2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日… 2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日 - 1962年11月22日)は、日本の実業家。玉塚證券社長・会長、日本証券業協会会長、東京証券取引所理事長を歴任。 東京市日本橋生まれ。旧姓は山崎。初代玉塚栄次郎の養子となり、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業、玉塚證券入社。玉塚證券社長・会長、玉塚不動産社長、日本証券業協会会長などを歴任。1955年から1957年まで東京証券取引所理事長を務めた。 1962年日本医科大学付属第一病院で胃癌のため死去。享年60。酒が飲めず、地味な性格で、夜の付き合いが苦手なため、敵がいないと評された。 玉塚證券で役員を務めた玉塚和男は子息。ローソン社長などを務めた玉塚元一は孫。
河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉… 河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉1月8日 - 1980年〈昭和55年〉9月22日)は、日本の文芸評論家・音楽評論家。日本芸術院会員、文化功労者。 ヴァレリーやジイドを翻訳紹介しフランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者でもあった。小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。なお夫人アヤ(綾子)は男爵・大鳥圭介の孫にあたる。 父邦彦は日本郵船の造船工学技師。1902年(明治35年)、赴任先だった長崎市で生まれた。本籍地は山口県岩国市。河上家は江戸時代は岩国藩士であった。祖父逸は勝海舟、今北洪川、玉乃世履らに師事した。
石坂 弘(いしざか ひろし、1902年1月8日 - 1979… 石坂 弘(いしざか ひろし、1902年1月8日 - 1979年12月15日)は、日本の農林官僚。 熊本県出身。中学済々黌を卒業。1924年に高文行政科に合格し、1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。朝日新聞社での勤務を経て、1927年に農林省に入省。1961年8月に日本中央競馬会副理事長に就任し、1962年6月から1967年2月までに理事長を務め、1967年2月から顧問を務めた。 1979年12月15日呼吸不全のために死去。77歳没。
杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)… 杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)1月7日 - 1989年(平成元年)4月26日)は、日本の実業家、俳人である。 京都の生まれ。大阪商科大学高商部(現在の大阪市立大学)卒業後、上京し三越に入社し勤務した。その後京都に戻り、千葉県に出店していた奈良屋の経営に携わり、本店移動に携わった。1937年(昭和12年)には同社の社長に就任し、その後はニューナラヤに商号変更して古巣の三越と連携しながら会長を歴任した。 後に千葉県商工会議所連合会の会頭を務め、千葉県美術会及び1958年(昭和33年)には日本対がん協会の千葉県支部の設立(後に副会長に就任)にも携わった。また北柿の俳号で「原人」を主宰し、多くの句集を発行した。
前川 堅市(まえかわ けんいち、1902年1月7日 - 19… 前川 堅市(まえかわ けんいち、1902年1月7日 - 1965年3月19日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 京都府出身。第三高等学校を経て東京帝国大学卒業。文化学院教授から、1949年埼玉大学教授。スタンダールを専門とし、定年を前にした1965年、63歳で死去した。 子は英文学者の前川祐一。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1… 丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1981年)は、日本の画家。洋画家。 印象派の技巧を取り入れた画風を確立、主に関西画壇で活動した。 1902年(明治35年)大阪府堺市に生まれる。旧制堺中学校(現大阪府立三国ヶ丘高等学校)を卒業後、東京美術学校洋画科に入学して岡田三郎助に師事。1926年(大正15年)同校を卒業、一陽会に入会して創作活動を続ける。後に神戸山手女子短期大学教授。
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6… 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日 - 1992年(平成4年)6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身。 今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。
牧野 寛索(まきの かんさく、1902年1月6日 - 196… 牧野 寛索(まきの かんさく、1902年1月6日 - 1963年9月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。弁護士。 山形県西村山郡溝延村(現:河北町)生まれ。村山農学校を経て、上京し、中央大学に入る。在学中に高等試験司法科試験に合格し、1931年同大学を卒業する。卒業後は弁護士として活動し、中央大学講師となる。 1942年の翼賛選挙では郷里の山形1区(当時)から非推薦で立候補したが落選した。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙で山形県(全県1区)から日本自由党公認で立候補して初当選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で旧山形1区から立候補したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して再選。
土井 末夫(どい すえお、1902年〈明治35年〉1月6日 … 土井 末夫(どい すえお、1902年〈明治35年〉1月6日 - 1976年〈昭和51年〉6月5日)は、日本の実業家、銀行家。第2代佐賀銀行頭取。東邦海運(現:NSユナイテッド海運)元常務。小幡亜鉛鍍金工場元常務。佐賀商工会議所元会頭。佐賀県テニス協会元会長。従五位勲四等旭日小綬章受章者。 佐賀県佐賀郡川副町(現:佐賀市川副町)出身。佐賀市在籍。1927年(昭和2年)東京商科大学を卒業し、同年4月日本興業銀行に入行。 1937年(昭和12年)3月満洲興業銀行に出向。1941年(昭和16年)5月復帰。1946年(昭和21年)7月庶務部長となり、1948年(昭和23年)12月理事に選ばれ、後取締役と改称。
武藤 運十郎(むとう うんじゅうろう、1902年(明治35年… 武藤 運十郎(むとう うんじゅうろう、1902年(明治35年)1月6日 - 1993年(平成5年)4月8日)は、昭和時代の日本の弁護士(法学博士)、政治家。元衆議院議員(旧群馬3区選出、日本社会党所属)。社会党左派の論客として名をはせた。衆議院不当財産取引調査特別委員会委員長などの要職を歴任。 1902年1月、群馬県碓氷郡八幡村(現高崎市)に生まれる。1927年、早稲田大学専門部法科を卒業。弁護士開業後、日本借家人組合を組織し委員長になる。1947年、第23回衆議院議員総選挙に社会党公認で旧群馬3区より出馬し衆議院議員に当選。1948年、国会でハンセン氏病の問題を取り上げる。1954年、社会党代議士会長に抜擢される。
萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年… 萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年12月12日)は、日本のジャーナリスト、新聞社経営者。元日本経済新聞社社長。北海道小樽市出身。 1926年に早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)に入社。政治部記者・編集局次長・工務局長などを歴任し、1945年に取締役となる。その後常務・専務を経て、1956年社長に就任。就任後は積極的な経営政策をとり、設備の近代化・通信網の拡大・マーケティング活動の拡張などを推進した他、1964年には東京・大手町に新社屋を建設した。経済専門紙としての同紙の飛躍的な発展の基を築き、後任社長の圓城寺次郎とともに「中興の祖」と呼ばれる。
鈴木 修学(すずき しゅうがく、1902年1月5日 - 19… 鈴木 修学(すずき しゅうがく、1902年1月5日 - 1962年6月7日)は、日本の社会福祉の実践家で教育者、日蓮宗僧侶。日本福祉大学の創立者で初代学長。学校法人法音寺学園、昭徳会理事長。日蓮宗大僧正。 1902年(明治35年)愛知県江南市寄木町の菓子の卸売りを兼ねる農家に生まれる。父は熱心な法華経信者であった。布袋尋常高等小学校高等科卒業後に家業を継ぎ、菓子の他にパンの製造と卸売を始めて成功する。やがて法華経の教えによる社会の救済を実践していた仏教感化救済会の杉山辰子と出会い、家業や蓄財を精算したお金を携えて救済会に入会する。1928年、辰子の養女みつと結婚。同年、辰子の指示により、夫婦で福岡県福岡市のハンセン病療養所を運営する。
阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 … 阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 - 1968年(昭和43年)2月5日)は、日本の作曲家。 山形県鶴岡市湯野浜に旅役者の息子として誕生するも、生後間もなく両親は離別、再婚した母に伴われて横須賀に居を移したが母が病死したので、祖父母と石巻に転住。まだ小学生という頑是無い子供であるのに、町役場の給仕として働き生活の辛酸を舐めていた。 苦学の末、東洋音楽学校に入学。卒業後、神戸オリエントホテルのバンドマンとして就職。10年程、楽士として各地を転々とする。 1933年(昭和8年)、作詞家藤田まさとの紹介でポリドールに入社し、専属作曲家となる。1934年(昭和9年)、東海林太郎の歌う「国境の町」、1935年(昭和10年)「むらさき小唄」が大ヒット。
関 外余男(せき とよお、1902年(明治35年)1月3日 … 関 外余男(せき とよお、1902年(明治35年)1月3日 - 2000年(平成12年)11月8日)は、日本の内務官僚。官選埼玉県知事、陸軍司政長官。旧姓・乾。 石川県金沢市で乾芳久の五男として生まれ、関薫の養子となる。第四高等学校を首席で卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、愛媛県経済部長、福井県書記官・警察部長、対満事務局行政課長、徳島県書記官・総務部長、内務省監査官などを歴任。1942年8月、陸軍司政長官に発令され、第25軍軍政監部付(スマトラ島)として、ジャンビー州長官を1944年8月末まで務めた。
山内 清男(やまのうち すがお、1902年1月2日 - 19… 山内 清男(やまのうち すがお、1902年1月2日 - 1970年8月29日)は、日本の考古学者。学位は、文学博士。東京大学講師。成城大学教授。 日本の考古学研究においてもっとも功績のあった考古学者の一人。佐藤達夫は「縄文学の父」とよんだ(ただし、この表現は佐原真による翻案。佐藤は山内について、縄文に限定せず「この学問(日本先史考古学)の父」と評価している)。型式学的研究法および層位学的研究法を応用した土器の年代決定を本格的に用いて、縄文土器の全国的な編年網を初めて作り上げた。また、縄文土器の器面(表面)に施されることが多い「縄文」について、植物繊維を紐(縄)状に縒ったもの(縄文原体)を転がして付けていることを実験によって明らかにした。
小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - 2006… 小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - 2006年4月)は、昭和期の逓信官僚。元郵政事務次官、日本放送協会(NHK)第11代会長。広島県広島市出身。 広島商業学校、大阪高等商業学校を経て1931年、九州帝国大学法文学部卒。逓信省に入省し札幌鉄道郵便局長、広島逓信局経理局長、中華民国臨時政府副郵務長(華北郵政総務計画課長)、大連関東逓信局長などを経て1951年、郵政省貯金局長、1955年同簡易保険局長などを歴任の後、1956年郵政事務次官就任。 30代で大臣(郵政大臣)に初就任した田中角栄が進める放送局の免許大量交付や新聞社とテレビ局との統合系列化他で大きな役割を果たした。 1959年、日本放送協会(NHK)専務理事、1964年同副会長を経て1973年、田中に抜擢され第11代NHK会長に就任。
橋本 政実(政實、はしもと まさみ、1902年(明治35年)… 橋本 政実(政實、はしもと まさみ、1902年(明治35年)1月2日 - 1962年(昭和37年)2月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。旧姓・坂井。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 長崎県出身。橋本家の養子となる。第八高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し東京市事務員となる。1926年、内務省に転じ東京府属となる。 以後、高知県書記官・警察部長、情報局情報官・第四部長などを歴任。1944年7月、岐阜県知事に就任。1945年4月に茨城県知事に転じ、終戦を迎えた。同年8月、内務省警保局長に就任。同年10月、公職追放となり退官した。
小島 正治郎(こじま しょうじろう、1902年(明治35年)… 小島 正治郎(こじま しょうじろう、1902年(明治35年)1月2日 - 1974年(昭和49年)2月23日)は、日本の実業家。西武鉄道社長などを務めた。位階は正四位。 小島卯八の次男として栃木県安蘇郡佐野町(現・佐野市)に生まれる。 佐野中学を経て、1925年早稲田大学商学部を卒業。 駿豆鉄道(のち伊豆箱根鉄道)取締役、東京ゴム(のち西武ゴム化学)、西武鉄道各常務を経て専務となり、1954年、西武ゴム化学、西武鉄道の社長に就任。堤康次郎の片腕として西武鉄道の経営にあたり、康次郎の長女・淑子と結婚している。 康次郎の亡き後の西武グループは運営にあたって集団指導制を採用したが、この体制には中核4社(西武鉄道、国土計画、西武百貨店、西武化学工業)の代表が参加した。
直良 信夫(なおら のぶお、1902年1月1日(戸籍上の生年… 直良 信夫(なおら のぶお、1902年1月1日(戸籍上の生年月日は1902年1月10日) - 1985年11月2日)は、日本の考古学者、動物考古学者、古生物学者、文学博士。 明石人、葛生人などの発見で知られる。また、従来の日本考古学では等閑に付されていた、遺跡から出土する骨や種子といった、動物植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学や環境考古学の礎(いしずえ)を築いた。明石市文化功労賞受賞。なお直良姓は婿養子として結婚後の姓であり、旧姓は村本。 1902年1月10日、大分県北海部郡臼杵町(現・臼杵市)に、8人姉弟の次男として生まれる。
田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)… 田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)1月1日 - 1985年(昭和60年)12月18日)は、日本の哲学者、西洋古典学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。
井上 定雄(いのうえ さだお、1902年1月1日 - 198… 井上 定雄(いのうえ さだお、1902年1月1日 - 1985年8月23日)は、日本の実業家。京王帝都電鉄(現:京王電鉄)代表取締役社長(第2代)。京王プラザホテル代表取締役社長(初代)。東急車輛製造(現:総合車両製作所)取締役。 西新宿(淀橋浄水場跡地)で初の超高層ビルとなった京王プラザホテルの創業者であり、“西新宿をつくった男”の異名がある。京王帝都電鉄の初代社長であった三宮四郎の後任として、1960年代の高度成長期に京王帝都電鉄と京王グループの発展に寄与した。 京王電気軌道の実力者で30年の長きにわたって社長を務めた井上篤太郎とは、同姓であるが血縁関係は無い。旧京王電気軌道ではなく、旧小田急電鉄の出身者である。
菅野 七郎(かんの しちろう、1902年1月1日 - 没年不… 菅野 七郎(かんの しちろう、1902年1月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。 1902年(明治35年)1月1日、福島県相馬郡原町(後の同県原町市、現在の同県南相馬市原町区)に生まれる。 旧制中学校を中退後、満州に渡り各地を放浪していたが、1922年(大正11年)、徴兵のため帰国。その後、会社員を経て1923年(大正12年)8月、松竹蒲田撮影所に入社。同年8月18日に公開された島津保次郎監督映画『貫一と満枝』(『寛一と満枝』)で映画初出演。以降、数本の作品に脇役として出演するが、1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・十四年』(東京朝日新聞)によれば、菅野自身の代表作は1925年(大正14年)2月21日に公開された吉野二郎監督映画『呪の女』であるという。
三石 巌(みついし いわお、1901年12月29日 - 19… 三石 巌(みついし いわお、1901年12月29日 - 1997年1月17日)は、日本の物理学者[要出典]、児童文学者。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)出身。 1919年、東京帝国大学理学部物理学科入学。1927年、同工学部大学院卒。 物理学者として、日本大学・慶応義塾大学・武蔵大学・津田塾大学・清泉女子大学の教授を歴任した。 1974年、東京タイムズに「ビタミン大量投与の是非をめぐって」を寄稿して以来[要出典]、分子生物学や栄養学での研究も行った。その後、独自に編み出した分子栄養学を提唱し[要出典]、健康自主管理運動の拠点として1981年にメガビタミン協会(現三石理論研究所)、1982年に株式会社メグビーを設立した。
高瀬 露(たかせ つゆ、1901年〈明治34年〉12月29日… 高瀬 露(たかせ つゆ、1901年〈明治34年〉12月29日 - 1970年〈昭和45年〉2月23日)は宮澤賢治の「第二の恋人」とされる女性。松竹『宮澤賢治 その愛』では牧瀬里穂が、東映『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』では斉藤由貴が演じた。 士族の高瀬大五郎(測量士)の娘として岩手県稗貫郡花巻町(現・花巻市)に生まれる。1918年、岩手県立花巻高等女学校(現・岩手県立花巻南高等学校)を卒業。准教員の資格を取り、次いで1923年9月には正教員となる。この間、1921年に花巻バプテスト教会で受洗。 1927年初頭、岩手県稗貫郡湯口村(現・花巻市)の宝閑小学校(現在は廃校)の訓導だった頃、農会主催の講習会や、藤原嘉藤治の音楽サロンを通じて宮澤賢治と知り合う。
田中 不破三(たなか ふわぞう、1901年(明治34年)12… 田中 不破三(たなか ふわぞう、1901年(明治34年)12月28日 - 1994年(平成6年)3月8日)は、日本の鉄道官僚・政治家。衆議院議員、内閣官房副長官。 宮崎県南那珂郡飫肥町(現日南市)で生まれた。田中猛の養子となる。第一高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年(昭和2年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。鉄道省に入省し広島駅助役となる。 以後、鉄道省事務官、広島鉄道局経理部長、鉄道省監督局総務課長、同総務局主計課長、大臣官房文書課長、情報局情報官、技術院参技官、鉄道監、門司鉄道局長、鉄道総局総務局長などを歴任。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で宮崎県第2区に民主党から立候補し当選。
福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 19… 福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 1970年)は、鹿児島県出身の日本画家。浦和画家のひとり。 日本画は川合玉堂に学び、自らの雅号を一穂と号した。26年間埼玉県立浦和高等学校(浦和中学時代から)に勤務し、以後浦和高校教頭、春日部女子高校校長、久喜高校校長も務め、教育功労者として表彰された。 のちに浦和画家と呼ばれることとなる多くの画家を指導したことで知られており、日展理事長や日本芸術院会員である高田誠、人間国宝の増田三男をはじめ、渡辺武夫、金子徳衛、川村親光、小松崎邦雄、尾上一男、金子仁三郎、小川游、三尾彰藍などを指導した。松岡映丘にも師事し大和画の研究を行い、新興大和画展に発表した。
小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 … 小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 - 1963年5月7日)は、美術史家・芸術学者。 京都西陣生まれで生家も西陣織の織り元である。母テウは京都御所の東で塾を開いていた宮津藩士宮城盛信の次女。京都帝国大学哲学科卒。 ソルボンヌ大学に三年間留学し、帰国後、東方文化学院研究嘱託、大阪市立美術館学芸員を経て、1950年、神戸大学教授となり芸術学の講座を担当した。1947年、『大和絵史論』で毎日出版文化賞受賞(また、同論文によって東大より博士号を授与されている)。没後、淡交社から『小林太市郎著作集』が刊行された。膨大な蔵書が神戸大学に寄贈され、神戸大学人文科学図書館に「小林文庫」として保管されている。
島田 叡(しまだ あきら、1901年〈明治34年〉12月25… 島田 叡(しまだ あきら、1901年〈明治34年〉12月25日 – 1945年〈昭和20年〉6月26日)は、日本の内務官僚、沖縄県知事(官選第23代)。 第二次世界大戦末期、沖縄戦時の知事であり、「島守」として知られる。座右の銘は、「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。 1901年(明治34年)、兵庫県武庫郡須磨村(現在の神戸市須磨区)の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。須磨尋常高等小学校(現 神戸市立西須磨小学校)尋常科から兵庫県立第二神戸中学校(旧制神戸二中、現 兵庫県立兵庫高等学校)へ進学。須磨小、神戸二中では重成格(内務官僚、鹿児島県知事、参議院議員)と同期。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部へ入学。
横山 青娥(よこやま せいが、1901年(明治34年)12月… 横山 青娥(よこやま せいが、1901年(明治34年)12月25日 - 1981年(昭和56年)12月20日)は、日本の詩人、国文学者。 高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)生まれ。1927年(昭和2年)に早稲田大学文学部国文科卒業。 1921年(大正10年)、西條八十の門下に入る。『黄金の灯台』『蒼空に泳ぐ』『海南風』等の詩集により、海洋詩人と呼ばれた。 1924年(大正13年)1月、門下生と共に詩誌『棕櫚の葉』を創刊。『棕櫚の葉』は1925年(大正14年)12月に廃刊となるが、渡仏していた八十の帰国と共に1926年(大正15年)5月、全国詩誌『愛誦』が創刊されるとこれに参加、1934年(昭和9年)の廃刊まで編集主宰を務めた。
大山 朝常(おおやま ちょうじょう、1901年(明治34年)… 大山 朝常(おおやま ちょうじょう、1901年(明治34年)12月25日 - 1999年(平成11年)11月24日)は、琉球政府および沖縄県の政治家。1954年に立法院議員に当選。1958年から1974年まで4期16年間にわたりコザ市長を務めた。沖縄社会大衆党の結党メンバーの1人で、沖縄の本土復帰運動のリーダーであった。位階は正六位。沖縄戦の後の沖縄の政治、行政に大きな影響を与え、現在の沖縄市の基礎を築いたと評される。晩年、『沖縄独立宣言』 を出版し、「ヤマトは帰るべき祖国ではなかった」として琉球独立を主張した。 琉球列島米国民政府(略称:USCAR)については、「アメリカ民政府」と記述する。また肩書、施設名、その他名称について、当時のもので表記する。
中尾 蔦一(なかお つたいち、1901年〈明治34年〉12月… 中尾 蔦一(なかお つたいち、1901年〈明治34年〉12月24日 - 1937年〈昭和12年〉9月16日)は、日本の大正から昭和にかけての日本画家。拝石、光林などと号していた。フォークシンガーの高田渡の叔父。 佐賀県鹿島市に生まれた中尾は、東京美術学校日本画科に進学し、日本画家としてデビューした。 根津の下宿に住んでいたとき、隣の部屋に住む高田豊(高田渡の父)と出会ったことをきっかけに、豊の妹と結婚する。 帰郷すると鹿島高等女学校で教師をしながら作品をつくっていたが、病のため35歳で永眠した。 2012年には佐賀県立博物館で、作品やスケッチブック、貴重な資料などが展示された。2016年には佐賀大学美術館で開催された、「佐賀の美術教師たち」ー地方画壇の成立と美術教育者 展で展示される。
野又 貞夫(のまた さだお、1901年(明治34年)12月2… 野又 貞夫(のまた さだお、1901年(明治34年)12月23日 - 1976年(昭和51年)10月15日)は、日本の商学者・学校経営者・政治家だった人物。 学校法人野又学園初代理事長。数多くの学校長を務めた。北海道旭川市出身。子に野又肇がいる。
平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1… 平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1976年3月30日)は、日本の作曲家、小学校教員。教科書掲載の童謡『若葉』の作曲者として知られる。 本名は、均。秋田県仙北郡神代村(現・仙北市)に生まれる。秋田市立中通小学校に入学したが、父が中学校教員となり、旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)に赴任したため均之自身も埼玉県熊谷町(現・熊谷市)に引っ越す。熊谷市立石原小学校を経て、旧制埼玉県立熊谷中学校に入学。 大正7年、父が亡くなった為熊谷中学校を5年で中退(4年終了)。 大正11年、群馬県新田郡強戸小学校代用教員となる。同年、小学校音楽専科正教員となり大正14年、足利尋常小学校相生校訓導となる。
燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月2… 燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月22日 - 1974年(昭和49年)11月9日)は、日本の詩人。本名は岸野 知雄。 東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)在学中から日夏耿之介に師事し、1922年同大学予科を卒業した。 1925年に同大学本科2年を修了後、三省堂に入社し、同社資料室長、営業部長などを務めた。 蒐集したウィリアム・バトラー・イェイツ初版本を含むアイルランド文学関連のコレクションは一橋大学附属図書館に岸野文庫として収蔵された。
渡辺 俊平(わたなべ しゅんぺい、1901年(明治34年)1… 渡辺 俊平(わたなべ しゅんぺい、1901年(明治34年)1月19日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の科学者・教育者・実業家。ホトフィニ株式会社(現在の株式会社JPF)創設者。日本大学芸術学部長を務めた。 現在の東京都文京区に、父・三平と母・勝の長男として生まれる。明化小学校、豊島師範付属小学校、開成中学校、官立旧制第四高等学校を経て、東京大学工学部造兵学科を卒業し、1925年(大正14年)、財団法人理化学研究所に入所した。 理化学研究所に入所した渡辺は、理化学研究所3代目所長を務めた大河内正敏の研究室に所属し、工学士としての長年に亘る研究生活を経て、独自の多面積式録音方式および自動現像方式を発明した。
村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月… 村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
古河 三樹(ふるかわ みき、男性、1901年1月16日 - … 古河 三樹(ふるかわ みき、男性、1901年1月16日 - 1995年5月18日)は、日本の編集者、歴史家。 京都府生まれ。本名・三樹松。古河力作の弟。工業学校応用化学科卒。大正末期、アナルコ・サンジカリストとして活動し、その後平凡社に勤務。退職後、四谷で古河書店を開く。また、古河三樹の筆名で、見世物の研究書を刊行した。
菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1901年(明治34… 菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1901年(明治34年)1月16日 - 1974年(昭和49年)8月19日)は、日本の政治家。元立憲政友会→日本自由党衆議院議員(2期)。 岩手県出身。1920年(大正9年)盛岡中学校卒業。宮古町会議員、同町長、下閉伊郡町村会長、宮古市会議員、同議長、初代宮古市長、岩手県会議員などを務めた。 1936年の第19回衆議院議員総選挙で立憲政友会から立候補して当選。その後、1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党から立候補して再選。2期務めた。翌1947年、公職追放となる。 岩手県漁業組合連合会会長、同水産協会会長、東京都水産物卸売人協会理事、六大都市水産物卸売人協会常任理事を務めるなど水産関係の要職を歴任し、中央魚類㈱取締役社長、中央冷凍㈱取締役、東京豊海冷蔵㈱取締役、㈱宮古製氷冷凍工場取締役社長を務めるなど水産流通業界において重きをなした。
梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月… 梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月15日 - 1946年〈昭和21年〉4月5日)は、日本の作家・編集者。本名は梅原 貞康。昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する出版人である。宗教研究家の梅原正紀は息子。別名・烏山朝太郎、談奇館主人、大塚倭堂、吾妻大陸ほか多数。 1901年、富山県富山市の士族の次男として生まれる。父・貞義は生命保険の代理店を営んでおり、生活はゆとりがあったとされる。京都の平安中学を卒業し、早稲田大学予科に進学。同校在学中に片山潜のグループと接し、社会主義思想に触れた。1920年に中退して関西で部落解放運動に従事。1924年から新聞社や雑誌社に勤める傍ら小説を執筆。
吉川 大二郎(きっかわ だいじろう、1901年(明治34年)… 吉川 大二郎(きっかわ だいじろう、1901年(明治34年)1月14日 - 1978年(昭和53年)9月25日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は、法学博士(1947年)(学位論文「保全訴訟における裁判の効力」)。立命館大学名誉教授。元日本弁護士連合会会長。国際法曹協会名誉会長。1971年勲一等瑞宝章受章。 戦前から戦後のながきにわたり日本の民事手続法研究と実務をリードした。特に民事執行・保全法に関する研究は吉川がこの分野のパイオニアとされる。そのため吉川の考えは現在の民事執行法・保全法の基本的な考えとなっている。例えば、吉川以前は、保全訴訟において被保全権利の存在は審理の対象ではなかったが、吉川が被保全権利の存在は仮処分命令の発令要件であると唱えて以来、この考えが通説となっている。
志賀 義雄(しが よしお、1901年(明治34年)1月12日… 志賀 義雄(しが よしお、1901年(明治34年)1月12日 - 1989年(平成元年)3月6日)は、日本の政治家、共産主義運動の活動家。衆議院議員、日本共産党中央委員、「日本共産党(日本のこえ)」委員長などを務めた。ソ連共産党から資金援助を受けていた。 福岡県門司市(現・北九州市門司区)生まれ。旧姓、川本。1906年、母方の祖父の養子となって山口県阿武郡萩町(現・萩市)へ移り、志賀姓となる。 旧制萩中学校(現・山口県立萩高等学校)から一高を経て東京帝国大学文学部に入学する。帝大在学中に学生運動に参加し、在学中の1923年(大正12年)には、前年に非合法政党として結成された日本共産党へ入党。1927年(昭和2)1月には、モスクワに赴任した福本和夫から党中央常任委員・政治部長の要職を引き継いだが、1928年(昭和3年)の三・一五事件において検挙され、1934年(昭和9年)に治安維持法により懲役10年の有罪判決を受けた。
三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988… 三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988年2月20日)は、昭和期の政治家。郵政大臣。 佐賀県神埼郡三田川村(現・吉野ヶ里町)に、三池鉄一の長男として生まれる。佐賀高等学校理科甲類を経て、1926年九州帝国大学工学部電気科を卒業、京浜電力株式会社に入社する。奈川渡発電所(信州)所長を経て、理化学研究所特殊製鉄株式会社に移り常務取締役となる。終戦は同社羅興(現・北朝鮮咸鏡南道)工場長として朝鮮半島で迎えた。 1949年、第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党から佐賀県全県区で立候補し当選する(当選同期に池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二など)。
難波 経一(なんば つねかず、1901年1月11日-1986… 難波 経一(なんば つねかず、1901年1月11日-1986年2月22日)は、大正・昭和期の官僚、実業家。東京府出身。妻直子は男爵岩倉道倶の二女、岩倉具視の孫娘である。
荻野 貞行(おぎの さだゆき、1901年1月11日 - 19… 荻野 貞行(おぎの さだゆき、1901年1月11日 - 1979年10月4日)は、日本のプロボクサー。日本プロボクシング草創期の強豪。技巧派の名選手であり、後には指導者としても活躍するなど、ボクシング界に対する幾多の貢献から、“日本ボクシングの母”とも呼ばれる。初代日本ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)チャンピオン。帝拳プロモーション創設者。 群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)の出身。父は荻野卓造。1922年(大正11年)、立教大学在学中に創設間もない渡辺勇次郎率いる日本拳闘倶楽部に入りボクシングを学び、同年、日本拳闘倶楽部公認の日本ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)チャンピオンとなった。
渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(190… 渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(1900年末?) - 2002年1月19日)は、日本の推理作家。本名は渡辺 圭介。渡辺伊太郎・渡辺ツネの次男で、画家の渡辺東は娘、推理作家の渡辺温は実弟である。秋田県秋田市生まれ。 セメント技師の父の赴任のため、生後まもなく北海道谷好村(現在の北斗市)に、次いで1905年東京・深川に、1912年茨城県高鈴村(現在の日立市)に転居。茨城県水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1920年青山学院高等部英語師範科入学。1925年同校を卒業し、群馬県立渋川中学校(現在の群馬県立渋川高等学校)で英語教員となるが、翌1926年辞職し九州帝国大学(現在の九州大学)法文学部史学科に入学。
入江 俊郎(いりえ としお、1901年(明治34年)1月10… 入江 俊郎(いりえ としお、1901年(明治34年)1月10日 - 1972年(昭和47年)7月18日)は、日本の官僚、政治家、裁判官。法制局長官、貴族院議員、衆議院法制局長、最高裁判所判事。東京府出身。 府立三中、第一高等学校、東京帝国大学卒業。1924年に内務省に入り、1927年、法制局参事官となる。 戦後の1945年9月には法制局第一部長、同年11月には法制局次長、1946年3月には法制局長官となり、日本国憲法の立案責任者になった。1946年5月18日、昭和天皇により貴族院議員に勅選され、同和会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 日本国憲法により帝国議会及び貴族院は廃止され、国立国会図書館専門調査員であったところ、芦田内閣期の1948年7月に衆議院の法制局長に任命された。
岩崎 正三郎(いわさき しょうざぶろう、1901年〈明治34… 岩崎 正三郎(いわさき しょうざぶろう、1901年〈明治34年〉1月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本の社会運動家、政治家、参議院議員(1期)。位階は正五位。 栃木県下都賀郡藤岡町(現栃木市)で生まれた。1924年、拓殖大学を卒業。同年、報知新聞社に記者として入社し、1925年に退社した。 1927年、日本労農党に加わり、同党関西事務局書記長、全国労農青年同盟書記長、全国大衆党中央委員、日本大衆党中央委員、社会大衆党中央委員などを歴任し、労働運動、農民運動を指導。1934年、社会活動から身を引き東京製鐵社員となる。 戦後、日本社会党に入党し、栃木県労働組合協議会の結成に関わった。
井上 敏夫(いのうえ としお、1901年1月10日 - 19… 井上 敏夫(いのうえ としお、1901年1月10日 - 1975年6月23日)は、日本の経営者。東京証券取引所理事長を務めた。 三重県出身。1924年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1948年4月に理事に就任し、1954年6月から1959年6月までに副総裁を務め、1961年4月から1967年4月までに東京証券取引所理事長を務めた。 1975年6月23日、脳血栓のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡崎 英城(おかざき えいじょう、1901年〈明治34年〉1… 岡崎 英城(おかざき えいじょう、1901年〈明治34年〉1月10日 - 1989年〈平成元年〉2月18日)は、日本の内務官僚・政治家。 東京帝国大学経済学部卒業後、内務省に入省。警察畑を歩み公職追放後の1955年(昭和30年)衆議院議員に東京4区から初当選(連続当選6回)。岸内閣の内閣官房副長官、労働・行政管理・通産の各政務次官、自民党東京都連幹事長などを歴任したが、入閣はできず1972年の衆院選で落選し政界を引退した。墓所は多磨霊園。 1901年(明治34年)1月10日、三重県津市出身。 水戸高校を卒業し、1928年(昭和3年)に東京帝国大学経済学部経済学科卒業・高等文官試験行政科に合格する。
山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 196… 山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 1964年11月23日)は日本の政治家。衆議院議員や青森県知事を務めた。 1901年、北海道久遠村(現せたな町大成区)に青森県出身の漁師の末子として生まれる。実家は貧しく、父は本籍地を捨てて出奔した状態だったので戸籍上は母の私生児扱いであった。1915年、父の郷里である八戸市に移住。八戸中学(現青森県立八戸高等学校)に入学するもストライキ騒動の責任者とされて退学処分を受ける。その後は中央大学の予科に進学。箱根駅伝の走者として活躍し、第2回から第7回まで出場した。在学中に結婚し、長男の竜男が生まれている。 中央大学法学部卒業後、青森県立青森商業高等学校の英語兼民法の教師となるが、大学の先輩である梅村大の衆議院議員立候補を応援するために退職。