多く描くようになる。1966年(昭和41年)に偶然目にした山形県羽黒山地方の郷土芸能である黒川能に強く惹かれ、この黒川能を描き続けることをライフワークにしており、このシリーズの中の一作で1970年(昭和45年)の日本芸術院賞を受賞している。
金子 正則(かねこ まさのり、1907年〈明治40年〉3月2… 金子 正則(かねこ まさのり、1907年〈明治40年〉3月29日 - 1996年〈平成8年〉10月21日)は、日本の政治家、判事。6期24年の間、香川県知事を務めた。位階は従三位。 1907年(明治40年)3月29日、香川県丸亀市に生まれる。香川県立丸亀中学校、第六高等学校を経て、1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業、司法官試補となる。1931年(昭和6年)に大阪地方裁判所および大阪区裁判所の判事に就き(兼任、以下同)、翌1932年に旭川地方裁判所および旭川区裁判所の判事に転任。その後、1935年に札幌地方裁判所および札幌区裁判所、1936年(昭和11年)に長野地方裁判所および長野区裁判所、1937年(昭和12年)に東京地方裁判所および東京区裁判所の判事を歴任している。
島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 -… 島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 - 1994年4月11日)は、日本の美術史学者。プリンストン大学名誉教授。考古学者の島田泉は次男。 兵庫県出身。京都帝国大学卒。京都国立博物館美術室長、1964年プリンストン大学教授。中国の画論「松斎梅譜」や正倉院の「鳥毛立女屏風」などの研究がある。1991年朝日賞受賞。
桂川 質郎(かつらがわ しちろう、1907年〈明治40年〉3… 桂川 質郎(かつらがわ しちろう、1907年〈明治40年〉3月29日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、宮城県名取郡(現在の名取市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は檀崎 質郎(だんざき しちろう)。現役時代の体格は身長170cm、体重88kg。得意手は右四つ、突っ張り、吊り。最高位は、西前頭筆頭(1937年(昭和12年)1月場所)。 引退後は夢想神伝流居合の修行に没頭し、檀崎 友彰(だんざき ともあき)と名乗った。段位は居合道範士九段、杖道範士七段、剣道教士七段。 1927年(昭和2年)10月場所に於いて、20歳で初土俵。四股名ははじめ、出身地の宮城県名取郡に因んだ「名取川」を名乗った。
中原 茂敏(なかはら しげとし、1907年3月28日 - 1… 中原 茂敏(なかはら しげとし、1907年3月28日 - 1991年10月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。戦時中は兵器行政・補給関係の要職を歴任し、戦後は補給戦に関する著作で知られる。 大阪府出身。陸軍士官学校砲兵科(第39期)を経て、陸軍砲工学校高等科(第36期)を優等で卒業。また、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部電気工学科を卒業している。 陸軍省軍務局軍事課資材班長、企画院調査官を兼務、陸軍兵器行政本部附、陸軍省軍務局課員、兵站総監部参謀、陸軍大学校兵学教官などを歴任した。 太平洋戦争末期には第15方面軍参謀(後方主任)を兼ね中部軍管区参謀を務め、陸軍大佐に進級した。 戦後、陸軍の補給・国力の実態を分析した著書を刊行している。
木村 三郎(きむら さぶろう、1907年(明治40年)3月2… 木村 三郎(きむら さぶろう、1907年(明治40年)3月27日 - 1996年(平成8年)6月21日)は、日本の内務官僚、造園家。 官庁技師として造園と都市計画行政の実務に携わる一方で東京大学農学部旧農学科のほか、千葉大学園芸学部、東京農業大学旧農学部造園学科で講師を務めている。国土開発調査会常任幹事、財団法人国土計画協会理事長を歴任。晩年は日本庭園研究に関する著述を多く残す。
河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日… 河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日 - 1936年(昭和11年)3月6日)は、日本の陸軍軍人。航空兵大尉。所沢陸軍飛行学校操縦学生。 二・二六事件で蹶起し、湯河原で牧野伸顕を襲撃したが負傷。翌月、入院先の熱海で自決した。 民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し自動車2台に分乗、歩兵第一連隊を2月26日0時40分頃出発。 5時頃湯河原に到着、伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求されたが、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させたが、皆川巡査は殺害された。
野崎 源三郎(のざき げんざぶろう、1907年〈明治40年〉… 野崎 源三郎(のざき げんざぶろう、1907年〈明治40年〉3月27日 - 1986年〈昭和61年〉12月29日)は、日本の政治家。元埼玉県鴻巣市長。 埼玉県生まれ。1930年(昭和5年)、米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)応用化学科卒業。卒業後、株式会社福岡商店工場で働く。商工技官、通商産業技官を歴任した。1958年(昭和33年)、鴻巣市収入役となった。1970年(昭和45年)8月1日、鴻巣市長になった。3期市長を務めた。1982年(昭和57年)7月31日に退任した。『花の鴻巣音頭(埼玉県)』(歌・都はるみ)の作詞を担当した。市長時代の活躍が認められ第3号鴻巣市名誉市民となる。
新道 繁(しんどう しげる、1907年3月25日 - 198… 新道 繁(しんどう しげる、1907年3月25日 - 1981年6月10日)は、洋画家。 福井県三国町(現・坂井市)出身。1924年東京府立工芸学校卒業。1934年光風会会員。1951年日展審査員。1955年女子美術大学講師、1958年文部大臣賞受賞、日展評議員、1961年日本芸術院賞受賞、1969年日展理事、1971年光風会常務理事、1975年日展常務理事、1977年日本芸術院会員、1979年勲三等瑞宝章受章。 1960年以降は「松」を繰り返し描いた。
原 研吉(はら けんきち、1907年3月24日 - 1962… 原 研吉(はら けんきち、1907年3月24日 - 1962年8月10日)は、日本の映画監督である。本名、菅原謙吉。 山形県鶴岡市出身。慶應義塾大学仏文科卒業の後、松竹大船撮影所に入社。 1962年8月10日、食道癌のため神奈川県藤沢市鵠沼で死去。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 201… 渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 2014年9月16日)は、日本(青森県青森市出身)の農民・人形作家。太平洋戦争中に転居した夫の故郷の但馬地方の農村風景や農作業をする人々を描写した人形を製作していた。
佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003… 佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003年5月16日)は、日本の地質学者・地球科学者・登山家。北海道大学名誉教授で日韓トンネル研究会名誉会長も務めた。北海道札幌市出身。父は函館高等水産学校校長を務めた佐々茂雄。 化石燃料などの資源開発に関する調査・立案や、青函トンネル建設の際の調査に携わった。
井桁 貞敏(いげた さだとし、1907年3月22日 - 19… 井桁 貞敏(いげた さだとし、1907年3月22日 - 1980年1月11日)は、日本のロシア語学者。 1929年東京帝国大学文学部言語学科卒業。東京外国語学校講師を経て、1937年から1943年まで海軍兵学校ロシア語教授、戦後は防衛大学校教授。1972年定年退官。ほかに東京大学、慶應義塾大学、埼玉大学、東京都立大学等でロシア語を講ずる。『コンサイス露和辞典』同和露辞典を編纂した。ロシア文学者・井桁貞義は息子。
西島 芳二(にしじま よしじ、1907年3月22日 - 19… 西島 芳二(にしじま よしじ、1907年3月22日 - 1987年10月12日)は、日本のジャーナリスト。兵庫県出身。1931年東京帝国大学卒、東京朝日新聞社に入社。調査部長、論説委員などをへて64年論説主幹。のち神奈川新聞社副社長、論説委員長。
近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 199… 近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 1999年4月8日)は広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)出身の唱歌作詞家。唱歌『チューリップ』、『こいのぼり』作詞者。
高橋 一臣(たかはし かずおみ、1907年(明治40年)3月… 高橋 一臣(たかはし かずおみ、1907年(明治40年)3月21日 - 没年不明)は、日本の実業家。東邦自動車、弥栄化学工業創業者。大和郷会元理事。 本名は高橋 繁正(たかはし しげまさ)。正六位・勲五等受章。紺綬褒章受章。長男は弥栄化学工業元社長の高橋一永。 高橋叶五郎・コンの四男として新潟県南魚沼郡塩沢町に生まれる。戦前は自動車業を営み、1939年(昭和14年)10月に東邦自動車を設立した。 その後企業合同により化学業界に進み、1941年(昭和16年)11月に弥栄化学工業を設立。 タクシー業界に明るく、事故防止対策又会社給与明細等のパンフレットを関係諸官庁等に配布し、現在の交通運輸行政の陰の力となった。
谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1… 谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1989年11月8日)は、日本の法学者(民法)。大阪市立大学名誉教授。法学博士(京都大学・論文博士・1949年)(博士論文「不当利得の研究」)。日本学士院会員。京都府出身。末川博門下。 京都市下京区木屋町仏光寺で誕生、山紫水明処の隣の屋敷で育つ。幼少時、祇園祭の長刀鉾の稚児を3年間務めた。民事訴訟法学者である谷口安平は知平の次男、裁判官の谷口安史は孫に当たる。 京都府立京都第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を4年間を通して首席で卒業、三高へ進学。京都帝国大学においても当時は18課目を履修すれば卒業できるところ40課目を履修し、さらに平均点首位で卒業した。
工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 -… 工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 - 1981年7月23日)は、日本の実業家、パシフィック・リーグ元会長。京都府京都市出身。 1939年に京都帝国大学英文学科を卒業し、毎日新聞社に入社した。取締役、東京本社編集局長、副社長を歴任した後に、1968年1月には、相談役を務めた。1949年の大リーグのサンフランシスコ・シールズの招聘と毎日オリオンズの創設に尽力した。 1974年から1978年までにNHK経営委員会委員長を務め、1978年10月1日からパシフィック・リーグ会長に就任し、エキサイティング・リーグ「パ」のキャンペーンを繰り広げるなど、パ・リーグの観客動員の増加に力を入れた。
竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 19… 竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 1988年8月12日)は、長野県下高井郡平穏村(現・山ノ内町)出身のジャーナリスト、クロスカントリースキー選手、登山家。 旧制飯山中学校を経て、1929年早稲田大学商学部卒。全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーのリレーでは早大チームのメンバーとして1925年の第3回大会、翌年の第4回大会と連覇を果たした。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックでは、クロスカントリースキー個人18kmで30位、個人耐久(50km)で26位だった。研究熱心な竹節は同大会で欧米の選手が用いていた距離スキー専用のワックスや、ヒッコリー材のスキーを大会後いち早く導入するなど、日本のスキー技術の向上につとめた。
八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 -… 八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 - 1965年5月12日)は、日本の劇作家・脚本家である。新派、新国劇、芸術座、前進座、井上正夫一座、移動演劇隊などあらゆる分野で上演され、映画化も多数なされた。 1906年(明治39年)4月17日、秋田県能代市の向能代の八木財吉・ふみの長男として生まれる。本名:八木財一郎。 3歳の時、両親の離婚で母ふみに連れられて函館に転居、7歳で函館幸尋常高等小学校に入学。13歳で庁立函館商業学校に入学、その翌年から文学活動を始める。仲間と同人誌を発行するとともに、1922年(大正11年)12月15日に創刊された「校友会雑誌」には、"八木小夜二"、"八木青萍子"のペンネームで詩や俳句を投稿する。
篠原 武司(しのはら たけし、1906年(明治39年)4月1… 篠原 武司(しのはら たけし、1906年(明治39年)4月16日 - 2001年(平成13年)6月30日)は、昭和の鉄道技術者・官僚。元国鉄西部総支配人兼門司鉄道管理局長・鉄道技術研究所長・日本鉄道建設公団総裁。
高峯 一愚(たかみね いちぐ、1906年4月16日 - 20… 高峯 一愚(たかみね いちぐ、1906年4月16日 - 2005年1月18日)は、日本の哲学者で西洋哲学研究・翻訳者。東京都立大学名誉教授。 1906年、富山県氷見市生まれ。1930年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。台北高等学校教授となった。 太平洋戦争後は日本に戻り、旧・東京都立大学教授となった。1970年に東京都立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は帝京大学教授。2005年1月18日に多臓器不全のため品川区の病院で死去した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。
渡辺 光子(わたなべみつこ、1906年(明治39年)4月11… 渡辺 光子(わたなべみつこ、1906年(明治39年)4月11日 - 2003年(平成15年))は昭和期の歌手。他に和田春子等、多くの芸名がある。 東京都出身。東京高等音楽学院卒業後、東京音楽学校で教鞭をとる傍ら、レコード吹込みを行う。 1932年(昭和7年)には、7月に発売した「旅は青空」、和田春子名義で10月に発売したパーロフォンレコード「幌馬車の唄」、そして渡瀬春枝名義の11月発売「時雨ひととき」(池上利夫(松平晃)「忘られぬ花」B面)がそれぞれ別名で大ヒットを記録した。翌年も「街の流れ鳥」の大ヒットを飛ばすなど数々のヒット曲と共に、その別名の多さで知られた。 また、1937年(昭和12年)7月ポリドールレコード発売の「春の唄」も大ヒットする。
保坂 弘司(ほさか こうじ、1906年4月10日 - 198… 保坂 弘司(ほさか こうじ、1906年4月10日 - 1983年2月3日)は、日本の国文学者。学燈社社長、昭和女子大学名誉教授。 新潟県生まれ。早稲田大学国文科卒。欧文社(旺文社)に勤務、国語漢文部長。1948年學燈社を創業、受験雑誌『学燈』を創刊し、自著のほか、国語漢文関係の参考書、「学燈文庫」を刊行する。1956年『國文學 解釈と教材の研究』を創刊し、至文堂の『国文学 解釈と鑑賞』と双璧をなす国語国文学雑誌とした。昭和女子大学教授、1977年定年、名誉教授。学習書協会理事長、日本書籍出版協会常任理事、日本出版クラブ評議員などを務めた。
梅川 文男(うめかわ ふみお、1906年〈明治39年〉4月9… 梅川 文男(うめかわ ふみお、1906年〈明治39年〉4月9日 - 1968年〈昭和43年〉4月4日)は、日本の政治家・プロレタリア文学者・労農運動家。三重県松阪市の第6代市長を歴任。 田村元(元衆議院議長・自民党最高顧問)の先輩にあたり、小津安二郎(映画監督)の後輩にあたる。また「堀坂山行」の筆名で多くの詩やエッセイ本を発表している。 1906年(明治39年)4月9日、飯南郡松阪町大字新町(現・松阪市新町)に生まれる。その後、三重県立宇治山田中等学校(現・三重県立宇治山田高等学校)を卒業する。 1924年(大正13年)、松阪第二尋常小学校代用教員となる。1926年(大正15年)、松阪第一尋常小学校に転勤し、準教員となる。
上田 安子(うえだ・やすこ、1906年4月9日 - 1996… 上田 安子(うえだ・やすこ、1906年4月9日 - 1996年9月7日)は、上田安子服飾専門学校創設者。勲五等宝冠章(1984年)。位階は正六位。大阪府出身。 明治の文人・著作家の上田貞治郎の四女として大阪府泉北郡浜寺村(現・堺市西区)で生まれる。夕陽丘高女卒業。伊東衣服研究所で学び、1941年に上田安子服飾研究所を創設、一時中断の後、戦後に再開し、1948年に「上田安子文化学院」設立。 1949年に大丸顧問デザイナーに就任。1953年、文化服装学院がフランスからクリスチャン・ディオール一行12名(うちモデル7名)を招き、文化服装学院と名古屋・京都・大阪でファッションショーを開催した際、大丸がディオールと独占契約した(1964年まで)。
前田 義雄(まえだ よしお、1906年(明治39年)4月8日… 前田 義雄(まえだ よしお、1906年(明治39年)4月8日 - 1996年(平成8年)11月30日)は、昭和期の政治家。衆議院議員、岐阜県議会議員。 岐阜県大野郡清見村大字大原(現高山市清見町大原)で生まれる。1928年(昭和3年)日本大学法文学部法科を卒業した。 特定郵便局飛騨大原郵便局長、岐阜県議会議員、同副議長、岐阜県労働委員会委員、岐阜県山林協会理事、高山建設業協会長などを務めた。 1960年(昭和35年)11月の第29回衆議院議員総選挙で岐阜県第2区で自由民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、自民党全国組織委員会社会保障部長、同岐阜県支部連合会幹事長などを務めた。
吉頂寺 晃(、1906年(明治39年)4月7日 - 不明)は… 吉頂寺 晃(、1906年(明治39年)4月7日 - 不明)は、日本の俳優。本名は岡崎 光彦(旧名・岡崎 光)、旧芸名に吉頂寺 光、吾妻 三郎。東京市神田区出身。 第一早稲田高等学院を中退した後、高松プロ吾妻撮影所の研究生となる。 1926年(大正15年)、タカマツ・アズマプロ製作の『男児一諾』でデビューする。翌1927年1月、松竹蒲田撮影所に移り、吾妻三郎に改名。小津安二郎監督のデビュー作『懺悔の刃』などに主演するが、松竹蒲田が時代劇の制作を停止したことから退社。1928年2月に河合プロダクションに入社するが、同年6月に東亜キネマに移籍し、芸名を吉頂寺 光に戻す。1930年1月、帝国キネマ長瀬撮影所に移籍し、新興キネマに組織変更された後も在籍。
和田 芳恵(わだ よしえ、1906年4月6日 - 1977年… 和田 芳恵(わだ よしえ、1906年4月6日 - 1977年10月5日 男性)は、日本の小説家・文芸評論家。編集者の傍ら樋口一葉研究に没頭。多くの伝記・研究をまとめた。私小説作家としても知られ、晩年には老人の性愛を描いた短編で注目された。 北海道山越郡長万部町出身。北海中学(現北海高等学校)、中央大学法学部独法学科卒業。新潮社勤務のかたわら同人誌に小説を執筆。樋口一葉研究を行い、第二次世界大戦中に『樋口一葉研究』(1942年)などを刊行した。 1935年から1949年にかけて市川市八幡・市川地区在住であった。1952年に発表された「塵の中」には戦争前後の市川から八幡の様子が随所に描かれている。 戦後は大地書房に勤務、小説雑誌『日本小説』を創刊(「中間小説」を創始したと評される)。
井手 成三(いで なるみ、1906年4月6日 - 1978年… 井手 成三(いで なるみ、1906年4月6日 - 1978年7月28日)は、日本の官僚。法制局当時には、現憲法の作成にも参画した数少ない人物として知られる。 先祖は、椙本正俊といわれ、祖母は梅田雲浜の従姉にあたる。父が京都へ移住したため、井手は京都で生まれたが、先祖代々の墓は小浜にあり、毎年墓参に訪れていた。第三高等学校を経て、東京大学入学と同時に郷土出身者の会である雲城会に入り、若狭人の自覚を持ち、若狭出身であることを生涯誇りとしていた。東大卒業後は内務省の官吏となり、兵庫県庁を振り出しに官界に身を置いたが、最高の事務次官にまで昇進したのは、若狭では井手一人である。官界を退いた後、政治家を志し、1952年(昭和27年)、1963年(昭和38年)の2回にわたって福井県から衆議院総選挙に立候補したが当選を果たせず、政治家として郷土のために活躍したいという夢を実現できなかった。
土居 次義(どい つぎよし、1906年4月6日- 1991年… 土居 次義(どい つぎよし、1906年4月6日- 1991年11月24日)は、日本の美術史学者。専門は日本美術史。京都工芸繊維大学名誉教授、京都新聞文化賞、紫綬褒章、京都府文化賞特別功労賞、京都市文化功労賞、授与。元京都国立博物館館長。 大阪府大阪市天王寺区生まれ。大阪府立高津中学校、第三高等学校、京都大学文学部哲学科美学美術史卒業、同大学文学部助手として研究室に残る。大阪府立大手前高等女学校講師、恩賜京都博物館監査員。1945年(昭和20年)京都市文教局文化課長に奉職、市内の文化財の疎開に奔走、二条城の襖絵などを疎開させ復旧。1949年(昭和24年)京都工芸繊維大学教授となり、意匠工芸科の創設に尽力、1970年(昭和45年)同大学退官と同時に名誉教授。
呉錦 三郎(くれにしき さぶろう、1906年4月6日 - 1… 呉錦 三郎(くれにしき さぶろう、1906年4月6日 - 1944年5月16日)は、広島県呉市出身で出羽海部屋に所属した昭和時代の元大相撲力士。本名は金谷 三郎。最高位は十両6枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、1922年1月で初土俵を踏む。1931年1月十両に昇進したが、2勝9敗と負け越し、同地位にあった翌3月も2敗9休と連続で負け越して幕下に落ちた。1933年5月十両に復帰し6勝5敗と勝ち越し、翌1934年1月は全休で再び幕下に落ちてからは十両に復帰できなかった。1940年1月に廃業。1944年死去。 1933年に沖ツ海福雄がフグ中毒で急死したとき同席していたが、彼は一命をとりとめた。
滝本 清八郎(たきもと せいはちろう、1906年4月5日 -… 滝本 清八郎(たきもと せいはちろう、1906年4月5日 - 1971年5月2日)は、日本の経営者。日本板硝子社長を務めた。 富山県富山市出身。1933年に神戸商業大学を卒業し、1934年に日本板硝子に入社。1951年11月に取締役に就任し、1958年5月に常務、1967年2月に専務を経て、1968年11月に社長に就任した。 1971年5月2日、肺癌のために死去。65歳没。
山田 弥一(山田 彌一、やまだ やいち、1906年4月5日 … 山田 弥一(山田 彌一、やまだ やいち、1906年4月5日 - 1978年8月5日)は、昭和期の日本の政治家。衆議院議員(当選5回、自由民主党所属)、運輸政務次官(第1次池田内閣)、全国旅館生活衛生同業組合連合会(全旅連)、社団法人全国生活衛生同業組合中央会各会長。早稲田大学専門部商科卒業。 静岡県熱海市出身。1925年創業の老舗旅館・大月ホテル(2005年経営破綻、再建中)創業者であり、熱海町議、熱海市議・同議長、静岡県議・同議長を経て、1952年の第25回衆議院議員総選挙で初当選。以降、同じく熱海の老舗旅館・つるや(2001年に廃業)の創業者で共に自由民主党衆議院議員である畠山鶴吉と選挙・事業の両面で激しく覇を争った。
春山 泰雄(はるやま やすお、1906年4月4日 - 198… 春山 泰雄(はるやま やすお、1906年4月4日 - 1987年6月17日)は、東京都出身の会社役員、新聞記者、サッカー選手である。
飯塚 浩二(いいづか こうじ、1906年4月3日 - 197… 飯塚 浩二(いいづか こうじ、1906年4月3日 - 1970年12月4日)は、日本の地理学者。人文地理学が専門。20世紀の日本を代表する地理学者の一人。 1906年、東京市本郷区(現:東京都文京区)で動物学者・飯塚啓の息子として生まれた。東京帝国大学経済学部で学び、1930年に卒業。1932年にフランス政府の給費学生の試験に合格し渡仏。留学してソルボンヌ大学地理学教室で学んだ。 1934年に帰国し、外務省国際文化事業部嘱託として勤務。1941年に立教大学経済学部教授に就いた。1943年、母校の東京帝国大学教授に就任し、同大の附属東洋文化研究所に勤務。東大の学部でも人文地理学の講義を受け持った。
彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2… 彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2006年6月1日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。「弥永」と表記される場合もある。 1906年、東京府生まれ。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)卒業。同校では、犬井鉄郎(のち東大応用数学科教授)らと親しくしていた。四年修了での旧制第一高等学校受験にうっかりミスで失敗し、四中卒業後に一高に入学した。その間、秋山龍や森外三郎らの訳書である代数や幾何などの一般数学書や、アンリ・ポアンカレの「科学と仮説」に親しむ。同高校を卒業後、東京帝国大学理学部数学科に入学。高木貞治に師事して主に類体論について学ぶ。1929年、同大学を卒業。
彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2… 彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2006年6月1日)は、日本の数学者。俗字で「弥永」と表記される場合もある。
内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000… 内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000年4月29日)は、日本の版画家。 埼玉県生まれ。1924年埼玉県立川越中学校を卒業し、東京高等工芸学校木材工藝科に進学。1927年に同校を卒業。1928年、第6回春陽会展で作品が入選し、版画家としてデビューする。1930年には新潟県立高田商工学校に木工教諭として赴任し、教師をしながら創作活動を続け、1932年には日本版画協会会員となる。1939年8月には下関市立下関商工学校教諭に転任するが、戦況が厳しくなると1945年1月には郷里に戻り、埼玉県工芸指導所長に任じられ、1948年まで埼玉県庁職員として勤めた。その後、1968年から1976年まで郷里の桶川町の川田谷地区の公民館長を勤めながら、1970年代には版画教室を催したり、木版画の制作方法を表した著作を公刊するなど、版画普及活動も行った。
小松 芳喬(こまつ よしたか、1906年4月1日 - 200… 小松 芳喬(こまつ よしたか、1906年4月1日 - 2000年2月7日)は、日本の経済学者、社会経済史学者。1960年社会経済史学会代表理事。1983年日本学士院会員。1979年日経・経済図書文化賞。 東京市神田生まれ。第一早稲田高等学院を経て、1928年早稲田大学政治経済学部卒業、同大学院進学。1960年経済学博士の学位を取得。 1933年早稲田大学政治経済学部助手、1934年同大学講師。東京外国語学校での語学習得や1937年から1939年までロンドン大学留学。1939年早稲田大学助教授、1942年に教授となった。
松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983… 松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983年2月26日)は、広島県呉市出身の技術者、実業家。ダイワ精工創業者。 1923年山陽中学校卒。広島でカメラ店を経営するが上京し1953年、カメラの距離計の製造を主とする「松井製作所」を創業。1955年からは釣り具のリールの製造を開始、釣り用品の需要増大に伴い、リールを本格的に生産するため1958年、東京都中野区に資本金200万円で「大和精工」を設立した。さらにスポーツ用品の製造も開始。1960年、リール生産工場を東京都東久留米市前沢に新設、1962年本社もここへ移転した。 1964年、グラスロッド(ガラス繊維強化プラスチック製の釣り竿)の生産工場を新設、1965年にはオリジナル仕様のダイワブランド・リールを開発、販売を開始した。
沼野井 春雄(ぬまのい はるお、1906年3月31日 - 1… 沼野井 春雄(ぬまのい はるお、1906年3月31日 - 1998年5月14日)は、日本の生物学者。東京大学名誉教授。理学博士。 茨城県水戸市生まれ。東京帝国大学理学部動物学科卒業後、大学院に通いながら旧制浦和高等学校で教鞭をとり、旧制浦和高等学校教授を経て、1949年(昭和24年)に東京大学理学部教授となる。定年退官後は、早稲田大学教育学部理学科生物学専修の教授に就任。。高校課程の生物教育にも大きく貢献し、旺文社より出版された『生物の研究』は特に有名で、ラジオ生物学講座の講師にもなり、多くの後進の生物学者を育てた。 また、早大教授時代は合気道部の部長も務めた。なお、中学は旧制豊山中学(現日本大学豊山高等学校)に学んだが、旧制新潟中学校から転入してきた作家の坂口安吾とは豊山中学時代の同級生である。
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年… 朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の理論物理学者。東京教育大学名誉教授。学位は理学博士(東京帝国大学・1939年)。位階は従二位。 京都帝国大学理学部物理学科卒。東京帝国大学にて博士号取得。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。 1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現:文京区小日向)に、父・朝永三十郎(祖父は肥前大村藩の重臣であった朝長氏)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。
瀬川 美能留(せがわ みのる、1906年(明治39年)3月3… 瀬川 美能留(せがわ みのる、1906年(明治39年)3月31日 - 1991年(平成3年)9月10日)は日本の実業家。野村證券元社長・会長。 奈良県出身。成器商業を経て、1929年に大阪高等商業学校・大阪商科大学高等商業部(現大阪市立大学)を卒業後、野村證券に入社。早くから営業担当者として頭角を現した。戦後は、1946年に取締役、1948年に常務取締役、1952年に専務取締役となり、さらに1956年に副社長、1959年に社長となった。 社長就任後、1965年には調査部を独立させて、野村総合研究所を設立した。1968年に会長に退き、取締役相談役を経て、1986年12月には最高顧問となった。会長時代に、右翼の児玉誉士夫との関係ができ、児玉の頭文字を冠した口座(K口座)がつくられた。
下郡 平治(しもごおり へいじ、1906年〈明治39年〉3月… 下郡 平治(しもごおり へいじ、1906年〈明治39年〉3月31日 - 1993年〈平成5年〉)は、日本の政治家。元大分県鶴崎市(現・大分市)長(2期)。 大分県大分郡明治村(のち鶴崎市、現・大分市)出身。大分県立三重農学校(現・大分県立三重農業高等学校)を経て、大分県立実業補習学校教員養成所(現・大分大学教育学部)卒。卒業後は県内の各青年学校の教員となる。1943年(昭和18年)10月に大分県視学となった。1946年(昭和21年)3月に戸次専修女学校長となった。 戦後の1947年(昭和22年)、明治村村長に当選。1953年(昭和28年)まで務めた。翌1954年(昭和29年)、明治村は鶴崎町などと合併し、鶴崎市が発足した。
難波田 春夫(なにわだ はるお、1906年3月31日 - 1… 難波田 春夫(なにわだ はるお、1906年3月31日 - 1991年9月1日)は、日本の経済学者。元関東学園大学学長。 兵庫県出身。1934年、東京帝国大学経済学部卒業。1935年、同大学経済学部助手となる。東京帝国大学の土方成美の愛弟子である。1939年の平賀粛学では同僚と共に辞表を提出するものの撤回、助教授に昇進する。1945年11月4日、東京帝国大学経済学部教授会が難波田の退職を決定したことを受け、同大学を辞職。翌年、公職追放。講談社の野間省一の協力を得て、講談社内に経済学研究所を設けて所長となる。1951年の公職追放解除後、1952年に東洋大学教授に着任。1954年、東京都立商科短期大学教授、1966年 - 1978年まで早稲田大学社会科学部教授。
西村 青児(にしむら せいじ、1906年3月30日 - 19… 西村 青児(にしむら せいじ、1906年3月30日 - 1948年)は、日本の俳優である。本名西村 清司(にしむら せいじ)、旧芸名日向 錦之助(ひゅうが きんのすけ)。旧漢字表記西村 青兒。 1906年(明治39年)3月30日、北海道小樽市に生まれる。 北海道庁立小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、満18歳になる1924年(大正13年)、兵庫県西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。1926年(大正15年)3月、同社を抜けて小林一三や坪内士行らが結成した宝塚国民座に一時期参加したが、翌年1927年(昭和2年)3月には東亜キネマに復帰、京都・等持院の京都撮影所に所属する。同年からは、「日向 錦之助」の名で、井出錦之助監督の『夜光珠を繞る女性』や米沢正夫監督の『光に向ふ人々』(1928年)等に主演・準主演級で出演するが、1929年(昭和4年)夏に同社を退社している。
河口 陽一(かわぐち よういち、1906年3月30日 - 1… 河口 陽一(かわぐち よういち、1906年3月30日 - 1978年9月16日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。北海道上川郡永山村(現・旭川市永山)出身。 1926年に永山高等国民学校卒業。1947年の総選挙に北海道2区から日本農民党公認で出馬して初当選。その後農民新党→農民協同党→改進党と籍を移しながら衆院議員2期、農民協同党では書記長・改進党では組織委員長を務めた。 1952年の総選挙で落選。翌1953年の総選挙・右派社会党公認で出馬した1955年の総選挙でも落選に終わり、一時は政界を離れてホクレン農業協同組合連合会会長を務める。 1968年の参院選で北海道選挙区から自由民主党公認で出馬・当選して16年ぶりに政界復帰。