木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月1… 木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月14日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者、合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した。 兵庫県城崎郡豊岡町(現: 豊岡市)に三人兄弟の次男として生まれる。父・松吉は特産「柳行李」製造卸業。1920年(大正9年)3月上京。ヴァイオリンを川上淳、声楽を澤崎定之に師事。1922年(大正11年)4月東京音楽学校予科入学。1926年(大正15年)同校本科声楽部を卒業し研究科進級。ペツォード、ネトケ=レーヴェに師事。 ベートーヴェン『第九』は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、1927年(昭和2年)5月新交響楽団(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏「ベートーヴェン没後百周年演奏会」でソリストとしてデビュー。
姜 昇求(カン・スング、朝鮮語: 강승구、1903年10月1… 姜 昇求(カン・スング、朝鮮語: 강승구、1903年10月14日 - 1986年1月8日)は、大韓民国の政治家。第3・5・6代韓国国会議員。 ソウル市鍾路区または京畿道出身。京城第二高等普通学校(現・景福高等学校(朝鮮語版))、普成高等普通学校(現・普成高等学校(朝鮮語版))卒。東京帝国大学(現・東京大学)中退、東京物理学校(現・東京理科大学)修了。三光精米株式会社支配人、大韓青年団(朝鮮語版)楊州郡団長、自由党楊州郡党委員長を経て、1961年に新民党訓練部長を務めた。その後は民衆党京畿第4地区党委員長・院内対策委員を歴任した。 1954年の第3代総選挙当選時は自由党所属だったが、のちに離党したことが広く知られている。
高木 恭造(たかぎ きょうぞう、1903年(明治36年)10… 高木 恭造(たかぎ きょうぞう、1903年(明治36年)10月12日 - 1987年(昭和62年)10月23日)は、日本の方言詩人(津軽弁)、医師。推理作家の高木彬光は恭造の甥にあたる。 1903年、青森県青森市に三代続いた開業医の末っ子として生まれた。橋本尋常小学校、青森県立青森中学校を卒業後、一本木村袰月へ代用教員として赴任する。袰月での生活は4ヶ月間ではあったが、後の『まるめろ』のモチーフとなる。高木の没後、当時の教え子たちによって袰月集落を見下ろす高野崎に文学碑が建立されているほか、袰月集落内の国道280号沿いにも文学碑が建立されている。 1926年に弘前高等学校を卒業した後、青森日報社へ入る。
増田 渉(ますだ わたる、1903年10月12日 - 197… 増田 渉(ますだ わたる、1903年10月12日 - 1977年3月10日)は、日本の中国文学者。 1903年、島根県八束郡恵曇村(現:松江市鹿島町)で生まれた。旧制松江高等学校(現:島根大学)を経て、1926年、東京帝国大学文学部を卒業。 1931年、上海で晩年の魯迅に会い師事。魯迅の家に10ヶ月間通い、『史略』などの講義を直接受けた。帰国後も魯迅との書簡の往復は続いた。1935年、『支那小説史略』の日本語完訳版を出版。佐藤春夫と『魯迅選集』を翻訳・刊行し、本格的に作品紹介を行った。 1949年、島根大学文理学部教授。1953年、大阪市立大学教授。1967年関西大学教授。1974年、関西大学を定年退職。
新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12… 新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12日 - 1963年3月23日)は昭和初期から中期に活躍した芸者歌手。鹿児島県の種子島熊毛郡北種子村(現在の西之表市)出身。本名は中山嘉子。旧姓は今村、旧名はタネ。(読み方は同じで「タ子」と書かれた書物もある)。作曲家中山晋平の後妻。享年59。 1903年(明治36年)10月12日、鹿児島県種子島熊毛郡北種子村(現・西之表市)で父今村正義、母チカの元に9人兄妹の長女(第1子)として誕生。出生地の種子島に因んで「タネ」と名付けられた。間もなく両親と鹿児島市に移り住む。 正義は本来畳職人であったが、水商売を好み旅館や料亭など幾多の商売を手がけるもいずれもうまく行かず、鹿児島市内を転々として過ごした。
久保 常明(くぼ つねあき、1903年10月11日 - 没年… 久保 常明(くぼ つねあき、1903年10月11日 - 没年不明)は、日本の経営者。香川県出身。 1929年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に近畿日本ツーリストに入社。1955年9月に近畿日本ツーリスト専務に就任し、1958年10月に社長に就任。1976年1月に取締役に退いた。 1976年4月に勲四等瑞宝章を受章。
広幡 増弥(ひろはた ますや、1903年(明治36年)10月… 広幡 増弥(ひろはた ますや、1903年(明治36年)10月11日 - 1988年(昭和63年)11月11日)は、日本の実業家。海軍技術少将。広幡家の第11代当主。東京都出身。父は伊藤安吉。養父は広幡忠隆。 東京都出身。海軍軍人・伊藤安吉とその妻で宮中顧問官・吉田要作の二女である貴代の次男として生まれる。東京帝国大学造船科を卒業後、海軍に入り海軍技術少将となる。 私生活では広幡忠隆の長女である信子と結婚し、広幡家の養子に入り11代当主となる。信子との間には3男を授かったが、1955年(昭和30年)に信子に先立たれ、後に工藤静と再婚した。 1988年(昭和63年)、死去。 忠幸 - 豊忠 - 長忠 - 前豊 - 前秀 - 経豊 - 基豊 - 忠礼 - 忠朝 - 忠隆 - 増弥 - 忠恒 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
石山 健二郎(いしやま けんじろう、本名;石山 繁一、190… 石山 健二郎(いしやま けんじろう、本名;石山 繁一、1903年10月10日 - 1976年5月10日)は、日本の俳優。広島県広島市生まれ。息子は石山輝夫。旧制私立修道中学校卒業。
巌谷 英一(いわや えいいち 1903年10月10日 - 1… 巌谷 英一(いわや えいいち 1903年10月10日 - 1959年7月8日)は、日本の海軍軍人。 1939年5月、日本郵船照国丸にて欧州へ向かう。ドイツ・ベルリンの駐独日本海軍武官室に勤務、航空機製造技術担当。滞独中、海軍技術中佐に進級。1944年、遣独潜水艦作戦によりドイツからジェットエンジン等の技術を日本に持ち帰った。 東京府出身。1929年(昭和4年) 東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造兵中尉任官、海軍航空本部の戦闘機担当官となる。局地戦闘機「雷電」の開発に関しては、海軍航空本部技術部に三菱重工業の堀越二郎を招き要請した。 遣独潜水艦作戦(第四次遣独艦。1943年12月にシンガポール出航)によりドイツから、ジェットエンジン・ロケットエンジン等の最新の軍事技術情報を日本に齎す。
本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36年… 本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36年)10月8日 - 1971年(昭和46年)7月24日)は、京都府出身の東京府東京市選出の政治家、教育者。衆議院議員、早稲田大学(以下、早大)教授、早大ラグビー部監督 & 選手。 京都市下京区寺町通五条上るの裂地袋物製造卸の本領順三郎の次男として生まれる。弟は正三郎(家業を継ぐ)、千吉郎(早稲田の工業出身)。叔父の善次郎は神戸市古湊通の貴金属時計商。京都市立第一商業学校(現、京都市立西京高等学校)を経て早大に進学。同校のラグビー部で活動し、ポジションはスクラムハーフ(SH)。1927年(昭和2年)のオーストラリア遠征では主将を務めた。卒業後の1928年(昭和3年)に早大監督に就任し、2シーズン同職を歴任。
實川 清之(じつかわ きよし、1903年10月6日 - 19… 實川 清之(じつかわ きよし、1903年10月6日 - 1980年9月11日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(4期)。 1903年、千葉県山武郡千代田村(現:芝山町)で農家の子として生まれる。父伊三郎は、村の信用組合理事のほか、村会議員や村役場助役などの公職を勤めたが、實川がまだ幼い頃に肺結核により他界した。本業の農業を人任せにしていた、大酒飲みの伊三郎は、實川家の資産を半減させてしまっていた。 千代田尋常高等小学校ののち旧制成田中学校で学ぶが、3年生のときに生徒によるストライキに関わり、退学。その後上京して日本大学中学校に転入し、ここでも身体検査に反対して停学処分を受けている。 1922年に中学を卒業して日本大学法文学部社会学科に入るが、社会主義運動に参加して千葉県での農民組合結成や日本学生社会科学連合会の活動家として軍事教練反対などの活動を行い、1926年に治安維持法違反で逮捕・収監され、授業料を納められず大学中退となる。
北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年(明治36年)10月… 北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年(明治36年)10月5日 - 1982年(昭和57年)3月18日)は日本の作家、児童文学者、詩人。本名、北畠美代。 10人きょうだいの6番目の次女として青森市に生まれる。父は青森大林区署の役人。 1920年、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、『主婦の友』『婦人倶楽部』に投稿して入選を果たす。1922年、高等女学校卒業後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学したが、脊椎カリエスを病んだため1年半で中退し、青森に帰郷。 恢復後、1924年から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし脊椎カリエスが再発したため、1926年に退職。
藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)1… 藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)10月5日 - 1988年(昭和63年)2月4日)は、日本の鉄道技術者。第7代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1973年 - 1976年)。太っ腹の親分肌といわれ、トンネルや橋梁の技術に精通していたことから“トンネル松”と呼ばれていた。 北海道雨竜郡一已(いちゃん)村(現在の深川市)の農家藤井豊吉・チエの長男として生まれる。農家の次男であった父豊吉と母チエは1900年5月に香川県大川郡福栄村から、当時開拓が始まったばかりの一已村に親戚を頼って娘2人を連れて移住している。移住してしばらくは極貧の生活であったが、1914年から始まった第一次世界大戦による豆需要により生活が安定。
矢口 孝次郎(やぐち たかじろう、1903年10月4日 - … 矢口 孝次郎(やぐち たかじろう、1903年10月4日 - 1978年11月12日)は、日本の経済学者。関西大学教授、第22代関西大学学長、第4期・6期・7期・8期日本学術会議会員、文部省の学術奨励審議会専門委員等を歴任。 長野県松本市出身。旧制松本商業学校を経て、1927年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。1928年関西大学専任講師、助教授を経て1934年関西大学教授となった。1959年に関西大学第22代学長、1974年より大阪商業大学教授。神戸商業大学の宮下孝吉、大阪商科大学の五島茂とともに関西におけるイギリス経済史研究をリードした。学外においては、1937年社会経済史学会の評議員に選ばれ、 理事、 常務理事を歴任。 戦後、1950年には日本西洋史学会評議員を務めるなど学会の発展に尽くした。
池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990… 池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990年3月14日)は、日本のイギリス文学者、評論家、随筆家である。
呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903… 呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903年10月4日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の政治家。甕津郡郡守、加平郡郡守、長湍郡郡守、第3代韓国国会議員を歴任した。 平安北道宣川郡出身。定州五山中学校、南京東明学院、日本大学法科卒。中学校教員を10数年間務め、新義州電気会社でも勤務した。宣川警察署保安係長を務めた時に越南し、加平郡で勤務した後、甕津郡守、加平郡守、長湍郡守を務めた。1954年の第3代総選挙では洪翼杓を抑えて当選し、自由党所属の国会議員を1期務めた。
庵原 貢(いはら みつぐ、1903年(明治36年)10月3日… 庵原 貢(いはら みつぐ、1903年(明治36年)10月3日 - 1979年(昭和54年)3月31日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵52期・海大35期。第3代海上幕僚長。 兵庫県出身。豊岡中学校(現・兵庫県立豊岡高等学校)を経て海軍兵学校に入校。太平洋戦争中は第三艦隊参謀としてスラバヤ沖海戦などに従軍。1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎首相秘書官に出向し「日本のいちばん長い日」を体験した。戦後は保安庁警備隊を経て海上自衛隊に入隊。第3代自衛艦隊司令を務めたのち、第3代海上幕僚長に就任。
村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3… 村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3日 - 1937年8月19日)は、日本の陸軍軍人で皇道派、国家社会主義者。
佐藤 昌(さとう あきら、1903年10月2日 - 2003… 佐藤 昌(さとう あきら、1903年10月2日 - 2003年7月19日)は、日本の造園家。都市計画家。官庁造園技師として日本国内や戦前の満州で多くの公園緑地計画と都市の計画設計に携わる。ほか都市計画研究所主宰、音楽評論の分野でも活躍。
長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年(明治36年)10… 長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1978年(昭和53年)3月10日)は、時事通信社の初代代表取締役。時事画報社、内外ニュースの創業者。善本社会長。勲一等瑞宝章受章。 同盟通信社在職中から記者として活動し、戦後は保守系言論人としても活動した。1945年の時事通信社創業以来、四半世紀余りにわたって同社を率いたが、労使対立を招いた責任を取って1971年に辞任した。 青森県青森市の質屋業を営む家に、男3人、女4人のきょうだいの3男として生まれた。父は三井銀行(のち第五十九銀行に転職)に務める銀行員であったが、男子のいない長谷川家に婿養子として入り、質屋業を継いだ。
大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - … 大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - 1993年4月13日)は、明治時代から昭和時代にかけての浄土真宗の僧。法名は「闡如」(せんにょ)。東本願寺第二十四代法主。(のちに門首)真宗大谷派管長。伯爵。 1903年(明治36年)10月1日 、東本願寺第二十三代 彰如の長男として誕生。 1924年(大正13年)5月3日、大谷大学在学中に久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹にあたる智子女王と婚姻。 1925年(大正14年)9月、財政問題の責を負って退任した、父・彰如の後を受けて第二十四代法主に就任。 1947年(昭和22年)、妻・智子裏方とともに合唱団「大谷楽苑」を結成する。仏教音楽を用いた教化を推進するなど活躍する。
岡田 真吉(おかだ しんきち、1903年10月1日 - 19… 岡田 真吉(おかだ しんきち、1903年10月1日 - 1964年11月17日)は、日本の映画評論家、翻訳家。 東京・日本橋出身。1934年、東京帝国大学仏文科卒業。 高校時代から『キネマ旬報』に投稿。映画評論家、翻訳家として活躍し、フランス映画をはじめとする外国映画および理論を紹介。 また、『女の一生』などフランス文学の翻訳を多く行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10… 錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1969年(昭和44年)6月17日)は日本の金属工学者。 島根県出雲市出身。1928年(昭和3年)、東北帝国大学工学部金属工学科を卒業する。1934年(昭和9年)に東北帝大工学部助教授に就任。 1935年(昭和10年)に大同製鋼に入社する。その間に、特殊水処理薬剤による鉄鋼防食、均質鋳造法(HOC法)、取鍋レンガの侵蝕、熔鋼に及ぼす耐火物の影響、高アルミナ質電気炉炉蓋煉瓦、低ニッケル高マンガンステンレス鋼、熱処理用連続炉、バルブ鋼、不消化石灰の実用試験などについての研究に従事する。 大同製鋼取締役、研究所長などを経て、1962年には大同工業短期大学、1964年(昭和39年)には大同工業大学(現・大同大学)の初代学長に就任した。
鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月… 鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月1日 - 1986年(昭和61年)7月24日)は、日本の水泳選手。1928年アムステルダムオリンピック並びに1932年ロサンゼルスオリンピックの男子200m平泳ぎの金メダリスト(競泳競技における日本人初の金メダリスト)。日本人初のオリンピック連覇者。男子200メートル平泳ぎの元世界記録保持者。鹿児島県鹿児島郡伊敷村大字上伊敷字飯山(現在の鹿児島市伊敷八丁目の一部)出身。 IOC(国際オリンピック委員会)が公認する記録
太刀若 峯五郎(たちわか みねごろう、1903年(明治36年… 太刀若 峯五郎(たちわか みねごろう、1903年(明治36年)10月1日 - 1988年(昭和63年)8月13日)は、三重県度会郡宇治山田町(現在の伊勢市)出身で高砂部屋(入門時は友綱部屋)に所属した大相撲力士。本名は馬場 米藏(ばば よねぞう)。身長178cm、体重98kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は前頭6枚目(1937年1月場所)。 1917年(大正6年)に横綱・太刀山一行が伊勢に巡業に来た際に入門し、太刀山の内弟子として1918年(大正7年)1月場所に友綱部屋(前頭・海山太郎)から初土俵を踏んだ。この場所限りで太刀山が引退して年寄・東関を襲名して東関部屋を興したため移籍したが、1919年(大正8年)5月に行われた勝負検査役選挙での落選して廃業したため、高砂部屋(大関・2代朝潮)に移籍した。
中村 能三(なかむら よしみ、1903年9月30日 - 19… 中村 能三(なかむら よしみ、1903年9月30日 - 1981年3月5日)は、日本の翻訳家(英米文学)。福岡県生まれ。日本における初期の職業翻訳家の一人。
加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28… 加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28日 - 1942年(昭和17年)5月22日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等功二級。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身。旭川中学(現:北海道旭川東高等学校)、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校(専科)卒。 太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦時、戦隊長として「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊を率い、一式戦闘機「隼」をもって活躍した、帝国陸軍(陸軍航空部隊)のみならず日本軍を代表するエース・パイロットの一人。 1903年(明治36年)9月28日、北海道上川郡にて屯田兵として京都綴喜郡から北海道に入植した父・鉄蔵、母・キミとの間に加藤家の末子(兄・農夫也、姉・貞)として誕生する。
大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1… 大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、日本の実業家。三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。宮城県名誉県民。 宮城県伊具郡丸森町に生まれる。第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部卒業。同年、三菱鉱業株式会社に入社。1950年同社取締役、1955年同社常務取締役、1959年同社副社長、1963年同社代表取締役社長。1973年三菱鉱業セメント株式会社代表取締役社長、1976年同社取締役会長、1986年同社取締役相談役。1992年三菱マテリアル株式会社最高顧問・相談役。 社外では、日本セメント協会会長(1975年 - 1990年)、日経連会長(1979年 - 1987年)、金曜会代表世話人(1979年 - )、日本弘道会理事(1984年 - )などを歴任した。
藤野 天光(ふじの てんこう、1903年〈明治36年〉9月2… 藤野 天光(ふじの てんこう、1903年〈明治36年〉9月27日 - 1974年〈昭和49年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は藤野隆秋。号は当初舜正(しゅんせい)、後に天光に改めた。 群馬県館林町裏宿(現館林市城町付近)出身。千葉県市川市の地域文化発展に貢献。日展審査員を6回、さらに理事をつとめた。 戦後は文化運動者としても活動した。また師北村西望作の長崎平和祈念像の制作筆頭助手をつとめた。晩年は千葉県立美術館の建設促進に献身した。 1903年(明治36年)9月27日、藤野隆秋として群馬県館林市に生まれる。藤野家は旧館林藩士の家柄だった。 館林町立北尋常高等小学校(現・館林市立第一小学校)に学ぶ。
中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)… 中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)9月26日 - 1984年(昭和59年)2月5日)は、日本の教育者、政治家。岸和田市長を3期12年(1961年 - 1973年)務めた。 青年期には陸上競技(跳躍競技)選手として活躍し、棒高跳の日本記録をたびたび更新した。1928年アムステルダムオリンピックでは棒高跳と十種競技に出場、棒高跳で6位入賞を果たしている。 大阪府で生まれる。大阪府立岸和田中学校(現在の大阪府立岸和田高等学校)卒業。関西学院に在籍したのち、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進学卒業、東京高等師範学校研究科を卒業。 1922年(大正11年)、岸和田中学校5年次に日本陸上競技選手権大会に出場し、棒高跳で日本新記録(3m33)を樹立。
森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年… 森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年4月26日)は、日本の歴史学者。専門は対外関係史。中央大学文学部教授などを歴任した。 1903年、長野県下高井郡豊郷村(現:野沢温泉村)生まれ。旧制麻布中学校、第二高等学校を経て、1929年に東京帝国大学文学部国史学科卒業。 1941年から史料編纂官を務めた後、満洲建国大学助教授となり、1943年同教授。1945年敗戦により帰国。 1945年に『日宋貿易の研究』によって東京帝国大学文学博士号を取得。1947年から九州帝国大学法文学部教授を務めた。1952年からは横浜市立大学文理学部教授、1953年東京都立大学人文学部教授、1959年より中央大学文学部教授。
今井 忍(いまい しのぶ、1903年9月26日 - 1976… 今井 忍(いまい しのぶ、1903年9月26日 - 1976年)は、日本の会計学者。 島根県松江市出身。1931年東京商科大学卒。1962年「原価管理の基礎理論と生産技術との関連性に関する研究」で中央大学商学博士。1937年三菱化成工業勤務、1942年海軍省嘱託、日本原価計算協会常務理事、1946年物価庁参与、経済安定本部委員、1949年千葉工業大学教授、1951年中央大学教授、1963年成蹊大学教授。1975年退職。
田中 於菟弥(田中 於兎弥、たなか おとや、1903年9月2… 田中 於菟弥(田中 於兎弥、たなか おとや、1903年9月24日 - 1989年7月12日)は、インド文学者。
大沢 昌助(おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - … 大沢 昌助(おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - 1997年5月15日)は、昭和・平成の日本の洋画家。戦後二科会再建時の創立会員。80歳を過ぎてソフトライン、水平線シリーズなど簡潔で色彩豊かな独自の抽象絵画を確立した。東京都庁に壁画がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
久武 雅夫(ひさたけ まさお、1903年(明治36年)9月2… 久武 雅夫(ひさたけ まさお、1903年(明治36年)9月24日 - 2003年(平成15年)10月8日)は、日本の経済学者。専門は数理経済学。学位は、経済学博士(1958年)(学位論文「価格理論の基礎」)。一橋大学名誉教授。国際基督教大学第3代学長。 高知県生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒、同教授、一橋大学教授、1951年に佐藤信吉らと商業数学研究会(のちの日本経営数学会)を設立。1958年「価格理論の基礎」で経済学博士の学位を取得。1965年定年退官、名誉教授、1967年から69年まで国際基督教大学学長、名誉教授、駒澤大学教授、1981年定年。日本数理経済学会会長。2003年10月8日、急性呼吸不全のため川崎市川崎区の病院で死去。
川島 金次(かわしま きんじ、1903年(明治36年)9月2… 川島 金次(かわしま きんじ、1903年(明治36年)9月23日 - 1956年(昭和31年)3月26日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員(6期)、大宮市名誉市民(さいたま市名誉市民)。 埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市、現:さいたま市)で生まれる。1918年、国鉄大宮機関区機関車乗務員となり1920年、上野機関区に移動。1925年、中央大学経済科を卒業。 1926年10月、京城府朝鮮醸造協会誌編集主任となった後、日本連合通信社政治部記者となる。1936年、夕刊大宮社を設立し主幹、社長に就任。埼玉新聞社の創設に参画し編集局長となる。1937年大宮町会議員、1940年埼玉県会議員当選。1944年、大宮第一冶金工業を設立し社長に就任。
山岡 榮(やまおか さかえ、1902年(明治35年)10月2… 山岡 榮(やまおか さかえ、1902年(明治35年)10月23日 - 1930年(昭和5年)5月9日)は、日本の教員。 日本統治時代の台湾台中州東勢街二庄組合立農林国民学校(現・台中市立新社高等学校)の教員を務め、9人の台湾人(うち7人は小学生)を救うために殉職した。現在、台中市新社区食水嵙渓に記念碑が建立されている。また、出身地である愛媛県伊予市にも記念碑がある。 山岡は愛媛県伊予郡出淵村(現・伊予市中山町出渕)に生まれた。伊予実業学校(現・愛媛県立伊予農業高等学校)を卒業し、地元の中山町技術員や中山町青年団長、伊予郡連合青年団長などを歴任した。 1930年4月、山岡は東勢農林学校の教師として台湾に赴任した。
岡 義武(おか よしたけ、1902年10月21日 - 199… 岡 義武(おか よしたけ、1902年10月21日 - 1990年10月5日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。専門は、政治史、日本政治史。 1902年、東京市麹町で生まれた。父は大阪毎日新聞社副社長・会長、農商務省商工局長(兼・臨時産業調査局第3・第4部長)を務めた岡實。 旧制府立一中、第一高等学校文科乙類を経て東京帝国大学に入学。法学部で小野塚喜平次の教えを受けた。1926年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に進み労働政策・社会政策を担当することも考えたが、実務家を目指すことには躊躇があったことから、卒業と同時に小野塚の推薦を受けて法学部助手に採用された。 同期採用の矢部貞治が政治学講座の助手として採用されたことから自身も政治史研究に転じ、助手時代は吉野作造に師事。
藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10… 藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、実業家である。日本油脂常務取締役の後、ニッサン洗剤工業社長。岡山県高梁市出身。 1902年(明治35年)岡山県上房郡津川村(現:高梁市)に生れる。その後、1922年(大正11年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、翌年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1926年(大正15年)同校を卒業し、東京帝国大学工学部へ進学する。その後、1929年(昭和4年)3月、同大学応用化学科を卒業する。 大学卒業後、帝国火薬工業へ就職し、入社後、愛知県知多郡武豊町にある豊武工場に配属されラッカーの研究及び製造に従事する。
吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - … 吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - 1990年9月20日)は日本の実業家。清水建設元社長。長野県松本市生まれ。
松浦 晋(まつうら すすむ、1902年10月20日 - 19… 松浦 晋(まつうら すすむ、1902年10月20日 - 1968年4月29日)は、日本の文部官僚、実業家、パシフィック・リーグ元会長。愛媛県出身。 1924年に上智大学を卒業し、文部省に入省した。社会教育官、教学官、内閣情報局情報官を歴任した。1950年に永田雅一社長の強い意向により、大映に転職し、取締役、監査役を務めた。1955年に大映スターズ球団代表に就任し、1960年に東京オリオンズ代表に就任した。 1965年にパシフィック・リーグ会長に就任した。 しかし、会長在職中に交通事故に合い、1968年4月29日、東京都の病院で65歳で死去した。
稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月1… 稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月19日 - 1989年11月6日)は、日本の政治家、農民運動家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(13期)。 福岡県八女郡岡山村(現八女市)出身。代用教員を経て1925年に早稲田大学政経学部を卒業。卒業後は農民運動に身を投じた。平野力三率いる全日本農民組合同盟に加わり、日本農民党を経て社会民衆党に参加。その後赤松克麿・小池四郎らと日本国家社会党に参加するがこれも脱退して皇道会から東方会に移籍、1935年に浮羽郡から福岡県議に当選し2期。 1946年日本社会党から衆議院議員になったが、公職追放を受け同年6月22日に辞職。追放解除後の1953年に右派社会党から返り咲き(福岡3区)、再統一を経て1960年の民主社会党に参加。
磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 19… 磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 1987年8月15日)は、日本の経済学者・経営学者。専門は、工業経済学、中小企業論。東京工業大学・武蔵大学名誉教授。 大阪府大阪市生まれ。1926年京都帝国大学経済学部卒。1949年「日本漆器工業論」で、京都大学より経済学博士の学位を取得。1928年関西大学専任講師、助教授、教授、1944年東京工業大学生産工学部助教授、教授、1963年定年退官、名誉教授、広島大学工学部教授・武蔵大学教授。1972年武蔵大学名誉教授。日本工業経営学会会長。
奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年10月17日 … 奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年10月17日 - 1960年2月1日)は、日本の元ラグビー選手。主なポジションはセカンドロー (LO)。 大阪府大阪市靱出身。神戸一中(現:兵庫県立神戸高等学校)、第三高等学校を経て京都帝国大学へと進む。京大のラグビー部では主将を務め、本場、イギリスに倣い、『3・2・3』の8人制フォワードシステムを取り入れるなどした成果が現れ、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦で優勝に貢献。また、京大在籍時代に高等文官試験にも合格したが、1926年に卒業後は三菱商事に入社。三菱商事時代も、イギリス勤務時代は現地のクラブでプレーするなどして活動した他、谷村順蔵、吉田義人とともに、『全三菱ラグビー倶楽部』の結成に尽力した。
真道 永次(しんどう えいじ、1902年10月17日 - 没… 真道 永次(しんどう えいじ、1902年10月17日 - 没年不詳)は、日本の地理教育者。 神奈川県生まれ。神奈川県師範学校卒。文検地理合格、小・中・高校教師ののち、帝国書院、清水書院などで地理教科書の執筆にあたる。
岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月1… 岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月16日 - 1992年(平成4年)3月13日)は、日本の歌人、国文学者。三重県宇治山田市出身。号は不言舎(いわずのや)。斎藤拙堂の外孫である岩津海三郎の長男。 三重県第一中学校(現:三重県立津高等学校)在学中に稲森宗太郎らと文芸活動を始める。1921年早稲田高等学院に入り、早稲田大学国文科に進む。在学中より窪田空穂に師事し、稲垣達郎、尾崎一雄、都筑省吾らと短歌文芸誌『槻の木』創刊に参加。1933年第二早稲田高等学院講師、49年早大教授。73年定年退任、名誉教授。
西田 信一(にしだ しんいち、1902年10月15日 – 2… 西田 信一(にしだ しんいち、1902年10月15日 – 2003年4月10日)は、昭和期の政治家、参議院議員(3期)。北海道開発庁長官(第22代)、科学技術庁長官(第31代)。 北海道空知郡岩見沢町(現・岩見沢市)に、鉄道員・西田栄次郎の長男として生まれる。両親はいずれも富山県出身。 高等小学校卒業後、郵便局員、鉄道員を経て、札幌工業学校(現・札幌工業高校)に入学する。 1924年札工を卒業後、苫小牧工業学校(現苫小牧工業高校)助教諭を経て、1928年苫小牧町役場に入庁する。仕事の傍ら王子製紙アイスホッケー部のコーチも務め、1932年には全日本選手権大会で初出場・初優勝の快挙を成し遂げた。土木課長、助役を経て、1946年4代目苫小牧町長に就任する。
野間 繁(のま しげる、1902年10月15日 - 1978… 野間 繁(のま しげる、1902年10月15日 - 1978年8月12日)は、日本の法学者、裁判官、弁護士。明治大学名誉教授。民事訴訟法が専門。勲二等正四位。 1902年、広島県広島市生まれ。1921年明治大学予科に入学。雄弁部に所属する。1926年明治大学法学部を卒業。卒業後は裁判官となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長判事、函館地方裁判所部長判事、東京控訴院判事・勅任部長、裁判官訴追委員会事務局長を歴任、1958年に退官。 1947年、「上訴法の基礎理論」を明治大学に提出して法学博士号を取得。1958年明治大学教授となる。國學院大學教授も兼任。1974年、明治大学を定年退職し、名誉教授となった。
鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1… 鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1971年12月20日)は、福島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。1936年のベルリンオリンピックのサッカー日本代表監督を務めた。 豊島師範附属小学校、東京高等師範学校附属中学校から1920年に早稲田高等学院に入学。同校でサッカー部(ア式蹴球部)を設立した。在学中、ビルマ人留学生チョウ・ディンからショートパス等の蹴球指導を受け、実力を伸ばした。 1923年に早稲田大学に入学。1924年にア式蹴球部を創設した。在学中、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催した。 1927年、上海で開催された第8回極東大会のサッカー日本代表に選出され、主将としてフィリピン代表戦では先制ゴールを決めるなど、日本代表として最初の国際大会勝利に貢献した。
島崎 敬夫(しまざき よしお、1902年10月11日 - 1… 島崎 敬夫(しまざき よしお、1902年10月11日 - 1975年6月29日)は、日本の経営者。横浜ゴム社長を務めた。高知県高知市出身。実弟に俳優の志村喬がいる。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に古河銀行に入行。1931年に横浜ゴムに転じ、1948年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1965年には社長に就任。1973年2月に会長に就任。 1969年に藍綬褒章を受章。 1975年6月29日に肝硬変のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。