木村 庄三郎(きむら しょうざぶろう、1902年8月10日 … 木村 庄三郎(きむら しょうざぶろう、1902年8月10日 - 1982年1月10日)は、日本の翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部国文科卒業。同人誌『山繭』などに小説を書き、文学者として活動したのち、戦後はフランス文学の翻訳をおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
三和 精一(みわ せいいち、1902年(明治35年)8月10… 三和 精一(みわ せいいち、1902年(明治35年)8月10日 - 1964年(昭和39年)6月14日)は、昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。 青森県北津軽郡相内村(市浦村を経て現五所川原市)で、三和松三郎、ユキの三男(5人兄弟の末子)として生まれる。生家は「相清」と呼ばれた旧家で、幼少時は西津軽郡十三村で水戸口役人を務めていた祖父のもとで成長し薫陶を受けた。1914年(大正3年)3月、金木明治高等小学校を卒業し、朝鮮在住のリンゴ業者の伯父のもとに寄寓した。開成夜学校を経て、中央大学専門部法科で学んだが1923年(大正12年)9月に中退した。 1927年(昭和2年)4月、東京民友新聞社に入社。
森 武臣(もり たけとみ、1902年8月9日 - 1971年… 森 武臣(もり たけとみ、1902年8月9日 - 1971年3月23日)は、日本の経営者。富国生命保険社長を務めた。 山梨県出身。1927年に東北帝国大学法文学部を卒業し、1936年8月に富国生命保険に入社。1947年10月に取締役に就任し、1951年4月に常務、1953年5月に専務を経て、同年9月には社長に就任した。 日本航空、富士急行各取締役、東武鉄道、後楽園スタジアム、昭和電工各監査役も歴任した。 1971年3月23日、腎臓炎のために死去。68歳没。
青木 理(あおき まさる、1902年〈明治35年〉8月9日 … 青木 理(あおき まさる、1902年〈明治35年〉8月9日 - 1967年〈昭和42年〉1月25日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。初代三重県公選知事(2期)。 三重県一志郡久居町西鷹跡町(久居市を経て現津市)で生まれた。1923年(大正12年)東京帝国大学法学部を卒業。理研特殊鋼総務部長、日本兵器車両取締役などを経て、1942年(昭和17年)拓務大臣・井野碩哉秘書官となる。翌年実業界に戻り、日本蚕糸近畿中国支社長などを歴任した。 戦後の1947年(昭和22年)の第1回三重県知事選挙に立候補して、官選知事の佐伯敏男や共産党の候補ら4人を破って当選し、初代公選知事となった。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年4月16日に就任した。
牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 … 牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 - 1996年(平成8年)8月30日)は、日本の海軍軍人、造船技師。東京帝国大学卒業。最終階級は海軍技術大佐。愛知県名古屋市出身。 1902年(明治35年)8月9日生まれ。愛知県名古屋市出身。東京府立第一中学校、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)、東京帝国大学工学部船舶工学科に入学。大正11年7月、海軍造船学生。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学を卒業(工学士)。 大正14年5月、海軍造船中尉に任官、横須賀鎮守府付。1927年(昭和2年)12月に海軍造船大尉に進級し、1931年(昭和6年)12月から1934年(昭和9年)12月までフランスに駐在し(フランス国立造船大学〈シェルブール〉)、その間の1932年(昭和7年)12月に海軍造船少佐に進級。
岩井 文男(いわい ふみお、1902年〈明治35年〉8月9日… 岩井 文男(いわい ふみお、1902年〈明治35年〉8月9日 - 1983年〈昭和58年〉8月12日)は、日本基督教団牧師、教育者。 群馬県北甘楽郡高瀬村(現・富岡市高瀬)に生まれる。1918年(大正7年)16歳で、日本組合甘楽(基督)教会にて岡部太郎牧師より受洗。旧制富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)を経て、同志社大学法学部を卒業。三井銀行に入行したが2年で退職。大学の恩師で法学部教授・中島重に共鳴、日本労働者ミッション派遣員として京都府綴喜郡下草内村で伝道、のち、賀川豊彦の支援により岐阜県加茂郡富田村で農民福音運動やセツルメント活動に従事、兼松沢一らを指導した。 1934年(昭和9年)-1937年(昭和12年)、同志社大学文学部神学科に学んだ後、日本組合渋谷基督教会、日本組合永福町基督教会牧師を歴任。
佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 200… 佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 2000年3月31日)は、日本の植物学者。佐竹氏一門の佐竹南家第19代当主、男爵。湯沢市名誉市民。日本高山植物保護協会会長。 1902年、秋田県で佐竹南家の佐竹義雄の次男として生まれた。旧名は佐竹義宏。次男であったため、はじめ早川家の養子となったが、兄の義質の急死に伴い佐竹南家の当主となり、男爵位を継承した。 秋田県立橫手中学校(現、秋田県立横手高等学校)を経て、東京帝国大学(現、東京大学)理学部に進む。東京大学に学位論文「Boehmeria japonica (日本産やぶまを屬)」を提出して理学博士号を取得。大学卒業後は東京科学博物館 (現:国立科学博物館) の植物研究部長に就任した。
河野 正夫(こうの まさお、1902年(明治35年)8月8日… 河野 正夫(こうの まさお、1902年(明治35年)8月8日 - 1973年(昭和48年)6月7日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 千葉県君津郡上総町(現・君津市)出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。 1929年、姫路市の私立亀山高等女学校教諭に就任。その後、帝国女子専門学校、同附属日本高等女学校教諭に転じた。1940年(昭和15年)東京府立第八中学校教諭に就任し終戦を迎えた。 戦後、労働運動に加わり、東京都教職員組合協議会委員長、教員組合全国連盟委員長、教職員適格審査委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選(補欠、任期3年)し、1950年(昭和25年)6月の第2回通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬したが落選し、参議院議員に1期在任した。
島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月… 島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月7日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。殉職後は海軍大佐。 長野県東筑摩郡島内村(現松本市)出身。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、海軍兵学校卒(51期)。兵学校では高松宮宣仁親王の「学友」を命じられる。少尉候補生から海軍砲術学校、「古鷹」、「榛名」、横須賀鎮守府、「厳島」、「響」、「大鯨」、第二艦隊司令部などに配属された。 太平洋戦争開戦(1941年)時、連合艦隊旗艦「長門」司令部の真珠湾攻撃作戦指揮に気象担当として従事した。のちに(1943年7月、8月15日付以降との説もある)古賀峯一連合艦隊司令長官のもと、トラック泊地でも旗艦「武蔵」の連合艦隊司令部幕僚(参謀・気象長)として所属した。
胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)… 胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)8月6日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、日本の洋画家である。本名は源市。 長野県松本市の生まれ。矢野橋村が設立した大阪美術学校に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に自身の作品が帝展に初入選される。1929年(昭和4年)に卒業後は、斎藤与里の門人となった。1935年(昭和10年)には東光会の会員となり、1941年(昭和16年)及び翌1942年(昭和17年)には2年連続で新文展に出品され特選となる。 その後は大阪美術学校の後輩だった日本画家の融紅鸞と結婚し、1964年(昭和39年)には浪速芸術大学(現在の大阪芸術大学)の教授となり、会員だった東光会の理事長や大阪市立美術研究所の講師も務めた。
金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日… 金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日 - 1973年(昭和48年)10月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 茨城県新治郡真鍋町(土浦市大字真鍋を経て、現在は土浦市真鍋)で生まれる。1919年(大正8年)、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 日神酒造社長、ニッシン興業社長、湖南通運専務取締役、アサヒ産業社長、土浦商工会議所会頭などを務めた。 1947年(昭和22年)、茨城県議会議員に当選。民主党に所属して同党茨城県支部総務に就任。1948年(昭和23年)に県議を辞職し、1949年(昭和24年)1月に実施された第24回衆議院議員総選挙で茨城県第3区に民主党公認で出馬して当選し、その後改進党に所属して衆議院議員に1期在任した。
迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月… 迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 いわゆる「玉音放送」を起草した人物の一人として知られる。 内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。
原一郎(はら いちろう、1902年8月5日-1984年1月3… 原一郎(はら いちろう、1902年8月5日-1984年1月31日)は、日本の英文学者、神秘思想研究家。 東京出身。少年時代にキリスト教に関心をもち、ユニテリアン運動に関わる。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。東亜同文書院、早稲田大学理工学部教授。1973年定年、名誉教授。ワーズワスが専門。ジョン・クーパー・ポウイスと親しく交わった。義兄(姉の夫)に遠山元一がいる。
閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治… 閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治35年〉8月3日 - 1988年〈昭和63年〉6月18日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人、居合道家、剣道家。閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子。閑院宮第7代当主にして最後の当主。軍人としての階級は陸軍少将。全日本居合道連盟第2代会長。栄典は大勲位・功四級。戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし、「閑院 春仁(かんいん はるひと)」と名乗った。のちに「純仁(すみひと)」と改名した。 1902年(明治35年)8月3日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子(第5子)として誕生。 学習院初等科を健康上の理由で長期休学し、その後神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1924年(大正13年)7月陸軍士官学校(36期、兵科・騎兵)を卒業。
浅井 孝二(あさい こうじ、1902年8月3日 - 1992… 浅井 孝二(あさい こうじ、1902年8月3日 - 1992年2月20日)は、日本の実業家。住友銀行元頭取。石川県金沢市出身。 1921年に大阪明星高校、1925年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に住友銀行に入行。1947年に取締役、1952年に常務、1958年に専務、1963年に副頭取を経て、堀田庄三の後を継ぐ形で、1971年6月から1973年5月までに頭取を務めた。 その一方で、1974年から1981年までに大阪商工会議所副会頭を務め、1981年に大阪商工会議所会頭の座を巡り、関西財界を二分した「大商戦争」の際に、佐伯勇会頭の続投を支持しつつ、事態の収拾にも努めた。1972年に勲二等瑞宝章を受章した。
中村 寅太(なかむら とらた、1902年8月3日 – 197… 中村 寅太(なかむら とらた、1902年8月3日 – 1978年2月14日)は、日本の政治家。位階は正三位。 運輸大臣、国家公安委員会委員長、行政管理庁長官を歴任。 現在の福岡県糸島市志摩の農家に生まれる。農業の傍ら、中野正剛の門下生となり、同志を集めて「糸島又新会」を結成、普選運動に挺身する。1933年糸島農学校を卒業後、福岡県産業組合(現在の農協の前身)に入り、1938年主事となる。1942年県農業会主事。終戦後農業会を辞職し、「農民青年連盟」を結成、書記長となる。 1947年第23回衆議院議員総選挙に同連盟から旧福岡1区から立候補し、45,889票を集めて2位で当選する(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。
富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日… 富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日 - ? )は、日本の哲学者。松商学園短期大学第5代学長。「リベラルな思想家」と評された。 佐賀県佐賀市生まれ。第七高等学校から、東京帝国大学文学部に進み、哲学科を卒業した。東亜研究所に勤務したが、戦後にシベリア抑留を経験し、1950年に鹿児島商科短期大学(後の鹿児島経済大学〜鹿児島国際大学の前身)教授となり、1959年に松商学園短期大学教授に転じた。 1971年6月に、当時の学長であった長守善が死去した後、学長事務取扱となり、翌1972年3月1日から正式に第5代学長となった。4期8年の学長在任中に、松商学園高等学校と共有されていたキャンパスの分離移転に取り組み、新村地区(現在の松本大学の校地の一部)への短大の新築移転を実現した。
西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990… 西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990年4月3日)は、日本の政治家。鳥取県知事。 鳥取市出身。九州帝国大学法文学部卒。鳥取県経済部開拓第一課長を経て、1947年の第1回鳥取知事選に立候補して初当選。当時は課長から知事への「三段跳び知事」と話題になった。同年11月、鳥取県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。 1952年の鳥取大火の復興に力を尽くした。2期目の1953年に南米への大量移住を唱え、議会を反対を押し切って5ヶ月にわたる南米視察の外遊をめぐってリコール運動に発展し、任期途中で辞職。出直し知事選で3期目を目指したものの落選し、1963年の鳥取市長選にも出馬したがこちらも落選に終わっている。
栗原 美能留(くりはら みのる、1902年(明治35年)7月… 栗原 美能留(くりはら みのる、1902年(明治35年)7月31日 - 1997年(平成9年)4月24日)は、日本の内務官僚。官選高知県知事。
塩見 恒明(しおみ つねあき、1902年7月29日 - 19… 塩見 恒明(しおみ つねあき、1902年7月29日 - 1981年10月26日)は、日本新聞連合社の記者。妻の美代子は、小野寺百合子の妹。 1920年、兵庫県立伊丹中学校卒業。1924年、関西学院専門部文学科卒業。同年4月、日本新聞連合社大阪支社に入社。1931年12月、ベルリン支局長として赴任。1933年5月に帰国し外国経済部次席兼翻訳部主任。著書に「新興ロシアの横顔」がある。
生住 正信(いけずみ まさのぶ、明治35年(1902年)7月… 生住 正信(いけずみ まさのぶ、明治35年(1902年)7月28日 - 昭和41年(1966年))は日本の教育者。
川南 豊作(かわなみ とよさく、かわみなみ とよさく、190… 川南 豊作(かわなみ とよさく、かわみなみ とよさく、1902年〈明治35年〉7月28日 - 1968年〈昭和43年〉12月11日)は、日本の実業家、右翼活動家。 1902年(明治35年)富山県に生まれ、1919年(大正8年)県立富山水産講習所を卒業後、東洋製罐株式会社に入社。 1931年(昭和6年)結婚後、退職して、朝鮮に渡り、トマト・サージン工場を建設してイワシのトマト煮缶詰の製造を始める。 1934年(昭和9年)、佐賀県にて合名会社川南工業所を設立し、缶詰製造業から曹達・硝子事業に転換する。曹達原料である塩を安く輸入するためには船が必要であるという考えから、1936年(昭和11年)、長崎県西彼杵郡香焼村(現:長崎市香焼町)にある閉鎖中の松尾造船鉄工所を買収し、川南工業所とともに吸収合併し、川南工業株式会社を設立し、造船業に進出する。
笹村 越郎(ささむら えつろう、1902年7月27日 – 1… 笹村 越郎(ささむら えつろう、1902年7月27日 – 1981年8月23日)は、日本の鉄道官僚、実業家。 1902年生れ。山口県出身。 明治中学(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)卒業後、1927年京都帝国大学工学部卒業。同年鉄道省に入り、四国鉄道局長、運輸総局車輛局長などを経て、1951年日本国有鉄道理事、1952年工務局長、総裁室勤務などを歴任。1955年に汽車製造(現・川崎重工業)に移り、専務を経て、東海道新幹線の開通と東京オリンピックが開催された1964年に社長に就任。資本金を26億5200万円に増資した。
田谷 充実(たや じゅうじつ、1902年7月27日 - 19… 田谷 充実(たや じゅうじつ、1902年7月27日 - 1963年2月27日)は、石川県能美郡山上村(旧山口村、旧辰口町を経て現在の能美市)火釜出身の政治家。石川県知事(2期 第46-47代)公選では2人目。 1928年、京都帝国大学法学部卒。全国指導農業協同組合副会長、農林中央金庫評議員、石川県農業協同組合中央会会長などを経て、1955年2月20日第3回石川県知事選挙で現職の柴野和喜夫を破り、初当選する。1959年2月8日の第4回石川県知事選挙で再選。石川県知事を2期務め、1963年2月19日知事を退任した(後任は中西陽一)。知事退任直後の2月27日に死去した。
鷲見 三郎(すみ さぶろう、1902年(明治35年)7月27… 鷲見 三郎(すみ さぶろう、1902年(明治35年)7月27日 - 1984年(昭和59年)11月26日)は、日本のヴァイオリン指導者、指揮者。 千住真理子、佐藤陽子、澤和樹らを育て「日本の著名ヴァイオリニストのほとんどが鷲見の門下生」といわれるほど、傑出したヴァイオリン指導者として日本の音楽界をリードしてきた。 鳥取県米子市尾高町の茶商の家に生まれた。父房太郎は1872年(明治5年)に生まれ、母いわと1896年(明治29年)に結婚して茶商を開業した。「武士の商法」で金もうけは得意でなく、暮らしは豊かでなかったが、信仰の厚い母は子供たちを聖公会の幼稚園に行かせ、日曜の聖日礼拝を欠かさなかった。 1924年に上京し、ヴァイオリンを多久寅に師事した。
臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治3… 臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治35年〉7月26日 - 1987年〈昭和62年〉10月18日)は、大正から昭和期の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。千葉興行2代目社長。総理府総務長官。衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。千葉市名誉市民。学位は商学士(早稲田大学)。剣道六段。 東京市深川区越中島(現在の東京都江東区越中島)で建築材料商の家に生まれた。1920年(大正9年)3月、旧制・東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を卒業し、1925年(大正14年)3月、早稲田大学商学部商学科を卒業。大日本麦酒に入社した。 父の病のため1925年11月、大日本麦酒を退職して千葉市に転居。
小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26… 小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26日 - 1974年11月10日)は日本の俳優。本名は小笠原 長英(おがさわら ながふさ)。 旧唐津藩主子爵小笠原家第14代当主小笠原長生(元海軍中将・元宮中顧問官・元学習院御用掛)・秀子(元前橋藩主伯爵松平直方の長女)の次男として東京府東京市に生まれる。学習院初等科・学習院中等科から陸軍幼年学校に入学したが病気で中退、学習院高等科卒業。 日本映画黎明期の大正時代、兄の小笠原明峰(小笠原長隆)が設立した小笠原プロダクションの専属となり、1921年に芸能界入りする。兄の明峰は長生の長男であり、第15代当主となる立場であったが、映画監督となったため廃嫡となる。
吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1… 吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1986年11月20日)は、日本の農学者。 岡山県井原市に生まれる。1930年京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業する。倉敷労働科学研究所員、労働科学研究所を経て、岡山理科大学教授、同朋大学教授、金沢経済大学(現・金沢星稜大学)学長、龍谷大学教授などを歴任した。1961年、萩野昇とともに富山県神通川流域のイタイイタイ病の原因がカドミウムであることを突き止めた。ほかに1950年の第2回参議院議員通常選挙で全国区から立候補したが辞退した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 -… 大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 - 1990年7月12日)は、日本の美術史家、美術評論家、実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。 元共産党員。別名・小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。 理化学研究所第3代所長・理研産業団創始者で貴族院議員を務めた子爵大河内正敏の長男。高等師範付属中学時代から左翼思想に興味を抱き、旧制浦和高校に進学すると学内に思想研究会を組織。2年在学時には読売新聞(大正12年5月30日長官)に埼玉県警察の黒表(ブラックリスト)に上がっているとする記事が掲載された。東京帝国大学では学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。
今井 久(いまい ひさし、1902年(明治35年)7月24日… 今井 久(いまい ひさし、1902年(明治35年)7月24日 - 1980年(昭和55年)7月25日)は、日本の内務・警察・防衛官僚。官選茨城県知事、防衛事務次官。 東京府出身。専売局官吏・今井譲の二男として生まれる。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)、第八高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年4月、内務省に入省し岡山県属となり内務部社会課兼地方課勤務となる。同年12月、休職して入営し、1926年11月、陸軍二等計手となり復職。 1927年3月、地方警視・宮崎県警察部警務課長兼保安課長に就任。以後、神奈川県警察部警務課長、石川県工場監督官、大阪府警察部警務課長、警視庁警視・警務部警務課長、佐賀県書記官・警察部長を歴任。
鏑木 政岐(かぶらぎ まさき、1902年(明治35年)7月2… 鏑木 政岐(かぶらぎ まさき、1902年(明治35年)7月24日 - 1987年(昭和62年)12月27日)は、日本の天文学者。専門は恒星天文学。東京大学名誉教授。 石川県金沢市に神官の子として生まれる。旧制第四高等学校を経て、1926年(大正15年)に東京帝国大学理学部天文学科を卒業し、同学部の助手ならびに東京天文台の技手となる。 1934年(昭和9年)理学博士の学位を授与され、1934年(昭和9年)東京帝国大学理学部助教授に就任。1946年(昭和21年)東京大学理学部教授となり1963年(昭和38年)に定年退官した。1963年(昭和36年)東京理科大学理学部教授となり1973年(昭和48年)に退職。
森 宏一(もり こういち、1901年8月21日 - 1993… 森 宏一(もり こういち、1901年8月21日 - 1993年2月9日)は、日本の哲学者。本名は杉原圭三。 1901年、東京府生まれ。東京帝国大学を卒業。唯物論研究会の創立以来の会員として活動する。社会主義の立場から、実存主義、西田幾多郎・田辺元の哲学を批判した。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1… 北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1987年10月27日)は、日本の歯科医師、歯科教育者。松本歯科大学の初代学長を務めた。日本の歯科医療と教育の発展に尽力した。 宮城県に生まれる。1921年(大正10年)に旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、日本歯科大学に進学し、歯科医学を修めた。大学卒業後、歯科医療に従事しながら教育者としての道を歩み、日本歯科大学で教授として教鞭を執る。特に歯科補綴学の分野で指導を行った。その後、松本歯科大学の初代学長に就任し、大学の発展に寄与した。松本歯科大学では、歯科補綴学第二講座を開設し、補綴治療(入れ歯や被せ物などの治療)の教育と研究に尽力した。
野田 孝(のだ こう、1901年 <明治34年> 8月20日… 野田 孝(のだ こう、1901年 <明治34年> 8月20日 - 1984年 <昭和59年> 9月23日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。位階は従三位。 山梨県竜王町(現在の甲斐市)出身。1920年に甲府中学校を卒業後、旧制第一高等学校を目指して浪人していた。しかし、同年に同郷の小林一三に「(浪人してまで高校・大学に進学するより)早いとこ、実務についた方が良い」と勧められて、阪神急行電鉄に入社した。結婚まで小林一三の自宅に下宿し、結婚後も隣に自宅を構えていた。 1947年2月に京阪神急行電鉄(阪急電鉄)から分離した阪急百貨店の常務に就任し、専務を経て、1957年11月に社長に就任。
佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - … 佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - 1970年3月3日 )は、愛知県出身の日本の政治家、ジャーナリストである。衆議院議員8期(日本社会党所属)、中央公論編集長を務めた。愛称はサトカン。
鈴木 恭助(すずき きょうすけ、1901年8月18日 - 1… 鈴木 恭助(すずき きょうすけ、1901年8月18日 - 1998年4月30日)は、日本の経営者。青森銀行頭取、会長を務めた。岩手県出身。 盛岡中学を経て、1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1930年に日本勧業銀行に入行した。1955年4月に青森銀行常務に就任し、1960年12月に専務、1965年6月に副頭取を経て、1968年11月には頭取に就任した。1974年5月から会長を務めた。 1974年11月に勲四等旭日小綬章を受章した。 1998年4月30日急性気管支炎のために死去。96歳没。
園木 登(そのき のぼる、1901年(明治34年)8月16日… 園木 登(そのき のぼる、1901年(明治34年)8月16日 - 1962年(昭和37年)12月23日)は、大正から昭和期の官吏、農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(1期)。 熊本県鹿本郡山東村大字小野(植木町大字小野を経て現熊本市北区)で生まれる。1914年(大正3年)3月、山東小学校を卒業し、同年4月、熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)に入学したが、1915年(大正4年)9月、肋膜炎となり同校を退学。その後回復して家業の農業に従事した。 1922年(大正11年)11月、朝鮮総督府官吏となり、1931年(昭和6年)6月まで在任。同年11月、満州国官吏に任官し新京警察署に赴任。1937年(昭和12年)10月、満州国官吏を辞任し、同年11月、北京の北支派遣軍嘱託となり特務部総務課に配属。
浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990… 浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990年1月29日)は、日本の詩人・国文学者。立正大学文学部教授を経て、立正大学名誉教授。滋賀県大津市出身。 広島市中心部にあった偕行社の済美小学校(原爆で廃校)、東京本村小、南山小、青山師範付属小卒業。1914年、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)入学。同級生に蔵原惟人、飯島正、富永太郎、河上徹太郎、足利惇氏、杉本栄一、森永太平らがいた。一年上に五島茂、池谷信三郎、一年下に小林秀雄、正岡忠三郎など。1919年9月、第三高等学校文丙入学。同級生には文丙の飯島正、島田叡、北川冬彦ら、文乙の大宅壮一、中谷孝雄、山口誓子、理科の梶井基次郎、岡潔らがいた。
淡 徳三郎(だん とくさぶろう、1901年8月15日 - 1… 淡 徳三郎(だん とくさぶろう、1901年8月15日 - 1977年5月20日)は、日本の社会評論家。
24代 木村 庄之助(にじゅうよんだい きむら しょうのすけ… 24代 木村 庄之助(にじゅうよんだい きむら しょうのすけ、1901年8月15日 - 1973年9月19日)は、大相撲の立行司。本名:緑川 義。千葉県出身。通称は「総髪庄之助」、「山伏庄之助」、「緑川庄之助」など。「由井正雪」とも。 体が大きかったため力士を勧められるも8歳だったため行司として入門。1910年1月初土俵。1911年5月序ノ口に付き、最初阿武松部屋、のち出羽海部屋に所属した。行司名は木村芳松→式守義(義松とする資料も有)と変わったあと、1927年に式守伊三郎 (初代) と改名し、その後、1949年1月、式守代々の名跡式守鬼一郎 (5代) 、1960年1月、立行司20代式守伊之助、1963年1月、24代木村庄之助を襲名し、柏鵬時代の幕開けから1965年にスタートした部屋別総当たり制直後まで、数々の名勝負を裁いた。
瀧田 貞治(たきた ていじ、1901年8月14日 - 194… 瀧田 貞治(たきた ていじ、1901年8月14日 - 1946年1月26日)は、日本の国文学者。専門は近世文学、演劇史、俳諧史。 栃木県那須郡佐久山町(現・大田原市)出身。旧制大田原中学校から第四高等学校を経て1927年(昭和2年)、東京帝国大学文学部国文学科を卒業し、元禄歌舞伎研究のため大学院に進学したのち、1928年(昭和3年)に第六高等学校教授となる。1929年(昭和4年)より台北帝国大学助教授。1942年(昭和17年)には井原西鶴の研究団体である「西鶴学会」を組織し、年2回刊行の学術雑誌『西鶴研究』の編集に当たった。『西鶴研究』は1942年6月から1943年(昭和18年)12月まで4冊を刊行したが、第5冊の校正中、1945年(昭和20年)5月の台北大空襲によって原版が焼失し、発行不能となった。
高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月… 高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月13日 - 1980年〈昭和55年〉1月19日)は、毎日放送(MBS、現・MBSメディアホールディングス)元代表取締役社長・会長、東京12チャンネル(TX、現・テレビ東京)元取締役。東京都出身。民間放送の創始者の一人。 慶應義塾大学経済学部卒業後、1926年(大正15年)[元号要検証]に大阪時事新報社に入社、1928年(昭和3年)毎日新聞社に移り、副主筆などをつとめた後1950年(昭和25年)にMBSの前身である新日本放送(NJB)設立に参加し、常務取締役に就任した。 MBSの設立・開局の中心人物として知られる。同局は毎日新聞系とされているが、実際には毎日新聞を依願退職した高橋が個人のコネクションをフルに活用し尽力して開局に漕ぎ着けたものであり、毎日新聞自体は余り積極的に支援しなかった。
山岸 巳代蔵(やまぎし みよぞう、1901年〈明治34年〉8… 山岸 巳代蔵(やまぎし みよぞう、1901年〈明治34年〉8月12日 - 1961年〈昭和36年〉5月4日)は、昭和時代の農業家。幸福会ヤマギシ会の創始者。 滋賀県蒲生郡老蘇村大字東老蘇(現・近江八幡市)にて生まれ、1922年より養鶏を中心に農業を始める。1950年にジェーン台風が日本を襲った際、山岸の田地が無事だったことが注目され、以後講演活動を始める。 1952年、山岸会を創立する。これが、「幸福会ヤマギシ会」の始まりである。1954年、『山岸式養鶏法・農業養鶏編(前編)』を、名古屋の中禽社より出版する。1958年3月には、三重県阿山郡伊賀町(現・伊賀市)にて「ヤマギシズム生活実践場春日山実験地」が実現するが、1959年7月に山岸会は不法監禁容疑で警察の強制捜査を受け、山岸会幹部9名が逮捕され、代表の山岸にも逮捕状が出された。
小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 197… 小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 1979年8月20日)は、日本の生理学者、公衆衛生学者。 長野県岡谷市に生まれる。 長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1924年に満洲医科大学(現中国医科大学)を卒業後、同大学の生理学教室に入り、久野寧の発汗研究に従事する。 1929年、ロックフェラー財団のフェローシップをとり、北京協和医学院へ留学、林 可勝(ロバート・リム)(中国語版)の生理学教室へ入る。 1930年、林との協同研究により小腸由来の胃酸分泌抑制作用を発見し、作用を再現する物質をエンテロガストロンと命名する。その後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン へ留学し、Sir Charles Arthur Lovatt Evans、 アーチボルド・ヒルの指導を受け、インスリン放出や血糖利用等代謝に関する研究を行う。
森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11… 森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11日 - 1992年(平成4年)8月3日)は、日本の放送人、実業家である。朝日新聞社に勤めたのち、東京放送テレビ(通称:TBSテレビ)常務取締役や子会社のラジオ東京サービス社長を務める。中央放送広告社長も務めた。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「森沢」とも表記される。 1901年(明治34年)岡山県上房郡豊野村(現:高梁市)の父・森澤清六と母・ひさの七男として出生する(出生地は東京、誕生後すぐに地元へ帰省)。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1920年(大正9年)に旧制第六高等学校文科甲類へ進学する。 その後、1922年(大正12年)3月、同校を卒業し、京都帝国大学法学部へ進学する。
松崎 一雄(まつざき かずお、1901年(明治34年)8月1… 松崎 一雄(まつざき かずお、1901年(明治34年)8月11日 - 2000年(平成12年)4月14日)は、日本の実業家。森永商事代表取締役社長、森永製菓代表取締役副社長、森永乳業取締役、学校法人立教学院理事長を務めた。子に松崎昭雄がいる。 1901年、松崎半三郎の長男として生まれる。 立教大学に入学。予科2年の時に、バスケットボール部に入る。部ではアメリカから帰ってきた志賀直哉の弟がコーチを務めた。1926年、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)卒業。 1927年、森永製菓に入社する。1942年、森永製菓取締役に就任し、1943年、森永製菓常務、1952年、森永製菓専務、1966年、森永製菓副社長と歴任。
山下 春江(やました はるえ、1901年(明治34年)8月9… 山下 春江(やました はるえ、1901年(明治34年)8月9日 – 1985年(昭和60年)3月19日)は、昭和期の政治家。日本初の女性国会議員の一人で、元自由民主党衆議院議員・参議院議員。 山口県阿武郡の出身。 1921年二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)を卒業(1期生)。体操講習会で見た塾長・二階堂トクヨの脚が憧れのアンナ・パヴロワ(バレリーナ)のようにすんなりとしていたことが入塾理由である。柔道2段のほか、空手・薙刀術の心得もあった。広島県の呉高等女学校で教師となるが、当時の校長と不正入試問題で対立し辞職、大阪毎日新聞記者に転職する。その後山下悌三と結婚、病弱の夫に代わり東京で「富士アスベスト工業所」の経営にあたる。
杉本 栄一(すぎもと えいいち、1901年8月9日 - 19… 杉本 栄一(すぎもと えいいち、1901年8月9日 - 1952年9月24日)は、日本の経済学者。
寺本 斎(齋、てらもと いつき、1901年(明治34年)8月… 寺本 斎(齋、てらもと いつき、1901年(明治34年)8月9日 - 1981年(昭和56年)6月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 熊本県出身。1937年(昭和12年)中央大学専門部法律科を卒業した。 熊本県属、台湾総督府属、中央食糧営団主事、逓信省事務官兼国務大臣秘書官、中央食糧営団総務部文書課長、全国食糧営団連合会庶務課長などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に熊本県第1区から民主党所属で出馬して当選。第24回総選挙でも当選し、自由党に所属して衆議院議員を連続2期務めた。この間、第3次吉田内閣・郵政政務次官、民主党政調会労働委員長、党会計監督などを務めた。
佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 … 佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 - 1990年(平成2年)3月14日)は、日本の海軍軍人及び航空自衛官、第2代航空幕僚長。海兵50期・海大32期。帝国海軍での最終階級は海軍大佐。自衛隊での最終階級は航空幕僚長たる空将。 現在の愛媛県新居浜市で出生。父は教員・佐薙喜志太。1919年(大正8年)3月、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業(50期。卒業席次は19位)。 1923年(大正12年)9月、海軍少尉に任官。1925年(大正14年)12月、海軍中尉。1926年(大正15年)3月、第4期偵察学生。