浦島 秀雄(うらしま ひでお、1900年(明治33年)1月1… 浦島 秀雄(うらしま ひでお、1900年(明治33年)1月14日 - 没年不明)は、日本の実業家。東洋商事元社長。三菱商事元神戸支店次長。楽天グループ創業者で実業家の三木谷浩史の外祖父。 浦島茂十郎の次男として和歌山県に生まれる。1925年(大正14年)東京商科大学を卒業し、日本生糸に入社。のち三菱商事に転じ生糸部勤務を経て同社業務部調査課長に就任。その後神戸支店次長を経て、東洋商事社長に就任。 趣味は碁、将棋、スポーツ。
清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 198… 清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 1981年9月14日)は、大分県生まれの作曲家。 大分県宇佐郡四日市町(現宇佐市)で清瀬善三の二男として生まれる。生家は、地元で一、二を争う素封家。少年のころからヴァイオリンを嗜み、1919年、旧制松山高等学校在学中に作曲家を志すようになる。同年12月、作曲家になるため同校を中退して上京、まず友人に紹介された田辺尚雄を訪ね、山田耕筰に約2ヶ月間師事。以後、鹿児島にこもり、ほぼ独学で作曲を学ぶ。1930年には「新興作曲家連盟」の結成に発起人の一人として参加。1932年から3年間クラウス・プリングスハイムに理論を師事する。1940年、皇紀2600年記念として委嘱を受け、「日本舞踏組曲」を作曲。
清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 -… 清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 - 1967年7月5日)は、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は長尾 米作(ながお よねさく)。最高位は東大関。 1900年1月13日に、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)で農家を営む家に長男として生まれる。隣家は江戸相撲の名大関だった柏戸利助の生家で、米作少年の父親も地方相撲の強豪だったことから、米作自身も宮相撲で活躍、1916年の夏に二十山の一行が巡業へやってきた際に父親に伴われて入門、1917年に上京して同年1月場所で初土俵を踏んだ。「清水川」の四股名は、故郷を流れる川と宮相撲で大関を務めていた時に名乗っていた名前から付けた。
坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 19… 坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 1974年4月19日)は、日本の写真家。特に民藝品や仏像の撮影に才能を発揮した。その遺作「沖縄・昭和10年代」は戦前の沖縄各地で撮影した貴重な写真が掲載されており、テレビ放送等で資料として使用されている。 戦前では、築地小劇場の舞台写真が有名。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月1… 住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月10日 - 1967年〈昭和42年〉1月21日)は歌人。 1900年(明治33年)1月10日、群馬県群馬郡大字東国分(現高崎市東国分町)生まれ。父友太は村長も務めた開明的な養蚕農業家、母なんの姪は土屋文明に嫁いだ。キリスト教牧師・漢詩人・英文学者の住谷天来を叔父に、元同志社総長・経済学者住谷悦治を兄にもつ。前橋中学校入学後、先輩萩原朔太郎や隣村棟高出身の山村暮鳥の活躍に刺激されて文芸に関心を持ち、同級生萩原恭次郎らを識って親交を結び、作歌への情熱を高め、角田蒼穂とともに文芸誌への投歌を始め、中学4年のとき「日本少年」「青年文壇」「秀才文壇」「文章世界」などに短歌を投稿、入選を重ね、同級の千輝春彦・高橋紅二との合作歌集『揺籃(ようらん)』(1917)を発行。
宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月1… 宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月10日 - 1972年(昭和47年)6月14日)は、日本の医学者。国立療養所菊池恵楓園の園長を勤め、その後インドで救らいセンターを作った。ハンセン病研究・患者の治療を行い、「日本のシュヴァイツァー」と呼ばれた。熊本県八代市日奈久町生まれ。位階は従三位。 第五高等学校学生時代、ハンナ・リデルの回春病院にいきハンセン病に興味をもつ。京都帝大をへて大阪赤十字病院外科部長。1934年(昭和9年)九州療養所所長。本妙寺事件、龍田寮事件などに関与した。1951年(昭和26年)の参議院に参考人として招かれ、光田健輔と共に隔離政策の強化を主張したが、批判をあび、後に発言を取り消した。
森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 19… 森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 1977年1月12日)は、日本の歌人・国文学者。学位は、文学博士。二松学舎大学名誉教授。歌人の槇弥生子は子の妻。歌人の森本平は孫。 1900年(明治33年)、熊本県熊本市新町に生まれる。1920年(大正9年)、第五高等学校在学中に短歌雑誌「白路」を創刊、この年「アララギ」に入会。「白路」の名は当時第五高等学校の教授であった高木市之助の命名という。1923年(大正12年)、東京帝国大学文科へ進学し、佐佐木信綱、久松潜一、高木市之助に学ぶ。1946年(昭和21年)「白路」を復刊し社主となる。1929年(昭和4年)二松学舎専門学校教授となり、のち二松学舎大学教授となる。
田上 松衛(たがみ まつえ、1900年1月10日 - 199… 田上 松衛(たがみ まつえ、1900年1月10日 - 1995年1月28日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。横浜市会議員(3期)。神奈川県議会議員(2期) 鹿児島県揖宿郡山川村(現・指宿市)に生まれる。1917年、鹿児島県大成実業補習学校高等部卒業。1920年、日本海員組合結成に参画。 1926年には社会民衆党、1932年には社会大衆党の創立委員になった。1936年6月、神奈川県会議員選挙に横浜市神奈川区選挙区から立候補して初当選を果たした。1938年3月5日、横浜市会議員選挙に第2選挙区から社会大衆党公認で立候補して初当選を果たした。1940年、県会議員選挙に社会大衆党を抜け、中立候補で神奈川区選挙区から立候補したが、落選した。
境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9… 境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9日 - 1968年〈昭和43年〉7月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県山田郡桐生町(現・桐生市)で、境野源八郎の二男として生まれる。群馬県立太田中学校(現群馬県立太田高等学校)を経て、早稲田大学商学部を卒業した。 家業の輸出織物商を営む。桐生絹人絹織物配給常務取締役、群馬織物代表取締役、桐生布帛製品代表取締役、群馬県輸出織物社長、三山物産社長、桐生商工会議所会頭、群馬県地方労働委員会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で群馬県地方区から民主党公認で出馬して落選。竹腰徳蔵の公職追放に伴い同年8月に実施された第1回通常選挙・群馬県地方区補欠選挙に出馬して当選し、その後、民主クラブに所属し参議院議員に1期在任した。
佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日… 佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・杉野。 富山県東礪波郡出町(砺波町を経て現砺波市)で、杉野久松の二男として生まれる。1918年(大正7年)砺波中学校(現富山県立砺波高等学校)を卒業。1924年(大正13年)早稲田大学商学部を卒業し佐藤組(現佐藤工業)に入社した。1925年(大正14年)佐藤與左衛門の養子となる。佐藤工業営業部長を経て、1940年(昭和15年)代表取締役、1945年(昭和20年)取締役社長を歴任。 また、柳瀬村会議員、大阪財務局(現近畿財務局)管内所得審査委員、富山県東礪波郡地方事務所参与などを務めた。
西尾 寿男(にしお としお、1900年(明治33年)1月8日… 西尾 寿男(にしお としお、1900年(明治33年)1月8日 - 1990年(平成2年)10月29日)は、日本の鉄道省・運輸省官僚。日本交通公社(現・JTB)初代社長。鉄道弘済会や日本ホテル協会理事長を歴任した。 滋賀県彦根市出身。麹町小学校、第一高等学校等を経て、東京帝国大学卒業。高等文官試験行政科に合格し鉄道省(後に運輸省)に入省。仙台鉄道局長、運輸局旅客課長などを歴任した。戦後は財団法人鉄道弘済会理事長を務めるが、在任中の1954年、贈収賄により東京地検特捜部によって元参院議員高田寛と共に逮捕された(いわゆる陸運疑獄に発展)。これを機に運輸省を退官し、1955年に日本交通公社(現・JTB)の株式会社となってから初の代表取締役社長に就任し、後に会長を歴任した。
藤原 太一(ふじわら たいち、1900年1月8日 - 199… 藤原 太一(ふじわら たいち、1900年1月8日 - 1990年1月)は、日本のグラフィックデザイナー。著書『図案化せる実用文字』(1925年)と『絵を配した図案文字』(1926年)によって知られる。長崎県南松浦郡福江村(現在の五島市)出身で、関西を拠点として活動した。 1900年(明治33年)1月8日、五島列島を構成する福江島の福江村において生まれる。中学校卒業後に上阪し、1918年(大正7年)にデザイナーとして森下博薬房(森下仁丹)広告部に入社する。 1925年(大正14年)12月、大鐙閣から著書『図案化せる実用文字』が刊行された。本書は独学で広告図案を研究していた藤原による文字デザインを集成したものであり、藤原は「集の初めに」において「今日この種の参考書が、かなり必要にせまられてゐるにも拘らず未だかうしたものゝ完全な出版を見ない」とし、「図案文字発達上の一基礎ともなり、刺戟ともならば、幸ひ此の上なきこと」であると述べている。
浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日… 浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日 - 1984年(昭和59年)4月16日)は、日本の彫刻家。東京都渋谷区生まれ。昭和時代初期、前衛美術運動に参加し、活躍したことで知られる。本名は猛夫。東京美術学校(現在の東京芸術大学)塑造科で北村西望に学ぶが中退。1973年(昭和48年)、大阪芸術賞受賞。作品に「レーニン像」「原爆母子像」「テラコッタの馬」「方形婦女」など。連作に「大阪の女」など。
奥村 喜和男(おくむら きわお、1900年1月4日 - 19… 奥村 喜和男(おくむら きわお、1900年1月4日 - 1969年8月19日)は、日本の逓信官僚。内閣情報局次長。革新官僚の代表的人物の一人。号は東陽。 福岡県今川村(現在の行橋市)出身。豊津中学、第五高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。1923年に高等文官試験に合格、1925年に大学を卒業して逓信省に入省。 同盟通信社や満洲電信電話株式会社の設立に参画し、1935年の内閣調査局設立時に調査官に任じられ、出弟二郎とともに電力国家管理案を作成して電力会社の「民有国営」の実現に奔走した。1937年の企画院創設によって同院調査員に転ずる。統制経済の推進役、革新官僚(新官僚)の代表的存在であった。 1941年には東条内閣の内閣情報局次長に任ぜられ、戦時体制下における言論統制及び統制経済の確立に努める。
押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 194… 押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 1946年5月26日)は、日本の俳優である。本名は米村 俊民(よねむら としたみ)。芸名の表記は押本 英治、押本 暎治、押本 映二、押本 榮二と揺れがある。創立間もない松竹蒲田撮影所に所属した若手俳優で、大正末期までは冒険活劇のスターとして活躍、後年は日活多摩川撮影所、大映東京撮影所などであらゆる役柄をこなした名脇役として知られる。 1900年(明治33年)1月3日、鳥取県岩美郡富桑村(現在の同県鳥取市行徳、鳥取市行徳町は誤り)に生まれる。富桑尋常高等小学校(現在の鳥取市立富桑小学校)を経て、旧制鳥取県立鳥取中学校(後の旧制鳥取県立鳥取第一中学校、現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2… 伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。 「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇 で稲垣浩とともに新生面を開いた。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。
四方 博(しかた ひろし、1900年1月2日 - 1973年… 四方 博(しかた ひろし、1900年1月2日 - 1973年5月13日)は、日本の経済学者。専門は朝鮮社会経済史。 1900年、神戸市で生まれた。東京帝国大学経済学部を卒業後、同大学助手として採用され勤務。1924年に京城高等商業学校講師として朝鮮半島に赴任。経済学研究のため欧米に研究留学をした後、1926年に京城帝国大学に法学部が創設されると助教授となった。大学では、経済学第一講座を担当した。1928年には、京城帝国大学に「朝鮮経済研究所」を付設し、資料の収集と整理にあたった。1930年、京城帝国大学教授に昇格。 1945年の太平洋戦争終結にともない日本に帰国。1947年に愛知大学教授に就いた。
安田 幹太(やすだ みきた、1900年1月2日 - 1987… 安田 幹太(やすだ みきた、1900年1月2日 - 1987年5月16日)は、日本の法学者、政治家。九州国際大学(元・八幡大学)名誉学長。法学博士。衆議院議員。末弘厳太郎門下。 国立国会図書館 NDL 安田幹太 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鄭 在浣(チョン・ジェワン、朝鮮語: 정재완、1900年1月… 鄭 在浣(チョン・ジェワン、朝鮮語: 정재완、1900年1月2日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、地方公務員、実業家、政治家。麗水郡郡守、第2・3・4・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は晋州鄭氏(朝鮮語版)。号は三光。儒教の信者。 全羅南道麗水郡出身。ソウル中央高等普通学校を経て、東京物理学校、東洋大学文科ドイツ哲学科卒。若い頃は朝鮮独立運動に参加し、秘密結社などに加担した。ソウル中央高等普通学校在学中に三・一運動に参加した後に満洲に亡命したが、欠席裁判で懲役1年を言い渡された。1929年に故郷の麗水に戻り、地主会を設立した。1930年に鉄道敷設のために鉄道沿辺敷地を強制購入しようとした日本当局の朝鮮総督府に対抗して農民会を組織して活動した。
湊 楊一郎(みなと よういちろう、1900年(明治33年)1… 湊 楊一郎(みなと よういちろう、1900年(明治33年)1月1日 - 2002年(平成14年)1月2日)は、俳人。新興俳句運動の理論的支柱として知られる。本名は久々湊 与一郎(くくみなと よいちろう)。 北海道小樽市生まれ。中央大学法学部卒業。大学在学中は山岳部に所属していた。 1929年(昭和4年)、司法試験に合格。弁護士のかたわら、1931年(昭和6年)、松原地蔵尊らと俳誌「句と評論」を創刊。戦後は、「俳句評論」「羊歯」などを経て、「再会」を創刊。 1946年(昭和21年)、栗林一石路、石橋辰之助、東京三(秋元不死男)、富澤赤黄男らとともに、民主主義日本文化の確立発展をめざし、新俳句人連盟を設立。
佐々木 理(ささき ただし、1900年1月1日 - 1991… 佐々木 理(ささき ただし、1900年1月1日 - 1991年8月30日)は、日本の西洋古典学者。神話学者。 長野県生まれ。1924年東京帝国大学文学部英文科卒。宮城県女子専門学校教授、第二高等学校教授、1950年、名古屋大学文学部教授となり、1964年定年退官し名誉教授、その後、帝塚山大学教授を務め、1968年椙山短期大学教授となる。
西村 高兄(にしむら たかえ、1900年(明治33年)1月1… 西村 高兄(にしむら たかえ、1900年(明治33年)1月1日 - 1988年(昭和63年)7月5日)は、昭和時代前期の拓務官僚、台湾総督府官僚。 高知県土佐郡地蔵寺村(現・土佐町西部)に生まれる。東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、1924年(大正13年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業する。翌年11月、高等試験行政科に合格し、さらに翌年の1926年(大正15年)2月に樺太庁内務部殖産課に奉職。1927年(昭和2年)7月より同庁警視警察部警察官練習所長を兼任し、同年9月に同庁事務官長官官房調査課長に転じた。 ついで拓務事務官管理局大臣官房会計課勤務を経て、1931年(昭和6年)9月に台湾総督府に転じ、事務官内務局地方課長に就任。
河田 賢治(かわだ けんじ、1900年1月1日 - 1995… 河田 賢治(かわだ けんじ、1900年1月1日 - 1995年12月17日)は日本の労働運動家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)、元参議院議員(同、通算2期)。日本共産党名誉幹部会委員。日本共産党設立時のメンバーでもある。「河賢」の愛称で親しまれた。 京都府与謝郡岩滝村(岩滝町を経て現在は与謝野町)出身。小学校卒業後の1912年には舞鶴海軍工廠に勤務、1917年には上京して富士電機や日本鉄工で働きながら、東京工科学校(現・日本工業大学)に通学。日本鉄工時代は友愛会東京鉄工組合支部に入り、労働運動に取り組むが、1921年に解雇される。 1922年からは日本労働総同盟(総同盟)関東同盟主事に就き、総同盟内の左派を纏め上げる存在となる。
高城 憲夫(たき のりお、1900年1月1日 - 1987年… 高城 憲夫(たき のりお、1900年1月1日 - 1987年3月14日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(1期)、枕崎市長。その後、幼稚園を経営。 鹿児島県川辺郡東南方村(現・枕崎市)出身。鹿児島県師範学校(現鹿児島大学教育学部)卒業。1919年東南方村桜山小学校に赴任。次に勤めた鹿児島県第二師範学校付属小学校での保守的な教育方針に反発し一度学校を去り、上京して国語と漢文の文検を受け中等学校教員の資格を取得。旧制鹿児島県立鹿屋中学校(現鹿児島県立鹿屋高等学校)教諭の後、1934年広島文理科大学(現広島大学)史学科を卒業。卒業後、香川県女子師範学校教諭兼付属小学校主事、鹿児島県女子師範学校教諭兼付属小学校主事、同小学校の教頭、校長、事務取扱を経て、1942年4月旭川師範学校校長に就任。
北村 サヨ(きたむら さよ、1900年1月1日 - 1967… 北村 サヨ(きたむら さよ、1900年1月1日 - 1967年12月28日)は、日本の宗教家。「踊る宗教」こと天照皇大神宮教の教祖。 山口県玖珂郡日積村(現柳井市日積)に出生。21歳の時に結婚を契機に山口県熊毛郡田布施町の北村家に嫁ぐ。自民党参議院議員の北村経夫は孫。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
松崎 陽(まつざき よう、1899年(明治32年)12月29… 松崎 陽(まつざき よう、1899年(明治32年)12月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、医学博士。大日本帝国陸軍の軍医。最終階級は陸軍軍医少将、蒙古軍最高顧問。日本モンゴル協会創立発起人・会長。蒙古語文学者の先駆者としても著名。 慶應義塾大学医学部卒業(第3期生)。医学部では眼科を専攻し、終戦後に専門医となっている。慶大卒業後、満蒙に渡り関東軍を背景に持つ独立部隊・内蒙古軍に入隊。1935年(昭和10年)末、関東軍による「内蒙古政務委員会」の傀儡化工作を基礎に、内蒙古を中国本土から切り離して独立させ、新疆・外蒙古にまで手を広げようと狙う。 1936年(昭和11年)の末に特務機関長田中隆吉中佐のバックアップの下、徳王を首班とする内蒙古軍政府成立に尽力。
筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月… 筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月28日 - 1971年(昭和46年)4月21日)は、富山県高岡市桐木町出身の歌人。父は俳人の筏井竹の門で、長男として生まれた。 高岡中学校を卒業。詩人、童謡作家、歌人である北原白秋の『桐の花』に感銘を受け、1914年(大正3年)に巡礼詩社および短歌雑誌『日光』に入会、白秋に師事する。1921年(大正10年)に上京し、音楽専科の小学校教師として働く。 白秋門下としては珍しく昭和初期のモダニズム短歌運動に同調し、1928年(昭和3年)、歌人の坪野哲久、前川佐美雄らと共に新興歌人連盟を結成。また、村野次郎主宰の歌誌『香蘭』の選者を担当した。1935年(昭和9年)、白秋が創刊した『多磨』に参加を乞われたが辞退。
三輪 知雄(みわ ともお、1899年12月27日 - 197… 三輪 知雄(みわ ともお、1899年12月27日 - 1979年12月27日)は、日本の植物学者、生化学者。筑波大学初代学長。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1922年(大正11年)に東京高等師範学校理科第三部卒業。千葉県の旧制中学校教諭を経て、同12年(1923年)東京帝国大学理学部植物学科入学、昭和2年(1927年)卒業。 昭和4年(1929年)東京高師講師、同5年(1930年)東京文理科大学助教授、同15年(1940年)教授を経て、同24年(1949年)東京教育大学理学部教授に就任。同29年(1954年)理学部長、同37年(1962年)学長を歴任した。
森田 俊介(もりた しゅんすけ、1899年(明治32年)12… 森田 俊介(もりた しゅんすけ、1899年(明治32年)12月27日 - 1980年(昭和55年)10月6日)は、日本の台湾総督府・厚生官僚。台中州知事。 福岡県鞍手郡若宮村(現宮若市)で森田栄介の長男として生まれる。第七高等学校造士館を経て、1924年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年5月、台湾総督府に入り、同属・内務局配属となる。同年11月、高等試験行政科試験に合格。 以後、内務局地方課配属、地方理事官・台中州大屯郡守、地方警視・台北州警務課長、警務局警務課配属などを経て、1929年12月、警視・警務局理蕃課長に就任。在任中に霧社事件が起こり、その対応に当たった。さらに、警務局衛生課長、同局警務課長、新竹州内務部長、台北州内務部長、文教局学務課長、台中州知事、文教局長などを歴任し、鉱工局長として終戦を迎えた。
尾崎 一雄(おざき かずお、1899年(明治32年)12月2… 尾崎 一雄(おざき かずお、1899年(明治32年)12月25日 - 1983年(昭和58年)3月31日)は、日本の小説家。三重県生まれ。早稲田大学文学部国文科卒。志賀直哉に師事。生活苦の中で執筆し、短編集『暢気眼鏡』で芥川賞受賞。その後大病を患い、療養生活の中で自然や生き物への観察眼を深め、身近に迫る死を見つめた心境小説を発表して高い評価を受けた。昭和期の代表的な私小説作家であり、『虫のいろいろ』や『美しい墓地からの眺め』などの作品は、作者のみならず心境小説の代表的作品として知られている。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 実家は祖父の代まで神奈川県小田原市北東部の宗我神社の神官を務めた一族だが、父・尾崎八束(1872-1920)は東京帝国大学文学部史学科卒、神宮皇學館講師をしており、三重県宇治山田町(現・伊勢市)で生まれる。
重友 毅(しげとも き、1899年12月25日 - 1978… 重友 毅(しげとも き、1899年12月25日 - 1978年8月11日)は、日本の国文学者。 1899年、山口県吉敷郡山口町で生まれた。1917年に早稲田大学部学部予科に入学するも、同年7月に中退し、第一高等学校に入学。1920年に同校を卒業後、東京帝国大学文学部国文科に進学。1924年に卒業。 同1924年、旅順工科大学予科教授に就いた。1933年、東京体育専門学校教授に転じた(1941年まで)。1938年より武蔵高等学校教授も兼ねた。 1949年に武蔵大学教授となり、法政大学教授を兼任。1952年、学位論文『雨月物語の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1956年に武蔵大学を辞任し、法政大学および同大学大学院教授のみとなった。
三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - … 三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - 1972年4月7日)は、千葉県出身の俳人。本名・たか子。幼名・文子。旧号・東文恵。原石鼎、小野蕪子に師事。戦後、新興俳句系の「俳句評論」等に関わる。口語を駆使した奔放な作風を開拓し、昭和期に活躍した代表的な女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれた。 成田町(現成田市)に、助役として町の発展に貢献した三橋重郎兵衛の末子として生まれる。江戸時代後期の歌人神山魚貫と姻戚関係にある三橋家は代々和歌を嗜んでおり、鷹女は色紙や短冊や扇面などが貼り並べられた屏風を眺めながら育った。 1916年、成田高等女学校(現・成田高等学校)を卒業後、上京して次兄・慶次郎の元に寄寓。
中川 不器男(なかがわ ふきお、1899年12月24日 - … 中川 不器男(なかがわ ふきお、1899年12月24日 - 1967年10月13日)は、日本の実業家。位階は正四位。勲等は勲二等。 トヨタ自動車工業(現:トヨタ自動車)の4代目社長である。大阪府堺市生まれ。神戸高等商業学校(現神戸大学)卒。 1921年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。三井銀行から派遣されていた折りの1961年、4代目トヨタ自動車工業代表取締役社長就任に至る。就任当時、佐吉の甥であり喜一郎の従兄弟である豊田英二が適任と見られていたが、貿易・資本の自由化、自動車業界再編の時流に即し、経営能力に長けた中川の方がより適任と判断されたと見られている。 1967年10月、東京でトヨタ自動車販売の会議に出席し、名古屋に戻った後に体の不調を訴えて急逝。
小林 富次郎 (三代目)(こばやし とみじろう、旧名は小林喜… 小林 富次郎 (三代目)(こばやし とみじろう、旧名は小林喜一、1899年12月23日 - 1992年7月18日)は、日本の経営者。ライオン歯磨(現在のライオン)社長、会長を務めた。東京都出身。2代目小林富次郎の長男。妻・美代子は西野恵之助(白木屋呉服店社長・日本航空輸送社長)の次女。長男は小林敦。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 1929年に小林商店副社長に就任し、1935年には社長に昇格。1967年1月にライオン歯磨会長に就任。 1957年5月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1992年7月18日心不全のため死去。92歳没。
貴司 山治(きし やまじ、本名:伊藤 好市、明治32年(18… 貴司 山治(きし やまじ、本名:伊藤 好市、明治32年(1899年)12月22日 - 昭和48年(1973年)11月20日)は、日本のプロレタリア文学の小説家、劇作家。 徳島県鳴門市鳴門町高島生まれ。新聞記者などの職業を経て文筆家となる。 昭和2年(1927年)、朝日新聞が阪東妻三郎のために「五千円」(当時)の懸賞をかけ、映画小説を募集。本名伊藤好市名でこれに応募した『霊の審判』が一等入選。朝日新聞紙上で連載される。 昭和3年(1928年)、松竹配給・阪妻プロ製作で新春早々に『霊の審判』映画化が発表され話題となるが、松竹と阪妻の思惑が一致せず、三月封切りの予定が結局製作中止となる。 昭和4年(1929年)日本プロレタリア作家同盟の創立に参加し、プロレタリア文学の大衆化を唱える。
内海 十楼(うつみ じゅうろう、1899年1月19日 - 1… 内海 十楼(うつみ じゅうろう、1899年1月19日 - 1962年12月24日)は、日本の裁判官。東京高等裁判所判事、仙台地方裁判所所長などを務めた。 内海重男の長男として福岡市に生まれる。1919年福岡県立中学修猷館、1922年3月第五高等学校文科甲類を経て、1925年3月東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年高等試験司法科に合格。 1926年司法官試補となり、1928年千葉地方裁判所判事に進み、その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京民事地方裁判所判事部長、札幌控訴院判事部長を経て、1947年秋田地方裁判所所長に就任。仙台地方裁判所所長を経て、1951年4月東京高等裁判所判事に就任。
野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月1… 野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月19日 - 昭和53年(1978年))は、日本の土木技術者、都市計画家。内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた。息子は直木賞作家の野坂昭如。孫は作家、エッセイストの野坂麻央、女優の愛耀子(共に元宝塚歌劇団娘役)、株式会社ジャパンダイニングリンク(英語表記:Japan Dining Link Co., ltd.)代表取締役の野坂龍。
伊東 九郎(いとう くろう、1899年(明治32年)1月19… 伊東 九郎(いとう くろう、1899年(明治32年)1月19日 - 1953年(昭和28年)12月15日)は、明治、大正、昭和期の華族。正五位。子爵。 1899年、伯爵・伊東巳代治の八男として、東京都に出生。1923年、明治大学政治経済科卒業。 旧大名家の備中岡田藩主であった伊東子爵家に入り家督を継いでいた、実兄の伊東二郎が死去したことに伴い、その養子となって家督を継ぎ、1926年に子爵を襲爵した。明大卒業後は、鉄道省に勤務した他、東京電燈で支社長などを務めた。 1953年、死去。享年54。墓所は東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。
高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 19… 高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 1996年5月20日)は、日本の医学者、精神科医。専門は、性格学、森田療法。鹿児島県出身。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年、九州帝国大学医学部卒業。同大学精神神経科講師を経て、1929年、東京慈恵会医科大学に転任する。同年より東京根岸病院に勤務し、森田正馬に師事して森田療法を継承する。1937年、森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となる。1940年、入院森田療法の施設である高良興生院を設立し、森田療法による神経(質)症の治療を行う。1964年、東京慈恵会医科大学名誉教授。
須田 一二三(すだ ひふみ、1899年(明治32年)1月17… 須田 一二三(すだ ひふみ、1899年(明治32年)1月17日 - 1951年(昭和26年)8月14日)は、大正時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 福岡県遠賀郡八幡村字枝光北本町(現・北九州市八幡東区枝光)に生まれる。小倉中学校、第五高等学校を経て、1920年(大正9年)9月、東京帝国大学に入学。在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験行政科に合格し、1923年(大正12年)3月、同大法学部政治学科を卒業する。
豊沢 勇治(豊澤、とよさわ ゆうじ、1899年〈明治32年〉… 豊沢 勇治(豊澤、とよさわ ゆうじ、1899年〈明治32年〉1月17日 - 1974年〈昭和49年〉1月4日)は、大正から昭和時代の台湾総督府官僚。政治家。弁護士。秋田県能代市長(3期)。 秋田県山本郡響村仁鮒(現能代市二ツ井町仁鮒)出身。第一高等学校を経て、高等試験行政科に合格し、1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学政治科を卒業後、1928年(昭和3年)6月、台湾総督府に出仕。台南州文書課配属となる。 同年12月、高等文官試験に合格し、1931年(昭和6年)5月に地方理事官に進み、高雄州岡山郡守に就任する。その後、台北市助役、総督府事務官、内務局地理課長などを歴任したのち、1942年(昭和17年)8月に財務局税務課長を経て、同年11月、書記官に就任した。
間宮 精一(まみや せいいち、1899年(明治32年)1月1… 間宮 精一(まみや せいいち、1899年(明治32年)1月17日 - 1989年(昭和64年)1月6日)は日本の発明家、カメラ設計者で、マミヤ光機製作所(後マミヤ光機株式会社を経て現マミヤ・オーピー)の創業者。 父は事業家兼発明家の間宮勝三郎で静岡県伊豆の国市大仁で木屋呉服店等様々なビジネスを営んでいた。木屋は「まみや宝くじたばこ店」(木屋間宮商店)として間宮勝三郎の末裔で鈴木貫太郎総理の縁戚者[要出典]により営業が続いている[いつまで?]。発明家でもあり生涯に計算機や金庫で30件程特許や実用新案を登録している。1919年(大正8年)間宮式金庫を発明し、同年間宮堂を創業しその事業に専念するようになった。
坂口 登(さかぐち のぼる、1899年(明治32年)1月16… 坂口 登(さかぐち のぼる、1899年(明治32年)1月16日 - 1979年(昭和54年)2月24日)は、日本の政治家。長野県更埴市長。位階は従六位。勲五等瑞宝章。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。東京慈恵会医科大学医学部卒業。同附属病院研修後、東京金杉病院勤務、樺太鵜城での開業、満鉄病院勤務を経て、1932年(昭和7年)帰郷し、家業の医院を承継。1954年(昭和29年)坂口病院を設立し理事長に就任した。この間、1947年(昭和22年)日本社会党から長野県議会議員に当選するが、1949年(昭和24年)1月、任期途中で第24回衆議院議員総選挙(長野県第1区、社会党)に出馬するも落選。 三度目の市長選で当選し、1967年(昭和42年)7月、更埴市長に就任。
赤尾 敏(あかお びん、1899年〈明治32年〉1月15日 … 赤尾 敏(あかお びん、1899年〈明治32年〉1月15日 - 1990年〈平成2年〉2月6日)は、日本の政治家、右翼活動家、衆議院議員、大日本愛国党初代総裁。 当初は社会主義者であったが、1926年(大正15年)に「天皇制社会主義」を理想として民族主義者へ転向。1942年(昭和17年)には翼賛会非推薦で衆議院議員に当選し、親英米反共の反体制右翼として対英米戦争に反対した。1945年(昭和20年)の敗戦後、政治活動と講演活動を行い、1951年(昭和26年)親米反共を訴える大日本愛国党を創党した。特に銀座数寄屋橋などでの辻説法による気迫に溢れる街頭演説で有名であった。 赤尾敏は1899年(明治32年)1月15日、愛知県名古屋市の金物商の息子として生まれた。
高田 寛(たかだ ひろし、1899年1月15日 - 1979… 高田 寛(たかだ ひろし、1899年1月15日 - 1979年5月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家、参議院議員(緑風会・1期)。 1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。アメリカ合衆国、ドイツに留学。1922年、鉄道省に入省。戦前から戦中にかけて、小郡駅長、鉄道局副参事、名古屋鉄道局運輸旅客掛長、逓信局事務官、鉄道省事務官、東京鉄道局長、国際観光局長などを歴任した。 1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区で当選し、緑風会に所属して1953年まで1期を務めた。在任中には、参議院議院運営委員会委員長も務めた。また、参議院議員当時から日本交通公社理事長を務め、後には会長を務めたが、造船疑獄に関わって贈賄で逮捕され、1959年9月21日に東京地方裁判所において懲役4か月執行猶予1年の有罪判決を受けた。
香取 正彦(かとり まさひこ、1899年〈明治32年〉1月1… 香取 正彦(かとり まさひこ、1899年〈明治32年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉11月19日)は、日本の鋳金工芸作家。梵鐘分野で重要無形文化財保持者(人間国宝)。父は鋳金工芸作家の香取秀真。 1899年(明治32年)1月15日、東京市小石川区に生まれた。父は鋳金工芸作家の香取秀真であり、正彦は長男だった。まもなく両親の出身地である佐倉(現・千葉県佐倉市)へ移り、幼少期を佐倉で過ごした。 1916年(大正5年)から1920年(大正9年)には太平洋画会研究所で洋画を学んだ。1920年(大正9年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)鋳造科に入学し、主任教授である津田信夫の指導を受けた。製作にあたっては古典研究を基礎としている。
東 愛子(あずま あいこ、1899年1月15日 - 1967… 東 愛子(あずま あいこ、1899年1月15日 - 1967年7月)は、日本の女優である。出生名は芸名と同じ、二代目市川荒太郎との結婚後本名は市川 愛子(いちかわ あいこ)、晩年の本名は出生名に戻した。 松竹女優養成所第1期生として知られ、新派(第2期成美団)、初期の新国劇、松竹キネマ時代劇の映画女優を経て、松竹家庭劇の最高幹部、美貌のスター女優として、京都・大阪の舞台に多くの足跡を残した。清水宏の監督デビュー作『峠の彼方』にも主演している。元国防婦人会松竹分会長。 1899年(明治32年)1月15日、大阪府大阪市南区恵美須町(現在の同府同市浪速区恵美須)に生まれる。 当時4年制の旧制小学校を1909年(明治42年)に卒業、旧制・高津女学校、および梅花塾を卒業している。
井上 三綱(いのうえ さんこう、1899年1月15日 - 1… 井上 三綱(いのうえ さんこう、1899年1月15日 - 1981年5月19日)は、日本の画家。国画会会員。海外の展覧会にも多く作品を出品した。日本と西欧の要素が融合する神秘的な画風で知られる。 福岡県八女郡(現・筑後市)の宝満宮竈門神社の神官の家に生まれた。1916年(大正5年)、福岡県小倉師範学校に入学。在学中に画家を志し、卒業後、郷里で小学校の教諭をしながら制作を続ける。22歳の頃、恩師の勧めで上京。本郷絵画研究所に学んだのち、1923年(大正12年)から同郷の先輩の坂本繁二郎に師事した。 1926年(昭和元年)、酒匂尋常高等小学校(現・小田原市立酒匂小学校)に赴任。同年、第7回帝展(現・日本美術展覧会)に「牛」が初入選。
磯田 正則(いそだ まさのり、1899年(明治32年)1月1… 磯田 正則(いそだ まさのり、1899年(明治32年)1月15日 - 1983年(昭和58年)1月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、埼玉県秩父郡大滝村長。位階は従五位。 埼玉県秩父郡大滝村(現:秩父市)で生まれる。秩父郡立農林学校を中退した。 1929年、大滝村会議員に就任。1934年、大滝村長となり、その後、埼玉県会議員を兼務した。戦時中は、大政翼賛会埼玉支部参与、同秩父郡支部理事、同大滝村支部長に就任したが、大政翼賛会の官権主義に反発して全ての役職の辞任を申し出て物議を醸した。 戦後、1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選し、その後、国民協同党に所属して衆議院議員を一期務めた。
田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982… 田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日)は、日本の建築史・美術史学者。工学博士(1939年)。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。 岡山県倉敷市生まれ。広島県出身。 1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士の学位を取得。1941年教授。1969年定年、名誉教授。1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。