田中 勝雄(たなか かつお、1898年7月1日 - 1995… 田中 勝雄(たなか かつお、1898年7月1日 - 1995年3月2日)は、大阪府出身の野球選手。
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田中 勝雄(たなか かつお、1898年7月1日 - 1995… 田中 勝雄(たなか かつお、1898年7月1日 - 1995年3月2日)は、大阪府出身の野球選手。
中谷 武世(なかたに たけよ、1898年7月1日 - 199… 中谷 武世(なかたに たけよ、1898年7月1日 - 1990年10月24日)は、日本の政治家、右翼。法政大学教授。 和歌山県出身。東京帝国大学で上杉慎吉に師事し猶存社・帝大七生社に参加。行地社にも参加している。帝大卒業後の1927年に法政大学講師になり、1932年に同教授、翌1933年に大亜細亜協会の結成に加わり常任理事となる。1925年に再興された日本新聞の社説を担当し、超国家主義の右派運動を推進していた。濱口雄幸首相の狙撃の事前相談も受けるなど、右派のテロリストとも隠然たる人脈を有していた。陸軍経理学校講師も務めた。 1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では郷里の和歌山1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を得て当選。
浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月2… 浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月28日 - 1991年(平成3年)5月6日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。 浅見竹三郎の三男として埼玉県深谷市に生まれる。1931年(昭和6年)分家する。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省電気試験所研究員となる。1925年(大正14年)北海道帝国大学教授となり、12余年に渡り欧米各地に駐在し、帰国後の1936年(昭和11年)10月、工学博士となる。同年9月、北海道に行幸した昭和天皇に帯広市にて「高周波電気現象と其の応用」と題する進講を行った。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)9月、同大学応用電気研究所長、のち1960年(昭和35年)同大工学部長を経て、1962年(昭和37年)退官し、成蹊大学主任教授、1969年(昭和44年)同大工学部長となる。
勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6… 勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6月26日 - 1989年(平成元年)9月3日)は、日本の医師。内科医。国立療養所中部病院長。医学博士。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校を経て、1927年(昭和2年)、長崎医科大学卒業、助手。台湾総督府技師、愛知・西尾病院長。1933年(昭和8年)、名古屋帝国大学講師、1934年(昭和9年)、欧米出張。1938年(昭和13年)、勝沼病院長。1947年(昭和22年)4月、国立療養所大府荘長。1966年(昭和41年)4月、国立療養所中部病院長(初代)。1969年(昭和44年)、定年退官。
落合 英二(おちあい えいじ、1898年6月26日 - 19… 落合 英二(おちあい えいじ、1898年6月26日 - 1974年11月4日)は、日本の薬学者、薬化学者。東京大学名誉教授。 埼玉県浦和市生まれ。千葉師範学校附属小学校、千葉県立千葉中学校を卒業後、仙台の第二高等学校に入学する。東京帝国大学医学部薬学科卒業。東京帝国大学医学部薬学科薬化学教室第三代教授。アルカロイド、塩素化含窒素複素芳香環化合物について研究、その結果として、多数の新化合物を登場させた。1969年(昭和44年)文化勲章受章。 1928年(昭和3年) 東京大学 薬学博士 学位論文の題は「シノメニンの構造論」。 1898年(明治31年)6月26日 教育家落合初太郎の三男として埼玉県浦和で生誕、母はノブ。
南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1… 南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1981年11月16日)は、日本の俳優である。本名は鴛海 正次(おしうみ まさじ)。旧芸名は南部 章三(読み同じ)、南部 彰(なんぶ あきら)。 1898年(明治31年)6月26日、大分県速見郡日出町に生まれる。 1916年(大正5年)、大分県立杵築中学校(現在の大分県立杵築高等学校)卒業後、県下で代用教員を務め、1919年(大正8年)、歩兵47聯隊に入隊。同年4月、シベリア出兵に従軍し、同年8月に帰還。1921年(大正10年)に除隊後、再び代理教員を務めていたが、1922年(大正11年)4月に上京。陸軍省東京経理部に就職すると共に日本大学商学部予科に入学する。
酒井 俊雄(さかい としお、1898年(明治31年)6月25… 酒井 俊雄(さかい としお、1898年(明治31年)6月25日 - 1982年(昭和57年)8月5日)は、愛知県津島市出身の弁護士。衆議院議員を2期務めた。 愛知県名古屋市東区生まれ。1918年(大正7年)、岡崎師範学校(現・愛知教育大学)を卒業。1929年(昭和4年)中央大学専門部法律科卒業、小学校訓導となる。その後、高等試験司法科試験に合格して、1934年(昭和9年)弁護士となり、税務代理士(現税理士)も務めた。 愛知県臨時社会調査員、同方面委員を務めた。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に愛知県第2区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に愛知県第4区から国民協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
伊藤 幟 (いとう のぼり、1898年〈明治31年〉6月23… 伊藤 幟 (いとう のぼり、1898年〈明治31年〉6月23日 - 1963年〈昭和38年〉3月22日)は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(1期)、画家。従五位勲四等。 1898年(明治31年)6月、福島県安達郡本宮町(現:本宮市)に生まれた。福島縣立安積中學校を経て、早稲田大学を卒業。本宮町長や全国町村会長を務めて、馬匹・畜産を盛んにすることに貢献した。1949年(昭和24年)、全国町村長大会に出席した首長が皇居を訪問した際には、町村会会長として昭和天皇に御礼言上する役を担った。 1930年(昭和5年)、福島県美術協会を創設。石井柏亭と親交が深く、美術協会の審査委員長招いて十数年にわたり公募展を開いた。
飯沼 金太郎(いいぬま きんたろう、1897年(明治30年)… 飯沼 金太郎(いいぬま きんたろう、1897年(明治30年)7月22日 - 1964年(昭和39年)6月10日)は、日本の航空黎明期のパイロット。「亜細亜航空学校」を創立した。 千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)中尾余町に生まれる。 1915年(大正4年)に千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業後、工兵中尉の澤田秀の書生を務める。 1917年(大正6年)12月、帝国飛行協会の第3期飛行機操縦練習生となる。1918年(大正7年)5月10日、東京奠都50年祝賀飛行に参加した。 同年11月16日には帝国飛行協会研究生に進級する。 1919年(大正8年)9月から翌年4月にかけ、群馬県尾島飛行場に出張し、中島知久平の知遇を得る。
斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1… 斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1996年6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 宮城県大崎市出身。商業・斎藤庄吉の息子として生まれる。旧制古川中学校(現:宮城県古川高等学校)を経て、1919年(大正8年)10月、海軍兵学校(47期)卒業。1920年(大正9年)8月、海軍少尉任官。1923年(大正12年)11月、第8期航空術学生卒。 1925年(大正14年)12月、海軍大尉に昇進し空母「鳳翔」乗組となる。この補職は、当時特別に技量優秀でなければ難しいとされた空母への着艦が努力次第で可能であることを証明するためであり、相婿である、山本五十六の推薦であった。斎藤は同時に推薦された三和義勇とともに任務を成功させた。
斎藤 保太郎(さいとう やすたろう、1897年(明治30年)… 斎藤 保太郎(さいとう やすたろう、1897年(明治30年)7月20日 - 1943年(昭和18年)12月8日)は、日本ホーリネス教会、きよめ教会の牧師である。太平洋戦争中に、治安維持法違反で検挙され、服役中に殉教した。 山形県西置賜郡温海村湯温海(現・鶴岡市)に生まれた。鶴岡市の庄内中学(現・鶴岡南高等学校)に入学したが、中退し上京する。絵画の才能があったので、東京では肖像画を描いて生計を立てていた。 1915年(大正4年)単立教会の本郷浅嘉町教会の牧師小沢勝之助に導かれて洗礼を受ける。 1918年(大正7年)に東洋宣教会の聖書学院に入学する。1921年(大正10年)に卒業し、神田ホーリネス教会の副牧師になり、奥野まつと結婚する。
外崎 千代吉(とのさき / とのざき ちよきち、1897年7… 外崎 千代吉(とのさき / とのざき ちよきち、1897年7月20日 - 1974年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。五所川原市長。 青森県北津軽郡五所川原村出身。日本大学政治経済学部に入るが、中退する。北海道に渡り、函館の床屋で修業し、理髪店を開業する。五所川原町議、青森県議、脇元村村長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で青森2区(当時)から無所属(翼協非推薦)で立候補したが、3,000票余りで落選した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙でも無所属で立候補したが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において青森2区から諸派の社会革新党で立候補して当選した。
加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30年)7… 加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30年)7月19日(※戸籍上は1898年(明治31年)1月17日) - 1985年(昭和60年)12月24日)は、日本の陶芸家、陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村(現・瀬戸市水北町)出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、1960年に永仁の壺事件で古瀬戸の大規模な贋作を行っていたことが発覚し、批判を受ける。事件後は公職を辞任し、作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出、陶壁は唐九郎による造語である。 一ム歳、一ム、野陶、ヤト、陶玄、玄などの号も用いる。 子息の岡部嶺男(長男)、加藤重高(三男)と孫の加藤高宏も同じく陶芸家である。
山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 198… 山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 1980年1月14日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナーである。日本のグラフィックデザインの黎明期における先駆者の一人で、大正期から昭和初期にかけてのモダンなアール・デコスタイルで知られ、資生堂の現在にもつづくキーデザイン、紀ノ国屋のロゴ、新潮文庫の葡萄マークのデザインで知られる。 1897年(明治30年)7月17日、広島県広島市に生まれる。 少年期から竹久夢二や北野恒富、オーブリー・ビアズリーに憧れ、模写に没頭する。旧制・和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)後、1916年(大正5年)、大阪へ出て、赤松麟作が主宰する「赤松麟作洋画研究所」第2期生となり、絵画を学ぶ。
古澤 平作(こさわ へいさく、1897年7月16日 - 19… 古澤 平作(こさわ へいさく、1897年7月16日 - 1968年10月5日)は、日本の医学者、精神科医。東北帝国大学助教授。 日本に精神分析の技法を導入し日本独自の精神分析学を開拓し、力動的な臨床精神医学の基礎をつくることに貢献した。アカデミズムの世界に精神分析学をはじめて導入したのは東北帝大教授であった丸井清泰(1886‐1953)であったとされるが、正統的精神分析療法を習得しこれを広めたのは,丸井の門下であった古沢平作であった。 神奈川県厚木生まれ。旧制第二高等学校、東北帝国大学医学部を卒業。この頃、白内障で二年間の闘病生活を強いられ、右目を失明する。同精神科の丸井清泰の下で助教授を務めたが、丸井と衝突し、1932年-33年にかけてウィーン精神分析研究所に留学、ジークムント・フロイトに学ぶとともに、ステルバ(R.Sterba)の教育分析とフェダーンの指導を受けた。
唐木田 藤五郎(からきだ とうごろう、1897年〈明治30年… 唐木田 藤五郎(からきだ とうごろう、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1968年〈昭和43年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 長野県更級郡屋代町(現千曲市)生まれ、小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)を経て、大正8年(1919年)上田蚕糸専門学校製糸科(現信州大学繊維学部)卒業。横浜の合名会社「茂木」に入社するが、経営難から退社し、翌年東華洋行を創業し、横浜港での国際貿易に当たったが、同12年(1923年)の関東大震災の打撃を受ける。同15年(1926年)日本蚕糸機械商会、昭和5年(1930年)日本ダイガスト、昭和8年(1933年)国光社出版部を創業するなど、京浜地方で多くの企業に関与した。
軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14… 軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1970年〈昭和45年〉10月16日)は日本の考古学者。山形県寒河江市出身。太平洋戦争以前に朝鮮半島に住んで古代百済の遺跡を研究し、敗戦により日本に戻ったあとは、日本大学で教鞭をとりつつ静岡県三島市に住み、伊豆地方の遺跡研究を行った。 1897年(明治30年)に、現在の山形県寒河江市である旧西村山郡醍醐村慈恩寺に生まれる。現在の静岡県伊豆市である旧田方郡修善寺町の修禅寺に来て仏門の修行に入る。以後「慈恩」と名乗る。 1925年(大正14年)に早稲田大学を卒業し、百済研究のため、日本統治時代の朝鮮半島に渡って現地の学校教員をしつつ、公州の三国時代の遺跡を発掘した。
菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月… 菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月14日 - 1980年(昭和55年)12月9日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 群馬県佐波郡茂呂村(現伊勢崎市)で生まれる。織物製造業、養蚕販売業を営む。 1923年、群馬共産党事件を契機に社会運動に加わり、日本労農党に加入し小作争議の指導を行う。全国農民組合茨城県連合会書記長、同会長、日本農民組合茨城県連合会執行委員長、社会大衆党茨城県連合会書記長などを務め、1936年、水海道町会議員となるが、1938年、人民戦線事件で検挙され、懲役3年・執行猶予5年の判決を受けた。 戦後、日本社会党に入党し、1947年4月の総選挙に茨城県第三区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務める。
青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年〈明治30年〉7月1… 青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1986年〈昭和61年〉5月31日)は、日本の内務官僚、政治家。愛知県知事(官選第39代、公選初代)、参議院議員(3期)。 群馬県前橋市に富樫竹次の五男として生まれる。青柳新米の養子となり、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て旧制第二高等学校へ進学。1922年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、横浜正金銀行に入行し、後安田銀行に移った。1926年、高等文官試験に合格。1927年、内務省に入省。北海道、大阪府、福岡県(部長・経済部長)、長野県などで勤務した。 1947年3月5日、愛知県知事の桑原幹根が初の公選愛知県知事選挙に立候補するために辞職。
住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉… 住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1975年〈昭和50年〉1月27日)は、日本の政治家。高崎市長(1955年 - 1971年)、高崎市議会議員、同議長。 高崎市田町の荒物問屋、住谷喜平の長男として生まれる。旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、慶応大学理財科に進むも中退し、1920年(大正9年)早稲田大学専門部法律科を卒業。少壮実業家として高崎セロファン工場を起業する傍ら、高崎中学の同窓であった井上房一郎や蠟山政道と高崎新人会を創設。1932年(昭和7年)に高崎市議会議員に当選し、翌1933年(昭和8年)に市議会議長に選ばれる。戦後は関東ロクロ会社を設立し社長に就任した。
岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月1… 岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月10日 - 1965年(昭和40年)10月10日)は、日本の政治家、外交官。内閣官房長官(第6代)、外務大臣(第72-74代)、衆議院議員(3期)。第二次世界大戦後、吉田茂によって推進された対米協調外交において重要な役割を担った人物。また陸上競技選手(中距離走・長距離走)としての経歴も持つ。 神奈川県横浜市生まれ。米屋を営む岡崎安之助の十男。23歳上の長兄に政治家で日米富士自転車を創業した岡崎久次郎がいる。 厚木中学(現神奈川県立厚木高等学校)、第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学経済学部を卒業。 カルカッタ総領事、外務省調査官、情報局情報官を経て外務省調査局長となる(1945年6月)。
堀込 義雄(ほりごめ よしお、1897年(明治30年)7月1… 堀込 義雄(ほりごめ よしお、1897年(明治30年)7月10日 - 1981年(昭和56年))は、日本の政治家。長野県小県郡神川村長、上田市長。 長野県小県郡神川村蒼久保(現上田市)で生まれた。1916年(大正5年)3月、旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)を卒業。1940年(昭和15年)南佐久郡大日向青年学校長、1944年(昭和19年)同郡北牧穂青年学校長、1945年(昭和20年)北佐久郡軽井沢青年学校長に就任。 1947年(昭和22年)4月、神川村長に当選し2期在任。菅平硫黄採掘反対運動の中心人物として、神川水系1市10ヶ村鉱毒対策委員長に推薦され、要求貫徹に全力を尽くした。1955年(昭和30年)4月、長野県議会議員に選出され1期在任。
宗前 清(そうまえ きよし、1897年(明治30年)7月10… 宗前 清(そうまえ きよし、1897年(明治30年)7月10日 - 1973年(昭和48年)12月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。弁護士。 鹿児島県大島郡知名村(現・知名町)出身。1918年鹿児島県立師範学校卒業。小学校訓導、高等女学校教諭を経て、明治大学専門部法律科に入り、1924年に卒業した。1926年、高等試験行政科試験、同司法科試験に合格し、内務省に入った。 警視庁巡査、同警視、芝高輪警察署長、警視庁消防課長、地方事務官、福岡県警防課長、和歌山県振興課長兼人事課長、同知事官房主事を歴任し、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)において鹿児島3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。
花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉… 花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉7月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、大正・昭和期の漫才師、俳優である。本名:藤木 徳郎。福井県勝山市出身。 生家は法沢寺という寺院であった。幼くして両親とともに大阪に移り住む。父は仏壇職人になった。移住後、アチャコは奉公に出るなどしていたが、遊芸に興味を持ち、1913年に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入って「東明幸四郎」と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の喜劇一座「鬼笑会」に入り、漫才に転向。このとき「花菱アチャコ」を名乗る。芸名のうち、亭号の「花菱」は、生家の家紋が由来である。
長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 196… 長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家。カトリック美術家として、おもにキリスト教黎明期の日本のキリシタンを題材にした日本画による宗教画制作に取り組むとともに、日本のフレスコ・モザイクのパイオニアとして旧国立競技場などの公共施設に多くの壁画作品を制作する。また、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三。 <暁星学校〜東京美術学校時代> <パリ・ヨーロッパ遊学時代> <チヴィタヴェッキア時代> <壁画集団「F・M」の時代> 長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。
陸奥錦 建市(むつにしき けんいち、1897年7月9日 - … 陸奥錦 建市(むつにしき けんいち、1897年7月9日 - 1982年5月14日 )は、大正時代の力士。振分部屋所属。本名は須藤 金作(すどう きんさく)。 青森県南津軽郡五郷村(現青森市)出身。最高位は西十両9枚目。 浪ノ音の振分部屋に入門、1915年1月場所「一ノ音」の四股名で初土俵を踏む。1918年5月「陸奥錦」に改名した。1920年5月場所新十両。2場所つとめて幕下に落ちた。1922年1月に再十両となったが、0勝5敗に終わり幕下に落ちた。その後1923年5月場所限りで廃業した。 廃業後すぐに警視庁に入り巡査となり、柔道を学び中野正三十段の指導を受けて1923年に講道館へ入門。入門から3ヶ月で初段を取得してから段位を上げ、入門から5年後の1928年には5段位を取得した。
長岡 正男(ながおか まさお、1897年7月7日 - 197… 長岡 正男(ながおか まさお、1897年7月7日 - 1974年11月20日)は、日本の技術者で実業家。第6代日本光学工業(現ニコン)社長。
高橋 冏(たかはし あきら、1897年〈明治30年〉7月7日… 高橋 冏(たかはし あきら、1897年〈明治30年〉7月7日 - 1978年〈昭和53年〉10月18日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に東京帝国大学経済学部商業科を卒業し、東邦電球取締役を経て、1929年に日本生命保険に入社。1945年に取締役を経て、1948年にオリンパス光学工業常任監査役に就任し、常務、1951年に副社長を経て、1953年6月に社長に就任し、1961年12月までに務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1978年10月18日脳血栓のために死去。81歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日… 風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日 - 没年不明)は、日本の俳人。本名は山本 直得。別号に南鳳江。河東碧梧桐門下でルビ俳句の提唱者として知られる。東京都出身。 1897年に東京都日本橋区浜町(現在の中央区日本橋)で生まれる。若くして俳句の道を志し、新傾向俳句を提唱していた河東碧梧桐の元へ投句、1917年(大正6年)に碧梧桐の正式な門人となる。以降は一貫して新傾向俳句と、そこから発展した自由律俳句を詠む。碧梧桐主宰の海紅を経て、海紅の東京同人を中心に1924年(大正13年)東京俳三昧を立ち上げ、直得が代表となる。この前年の1923年(大正12年)、師の碧梧桐も海紅を中塚一碧楼に譲り、新たに『碧』を主宰、1925年(大正14年)に東京俳三昧と碧が合流する形で『三昧』を創刊した。
金子 益太郎(かねこ ますたろう、1897年(明治30年)7… 金子 益太郎(かねこ ますたろう、1897年(明治30年)7月7日 - 1983年(昭和58年)10月6日)は、大正から昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(2期)、栃木県栃木市長。幼名は亀吉で、35歳の時に益太郎と改名した。 栃木県下都賀郡栃木町入舟町(現栃木市入舟町)で、染物屋・金子忠吉(ただよし)の二男として生まれる。1912年(明治45年)3月、栃木町立第一尋常高等小学校高等科を卒業した。 その後上京し、働きながら独学し、山室軍平の導きでキリスト教に入信。雑司ヶ谷で小間物屋を開業したが、労働農民運動に加わった。1926年(大正15年)日本労農党に入党。 1929年(昭和4年)に帰郷して栃木県下の労農運動を大屋政夫、石山寅吉らと指導した。
田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 -… 田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 - 1969年(昭和44年)9月22日)は、日本の政治家・薬剤師。衆議院議員(2期)。右翼活動家。 長野県北安曇郡会染村(現・池田町)生まれ。長野県師範学校第三種講習を経て、1917年(大正6年)明治薬学校(現・明治薬科大学)卒。薬剤師を経て、長野県豊科町(現・安曇野市)で薬局を開設。また、長野県豊科町商工会議員も務め、1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立憲養正会の公認で出馬し、落選するも、その後繰り上げ当選。院内では興亜議員同盟に所属した。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で再選。1940年(昭和15年)、大政翼賛会が結成されるも、立憲養正会はかねてより新体制運動を批判しており、大政翼賛会には合流しなかった。
生島 広治郎(生島 廣治郎、いくしま ひろじろう、1897年… 生島 広治郎(生島 廣治郎、いくしま ひろじろう、1897年(明治30年)7月4日 - 1983年(昭和58年)10月2日)は、日本の経済学者。経済学博士。近畿大学名誉教授。 兵庫県神戸市元町通1丁目、生島藤吉の二男。1920年、神戸高等商業学校卒業。1922年、東京商科大学専攻部卒業(商学士)、同年に神戸高等商業学校商業研究所調査員。1923年、神戸高等商業学校講師。1926年、神戸高等商業学校教授。 1930年、神戸商業大学助教授。1933年、神戸商業大学教授。1944年、神戸経済大学教授となる。1945年、神戸経済大学より「世界経済学ノ根本問題」で経済学博士の学位を授与され、同大学を退官する。
島 薫(しま かおる、1897年〈明治30年〉7月2日 - … 島 薫(しま かおる、1897年〈明治30年〉7月2日 - 1977年〈昭和52年〉5月16日)は、日本の医師。広島市への原子爆弾投下の爆心地にある島病院初代院長。「広島外科会の父」。 安芸郡中野村(現広島市安芸区中野)出身。1916年(大正6年)旧制広島県立広島中学校(現広島国泰寺高校)卒業。同年度卒に永山忠則・深山静夫らがいる。 旧制大阪医科大学(現大阪大学医学部)へ進学、1924年(大正13年)卒業。岩永仁雄に師事した。その後、ドイツ・アメリカで留学・研修を続けた。 1933年(昭和8年)8月31日、広島市細工町29-2(現中区大手町1丁目5-25)に「島病院」を開院した。当時の開院挨拶状には「廣島郵便局東側に於いて外科病院を經營」「外科一般特に内臟外科の診療に從事」とある。
黒田 正夫(くろだ まさお、1897年(明治30年)7月2日… 黒田 正夫(くろだ まさお、1897年(明治30年)7月2日 - 1981年(昭和56年)7月10日)は、日本の登山家、工学博士。大同工業大学名誉教授、理化学研究所名誉研究員、日本金属学会、日本応用物理学会、雪氷学会名誉会員。 1897年東京府で出生。旧制高千穂中学校(第2回)卒業、1922年東京帝国大学冶金学科卒業。 1938年「軟鋼の降服点発生機構」により工学博士の学位を受ける。1954年地球物理及び鋳物の国際会議に出席のためイタリア及び瑞独英仏を視察。合金の色軟鋼の力学的性質金属の破壊機構溶接の強さ防弾鋼板の弾撃耐力積雪等の研究に成果を挙げ、日本機械金属応用物理鉄鋼雪水古事記その他諸学会に属す。
青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30… 青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30日 - 昭和47年(1972年)5月)は、日本の弁護士、政治家。旧名は貞吉。 鳥取県日野郡日南町出身。甚太郎の長男。 米子中学、松江中学を経て、大正7年(1918年)早大中退。昭和3年(1928年)、朝鮮において弁護士開業。昭和6年(1931年)に鳥取県米子市に移住した後も引き続き開業した。 戦前に米子市会議員を1期務め、戦後は鳥取県地方労働委員会委員、人権擁護委員、米子市選挙管理委員会委員、鳥取県人事委員会委員などに選任され、その功績により昭和37年(1962年)に藍綬褒章を授与された。 昭和47年(1972年)5月、74歳で亡くなった。
神田 盾夫(かんだ たてお、1897年6月30日 - 198… 神田 盾夫(かんだ たてお、1897年6月30日 - 1986年7月19日)は、日本の言語学者、聖書学者(新約聖書学)。国際基督教大学の設立に尽力した一人である。 1897年、東京市麹町区で英語学者神田乃武の四男として生まれた。1916年に第一高等学校英法科に入学。この頃、内村鑑三門下となった。1919年、東京帝国大学英文科に入学。しかし、翌1920年に師事した田中秀央の転出に伴い、神田も京都帝国大学文学部言語学科に転じた。京都では、田中秀央のほか、新村出、波多野精一らに師事した。1924年に同大学を卒業。その後は同大学大学院に進んだ。オックスフォード大学、ハイデルベルク大学に留学し、英国ではC・H・ドッドに、ドイツではマルティン・ディベリウスに師事し、主として西洋古典学を修めた。
長谷部 文雄(はせべ ふみお、1897年(明治30年)6月2… 長谷部 文雄(はせべ ふみお、1897年(明治30年)6月29日 - 1979年(昭和54年)6月13日)は、日本の経済学者。 愛媛県出身。愛媛県立今治中学校卒業後、第一高等学校に進学し、1920年に同校英法科を卒業し、京都帝国大学経済学部に入学。1923年に学士試験に合格し、「経済原論」の研究のため、同大学大学院に進学する。その後、同志社大学講師となり、教授であった1933年には治安維持法違反で検挙起訴され、同志社大学を退職した。戦後、立命館大学教授、龍谷大学教授、1977年退職。 マルクス主義経済学文献の翻訳を行い「資本論」を完訳した。
村田 保定(むらた やすさだ、1897年(明治30年)6月2… 村田 保定(むらた やすさだ、1897年(明治30年)6月29日 - 1976年(昭和51年)11月6日)は、大正・昭和期の弁護士・政治家・華族。貴族院男爵議員。旧姓・安場、旧名・道俊。 実業家・安場末喜の三男として生まれる。1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。同年、明治銀行に入行し、日本勧業銀行に転じ同青森支店主事、同本店支店課勤務を務めた。妻子を伴い、男爵・村田綱太郎(村田経芳長男)の死跡を相続し、1929年(昭和4年)4月15日、男爵を襲爵した。その後、第一弁護士会所属弁護士となった。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
土浦 亀城(つちうら かめき、1897年(明治30年)6月2… 土浦 亀城(つちうら かめき、1897年(明治30年)6月29日 - 1996年(平成8年)1月29日)は、昭和期の建築家である。 茨城県水戸市で土浦市松と光枝の間に生まれた。市松と横山大観はいとこである。1918年東京帝国大学工学部建築学科に入学。1922年、寄宿先で知り合い懇意にしていた遠藤新(当時、帝国ホテル建設のために来日していたフランク・ロイド・ライトの手伝いをしていた)の紹介でドラフトマンとしてライトの設計を手伝った。 同年にライトが建設費の問題から帝国ホテルの設計の任を解かれアメリカに引き上げる際、土浦はライトからアメリカに来るように請われ、卒業後の1923年に信子夫人(吉野作造の長女)と共に渡米。
小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 -… 小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 - 1995年7月22日)は、茨城県坂東市(旧岩井市)生まれの実業家であり、コーセーの創設者である。 長男は第2代社長の小林禮次郎、三男は第3代社長の小林保清。孫は第4代社長の小林一俊。
楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)… 楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)6月28日 – 1990年(平成2年)1月7日)は、大正・昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 和歌山県日高郡由良村(現由良町)で楠山四郎右衛門の二男として生まれた。1920年(大正9年)早稲田大学政治経済学科を卒業。同年9月、大阪毎日新聞社に入社。1921年(大正10年)コロンビア大学に留学し、さらにバージニア大学で学んだ。 ロンドン特派員となり、1932年(昭和7年)リットン調査団報告書をスクープした。神戸支局長を経て、東京日日新聞外国通信部長に転じて第二次世界大戦下のヨーロッパを視察した。欧米部長、副主筆を経て、戦時中は日本タイムス社長、上海タイムス社長を務めた。
合田 健吉(ごうだ けんきち、1897年(明治30年)6月2… 合田 健吉(ごうだ けんきち、1897年(明治30年)6月28日 - 1975年(昭和50年)8月5日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、香川県仲多度郡多度津町長。位階は正八位。勲等は勲四等。 香川県多度郡多度津町本通(現:仲多度郡多度津町)で、豪商「嶋屋」合田房太郎の二男として生まれる。早稲田大学商科を卒業。1937年(昭和12年)家督を相続した。 1928年(昭和3年)以降、四国水力電気取締役、琴平電気鉄道取締役、琴平参宮電鉄取締役、屋島登山鉄道取締役、槙田鉄工取締役、協和鉄工所社長、亀陽航空社長、中讃興業社長、多度津銀行監査役などを務めた。その他、多度津町社会教育委員、同農業会監事などにも就任した。
古田 誠一郎(ふるた せいいちろう、1897年6月27日 -… 古田 誠一郎(ふるた せいいちろう、1897年6月27日 - 1992年12月3日)は日本の社会事業家、教育者、ラジオ・テレビタレント、政治家。日本におけるボーイスカウト草創期の指導者の一人。初代の公選高槻市長、ボーイスカウト日本連盟理事、日本キャンピング連盟常任理事を歴任した。 1897年(明治30年)6月27日、和歌山市に古田吉兵衛の長男として出生。1914年(大正3年)、和歌山商業学校を卒業。 1919年(大正8年)、和歌山の聖救世主教会で受洗し日本聖公会に入信。同年神戸に移住する。 1921年(大正10年)12月1日、神戸聖ミカエル教会でボーイスカウト神戸第1隊(ウォーカー隊)を指導していたフレデリック・ウォーカー宣教師、竹内宗六神父の援助を受け、平井哲夫と共に神戸ボーイスカウト山手隊を結成。
篠田 英雄(しのだ ひでお、1897年6月27日 - 198… 篠田 英雄(しのだ ひでお、1897年6月27日 - 1989年12月26日)は、日本の哲学者、翻訳家。 1897年、千葉県で生まれた。東京帝国大学哲学科で学び、卒業。1934年、在日中のブルーノ・タウトと相識り、以降交流を続けた。1938年のタウト没後にエリカ・タウト夫人から日本に関する著書、日記の原稿を託され、その整理と翻訳に当たった。 また岩波文庫版のカントの主著、クラウゼヴィッツ『戦争論』など、重版し読み継がれる訳業を行った。『岩波西洋人名辞典』(岩波書店 1956、新版1981)のいくつかの項目も執筆している。
畠田 昌福(はたけだ まさとみ、1897年(明治30年)6月… 畠田 昌福(はたけだ まさとみ、1897年(明治30年)6月26日 - 1976年(昭和51年)7月14日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、陸軍司政長官。 兵庫県津名郡来馬村久留麻で畠田勝平の三男として生まれる。第六高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し福井県属となる。 以後、群馬県理事官、愛知県庶務課長、同地方課長、東京府庶務課長、同地方課長、秋田県書記官・警察部長、福島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、内務省警保局警務課長、大阪府書記官・警察部長、内務省地方局監査課長、内務省監査官などを歴任。
末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月2… 末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月23日 - 1991年(平成3年)5月7日)は、日本の考古学者。橿原考古学研究所初代所長。関西大学名誉教授。文学博士(龍谷大学・論文博士・1948年)。大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)生まれる。日本学士院会員。文化勲章受章者。大阪狭山市名誉市民。奈良県明日香村名誉村民。 河内狭山の旧家の一人っ子として生まれた。1904年に狭山尋常小学校入学、父親の勧めで狭山池周辺の土器片集めに熱中する。隣家の陸軍大将植田謙吉に憧れて陸軍幼年学校入学を希望するも母親に反対され進学を断念、土器石器集めや、祖父が集めた古武器を眺めて暮らすうち、水戸学の学統をひく感化院院長高瀬真卿の日本刀の新聞連載を読み、高瀬と文通を始める。
金 七星(キム・チルソン、朝鮮語: 김칠성、1897年6月2… 金 七星(キム・チルソン、朝鮮語: 김칠성、1897年6月22日または6月24日 - 1984年5月21日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は清道金氏(朝鮮語版)。 慶尚南道釜山(現・釜山広域市)出身。日本大学経済学部卒。1950年の第2代総選挙に釜山市丙選挙区から無所属で立候補して当選し、国会議員を1期務めた。そのほか、経済研究所長、ハンソン株式会社経営者、米軍政期の慶尚南道顧問などを務め、大韓独立促成全国労働総同盟にも関係があった。1950年9月19日正午ごろ、ソウルにいた際に北朝鮮に拉致された。1956年7月から在北平和統一促進協議会の常務委員を務め、その後の詳細は不明だが、87歳で死去したとされる。
麻生 磯次(あそう いそじ、1896年〈明治29年〉7月21… 麻生 磯次(あそう いそじ、1896年〈明治29年〉7月21日 - 1979年〈昭和54年〉9月9日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・論文博士・1944年)(学位論文「近世文学の支那的原拠と読本の研究」)。東京大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。正三位勲一等瑞宝章没後追贈。 1896年、千葉県武射郡睦岡村(現在の千葉県山武市)出身。1917年第一高等学校英法科卒業、1920年東京帝国大学文学部を卒業。 同1920年より、朝鮮総督府編集書記。1923年、東京帝国大学大学院へ入学。愛知県第一高等女学校高等科教授、第六高等学校教授を経て、1925年に京城帝国大学教授に着任した。
古川 尚彦(ふるかわ なおひこ、1896年 <明治29年> … 古川 尚彦(ふるかわ なおひこ、1896年 <明治29年> 7月21日 - 1974年 <昭和49年> 9月15日)は、日本の経営者。栃木県出身。位階は従四位。 1923年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱銀行に入行した。 取締役、常務を経て、1956年11月に三菱レイヨン副社長に就任し、1959年11月には社長に昇格。1967年5月から同年11月までに会長を務めた。 1967年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年9月15日老衰により死去。78歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山口 六郎次(やまぐち ろくろうじ、1896年7月21日 -… 山口 六郎次(やまぐち ろくろうじ、1896年7月21日 - 1961年11月28日)は、日本の政治家。元労働大臣の山口敏夫は三男。 埼玉県南埼玉郡日勝村(現在の白岡市)生まれ。 1920年、明治大学政治経済科を卒業。卒業後、報知新聞社に入社。1925年、大日本体育協会常務理事・全日本陸上競技連盟常務理事に就任。 横川重次秘書を経て、1947年に埼玉2区から第23回衆議院議員総選挙に立候補し当選当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・中山マサ・倉石忠雄・荒木万寿夫・松野頼三・石田博英・原田憲・園田直・櫻内義雄・根本龍太郎・中村寅太など)。通算5期。衆議院法務委員長、第3次吉田茂内閣行政管理政務次官、第1次池田勇人内閣建設政務次官などの要職を歴任。