不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年… 不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年10月4日) - 1919年(大正8年)9月2日)は、日本の農商務・内務官僚。官選佐賀県知事、山口県下関市長。族籍は福岡県士族。 筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士・不破国雄の長男として生まれる。1892年7月、帝国大学法科大学を卒業。同月、農商務試補に任官し参事官室に配属された。 以後、農商務参事官兼農商務大臣秘書官、同省特許局審判官、佐賀県事務官、兵庫県事務官・第一部長兼第三部長、東京府事務官・内務部長などを歴任。 1911年10月、佐賀県知事に就任。1914年6月9日、知事を休職。1917年10月、下関市長に就任。
中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元… 中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元年10月3日〉 - 1952年〈昭和27年〉7月21日)は、日本の官僚、弁護士、弁理士。第9代特許局長。日本基督教会理事長。化学工業協会会長。族籍は和歌山県士族。 中松克正の二男。1891年(明治24年)帝国大学法科大学英法科(現東京大学法学部)を卒業。農商務省に入る。1907年(明治40年)12月25日から1913年(大正2年)6月13日まで第9代特許局長を務めた。退官後、1914年(大正3年)に弁護士・弁理士登録し、同年7月1日に現在の中村合同特許法律事務所の前身にあたる中松特許法律事務所を開設した。日本共立火災保険取締役を兼ねる。
三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年1… 三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年10月3日) - 1940年(昭和15年)10月27日)は、日本のドイツ哲学者、牧師である。 1865年(慶応元年)、伊予国松山(現・愛媛県松山市)で漢学者・歌原邁の子として生まれた。長じて母方の三並家を継いだ。同郷の正岡子規の母の従弟であり、実家も近所であり、松山中学時代の子規が「五友」の一人に数えるなど共に育った。1880年、松山中学に入学。しかし半年で退学し、県立医学校に入学。1882年夏に東京に出て、9月に本郷原要義塾に入学してドイツ語を学んだ。1983年に獨逸学協会学校に入学。ドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーに感化され、影響を受けた。
謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈186… 謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈1865年11月16日〉 - 明治41年〈1908年〉10月29日)は、沖縄の社会運動家、自由民権運動家。帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)卒業。沖縄県初の農学士。東風平村(現:八重瀬町)出身。 東風平間切(現在の八重瀬町)の農家の出身。1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、学習院中等科に入学。中江兆民の教えを受ける。1885年(明治18年)から東京山林学校で学び、1891年(明治24年)に帝国大学農科大学を卒業。沖縄初の農学士となった。 卒業後、鹿児島県等の県外出身者が多数を占めていた沖縄県庁に技師として入り、沖縄の農政改革に務める。
木下 宇三郎(きのした うさぶろう、1865年11月15日〈… 木下 宇三郎(きのした うさぶろう、1865年11月15日〈慶応元年9月27日〉- 1946年〈昭和21年〉1月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 肥後国菊池郡、現在の熊本県菊池市で木下居中の長男として生まれ、1903年(明治36年)1月に家督を相続した。 1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校旧9期を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(11期)に入学したが、日清戦争勃発のため退学し出征。1896年(明治29年)2月に復学し、1897年(明治30年)12月に卒業し参謀本部に配属された。日露戦争では第1軍作戦参謀として出征し、満洲軍が創設されると帰国し大本営陸軍部参謀を務めた。
清水 市太郎(しみず いちたろう、1865年11月14日〈慶… 清水 市太郎(しみず いちたろう、1865年11月14日〈慶応元年9月26日〉- 1934年〈昭和9年〉12月19日)は日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、弁護士。 尾張国知多郡鬼崎村(後の愛知県常滑市)出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、イギリスのミドル・テンプルに留学した。帰国後に判事試補、海軍大学校教官、東京帝国大学法科大学講師を歴任し、日清戦争の際には捕獲審検所評定官を務めた。その後は法制局参事官を兼ね、退官後は弁護士を開業。 1899年(明治32年)には小栗富治郎の欧米視察に随伴した。1908年の第10回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後合わせて6期の当選を数えた。
上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応… 上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1946年(昭和21年)11月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士(興譲館教頭)・上泉清次郎の長男として生まれる。私立米沢中学校、攻玉社を経て、1886年12月、海軍兵学校(12期)を卒業し、1888年1月に海軍少尉任官。海軍大学校で丙号学生として学び、「日進」「葛城」「高千穂」の各分隊長、佐世保海兵団分隊長、呉鎮守府参謀、大連湾要港部副官、「龍田」分隊長、「済遠」砲術長などを経て、1897年12月、海大将校科(1期)を卒業し、さらに水雷術練習所で学んだ。 「鎮遠」水雷長、「八重山」副長、「敷島」回航委員・水雷長、「秋津洲」「千代田」の各副長、佐世保海兵団副長、竹敷要港部第2水雷敷設隊司令、「高砂」副長、軍令部副官、兼同第1局員などを歴任。
野村 三四郎(のむら さんしろう、1865年11月13日〈慶… 野村 三四郎(のむら さんしろう、1865年11月13日〈慶應元年9月25日〉- 1933年〈昭和8年〉6月7日)は 明治期の大蔵官僚、田中鉱山の監査役。 現在の茨城県の鹿行地域にあたる常陸国鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝の三男。 第二代・柳川宗左衛門(秀勝)の三男として常陸国鹿島郡若松村(現在の茨城県神栖市若松)に生まれ、後に東京府・野村せいの養子となり野村家を継ぐ。1880年(明治13年)に東京へ出ると、浅草にある小永井五八郎の私塾・濠西塾(濠西精舎)で漢学を学んだ。さらに中央大学の前身である東京法学院に入学するが中退し、1885年(明治18年)より大蔵省預金部に勤める。1893年(明治26年)にこれを辞すと、当時岩手県南閉伊郡釜石町(現在の釜石市)における製鉄業で知られていた田中長兵衛の東京本店に入店し、会計主任を務めた。
吉松 忠敬(よしまつ ちゅうけい、1865年11月13日(慶… 吉松 忠敬(よしまつ ちゅうけい、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1937年(昭和12年)8月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 日向国那珂郡、のちの宮崎県南那珂郡福島町(現串間市)で生まれた。日清戦争に参加し、陸軍砲兵一等軍曹となる。帰国後は林業を営み、南那珂郡福島村長、宮崎県議、同議長を務める。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において宮崎1区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1937年死去。子孫にはジャーナリストの田中耕がいる。
納所 弁次郎(のうしょ べんじろう、慶応元年9月24日(18… 納所 弁次郎(のうしょ べんじろう、慶応元年9月24日(1865年11月12日)- 昭和11年(1936年)5月11日)は、日本の作曲家、音楽教育家。「兎と亀」「おつきさま」「さるかに」「ももたろう」などの童謡や唱歌、日露戦争の事績を謳った軍歌などの作曲者として知られる。 幕臣納所重兵衛の四男、六人兄姉の末っ子として江戸の築地に生まれた。1880年(明治13年)頃、築地の東京一致英和学校(現在の明治学院大学)に入学。1883年(明治16年)2月に音楽取調掛に伝習生として入学。ピアノを鳥居忱、瓜生繁子、ギヨーム・ソーヴレーに、唱歌を上真行に学んだ。またこれ以前にヴィオラをフランツ・エッケルトから習っていたこともある。
橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日… 橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日(慶応元年9月23日) - 1959年(昭和34年)2月14日)は、日本の官僚・実業家。貴族院議員。新潟県長岡市千手町出身。 長岡藩士・橋本弥十郎の長男として生まれる。1884年(明治17年)に長岡学校を卒業、育英団体である長岡社の支援を受けて上京、大学予備門へ進学。1890年(明治23年)、東京帝国大学を卒業して法制局に入り、1893年に枢密院書記官となる。 その後、大蔵省へ移り、欧米出張を経て1905年(明治38年)に横浜税関長、1907年(明治40年)に主計局長、1911年(明治41年)には大蔵次官となる。さらに、1912年(明治42年)12月5日に貴族院議員に勅選され、1946年(昭和21年)まで努めた。
窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年… 窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1946年10月6日)は、日本の内務官僚、法学者、社会事業家。法学博士、行政裁判所長官、枢密顧問官。 岡山藩学師範教授・窪田善之の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業した。内務省に入省し、後藤新平のもとで日本の保健衛生制度の確立に尽力。伝染病予防法、癩予防法などの制定を推進した。医者ではない事務官として初めて衛生局長に就任した。また後藤の影響から、狭義の衛生政策のみならず社会問題・社会政策全般に関心を抱き、社会政策学会が発足するとその会員となった。
四代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、1865年11月… 四代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、1865年11月9日(慶応元年9月21日) - 1912年(大正元年)11月22日)は、落語家。本名:柴田 清五郎。 1865年11月9日(慶応元年9月21日)、本所柳原(現在の東京都墨田区江東橋近辺)の生まれ、父は江戸幕府の御家人。元の名字は桑原で、養子になり柴田になったと思われる。近所に義理の姉婿であった四代目橘家圓太郎が住んでおり、叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになった。 1872年に7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二ツ目昇進し、二代目三遊亭圓好に改名。このころから四代目三遊亭圓橘の助言で素噺に転向するが、周囲の評判が悪く廃業。
関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1… 関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1年9月19日)- 1939年(昭和14年)8月25日)は、日本の外科医、医史学者である。スクリバ門下十哲の一人で、北海道医学界の中心的存在であった。北海道医師会、札幌医師会の初代会長。『卵巣腫瘍ノ臨床上知見及外科的療法ノ追加』で医学博士(東京帝大)。 戦国時代末期は蒲生家に仕え、江戸時代中期に会津松平家家臣となる。曽祖父は北方警備で利尻島に赴き現地で病没(28歳)。祖父は戊辰戦争時に敢死隊指図役として若松城下で討死にした(62歳)。父の忠武は朱雀隊士で、斗南藩権少属を経て、青森県に採用され県の東京出張所員として上京。のち内務省官吏となる。
松本 亦太郎(まつもと またたろう、1865年11月3日(慶… 松本 亦太郎(まつもと またたろう、1865年11月3日(慶応元年9月15日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の心理学者。旧姓は飯野、1879年松本家の養子となる。
広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶… 広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶応元年9月12日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月16日)は、日本の囲碁棋士。方円社5代目社長、八段。 美作国苫田郡東苫田村(現・岡山県津山市)の農家に生まれる。幼時から学問に秀でており、12、3歳頃に父、兄の影響で碁を覚えてたちまち周りの者を上回る。兄弟が多く家が貧しかったため、17歳で大阪に出て地方新聞編集の職に就き、20歳で東京で農商務省に勤務し、女流棋士伊藤繁に付いて碁を学ぶ。1891年(明治24年)、26歳で囲碁専業に身を投じて方円社に入り、翌92年に初段を許された。1893年二段、1895年三段、1898年四段。方円社では『囲碁新報』『初学独習新報』など雑誌執筆、発行に務めて文才も謳われ、巌崎健造社長の元では副社長格として腕をふるった。
三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年1… 三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の国史学者。貴族院帝国学士院会員議員、文学博士。 播磨国神東郡御立村の漢方医・幸田貞助の三男として生まれ、1875年に砥堀村で寺子屋を開いていた元姫路藩江戸詰藩士(足軽)・三上勝明の養子となる。養父は地元の小学校の校長を務めたのち、姫路市街に移り砂糖・乾物を商う「三上屋」に転じた。 その後旧制姫路中学校に進学するが、本科3年終了後、学校側の対応に不満を持ち自主退学。小学校の代用教員となったが、養父の希望で農学校進学のため上京し、本郷元町にあった進学予備校「進文学舎」を経て1881年に東京大学予備門入学、教師の勧めもあり入学先学部を農学から史学に変更し、1885年東京帝国大学文学部入学。
和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年1… 和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 昭和12年(1937年)8月20日)は、日本の歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。位階勲等は従三位勲二等。 備後国沼隈郡鞆町(現在の広島県福山市)にて和田五平・イトの二男として出生。1872年、母の生家に託せられ、照蓮寺の三宅某について習字読書を始める。1873年、備後国深津郡新涯小学校に通学し、櫛野瀬平に学ぶ。1874年、医師内海卓爾について習字読書を学ぶ。1878年、玉井正幹について漢籍を学ぶ。1880年、福山師範学校を受験、不合格。以来、宗家の家事を手伝いながら会計を掌り、もっぱら史書を読む。1884年、帝国大学文科大学古典講究科入学。
當り矢 信太郎(あたりや のぶたろう、慶應元年9月10日(1… 當り矢 信太郎(あたりや のぶたろう、慶應元年9月10日(1865年10月29日) - 1923年9月1日)は、下野国安蘇郡(現在の栃木県佐野市)出身で春日山部屋に所属した力士。本名は山口 信太郎(やまぐち のぶたろう)。身長160cm・体重92kg。最高位は東前頭4枚目(1898年1月場所)。得意手は右四つ、寄り、突っ張り。 「免鳥車」と言う水車小屋を営んだ農家の長男で、地元の八幡相撲で活躍した。年齢の割に髪が薄く、常に髷を奴頭に結った。 1889年1月場所に初土俵(幕下)、1894年5月場所に十両昇進。1896年5月場所に新入幕を果たす。小兵ながら右四つと突っ張りの正攻法の取り口で活躍したと伝わる。
西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865… 西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 1889年(明治22年)2月11日)は、日本の不平士族、国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。 長州藩士、西野義一の長男として山口に生まれる。山口黒城塾、山口中学校(現・山口県立山口高等学校)を卒業した後、三浦梧楼を頼って上京するが職が見つからず、一旦帰郷して山口県庁に就職した。東京では講道館に通い、本田増次郎の教え子だった。1886年(明治19年)、県庁を退職して再び上京し、山口黒城塾時代からの友人・玉井喜作が開いた私塾「東京速成学館」で総務と漢文教師を務める。しかし、東京速成学館はドイツ語を主に教える学校であり、その学生は西洋志向が強い者が多かったため、国粋主義思想が強い西野は生徒からの評判が悪く、まもなく西野は退職して内務省土木局に務めることとなった。
石塚 譲(いしづか ゆずる、慶応元年9月9日(1865年10… 石塚 譲(いしづか ゆずる、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 昭和6年(1931年)3月19日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 名古屋出身。1888年(明治21年)、英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。1892年(明治25年)、弁護士となり、山田喜之助の事務所で勤務の後、独立開業した。1900年(明治33年)に新潟県高田町(現在の上越市)に事務所を開いた。 高田町会議員、高田市会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)で当選を果たした。
野副 重一(のぞえ じゅういち、1865年10月28日(慶応… 野副 重一(のぞえ じゅういち、1865年10月28日(慶応元年9月9日) - 1927年(昭和2年)3月28日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国高来郡諫早村(現在の長崎県諫早市)に木下助内の三男として生まれ、1882年(明治15年)に野副弥惣左衛門の養子となった。1892年(明治25年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、仙台市で弁護士事務所を開業した。 仙台市会議員、同議長を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に当選した。 蔵王町立宮小学校には水難事故に遭った教え子を救おうとして殉職した小野さつき訓導への弔辞が展示されている。
永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9… 永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の裁判官、内務官僚、歴史家。官選宮崎県知事、門司市長、福岡県八幡市長、福井市長。 越前国足羽郡福井豊島中町(現福井県福井市豊島)出身。福井藩士・永井清也の長男として生まれ、永井熊之助の養子となる。1890年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、判事試補に任官し千葉始審裁判所詰となる。 以後、千葉区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任。1894年12月、内務省に転じ長野県参事官に就任。以後、同県内務部第二課長・第三課長兼務、同内務部第一課長兼第二課長、群馬県警部長、群馬県書記官、北海道庁事務官・財務部長、同兼土木部長、同植民部長、静岡県書記官、兵庫県書記官、同事務官・第一部長、兵庫県立蚕業学校長事務取扱などを歴任。
吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27… 吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1943年(昭和18年)3月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。子は歌人・衆議院議員の吉植庄亮。義弟に弘前高等学校校長を務めた鈴木信太郎がいる。 下総国印旛郡、のちの千葉県印旛郡埜原村(本埜村を経て現印西市)出身。北海道に渡り開墾に従事したが、北海道時事新聞社を興し、社長に就任した。やがて他の新聞との合併で北海タイムス新聞社が成立すると、理事を務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は9回を数えた。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明・木村政次郎・関和知・津田毅一・鵜沢宇八・柏原文太郎・磯野敬・加瀬禧逸・土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し、同月に実施された再選挙で当選した。
小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月… 小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月26日)- 昭和17年(1942年)1月16日)は明治・大正期の外交官で退官後は著述家として活躍した。号は霞南。 陸奥国会津地方(福島県)出身。鹿目政恒の長男で、会津藩士・小松光明の養子として絶家を再興する。慶應義塾を卒業後、米国に留学し、政治学をまなんだ。留学期間は8年に及びエール大学で法学士、プリンストン大学でマスターオブアーツを取得。帰国後は明治学院教授を短期間務めたのち外務省にはいり、駐米日本公使館の書記官や朝鮮総督府の外務部長などを歴任した。日露戦争では遼東守備軍司令部付であった。1916年(大正5年)総督府中枢院書記官長を最後に退官、その後は著述家として活動した。
左近 義弼(さこん よしすけ、慶応元年9月5日(1865年1… 左近 義弼(さこん よしすけ、慶応元年9月5日(1865年10月24日) - 昭和19年(1944年)9月1日)は、日本の聖書学者、聖書翻訳者。青山学院の教授(1907年-1937年)。子としては、東京神学大学名誉教授左近義慈、『落城日記』などの著者・左近義親、医師の左近さくらがいる。東京神学大学元学長左近淑は義理の孫。 越前国敦賀に近い杉津出身の農家に生まれる。父・左近孫太夫、母・そうの三男。姉・さき、兄・孫太夫、次兄・中蔵。 1877年に小学校・尋常科を卒業。父の農作業を手伝いながら、向学心に燃えて福沢諭吉の『世界国尽』や『学問のススメ』を読みふける。 1880年には、小学校教師に就任。1882年福沢諭吉の元で学ぶため上京して、翌年、慶應義塾で学び、1884年からは時事新報社で働きながら学業を続ける。
井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元… 井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元治元年10月21日)- 1932年(昭和7年)12月12日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 出羽国由利郡、後の本荘町(現由利本荘市)で井出章造の長男として生まれる。1891年、帝国大学法科大学法律学科を卒業。 司法省に入省し、司法官試補、東京地方裁判所検事を歴任。1896年、逓信省に転じ、鉄道事務官、逓信省書記官・通信局鉄道船舶課長、鉄道院参事、同理事、同北海道鉄道管理局長を務め、1915年に退官。1919年、鉄道院神戸鉄道管理局長として復帰し、東京鉄道管理局長に異動。1920年、鉄道省が発足すると監督局長に就任し1923年まで在任した。
菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年… 菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年11月19日) - 昭和17年(1942年)9月30日)は、日本の教育者。 岩手県紫波郡紫波町出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1896年(明治29年)、陸軍教授となり、1898年(明治31年)に第一高等学校教授に転じた。1919年(大正8年)、第一高 等学校校長に就任し、1924年(大正13年)に退官した。 退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、1931年(昭和6年)に第一高等学校名誉教授の称号を受けた。
菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10… 菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10月18日) - 1943年(昭和18年)11月13日)は、明治-昭和前期の日本のドイツ語学者・書家。号は無為、白雲、陵雲。夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授としても知られた。芥川龍之介から尊敬され、芥川の処女刊行本『羅生門』の題字の揮毫をした挿話も有名である。 筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた。1880年(明治13年)、17歳の時上京し、1891年(明治24年)日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を卒業する。卒業後、教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任。
渡辺 勘十郎(わたなべ かんじゅうろう、元治元年10月17日… 渡辺 勘十郎(わたなべ かんじゅうろう、元治元年10月17日(1864年11月16日) - 大正15年(1926年)10月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。星亨の門下。 豊前国宇佐郡柳ヶ浦村(現在の大分県宇佐市)に今井紋平の四男として生まれ、渡辺久太郎の養子となった。星亨の書生を経て、1889年(明治22年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業し、渡米。サンフランシスコで日本人愛国同盟を組織し、帰国後に殖民協会を設立し、移民事業に従事した。1900年(明治33年)に自由通信社を組織し、1902年(明治35年)には赤坂区会議員に選出された。1905年(明治38年)、東京市助役に就任した。
田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治… 田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治元年10月15日〉- 1940年〈昭和15年〉12月6日)は、明治から昭和初期の農商務官僚・政治家である。衆議院議員。文部大臣。族籍は秋田県士族。 出羽国楢山(のち秋田県秋田市)出身。田中隆世の長男。秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、大学予備門、1889年(明治22年)7月に帝国大学法科大学卒業。農商務省鉱山局長・農商務次官を経て、その後実業界に入り秋田鉱山専門学校(現:秋田大学工学資源学部)の設立に尽力した。ついで政界に転じ、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙で当選した。濱口内閣・第2次若槻内閣で文部大臣を務め、議員を7期務めて1932年(昭和7年)に引退した。
成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元… 成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元年10月14日)- 1916年(大正5年)1月18日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福岡県山門郡小川村長。号・的山(てきざん)。金山王と称された。 筑後国山門郡、のちの福岡県山門郡小川村 (瀬高町を経て現みやま市)で生まれた。柳川藩儒者・西田麗川に師事し漢学を修めた。1887年(明治20年)慶應義塾に入塾したが、1888年(明治21年)病のため中退して帰郷した。 1890年(明治23年)小川村会議員に選出され、九州改進党の結成に尽力した。政治活動資金を捻出するため炭坑、金山の経営に乗り出したが失敗し財産を失うが、小川村長、山門郡会議員、福岡県会議員、瀬高銀行取締役などを務めた。
浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月1… 浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月10日(元治元年10月11日)- 1937年(昭和12年)3月2日)は、明治から昭和初期の医師、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。旧姓は池田。 日向国諸県郡、のちの宮崎県東諸県郡倉岡村(現宮崎市)で、池田政順の二男として生れ、薩摩藩郷士・浜田戸太の養子となる。宮崎学校で中等教育を修め、高鍋の城竹窓に師事し漢学を修めた。1884年(明治17年)鹿児島県立医学校(のち県立鹿児島医科大学、現鹿児島大学)を卒業。上京して高木兼寛に医学を学び、1887年(明治20年)3月、医術開業免許を取得した。 その後、宮崎町(現宮崎市)で医院を開業。1896年(明治29年)伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)講習科を卒業。
吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(18… 吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(1864年11月10日) - 昭和19年(1944年)9月3日)は、山梨県出身の医師。 甲斐国山梨郡徳条村(現・笛吹市春日居町)に、医家であった父・応治の長男として生まれる。明治12年(1879年)に山梨県立医学校に入学し、明治16年(1883年)3月に徽典館医学科(山梨県立医学校から改名)を卒業後、東京に出て田代基徳について医学を修め済生学舎に通学し、明治20年(1887年)4月に医師開業免状を受け東八代郡石和村に医院を開業。明治21年(1888年)3月には西山梨郡甲運村(現・甲府市)に移転、その後、明治23年(1990年)に東山梨郡岡部村、明治30年代に生春医院の名称で石和村、明治40年(1907年)に甲府市富士川町に移転している。
発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元… 発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元年10月5日〉- 1936年〈昭和11年〉2月28日)は、日本の教育者、実業家、社会事業家。埼玉・笠幡村の大地主・発智家の27代目当主で埼玉県多額納税者。黒須銀行頭取、霞ヶ関村村長、埼玉育児院院長のほか、武州銀行(黒須銀行後身)、武州貯蓄銀行、日米生糸の役員などを務め、霞ヶ関カンツリー倶楽部の創設者でもある。 埼玉の黒須村(現入間市)で代々名主役を務めた豪農商・繁田家の12代繁田武平(満義)の長男・亀太郎として生まれ、親戚の発智家の養嗣子となり、埼玉県師範学校高等師範科卒業後、黒須高等小学校を設立し校長となる。 日本弘道会の西村茂樹の講演に触発されて、弟の13代繁田武平(翠軒)と同会の支部と黒須信用組合を1894年に設立、1898年には霞が関村支部も設立して西村の唱える「道徳と経済」の調和と活性化を図り、弘道会の全国集会では「農民の道徳」と題した演説も行なった。
井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日(1864… 井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日(1864年11月3日) – 昭和31年(1956年)6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)や秋田市長(第6代)を務めた。 久保田藩士小貫久之進の二男で、井上福治の養子となった (秋田市手形新町上丁住)。漢学を学んだ後、上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学した。1886年(明治19年)に卒業した後は、秋田魁新報社に入社し、やがて主筆、さらに社長に就任した。 1892年(明治25年)、秋田市会議員に当選した。市参事会員、市会議長を歴任し、また県会議員、県参事会員、県会議長にも就任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治… 横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治元年9月28日) - 1945年(昭和20年)6月26日)は、明治・大正・昭和期の建築家・実業家。横河グループ創業者。日本の鉄骨建築の先駆者。アメリカの雑誌で鉄骨構造を知る。 播磨国加古郡東二見村(現・兵庫県明石市二見町東二見)で、蘭方医・横河安鼎の四男として生まれる。 帝国大学工科大学造家学科で建築学を学ぶ。1889年(明治22年)7月に卒業。卒業同期には葛西万司、宗兵蔵らがいる。卒業設計では東京の町屋を取り上げ、論文で町屋の生活改善と建物の耐震耐火性の向上をテーマとした。その後、下町の二階建ての土蔵造や煉瓦造をどうしたら簡便に耐震化できるかを考え、1891年に著書『地震』を刊行した。
草鹿 甲子太郎(くさか きしたろう、1864年10月26日(… 草鹿 甲子太郎(くさか きしたろう、1864年10月26日(元治元年9月26日) - 1927年(昭和2年)6月26日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。 大聖寺藩士(藩医。禄高:150石)・草鹿泰仲の長男として、加賀国江沼郡大聖寺仲町(大聖寺町を経て、現加賀市大聖寺仲町)に生まれる。1898年(明治31年)家督を相続する。 1876年(明治9年)上京し、伯父で元富山始審裁判所検事正の草鹿換の家に寄寓する。翌年、東京外国語学校に入りフランス語を学び、三島中洲に師事し漢学を修めた。ほか、中江篤介の仏語塾にも入り、1882年(明治15年)7月、東京外国語学校仏語科を卒業する。卒業後、法学に目覚め、司法省法学校を経て、帝国大学に入り、1888年(明治21年)7月、同大法科大学法律学科仏蘭西部を卒業し法学士となった。
河合 操(かわい みさお、1864年10月26日〈元治元年9… 河合 操(かわい みさお、1864年10月26日〈元治元年9月26日〉- 1941年〈昭和16年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 杵築藩士、河合盛益の二男として生れる。1879年(明治12年)11月、陸軍教導団に入り工兵軍曹を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。台湾総督府参謀として1895年(明治28年)8月から1897年(明治30年)2月まで台湾に出征した。その後、陸大教官、ドイツ駐在、大本営参謀などを歴任。 日露戦争では、満州軍参謀として出征し、遼陽会戦後に第4軍参謀、さらに第3軍参謀副長となった。
北島 伝四郎(傳四郎、きたしま でんしろう、1863年11月… 北島 伝四郎(傳四郎、きたしま でんしろう、1863年11月22日(文久3年10月12日)- 1924年(大正13年)9月16日)は、明治から大正期の裁判官、弁護士、地主、政治家。衆議院議員。本姓・北嶋。 出羽国秋田郡浦大町村字里ケ久(秋田県秋田郡浦大町村、南秋田郡浦大町村、面潟村浦大町を経て現八郎潟町浦大町)で、地主、素封家・北島吉右衛門の二男として生まれた。宇野弥三郎、谷田部吉次に師事し和漢学、英語を修めた。1886年(明治19年)上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学び、1889年(明治22年)9月に卒業。 1889年12月27日、判事試補に任官し弘前始審裁判所詰となる。以後、弘前区裁判所判事兼青森地方裁判所判事、秋田区裁判所監督、本荘区裁判所監督、大曲区裁判所監督、沼津区裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任。
小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文… 小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文久3年10月12日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。日本工業常務取締役。旧姓・芦田。 京都府何鹿郡綾部町(現・綾部市)、芦田信治の次男。小室静三の養子となる。静三の長女べんと結婚する。後に本籍を宮津町字魚屋に移す。20歳の頃に京都日報に入り、編輯課に従事する。宮津町へ移転と同時に丹州汽船会社に入り支配人となり、1892年2月に辞職。 1887年3月、大阪控訴院で公証人登用試験に合格、また与謝郡郡会議員に当選、任期満了により退職する。1892年4月に司法省より公証人を命じられ、1904年4月に願いにより職を免ぜられる。 1904年、支那杭州で武林洋行を設立し、大阪店主任となる。
上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、18… 上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、1863年11月17日〈文久3年10月7日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月18日)は、日本の実業家、政治家、資産家、神奈川県多額納税者。 貴族院議員、神奈川県会議長、横浜市会議員。横浜中央銀行、上信銀行各頭取。横浜信託社長。族籍は神奈川県平民。 武蔵国橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田三郎兵衛の弟で、磯野庸幸、上郎新二の兄。生家の吉田家は屋号を「堀上(ほりあげ)」といい、天保年間より醤油の醸造をしていた。1893年、上郎幸八の女婿となる。1905年、分家して一家を創立する。 東京大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
松尾 富功禄(まつお ほくろく、1863年11月16日(文久… 松尾 富功禄(まつお ほくろく、1863年11月16日(文久3年10月6日) - 1930年(昭和5年)3月10日)は、日本の政治家。高知市長。 土佐国香美郡山田野地村(のち山田町→土佐山田町、現在の香美市)に生まれる。寺子屋で学び、下等小学校を卒業。漢学塾で学ぶ。香美郡役所に入り、筆生となる。山田駅逓局四等郵便局取扱役、三等郵便局長、香美郡会議員、同議長となる。1893年(明治26年)山田野地村に就任し、1921年(大正10年)まで務めた。この間、山田野地村は1896年(明治29年)山田町となり、同町長となった。ほか、高知県会議員となり、のちに議長となった。 1921年高知市長に就任。在任中に高知市が都市計画法の適用を受け、都市計画地方委員会が結成された。
宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863… 宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863年11月14日〉 - 1945年〈昭和20年〉2月18日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の弁護士、政治家である。政界では長野県会議員・長野市会議員や衆議院議員(当選1回)を歴任し、他に実業界で長野新聞初代社長を務めた。 文久3年10月4日(新暦:1863年11月14日)、信濃国更級郡今里村(現在の長野県長野市)に生まれる。村の小学校を卒業したのち高井鴻山の高矣義塾で漢学を修める。1881年(明治14年)には長野県師範学校に入学するも年内に退学し、翌年より明治法律学校(明治大学の前身)法律学科に入学、1884年(明治17年)に卒業した。
山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日〈186… 山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日〈1863年11月9日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月24日)は、近代日本の書家。名は由定。竟山、聾鳳と号した。美濃国厚見郡岐阜町(現在の岐阜県岐阜市)の出身。 書は日下部鳴鶴に師事した。明治35年(1902年)楊守敬を慕って清国(現在の中国)に渡り書法を学んだ。以後中国に遊学すること7回に及んだ。そこで楊守敬のほか呉昌碩、顧麟士らと交流して書学を研鑽し、多数の法帖碑版を日本へもたらした。明治時代の末には京都へ転居し多くの子弟を教育して関西の書壇に新風を吹き込んだ。学書の基本をいつも古典の臨書においていた人であり、個性を尊び、創造性と自主性のある書を書くことを心がけたという。
一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(18… 一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(1863年11月6日) - 昭和4年(1929年)11月5日)は、日本の実業家。河北新報社創業者(社主)。旧姓鈴木。宮城県平民。 河北新報元社長の一力次郎の父。元河北新報社社主の一力一夫の祖父。河北新報社社長の一力雅彦の曾祖父。囲碁棋士の一力遼の高祖父。 太町の唐物商の鈴木作兵衛の四男として生まれた。後に隣家の茶商である一力松治郎の養子となる。東華学校、第二高等中学校を卒業後、上京。国民英学会にて学ぶ。また、第二高等中学在学中には、くまじ夫人との間にすでに、一男一女をもうけていた。 仙台での書店経営で実業界入りし、植林会社(宮城植林株式会社)を興し創業。
飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年… 飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年11月2日) - 昭和6年(1931年)7月26日)は明治時代から昭和時代初期の日本の実業家。第十九国立銀行頭取。号は花月。 信濃国小県郡上田城下(現長野県上田市)の和泉家に生まれ、のち飯島家の養子となった。小学校を卒業して三等郵便局長となる。一時政治に関心を持ち、立憲改進党系の結社・己丑倶楽部に入って活躍。明治29年(1896年)小県郡上田町の収入役、明治32年(1899年)小県郡会議員となる。一方、諏訪倉庫や上田倉庫の取締役、上田商業会議所会頭などを歴任して経済界に腕を振るう。 大正8年(1919年)第十九国立銀行頭取に就任、昭和恐慌に際し、松代の第六十三国立銀行との合併による八十二銀行の創立に奔走したが、合併直前に腸チフスで急逝した。
後藤 猛太郎(ごとう たけたろう、1863年10月30日(文… 後藤 猛太郎(ごとう たけたろう、1863年10月30日(文久3年9月18日) - 1913年(大正2年)12月4日)は、明治時代、日本で初めて南洋群島を探検した人物。日本活動フィルム会社(日活の前身)の初代社長。後藤象二郎の二男。貴族院議員。伯爵。「天下のならず者」と自称していた。 1863年(文久3年)、土佐藩士(上士・馬廻格)後藤象二郎の二男として、高知城下に生まれる。母は寺田剛正(左右馬)の二女(磯子)。象二郎の長男の後藤貞馬が夭逝した為、猛太郎は、事実上の長男として育てられた。 1870年(明治3年)、8歳より外国人宅に出入りして外国語を学ぶ。オランダへ留学するが、放蕩して多額の借金を負ったことなどから、1888年(明治21年)6月、父・象二郎から廃嫡・分籍を受け、佐藤の姓を名乗らされた。
須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈… 須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈文久3年9月18日〉- 1937年〈昭和12年〉4月10日)は、明治から昭和初期の畜産家、実業家、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡本荘町長。幼名・広太郎。雅号・寿堂、松園。生涯、馬産改良に尽力した。 出羽国由利郡本荘中町(秋田県由利郡本荘町、本荘市を経て現由利本荘市中町)で、大地主・須藤善太郎、ナオの長男として生まれた。長安寺の寺子屋、本荘藩藩校を経て、1877年(明治10年)小学校を卒業した。以後、自宅に招いた教師から歴史、漢学、英語を修めた。1879年(明治12年)9月、父が死去して家督を相続し善一郎に改名した。1880年(明治13年)ころに同志を募って夜学講習会を立上げ会長に就任した。
堀内 文次郎(ほりうち ぶんじろう、文久3年9月17日(18… 堀内 文次郎(ほりうち ぶんじろう、文久3年9月17日(1863年10月29日) - 1942年(昭和17年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧7期。栄典は従四位勲二等功二級。最終階級は陸軍中将。