柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1962年〈昭和37年〉12月16日)は、大阪府出身の男子テニス選手。1920年のアントワープ五輪において、テニスの男子ダブルスで熊谷一弥とペアを組み、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手として知られている。 1892年、大阪府に生まれる。旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、1913年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。後にテニスの国際舞台でも活躍した清水善造は、柏尾と同じ東京高等商業学校庭球部のライバルであった。 大学卒業後三井物産に入社し、上海、ニューヨーク、リヨンの駐在員として働いたのち、横浜支店生糸部総務掛として勤務。
松平 康春(まつだいら やすはる、1892年〈明治25年〉1… 松平 康春(まつだいら やすはる、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉3月18日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・正二郎。 旧津山藩主家当主、子爵・松平康民の二男として生まれる。1917年(大正6年)1月29日、康春と改名。父の死去に伴い、1921年(大正10年)3月22日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学理学部植物学科を卒業。朝鮮銀行監事を務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月25日に辞任するまで3期在任した。この間、地方制度調査会委員、商工省委員、農商省委員を務めた。
庄司 一郎(しょうじ いちろう、1892年(明治25年)1月… 庄司 一郎(しょうじ いちろう、1892年(明治25年)1月1日 - 1964年(昭和39年)8月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会→日本自由党→民主自由党→自由党)。厚生政務次官。宮城県柴田郡大河原町長。 宮城県伊具郡角田町(現角田市)出身。庄司房治の次男。東北学院で学び、中退した。『仙台日日新聞』『東北新聞』記者、『仙南新聞』主幹を務めた。後に仙南日日新聞社、雑誌『新東北』を創刊し、社長に就任した。また大河原町会議員、宮城県会議員、大河原町長などを歴任した。 1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選した。以来当選6回。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。
阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年〈明治25年… 阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月19日)は、日本の部落解放運動家、社会運動家、政治家。全国水平社創設者の1人。「水平社」「糺弾」の名称の考案者。 奈良県南葛城郡掖上村柏原(現在の御所市)出身。清三郎の次男。生家は被差別部落のなかでも裕福な地主で、膠製造業を営む。 御所高等小学校をへて1907年に奈良市立商業学校に入学、廃校のため大阪市の成器商業学校に転じて卒業する。1909年、柏原に青年共和団を組織して部落の生活改善につとめる。 家業の膠製造技術の向上を図るために必要な化学を学ぶため、上京して東京工科学校(現・日本工業大学)に遊学する。
秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12… 秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12月30日 - 1944年(昭和19年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵42期。太平洋戦争におけるクェゼリンの戦いで司令官として戦死した。死後特進により最終階級は海軍中将。 香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)出身。農家の秋山清五郎、イセの五男として生まれる。 中農だったが、厳しい家庭で、当時は機械化されておらず秋山も小さい頃から農業を手伝い、海兵時代も休暇の度に帰宅して農作業をしていた。 旧制香川県立三豊中学校(第7回)を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)9月11日海軍兵学校(第42期)に入校。
杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12… 杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12月28日 - 1938年(昭和13年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県米子市立町の農家に生まれた。父梅蔵は糺山のあたりで百姓をしていたという。 米子中学(現在の米子東高校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。さらに中尉のとき、陸軍大学校(32期)に入校。同校を優等で卒業、恩賜の軍刀組であった。アメリカ駐在を経験している。 少壮気鋭の尉官時代、皇族李王家の御付武官をつとめた。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し、朝鮮軍隷下第20師団参謀長に任命される。
石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 -… 石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 - 1974年5月25日)は、日本の歴史学者、東洋学者。國學院大學や大正大学、日本大学などで教授をつとめた。芥川龍之介とは、一高同級生の友人だった。
小林 壬(こばやし おおい、1891年12月28日 - 19… 小林 壬(こばやし おおい、1891年12月28日 - 1985年12月31日)は、日本の経営者。広島県出身。 1913年に東北帝国大学専門部機械工学科を卒業し、同年4月に高田商会に入社。1920年9月に高砂熱学工業に転じ、1937年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1955年7月には社長に就任。1968年6月から会長を務めた。 1958年11月に黄綬褒章を受章し、1966年4月に勲五等瑞宝章を受章。
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉1… 堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。 1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。 1910年(明治43年)、旧制京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)を卒業。西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。 1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。 1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
水谷 秀雄(みずたに ひでお、1891年(明治24年)12月… 水谷 秀雄(みずたに ひでお、1891年(明治24年)12月24日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 愛知県出身。1915年(大正4年)、広島高等師範学校英語科を卒業。1921年(大正10年)、高等試験行政科に合格し、翌年に京都帝国大学法学部法律科を卒業した。内務属、山形県置賜郡長、同産業課長、同庶務課長、長野県蚕糸課長、関東庁事務官、内務局地方課長、長官官房調査課長、同文書課長代理、警務局高等警察課長、同文書課長、関東局専売局長・大連民政署長を歴任。1935年(昭和10年)、群馬県書記官・学務部長となり、宮城県学務部長、福岡県学務部長、長野県総務部長を歴任した。 1941年(昭和16年)に退官した後、住宅営団参事・名古屋支所長を務めた。
清家 正(せいけ ただし、1891年12月23日 - 197… 清家 正(せいけ ただし、1891年12月23日 - 1974年11月19日)は、日本の教育者および機械設計製図の研究で知られる機械工学者である。愛媛県出身。 建築家で東京工業大学教授兼東京藝術大学教授を務めた清家清の父。労働経済学者で慶應義塾塾長や日本私立大学連盟会長を歴任した清家篤は孫。 1914年 東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業後、芝浦製作所(現東芝)に入社。その後、自ら起業したり、他の企業に勤めたりした後、1923年、神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)教授となる。1935年、東京府立電機工業学校校長となり、後に府立工業専門学校校長を併任し、1951年まで歴任。1949年、東京都立大学工学部長。
三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月2… 三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月22日 - 1945年〈昭和20年〉11月28日)は、日本の彫刻家。高村光雲の高弟である山本瑞雲の内弟子となる。第十回文展入選以来十二回まで続けて入選、第六回帝展で「不動」が特選となり以後無鑑査を経て1932年〈昭和7年〉帝展審査員となる。新しい造形精神に立脚した伝統木彫の確立に努めた。 三木宗策は福島県郡山市で、表装を生業とする三木宗次郎、ハルの二男として生まれた。明治29年(1896年)金透尋常小学校に入学、成績優秀で毎年のように級長を務め中学校進学を希望したが、父の同意が得られなかった。三木家の菩提寺である善導寺には阿弥陀如来像が座しており、幕末の戊辰戦争と明治期の火災で本堂が焼けた際に、本尊も損傷を受けておりその修復のために、山本瑞雲がおとずれていた。
中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 197… 中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 1976年10月11日)は、日本の政治家。位階は従三位。 日本初の女性閣僚(厚生大臣)。衆議院議員などを歴任。中山太郎(元衆議院議員)は長男、中山正暉(元衆議院議員)は四男。中山讓治(実業家)と中山泰秀(衆議院議員)は孫。 長崎県長崎市にアメリカ人の父ロドニー・H・パワーズ(Rodney H. Powers)と日本人の母、飯田ナカの一人娘として生まれた。 地元の活水高等女学校を卒業して、1911年にアメリカに渡り、アルバイトをしながら米国オハイオ州のオハイオ・ウェスリアン大学を卒業。帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。
陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年… 陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年10月29日)は、中国の言語学者、修辞学者、教育者。早い時期からの中国共産党員であり、「共産党宣言」を中国語に翻訳した人として知られる。 陳望道は浙江省義烏に生まれ、16歳まで私塾で伝統的な教育を受けた後、近代的な小学校にはいり直し、キリスト教系の之江大学に学んだ。 1915年に日本に留学し、早稲田大学、東洋大学、中央大学で学んだ。中央大学の法学士の学位を得た。早稲田大学では五十嵐力に修辞学を学んだ。 1919年5月に帰国し、杭州の浙江第一師範学校で国文を教えた。この時代には句読点の改良を主張し、新式標点の採用を訴えた。 翌1920年5月には陳独秀の求めに応じて上海に移り、中国共産党の前身であるマルクス主義研究会と共産主義青年団の創立にかかわった。
田中 武雄(たなか たけお、明治24年(1891年)1月17… 田中 武雄(たなか たけお、明治24年(1891年)1月17日 - 昭和41年(1966年)4月30日)は、日本の官僚。三重県出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年〈明治24年〉… 稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年〈明治24年〉1月17日 - 1972年〈昭和47年〉1月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 1891年(明治24年)に群馬県桐生市東久方町で生まれた。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第37期卒業。1935年(昭和10年)に関東軍参謀に就任し、1937年(昭和12年)に陸軍兵器本廠附となり、1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級。12月10日に第106師団参謀長に転じ、日中戦争に出動。南昌作戦で指揮を執った。 1940年(昭和15年)4月17日に留守第6師団参謀長に就任し、12月2日に陸軍少将に進級。1941年(昭和16年)8月1日に北部軍兵務部長、10月21日に駐蒙軍参謀長と歴任し、1942年(昭和17年)に樺太混成旅団長に着任した。
浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15… 浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15日 - 1931年(昭和6年)4月2日)は、朝鮮民芸・陶芸の研究家・評論家。朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した。 父・浅川如作、母・けいの次男として山梨県北巨摩郡甲村五丁田(同郡高根町五町田を経て、現在は北杜市高根町五町田)に生まれる。兄は浅川伯教。1891年(明治24年)には村山西尋常小学校に、1901年(明治34年)には秋田尋常高等学校に入学する。 1906年(明治39年)4月、山梨県立農林学校に入学、この頃に浅川政蔵と知り合う。1907年(明治40年)6月にはメソジスト甲府教会で受洗。1909年(明治42年)4月、秋田県大館営林署に就職。
土田 杏村(つちだ きょうそん、1891年(明治24年)1月… 土田 杏村(つちだ きょうそん、1891年(明治24年)1月15日 - 1934年(昭和9年)4月25日)は、日本の哲学者・評論家。大正・昭和を通じて活動した。画家の土田麦僊は兄。 新潟県佐渡郡(現:佐渡市)の生まれ。本名は茂(つとむ)。1918年7月京都帝国大学文科大学哲学専攻卒業。西田幾多郎に哲学を学ぶ。雑誌「文化」を発刊。社会問題や思想・文化・宗教など多方面にわたって、鋭い主張の論文や著述が多くある。 大正時代を代表する自由主義の評論家で、大正教養主義者の一人。哲学・教育学・経済学・文学など幅広い領域で批評活動を行った。大正自由教育運動の影響を受けて長野県や新潟県で自由大学運動を起こしたりしたが、昭和に入ると国家主義の傾向を強め、上代文学の研究をした。
大谷 武夫(おおたに たけお、1891年(明治24年)1月1… 大谷 武夫(おおたに たけお、1891年(明治24年)1月15日 - 1950年(昭和25年)8月16日)は、日本の水産学者である。 福島県に生まれ、東京帝国大学農科大学(現在の東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)水産学科に入学する。1916年(大正5年)に卒業後は母校で教鞭を執り、1921年(大正10年)には水産講習所(現在の東京海洋大学)に転勤し同じく教授として活動した。 その後は宮崎大学の教授として活動し同時期に魚類の自己消化やその消化酵素、ビタミン、フィッシュミールといった魚類に含まれる様々な成分の研究に携わる。この業績で1928年(昭和3年)に農学博士を取得し、1932年(昭和7年)には日本水産学会の設立にも携わり後に1946年(昭和21年)まで副会長を務めた。
山崎 常吉(やまざき つねきち、1891年(明治24年)1月… 山崎 常吉(やまざき つねきち、1891年(明治24年)1月15日 - 1961年(昭和36年)1月5日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員、ブリキ職人。 高知県香美郡夜須村(現香南市)で生まれ、6歳で両親を失い、小学校を中退し高知市でブリキ屋の小僧として働く。徴兵後に大阪でブリキ職人として働いたが、喧嘩による傷害罪で8ヵ月服役し、その後名古屋に転居した。 1918年米騒動で、同年8月10日、名古屋市鶴舞公園の集会で演説を行い逮捕されたが無罪となり、これをきっかけに労働運動に加わった。名古屋労働者協会に加入し、1922年、名古屋自由労働者組合を結成し組合長に就任。1923年、名古屋麻裏工組合を結成し、麻裏工争議を指導して検挙されたが無罪となった。
森山 ヨネ(もりやま ヨネ、1891年(明治24年)1月14… 森山 ヨネ(もりやま ヨネ、1891年(明治24年)1月14日 - 1990年(平成2年)10月30日)は、政治家、衆議院議員(1期)。 福岡県久留米市出身。福岡女学校を経て奈良女子高等師範学校を卒業する。1927年栄養学を学ぶため文部省の在外研究員として米国のコロンビア大学に留学する。帰国後は鹿児島県立国分高等女学校教諭や三重県と福岡県の女子師範学校の教諭を経て、福岡県女子専門学校教授になる。その後、退職してブラジルに渡り、戦時中の1942年に帰国した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙では福岡県から日本進歩党公認で立候補してトップ当選した。進歩党では渉外連絡部副部長を務めた。翌年の第23回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
矢口 家治(やぐち いえはる、明治24年(1891年)1月1… 矢口 家治(やぐち いえはる、明治24年(1891年)1月14日 - 昭和48年(1973年)4月22日)は、日本の裁判官、弁護士。関西大学第一高等学校の初代校長。第11代最高裁判所長官矢口洪一の父。 矢口次郎太郎の三男。 大正6年(1917年)7月 京都帝国大学法科大学卒業。同年8月司法官試補、京都地方裁判所詰。大正9年(1920年)京都地裁判事に任官。 大正12年(1923年)文部省在外研究員としてドイツ、イギリス、フランス、アメリカに二ヵ年留学。大正14年(1925年)高岡高等商業学校教授。 昭和10年(1935年)弁護士名簿登録。長野地裁、東京控訴院を歴任。 昭和16年(1941年)関西大学専務理事に就任。
鳥海 剛(とりうみ たけし、1891年(明治24年)1月11… 鳥海 剛(とりうみ たけし、1891年(明治24年)1月11日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、拓務官僚。 東京市中野区大和町に生まれる。岩手県立一関中学校を中途退学し、私立横浜英語学校へ入学。ついで正則英語学校分校を経て、1917年(大正6年)7月、中央大学法科専門部を卒業する。 卒業後、明治神宮造営局属外苑課経理課次、社会局属を経て、1929年(昭和4年)6月、拓務省へ転じ、1931年(昭和6年)4月、拓務理事官に進んだ。南米課勤務を経て台湾総督府属理事官に任ぜられ、1936年(昭和11年)4月に嘉義市助役、1937年(昭和12年)11月に台北州七星郡守に就任した。ついで宜蘭市長を経て、1942年(昭和17年)4月、花蓮港市長に就任した。
小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1… 小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)3月9日)は、日本の法学者・弁護士。専門は、刑法・刑事訴訟法・法哲学。学位は、法学博士。東京大学名誉教授。法務省特別顧問。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章者。岩手県盛岡市出身。盛岡小野組の一族である。 仏教の影響を受け、客観主義の法哲学・刑法理論を展開し、大場茂馬以来の後期旧派理論を継承する。戦後の刑法学会に多大な影響を与えた。東京裁判では海軍側被告人の弁護人をつとめた。親鸞に造詣の深い仏教研究者でもあった。 盛岡市で生まれる。盛岡中学校(盛岡一高の前身)卒業後、一高(東京大学教養学部の前身)独法科を首席で卒業。
竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日… 竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)11月7日)は、日本の中国文学者・中国語学者。東京教育大学名誉教授。 山梨県生まれ。父は漢学者・竹田左膳。病弱なため和歌山県で小学校を終え、静岡中学校、1914年第一高等学校卒、1918年東京帝国大学文学部支那文学科卒、大学院入学、1921年から1924年北京に学ぶ。 1925年より第一高等学校教授、東京帝国大学文学部助教授を兼任。1945年に「支那口語文学源流考」で東京帝国大学文学博士を取得。1945年1月、東京文理科大学教授。1948年東京教育大学(現筑波大学)教授、1952年定年退官、東洋大学教授、1958年日本大学教授、1964年大東文化大学教授、1967年名誉教授。
辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日… 辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日 - 1938年(昭和13年)10月17日)は、日本の陸上競技選手、弁護士、政治家。 父は建築家の辰野金吾、兄はフランス文学者の辰野隆。 1891年、東京市赤坂に生まれる。旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。東大在学時の1913年(大正2年)、第1回全国陸上大会において砲丸投げで9m00の記録を打ち立てて優勝する。父・金吾、兄・隆ともども相撲好きで、保はとくに強く、一高時代には出羽海部屋に通っていた。 1917年に東大法学部を卒業後、岩田宙造の法律事務所に入って実務研修する。同年、中山瑞彦の娘千代子と結婚。翌1918年に独立して弁護士を開業し、法律事務および特許関係の仕事に従事する。
阿部 正直(あべ まさなお、1891年〈明治24年〉1月9日… 阿部 正直(あべ まさなお、1891年〈明治24年〉1月9日 - 1966年〈昭和41年〉1月1日)は、日本の理学博士、気象研究所長。伯爵。 父は備後福山藩10代藩主・阿部正桓。弟は農林大臣や日本中央競馬会理事長などを歴任した酒井忠正。姉の貞子は小笠原長幹の妻。 東京生まれ。東京帝国大学理学部卒業後、雲の研究に携わり、1927年御殿場市に阿部雲気流研究所を設立、主に富士山の雲に関する研究を行った。1945年には「山雲及山の気流に関する研究」により、帝国学士院より伯爵鹿島萩麿記念賞を受賞。戦後、中央気象台を経て気象研究所長に就任した。その後は財団法人誠之舎の理事長を務め、また文京区に阿部幼稚園を設立して園長も務めた。
朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1… 朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗の禅僧。臨済宗円覚寺派管長、円覚寺住職。日本を守る会代表委員、スパイ防止法制定促進国民会議呼びかけ人なども務めた。 静岡県清水市(現在の静岡市清水区)出身。鎌倉・円覚寺住職。臨済宗円覚寺派管長。 32歳の時に日本大学宗教専門部(現存しない)卒。京都妙心寺、鎌倉円覚寺で修行。1934年~1942年まで横濱専門学校(現神奈川大学)で倫理学講師を担当、高歯の下駄で鎌倉から通った。その後、駒澤大学教授。 1942年、円覚寺住職。1945年、円覚寺派管長。大戦中は中国や南方で従軍布教をした。
永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 197… 永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 1978年3月8日)は、日本の版画家、画家。茨城県出身。大正初期の時代から昭和にかけて旺盛なる創作活動を続け、版画や油絵により、自分の信ずる「美の世界」を表現するために、様々な手法を試み社会に問い続けた。また、著書「版画を作る人へ」はその後の版画家たちへ影響を与えた。 茨城県西茨城郡北那珂村入野(現在の桜川市)に生まれる。土浦中学時代より絵画に興味を持ち始め、熊岡美彦、矢口達、高田保らと知り合う。1904年に創刊された美術雑誌『みずゑ』に水彩画を応募し、画家になることを本格的に意識し始める。東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科に入学するもすぐに中退。
浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 194… 浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 1944年1月24日)は、日本の元プロ野球監督。 旧制立教中学に在籍し、野球部(立教大学野球部の基礎)を創設。立教大学教授で聖公会の司祭でもあったハーバート・ロイドに技術的指導を受ける。その後早稲田大学商科に進み、二塁手として野球部第9代主将を務める。東京六大学野球連盟の初代首位打者。 その後、東京六大学野球リーグ戦で審判を務める。八十川ボーク事件(1931年(昭和6年)5月18日)で、騒動の発端となるボーク判定を行った試合の球審を務めたのが浅沼であった[リンク切れ][出典無効]。 1922年(大正11年)、第二高等学校(旧制二高)の野球部のコーチをする。
福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月… 福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1945年〈昭和20年〉3月18日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家である。 「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介の長男で、福澤諭吉の孫にあたる。父の電気事業に参加し矢作水力社長などを務めたほか、化学工業を起して東亞合成化学工業(現・東亞合成)初代社長となった。 福澤駒吉は1891年(明治24年)1月5日、福澤桃介(旧姓・岩崎、福澤家に婿入り)の長男として生まれた。母は福澤諭吉次女の房(ふさ)。当時桃介は北海道で炭鉱と鉄道を経営する北海道炭礦鉄道(北炭、後の北海道炭礦汽船)に勤めており、房を連れて札幌へと赴任していたが、出産にあたって東京に帰ったため、駒吉は東京三田の諭吉邸で生まれた。
小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年… 小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1975年〈昭和50年〉3月1日)は、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)出身の実業家・政治家。小野沢興行株式会社会長。島根県議会議員(1期)。息子の小野沢明男は益田市議会議長・益田商工会所会頭。 1891年(明治24年)1月5日、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)に生まれた。父は小野沢勝次郎であり、勝太郎は5人兄弟の長男だった。小野沢家は規模の小さな農家であり、小野沢は小学校に4年間しか通っていない。 16歳の時には家出して東京に出た。まずは専売局の下請け工場に務めたが、新聞配達、牛乳配達、土方人夫と様々な職業を転々とした。
登坂 良作(とさか りょうさく、1891年(明治24年)1月… 登坂 良作(とさか りょうさく、1891年(明治24年)1月4日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、官選函館市長。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)立売町で登坂岩内の四男として生まれる。新潟県立新発田中学校、第二高等学校を経て、1917年4月、東京帝国大学法科大学(英法)を卒業。義兄堤清六が経営する堤商会(後のニチロ)に入って北洋漁業に携わりロシア帝国カムチャツカ州、千島列島に渡航した。 1918年12月、函館区で弁護士を開業。以後、函館市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員、(財) 相馬報恩会理事長、全国人権擁護委員会連合会理事などを務めた。
土屋 耕二(つちや こうじ、1891年(明治24年)1月4日… 土屋 耕二(つちや こうじ、1891年(明治24年)1月4日 - 1947年(昭和22年)10月11日)は、日本の内務官僚。印刷局長。 千葉県夷隅郡長者町(現在のいすみ市)出身。1915年(大正4年)10月、文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。北海道庁理事官、広島県理事官、広島県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長を歴任。 1928年(昭和3年)、内閣印刷局書記官・総務部長に転じ、1936年(昭和11年)には内閣印刷局長に就任した。1943年(昭和18年)に内閣印刷局は大蔵省印刷局に改組されたが、引き続き局長を務めた。退官後は日本銀行監事を務めたが、戦後に公職追放となった。
笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3… 笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3日 - 1974年(昭和49年)11月15日)は、日本の歴史家・郷土史家。徳島県の郷土史研究や各市町村史編纂の基盤確立に大きな役割を果たした。本名は笠井(吉田) 高三郎(かさい(よしだ) たかさぶろう)。 1891年1月3日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平の三男として生まれる。 1909年、早稲田中学校を卒業する。卒業後、水彩画講習所でデッサンの勉強をしていたが、家族の要請により、1910年に脇町に帰郷する。 1913年8月23日、脇町収入役に就任し、『美馬郡郷土誌』編纂のために美馬郡教育会嘱託を兼任する。1915年10月19日、辞任する。
広瀬 与兵衛(廣瀬 與兵衞、ひろせ よへえ、1891年(明治… 広瀬 与兵衛(廣瀬 與兵衞、ひろせ よへえ、1891年(明治24年)1月3日 - 1966年(昭和41年)6月5日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。旧姓は長谷川、旧名は勉。 神奈川県で長谷川豊吉の六男として生まれ、東京府の薪炭商、先代・広瀬与兵衛の養子となる。中央大学を修了。1926年(大正15年)に家督を継承し与兵衛を襲名して家業の薪炭商を経営した。 東京都燃料卸商業組合理事長、同燃料配給統制組合理事長、全国燃料団体連合会長、日本薪炭社長、ほまれ鋳物社長、中野木材工業社長、東京燃料林産取締役会長、千代田製鉄取締役会長、中央倉庫取締役、神田錦町町会長、東京商工会議所議員、商工組合中央会理事、同中央金庫評議員などを務めた。
阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日… 阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日 - 1960年〈昭和35年〉4月22日)は、日本の動物学者。広島大学名誉教授。 哲学者・美学者の阿部次郎、陸軍軍人・実業家の堀三也は兄。歴史学者の竹岡勝也は弟。動物生態学者の阿部襄は甥。 1891年(明治24年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺で、教師をしていた父・阿部富太郎と医師の娘であった母・ゆきの四男として生まれる。 旧制・山形県立山形中学校、旧制・第二高等学校を経て、東京帝国大学理科大学で渡瀬庄三郎教授のもとで学び、1916年(大正5年)同動物学科を卒業し、同理学部嘱託、ヨーロッパ留学をへて、第二高等学校および広島高等師範学校教授を歴任し、1929年(昭和4年)広島文理科大学(現・広島大学)教授となる。
川上 三太郎(かわかみ さんたろう、1891年1月3日 - … 川上 三太郎(かわかみ さんたろう、1891年1月3日 - 1968年12月26日)は、日本の川柳作家。「川柳六大家」の一人。東京の日本橋出身。本名は幾次郎、別号は蒼蒼亭(そうそうてい)、S・S・T。 東京市日本橋区蠣殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。1911年に大倉高等商業学校(のちの東京経済大学)を卒業し、大倉洋行に入社。退社後、1920年に東京毎夕新聞社に入り、学芸部長などを務め、1927年退社。 13歳から川柳を作り、井上剣花坊に師事した。1929年に『國民新聞』の選者になり、1930年に国民川柳会を結成し、機関紙「国民川柳」を発刊。1934年には国民川柳会を川柳研究社に、「国民川柳」を「川柳研究」に名前を改める。
藤原 猶雪(ふじわら ゆうせつ、1891年(明治24年)1月… 藤原 猶雪(ふじわら ゆうせつ、1891年(明治24年)1月2日 - 1958年(昭和33年)7月3日)は、大正から昭和時代の日本の仏教学者。浄土真宗大谷派の僧侶。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)にて生まれる。1911年(明治44年)真宗大谷大学予科を経て、1914年(大正3年)同大を卒業する。 同年より東京帝国大学で図書館学、1923年(大正12年)から国史学を学び、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけて同大学図書館司書、史料編纂官補を歴任。1924年(大正13年)東洋大学の教授となり、同図書館長を兼務。ほか大倉精神文化研究所主任、明治仏教史編纂所理事、日本教学研究所評議員、駒澤大学講師、史料編纂官などを兼任。
山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月… 山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月1日 - 1969年(昭和44年)9月25日)は、日本の政治家、実業家。北海道会議員、衆議院議員、北海道岩見沢市長(1947年-1954年)。 石川県出身。空知農学校卒。1915年(大正4年)早稲田大学専門部政治経済科卒業。小樽新聞(後の北海道新聞)に入社し政治経済部記者となり、同社岩見沢支局長を務めた。その後、小樽商業会議所総務課長に就任。1924年(大正13年)第8期北海道会議員に当選、2期8年務め、北海道会参事会員にも在任。その後1932年の第18回衆議院議員総選挙にて北海道第4区から当選。1期務め、立憲政友会に所属。1936年の第19回から1942年の第21回総選挙まで立候補するもいずれも落選。
梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 … 梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1982年〈昭和年57年〉)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国陸軍の軍医、医学博士。最終階級は陸軍軍医中将。 長岡藩医・梛野直(なぎの ただし)の長男として生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(1908年(明治41年)卒業)、旧制第四高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学医学部を卒業する。1917年(大正6年)に陸軍二等軍医に任官した。 軍籍のまま大学院で学んだ後、外国駐在軍医官としてアメリカ合衆国とドイツに赴任する。海外赴任中にはスイスのチューリヒに留学し、悩解剖研究所モナコフ教授に師事した。1927年(昭和2年)10月13日、東京帝国大学から医学博士号を授与された。
土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月… 土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1972年〈昭和47年〉5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県小城郡芦刈村(現・小城市)出身。小城中学校在学中、日露戦争が勃発。郷里から将校が出征する姿や、演習帰りの歩兵第48連隊の留守大隊の将校らを見て自身も軍人を志す。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校に進学。中隊長は三木宗太郎、区隊長は津村諭吉(のち鴨脚光弘)、指導生徒は神田正種だった。神田の誘いで富久町の善慶寺にて精神修養を行うようになり、陸士卒業後も同期の甘粕正彦と度々訪れている。歩兵第37連隊での勤務を経て陸軍士官学校に進学。しかし区隊長の森本八十三中尉とのそりが合わず、大きく内申点を落としてしまう。
長谷川 治良(はせがわ はるよし、1891年(明治24年)1… 長谷川 治良(はせがわ はるよし、1891年(明治24年)1月1日 - 1980年(昭和55年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科(21期)を優等で卒業した。また、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部火薬学科で学び、1919年(大正8年)7月に卒業した。 1926年(大正15年)8月、砲兵少佐に進級。1931年(昭和6年)8月、砲兵中佐に進み、1932年(昭和7年)8月、陸軍造兵廠廠員に就任。1934年(昭和9年)12月、火工廠作業課長に転じ、1935年(昭和10年)8月、砲兵大佐に昇進した。
中西 幸重(なかにし ゆきしげ、1891年 <明治24年> … 中西 幸重(なかにし ゆきしげ、1891年 <明治24年> 1月1日 - 1985年 <昭和60年> 1月7日)は、日本の政治家。三重県宇治山田(現・伊勢市)市長、伊勢市長。位階は従六位。 三重県度会郡神社町(現・伊勢市)出身。神社港で旅館業を営む両親のもと生まれる。 1911年(明治44年)3月、三重県師範学校(現・三重大学)卒業後、小学校教諭を経て1914年(大正3年)関西大学専門部法科へ入学。卒業一か月前に、旧軍閥打倒の護国戦争に投じるため中華民国上海へ渡った。1919年(大正8年)に帰国後は東京労働日報主筆に就任する傍ら、尾崎行雄に師事し大野伴睦らと共に普選運動を展開した。 1929年(昭和4年)3月、神社町助役、1933年(昭和8年)同町会議員、1947年(昭和22年)宇治山田市議会議員、1951年(昭和26年)三重県議会議員となる。
江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1… 江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉4月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県上妻郡矢部村(八女郡矢部村を経て現八女市)で生まれる。高等小学校卒業。農業、石炭業を営む。 東豊炭坑江田鉱業所長、恩賜財団同胞援護会福岡県川崎分会長などを務めた。 1933年(昭和8年)川崎町会議員に当選し、以後3選した。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から民主自由党所属で出馬して当選した。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙(福岡県第4区、自由党)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 1957年(昭和32年)4月19日死去、66歳。
松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 -… 松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 - 1983年1月28日 )は、日本の実業家、政治家。新潟県佐渡郡相川町長・新潟県議会議員・佐渡汽船社長、会長などを務めた。 新潟県佐渡郡金丸村金丸の舟崎家の出で、相川の素封家松栄家に婿入りした。1889年の相川町の長者番付では、秋田藤十郎・幅野長蔵に次いで養父の松栄治作が3位にランクされている。 1915年早稲田大学商学部を卒業、1918年から町会議員を5期20年務める。この間郡会議員に2回当選。また1923年9月と1935年9月に県議に、高位当選している。相川町長は、1926年8月から1927年7月までと、佐渡鉱山の縮小騒ぎが起きた1928年6月から約1年余、推されて難しい時期の町政を担った。
富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年1… 富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年12月29日 - 1978年9月13日)は、韓国海苔の生産向上に貢献した日本の水産学者。 1890年12月29日広島県沼田郡安村(現・広島市安佐南区)生まれ。東京帝国大学水産学科卒業後、1919年から朝鮮総督府勤務。同水産試験場主任技師として水産養殖、加工研究に従事。特に海苔養殖と加工で独自の養殖技術を開発、生産量を向上させた。朝鮮半島での海苔養殖が盛んになるのは、日本が韓国併合した1910年前後からで、広島出身者を中心に多くの民間養殖業者が渡航、移住し日本式の養殖技術が導入され各地に広まった。しかし品質に問題があったため、富士川ら学者・技術者がこれの改善、品質の均一化等の研究を進めた。
嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月… 嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月25日 - 1967年(昭和42年)6月28日)は、日本の冶金学者。九州工業大学及び西日本工業大学学長を務めた。 1890年12月25日、佐賀市に生まれる。佐賀中学5年生の時、明治専門学校総裁を務めていた山川健次郎の講演に触発されて1909年に私立明治専門学校(現・九州工業大学)1期生として冶金科に入学する。 卒業後明治鉱業に入社、米国リーハイ大学留学を経て、1925年に母校の教壇に立つ。爾来36年間に亘って、明治専門学校、明治工業専門学校、九州工業大学の教育研究に大きな足跡を残した。その間、水素還元製法による超高純度鋼いわゆる嘉村鋼の発明により帝国発明協会表彰、鉄の磁気的性質に及ぼす燐の影響に就いての論文に対して日本鐵鋼協会表彰など鉄冶金界に名声を刻し、九州大学より工学博士の学位を授与される。
小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年〈明治23年〉12月… 小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年〈明治23年〉12月24日 - 1963年〈昭和38年〉10月27日)は、日本の法律家。最高裁判所裁判官、弁護士。 1890年(明治23年)12月24日、京都府に生まれる。子供の頃は「とても7歳までもつまい」と医者に言われたほど体が弱く、弱い者びいきとして弁護士を志す。1914年(大正3年)、法政大学専門部法律科を卒業する。弁護士試験に合格後、大阪で開業する。 1929年(昭和4年)、大阪弁護士会副会長に、1946年(昭和21年)、大阪弁護士会会長に就任する。1941年(昭和16年)『日本取引所法制史論』で法政大学より法学博士を授与される。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)、最高裁判所裁判官に任命される。
波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - … 波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - 1963年12月29日)は、日本の新聞記者、中国研究者、中国演劇(京劇)研究者。 大分県出身。東亜同文書院卒業。1913年、大阪朝日新聞社入社。北京特派員、時事新報社北京特派員。戦後は産業経済新聞論説委員。榛原茂樹の筆名も用いた。