深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月… 深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月19日) - 昭和17年(1942年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。 熊本市出身。1894年(明治27年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。朝鮮に渡り、『漢城新聞』主幹、日韓殖産株式会社取締役、『京城日報』主幹を務めた。さらに京城居留民団議員、京城学校組合議員、京城商業会議所副会頭などを歴任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選を果たした。 その他、熊本米穀取引所理事、九州日日新聞社社長を務めた。
今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明… 今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明治2年5月10日) - 1936年(昭和11年)12月7日)は、日本の裁判官。日比谷焼打事件の裁判長などを務め、借地借家法の功労者としても知られる。妻・菊子は伍堂卓爾の六女で、海軍軍人で実業家、政治家の伍堂卓雄の妹。 関東大震災発生時には東京地方裁判所所長であり、岡慶治(日比谷焼討事件の左陪審 )は浦和地方裁判所所長であった。
俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5… 俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5月7日〉- 1944年〈昭和19年〉6月17日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。商工大臣、立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等。 1869年(明治2年)5月7日、石見国浜田(現:島根県浜田市)に俵家の3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。幼少の頃から家業の醤油醸造、ろうそくの製造販売等を手伝う。 浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)、泊園書院(現:関西大学)、共立学校(現:開成中学校)、第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科(現:東京大学法学部)を卒業する。卒業後は内務官僚として官界に入り、1907年(明治40年)大韓帝国の学部次官、1910年(明治43年)同国の土地調査局副総裁(後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁)に就任。
松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(… 松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(明治2年5月7日) - 1944年12月18日)は、仏教学者。インド哲学、インド文化・仏教美術史学者。号は亡洋。京都帝国大学名誉教授。インド哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても多くの論文を発表した。 1869年、加賀国金沢(現・石川県金沢市)で生まれた。帝国大学文科大学文学部で学び、1893年に卒業。 1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授に就いた。1899年、ドイツに留学。同年、文学博士号を取得。 第一高等学校教授を務めたのち、1906年に京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり、同大学インド哲学史教授に就任。
星野 庄三郎(ほしの しょうざぶろう、1869年6月15日(… 星野 庄三郎(ほしの しょうざぶろう、1869年6月15日(明治2年5月6日) - 1931年(昭和6年)1月22日)は、日本の陸軍軍人。陸士2期、陸大14期。栄典は従三位勲一等功三級。最終階級は陸軍中将。 新潟県小千谷町(現小千谷市)出身。1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(2期)を卒業。翌年3月、工兵少尉任官。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。陸軍省軍務局軍事課勤務となる。 日露戦争に満州軍総司令部参謀として出征。1908年(明治41年)12月、工兵第18大隊長となり、1910年(明治43年)11月、工兵大佐に昇進。1912年(大正元年)9月、参謀本部要塞課長に就任。
名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治… 名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治2年5月5日) - 1944年1月23日)は、北海道庁初代勅任技師。工学博士。公益社団法人土木学会第20代会長、名誉会員、勲三等。雨竜電力株式会社顧問。土木学会初代主事。 北海道庁初代勅任技師として土木関係での北海道開発に功績が多い。主なものとして北海道庁旧本庁舎(北海道庁赤れんが)の正面にある道庁前携わる。
岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月1… 岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月12日) - 昭和16年(1941年)7月14日)は、日本の哲学者。 鹿児島県鹿児島市山下町生まれ。士族岩元基の長男。1889年に鹿児島高等中学造士館予科を第1期生として卒業後、第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科に進学。1891年に卒業し、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に進んだ。哲学科で学び、ラファエル・フォン・ケーベルに師事。1894年に卒業し、同大学大学院に進学。大学院に在籍して哲学研究を進める一方、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。 1899年からは第一高等学校でドイツ語を教えた。
白洲 文平(しらす ふみひら、1869年6月7日(明治2年4… 白洲 文平(しらす ふみひら、1869年6月7日(明治2年4月27日) - 1935年(昭和10年)10月23日)は日本の実業家である。 現在の兵庫県三田市に生まれた。父は白洲退蔵、子に白洲次郎、孫に牧山桂子がいる。 幼少期よりアメリカ人の家庭教師にも学び、1882年(明治15年)にバラの築地大学校に入塾。築地大学校卒業後、ハーバード大学、ボン大学に留学。このときの留学仲間に、近衛篤麿や新渡戸稲造、樺山愛輔らがいた。帰国後は三井銀行や大阪紡績に勤めるが中途で退社。 その後、兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた。豪放ながら傲慢な性格で、周囲からは『白洲将軍』と畏れられた。
藤田 包助(ふじた かねすけ、1869年6月6日(明治2年4… 藤田 包助(ふじた かねすけ、1869年6月6日(明治2年4月26日) - 1945年(昭和20年)1月22日)は、日本の政治家、実業家。 1869年(明治2年)、山口県阿武郡徳佐村(のち阿東町、現在の山口市)にて出生。 明治法律学校を卒業して、警視庁属兼警部となり、その後、実業界に入り、八溝金山、釧路炭砿、朝日銀行、北日本興業等の取締役、江戸見崎養魚監査役などを務める。ほか逓信大臣秘書官を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙において山口県五区から衆議院議員に当選。立憲政友会に所属した。 衆議院議員を1期務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙は不出馬。1943年(昭和18年)に萩市長に就任。
曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明… 曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明治2年4月26日〉 - 1925年〈大正14年〉12月4日)は日本の俳優、劇作家。本名は大松福松。劇作家としては和老亭当郎と名乗った。 伊勢国松阪出身。家業は合羽、煙草の販売だった。 1900年(明治33年)、3代目中村歌六の弟子となり中村時代()を名乗る。歌舞伎の下積み役者として活動するなかで中村珊之助と出会い、2人で喜劇に舵をとる。曾我兄弟にあやかり、年上の時代が曾我廼家十郎、珊之助が曾我廼家五郎を名乗る。1904年(明治37年)2月、道頓堀「浪花座」にて狂言『無筆の号外』を上演して人気を得る。この際、時期が日露戦争の開戦と重なって十郎は尻込みしたが、五郎の牽引で興行した。
野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年… 野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年6月3日) - 大正4年(1915年)10月26日)は、明治、大正期に活躍した建築家、工学博士。創設間もない住友営繕の基礎を築いた人物。 明治2年(1869年)4月23日、播磨国姫路清水(現姫路市)に姫路藩士・野口野(いやし)の子として生まれる。姉は後に日本の幼児教育の先駆者的存在となる野口幽香。父に付き従い生野銀山で一年余り過ごす。父の転勤で神戸に移り、兵庫県立第一神戸中学を卒業。第三高等学校を経て、住友の奨学金を貸与され、明治24年(1891年)に東京帝国大学工科大学造家学科に進学し、同27年(1894年)7月卒業。大学院で耐震家屋について研究。
戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5… 戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5月30日) - 昭和4年(1929年)1月14日)は、日本の教育者。戸板学園の創立者。 1869年(明治2年)、仙台藩士で漢学者の戸板善内の一人娘として仙台北5番町で生まれた。生まれた年に父を亡くし、母の手で育てられた。 仙台の松操女学校で学び、18歳で小学校教員となった。自らの知識を磨くために上京し、横浜のフェリス女学校に入学する一方、フェリス女学校、東洋英和女学校、東京女学館で裁縫教師を務めた。1893年、鳥居坂教会の武田芳三郎牧師と結婚し家庭に入るが、教育への情熱から夫と離れて戸板姓に戻った。後に芳三郎と和解し、芳三郎が戸板家に入ることとなった。
東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月2… 東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月25日) - 昭和14年(1939年)9月3日)は日本の政治家、出版事業家。従四位勲二等。所属政党は立憲政友会。別名、東牧堂(あずま ぼくどう)。 大和国十津川(現・奈良県吉野郡十津川村)に東義次の長男として生まれる。東家は旧十津川郷士であった。郷校文武館(現・奈良県立十津川高等学校)を経て東京法学院(現・中央大学法学部)に在学中、1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、十津川村の住民を指導して北海道新十津川村(現在の新十津川町)への移民事業に挺身。1891年(明治24年)、自らも北海道に移住して開拓事業を推進した。森源三、五十嵐久助とともに菊亭農場の管理人となり、農場解体後は土地の譲受者となった。
中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2… 中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2年4月14日) - 1939年(昭和14年)12月27日)は、日本の歴史家。 独学で地史研究・文筆力を養い滋賀県内各郡志の編纂に携わる。 中川泉三は、1869年(明治2年)4月14日に近江国坂田郡大野木村(現滋賀県米原市大野木)で宮川藩士中川洸平次の長男として生まれた。12歳の時に父が死去し、母の手一つで育てられ、母からは常に「友に劣るな、寡婦の子とそしりを受けるな。」と叱咤激励された。小学高等科卒業後、家業の農業に従事する傍ら、独学で学問を修め母校の代用教員まで務めた。 特に漢詩文に興味を持ち小野湖山・土屋鳳州らから添削指導を受けた。
桑原 八司(くわはら やつし、1869年5月24日(明治2年… 桑原 八司(くわはら やつし、1869年5月24日(明治2年4月13日) - 没年不明)は、明治時代後期から大正時代の朝鮮総督府官僚。文部官僚。咸鏡北道長官。忠清南道長官(知事)。 桑原苞の長男として岐阜県に生まれ、1875年(明治8年)7月に家督を相続する。1893年(明治26年)東京帝国大学法科大学を卒業する。群馬県属、文部省属、宮城、岩手両県への出張、香川県属を経て、秘書官として朝鮮総督府に出仕。咸鏡北道長官を務めたのち、忠清南道長官(のち知事)に転じた。1921年(大正10年)9月25日、退官した。
大山 正樹(おおやま まさき、1869年5月23日〈明治2年… 大山 正樹(おおやま まさき、1869年5月23日〈明治2年4月12日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、「大和花」醸造元、広島県酒造組合賀茂郡支部長、広島県多額納税者、政治家(広島県賀茂郡西志和村長)、名望家。 広島県賀茂郡西志和村(現東広島市)に生まれた。大山源之助の長男。1897年、家督を相続した。酒造業を営んだ。 1909年、村会議員に当選。1921年8月より1933年5月まで3期にわたり西志和村長在職。村長退職に際し村より影徳碑を建設された。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 大山家は醤油醸造業を営んでいたが、正樹の父・源之助は明治初年に酒造業にあらため「大和花」と命名し斯業を経営した。
長沢 別天(長澤、ながさわ べってん、1868年6月20日(… 長沢 別天(長澤、ながさわ べってん、1868年6月20日(慶応4年5月1日) - 1899年(明治32年)11月22日)は、明治時代の評論家、文芸評論家、ジャーナリスト。 山陽新報(現・山陽新聞)主筆、東京朝日新聞政治主任。本名、説。別名、別天樓主人、別天生、別有天地樓主人、半眼子、四六翁、坂東太郞、渺茫子、渺茫居士、渺茫生、金毛獅。 ジョン・ミルトンやジョージ・バイロンの評論を著し、エドガー・アラン・ポーの詩を日本に初めて紹介するなど英文学の普及に尽力。文芸に加えて日本関係論や政治思想など幅広い評論活動を行った。 常陸国(現・茨城県)生まれ。攻玉社を経て、築地の立教学校(現・立教大学)で学ぶ。
丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日)… 丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日) - 1955年〈昭和30年〉1月18日)は、明治時代-昭和初期の土木技術者、工学博士。 1868年(慶応4年)名古屋生まれ、1889年東京帝国大学工科大学土木学科を卒業。内務省に入り内務技師。仙台、大阪、名古屋の土木監督署で勤務。1900年-1901年に欧米出張(横浜港新港埠頭建設のため)。大蔵省臨時建築部第二課長橫浜支部長、同臨時建築課長などを歴任。この間、木曽川、淀川、最上川の治水事業、横浜、神戸の港湾改良事業などに携わる。1915年、工学博士。1919年、依願免官。同年、日本水力株式会社取締役。1921年、東京市道路局長、河川課長・建築課長事務取扱。
甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日… 甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。 現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派の学者の足利義山。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語・漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。 明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。
門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月… 門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町中屈指の豪商。元境町会議員。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市上道町)出身。厳父浅重の二男。 弱冠にして実家の業務を扶け大に商業の経験を積み明治23年(1890年)8月境町に分家し、始め酒類販売及び砂糖商を開き一意専心業務に力めたことにより、日増しに繁栄に向かい資産増殖する。 従来の家業を廃し質屋肥料商を開く。明治33年(1900年)実に壮観なる家宅を新築する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏… 内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏4月5日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。明治文壇を代表する批評家として知られ、旺盛な好奇心と広範な知識は文学を超えて、民族学や文明論的な拡がりを持った。江戸下谷車坂六軒町(現・東京都台東区)生まれ。洋画家内田巌は長男。孫(巌の娘)に翻訳家の内田莉莎子。 旧幕臣の子・貢(幼名・貢太郎)として下谷車坂三軒町に生まれる。父・正には7人の妻がおり、魯庵は最初の妻との子。はじめは政治・実業に関心を持ち、1882年(明治15年)に15歳で築地の立教学校(現立教大学)に入学して英語を学んだほか、東京専門学校(現早稲田大学)英語部などでも英語を学び、東京大学予備門にも入ったが、家が貧しく結局どこも中退し、文部省編輯局翻訳係であった叔父(継母の姉妹の夫)・井上勤のもとで下訳や編集の仕事をする。
神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6… 神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6月19日) - 大正13年(1924年)1月18日)は、明治時代から大正時代にかけての地質鉱物学者。 江戸幕府幕臣神保長致の長男として江戸で生まれる。言語学者の神保格の兄。明治20年(1887年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)で地質学を専攻。同大卒業後、北海道庁技師、全道地質鉱産調査主任を務める。明治25年(1892年)ドイツのベルリン大学に留学し、鉱物学や岩石学などを学ぶ。 帰国後の明治27年(1894年)、母校の東京帝国大学理科大学助教授となり、明治29年(1896年)教授、鉱物学教室設立とともに主任教授となり鉱物学講座を担任した。
佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(186… 佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(1867年6月18日) - 大正10年(1921年)10月22日)は、日本の衆議院議員(新政会)、医師。 伊勢国飯野郡機殿村(現在の三重県松阪市)出身。東京帝国大学医科大学別科を卒業。飯南郡医、三重県臨時検疫部検疫官、三重県警察医を務め、飯南郡医師会長、三重県医師会長、大日本医師会理事を歴任した。また飯南郡会議員、同議長、三重県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
中原 市五郎(なかはら いちごろう、1867年6月17日(慶… 中原 市五郎(なかはら いちごろう、1867年6月17日(慶応3年5月15日) - 1941年(昭和16年)3月22日)は、日本の歯科医師、政治家。日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)の創始者。 1867年(慶応3年)、信濃国伊那郡下平村(現・長野県駒ヶ根市)に生まれる。11歳で旧松本藩御殿医であった戸田義方に入門し医学を学ぶ。16歳で上京し、鋳造工として働き、代用教員を務めた後、九段で開業している歯科医岡田三百三に弟子入りし歯科医学を学び、1889年に22歳で歯科医術開業試験合格、岡田三百三の診療所を購入して開業した。その後東京市麹町区議会議員に当選。1907年に共立歯科医学校を設立し、1909年(明治42年)には日本歯科医学専門学校と発展させた。
芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日〈1867年6月… 芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日〈1867年6月16日〉 - 昭和2年〈1927年〉2月6日)は、日本の国文学者。東京帝国大学名誉教授、東宮職御用掛、國學院大學学長、帝国学士院会員を歴任した。 1867年、福井県足羽郡生まれ。父は国学者の芳賀真咲。1889年7月第一高等中学校を卒業。1892年、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)卒業。在学中は小中村清矩に学ぶ。 1895年、第一高等学校教授兼高等師範学校教授。1899年、東京帝国大学助教授。1900年、夏目漱石、藤代禎輔とともに文部省外国留学生としてドイツに留学し、文献学を学ぶ。1902年に帰国し、東京帝国大学教授となる。1903年、文学博士の学位を取得。
伊能 嘉矩(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月… 伊能 嘉矩(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月11日) - 1925年9月30日)は、日本の人類学者・民俗学者。 明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。梅陰という筆名での著作も多数ある。 慶応3年(1867年)、横田村(現在の岩手県遠野市東舘町)に生まれる。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する。1885年、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。
石川 玄三(いしかわ げんぞう、慶応3年5月7日(1867年… 石川 玄三(いしかわ げんぞう、慶応3年5月7日(1867年6月9日) - 昭和6年(1931年)4月15日)は日本の政治家。衆議院議員(2期、立憲政友会)。 1867年(慶應3年5月)、下野国河内郡豊郷村(現在の栃木県宇都宮市)に生まれる。和仏法律学校(現在の法政大学)で学んだ後、一年志願兵として日清戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉となる。その後、栃木県会議員、同参事会員、同副議長(1909年(明治42年)12月-1911年(明治44年)9月)を歴任する。 1917年(大正6年)に第13回衆議院議員総選挙に栃木県2区から出馬し、当選する(以後2期連続当選)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3… 桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3年5月5日) - 1946年(昭和21年)4月5日)は日本の医師、病理学者である。日本住血吸虫の発見で知られる。 1867年(慶応3年)、大聖寺藩士であった庄田豊哉の長男として加賀国江沼郡大聖寺町耳聞山町(現石川県加賀市)に生まれる。幼名は幸吉。幼少から勉学に優れ、1882年(明治15年)に錦城小学校の高等小学全科を首席で卒業している。 翌1883年(明治16年)5月に石川県立金沢医学校(現金沢大学医学部)に進学。 1887年(明治20年)に石川県立金沢医学校を首席で卒業後、帝国大学医科大学(現東京大学医学部)病理学教室に入り初代教授の三浦守治に師事した。
丸山 晩霞(まるやま ばんか、慶応3年5月3日〈1867年6… 丸山 晩霞(まるやま ばんか、慶応3年5月3日〈1867年6月5日〉 - 昭和17年〈1942年〉3月4日)は、日本の水彩画家。 信濃国小県郡祢津村(現・長野県東御市)生まれ。同じ長野生まれの彫刻家川村吾蔵は遠戚。本名・健作。1888年彰技堂に入門、明治美術会展に出品。1895年、群馬県沼田付近で、写生をしている吉田博に出会う。その時吉田の描いていた水彩画に感銘を受ける。1898年、吉田博とともに「日本アルプス写生旅行」を敢行、飛騨方面まで巡る。1899年、三宅克己と交友。三宅の勧めから、1900年渡米。同行した、鹿子木孟郎、満谷国四郎、河合新蔵と、先発の吉田博、中川八郎で「日本人水彩画家6人展」をボストンアートクラブで開催。
服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(186… 服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(1867年6月2日) - 昭和14年(1939年)7月11日)は、日本の中国学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京帝国大学教授、京城帝国大学総長、國學院大學学長、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。帝国学士院会員。現福島県二本松市出身。 1867年、陸奥国の二本松藩士の三男として生まれる。幼時に生母が早世し、戊辰戦争での父の戦死や自身の右眼失明など苦労を重ねた。1873年、養父の叔父一家と東京に移住、麻布小学校、共立学校に学ぶ。 1883年、大学予備門(後に第一高等学校)入学。1887年、第一高等学校卒業、帝国大学文科大学(後に東大文学部)入学。
相生 由太郎(あいおい よしたろう、慶応3年4月28日(18… 相生 由太郎(あいおい よしたろう、慶応3年4月28日(1867年5月31日) - 昭和5年(1930年)1月3日)は明治・大正・昭和にかけて満州で活躍した日本人実業家。 1867年福岡県福岡市の魚商相生久次の長男として生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1896年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本郵船、中学校教師などの勤務先を転々と変えた末、1904年三井物産入社、門司支店に勤務。炭坑人夫のストライキを収拾してその手腕を認められ、支店長犬塚信太郎の知遇を得る。 日露戦争後の1906年、上司の犬塚は新たに設立された南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事に抜擢されるが、当時混乱を極めていた大連埠頭の荷役問題を解決できる唯一の人材として相生を推挙し、それを受けて相生は満鉄入りする。
花村 覚三郎(はなむら かくさぶろう、1867年5月29日(… 花村 覚三郎(はなむら かくさぶろう、1867年5月29日(慶応3年4月26日) - 1952年(昭和27年)4月8日)は、明治から昭和時代の政治家。衆議院議員。 美濃国武儀郡、のちの岐阜県武儀郡東武芸村(武芸村、武芸川町を経て現関市)出身。普通学を修める。 農業を営み(注:戦後の「農業」ではなく、豪農・大地主による農地・山林経営である。特筆すべきは、その所有する山林の広大さであった)、岐阜県会議員、相続税審査委員、所得税調査委員を歴任した。 1908年(明治41年)5月の(満25歳以上で直接国税10円以上を納める男子のみが選挙権を有した)第10回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
藤野 亀之助(ふじの かめのすけ、1867年5月27日(慶応… 藤野 亀之助(ふじの かめのすけ、1867年5月27日(慶応3年4月24日) - 1920年(大正9年)1月7日)は、日本の実業家。大阪株式取引所理事長、大阪電気軌道取締役、電気化学工業監査役、王子製紙取締役、豊田紡織取締役、大日本セルロイド取締役などを歴任した。 埼玉県生まれ。商法講習所(現一橋大学)で外国語を学んだ。三井物産で、綿糸部主任、大阪支店次長、大阪支店長を歴任し、大阪商業会議所特別議員も務めた。また、豊田佐吉の豊田式織機事業を推進し、豊田式織機相談役を務めた。 1915年大阪株式取引所理事長、大阪電気軌道取締役、電気化学工業監査役。1917年王子製紙取締役。1918年豊田佐助の菊井紡織設立にあたり、児玉一造らとともに出資を行い、同年豊田紡織取締役。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
池口 慶三(いけぐち けいぞう、1867年5月26日〈慶応3… 池口 慶三(いけぐち けいぞう、1867年5月26日〈慶応3年4月23日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は、日本の薬学者。薬学博士。正四位勲三等。日本薬局方調査会会長。日本薬剤師会顧問。東京薬学専門学校長。族籍は兵庫県平民。 但馬国七美郡(のち兵庫県美方郡村岡町、現香美町)出身。池口吉兵衛の三男。旧村岡藩士である。1885年、家督を相続する。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業し、薬学士の称号を得た。 警視庁技師、衛生試験所技師、内務技師、特許局技師同検査官等歴任。1907年11月、薬学博士の学位を授与された。内国製薬常務取締役兼技師長をへて1927年、東京薬専校長となった。著作に『日本薬局方通解』がある。
佐々木 藤太郎(ささき とうたろう、1867年5月25日(慶… 佐々木 藤太郎(ささき とうたろう、1867年5月25日(慶応3年4月22日)- 1948年(昭和23年)5月16日)は、日本の官僚、実業家。第2代朝鮮慶尚南道長官。 長門国厚狭郡のちの厚西村(現山口県山陽小野田市)で、佐々木磯右衛門の二男として生れる。1889年5月、山口県収税属に任用。その後、東京府収税属に転じた。 1894年3月、内閣属に転じ内閣恩給局に勤務。同年7月、明治法律学校(現・明治大学)を卒業。1896年12月、第3回文官高等試験行政科試験に合格し、1897年6月、大蔵省試補に任用され収税局に配属される。その後、松山税務監督局長、仙台税務監督局長などを歴任。 1908年4月、大韓帝国の招聘受けて渡韓、同年7月、統監府書記官に就任。
三輪 市太郎(みわ いちたろう、1867年5月21日(慶応3… 三輪 市太郎(みわ いちたろう、1867年5月21日(慶応3年4月18日)- 1930年(昭和5年)2月8日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、愛知県会議長。 尾張国海西郡、のちの愛知県海部郡八開村(現愛西市)で、三輪伊三郎の四男として生れ、1884年(明治17年)兄・伊兵衛の後を承けて家督を相続した。普通学、漢文学を修めた。農業を営む。 土木会社勤務を経て、独立して鉄道工事の土木請負業を営む。資金を工面するため必要最小限の財産以外の全てを売却した。次第に工事施工の内容に信用を獲得して事業を拡大した。その後、中央土木社長、愛知鉄道社長、海島銀行取締役、日光川倉庫銀行監査役、愛知開墾社長などを務めた。
小池 仁郎(こいけ にろう、慶応2年5月7日(1866年6月… 小池 仁郎(こいけ にろう、慶応2年5月7日(1866年6月19日) - 1936年(昭和11年)1月24日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、水産業者。愛称にポロニシパ、ヤソの小池。 越後国中頸城郡潟町村字小舟津(現在の新潟県上越市大潟区)出身。酒造業兼漁業の小池太一郎、やをの四人兄弟の三男として生まれる。長兄は夭折した。幼少期は越後高田藩の松下武次郎から漢文を学んだ。1877年(明治10年)に叔父の小池仁兵衛の養子となった。1879年(明治12年)に新潟師範学校速成科高田支場を卒業し、小学校教員となったが[要出典]、翌年根室に渡った。 別当賀にて林業に従事したのち、酒販業を経て、勉学を兼ねて根室の天杉商店で働く。
中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2… 中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2年5月6日) - 没年不詳)は、日本の政治家。初代室蘭市長。 近江国滋賀郡堅田(のち滋賀県滋賀郡堅田村→堅田町、現・大津市)出身。山梨県警部から北海道庁に転じ、室蘭、釧路の各警察署長となる。その後、警視となるが、1906年に官職を辞任。室蘭に移る。1910年室蘭支庁選出の道会議員となる。1915年室蘭町長に当選。1918年区制施行により、室蘭区長となる。1922年市制施行により、市長臨時代理者を経て、初代室蘭市長となる。市長は1929年まで務め、病気のため退任した。 市長在職中はワシントン海軍軍縮条約により、造船の発注の減少や製鋼所の事業縮小、製鉄所の減産など市況の低迷により、失業者が続出した。
今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(… 今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日 ) - 1954年(昭和29年)6月12日)は、日本の弁護士であり、元裁判官。専修大学第5代総長。 信濃国(現長野県)下伊那郡上飯田村(現飯田市)に生まれる。旧姓は蜂谷であったが、今村家の養子となって今村姓を名のった。この養子縁組は兵役を逃れるためであった。1884年に上京し、伴正臣大審院(現最高裁判所)判事の玄関番をしながら、1886年に専修学校法律科(現専修大学法学部)に入学する。1888年、在学中に代言人試験(現司法試験)に合格して、専修学校を首席で卒業し、1889年から弁護士としての活動を開始した。1894年から1898年に裁判官として任官した後、1954年に没するまで在野法曹として、民事および刑事の多岐にわたる事件を扱い活躍した。
下田 菊太郎(しもだ きくたろう、1866年6月14日(慶応… 下田 菊太郎(しもだ きくたろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日) - 1931年(昭和6年)12月26日)は、日本の建築家。秋田県出身。 アメリカ合衆国の建築設計事務所での勤務後、横浜に建築事務所を開設した。昭和初期の官庁建築等に広く用いられた帝冠様式を初めて提案したことでも知られる。当時の建築界では異色の存在で、自ら「建築界の黒羊」と称した。 1866年、佐竹藩士・下田藤右衛門(幼名、勇助。後に順忠)の次男として、秋田県角館町(現仙北市)に生まれた。1871年(明治4年)一家で秋田市に転居。明治13年(1880年)秋田師範学校中学予備科に入学したが、1882年(明治15年)6月に中途退学して上京、工部大学校入学を志した。
渡辺 昭(わたなべ あきら、慶応2年5月1日(1866年6月… 渡辺 昭(わたなべ あきら、慶応2年5月1日(1866年6月13日) - 1940年(昭和15年)5月5日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)、弁護士。 陸奥国(福島県)田村郡三春町出身。1889年(明治22年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。1891年(明治24年)、弁護士試験に合格し、翌年に京都市で事務所を開いた。1914年(大正3年)には京都弁護士会長に選ばれている。 1903年(明治36年)、京都府会議員、参事会員に選ばれ、翌年には京都市会議員に当選した。市会では1909年(明治42年)に議長に選ばれており、教育や公共事業のために尽力した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13… 藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13日(慶応2年5月1日)- 1935年(昭和10年)9月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 能登国珠洲郡北方村(石川県珠洲郡上戸村字北方を経て現珠洲市)で、医師・藻寄行蔵の五男として生まれた。父から医師となるべく学業の指導を受け、1885年(明治18年)上京して東京大学医学部に入学。20歳頃から星亨に私淑して政界を目ざし、医学部を退学して星の指導を受けた。 1891年(明治24年)に帰郷し上戸村助役に就任。同年7月、珠洲郡会議員に当選し2期在任。同年10月、石川県会議員に選出され2期在任した。1896年(明治29年)北陸新聞社社長に就任し1897年(明治30年)まで在任した。
石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年… 石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年6月12日(慶応2年4月29日)- 1923年(大正12年)12月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 因幡国智頭郡、のちの鳥取県智頭郡智頭村(八頭郡智頭村を経て現智頭町)に生まれる。石谷伝九郎の長男。石谷家は智頭四軒衆と呼ばれた素封家のひとつで、山林経営によって江戸時代の大庄屋から智頭の筆頭地主となった豪家。 慶應義塾を卒業し、家業を継いだ。町会議員、県会議員となって活躍した。 1898年(明治31年)には衆議院議員に初当選し、その後も2回再選された。1903年(明治36年)春、日本美術院長の岡倉天心が智頭町にある豊乗寺の国宝調査に訪れた際、国米泰石の技量の高さを岡倉天心に示したところ、国米泰石は岡倉天心に招かれて日本美術院に入ることとなった。
中村 四郎兵衛(なかむら しろうべえ、1866年6月11日(… 中村 四郎兵衛(なかむら しろうべえ、1866年6月11日(慶応2年4月28日) - 1930年(昭和5年)5月15日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 遠江国豊田郡、のちの静岡県豊田郡井通村(磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。浜松町会議員、同評議員、浜松市会議員、同参事会員、静岡県会議員、同議長を歴任したほか、浜松商業会議所議員、浜松瓦斯常務取締役、静岡県消防組連合会常議員を務めた。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から政友本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日… 神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日(慶応2年4月27日) - 1941年(昭和16年)8月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従三位勲二等功三級。 信濃国水内郡檀田村(長野県長野市)に神頭三太夫の三男として生まれ、1910年(明治43年)分家する。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1912年(大正元年)9月に陸軍歩兵大佐・高知連隊区司令官、1913年(大正2年)8月に歩兵第28連隊長、1916年(大正5年)3月に第3師団参謀長、1917年(大正6年)5月に中支那派遣隊司令官を経て、同年8月に陸軍少将に進級。
浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月… 浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月24日> - 1912年6月1日)は、日本の僧侶、仏教学者。名古屋市天年寺第16世、曹洞宗大学林教授などを歴任。号は打睡庵。 名古屋南鍛冶屋町の浅野束穂の三男に生まれる。1879年、洗月院三世の天珠について得度。それ以来、白鳥鼎三、鷹林冷生に12年間にわたり随侍。1885年、法持寺の天珠の下で立身。1889年、天珠の室に入って嗣法。1891年、永平寺で転衣出世。1893年、天年寺に首先住職した。 1899年、曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。内地留学生となり、京都・浄土宗専門学院長の大鹿感成に倶舎論、唯識、因明などを学ぶ。その後、東大寺戒壇院長老の上田照遍に華厳、天台の講義を受ける。
古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶… 古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶応2年4月17日) - 1922年(大正11年)10月9日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・磯五郎。 筑前国上座郡古毛村(のち福岡県朝倉郡朝倉町、現:朝倉市)で、素封家・先代古林与六の長男として生まれる。中学校を卒業し農業を営む。 耕地整理に尽力し古毛耕地整理委員長を務めた。自由民権を唱え、朝倉村会議員、同村長、朝倉郡会議員、同参事会員、福岡県会議員などを歴任した。その他、福岡県醤油組合支部長、朝倉軌道取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第11区から立憲政友会所属で出馬して当選したが、在任中に死去した。
相沢 菊太郎(あいざわ きくたろう、1866年5月28日(慶… 相沢 菊太郎(あいざわ きくたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1962年(昭和37年)4月26日)は、明治から大正期の日本の政治家、神奈川県高座郡相原村村長。 神奈川県高座郡相原村(現:相模原市相原)に生まれる。1908年(明治41年)より地元相原村の村長となり、横浜鉄道(現:JR横浜線)の橋本駅開設や相模農蚕学校(現:神奈川県立相原高等学校)の誘致に尽力した。 菊太郎は1885年(明治18年)から死の直前までの78年間に渡り日々の生活を記録した日記を残した。昭和時代になり、子の相沢栄久の編集により、1965年4月に「相澤日記」として明治18年から明治25年の記述が刊行された。
宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日… 宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1940年(昭和15年)3月1日)は、日本の実業家、酪農家。北海道で初めて民間によるバターの製造を行ったほか、日本最初の酪農組合「札幌牛乳搾乳業組合」を組織し、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の土台を築いた。これらの業績から「北海道酪農の父」と称されている。 豊後の下毛郡大幡村(現在の大分県中津市)の養蚕家であった武原文平、母ヤスの二男として生まれる。生家に伝わる家系図によれば、当初は仙二郎と命名されたが、戸籍簿に誤って「仙太郎」と記入されてしまい、これが本名となった。後に母方の親戚・宇都宮武平の養嗣子となる。