蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1… 蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1945年8月7日)は、日本の官僚、政治家。元和歌山県知事。衆議院議員(3期)。官僚としては内務省の警察関連部門で長く勤めた。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身。小川尋常小学校、熊本県立八代中学校(1906年3月卒業)、第五高等学校(1909年7月卒業)を経て、1913年7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 大学卒業後の1913年10月に高等文官試験に合格した。以後は内務省官僚となる。1914年8月に大阪府警察部警部、1916年12月から同警視を務めた後、1922年6月に東京府理事官に異動し、その直後から欧米に約1年3か月出張した。
酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21… 酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21年〉8月15日 - 1958年〈昭和33年〉8月13日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(1期)、元山形県議会議員、元宮生村村長。位階は従六位。勲六等瑞宝章。 山形県宮生村金生(現上山市)出身。1903年に上山尋常高等小学校高等科卒業、1909年に東京神田森田簿記専修学校の商業銀行社会一般全科卒業。 1923年に宮生村消防組頭に就任、1929年宮生村村会議員に選出、1931年宮生村助役就任。 1932年に宮生村村長となった。 1934年に上山タクシー社長に就任。 1939年9月25日に山形県会議員に初当選。同年10月に参事会員。 戦後、公職追放となり、1946年12月1日に県会議員を辞職。
小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 19… 小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 1974年11月4日)は、日本の洋画家。主に風景画を手がけた。 1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。生まれつき、吃音があった。1908年、京都市立美術工芸学校卒業。日本画家の川北霞峰に師事し、号を「霞村」とする。1910年、京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)に入学。在学中、第4回文展に入選。1913年、同校を卒業。1918年頃、日本画から洋画に転向し、鹿子木孟郎の画塾に通う。1922年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。1925年、第3回春陽会で春陽会賞を受賞。翌年も出品し、春陽会賞を受賞した。
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月1… 小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる。 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した。
三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日… 三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日 - 1945年(昭和20年)9月7日)は、日本の実業家。第二次世界大戦時に日本の占領下にあったバリ島でインドネシア解放の大義を信じ民政部顧問として働いたが、日本の敗戦により解放の約束を果たせず、その責任を取り自決した。 1888年(明治21年)、日本基督一致教会の牧師一家の次男として仙台にて生まれる。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)に進むも、在学中は、経済的状況の厳しさから牛乳配達のアルバイトをして過ごした。1905年(明治38年)、父のハワイ日本人教会赴任に伴い、東京都港区に引っ越し、明治学院普通部に編入。 やがて堤林数衛が商売と伝道を兼ねて設立した南洋商会への入会を決意すると、1908年(明治41年)、明治学院を中退し、1909年(明治42年)4月にジャワ島スマランに渡航。
後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月1… 後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月10日 - 1960年(昭和35年)7月30日)は、大正期から昭和期にかけての日本の考古学者。明治大学名誉教授。 神奈川県三浦郡田越村(現・逗子市)生まれ(鎌倉市生まれや、静岡県生まれとする資料もある)。沼津中学(現・静岡県立沼津東高等学校)、静岡師範学校を経て、東京高等師範学校地歴科を卒業。 1917年(大正6年)3月から1918年(大正7年)7月まで静岡県立静岡中学校で地歴の教諭を務めた後、1921年(大正10年)(1918年とする資料もある)から1940年(昭和15年)まで帝室博物館に勤務し、監査官を担当した。1927年(昭和2年)には博物館視察のためにヨーロッパに派遣された。
本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10… 本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉7月29日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 京都出身。旧姓は桐山。幼名は伝次郎。1914年京都帝国大学文科大学印度哲学科卒。1929年京都帝大文学部講師、1934年「印度学方法論より観たる法華経」で文学博士、同年助教授、1935年教授。1948年定年退官、名誉教授、立正大学教授、稲沢女子短期大学(愛知文教女子短期大学)教授、印度文化研究所所長。京都の慈雲院、宝塔寺の住職をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8… 原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8日 - 1947年(昭和22年)5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士22期、陸大28期。 愛媛県鵜足郡土居村(香川県那珂郡丸亀町を経て現丸亀市土居町)で生まれる。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を卒業し陸軍士官学校に進んだ。 1927年(昭和2年)末、大使館附武官として中国大陸に赴任。1931年(昭和6年)8月から一年間南京にて同職をつとめ、この間、混合委員会共同委員として上海停戦協定に尽力した。 日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として大陸に駐屯し、1939年(昭和14年)1月梁鴻志の懇請により中華民国維新政府の最高顧問に就任。
鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月… 鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月5日 - 1962年(昭和37年)9月6日)は、日本の内務・商工官僚、政治家、教育者、獣医師。立憲民政党所属の衆議院議員、貴族院多額納税者議員、初代品川区長。上條秀介らと共に昭和大学創設者の一人で、昭和大学理事長、文教大学及び文教大学学園理事長を務めた。 1888年(明治21年)8月5日に島根県邑智郡出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で有井常太郎の次男として生まれる。父は村の家畜市場の取締役を務め、幼少より神童と呼ばれた。1913年(大正2年)、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。1914年に荏原郡中延の地主・鏑木胤義の養子となり、いつの入夫となった。
柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3… 柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3日 – 1977年〈昭和52年〉9月15日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(2期)。 東京府出身。中津中学校を修了した。 1935年(昭和10年)天理教校講師に就任。以後、天理教本部教学審議会委員長、同集会予算委員長、同東京教務支庁主事、同東中央分教会長、同文教部理事などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選。1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選(補欠、任期3年)されたが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年(昭和29年)9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、柏木を含めた6名が失格した。
尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3… 尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3日またはまたは1889年8月3日または1889年8月5日 - 1974年7月13日または7月14日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第3代韓国国会議員。号は滄南。 慶尚南道南海郡出身、本籍は釜山府。普成専門学校経済科、早稲田大学政経科卒。1909年に大同青年団(のちの大韓青年団)を組織し、その後は独立運動のための秘密団体である白山貿易会社設立者、慶尚南道農林局長、原州蚕糸社長、第3代国会絶糧農家救護対策委員会委員長を務めた。 1974年7月13日、ソウル市永登浦区の自宅アパートで持病により死去。享年86。 1942年の朝鮮語学会事件により1年間投獄された。
富岡 正重(とみおか まさしげ、1888年8月2日 -196… 富岡 正重(とみおか まさしげ、1888年8月2日 -1968年6月)は、日本の光学技術者。富岡光学機械製作所(後の京セラオプテック)を創業したほか、光学設計のテキストを執筆、翻訳したことでも知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1… 古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1日 - 1967年(昭和42年)5月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県日置郡日置村麓(現在の日置市日吉町日置)出身。古川直衛の三男として生まれた。第七高等学校造士館を首席で卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県警部となる。 以後、静岡県引佐郡長、同県磐田郡長、同県産業課長、熊本県学務課長、兵庫県学務課長、京都府学務課長、栃木県書記官・警察部長、福岡県学務部長、警視庁書記官・保安部長、同警務部長、同官房主事、神奈川県内務部長などを歴任。
迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 … 迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 - 1953年(昭和28年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 鹿児島県姶良郡、のちの加治木町(現姶良市)出身。陸軍経理学校第4期主計候補生として1910年(明治43年)5月24日に卒業した。1934年(昭和9年)6月28日に陸軍省経理局監査課長に就任し、8月1日に陸軍一等主計正に進級した。1937年(昭和12年)8月に第1軍経理部長に就任し、日中戦争に出動した。 1938年(昭和13年)7月に陸軍主計少将に進級し、1939年(昭和14年)8月に関東軍倉庫長に転じた。1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、12月1日に陸軍経理学校長に就任。
石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 … 石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 - 1954年)は、日本の国文学者・歌人。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校、第六高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。東京女子高等師範学校教授、日本女子大学教授を歴任した。国文学者。歌人。号して横村。
清閑寺 良貞(せいかんじ ながさだ、旧字体: 淸閑寺良貞、1… 清閑寺 良貞(せいかんじ ながさだ、旧字体: 淸閑寺良貞、1888年(明治21年)7月30日 - 1951年(昭和26年)12月12日)は、大正から昭和前期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 子爵・吉田良義の二男として生まれ、伯爵・清閑寺経房の養子となる。養父の隠居に伴い、1938年(昭和13年)1月15日、伯爵を襲爵した。 1915年(大正4年)京都帝国大学法科大学を卒業。1926年(大正15年)以降、主猟官、式部官、皇太后宮事務官、同会計課長などを務めた。 1946年(昭和21年)6月27日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月2… 河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月29日 - 1949年(昭和24年)2月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1888年(明治21年)に広島県福山市で生まれ、1890年(明治23)に福山誠之館を卒業。陸軍士官学校第23期卒業。1936年(昭和11年)8月に輜重兵第2連隊長(第2師団)に就任し、満州に駐屯した。1937年(昭和12年)8月に陸軍輜重兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)7月に自動車第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に輜重兵科教育を行う唯一の予備士官学校である久留米陸軍予備士官学校の初代校長に就任した。 1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級し、7月28日に北支那方面軍司令部附を経て、8月8日に第3野戦輸送司令官(南方軍・第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
大竹 十郎(おおたけ じゅうろう、1888年(明治21年)7… 大竹 十郎(おおたけ じゅうろう、1888年(明治21年)7月28日 - 1979年(昭和54年)8月4日)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。静岡県福田町長。 静岡県磐田郡福田町(現在の磐田市)に鈴木治平の五男として生まれ、大竹清一郎の養子となった。1914年(大正3年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。文部属、同普通学務局勤務を経て、山口県都濃郡長、同理事官、福島県理事官、神奈川県理事官、同学務部長、佐賀県警察部長、宮崎県警察部長、三重県警察部長、岡山県警察部長、福岡県警察部長、大阪府警察部長、警視庁警務部長を歴任した。その後、朝鮮総督府に転じ、慶尚北道内務部長、警務局保安課長、平安北道知事を歴任し、1936年(昭和11年)に内務局長に就任し、中枢院書記官長も兼ねた。
織田 信大(おだ のぶひろ、明治21年(1888年)7月28… 織田 信大(おだ のぶひろ、明治21年(1888年)7月28日 - 昭和39年(1964年)1月8日)は、明治期から昭和期の華族。位階は正四位、爵位は子爵。主な役職は巧芸社常務理事など。 明治21年(1888年)7月28日、旧丹波柏原藩主・織田信親の次男として誕生した。明治34年(1901年)7月、学習院初等学科を卒業。大正5年(1916年)、東京美術学校洋画科を卒業。その後、美術図書出版会社の巧芸社に入社し、常務理事などを務める。昭和2年(1927年)12月28日、父信親の死去により家督を相続し、子爵となる。昭和39年(1964年)1月8日死去。昭和2年から昭和3年にかけて『明治大正名作大観』(西洋画・日本画上下・彫刻の全4冊)を編集し、出版している。
小林 郁(こばやし かおる、1888年(明治21年)7月27… 小林 郁(こばやし かおる、1888年(明治21年)7月27日 - 1974年(昭和49年)1月22日)は、大正から昭和期の医師、政治家。衆議院議員、滋賀県彦根市長、滋賀県議会議長。 滋賀県犬上郡高宮村(高宮町を経て現彦根市高宮町)で、小林二郎の五男として生まれた。1913年(大正2年)に京都帝国大学医学部を卒業。同大学附属病院内科副手として勤務。その後、彦根町で医院を開業した。 青年時代から政界に感心が強く、彦根町会議員(2期)、彦根市会議員(2期)、滋賀県会・滋賀県議会議員(3期)を務めた。この間、彦根市会副議長、同議長、滋賀県議会議長に在任した。 1947年(昭和22)8月16日に彦根市長に就任し、1953年(昭和28年)3月24日まで2期在任。
城野 亀吉(しろの かめきち、1888年〈明治21年〉7月2… 城野 亀吉(しろの かめきち、1888年〈明治21年〉7月27日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。京都市左京区長、上京区長。東京市牛込区長、品川区長。 城野林平の五男として新潟県加茂郡下新穂村(佐渡郡新穂村を経て、現佐渡市)に生まれる。1914年(大正3年)広島高等師範学校を卒業し京都市に奉職する。同市視学、秘書課長、左京区長、上京区長を経て、東京市視学に転じる。1936年(昭和11年)10月、牛込区長に就任し、1938年(昭和13年)12月まで務めた。その後、社会局保護課長、市監査部区務監察課長を経て、1939年(昭和14年)12月、品川区長となった。 戦後、日本歯車協会理事長となった。
船渡 佐輔(ふなど さすけ、1888年7月26日 - 194… 船渡 佐輔(ふなど さすけ、1888年7月26日 - 1949年6月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県武儀郡、後の洞戸村(現関市)出身。1910年早稲田大学商科卒。農業及び山林業を営む。洞戸村長、洞戸郵便局長、関町会議員、岐阜県会議員となる。ほかに岐阜県水産会長、岐阜県貨物自動車運送事業組合理事長を務める。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では岐阜1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。追放中の1949年死去。(死去後の1951年に追放解除。)
大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月… 大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月25日 - 1974年〈昭和49年〉2月27日)は、日本の医学者(内科)、教育者。号は「春郊」。 福岡県出身。深町俊太郎の三男として生まれたが、大里広次郎の養子となる。1914年に東京帝国大学医科大学を卒業する。1921年に医学博士号を取得した。 その後金沢医科大学と東北帝国大学で教授を務めた。医学者としては癌の化学療法に関する研究を手がけた。 1950年に福島県立医科大学が開学すると、初代学長に就任した。11年あまり務め、1961年4月末をもって退任。 学長退任後は秋田県立中央病院を経て、1965年から出身地である福岡県にある飯塚学園の理事長兼校長を務めた。
二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(… 二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(明治21年)7月24日 - 1969年(昭和44年)12月1日)は、大正・昭和時代の資産家、実業家。旧名は清吾。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。三重農場取締役会長。諸戸殖産社長。諸戸合名代表社員。三菱鉱業、朝鮮無煙炭各監査役。三重県桑名で家業の山林経営をつぎ、林産物の生産、加工、販売などをおこなう。 1888年(明治21年)7月24日に三重県に生まれた。初代諸戸清六の四男、諸戸精太の弟、諸戸精文の叔父である。初代清六と深い親交のあった大隈重信が設立に関わった早稲田中学校に進学したが、彼が18歳の時初代清六が没したため、急遽呼び戻され、次男精太が初代の屋敷を継承し、四男清吾が清六の名を襲名した。
田辺 譲(田邊 讓、たなべ ゆずる、1887年(明治20年)… 田辺 譲(田邊 讓、たなべ ゆずる、1887年(明治20年)8月21日 – 1952年(昭和27年)1月1日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、山口県会議長、山口県美祢郡大嶺村長、同大嶺町初代町長。 山口県美祢郡大嶺奥分村(大嶺村、大嶺町を経て現美祢市大嶺町奧分)で、素封家・田辺誠民と辰(小沢正路の四女)の長男として生まれる。1909年(明治42年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業し、東京美術学校(現東京芸術大学)で学んだ。 郵便局長、大嶺酒造取締役社長、大嶺運送社長、秋吉洞自動車社長、有ノ木炭鉱社長、日本石灰工業所取締役社長、貯蔵食糧取締役社長、大嶺無煙炭礦取締役、山口県地方木材 (株) 理事、山口県山林会副会長、山口県耕地協会常務理事などを務めた。
伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月… 伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月20日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、大正から昭和時代の政治家。警察官。埼玉県川越市長。 千葉県安房郡北条村(北条町、館山北条町を経て、現館山市北条)に生まれる。伊達博・せいの六男で生家は仙台藩伊達家の末裔。1907年(明治40年)明治大学法学科を卒業し、1921年(大正10年)埼玉県高等課長、浦和署長、茨城県特高課長、再び浦和署長を歴任した。 埼玉県の商工課長を経て、1933年(昭和8年)川口町助役となる。1935年(昭和10年)には川越市長の橋本定五郎に請われ同市助役に就任。下水道整備を進めた。1939年(昭和14年)同市長となり、田面沢村の合併、都市計画事業などに尽力した。
天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19… 天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉7月31日)は、日本の外交官。 日独伊三国同盟締結時(1940年〈昭和15年〉9月25日)は駐イタリア特命全権大使。三国同盟に反対の立場の天羽は三国同盟締結直前(1940年〈昭和15年〉9月6日)に松岡外相によってイタリア特命全権大使の任を解かれ(いわゆる松岡旋風人事)、後任の駐イタリア特命全権大使として堀切善兵衛が選ばれた(1940年〈昭和15年〉9月30日に正式任命)。外務次官(近衞文麿内閣)や情報局総裁(東條英機内閣)を務め、戦後A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され公職追放となった(のちに解除)。1945年(昭和20年)12月にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監された天羽は遂に起訴されることなく3年後の1948年(昭和23年)12月に釈放された。
對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - … 對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - 1933年2月16日)は、長崎県下県郡久和村(のち厳原町、現対馬市)出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は川上 弥吉(かわかみ やきち)。最高位は東大関。現役時代の体格は190cm、105kg。得意手は左四つ、吊り、上手投げ、小手投げ。 対馬の生まれで幼少時より背が高く、「半鐘泥棒」と言われてはからかわれていた。成人して地元の重砲隊に入隊したが体の大きさを見込んだ師団長が力士になることを勧め、除隊させてくれた。師団長の紹介状を手に角聖・常陸山を訪ね入門した。常陸山からは「タイシュウ(対州)」の愛称で呼ばれていた。
吉田 享二(よしだ きょうじ、1887年(明治20年)8月1… 吉田 享二(よしだ きょうじ、1887年(明治20年)8月18日 - 1951年(昭和26年)4月29日)は、日本の建築家。建築研究者、工業教育者。 建築材料学の権威で、建築材料協会会長、日本建築学会会長などを歴任した。各地の都市計画にも携わる。建築材料学のほか建築設備学の草創期において、その研究は学界や業界標となる。終始、早稲田大学・同高校での教職と運営にあたる。 1887年(明治20年)兵庫県美方郡生まれ、石川県士族で宮中顧問官の吉田醇一の養子となる。旧姓は宮脇。1912年(大正元年)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、早稲田大学理工学部建築学科に勤務。また母校の講師、早稲田大学助教授を経て1916年(大正5年)に同校教授。
坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月1… 坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月16日 - 1986年〈昭和61年〉3月19日)は、日本の演劇評論家、早稲田大学教授、戯曲家、振付師。女優・坪内ミキ子の父。 現在の愛知県名古屋市に生まれる。坪内逍遥の兄・義衛の三男で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。旧制早稲田中学校を経て、1909年(明治42年)早稲田大学文学部英文科卒業。その後、ハーバード大学に留学して演劇を学び、1915年(大正4年)に帰国。翌年、留学中深い関係となったアメリカ人女性マッグラルド・ホームズが後を追って日本に来た。しかし逍遥は士行に娶合わせるつもりで鹿嶋清兵衛の娘のくにを養女にしており、この関係を許さなかった。
三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 197… 三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 1972年1月28日)は、日本の実業家。住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長、石油開発公団初代総裁などを歴任。 東京・銀座尾張町出身。実父の山口慎、養父の三村直ともに旧信濃上田藩士。第一高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に大阪の住友総本店に入社する。住友伸銅所勤務を経て、1919年(大正8年)~1921年(大正10年)欧米出張。1931年(昭和6年)住友伸銅鋼管取締役、1932年(昭和7年)住友別子鉱山常務、専務を経て、1941年(昭和16年)住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長兼住友本社理事。この間、住友機械製作(現住友重機械工業)、大日本産業報国会理事などの役員を兼務。
荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月… 荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月14日 - 1981年〈昭和56年〉3月6日)は、日本の社会主義者・労働運動家・政治家。また、作家・評論家。本名は荒畑 勝三(あらはた かつぞう)。 日本共産党および日本社会党の結党に参加するが離党し、1946年(昭和21年)から衆議院議員を務めた。主義主張の一貫した生涯は、日本社会主義運動の良心の軌跡とされている。 1887年(明治20年)8月14日に神奈川県横浜市永楽町にあった横浜遊廓の中で生まれ、幼少期を横浜市野庭(現・横浜市港南区)で過ごした。高等小学校を卒業後に外国人商館でボーイとして勤務しながらキリスト教に改宗し、ボーイを退職後は横須賀海軍工廠で勤務していた。
岩瀬 徳三郎(いわせ とくさぶろう、1887年8月11日 -… 岩瀬 徳三郎(いわせ とくさぶろう、1887年8月11日 - 1971年2月2日)は、日本の化学技術者、工学博士。東ソー及び東曹産業の創業者。 千葉県銚子市出身。1887年(明治20年)大地主、岩瀬利右衛門の三男として生まれる。1914年九州帝国大学工学部応用化学科卒業。同大学院へ進みアメリカへ留学。渡米の際の船で安野譲と知り合った縁で1918年に日本曹達工業(のちのトクヤマ)入社。同社取締役技師長、専務取締役を経て1935年東洋曹達工業(現東ソー)を設立し社長に就任。1940年「アンモニアソーダ工業用生石灰焼成に関する研究」で九州帝国大学工学博士の学位を取得。 妻・つね(1894年生)との間に徳郎、和子、義郎、秀郎、幹子、及び養子の寅四郎あり。
川端 千枝(かわばた ちえ、1887年(明治20年)8月9日… 川端 千枝(かわばた ちえ、1887年(明治20年)8月9日 - 1933年(昭和8年)7月4日)は、大正・昭和期の歌人。 1887年(明治20年)に神戸市で生まれた。父は神戸又新日報副社長を務めた炬口又郎。神戸市の親和女学校卒業。その年、淡路島の川畑隆平と結婚。 結婚3年目を迎えた頃、ひとり娘の母となり、加寿と名付ける。後の歌人・杉村けい子である。しかし、加寿が3歳になったばかりの1909年(明治42年)、夫と死別する。 1913年(大正2年)、亡夫の友人前田夕暮主宰の『詩歌』に入門する。同じく『詩歌』同人であった清水白花との相聞歌で誌面を騒がせた。また娘の杉村けい子は、別の同人、田中白夜を恋人に擬した作品を引用している。
郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 196… 郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。
榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月… 榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月8日 - 1971年〈昭和46年〉1月7日)は、京都市出身の日本画家。本名は安造。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
鈴木 祥枝 (すずき さかえ、1887年(明治20年)8月6… 鈴木 祥枝 (すずき さかえ、1887年(明治20年)8月6日- 1957年(昭和32年)2月11日)は、日本の実業家、商学博士。東京海上火災保険社長を務めた。 香川県出身。1903年(明治36年)香川県立商業学校(現香川県立高松商業高等学校)卒業。1907年(明治40年)神戸高等商業学校(現神戸大学)を第一期生として卒業。1907年(明治40年)、東京海上保険(1918年に東京海上火災保険に改称)に入社。ロンドン駐在時、鈴木商店ロンドン支店長高畑誠一、台湾銀行ロンドン支配人佐々木義彦などと親交を結ぶ。鈴木商店破綻後、日本商業(日商、現在の双日の前身企業の一つ)の創立に当たり高畑に大きな援助を与えた。
山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6… 山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6日 - 1927年(昭和2年)2月23日)は、衆議院議員、弁護士。 埼玉県比企郡小見野村(現在の川島町)に山口喜一郎の二男として生まれる。1910年7月に第一高等学校大学予科を、1914年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格し、同年、朝鮮総督府試補に任ぜられ、翌1915年朝鮮総督府道事務官。その後、陸軍省御用掛、青島守備軍民政部事務官を歴任した後、1921年10月に弁護士登録し、開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から立候補し、当選した。無所属であったが、1924年5月30日に中正倶楽部設立に参加し、同年10月23日に立憲政友会に移るも、1925年6月1日には新正倶楽部設立に参加した。
山野 平一(やまの ひらかず、1887年〈明治20年〉8月4… 山野 平一(やまの ひらかず、1887年〈明治20年〉8月4日 - 1971年〈昭和46年〉12月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府、現在の大阪市で山野助四郎の三男として生まれる。1905年(明治38年)大阪府立八尾中学校(現大阪府立八尾高等学校)を卒業。1914年(大正3年)家督を相続した。 実業界では、都島商事社長、大阪地下街監査役などを務めた。 政界では、大阪市会議員、同副議長を務めた。その他、都島警防団長、都島教育会長、帝国在郷軍人会都島分会顧問、軍事援護会北区連合会理事長、大政翼賛会大阪支部常務委員、借家借地調停委員、北区町会連合会長、都島簡易裁判所調停委員、大阪調停協会長、大阪市社会福祉協議会副会長などを務めた。
瀬古 保次(せこ やすつぐ、1887年(明治20年)8月3日… 瀬古 保次(せこ やすつぐ、1887年(明治20年)8月3日 - 1964年(昭和39年)6月9日)は、貴族院書記官長、賞勲局総裁、貴族院勅選議員。 神奈川県三浦郡逗子町(現在の逗子市)で、瀬古保次郎の長男として生まれた。1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、文官高等試験行政科試験に合格した。東京府属、同豊多摩郡長を経て、貴族院書記官となり、内務参事官、同事務官、行政裁判所評定官を兼ねた。貴族院事務局議事課長を経て、貴族院書記官長に就任した。 1940年(昭和15年)からは賞勲局総裁に転じた。 1946年(昭和21年)2月5日には貴族院議員に勅選され、同成会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
江崎 浮山(えざき ふざん、1887年(明治20年)8月2日… 江崎 浮山(えざき ふざん、1887年(明治20年)8月2日 - 1984年(昭和59年)1月17日)は、愛知県東春日井郡小牧町(現在の小牧市)出身の実業家(藤枝江﨑新聞店経営者・興行師)・併立写真収集家。本名は江崎 千代吉(えざき ちよきち)。浮山という号の名付け親は評論家の徳富蘇峰であり、静岡市の浮月楼で歓談していた際に命名された。 1887年(明治20年)8月2日に愛知県東春日井郡小牧町(現在の小牧市)に生まれた。出生名は江崎千代吉。父親は江崎友吉であり、千代吉は五男である。 地元の小学校を卒業した後、名古屋市に出て米屋で働き始めた。20歳の時に独立してメリケン粉卸商となり、30歳になると芝居屋という趣味店も開店させた。
牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(… 牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。 日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。温厚な性格で知られ教育畑を歴任し、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として漢口及び南京攻略戦に参加。沖縄戦においては第32軍を指揮し、最期は自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。 牛島満は1887年7月31日、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満と、同じく薩摩藩の武家の出である母牛島竹子との間に四男として生まれた。
重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29… 重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)は、日本の外交官・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。造船工学者の重光蔟は兄。外交官の重光晶は甥。 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に旧杵築藩士で大野郡長を務める父・重光直愿と母・松子(重光立平景行の末娘)の次男として生まれた。父は速見郡八坂村の代官の家に生まれたが、10歳で藩に召し出され、維新後初代郡長として赴任し、養蚕の振興に努めた。しかし、母の実家である南安岐村山口の重光本家に子供がなかったため養子となり、重光本家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法科大学を卒業する。
河村 重治郎(かわむら じゅうじろう、1887年7月28日-… 河村 重治郎(かわむら じゅうじろう、1887年7月28日-1974年3月13日)は、英語学者、辞書編纂者。 南秋田郡楢山牛島橋通町50(現秋田市楢山共和町)生まれ。1894年、築山小学校に入学。秋田中学校を中退し、検定試験で英語教員免許を取得。聖学院中学校、福井県立福井中学校(のち福井県立藤島高等学校)教諭をへて、1924年横浜高等商業学校教授。岡倉由三郎『新英和大辞典』の原稿を執筆。44年横浜高商を辞し、46年善隣外事専門学校教授。49年これを辞し、明治学院大学、東洋英和女学院短期大学などで講師を務める。 研究社『英和大辞典』の改訂、『クラウン』などの辞書の編纂に生涯を捧げた。墓所は多磨霊園。
高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 195… 高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 1954年10月5日)は、日本の実業家、町会議員、中学校教諭。正式な表記は髙瀨 彌一。莫大な土地を相続し、藤沢市の大地主として、住宅地開発、自動車道路、上水道敷設に功労した。和辻哲郎、林達夫の義兄に当たる。 江之島電氣鐵道が開通して間もなく、現在の柳小路駅と鵠沼駅の中間にあった藤ヶ谷停車場から東の百両山砂丘一帯に2万坪を超す敷地と巨大な冠木門、豪壮な建物で「鵠沼御殿」と噂される高瀬邸が完成した。電車が藤ヶ谷停車場に近づくと、車掌が「次は藤ヶ谷、高瀬邸前」と叫んだという。邸内には少なくとも4軒の離れがあり、大正時代初期に高瀬弥一の先輩に当たる阿部次郎、安倍能成、そして高瀬家の長女・照と結婚した和辻哲郎、さらに茅野雅子が借家して居を構えた。
片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日… 片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日 - 1978年〈昭和53年〉5月30日)は、日本の弁護士、政治家。栄典は従二位勲一等。クリスチャン。内閣総理大臣 (46代)。 社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(10期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本社会党委員長(初代)、民主社会党常任顧問、日本中国文化交流協会会長(初代)を歴任した。 和歌山県西牟婁郡田辺に生まれる。和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、一家で同郷の人物で「軍艦行進曲」の作詞者・鳥山啓宅に寄宿、東京帝国大学法学部独法科卒業。卒業後、YMCA寄宿舎の一室を借りて「簡易法律相談所」を開設、弁護士として活動した。
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月… 山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉三鷹市民。本名は山本 勇造。 人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。 第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。 呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。
三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月2… 三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月27日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県生まれ。1905年(明治38年)3月、金沢第一中学校(12回)を経て、同級生の役山久義らとともに陸軍士官学校(陸士)へ合格。同級生83名から陸海軍の軍人を選んだものが、20名に及ぶ。 1907年(明治40年)5月、陸士(19期)歩兵科を卒業。19期は、日露戦争における下級将校の不足を補うため、一般中学から大量採用された珍しいクラスである。このクラスから後に5人の大将(塚田攻、今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一)が誕生する。三浦の卒業成績は62番/1,068名。
武部 鷹雄(たけべ たかお、1887年(明治20年)7月27… 武部 鷹雄(たけべ たかお、1887年(明治20年)7月27日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。第一次世界大戦において、日本海軍機の初出撃を行った五名のうちの一人である。のち試験飛行中に殉職。最終階級は海軍大尉。 鳥取県東伯郡三徳村にて武部真貫、たか子夫妻の次男として生まれる。1893年4月1日三徳村立鼎尋常小学校三徳分教場に入学、1897年3月に卒業し補修科へ進み、1899年に河南高等小学校へ入学、1901年3月卒業後、同年4月5日鳥取県立第一中学校へ入学し、1906年3月に抜群の成績で卒業する。卒業後、海軍兵学校の試験を受け、同年9月1日海兵37期生として入校する。
河田 重(かわだ しげ、1887年 <明治20年> 7月25… 河田 重(かわだ しげ、1887年 <明治20年> 7月25日 - 1974年 <昭和49年> 2月17日)は、日本の経営者。日本鋼管社長を務めた。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 現在の茨城県龍ケ崎市出身。1916年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 太陽生命保険での勤務を経て、1919年に日本鋼管に転じ、1942年に監査役に就任し、取締役、常務を経て、1947年5月に社長に就任した。1963年11月から1966年11月まで会長を務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1974年2月17日、急性肺炎で死去した。