多武良 哲三(たむら てつぞう、1905年5月11日 - 1… 多武良 哲三(たむら てつぞう、1905年5月11日 - 1962年3月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1935年東京帝国大学商科卒。(株)明電舎平坂、名古屋各工場長、同名古屋製作所副所長、同監査役、取締役、三光商事(株)取締役社長となる。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では愛知2区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。この間民主自由党政調会文部副部長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。 このほか西枇杷島町監査委員、愛知県卓球協会名誉会長、名古屋電気学園理事、愛知工業大学事務局長を歴任した。
柳田 秀一(やなぎた ひでかず、1905年5月10日 - 1… 柳田 秀一(やなぎた ひでかず、1905年5月10日 - 1978年4月4日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位。日本社会党衆議院議員(8期)、舞鶴市長。 京都府舞鶴市出身。京都一中・旧制六高を経て岡山医科大学を卒業し、京都帝国大学大学院医学部で学ぶ。その後医師を開業。1947年に舞鶴市長に当選し1950年まで務める。 1952年の総選挙に左派社会党公認で京都2区から立候補し、初当選。1955年に再統一した日本社会党にも引き続き所属し、この間1966年1月に佐々木更三・勝間田清一両委員長の下で、国会対策委員長を務める。また日本体育協会でも理事を務め、東京オリンピックでも組織委員となった。 1972年の総選挙で地盤を京都府副知事だった山田芳治に譲り引退する。
石橋 岱城(いしばし たいじょう、1905年5月10日 - … 石橋 岱城(いしばし たいじょう、1905年5月10日 - 1936年9月25日)は、日本の宗教家。福岡県柳川市(旧 福岡県山門郡)出身で、京都帝国大学卒業後、浄土真宗本願寺派第22世法主鏡如(大谷光瑞)の秘書となり、内モンゴル・ハイラル(満州)に西本願寺末寺を開設した。本名は石橋 肇(いしばし はじめ)。 幼少の頃より聡明で、旧柳川藩主立花家から学年で一人だけに与えられる「殿さま御褒美」を毎年貰い神童と呼ばれた。矢留尋常高等小学校を卒業した14歳の時、柳川市恵比寿町の浄土真宗本願寺派法霊山西方寺へ上がって仏門に入り、そのつてから広島の同系寺院へ移り、広島高等師範学校を経て京都帝国大学へ進学。京都帝国大学卒業後、優秀な成績と人物を見込まれ、浄土真宗本願寺派第22世法主鏡如(大谷光瑞)の秘書となって薫陶を受けた。
具 乙会(ク・ウルェ、朝鮮語: 구을회/具乙會、1905年5… 具 乙会(ク・ウルェ、朝鮮語: 구을회/具乙會、1905年5月9日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家、実業家。第2代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 忠清南道唐津郡あるいはソウル出身。20歳までに漢文を学び、普成専門学校法科卒、専修大学法学部修了(3年時に中退したという情報もある)。図們東興銀行監査役、大韓物産株式会社共同管理人、大韓独立促成国民会唐津支部副委員長、大韓国政会中央分科委員を経て、1950年の第2代総選挙で唐津郡選挙区から無所属で当選し、国会において外務委員、捕虜実情調査委員などを歴任した。
櫻内 乾雄(さくらうち きみお、明治38年(1905年)5月… 櫻内 乾雄(さくらうち きみお、明治38年(1905年)5月8日 - 昭和52年(1977年)4月3日)は、日本の実業家。中国電力会長を務めた。 父は商工大臣、農林大臣、大蔵大臣などを務めた櫻内幸雄。弟は衆議院議長を務めた櫻内義雄。 東京市芝区に生まれる(島根県能義郡広瀬町(現安来市)出身)。櫻内家は旧藩時代、広瀬藩士として松平家に仕えた武士の家系だった。曽祖父の四郎左衛門以前の系譜については、明らかでない。四郎左衛門の役は側用人であり、理財の道に長け、広瀬藩の財政経済については、もっぱら指導的な役割を担当した。 明治中学校(明治大学付属明治高等学校・中学校)、静岡高等学校を経て昭和5年(1930年)、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し大学院に入る。
佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8… 佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8日 - 平成2年(1990年)以降)は日本の俳人、政治家。元境港市議会議員。号榎村。佐賀家の12代目。 俳人鹿島平堂は大おじにあたる。 鳥取県西伯郡上道村(現・境港市上道町)の農家に生まれる。 鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)、正則英語学校(現・正則学園高等学校)を経て、大正14年(1925年)3月に東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)卒業。大正15年(1926年)3月、早稲田大学専門部中退。 帰郷して農業に従事する。上道村会議員、境港市会議員などをつとめた。 元農業会理事、村会議員、境港市農業委員等務め農業多角経営の指導、実践に努力、養鶏の大家として三十年の経験と共に県下に有名である。
川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 20… 川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 2005年1月23日)は、日本の公衆衛生学・健康学者。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館理科乙類を経て、1931年京都帝国大学医学部卒業。1935年「晝光照明学の根本命題」で京大医学博士。京都市立衛生試験所、京都大学教養部助教授、教授、1970年定年退官、名誉教授。京都府衛生研究所長。京都栄養学院長。日本水質保健研究所所長。日本生活医学研究所所長。1977年勲三等旭日中綬章受章。長命を保ち多くの一般啓蒙書を著した。体育生理学の研究の一環として「どうすれば身長は伸ばせるか」を研究し、発育開発協会より通信教育講座「川畑式背伸び法」を開講した。
谷 信一(たに しんいち、1905年5月8日 - 1991年… 谷 信一(たに しんいち、1905年5月8日 - 1991年1月21日)は、日本の美術史家。日本近世美術史専攻。東京国立博物館勤務。 1905年、三重県安濃郡安西村の素封家・駒田家生まれ。父の姉の家を継ぎ谷家へ養子に入る。第八高等学校卒業後、1930年3月東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、同年4月東京帝国大学文学部副手、1932年7月東京帝国大学史料編纂所嘱託を経て、1942年3月京城帝国大学助教授に任官したが、1946年8月大学廃止により退官帰国した。 引き揚げ後は、1946年より美術研究所研究員、1949年5月東京芸術大学美術学部講師、1952年神戸大学文理学部教授となり、1952~1958年まで東京芸術大学教授を兼任した。
小林 高四郎(こばやし たかしろう、1905年5月7日 - … 小林 高四郎(こばやし たかしろう、1905年5月7日 - 1987年1月2日)は、東洋史学者、横浜国立大学名誉教授。専攻はモンゴル史・元朝史。 1905年、新潟県で生まれた。慶應義塾大学文学部支那文学科で学び、1930年に卒業。1933年より北京に留学し、モンゴル語を学んだ。 帰国後、慶應義塾大学教授に就いた。外務省に調査官として入省し、満蒙の調査を担当した。第二次世界大戦中の1942年、ソ連経由でアンカラに赴任、日本大使館書記官をつとめた。1946年3月2日に帰国。 1949年、横浜国立大学教授となった。また、神奈川県立外語短期大学教授も兼任した。1953年に学位論文『元朝秘史の研究』を京都大学に提出し文学博士の学位を取得。
山中 散生(やまなか ちるう、1905年5月7日 - 197… 山中 散生(やまなか ちるう、1905年5月7日 - 1977年9月11日)は、昭和期の日本の詩人・フランス文学者。本名・山中利行。 愛知県名古屋市に生まれる。1923年(大正12年)に名古屋高等商業学校に入学。在学中に当時名古屋で刊行されていた象徴派の詩誌『青騎士』に参加している。3年後に卒業するとNHK東海支部に就職する。1929年(昭和4年)、冨士原清一から雑誌『衣裳の太陽』を贈られたことを機にシュルレアリスムに傾倒。同年、雑誌『Ciné』を創刊。1933年(昭和8年)からフランスの詩人ポール・エリュアールとの文通が始まり、その交際はアンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・ユニエ、ルネ・シャール、マン・レイ、サルヴァドール・ダリ、ハンス・ベルメールらに広がっていき、彼らの作品を『詩と詩論』『文藝汎論』『マダム・ブランシュ』『Vou』『Cendre』などの雑誌に発表、紹介を始める。
沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983… 沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983年1月20日)は、日本の小説家、経済評論家。本名、大野兤(おおの ひろし)。 埼玉県越谷市出身、日本大学専門部法科中退。 時代小説を主に執筆した。 1936年、『天鼓』で第1回千葉亀雄賞受賞。※田中平六名義 1938年、『兜町』が第8回直木賞候補作となる。 1940年、「白狼」及び「花影」が第11回直木賞候補作となる。 1952年、「獄門帳」が第28回直木賞候補作となる。 1954年、「帰らぬ人々」が第31回直木賞候補作となる。 映像化された作品に「獄門帳」鶴田浩二、「大江戸喧嘩纏」大友柳太朗、「雪姫七変化」松島トモ子、「伊達六十二万石」(映画名「伊達騒動 風雲六十二万石」大友柳太朗)、「妻恋い獅子」(映画名「胡蝶かげろう剣」里見浩太郎)がある。
今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 199… 今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 1990年6月13日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。 1905年5月4日、京都市の西陣に織問屋を営む今西家の長男に生まれる。1928年、同志社大学法学部経済学科卒業。アメリカ合衆国やドイツに留学。1949年より同志社大学経済学部教授。専攻はドイツ経済史。1965年ころから「低開発」問題に関心をもち、ブラジル経済史、特にポピュリスト的指導者ヴァルガスの計画経済の研究にとりくむ。1976年の退職後は、同志社大学や他大学で後進の指導にあたった。1990年6月13日、ブラジルで逝去。享年85。
朴 允進(パク・ユンジン、日本名:福田允進(ふくだ いんじん… 朴 允進(パク・ユンジン、日本名:福田允進(ふくだ いんじん)、1905年5月2日 - ?)は、大韓民国の仏教僧侶。号は大愚(デウ、대우)、法名は領海(ヨンへ、영해)。 もともとは京畿道高陽郡の興国寺に在籍する僧侶であった。京城第一高等普通学校(後の京畿高等学校)を1927年に卒業し、仏教専修学校(後の東国大学校)に入学した。この学校在学中に、青年僧侶たちが韓龍雲を党首に推して組織した卍党に加入した。 仏教専修学校は朴允進の在学中に中央仏教専門学校へと昇格し、朴允進はこの専門学校の第1回卒業生として日本に留学した。東京の大正大学宗教学科で修学した。日本留学の期間中、東京の留学生たちが作る雑誌『금강저(金剛杵)』の編集と発行に参加し、文章も発表していた記録がある。
岸 輝子(きし てるこ、本名:伊藤 キシ〈いとう キシ〉、1… 岸 輝子(きし てるこ、本名:伊藤 キシ〈いとう キシ〉、1905年5月1日 - 1990年5月10日)は、日本の女優。夫は千田是也。千田らとともに劇団俳優座を創設。 北海道出身。北海高等女学校卒業。一旦は就職したものの俳優を志し、1925年に築地小劇場に入り研究生となる。初舞台は、『寂しき人々』。築地小劇場の分裂を経て、1936年、新築地劇団に入団。1940年に弾圧による解散後、1944年2月に青山杉作、千田是也、東野英治郎、小沢栄太郎、東山千栄子ら10人で劇団俳優座を創立、以降俳優座の中心女優として活躍し、多くの舞台に立った。『肝っ玉おっ母とその子供たち』はその代表作で、1966年に芸術祭奨励賞を受賞している。
大久保 康雄(おおくぼ やすお、1905年5月1日 - 19… 大久保 康雄(おおくぼ やすお、1905年5月1日 - 1987年1月12日)は、日本の英米文学翻訳家。日本における専門翻訳家の草分けで多くの翻訳者を育成した。茨城県生まれ。本名・保雄。日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本翻訳家協会、各会員。 結城郡八千代町芦ケ谷舟戸の出身で、安静小学校から旧制水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て慶應義塾大学英文科中退。大宅壮一のジャーナリスト集団に属して翻訳を修業、1931年、最初の訳本を刊行。1938年『風と共に去りぬ』の完訳を、友人・竹内道之助の経営する三笠書房から刊行。また1941年頃には翻訳活動と並行して、竹内・宮西豊逸・小出節子らと「霜月会」を結成、同人雑誌に小説を執筆していた。
犬塚 又太郎(いぬづか またたろう、1905年5月1日 - … 犬塚 又太郎(いぬづか またたろう、1905年5月1日 - 1994年)は、日本の漢学研究家、(財)致道博物館初代館長理事・常任顧問。
加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4… 加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4月30日 - 1990年〈平成2年〉10月11日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。加藤海運社長、宇部工業短期大学初代学長、参議院議員(1期)、衆議院議員(13期)、労働大臣(第34代)。 香川県高松市出身。先代・常太郎の長男として生まれ、襲名する。高松商業を経て、奉天外国語学堂支那語科を卒業。 父が急逝したため、24歳で家業を継ぎ、機帆船を主にした加藤海運社長となる。海運業に慣れてくると神戸に乗り出し、小型汽船70隻を統合し、日本近海汽船(現:川崎近海汽船)を設立。代表取締役になった。しかし、太平洋戦争が激しくなったことを受け、会社経営を友人に任せ帰郷した。
村上 春蔵(春藏、むらかみ はるぞう、1905年(明治38年… 村上 春蔵(春藏、むらかみ はるぞう、1905年(明治38年)4月30日 - 1995年(平成7年)4月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 大分県南海部郡大入島村(現佐伯市)で、村上袈裟松の息子として生まれる。父の土建業経営の関係で朝鮮に移住。京城簡易商業学校を卒業し、家業の土木請負業に従事。国内、朝鮮、満洲などで発電所、トンネルなどの工事を請け負い、1933年(昭和8年)村上組が設立され常務に就任した。 終戦後に朝鮮から引揚げ、別府の白雲山荘を買収して取締役社長に就任。戦後の復興に政治の力が不可欠と考え、兄村上勇と共に鳩山一郎に相談し、1946年(昭和21年)2月に日本自由党大分県支部を立ち上げ、同年、村上建設社長に就任。
後藤 嘉一(ごとう かいち、1905年(明治38年)4月29… 後藤 嘉一(ごとう かいち、1905年(明治38年)4月29日 - 1990年(平成2年)7月3日)は、昭和時代から平成時代初期に活躍した新聞記者、郷土史家。山形県の郷土史研究の先駆者として知られ、特に山形市史の編纂事業における中心的役割で評価されている。 小説家の後藤紀一は弟であり、孫は劇作家の後藤ひろひとである。 1905年(明治38年)4月29日、嘉一は山形県東村山郡山辺町の農家に、父嘉兵衛、母とみの間に生まれた。1920年(大正9年)3月、15歳で山辺小学校を卒業し、当初は自作農を志していた。しかし家業の農業が大正期の農業不況により困窮し、19歳で転身を余儀なくされた。 嘉一の初期の文学活動はこの時期からはじまっており、1919年(大正8年)9月には14歳で、同級生の高内寿郎、斎院喜一、峯田覚治らと文芸回覧月刊雑誌『楓』を第7号まで発行した。
東郷 豊治(とうごう とよはる、1905年4月28日 - 1… 東郷 豊治(とうごう とよはる、1905年4月28日 - 1969年3月17日)は、日本の心理学者、良寛研究家。 福井県敦賀市生まれ。1930年京都帝国大学文学部心理学科卒。1945年新潟県高田師範学校教授、1955年大阪外国語大学教授。 伝記『良寛』で1957年度読売文学賞受賞。堀口大學、鈴木虎雄と協力し良寛全集編さん・研究を行った。
龍村 謙(たつむら けん、1905年4月28日 - 1979… 龍村 謙(たつむら けん、1905年4月28日 - 1979年)は、日本の織物研究家。同じく織物研究家である龍村平藏の息子で二代目龍村平藏を襲名した。号は光翔。 1929年、東京帝国大学文学部美術史科を卒業する。梶井基次郎らの同人誌『青空』に参加した。 卒業年から翌年にかけ外遊した。帰国後織物製作、織物研究に専念する。ゴブラン織の研究のため渡仏した際、神戸港まで見送りに来た梶井は『榛名丸』の甲板上で、「行きたいなあ」と何度もつぶやき、「僕の代わりに見て来てくれ」と泣いたという[要出典]。 二代目龍村平蔵を襲名し、龍村織物美術研究所長となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
和田 敏明(わだ としあき、1905年(明治38年)4月28… 和田 敏明(わだ としあき、1905年(明治38年)4月28日 - 1990年(平成2年)11月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)、日本社会党所属。徳島県出身。 1929年(昭和4年)、東京帝国大学政治科卒。東京日日新聞に入り、同社スラバヤ支局長、毎日新聞サイゴン支局長、調査研究部長を経て、北海道日日新聞社取締役主筆となる。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙(北海道2区・日本社会党公認・20249票獲得)において初当選。1948年(昭和23年)12月23日、衆議院解散(馴れ合い解散)により議員失職。翌1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙で(北海道2区・日本社会党公認・13034票獲得)落選。
岡本 清一(おかもと せいいち、1905年4月26日 - 2… 岡本 清一(おかもと せいいち、1905年4月26日 - 2001年1月10日)は、日本の政治学者。 京都府北桑田郡京北町(現・京都市)出身。1930年同志社大学法学部卒。 1947年同志社大学教授、法学部長を務めた。1966年定年、1967年京都精華短期大学設立準備委員長となり、1968年同短大発足とともに学長に就任、1972年まで務めた。のち人文学部教授などを務め、1990年名誉教授となる。 憲法問題研究会、平和問題談話会に参加。 1966年京都市長選に日本社会党の推薦で立候補したが落選した。
山本 光春(やまもと みつはる、1905年(明治38年)4月… 山本 光春(やまもと みつはる、1905年(明治38年)4月26日 - 1988年(昭和63年)2月24日)は日本の実業家、ジャーナリスト。毎日新聞社社長を務めた。岡山県岡山市出身。 竹槍事件では整理部副部長。新名丈夫の記事に「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と見出しをつける。処分こそされなかったが、軍部の反発を招いたとして丸坊主になった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
芝本 武夫(しばもと たけお、1905年4月25日 - 19… 芝本 武夫(しばもと たけお、1905年4月25日 - 1992年9月30日)は、日本の林学者。
小葉田 淳(こばた あつし、1905年4月24日 - 200… 小葉田 淳(こばた あつし、1905年4月24日 - 2001年8月8日)は、日本の歴史学者(専攻は貨幣史・鉱山史・貿易史)。京都帝国大学名誉教授。日本学士院賞受賞者、学士院会員、文化功労者。 1905年、福井県坂井郡丸岡町(現在の坂井市)生まれ。1922年に福井中学校(現:福井県立藤島高等学校)、1925年に第四高等学校を卒業した。その後は京都帝国大学文学部史学科に進んだ。卒業論文「貨幣流通の發展」をまとめ、1928年に卒業。 卒業後は、堺市史編纂部嘱託となった。1930年、台北帝国大学文政学部講師に着任。後に同大学助教授に昇進。1944年に応召し、陸軍中尉に至った。戦後も1946年まで国立台湾大学副教授として同地にとどまったが、同年中に帰国した。
中山 正善(なかやま しょうぜん、1905年(明治38年)4… 中山 正善(なかやま しょうぜん、1905年(明治38年)4月23日 - 1967年(昭和42年)11月14日)は、日本の宗教家。天理教の2代真柱。管長。 天理教の教祖・中山みきの孫で初代真柱である中山眞之亮とその妻の中山たまへの長男として生まれた。三島尋常小学校在学中の1914年(大正3年)12月31日に眞之亮が亡くなり、翌1915年1月21日に10歳9ヶ月で管長に就任した。しかしながら幼少であったため、山澤為造が管長職務摂行者として教務に当たった。 14歳で旧制天理中学校に入学、19歳のときに旧制大阪高等学校に入学、1925年(大正14年)4月、学生の身分ながら正式に天理教管長に就任、この年に後の天理大学となる天理外国語学校を設立し、自ら校長となっている。
原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002… 原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002年2月7日)は、日本の俳優。1953年までの芸名は原 健作。広島県呉市出身。本名は松原 義男。時代劇を中心に脇役として活躍した。 所属は第二新国劇から千恵プロ、1937年に解散した後は日活太秦撮影所、1942年に大都京都、1949年から東映へ移り、最後の芸能事務所は龍プロダクション。 娘は女優の松原千明、孫はモデルの松原すみれ。 1923年に旧制呉港中学校を中退。新民衆劇学校(のち第二新国劇)に1期生として卒業、2期生だった大河内傳次郎とともに第二新国劇の看板役者となる。 1925年に聯合映画芸術家協会『弥陀ヶ原の殺陣』の国定忠治役で映画デビュー。
秦 明友(はた めいゆう、1905年(明治38年)4月22日… 秦 明友(はた めいゆう、1905年(明治38年)4月22日 - 1983年(昭和58年)12月10日)は、日本の政治家。埼玉県大宮市(現・さいたま市)長(第8代 - 第12代)。旧姓・安藤。元埼玉県議の秦哲美は長男。さいたま市議の西山幸代は孫。 埼玉県北足立郡馬宮村(のち大宮市、現・さいたま市西区)に生まれる。のち、秦家の養子となる。1925年(大正14年)鉄道省大宮工場(現・大宮総合車両センター)に入る。1932年(昭和7年)中央大学法律学科卒。 戦後、日本社会党に入る。国鉄労働組合大宮工場支部書記長、社会党大宮支部長、同党埼玉県本部財務委員長などを経て、1951年(昭和26年)埼玉県議会議員に当選し、2期務める。
小沢 久之丞(おざわ きゅうのじょう、正字体:小澤久之亟、1… 小沢 久之丞(おざわ きゅうのじょう、正字体:小澤久之亟、1905年4月22日 - 1988年12月14日)は、日本の工学者、航空機技術者である。斬新な真空チューブ列車を考案した。 愛知県名古屋市出身。東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。三菱重工業名古屋航空機製作所に就職し、第二次世界大戦中は四式重爆撃機「飛龍」を開発した。 1949年より名城大学理工学部教授に就任し、1971年から1972年まで学長を務めた。 1949年に『音速滑走体の構想』を発表した。1959年から愛知県の鍋田干拓地(現・弥富市)や農学部のあった鷹来キャンパス(春日井市)で実験をおこなった。真空パイプの中を走らせることで空気抵抗を減らす超音速滑走体の研究を進めた。
岩田 巌(いわた いわお、1905年4月20日 - 1955… 岩田 巌(いわた いわお、1905年4月20日 - 1955年3月3日)は、日本の会計学者。元一橋大学商学部教授。 東京都新宿区西大久保生まれ。先祖は武蔵野の郷士で、家には家系図が残されている。 1923年3月、私立豊山中学校(現・日本大学豊山中学校・高等学校)第4学年修了後、父の死去により、就職のためから早稲田実業学校(現・早稲田実業学校高等部)へ編入、1年間在籍するも、就職はしなかった。1930年、東京商科大学本科卒業、同年同大学研究科入学。大学時代はマックスウェーバーの研究に取り組む。1931年、中央会計研究所入所。1932年、東京商科大学研究科修了。1933年、東京商科大学予科講師、1937年同教授、1941年同大学助教授兼予科教授。
辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉… 辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉4月20日 - 1989年〈平成元年〉7月29日)は、日本の俳優。兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。本名は新倉武一。 島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)を経て、商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。 1919年、小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。 1926年に旅回りの一座に入り、長野県で初舞台を経験。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して東伍作の名で舞台に立つ。
泉 春子(いずみ はるこ、1905年〈明治38年〉4月20日… 泉 春子(いずみ はるこ、1905年〈明治38年〉4月20日 - 1998年〈平成10年〉?)は、日本の女優である。本名は、出生名が吉村 春子(よしむら はるこ)、俳優の中根龍太郎と結婚して山口 春子(やまぐち はるこ)、死別後に再婚して徳田 春子(とくだ はるこ)となった。デビュー作での芸名は沢村春子であったが、次の作品でこの芸名に改名した。身長は4尺3寸(約162.9センチメートル)、体重は12貫(約45.0キログラム)。 1905年(明治38年)4月20日、長崎県佐世保市下京町に「吉村春子」として生まれる。 1918年(大正7年)、旧制白南風小学校(現在の佐世保市立白南風小学校)を卒業、満15歳になる1920年(大正9年)には「娘歌舞伎」に入門する。
星名 秦(ほしな しん、1904年 5月20日 - 1984… 星名 秦(ほしな しん、1904年 5月20日 - 1984年9月26日)は、日本の元ラグビー選手で指導者。京都大学ラグビー部出身。元同志社大学工学部長、元同大学学長。
高木 正征(たかぎ まさゆき(または「せいせい」)、1904… 高木 正征(たかぎ まさゆき(または「せいせい」)、1904年5月17日 - 1994年6月1日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。極東選手権競技大会では100メートルおよび100ヤード、220ヤードで入賞を果たし、100メートルと200メートルで日本記録(タイ記録を含む)も樹立するなど、その才能を嘱望されながら、旧制山形高等学校時代に事実上陸上競技を引退した。 丹南藩藩主の分家筋に当たる高木正秋(高木正得の弟)を父として、東京府東京市赤坂区青山高樹町(現・東京都港区南青山)で生まれる。「高樹町」の町名は、丹南藩邸があったことに由来し、高木の生家も1000坪の敷地に80坪の邸を構えていた。 暁星中学校時代に陸上競技を本格的に始め、旧制高等学校や大学からの中学校招待レースでいくつも優勝を飾る。
西大路 隆敏(にしおおじ たかあき、1904年(明治37年)… 西大路 隆敏(にしおおじ たかあき、1904年(明治37年)5月15日 - 1982年(昭和57年)8月2日)は、日本の実業家。西大路家の第22代当主。父は西大路吉光。早稲田大学卒業。東京都出身。 東京都出身。子爵・西大路吉光とその妻で金刀比羅宮宮司・琴陵宥常の娘・八千代の長男として生まれる。早稲田大学卒業。1953年(昭和28年)に父の吉光が亡くなり西大路家の家督を継いだ。 私生活では日本電力社長・池尾芳蔵の次女である正子と結婚し、1男2女を授かった。 1982年(昭和57年)、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年〈明治37年〉5月13… 笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年〈明治37年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉3月16日)は、日本の俳優。身長171cm。 1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演した。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも、木下惠介、岡本喜八、山田洋次、黒澤明等の監督の作品に登場し、貴重なバイプレーヤーとして活動した。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。 熊本県玉名郡玉水村(天水村、天水町を経て、現在の玉名市)立花で父・淳心、母・トシの次男として生まれる。
谷 邦夫(たに くにお、1904年5月12日 - 1991年… 谷 邦夫(たに くにお、1904年5月12日 - 1991年11月23日)は、日本の政治家、歌人。 本名は谷 国夫(たに くにお)。 栃木県那須郡湯津上村(現大田原市)佐良土に生まれる。1920年(大正9年)3月、宇都宮商業学校を卒業。家業の商店を継ぐ傍ら、歌誌『創作』に入会し若山牧水に師事した。後に吉植庄亮の『橄欖』に入会する。 1942年(昭和17年)4月、湯津上村議会議員に当選した。以後5回当選し、1951年(昭和26年)4月から村議会副議長を4年間、1965年(昭和40年)4月から村議会議長を2年間務めた。途中、1957年(昭和32年)12月には合併をめぐる対立から村議会議員を辞職している(後述)。
高木 章(たかぎ あきら、1904年(明治37年)5月12日… 高木 章(たかぎ あきら、1904年(明治37年)5月12日 - 1966年(昭和41年)11月17日)は、日本の教育者、政治家。国際短期大学の創立者にして初代学長。息子は二代目学長の高木一明。衆議院議員(1期)。東京出身。 1926年、日本大学専門部法律科卒業。同専門部法律科副手に就く。 1928年より二松學舍専門学校講師。1933年中野高等無線電信学校を創立し、幹事に就任。 1941年、財団法人中野学園を設立し、同理事長に就任。中野学園中学校(旧制)を創立。 1946年、国際外国語学校(国際短期大学の前身)を創立し、同学校長に就任。 1948年、財団法人中野学園を財団法人国際学園に改称し、中野学園中学校(旧制)を国際中学校と国際高等学校に変更。
相良 次郎(さがら じろう、1904年(明治37年)5月11… 相良 次郎(さがら じろう、1904年(明治37年)5月11日 - 1991年(平成3年)4月29日)は、日本の英文学者。元青山学院大学教授。 父は大日本帝国陸軍の高級指揮官で、昭和の学校教育にも影響を与えた相良広一。母とみは渋谷氏宗家渋谷家の長女。戦後の日本に数多くの洋書・外国雑誌を紹介した出版史研究者で紀伊国屋書店元重役取締役の相良広明は実弟。工学博士で第12代東京工業大学学長の松田武彦と九州学院初代院長の遠山参良は義弟。第二次世界大戦中の満州国の大使館区で通訳者として活躍した田口喜美子は実妹。 1904年(明治37年)、東京に生まれる。軍人だった父の仕事の関係で日本統治時代の朝鮮は京城府にて少年時代を過ごす。
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月1… 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 1904年、福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)で生まれた。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人は敦賀に愛着を持っており、出身地として記載を続けた。
藤久保 三四郎(ふじくぼ さんしろう、1904年5月10日 … 藤久保 三四郎(ふじくぼ さんしろう、1904年5月10日 - 1983年6月2日)は、日本の経営者。日立化成工業社長、会長を務めた。栃木県出身。 1925年に東京高等工業学校電気工学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1961年11月に常務、1963年4月には日立化成工業社長に就任。1974年11月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任。 1970年4月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1983年6月2日脳出血のために死去。79歳没。
洪 吉善(ホン・ギルソン、朝鮮語: 홍길선、1904年5月1… 洪 吉善(ホン・ギルソン、朝鮮語: 홍길선、1904年5月10日または7月1日 - 1980年8月8日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家、ジャーナリスト。制憲・第2・4・5代韓国国会議員。本貫は南陽洪氏。 京畿道水原郡(現・水原市)出身。水原三一学校、培材中学校を経て、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)卒。1929年より水原醸造株式会社社長、水原新豊公立国民学校・水原梅香女子中学校・水原公立女子中学校後援会長、水原金融組合長、水原酒造組合理事長、マンジョンウォン専務理事、東亜日報社水原支局長、水原商工株式会社専務理事、朝鮮少年団水原郡連合会委員長、水原消防署長、水原商工会議所副会頭を歴任し、1939年に水原邑会議員に当選した。
武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年5月9日 - 1… 武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年5月9日 - 1946年3月31日)は、日本の小説家。代表作に、「日本三文オペラ」「井原西鶴」「銀座八丁」「一の酉」などがある。長男は詩人の武田文章(1933-1998)、次男は河出書房の編集者の武田穎介(1935-2001)。
浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月… 浅井 甚兵衛(あさい じんべえ、1904年〈明治37年〉5月9日 - 1984年〈昭和59年〉4月27日)は、日本の宗教家。妙信講(現:冨士大石寺顕正会)の創立者。 1904年(明治37年)、愛知県西尾市に生まれ、1923年(大正12年)、19歳で上京する。1926年(昭和元年)12月、22歳の時に白須郁三に折伏されて日蓮正宗に入信し、妙光寺(東京都品川区)所属の信徒となった。 1936年(昭和11年)、白須郁三と共に妙光寺から妙光院(現在の妙国寺。東京都板橋区高島平)へと所属寺院を移り、信徒総代となった。その後再び妙光寺に移る。1942年には、妙光寺所属の法華講の一講中として「東京妙信講」を結成し、講頭に就任した。
市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989… 市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989年11月10日)は、日本の国文学者、歌人。文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)。東洋大学名誉教授。雅号は「迯水居」。 長野県上高井郡小布施町生まれ。旧制大分高等商業学校、1941年東洋大学文学部国文学科卒業。1926年から出版社の辞書部に勤務、1948年から新村出の委嘱により岩波書店で「広辞苑」の編集主任を務めた。1953年東洋大学国文学科講師、1956年同教授、1973年退任、名誉教授。1961年「萬葉集考」で文学博士(東洋大学)の学位を取得。1973年から迯水短歌会を主宰し、機関誌を発行した。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。
橋本 鐵彦(はしもと てつひこ、1904年5月5日 - 20… 橋本 鐵彦(はしもと てつひこ、1904年5月5日 - 2001年4月9日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター。 東京大学出身。大学時代にはドイツ文学と新劇運動に没頭。インテリを買われ浅草で芝居の台本や芝居の現場監督をしていた。この頃に芝居を見に来た吉本の林正之助と知り合い、後に東京吉本の社長になる林弘高と3人でお茶屋で食事をする、林弘高の紹介で1931年12月に吉本興行部(のちの吉本興業)に入社。入社後は文藝部、宣伝部、映画部を立ち上げる。その後文藝部の部長になり秋田實、長沖一、吉田留三郎らを入社させる。1933年に宣伝部が創設されのちに部長となり「吉本演藝通信」「ヨシモト」などの広報誌を発表。
城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2… 城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2006年5月8日)は、日本の昭和時代に活動した画家、路上詩人。第二次大戦後の10年間、国鉄の有楽町駅前にて自作の詩集を手売りしていたことで知られる。 1904年、京都にて16代続いた老舗呉服・染物屋の長男に生まれる(京染め悉皆業の長男と表現する資料もある)。実母を亡くした後、継母との仲に悩んだ末、放浪を繰り返し、その後、18歳の時に上京する。小石川区の旧制私立豊山中学校(現日本大学豊山高校)定時制卒業。城米が文筆家の道を歩み始めたのは、神田区役所(現千代田区役所)に勤務していた1931年のこと。小説家の武者小路実篤のもとに税金の督促に赴き、そこで感化されたことによる。
斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 20… 斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 2001年6月13日)は、青森県弘前市出身の現代美術家。多摩美術大学教授。「さいとう ぎじゅう」と読まれることもある。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求して作品を制作した。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた。 1904年5月4日、青森県弘前市に生まれた。本籍は東京市四谷区左門町(現・東京都新宿区)。なお、本人は東京出身であるとも青森出身であるとも語ったことがあり、かつては文献によって出生地に揺らぎがあった。父親の斎藤長義は南部藩士の家に生まれた陸軍軍人(騎兵小将)であり、陸軍第8師団が設置されていた弘前市は父親の赴任地である。
金成 増彦(かなり ますひこ、1904年5月4日 - 200… 金成 増彦(かなり ますひこ、1904年5月4日 - 2003年9月10日)は、日本の経営者。富士電機社長、会長、福島放送会長を務めた。福島県出身。 1928年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に富士電機に入社。1947年12月に取締役に就任し、1949年8月に常務、1956年5月に専務を経て、1958年5月には社長に就任。1964年11月に常任相談役に就任。 1960年11月に藍綬褒章、1974年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2003年9月10日心不全のために死去。99歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。