植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 196… 植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 1963年10月30日)は、日本の哲学研究者。兵庫県出身。早稲田大学卒。早大助教授、1946年、教授。1963年、「プラグマティズムの基礎的研究」で文学博士。授与は死去の日付。英米哲学。
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植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 196… 植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 1963年10月30日)は、日本の哲学研究者。兵庫県出身。早稲田大学卒。早大助教授、1946年、教授。1963年、「プラグマティズムの基礎的研究」で文学博士。授与は死去の日付。英米哲学。
川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 192… 川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 1923年9月4日)は、大正時代の労働運動活動家で、初期の共産主義運動活動家。本名は川江善虎。関東大震災の混乱時に、亀戸警察署に検束され、労働運動の活動家であったために虐殺される。 長野県上田市出身。小学校を終えた後、日立鉱山の旋盤工となる。 1920年同志とともに上京して暁民会に参加。同年、日本社会主義同盟創立大会で検挙され入獄。1922年、日本共産党(第一次)の創立とともに入党し、渡辺政之輔らと南葛労働協会を結成、野田醤油労働争議など各地の労働争議に当たる。1923年4月5日、日本共産青年同盟(共青)の創立とともに委員長となる。 同年9月1日関東大震災発生時、川合は東京市麻布区(現・東京都港区)におり、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)の自宅に帰る途中母子が家の下敷きになっているのに遭い、母親は助け出せなかったが3人の幼児を救い出し、食べ物を与えたりして一晩下谷区(現・台東区)上野公園で抱いて過ごした。
梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1… 梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1996年4月14日は、日本の哲学者(経済哲学)。立命館大学名誉教授。 ヘーゲル、マルクスを専門とし、京都学派左派の戦時下抵抗思想と三木哲学批判で知られる。 徳島県出身。1928年京都帝国大学文学部哲学科(社会学)卒。西田幾多郎・田辺元にも師事。唯物論研究会に所属するが、1938年に検挙され転向。戦後は第六高等学校教授を経て、1950年に立命館大学教授。1959年「資本論の学的体系性 マルクス主義経済哲学の基礎づけのために」で立命館大学経済学博士。立命館大学経済学部教授、1963年定年退任、名誉教授。橘女子大学教授。1964年に廃止された立命館大学吉田寮の寮監を務めていた。
大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1… 大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1990年5月18日)は、日本の民俗学者。 1902年、山口県生まれ。新潟県古志郡長岡町(現・長岡市)育ち。 早稲田大学文学部を中退。柳田國男に師事し、日本民俗学会を設立し、代表も務めた。大橋図書館に司書として勤務したほか、成城大学教授として教鞭をとり、1973年定年退職し、名誉教授となった。
富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月… 富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月14日 - 1962年(昭和37年)3月7日)は愛媛県出身の俳人。本名富澤正三(とみざわ しょうぞう)。新興俳句の担い手として、現代詩の一分野としてのモダニズム俳句を追求した。代表句に「蝶墜ちて大音響の結氷期」がある。 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日本通運)東京本社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。
西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945… 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。愛称・通称はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。
桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月1… 桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月11日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、日本のドイツ語学者。 明治35年7月11日長野県南佐久郡岸野村(現佐久市)生まれ。 1919年 旧制野沢中学(現長野県野沢北高等学校)卒業。 1922年(大正11年3月31日) 旧制松本高等学校文科乙類卒業。 1925年(大正14年3月31日) 東京帝国大学独文科卒業 1925年(大正14年9月30日)旧制静岡高等学校教授。 1937年 (昭和12年3月31日)文部省在外研究員として独逸語独逸文学及び語学教授法研究のためドイツ出張(昭和13年11月30日まで) 1939年(昭和14年4月1日) 学習院教授 1944年(昭和19年1月10日)学習院高等科独語科主任 1947年(昭和22年3月31日)組織変更により学習院は財団法人学習院となる学習院教授、学習院高等科長 1947年(昭和22年4月1日)日本独文学会理事(46年5月8日まで) 1947年(昭和22年10月7日)学習院理事(26年5月31日まで) 1949年(昭和24年3月31日)法の定めるところにより財団法人学習院は学校法人学習院となる 1951年(昭和26年6月1日)学習院評議員(45年8月31日まで) 1956年(昭和31年4月1日)学習院大学文学部独文学科主任(37年4月30日まで) 1957年(昭和32年7月12日)学習院理事(45年8月31日まで) 1959年(昭和34年4月1日)文部省大学基準等研究協議会委員(35年3月31日まで) 1963年(昭和38年4月1日)学習院大学文学部長(45年5月31日まで) 1964年(昭和39年5月1日)財団法人ドイツ語学文学振興会理事長(52年7月19日まで) 1965年(昭和40年3月22日)ゲーテ・インスティトゥート(西独)からゲーテ牌(銀)受賞 1968年(昭和43年6月23日)私立学校教職員共済組合運営審議会委員(45年6月22日まで) 1968年(昭和43年7月1日)文部省国立高等専門学校ドイツ語教員選考および高等専門学校教員資格認定委員(50年3月31日まで) 1970年(昭和45年9月1日)学習院長(理事長)(56年8月13日まで) 1972年(昭和47年4月1日)私立大学懇話会副会長(52年6月9日まで) 1972年(昭和47年10月1日)文部省私立大学審議会委員(53年10月31日まで)
桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月1… 桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月11日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、日本のドイツ語学者。長野県南佐久郡岸野村(現佐久市)生まれ。
小松 信太郎(こまつ しんたろう、1902年(明治35年)7… 小松 信太郎(こまつ しんたろう、1902年(明治35年)7月9日 - 1987年(昭和62年)9月29日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員。 福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。1918年(大正7年)市立仙台商業学校(現仙台市立仙台商業高等学校)を卒業した。 本宮町農業協同組合長、本宮地区消費生活協同組合長、福島県信用農業協同組合連合会理事、福島県消費生活協同組合連合会理事などを務めた。 政界では、本宮町議会議員、福島県議会議員に在任。1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙に福島県第1区で当選した鈴木周次郎について、1957年(昭和32年)公職選挙法違反による当選無効が確定したため、同年9月に実施された再選挙に日本社会党公認で立候補して初当選し、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
一色 於菟四郎(いっしき おとしろう、1902年(明治35年… 一色 於菟四郎(いっしき おとしろう、1902年(明治35年)7月9日 - 1986年(昭和61年)6月28日)は、昭和時代の獣医師。家畜寄生虫学者。農学博士。 東京府に生まれる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学農学部獣医学実科を卒業。 同学部助手を経て、1930年(昭和5年)朝鮮総督府獣疫血清研究所助手となる。1937年(昭和12年)5月、水原高等農林学校(現ソウル大学校校農業科学生命大学)助教授、1938年(昭和13年)朝鮮総督府農事試験場技師、1939年(昭和14年)水原高等農林学校獣医学科教授となり、終戦を迎えた。 戦後帰国し、1945年(昭和20年)長野県北佐久郡農学校教諭、1946年(昭和21年)大阪獣医畜産専門学校を経て、1949年(昭和24年)浪速大学(現大阪府立大学)農学部教授となった。
神子上 恵竜(神子上惠龍、みこがみ えりゅう、1902年7月… 神子上 恵竜(神子上惠龍、みこがみ えりゅう、1902年7月9日 - 1989年1月4日)は、日本の仏教学者。浄土真宗の僧侶。 兵庫県東保福専寺・神子上憲了の子。1926年龍谷大学卒業。1961年「他力廻向思想の研究」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。龍谷大学教授、1963年奈良大学教授、名誉教授。浄土真宗勧学。子は神子上恵群(1936- 、2003-07年龍谷大学学長)。
戸田 清(とだ きよし、1902年7月8日 - 2001年9… 戸田 清(とだ きよし、1902年7月8日 - 2001年9月19日)は、日本の数学教育学者、柔道家。 1902年、岡山県生まれ。岡山の六高で高専柔道に励む。1921年までに初段となる。1921年、六高が開発した脚への関節技・膝跨関節十字固(膝十字固め)に最も熟練していて対四高戦で新兵器として使用した。相手が怒りだし蹴飛ばされる。相手は審判から注意され、耐えて引き分けとなる。だが、四高側が反則だと猛烈に抗議し出し、協議の結果、暫定的に以降使用禁止となる。この後、柔道で本格的に禁止技になったが、サンボやプロレス、MMAで使用されるようになった。 東京帝国大学理学部数学科を卒業。卒業後は広島高等師範学校教授。
佐瀬 昌三(させ しょうぞう、1902年7月8日 - 200… 佐瀬 昌三(させ しょうぞう、1902年7月8日 - 2001年6月23日)は日本の政治家、法律家、法学博士、衆議院議員、裁判官、法政大学教授、弁護士 1902年(明治35年)7月8日に千葉県山武郡上堺村(現在の横芝光町屋形)で生まれる。 法政大学法学部に入学し、在学中は法政大学弁論部に所属。1924年(大正13年)に法政大学卒業。同年高等文官試験行政科、司法科に合格し、検事に任官する。1930年(昭和5年)に法政大学講師となり、フランスに2年間留学をする。パリ法科大学で刑事法学研究室に所属し刑事法学を専攻する。 帰国後、1932年(昭和7年)に判事に転官し、東京地方裁判所判事の傍ら法政大学教授に就任し、刑法及び仏法の講義を行う。
今泉 篤男(いまいずみ あつお、1902年7月7日 - 19… 今泉 篤男(いまいずみ あつお、1902年7月7日 - 1984年1月19日)は、日本の美術評論家。 山形県生まれ。旧制山形高校を経て東京帝国大学卒。1932年ヨーロッパに渡り、パリ大学、ベルリン大学に学ぶ。1934年帰国、美術評論を始め、1936年美術批評家協会を創立、1952年国立近代美術館次長、1967年京都国立近代美術館館長、1969年まで務めた。
廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は… 廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名喜多 猶光(きた なおみつ)、新字体表記広田 昴のほか、広田 昂、広田 昻、広田 宏と表記に揺れがある。 1902年(明治35年)7月5日、兵庫県西宮市に生まれる。 大阪の旧制・大阪市立工業学校(現在の大阪市立都島工業高等学校)建築科を卒業し、喜多村緑郎、秋月桂太郎らが道頓堀の朝日座を拠点にした新派の劇団「成美団」(第2期)の俳優になる。1926年(大正15年)、御室撮影所時代のマキノ・プロダクションに入社する。1928年(昭和3年)、同社を退社、同じく同社を退社して独立した中根龍太郎が設立した中根龍太郎喜劇プロダクションに合流する。
矢口 麓蔵(やぐち ろくぞう、1902年(明治35年)7月5… 矢口 麓蔵(やぐち ろくぞう、1902年(明治35年)7月5日 - 1990年(平成2年)8月13日)は、日本の外交官。初代外務省入国管理部長、初代外務省移住局長、駐チリ特命全権大使、駐キューバ特命全権大使。 山形県出身。旧制山形県立鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科卒業。1931年外務省入省。特別調達庁事業局次長兼経営部長、連絡調整中央事務局第三部長、外務省管理局入国管理部長などを経て、外務省移住課参事官として移民政策を構想した。日本・カンボジア平和条約が締結された1955年からは外務省移住局長を務め、農業労働者のカンボジアへの移民を行う旨の大綱について合意を獲得した。
三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年… 三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年7月5日 - 1971年12月19日)は、日本の歴史学者、神話学者。海軍教授、大谷大学教授、同志社大学教授、大阪市立博物館館長、佛教大学教授などを歴任。 1928年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。戦前は、智山大学講師、京都帝国大学講師、海軍教授などを務めた。 戦後の1945年、海軍教授を退職して大谷大学講師となり、1946年に同教授、1955年から同志社大学教授を1960年まで務める。退職後は大阪市立博物館館長・佛教大学教授など歴任。朝鮮古代史で著名な東北大学名誉教授の井上秀雄などを指導したほかに、1960年から日本書紀研究会を主宰するなどして関西の日本古代史研究者を多く育てた。
深水 惣吉(ふかみ そうきち、1902年7月5日 - 198… 深水 惣吉(ふかみ そうきち、1902年7月5日 - 1982年5月24日)は、日本の実業家。山陽電気鉄道社長・会長、山陽百貨店代表取締役・会長などを務め、山陽グループの発展に大きく関与した。経理・会計部門出身の実務家として知られ、鉄道、百貨店、交通、観光、メディアなど幅広い関連事業の経営に携わった。 山口県大津郡仙崎通村(現在の長門市)出身。 彦根高等商業学校(現 滋賀大学経済学部)を1927年3月に卒業し、同年4月に宇治川電気(のちの関西電力、山陽電気鉄道)へ入社した。のちに会計畑を歩み、1942年4月に山陽電気鉄道の会計課長、1946年3月に会計部長となる。その後は山陽電気鉄道の経営陣に加わり、1947年10月に取締役、1952年2月に常務取締役、1954年11月に専務取締役へ昇進した。
岸本 誠二郎(きしもと せいじろう、1902年7月5日 - … 岸本 誠二郎(きしもと せいじろう、1902年7月5日 - 1983年4月5日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。専門は理論経済学。「分配と価格」に関する基本原理を作り上げた。 岡山県出身。第六高等学校を経て1925年東京帝国大学経済学部卒、同大学院入学。1940年「価格の理論」で経済学博士(東京商科大学 (旧制))。法政大学経済学部長、東京高等師範学校教授を経て、1946年京都帝国大学教授・経済学部長となる。京都大学経済研究所の創設に尽くし1962年初代所長となる。1966年定年退官、名誉教授、國學院大學経済学部教授。その後、同経済学部長。1979年國學院大學栃木短期大学3代学長(~1981年)に就任。
槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7… 槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7月4日 - 1964年(昭和39年)10月)は、日本の政治家。鳴門市長。九州帝国大学法文学部卒業。 1928年(昭和3年)、九州帝国大学法文学部法科を卒業後、南満州鉄道へ入社。 1932年(昭和7年)、満州国国務院総務庁法制局統計処資料課長に起用され、その後、同国官吏として新京特別市財務処長、ハルピン郵政管理局長、国務院総務庁参事兼厚生参事官などを歴任。 戦後は愛媛県松山市共催の愛媛県産業大博覧会事務局長として腕を振るい、1951年(昭和26年)4月26日に徳島県の鳴門市長に就任。 市長退任後は松山市に住み、日刊工業新聞松山市局長を勤めたが、1964年(昭和39年)10月、同地で死去。
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日… 吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日 - 1967年〈昭和42年〉7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。 『南京新唱』を読み、会津八一にひかれて師事。生涯を病とたたかいつつ、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集がある。 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。
山内 恭彦(やまのうち たかひこ、1902年7月2日 - 1… 山内 恭彦(やまのうち たかひこ、1902年7月2日 - 1986年10月14日)は、日本の理論物理学者。東京大学名誉教授。理学博士(東京帝国大学、1938年)。神奈川県生まれ。祖父は山内堤雲(六三郎)。
淡野 安太郎(だんの やすたろう、1902年(明治35年)7… 淡野 安太郎(だんの やすたろう、1902年(明治35年)7月2日 - 1967年(昭和42年)9月28日)は、日本の哲学者。台北帝国大学助教授、東京大学教授、学習院大学教授を歴任。 兵庫県出身。京都帝国大学哲学科卒。台北帝国大学助教授、東京大学教養学部助教授、1957年教授、63年定年退官、学習院大学教授。専門はフランス哲学、社会思想史。
柴野 和喜夫(しばの わきお、1902年7月2日 - 198… 柴野 和喜夫(しばの わきお、1902年7月2日 - 1982年12月18日)は、日本の政治家、農林官僚。滋賀県知事(第34代)。石川県知事(第44-45代)。参議院議員(1期)。石川県出身。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年>… 井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年> 6月30日 - 1977年 <昭和52年> 10月27日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1926年に関西大学専門部経済科を卒業し、同年に栗本鐵工所に入社。 1946年11月に副社長に就任し、1961年5月には社長に昇格。1967年10月に相談役を経て、1969年6月には特別顧問に就任した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年10月27日、老衰のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 19… 外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 1994年1月23日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1927年に京都帝国大学工学部を卒業し、1932年11月に神戸製鋼所に入社した。1949年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1958年11月から社長に就任し、在任中は鉄鋼業界で初めてプラントの輸出に手掛けたり、同社で初の海外事務所を開設し、海外進出にも積極的に取り組んだ。1972年5月から1974年11月までに会長を務めた。 1976年11月から1982年10月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、1981年の神戸ポートアイランド博覧会の開催に尽力した。
阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6… 阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6月29日 - 1954年〈昭和29年〉4月30日)は、日本のジャーナリスト、政治家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)生まれ。1927年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、国民新聞社に入社。政治部記者、政治部次長、論説委員を歴任した。 政治ジャーナリストとして活動する一方早くから政界入りを志し、1936年に立憲民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に立候補したが落選。その後1942年に行われた翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し初当選、翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 阿子島が総選挙に初当選したのは翼賛選挙だったが、落選したとはいえ政党解消前に民政党公認で総選挙に立候補したことがあったことや、ジャーナリスト時代に衆議院議長を務めたこともある民政党の大物政治家・藤沢幾之輔の伝記を上梓したこともあったため、阿子島は翼賛議会においては戦前の民政党の系譜を受け継ぐ政治家とみなされた。
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈… 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈明治35年〉6月25日 - 1953年〈昭和28年〉1月4日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第二皇子。明治天皇の皇孫にあたる。兄に昭和天皇、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。 宮家の一つである秩父宮の家祖。御称号は淳宮(あつのみや)。身位は親王。お印は若松(わかまつ)。大日本帝国陸軍の軍人でもあり、階級は少将。勲等功級は大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はいない。 東京・赤坂の青山御所(東宮御所)で誕生し、兄の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)とともに、生後4カ月で皇孫御養育掛・枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
市原 豊太(市原 豐太、いちはら とよた、1902年6月22… 市原 豊太(市原 豐太、いちはら とよた、1902年6月22日 - 1990年8月14日)は、日本のフランス文学者、随筆家、翻訳家。 東京で生まれる。父市原卯之助は、山形県出身で帝国海軍将官だった。 1915年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1920年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、下村三郎(元最高裁判所判事)、菊池正士(物理学者)、坪井忠二(東京大学名誉教授)、中島健蔵(フランス文学者)などがいた。旧制第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学文学部仏文科卒。 浦和高等学校教授、第一高等学校教授、東京大学教養学部教授、1963年定年退官、青山学院大学教授、獨協大学教授、獨協大学学長代行を経て名誉教授。
倉田 元治(くらた もとはる、1901年(明治34年)7月2… 倉田 元治(くらた もとはる、1901年(明治34年)7月22日 - 1989年(平成元年)3月19日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、同社会長、日本ソーダ工業会会長などを務めた。 福島県会津若松市で豪商倉田為実の家系に生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を経て、1925年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、旭硝子入社。三菱化成工業尼崎工場長在任中の1945年には尼崎工業会初代会長に就任した。1946年尼崎商工会議所副会頭。 1950年旭硝子常務取締役。1961年日本建鉄取締役、日本光学工業取締役。1963年旭硝子副社長。1967年から旭硝子社長を務めた。
蒲原 稔治(かもはら としじ 1901年7月22日 - 19… 蒲原 稔治(かもはら としじ 1901年7月22日 - 1972年3月26日)は、日本の生物学者。主に土佐湾を中心に魚類の研究を進めて多くの新種を発表。魚類の分類に大きな業績を残した。 1901年(明治34年)、高知県長岡郡五台山村に生まれる。1919年(大正8年)年、高知県立第一中学校(現、高知県立追手前高等学校)を卒業後、東京逓信官吏練習所に入学するも同年中に退学。1920年(大正9年)、松山高等学校理科甲類入学。1923年(大正12年)、東京帝国大学理学部動物学科入学。1926年(昭和元年)に同大学を卒業.同年、広島輜重兵第5大隊に入隊。翌1927年(昭和2年)に帰休し,旧制高知高等学校動物科講師嘱託となる。
古田島 薫平(こだじま くんぺい、1901年7月22日 - … 古田島 薫平(こだじま くんぺい、1901年7月22日 - 1989年8月23日)は、日本の政治家・実業家である。 元江別町議会議員・第7代江別町長・初代江別市長。関矢孫左衛門の孫。 1901年、新潟県北魚沼郡川口村(現・長岡市)で父の要次郎、母の田鶴の未子として生まれた。北海道帝国大学に入学し、農学を修め、1929年3月卒業と同時に、父の要次郎が1919年から社長を務めていた北越殖民社に入社し、東野幌の筋違に農場を開いた。 1934年には、冷水害対策の実現を国等に強く迫る地域の輿望を担って町議会議員に当選した。同年8月、薫平は殖民社の専務取締役に就任し、営農指導に力を注いだ。また、当時実用化の緒についていた町村敬貴創案の土管暗渠に着目し、社の渡辺楽治を介して教えを乞い、施工した。
磯部 巌(いそべ いわお、1901年(明治34年)7月21日… 磯部 巌(いそべ いわお、1901年(明治34年)7月21日 - 1998年(平成10年)9月8日)は、日本の内務官僚。日本中央競馬会保健組合顧問。(株)山一土建相談役。弁護士磯部醇の長男。 愛知県名古屋市出身。1924年(大正13年)高等試験行政科試験合格。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。内務省に入り警保局図書課勤務を経て1927年(昭和2年)島根県警防課長となり、山梨・滋賀・長崎各県事務官、行政裁判所評定官、大分県学務部長、厚生省社会保険局庶務課長、茨城・兵庫・福井・福島各県内政部長、秋田県知事を歴任。 1949年(昭和24年)、参議院労働委員会専門員に任ぜられる。
柴田 正(しばた ただし、1901年7月21日 - 1968… 柴田 正(しばた ただし、1901年7月21日 - 1968年3月13日)は日本の実業家。理化学ガラスの製造メーカー柴田科学株式会社の創業者。日本理化学硝子機器工業会会長、日本科学機器団体連合会理事などの要職を務め、業界の発展に貢献。 愛知県豊田市にて柴田鏡三郎とつる夫婦の長男として誕生する。祖父の柴田順平は挙母藩の郡奉行を務めていた。15歳の時、家族と共に東京へ上京し、浅草吉野町の小熊信蔵の経営する硝子工場へ弟子入りし、理化学硝子工業への第一歩を踏み出す。17歳の時、本郷弓町の村井友次郎のガス加工場へ引き抜かれて行く。大正十年(1921年)本郷金助町に柴田製作所を創業し、理化学硝子の加工品の製造販売を始めた。
谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939… 谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939年9月12日)は、日本の俳優である。愛称は「タニカン」、本名は岡村 文雄(おかむら ふみお)である。第二次世界大戦後、同姓同名のコメディアン・俳優の谷幹一が登場したころにはすでに他界していた。 1901年(明治34年)7月18日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)に「岡村文雄」として生まれる。 神田区錦町(現在の千代田区神田錦町)にあった錦城学校尋常中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、美術学校に入学、日本画を専攻する。19歳になる1920年(大正9年)10月に設立された松竹キネマ研究所に入所、小山内薫に師事した。翌1921年(大正10年)8月には同研究所は解散した。
日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月1… 日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日 - 1956年(昭和31年)1月29日)は、日本の俳人。東京都出身。本名は克修(よしのぶ)。 『ホトトギス』で学んだ後、『旗艦』を創刊、男性が眼差す女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は『青玄』を創刊・主宰し、一転して静謐な句を作った。 東京市下谷区上野山下町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。1905年より朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校を経て京城中学校(現在のソウル高等学校)で学ぶ。その後帰国し、1918年、第三高等学校第一部乙類(英文科)入学。歌俳をたしなんだ父の影響で、草城もその影響で10代から文学に親しんだ。
青柳菁々(あおやぎ せいせい 1901年〈明治34年〉7月1… 青柳菁々(あおやぎ せいせい 1901年〈明治34年〉7月16日 - 1957年〈昭和32年〉1月1日)は、福井県福井市出身の俳人。 講談社の月刊『現代』の編集記者を経て、新潮社に入社。『小説新潮』を創刊させる。1947年に独立し、近代出版社を創業。文芸書を中心とした書籍のほか月刊雑誌『文学の世界』を創刊、谷崎潤一郎、三島由紀夫らの作品を掲載した。 また俳人としては臼田亜浪の俳句結社「石楠」に参加、最高幹部となった。息子は、文化放送、フジテレビの元アナウンサーでジャーナリストの青柳森。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
重成 格(しげなり かく / ただす、1901年7月13日 … 重成 格(しげなり かく / ただす、1901年7月13日 - 1956年10月16日)は、日本の内務官僚、政治家。鹿児島県知事(官選第30代、公選初代-第2代)、参議院議員(1期)。 紡績会社に勤めていた岡山県岡山市の重成壽太郎の長男として生まれる。兵庫県武庫郡須磨村(現 神戸市の一部)の須磨尋常高等小学校(現 神戸市立西須磨小学校)尋常科卒業。兵庫県立第二神戸中学校(旧制神戸二中、現 兵庫県立兵庫高等学校)から第一高等学校(旧制)へ進学。須磨小、神戸二中では島田叡(内務官僚、官選沖縄県知事)と同期。また、神戸二中では島田叡、渡辺大陸(後にプロ野球監督)、有馬大五郎(音楽学者、国立音楽大学学長)らと野球部に所属。
小山 いと子(こやま いとこ、1901年7月13日 - 19… 小山 いと子(こやま いとこ、1901年7月13日 - 1989年7月25日)は日本の作家。高知県長岡郡大篠村(現・南国市)篠原出身。出生名は池本 イト、結婚後は小山 イト。綿密な調査に基づき社会問題を扱った作品が多く、清純なヒューマニズムと社会性が特徴である。「執行猶予」で第23回直木三十五賞を受賞した。『読売新聞』紙上の人生相談「人生案内」回答者を務め、皇太子妃美智子に関する小説連載中止騒動に巻き込まれたことでも知られる。 福岡女子師範学校(現・福岡教育大学)を卒業。在学中に歌人の橋田東聲の門下生となる。1920年(大正9年)、19歳で父親により結婚を強要されるが、相手を好きになれず、男性に対する反逆心を持ち始める。
稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉… 稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉7月12日 - 1930年〈昭和5年〉4月15日)は、三重県名張市出身の歌人。 1901年(明治34年)に、三重県名張市本町の煙草元売捌商・稲森惣兵衛の長男として生れた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)を卒業し、1921年(大正10年)、20歳の時、第一早稲田高等学院政治経済学科入学。学院時代から歌人・窪田空穂教授に師事。和歌を作り始めた。早稲田同人誌『自画像』に和歌や小説を発表し、島村民蔵主催の演劇研究会に参加するなど活躍し、その機関誌に戯曲も寄稿していた。 早稲田大学国文学科に進んだ宗太郎は、三重県立第一中学校時代の2年先輩の中谷孝雄と、中谷の友人・梶井基次郎からの誘いで、彼らと一緒に同人誌『青空』の創刊メンバーとなった。
小枝 一雄(こえだ かずお、1901年(明治34年)7月12… 小枝 一雄(こえだ かずお、1901年(明治34年)7月12日 - 1975年(昭和50年)6月22日)は、昭和期の政治家。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)、岡山県久米郡加美町長。農林畑一筋に活動し「地下足袋の小枝」と呼ばれた。 岡山県久米郡打穴村(中央町を経て現美咲町)の農家に生まれる。打穴尋常高等小学校を卒業。その後、東洋大学経済学部で学んだ。農業のかたわら中国民報(現山陽新聞)通信員となる。打穴村役場書記に就任し、同助役を務めた。1936年(昭和11年)岡山県会議員補欠選挙で当選し、3期在任した。その後、加美町長を務めた。 国民協同党岡山県支部長となり、1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で旧岡山1区から出馬して初当選。
川勝 傳(かわかつ でん、1901年(明治34年)7月12日… 川勝 傳(かわかつ でん、1901年(明治34年)7月12日 - 1988年(昭和63年)4月23日)は、昭和初期から末期(1930年代 - 1980年代)の日本の経済人・経営者。元・南海電気鉄道会長。南海中興の祖と呼ばれる。 京都府船井郡富本村(のち八木町、現・南丹市)出身。1928年(昭和3年)、立命館大学経済学科卒業。電通へ入社。後同盟通信に転じ経済記者となる。1937年、同盟通信社内国経済部長ついで大日本紡績連合会理事・東京出張所長。寺田合名理事となり、後日本スピンドル製造の社長に就任。 相次ぐ事故で経営が傾いていた南海電気鉄道会長兼社長をはじめ、南海ホークスオーナー、南海建設(現・南海辰村建設)、南海不動産各会長などの南海グループ企業の他、日本民営鉄道協会会長、毎日放送監査役、桃山学院理事長など多くの要職を歴任。
竹脇 又一郎(たけわき またいちろう、1901年 <明治34… 竹脇 又一郎(たけわき またいちろう、1901年 <明治34年> 7月11日 - 1979年 <昭和54年> 6月29日)は、日本の物理学者。主な著書に「物理学」(三省堂)がある。大阪大学名誉教授。位階は正四位。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉… 赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉7月9日 - 1962年〈昭和37年〉10月24日)は、岡山県岡山市出身の実業家。元赤沢農機具製作所代表取締役社長。元岡山県観光連盟会長。 1901年(明治34年)7月、岡山市に生まれる。関西中学(現・関西高校)へ進学するも中退する。 大正末期から昭和初期にかけて農機具製造工場を経営する。1943年(昭和18年)、三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として治見工具製作所を設立する。1945年、設備を統合し、赤沢農機具製作所として発足し、社長を務めた。 その後、昭和倉庫、岡山糧肥、日本興油工業、岡山会館、光南台観光開発、岡山空港ビル社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮と呼ばれた。
渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 19… 渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 1955年12月11日)は、兵庫県出身のプロ野球監督。 神戸二中を経て1920年(大正9年)に明治大学予科へ入学し、野球部の剛球投手として活躍。しかし大学生活4年目の1923年(大正12年)に学歴詐称が発覚して明大を退学する。 台北交通団ではエースとして1931年の第5回全日本都市対抗野球大会で準優勝に貢献。 戦後は1946年シーズン終了後、宇高産業社長の宇高勲から宇高レッドソックス監督として迎えられるが、チームは日本野球連盟に加盟を拒否された。その後は宇高が会長となった国民野球連盟の発足に尽力。1950年、大洋ホエールズの総監督(初代監督)に就任したが、総監督の立場にとどまり実際の指揮は中島治康に任せていたという。
円谷 英二(つぶらや えいじ、1901年〈明治34年〉7月7… 円谷 英二(つぶらや えいじ、1901年〈明治34年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉1月25日)は、日本の特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)の初代社長。福島県岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)出身。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)。 昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様とも呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史と重なっている。 一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。
山代 吉宗(やましろ よしむね、1901年7月7日 - 19… 山代 吉宗(やましろ よしむね、1901年7月7日 - 1945年1月14日)は、日本の労働運動家。 福島県石城郡磐崎村(現いわき市)生まれ。1922年、明治大学政経科卒業。父親の跡を継いで常磐炭田で飯場頭となった。1926年、日本労働総同盟日本坑夫組合磐城支部を、続いて同常磐地方連合会を結成、このため解雇された。1927年1月に起こった磐城炭礦争議を指導、同年5月の入山炭礦争議を支援した。また労働農民党磐城支部を結成、支部長・中央執行委員に選任された。磐城炭礦争議で敗北、茨城県で地下活動に入った。この頃、日本共産党に入党。田中ウタをハウスキーパー (日本共産党)にする。 1929年(昭和4年)の四・一六事件で検挙。
明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月… 明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月5日 - 1939年(昭和14年)6月9日) は、昭和初期に活動した日本の歌人である。本名は野田勝太郎。「もし長寿を保ったなら、昭和時代を代表する大歌人となったろう」とは大岡信の言である。 1901年 (明治34年) 7月5日、沼津市に三男として生まれた。2人の兄と1人の妹がいる。もう1人弟がいたが出生後間もなく亡くなっている。生家は経済的に恵まれており、沼津商業学校を終えると静岡師範学校へ入り教職の道に進み、1920年 (大正9年) に師範学校を卒業後、小学校教員となった。 1924年、同僚の麻子と結婚、翌1925年 (大正14年) には長女の瑞穂、続いて次女の和子をもうけた。
岡本 潤(おかもと じゅん、1901年〈明治34年〉7月5日… 岡本 潤(おかもと じゅん、1901年〈明治34年〉7月5日 - 1978年〈昭和53年〉2月16日)は、日本の詩人、脚本家である。本名-保太郎。 1901年(明治34年)7月5日、埼玉県児玉郡本庄町(現在の同県本庄市)に岡本保太郎として生まれる。 1906年(明治39年)ごろ両親が離婚し、母とともに、京都に住む母方の祖父に引き取られる。旧制・深草尋常高等小学校(現在の京都市立深草小学校)に入学するが、4年を終了した時点で本庄に帰る。1年後に京都に戻り、旧制・平安中学校(現在の龍谷大学付属平安中学校・高等学校)に入学した。卒業後上京し、中央大学、東洋大学にそれぞれ入学し、いずれも中途退学した。 大杉栄、クロポトキンらのアナキズムに共鳴、19歳になる1920年(大正9年)、同年に結成された日本社会主義同盟に参加した。