金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1… 金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1872年6月12日) - 昭和42年(1967年)6月2日)は、日本の言語学者、国語学者。本来の名前は金澤 庄三郎である。雅号は濯足(たくそく)で、その出典は屈原の詩集『楚辞』の中の「漁夫」である。 大阪生まれ、東京帝国大学卒。アジアの各言語の比較研究を行った。北海道(アイヌ語)、大韓帝国(朝鮮語)、琉球、シベリア(ロシア語)、満洲(満洲語、蒙古語)などでフィールドワークを行い、さらに中国語も修めた。また、國學院大學教授を務め、東京帝国大学、東京外国語学校、駒澤大学にも出講した。 日本語と朝鮮語を対象とした、「日韓両国語同系論」(1910年(明治43年))や「日鮮同祖論」(1929年(昭和4年))は、朝鮮半島併合を理論的に正当化するため、併合推進者が頻繁に引用した。
佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6… 佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6月11日) - 大正6年(1917年)11月25日)は、日本国文学者・俳人である。本名は佐々政一(さっさ まさかず/せいいち)。 京都に生まれ、明治29年(1896年)東京帝国大学文科大学卒。在学中の明治27年(1894年)に俳句結社・筑波会を結成し、雑誌『帝国文学』に『連俳小史』を連載した。旧制第二高等学校や旧制山口高等学校で国文学を教えた。また、明治大学でも教鞭を執った。 明治34年(1901年)12月に山口高校を依頼退官した後、書店・金港堂に入社し、雑誌『文芸界』を編集した。明治39年(1906年)に東京高等師範学校教授に就任した。
川合 為吉(かわい ためきち、1872年6月10日〈明治5年… 川合 為吉(かわい ためきち、1872年6月10日〈明治5年5月5日〉 - 1933年〈昭和8年〉10月18日)は、明治の政治家。警察官。山形県山形市長(第8代)。 山形県南村山郡山元村(現上山市)出身。山形県警部、寒河江警察署長、米沢警察署長、山形警察署長などを歴任。1923年(大正12年)7月、山形市長に就任した。在任中は仙山線の実現、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の第一小学校の改築などに尽力した。1927年(昭和2年)7月、退任した。
林 毅陸(はやし きろく、1872年6月6日(明治5年5月1… 林 毅陸(はやし きろく、1872年6月6日(明治5年5月1日) - 1950年(昭和25年)12月17日)は、明治後期から戦前昭和期の歴史家、法学者(法学博士)、政治家。枢密顧問官、衆議院議員、帝国学士院会員、慶應義塾長、初代愛知大学学長等を歴任。号は弘堂。 位階勲等は正四位勲三等旭日中綬章。日本の外交史研究の先駆者として知られている。 佐賀県松浦郡田野村(現在の唐津市肥前町田野)に、豪族・中村清七郎の四男として生まれる。幼名は中村毅陸。母は唐津藩士・浦川喜右衛門の次女。 10歳の頃、中江兆民の門下であり、『仏和辞書』を同盟出版から出版し、東京府で仏学の私塾を開いていた実兄・中村秀穂が帰省の際に伴われて上京。
百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5… 百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5年4月28日)- 1963年(昭和38年)10月30日)は、日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。 妻・マチ(旧姓:李家)の父は、陸軍少佐の李家頼蔵で、海軍造兵総監(後の海軍技術中将)の李家政太は叔父に当たる。 佐賀藩士、百武庭蔵の三男として生まれる。佐賀中学、攻玉社を経て、1892年、海軍兵学校(19期)を首席で卒業。少尉候補生として「松島」に乗り組み日清戦争に従軍。1894年に少尉任官。「八島」回航委員としてイギリス出張。1902年、海軍大学校(甲種3期)卒業。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4… 渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1926年(大正15年)4月9日)は、明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。
名取 和作(なとり わさく、1872年6月3日〈明治5年4月… 名取 和作(なとり わさく、1872年6月3日〈明治5年4月28日〉 - 1959年〈昭和34年〉6月4日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家である。電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)の初代社長や時事新報社社長などを務め、貴族院廃止直前の短期間だが貴族院勅選議員にも在任した。子に写真家・編集者の名取洋之助がいる。 名取和作は、明治5年4月28日(新暦:1872年6月3日)、筑摩県諏訪郡上蔦木村(現在の長野県諏訪郡富士見町)に名取和三郎の長男として生まれた。名取家は「桔梗屋」の屋号で造り酒屋を営む旧家で、元は裕福な家であったものの、明治時代に入ってからは松方デフレの影響で没落していた。
四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年… 四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年4月25日(1872年5月31日)- 大正元年(1912年)10月11日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は豐島屋。俳名に橘丈。本名は寺田 市太郎(てらだ いちたろう)。 二代目嵐璃珏の孫として大阪島之内に生まれる。明治12年 (1879) 三代目嵐芳三郎(後の二代目市川権十郎)の門人となり、祖父がかつて名乗った二代目嵐市太郎を名乗る。四代目嵐芳三郎を襲名後、明治37年 (1904) 頃より東京の舞台にも出るようになり、宮戸座などの小芝居で活躍する。上方色濃厚な技巧派の芸風で、『夏祭浪花鑑』の團七、『桜鍔恨鮫鞘』の八郎兵衛などの上方世話狂言や、『伽羅先代萩』の政岡などの丸本時代物に秀でていた。
岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈… 岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈明治5年〉5月29日- 1945年〈昭和20年〉2月13日)は、日本の教育者、漢文学者。柿堂と号した。研究論文の『玉篇の研究』で知られている。 1872年に福井県丹生郡立待村(現・鯖江市)の地主の家に生まれる。 父親を早くに亡くしたため母親の元に育ち、福井師範学校を卒業後、福井中学校で教員心得となる。 1898年(明治31年)、教員検定試験で国語、漢文に合格し愛媛県西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任。 旧制石川県第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)教諭、石川県師範学校訓導を歴任、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校・高等学校)に招聘されたのち、1915年(大正4年)に朝鮮平壌中学に赴任した。
紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月2… 紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰(星峯)。 1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。 東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。
秋保 安治(あきほ やすじ、明治5年4月21日(1872年5… 秋保 安治(あきほ やすじ、明治5年4月21日(1872年5月27日) - 昭和17年(1942年)1月9日)は、日本の教育者。東京高等工業学校(のちの東京科学大学)教授兼東京府技師や、文部省督学官、東京科学博物館(のちの国立科学博物館)館長等を務めた。 宮城県仙台市で旧仙台藩士秋保住房の四男として生まれる。宮城県師範学校(のちの宮城教育大学)卒業後、1896年(明治29年)、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)附設工業教員養成所木工科を卒業。仙台市徒弟実業学校(のちの仙台市立仙台工業高等学校)教諭を経て、1899年(明治32年)同校長。1900年(明治33年)岩手県実業学校(のちの岩手県立盛岡工業高等学校)教諭。
仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5… 仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5年4月20日〉- 1935年〈昭和10年〉9月16日)は、明治時代から昭和初期にかけての官僚・政治家。子爵。 1872年(明治5年)、旧出石藩主・仙石政固の長男として生まれる。1891年(明治24年)7月、学習院高等学科を卒業。1893年(明治26年)、久邇宮朝彦親王の六女・素子女王と結婚した。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科を卒業。1899年(明治32年)11月、高等文官試験に合格。その後、一時志願兵として近衛師団に入営したが、1900年(明治33年)、足疾のために現役を免除された。 宮内省諸陵頭などを務めたのち、1923年(大正12年)賞勲局総裁、1925年(大正14年)宗秩寮総裁を歴任した。
北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日(明治5… 北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日(明治5年4月16日) - 1931年(昭和6年)6月17日)は、明治・大正期日本の作曲家、作詞家、演出家。東京府銀座出身。 明治5年4月16日(西暦1872年5月22日)、東京府銀座(東京市京橋区を経て現在の東京都中央区)に漢学者で14代将軍・徳川家茂の侍講を務めた北村季林・鉞夫妻の一子として生まれた。江戸時代前期の国文学者・北村季吟は7代前の先祖で、季晴は季吟から見て仍孫(じょうそん)に当たる。 父と親交のあったジェームス・カーティス・ヘボンが開設したヘボン塾の後身であるジョン・C・バラの築地大学校で学ぶ。その後、ヘボンが開校した明治学院に入学し、同級生となった島崎藤村と親交を結ぶが季晴に音楽の才能を見出したヘボンの薦めもあり学院を中退。
加藤 小太郎(かとう こたろう、明治5年4月16日(1872… 加藤 小太郎(かとう こたろう、明治5年4月16日(1872年5月22日) – 昭和10年(1935年)4月27日)は、日本の日本の政治家・衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。京都市助役。実業家。旧名太郎松。族籍は新潟県士族。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)出身。新潟県士族・先代小太郎の長男。1898年(明治31年)、同志社大学部政治科を卒業。1902年(明治35年)まで滋賀県立商業学校で教壇に立った。その後、国民新聞社大阪支局長、『東京日日新聞』を発行する日報社の業務担当社員・理事を歴任した。1909年(明治42年)、京都市助役に就任。1914年(大正4年)までの在任中、京都市三大事業を手掛け、また京都商品陳列所所長、京都市盲唖院院長、京都市水道事務所所長、京都市立第一商業学校校長などを兼ねた。
久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4… 久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、栃木県知事、三重県知事、東京府知事および内務次官を歴任した内務官僚。後に、横浜市長も務めた。称号は正四位勲一等。
鈴木 邦義(すずき くによし、1871年6月19日(明治4年… 鈴木 邦義(すずき くによし、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1945年(昭和20年)11月30日)は、日本の内務官僚。官選沖縄県知事。旧姓・石井、旧名・兼次郎。 三重県出身。石井四郎兵衛の二男として生まれ、鈴木九郎の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し土木局属となる。 以後、佐賀県参事官、長崎県参事官、東京府参事官、岐阜県書記官、千葉県事務官・第一部長兼第三部長、滋賀県事務官、宮城県事務官、神奈川県港務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1916年5月、沖縄県知事に就任。織物業などの産業振興に尽力。
坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5… 坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5月2日)- 1943年(昭和18年)5月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県で坂梨磯吉の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。 東亜煙草株式会社取締役、山東興業・山東水産・山東運輸株式会社取締役、神戸・第一水産取締役、坂梨(名)社長、坂梨商事社長、旭セメント社長、日之出漁業社長、日本海水工業社長、東邦化学工業社長、西部合同瓦斯監査役、福岡県会議員などを歴任。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙において、福岡県第15区で立憲政友会から出馬し当選し衆議院議員となり、1期務めた。
沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ち… 沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ちゅうじろう/さわだ ただじろう〉、1871年6月18日〈明治4年5月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月13日)は、明治から昭和にかけての小説家、新聞記者。 1871年6月18日(明治4年5月1日)、京都府に生まれた。二六新報、國民新聞、読売新聞などで約20年間、新聞記者を務めた。その中でも特に、司法記者として中央公論、婦人倶楽部、新小説などに犯罪事実をもとにした物語を執筆した。 1920年(大正9年)に『女の心・男の心』、1925年(大正14年)に『春宵島原巷譚』、1926年(大正15年)には『秋雨の宿』などの短編小説を執筆した。同年7月、週刊朝日にて『足にさはつた女』を執筆した。
加茂 令子(かも れいこ、1871年6月14日(明治4年4月… 加茂 令子(かも れいこ、1871年6月14日(明治4年4月27日) - 1948年(昭和23年)3月5日)は日本の教育者である。 安房国八幡(現・千葉県館山市)に生まれる。父は長尾藩士。渡辺裁縫塾で学び1890年に卒業する。1893年に小学校裁縫専科正教員の免許を取得する。1894年東洋英和女学校(現・学校法人東洋英和女学院)の裁縫教師になる。 1896年東洋英和女学校の寄宿舎監に就任する。J・K・マンローらの指導により、1897年に洗礼を受ける。1936年に引退するまで、42年間教師と舎監を務め、学校の主婦役、母親役であった。
佐竹 直太郎(さたけ なおたろう、1871年6月12日(明治… 佐竹 直太郎(さたけ なおたろう、1871年6月12日(明治4年4月25日) - 1946年(昭和21年)12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県郡上郡、後の西和良村(現郡上市)出身。1891年、岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)卒。農業を営む。高田町議、養老郡議、岐阜県議、同参事会員、同副議長、同議長、所得調査委員、高田町助役、養老郡農会議員、地方森林会議員、土地収用審査委員、真利銀行、西濃貯蓄銀行、養老遊園各(株)取締役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において岐阜2区から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で復帰。
山崎 林太郎(やまさき りんたろう、明治4年4月18日(18… 山崎 林太郎(やまさき りんたろう、明治4年4月18日(1871年6月5日) - 1944年(昭和19年)5月24日)は、明治時代から昭和初期の政治家。山口県下関市長などを務めた。 兵庫県出身。1893年(明治26年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業した後、『上毛新聞』の主筆となった。星亨の知遇を得て、星が朝鮮法部顧問となると、顧問付となった。帰国後、前橋市会議員に当選。1901年(明治34年)、星が東京市会議長に就任すると市会書記長となった。尾崎行雄市長時代には市区改正課長、庶務課長、勧業課長、臨時市区改正局主事、助役を歴任した。1909年(明治42年)から2年余りイギリスを視察。帰国後、浅草区長となり、1919年(大正8年)には東京市助役に再任され、さらに市理事を務めた。
中村 彌之祐(なかむら やのすけ、1871年6月2日〈明治4… 中村 彌之祐(なかむら やのすけ、1871年6月2日〈明治4年4月15日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月3日)は、日本の政治家、実業家。兵庫県会議員。中村組社長。舞子土地取締役。族籍は兵庫県平民。 島根県邑智郡口羽村(現・邑南町)、三上新市郎の弟。先代祐七の養子となり1915年、家督を相続する。会社重役であり、中村組社長、舞子土地、中播運送、不二商会、姫路電気化学工業、姫路水力電気、紅屋コークス、幡美鉄道、関西土木電気興業各取締役、姫路商業銀行、神戸布引土地、姫路水力電気各監査役などをつとめた。 資性温厚で、神仏を尊崇するところ深く、特に日蓮宗に帰依する。 1930年、破産者となる。住所は兵庫県姫路市龍野町1丁目。
宇野 勇作(うの ゆうさく、1871年6月2日(明治4年4月… 宇野 勇作(うの ゆうさく、1871年6月2日(明治4年4月15日) - 1940年(昭和15年)10月8日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 陸奥弘前藩領津軽郡上十川村(青森県南津軽郡六郷村を経て現黒石市)に生まれる。南黒地方屈指の大地主。南津軽郡立中学校を卒業し、産馬、リンゴ園、酒造業、運送業などを営む。1915年(大正4年)青森県会議員に当選。1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では青森県第3区から立憲政友会公認で出馬し、鳴海文四郎を700票余上回り当選する。 1927年(昭和2年)六郷村長となり、1932年(昭和7年)9月には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで在任した。
大塚 榛山(おおつか しんざん、明治4年4月15日〈1871… 大塚 榛山(おおつか しんざん、明治4年4月15日〈1871年6月2日〉 - 昭和19年〈1944年〉2月5日)は、明治から昭和戦前期に活動した日本画家。本名・文治郎。 群馬県吾妻郡荻生村(現・東吾妻町荻生)に生まれる。生家は農業のかたわら酒造業を営んでいた。地元の荻生尋常小学校を経て、中之条の吾妻高等小学校を卒業。その後は実家で農業に従事する。 父の反対を周囲が説得し、上京して南画の大家だった滝和亭に弟子入りする。1889年(明治22年)に榛山の雅号を与えられた。奈良・京都の神社仏閣を巡り、古画の研究に取り組む。法隆寺金堂壁画の修復を手がけたことで名前を知られた。この名声が広がり、吉野神宮、高野山などから招かれ、壁画の修復にあたった。
木戸 忠太郎(きど ちゅうたろう、1871年6月1日(明治4… 木戸 忠太郎(きど ちゅうたろう、1871年6月1日(明治4年4月14日) - 1959年(昭和34年)3月15日)は明治時代から昭和時代の人物。地質学者。木戸孝允の養子。実父は松本順造。母は木戸夫人・松子の妹・信。 京都生まれ。1876年(明治9年)、木戸孝允の養子となり、生咲忠太郎から木戸忠太郎となる。1886年(明治19年)4月、養母で伯母の松子が死去。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学地学科卒業、農商務省に入る。 1903年(明治36年)8月23日、小野田元熈の娘・千子と結婚。1907年(明治40年)3月、製鉄所技師兼農商務技師のまま満州鉄道に入社。地質調査部長として鞍山市・撫順鉱の磁鉄鉱を発見するなど功績を挙げた。
田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871… 田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)5月6日)は、日本の文部官僚・内務官僚・貴族院勅選議員。文部次官、錦鶏間祗候。 土佐藩士田所美之の長男として生まれる。第二高等中学校を首席で卒業。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、愛媛県、宮城県、東京府の参事官を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、書記官、文部大臣秘書官、普通学務局長、文部次官を歴任した。また学習院御用掛、宮内省御用掛、学習院評議会会員を兼ねた。 1918年(大正7年)9月21日、貴族院議員に勅選され、退官した。
加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(187… 加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)7月6日)は日本の実業家、政治家、漢詩人。鳥取県西伯郡境町長(第5代、7代)、境町会議員、鳥取県会議員。号は洗心。 境町に生まれた。加島房太郎の実弟。 鳥取中学から東京物理学校に学んだが、病気のため帰郷した。家業の加島呉服店を手伝い、28歳で独立して隠岐汽船、境ドッグ、境電気等の会社経営に関係した。 2度にわたって町長をつとめたが名誉職だったので、生活の基盤は家業にあり、急用が起きると走って役場に出かけた。 明治38年(1905年)9月、日露戦争戦勝祝賀会を挙行、町中が沸く中を杉山校長と共に旗行列、提灯行列の先頭に立った。
10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月3… 10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月30日〈明治4年4月12日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月22日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓は伊藤、幼名は要三。福島経済界の「巨人」と称された。 陸奥国白河郡、後の福島県西白河郡白河町(現白河市)で素封家・伊藤善右衛門の三男として生まれ、1888年(明治21年)7月、信夫郡八島田村(信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田)の9代吉野周太郎の婿養子となる。1911年(明治44年)8月、養父の死去に伴い家督を継承し、同年11月、10代周太郎を襲名した。 養父の築いた多額の財産により、福島第六銀行頭取、第百七銀行頭取、福島銀行頭取、武蔵野銀行頭取、岩代銀行頭取、福島電灯社長、夏井川水電取締役会長、福島羽二重取締役会長、福島県購買組合連合会理事長、同県信用組合連合会理事長などを務めた。
山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5… 山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5月29日(明治4年4月11日) - 1955年(昭和30年)10月18日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員、南邸山内家3代当主。 土佐藩南邸山内家2代当主・山内豊積(10代藩主山内豊策五男・山内豊著の三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)1月8日に男爵を襲爵した。 学習院高等科、和仏法律学校(現・法政大学)を修了。1896年(明治29年)12月、一年志願兵として歩兵第22連隊に入隊し、1899年(明治32年)2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1905年(明治38年)後備役となる。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871… 井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871年5月28日) - 大正8年(1919年)6月12日)は、東京府知事を務めた、地方行政を専門とした内務官僚。号は明府。弟に、陸軍中将・井上一次。 救済事業の精神は、救貧より防貧、さらに教化が重要であると考え、感化救済事業や地方改良運動などを推進した。
永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(187… 永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(1871年5月26日) – 昭和46年(1971年)6月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→中正倶楽部→新正倶楽部)。岩国市長。ジャーナリスト。 周防国玖珂郡岩国(現在の岩国市)出身。扶桑新聞社で活版職工として勤務。1888年(明治21年)より名古屋逓信管理局、東京逓信管理局、横浜郵便電信局、東京郵便電信局で勤務した。1896年(明治29年)に読売新聞社記者、編集局長となる。その後、国民新聞社に転じ、1902年(明治35年)には理事・編集長となった。さらに1904年(明治37年)に実業之日本社に移り、理事、編集長、営業部長、総務部長を歴任した。
斎木 逸造(さいき いつぞう、明治4年4月8日(1871年5… 斎木 逸造(さいき いつぞう、明治4年4月8日(1871年5月26日) - 昭和30年(1955年)11月1日)は、山梨県出身の政治家。甲府市長(官選第16代)。号は天民。 甲府県巨摩郡牧原村(現在の山梨県北杜市)に漢方医の父「良斎」、母「たけ」の長男として生まれる。明治18年(1885年)頃、山梨県北巨摩郡祖母石村の漢学者菊島茂村が開いた茂村塾に入門し漢学、書道を学び、明治21年(1888年)に武里村(明治8年(1875年)に牧原村、新奥村及び宮脇村が合併して成立)の冨里尋常小学校の授業生として採用された。この頃、当時の思想的主流であった自由民権運動に関心を示し、特に中江兆民に心酔した斎木は、存分に自由民権運動に挺身することを決意し、受業生を辞して北海道に渡り一旦は巡査に採用されたものの、内務省巡査採用規程による採用年齢に達していないため不採用となった。
中川 吉造(なかがわ よしぞう、1871年5月24日(明治4… 中川 吉造(なかがわ よしぞう、1871年5月24日(明治4年4月6日) - 1942年(昭和17年)8月1日)は、明治から昭和時代の土木技術者、内務技監。 中川吉太郎の弟として大和国葛下郡高田村(現・奈良県大和高田市)に生まれ、1913年(大正2年)分家する。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、内務省に入省し、第1区土木監督署附となり、利根川改修の調査に当たる。 1897年(明治30年)土木監督署技師に転じ、翌年、関宿工営所主任として利根川治水工事に関与。1905年(明治38年)内務技師に進み、東京土木出張所技師となる。1910年(明治43年)から一年間、渡欧し、ドナウ川の鉄門などを視察。
奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日… 奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日(明治3年5月23日又は22日) - 1928年(昭和3年)10月13日)は、戦前日本の教師。碓氷英学校教頭、北越学館教授、東北学院教授、岡山県津山尋常中学校教諭、第五高等学校教授、活水女学校教頭、日本女子大学校教授。五高時代に夏目漱石と同僚となり、生涯交流した。 明治3年(1870年)5月23日又は22日、京都に岩倉具視家臣奥輝太郎の次男として生まれた。原籍は東京府京橋区松屋町三丁目17番地。生地は水戸とする説もある。 1882年(明治15年)12月下京区公立永松小学校中等科全課を卒業し、1883年(明治16年)1月私立明倫館に入学して漢文学を学んだ。
生田 定之(いくた さだゆき、1870年(明治3年)6月21… 生田 定之(いくた さだゆき、1870年(明治3年)6月21日 - 1923年(大正12年)8月29日)は、明治・大正時代の日本銀行国庫局長。 高知市南新町(桜井町)の出身で、1886年(明治19年)に慶應義塾へ入るものの素行不良で土佐に退京を命ぜられる。1888年(明治21年)に免除され再び上京して慶應義塾に復学し、翌年卒業。一度は帰郷して教師となるも、明治24年に磯村豊太郎の薦めで、当時川田小一郎が総裁だった日本銀行に入る。1896年(明治29年)函館支店に転じ、その後大阪支店に移った際に本社より欧米留学を命ぜられる。その後は検査役、調査役と進み、1906年(明治39年)に小樽支店長を経て国庫局長就任。
奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3… 奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3年5月20日〉 - 1945年〈昭和20年〉11月12日)は、明治・大正期の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。奥村鋭作の外国駐在先については、一般向けの出版物(『人事興信録』や軍人についての辞典)に何も書かれていなかったり、「ドイツ」だけになっていたり、「ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国」(「独墺両国」)になっていたりする。 三重県河芸郡玉垣村(現:鈴鹿市)出身。父は要蔵(伊勢亀山藩士)で、母は(柘植)たき。1888年(9月4日、士官候補生(歩兵2等軍曹)として歩兵第9連隊(滋賀県大津)に入隊。1889年(明治22年)11月1日、陸軍士官学校(校長:寺内正毅)に入学。
安島 重三郎(あじま じゅうざぶろう、明治3年5月19日(1… 安島 重三郎(あじま じゅうざぶろう、明治3年5月19日(1870年6月17日) - 昭和25年(1950年)2月13日)は、大正時代から昭和前期にかけての日本の政治家。家系は安島氏。福島県磐城郡会議員、県会議員、衆議院議員。父は安島重三郎。勲等は勲四等旭日小綬章。称号は日本赤十字社特別社員。妻は茨城県士族 加藤亀三郎の女 安島トシ子。子に安島きし子、安島きよ子、安島八重子がある。 福島県磐城郡山田村に生まれる。明治30年(1897年)、磐城郡大地主郡会議員に、明治32年(1899年)、28歳にて福島県会議員に当選する。県会にあっては土木常設委員を務め、2期目当選以後は福島県参事会員、山田村長、日本赤十字社特別社員、地方森林会議員を歴任し、明治37年(1904年)、33歳で衆議院議員(憲政本党)に当選する。
山口 宏沢(やまぐち こうたく、1870年6月15日(明治3… 山口 宏沢(やまぐち こうたく、1870年6月15日(明治3年5月17日) - 1928年(昭和3年)1月5日)は、日本の国家主義者。 1870年(明治3年)5月17日、大隅国姶良郡重富村(現在の鹿児島県姶良市)で薩摩藩重富島津家の御典医の山口祐清(号は一斎)の長男として生まれる。幼名は初一郎。 父の一齋は弘化元年に通称猪之助として生まれ、重富郷で医者をし、博覧強記の人物であった。西南戦争の際に大義名分を主張し、同郷の同志とともに最後まで西郷隆盛の私学校派の勧誘に応じなかったため、1877年4月4日に斬殺されてしまった。享年34歳。 このため幼少より貧困となったが、のちに島津家の家庭教師となり、1896年に上京し東京帝国大学文科に入学し、1899年同校を卒業した。
川上 栄太郎(榮太郎、かわかみ えいたろう、1870年6月1… 川上 栄太郎(榮太郎、かわかみ えいたろう、1870年6月13日(明治3年5月15日)- 1930年(昭和5年)9月28日)は、明治から昭和初期の酒造家、地主、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県古志郡中通村長。 越後国古志郡摂田屋村、のちの新潟県古志郡中通村(上組村、宮内町を経て現長岡市 摂田屋)で、酒造業・川上生三郎の長男として生れた。1886年(明治19年)長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を卒業。高橋竹之助から漢学・詩文を学んだ。1897年(明治30年)家督を相続し家業の酒造業を営んだ。 長岡酒造組合長、新潟県酒造組合連合会長、長岡米穀株式取引所理事長、新潟県地主協会評議員、中越酒造社長などを務めた。
蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年… 蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年5月13日) - 1950年9月29日)は、日本の獣医学者、家畜伝染病学者、医学博士である。 家畜伝染病学の第一人者であり、牛疫予防ワクチンを開発した。この牛疫予防ワクチンは、牛疫病牛の脾臓乳剤及びリンパ腺にグリセリンを作用させ、その発病性を失わせることで作られた。このワクチンは牛に対する注射反応が非常に少なく、免疫持続期間は約1年、製造後の有効期間も2年半から3年9か月と優秀なものであった。
和仁 貞吉(わに ていきち、明治3年5月12日(1870年6… 和仁 貞吉(わに ていきち、明治3年5月12日(1870年6月10日) - 昭和12年(1937年)12月3日)は、日本の判事(大審院長)、検事。 東京府出身。父の元利は宇都宮藩の藩医だった。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1896年(明治29年)、浦和地方裁判所判事となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、大阪地方裁判所所長を歴任。その間の1920年(大正9年)4月には法学博士号を取得している。同年7月より検事となり、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長を歴任した。
松波 焸太郎(まつなみ えいたろう、1870年(明治3年)6… 松波 焸太郎(まつなみ えいたろう、1870年(明治3年)6月2日 - 1928年(昭和3年)9月26日)は、20世紀初めに大日本帝国で活動した医師、実業家である。ドクトル及び医学博士の学位を持ち、病院を経営した。
井口 喜源冶(いぐち きげんじ、明治3年5月3日(1870年… 井口 喜源冶(いぐち きげんじ、明治3年5月3日(1870年6月1日) – 昭和13年(1938年)7月21日)は、長野県安曇野市出身で、キリスト教精神に基づく私塾「研成義塾」の創設者である。 信濃国安曇郡等々力町村(のちの南安曇郡東穂高村、穂高町)の千国街道穂高宿に、仕立屋「江戸屋」の父喜十、母こんの長男として生まれた。3歳の時に母を亡くし父と祖母に育てられた。1884年(明治17年)に研成学校の支校・保等(ほとう)学校を卒業し、旧友で生涯の友となる相馬愛蔵とともに、旧制長野県中学校松本支校へ進学した。この中学校時代に、英語教師であった米国人宣教師ジョージ・W・エルマーよりキリスト教の教えを受け、終生変わらぬ献身者となった。
近重 真澄(旧字体: 近重 眞澄、ちかしげ ますみ、1870… 近重 真澄(旧字体: 近重 眞澄、ちかしげ ますみ、1870年6月1日(明治3年5月3日) - 1941年(昭和16年)11月16日)は、日本の化学者、文人。理学博士。専門は理論化学、無機化学、有機化学、金相学(メタログラフィー、Metallography)。 現在の高知県高知市出身。第一高等中学校、東京帝国大学理科大学化学科を卒業した。第五高等学校、京都帝国大学で教授を務め、京都帝大では理学部長、化学研究所初代所長にも就任した。大学外では、日本化学会会長も務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小林 萬吾(こばやし まんご、1870年5月31日(明治3年… 小林 萬吾(こばやし まんご、1870年5月31日(明治3年5月2日) - 1947年(昭和22年)12月6日)は、日本の洋画家。アナウンサーの小林完吾(南日本放送→日本テレビ→フリー)は孫。 作品は、外光表現を取り入れた明るい色彩で、穏健な画風の日本洋画の正統派といえる。主題は日本的情趣のある風俗や風景が中心となっている。 庄屋の長男として讃岐国三野郡詫間村(現・香川県三豊市)に生まれる。漢学を修めた後、松山の官立中学に入学、はじめは安藤仲太郎、原田直次郎に師事し。1889年(明治22年)に内国勧業博覧会に「芝東照宮図」が入選。1895年(明治28年)、黒田清輝主宰の天真道場に入門する。1898年(明治31年)、東京美術学校西洋画科選科修了。
平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3… 平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3年4月26日)- 1959年(昭和34年)7月11日)は、明治から昭和期の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国茨城郡、のちの茨城県水戸市赤沼町で平山貞吉の三男として生まれた。1891年(明治24年)6月に家督を相続した。青弘塾で漢籍を修め、経済学者塩澤昌貞と同門で共に将来を嘱望された。1886年(明治19年)に上京して苦学しながら普通学を修めた。 逓信省に入省し、通信事務官補、通信事務官、大阪郵便為替貯金管理支所長、郵便貯金局事務官、大阪貯金支局長などを歴任。この間、記帳の様式にルーズリーフ式を採用するなど貯金事務の改善に貢献した。
榊 保三郎(さかき やすさぶろう、明治3年4月24日(187… 榊 保三郎(さかき やすさぶろう、明治3年4月24日(1870年5月24日) - 昭和4年(1929年)3月19日)は、日本の医学者である。医学博士、文学博士。 明治3年(1870年)4月24日、駿河国駿東郡沼津(現静岡県沼津市)生まれ。父は蘭学者の榊令輔。長兄・榊俶(はじめ)、次兄・榊順次郎、ともに医学者、医学博士である。明治32年(1899年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、明治35年(1902年)、助教授となり、明治36年(1903年)から明治39年(1906年)、文部省留学生として英米独仏の精神病理学を研究した。明治38年(1905年)イタリア・ローマで開催された万国心理学会に日本政府代表として出席し、同学会部長となった。
久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年… 久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年4月24日) - 1950年(昭和25年)5月10日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 豊前中津藩領下毛郡上宮永村(豊田村、中津町を経て現中津市)に生まれる。生家は平凡な農家で、青年期は種物売りや荷馬などで稼いだ。近衛歩兵連隊に入隊し、日清戦争に従軍。帰朝後の1897年(明治30年)1月、福岡県田川郡弓削田村(後藤寺町を経て現田川市)に赴き、田川採炭に入社するが程なくして退職する。他にも採炭会社を転々としたが長く続かず、自ら石炭商を開業。ついで日露戦争に従軍し、帰朝後に採炭業を始めた。
宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年… 宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年5月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月26日)は、日本の内務官僚、政治家。幼名は慎平。富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。 山形県士族宇佐美駿太郎の弟。 米沢藩士(馬廻組、100石。上杉斉憲〈戊辰戦争時の米沢藩主〉の御側役)で、戸長を務めていた宇佐美勝作の二男として生まれる。米沢中学、第一高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年10月、文官高等試験に合格。 1897年4月26日、徳島県参事官に就任。以後、京都府参事官、内務書記官・宗教局、宗教局第一課長兼第二課長、大臣官房文書課長、兼内務省参事官などを歴任。
佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月1… 佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月19日 - 1929年(昭和4年)11月7日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の土木技術者。神戸市技師長を長年務め、布引五本松ダム(日本初の重力式コンクリートダム)・烏原立ヶ畑堰堤・千苅ダムという神戸市の水道事業を支える三つの主要な貯水施設を設計・施工した人物として知られる。神戸の近代水道の礎を、全員日本人の技術陣を率いて完成させた人物として評価されている。 1869年(明治2年)6月19日、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれた。1891年(明治24年)、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 帝国大学卒業の同年(明治24年)、大阪市技師に就任した。