値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25… 値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25日 - 1981年(昭和56年)12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・前田。 山形県、現在の山形市で、前田保の二男として生まれ値賀勇雄の養子となる。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵少佐となった。1926年(大正15年)8月、航空兵中佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員に就任。
山村 熊次郎(やまむら くまじろう、1886年(明治19年)… 山村 熊次郎(やまむら くまじろう、1886年(明治19年)8月21日 - 1949年(昭和24年)8月8日)は、日本の点字出版社の創設者、点字雑誌の創刊者、社会事業家である。少年時代の失明により、視覚障害者が読める点字書籍の不足を痛感し、視覚障害者に情報保障を行うため、点字医学書・点字医学雑誌、日本初の視覚障害者向け通信大学講義録の点訳出版を手掛けた。 1886年(明治19年)、三重県名張町(現・名張市)で商家の三男に生まれる。1902年(明治35年)に緑内障を発症した。 1906年(明治39年)に京都府立盲学校に入学、YMCAの英語夜学校で英語を学ぶ。1909年(明治42年)に同針按科を卒業した。
国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20… 国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年〈明治19年〉… 長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年〈明治19年〉8月20日 - 1928年〈昭和3年〉7月27日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の俳人。本名:長谷川 諧三。旧姓:富田。別号に翠邨。妻は俳人の長谷川かな女。小説家の三田完は孫。 群馬県緑野郡鬼石町(現・藤岡市)出身。父・富田嘉十郎は伊勢崎警察署境派出所の巡査であった。1888年(明治21年)嘉十郎は大垣警察署に赴任することとなり、妻・うめと諧三・つるの2人の子どもとともに大垣に移り住んだ。1892年(明治25年)父の嫡出として入籍される。 零余子は1897年(明治30年)境小学校を卒業後、剛志村下武士の毛陽学校に入学し、1901年(明治34年)に卒業した。
小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1… 小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1948年2月11日)は、日本の国語学者。
天辰 正守(あまたつ まさもり、1886年(明治19年)8月… 天辰 正守(あまたつ まさもり、1886年(明治19年)8月19日 – 1963年(昭和38年)8月2日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 鹿児島県薩摩郡平佐郷天辰村(平佐村、川内町、川内市を経て現在の薩摩川内市天辰町)で、医師・天辰登雲の二男として生まれた。医師の道を避けて1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。福岡地方裁判所所属の弁護士となった。その後、判事となり、那覇地方裁判所判事、鹿児島地方裁判所判事、熊本地方裁判所判事を歴任した。1923年(大正12年)に退官し、衆議院嘱託として欧米各地を視察した。翌年に帰国し、再び弁護士を鹿児島市で開業した。
長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月… 長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月18日 - 1961年〈昭和36年〉12月10日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、大光寺村長。 青森県南津軽郡大光寺村(現平川市)で、初代大光寺村長・長内建美の長男として生まれる。東奥義塾3年時に東京の錦城中学校に転じ、1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後帰郷して、1914年(大正3年)、大光寺村会議員に当選。その後、大光寺村長、消防組頭、青森県会議員を歴任。立憲政友会支持一色であった大光寺村において、立憲民政党に入党し、同党南津軽郡分所幹事、同青森県支部幹事を務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に青森県第2区から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けずに出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 19… 落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 1969年9月24日)は、日本のフランス文学者。位階は正三位。奈良女子大学名誉教授。 1886年、東京神田駿河台で生まれた。1892年、泰明小学校に入学。御田小学校では吉井勇と同級であった。1989年、東京府立第一中学校に入学したが、翌年肺炎を患ったことにより退学。また、翌1899年には母も死去。2年間の療養を経て明治学院普通部に入学し、卒業。1903年に第一高等学校予科第一部に入学。1908年に卒業し、東京帝国大学法科大学に入学したが、休学。新渡戸稲造に勧められ、京都帝国大学法科大学に転学した。1912年、赤塚季と結婚、また家督を相続した。
玉置 吉之丞(たまき きちのじょう、1886年8月11日 -… 玉置 吉之丞(たまき きちのじょう、1886年8月11日 - 1961年4月7日)は、日本の政治家、実業家。玉置綿布社長。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 1886年8月11日、和歌山県名草郡内海村(内海町を経て現海南市)で吉田万右衛門の三男として生まれる。和歌山中学校修業。1902年に渡米し、1909年まで南カリフォルニア大学で政治経済学を学んだ。 帰国後、玉置きくのの養子となり、玉置綿布工業社を創立し、事業を拡大して1919年には株式会社組織に改組して社長となる。和歌山県織物同業組合長、和歌山県織物工業組合理事長、日本綿織物工業組合連合会理事を務めて業界の発展に貢献する傍ら、南海瓦斯興業株式会社監査役、内海紡績株式会社常務取締役、玉置綿布染工株式会社社長、昭南工業株式会社社長を兼ねて地元の実業界にも貢献した。
乳井 英夫(にゅうい ひでお、1886年(明治19年)8月1… 乳井 英夫(にゅうい ひでお、1886年(明治19年)8月10日 - 1977年(昭和52年))は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県弘前市出身。1906年(明治39年)3月、青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業後、南津軽郡注目小学校の教員となる。1912年(明治45年)6月、官界に転じ、青森県属となり、ついで福島県書記、栃木県属、栃木県警部、秘書課長、地方事務官学務部教育課長、知事官房主事を経て、1929年(昭和4年)7月に休職。 1931年(昭和6年)9月に弘前市助役に就任。翌年1月に辞任後、宇都宮市主事、社会課長、職業紹介所長、水道課長などを経て、1936年(昭和11年)2月に再度弘前市助役に就任した。
福武 枯木(ふくたけ こぼく、1886年8月10日 - 19… 福武 枯木(ふくたけ こぼく、1886年8月10日 - 1969年7月7日)は、日本の大正から昭和期に活動した俳人。作詞家としては、本名の福武 周夫(ふくたけ ちかお)名義を使用している。岡山県出身。 1886年(明治17年)、岡山県小田郡三谷村(現在の矢掛町)横谷で福頼神社社家の福武喜雨造・知与夫妻の長男として出生。旧制岡山中学校を経て神宮皇學館を卒業。母校の岡山中学校教員在職時に笠井栖乙らと丘上俳句会を結成し、旧制第六高等学校教官らが組織した六六会を通じて志田素琴や大須賀乙字らに師事した。 1923年(大正12年)、兵庫県の旧制尼崎中学校へ転任。この時期には本名の周夫名義により朝日新聞社が懸賞公募した「全国中等学校優勝野球大会の歌」や、初代の「尼崎市歌」で入選を果たしている。
影山 堯雄(かげやま ぎょうお、1886年8月10日 - 1… 影山 堯雄(かげやま ぎょうお、1886年8月10日 - 1983年5月22日)は、日蓮宗の僧、仏教史学者。 熊本県人吉市生まれ。1914年日蓮宗大学(現立正大学)卒、1926年日本大学法文学部宗教学科卒。日蓮宗宗学全書編纂委員。日蓮宗大学教授、立正大学教授、日蓮宗学研究所所長。1957年定年退任、名誉教授。1965年「江戸時代における法華教団の布教の研究」で立正大学文学博士。本地院日深上人。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
諏訪 尚太郎(すわ しょうたろう、1886年(明治19年)8… 諏訪 尚太郎(すわ しょうたろう、1886年(明治19年)8月4日) - 1957年(昭和32年)10月17日は、日本の実業家。 豪農の家に生まれ、大学卒業後、肥料商店を営み芸能に興味をもって鶴岡劇場(株)を設立した。 『庄内音頭』の作詞・作曲者でもある。 庄内電気鉄道(現・庄内交通)、羽前織物信用組合、鶴岡米穀取引所、鶴岡織物、鶴岡日報社、などの役員も務めた。
安達 十九(あだち じゅうく、1886年(明治19年)8月1… 安達 十九(あだち じゅうく、1886年(明治19年)8月1日 - 1951年(昭和26年)7月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍科学研究所第二部長を務め、階級は陸軍中将に至る。陸軍教授安達松太郎の子で、兄に安達十六陸軍少将、弟に第18軍司令官安達二十三陸軍中将が、義理の叔父に陸軍大臣石本新六陸軍中将男爵がいる。石本寅三陸軍中将・石本五雄陸軍少将は従兄弟。 東京に生まれ陸軍士官学校に学ぶ。1905年(明治38年)11月25日卒業し、1906年(明治39年)6月26日陸軍工兵少尉に任官される。士官候補生第18期の安達の同期には山下奉文大将・岡部直三郎大将・藤江恵輔大将・阿南惟幾大将・山脇正隆大将らがいる。
加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年〈明治19年〉8月… 加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年〈明治19年〉8月1日 - 1963年〈昭和38年〉2月21日)は、日本の銀行家、政治家。子爵。千葉県一宮町出身。元千葉県知事、元国際決済銀行取締役、副会長。父は、最後の上総国一宮藩主であった加納久宜。 1886年8月1日、子爵加納久宜・文子の次男として東京府小石川の私邸に生まれる。兄・久元は夭逝していたため、事実上の嫡男であった。 1894年、県知事に任命された父に従い鹿児島県に移り、その後現地に赴任してきたアメリカ・オランダ改革教会宣教師ピークから英語とキリスト教を弟の久憲とともに学ぶ。 1900年、久宜が鹿児島県知事の業務を辞して一家は東京へ戻り、父が設立に関わった学習院中等科へ編入した。
萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月… 萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月29日 - 1957年(昭和32年)7月9日)は、日本の歌人、小説家、英文学者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれる。旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。東京で与謝野鉄幹に師事し、「明星」、「スバル」に参加、堀口大學から「短編実作者の第一人者」と評された。また石川啄木、高村光太郎、北原白秋、森鷗外らと親交し、東大卒業後は愛媛県西条中学校などで教鞭をとった。 28歳の時、加世田の私有地を売った資金で「我等」を創刊するも下宿の火事により原稿が消失、廃刊。京都に移り住み、「街道」を発行して再起を図るも1944年、戦時統制による紙不足でまたも廃刊、戦後は農地改革により地主としての地位を失い、故郷に戻る願いも叶わず1957年、京都で70年の生涯を終えた。
山川 黙(やまかわ しずか、1886年〈明治19年〉7月26… 山川 黙(やまかわ しずか、1886年〈明治19年〉7月26日 - 1966年〈昭和41年〉2月21日)は、日本の教育者、登山家。旧姓は河田。武田久吉らと日本博物学同志会に参加し、日本山岳会の創始者のひとり。慶応義塾大学教授、旧制武蔵高等学校校長などを務めた。夫人は明治天皇、昭憲皇太后の女官で権掌侍の三千子(子爵久世通章の長女)。 1886年(明治19年)7月26日、東京府四谷区四谷信濃町に生まれる。父は東京市助役を務めた河田烋(かわだ きょう)で、兄は河田烈(かわだ いさお)である。1904年(明治37年)、東京府立第一中学校を卒業する。1905年(明治38年)、日本山岳会の創立発起人となる。
リチャード・クドウ(Richard Roksabro Kud… リチャード・クドウ(Richard Roksabro Kudo, 1886年7月25日 - 1967年6月3日)は、アメリカ合衆国の原生動物学者。日本の徳島県出身で工藤 六三郎(くどう ろくさぶろう)といったがアメリカに帰化した。農学士、理学博士。
髙橋 直作([別表記:高橋直作]たかはし なおさく、1886… 髙橋 直作([別表記:高橋直作]たかはし なおさく、1886年(明治19年)7月25日 - 1976年(昭和51年)1月22日)は、救世軍士官、日本基督教団牧師、社会事業家、小説家。 現在の茨城県土浦市菅谷町に生まれる。父は山中文左衛門、母はこん。次男で出生名は山中直作。1900年、尋常小学校を経て、当時四年制の高等小学校を卒業。地元で漢学を学んだ後、1903年4月1日上京、上野の東京音楽学校 (旧制) 現在の東京藝術大学音楽学部教授吉丸一昌の設立した私塾「修養塾」に学ぶ。入塾間もない頃の写真が右の通り。 1905年8月新規営業の東京電気鉄道(「東京都電車」参照)に入社するも、翌1906年12月当時まだ千葉県佐倉にあった陸軍第1師団歩兵第2連隊に入営、1908年12月に除隊する。
颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24… 颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24日 - 1975年(昭和50年)10月2日)は、耳鼻咽喉科学者、音声学者。 ヴァイオリン演奏では専門家の域に達しており、しばしばプロの交響楽団に加わって演奏したり、声楽家の診断から発声指導まで幅広く行なった。 東京出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部・薬学部卒、東京音楽学校(現・東京芸術大学)卒。1920年東大耳鼻咽喉科教室および生理学教室で研究。1931年「音響刺激に因る耳殻反射運動」で医学博士。1936年小幡重一、石本巳四雄、田口三郎らと日本音響学会を設立。1943年東京帝大医学部教授、1952年東京藝術大学教授、1953年NHK放送文化賞受賞。
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19… 谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。
斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月… 斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月23日 - 1930年(昭和5年)11月6日)は、日本の歴史学者・教育者。 静岡県沼津市出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学を卒業。維新史料編纂事務局に勤務の後、島津公爵家史料編輯所に勤務した。1922年(大正11年)、山形高等学校教授に就任し、1927年(昭和2年)に東京女子高等師範学校教授・附属高等女学校主事となり、第六臨時教員養成所講師も兼ねた。
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月2… 出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月22日 - 1981年〈昭和56年〉3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家・慈善家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。フランス共和国文化勲章コマンドール受章。 神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。同校で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。同期に高畑誠一、永井幸太郎、和田恒輔。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した。 弟(六男)・出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。
伊藤 述史(いとう のぶふみ、1885年〈明治18年〉8月1… 伊藤 述史(いとう のぶふみ、1885年〈明治18年〉8月19日 - 1960年〈昭和35年〉4月3日)は、日本の外交官。情報局総裁、貴族院議員等を務めた後、戦後GHQにより公職追放された。 愛媛県新居郡宇高村(高津村を経て現新居浜市)で、医師・伊藤道冲の長男として生まれた。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後外務省入省。その後リヨン大学に留学。各赴任先で英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語などを次々と習得し語学の天才と評された。法学博士。妻はフランス人。 満州事変前後を通じ国際連盟政府代表代理を務め日本の国際連盟脱退を実現。1937年から支那欧米諸国歴訪特命全権公使を務め、日独伊三国同盟推進派だった大島浩駐ドイツ大使や白鳥敏夫駐イタリア大使の説得にあたったのち、1940年からは内閣情報部長や初代内閣情報局総裁を務め情報統制を行った。
水野 啓(みずの けい、1885年(明治18年)8月18日 … 水野 啓(みずの けい、1885年(明治18年)8月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 水野桃太郎の三男として福井県南条郡武生町(現・越前市)に生まれる。1908年(明治41年)9月、日本大学法律科専門部を卒業し、1912年(明治45年)7月、台湾総督府巡査として赴任する。 台北州・高雄州各警察所勤務、鳳山郡警務課長、岡山郡警務課長、澎湖庁警務課長、台北南警察所長、台南州虎尾郡守などを歴任し、1940年(昭和15年)1月に退官し、台湾故銅鉄屑統制の代表となった。
大野 精七(おおの せいしち、1885年(明治18年)8月1… 大野 精七(おおの せいしち、1885年(明治18年)8月17日 - 1982年(昭和57年)12月30日)は、日本の医師、医学博士。 茨城県河内郡生板村(現・稲敷郡河内町)生まれ。東京帝国大学医学部卒。1924年(大正13年)、北海道帝国大学産婦人科学教授。1950年(昭和25年)、北海道立札幌医科大学学長(初代)に就任し、同学の発展に貢献した。1961年、北海道文化賞受賞。 また、日本のスキー界の発展にも寄与した。1921年北海道帝国大学への赴任をきっかけにスキーを始め、2年間のドイツ留学後1924年北大スキー部第五代部長にも就任。1926年、手稲山に日本最初のスキー小屋「パラダイス・ヒュッテ」を建設、その後も空沼小屋(1928年)や、「無意根小屋」(1931年)の建設にも携わった。
深沢 吉平(深澤 吉平、ふかさわ きちへい / ふかざわ き… 深沢 吉平(深澤 吉平、ふかさわ きちへい / ふかざわ きっぺい、1885年(明治18年)8月15日 - 1957年(昭和32年)12月15日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員、北海道空知郡音江村長、同郡北村長。酪農の先覚者。 山梨県中巨摩郡南湖村(現南アルプス市)で深沢龍平の長男として生まれる。1903年、深沢家は財産を処分し一家を挙げて北海道音江村(現深川市)に入植した。 その後、請われて戸長役場に就職し、音江村長、北村長を務めた。産業組合の普及に尽力し、音江信用購買販売組合長、音江村農会長、北海道酪農販売組合連合会理事、北海道信用購買販売利用組合連合会理事、北海道興農公社社長などを務めた。
清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 - 195… 清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 - 1955年12月27日)は、日本の医学者、人類学者、考古学者、考古学・民俗学資料の収集家。生体染色法の応用で組織球性細胞系を発見したことで知られる。 1885年、岡山県医学校長兼病院長の清野勇の長男として生まれる。父の勇は東京帝国大学医学部第一期卒業生で、のちに大阪医学校の校長・病院長も務め、臨床医学の大家として知られ財を成した。祖父の清野一学は沼津藩医。謙次は北野中学、第六高等学校 (旧制)を経て、考古学の道を希望したが父親が許さず京大医学部へ進学。 1909年、京都帝国大学医学部を卒業。藤浪鑑の病理学教室へ助手として入り、生体染色の研究を始める。
小野 秀雄(おの ひでお、1885年8月14日 - 1977… 小野 秀雄(おの ひでお、1885年8月14日 - 1977年7月18日)は、日本のジャーナリズム研究、マスコミュニケーション研究の先駆者であり、「新聞学」の名による斯学の確立に貢献した。万朝報などで新聞記者を経験した後、大学院に進んだ。研究者としては戦前から戦後にかけて東京帝国大学・東京大学、明治大学および上智大学(初代新聞学科長)に所属した。 1949年、戦前から永く所属した東京帝国大学文学部新聞研究室が改組され、東京大学新聞研究所(現在の東京大学大学院情報学環・学際情報学府の前身の一つ)が設立された際、既に講師としていったん定年となっていたにもかかわらず特例措置として教授となり、同研究所の初代所長に就任した。
加藤 勝太郎(かとう かつたろう、1885年〈明治18年〉8… 加藤 勝太郎(かとう かつたろう、1885年〈明治18年〉8月14日 - 1953年〈昭和28年〉8月6日)は、愛知県中島郡大里村(現・稲沢市)出身の実業家(貿易商)。 株式会社加藤商会社長。近代の名古屋は首都圏や京阪神の貿易業者への依存度が高かったが、加藤商会は名古屋市に本社を置いて名古屋港からの直接貿易を標榜し、名古屋における貿易の発展に寄与した。 1885年(明治18年)8月14日、愛知県中島郡大里村(現・稲沢市)に生まれた。父は農家の加藤周三郎であり、勝太郎は長男だった。しばらくして加藤家は名古屋市中区に転居し、伊勢山町に時計の製造販売の店を構えた。 父は神戸や横浜に時計の買い付けに赴く際、しばしば門前尋常小学校在学中の勝太郎を同行させた。
春日 弘(かすが ひろむ、1885年(明治18年)8月8日 … 春日 弘(かすが ひろむ、1885年(明治18年)8月8日 - 1970年(昭和45年)9月12日)は、長野県下高井郡穂波村佐野(現・山ノ内町)出身の日本の実業家。 住友本社理事、取締役。住友金属工業初代社長。ダイキン工業初代会長。JOC日本オリンピック委員会委員。1964年東京オリンピック大会組織委員会委員及び同財務委員。日本陸上競技連盟2代目会長。ヘルシンキオリンピック大日本選手団総監督。ローマオリンピック日本選手団長。大阪府公安委員長。正四位勲二等瑞宝章。国際陸連IAAF功労賞。 長野県会議員(第1回県議選から第4回県議選)を務めた春日与市の長男の春日喜一郎の長男として生まれる。春日与市は、約12キロに及ぶ引き水工事である屏風堰を松代藩に一切費用を頼らず自己・有志資金のみで建造 した北信濃の名士で、その長男の春日喜一郎の代では、所有する田畑は60町歩(180000坪)、山林は現在の佐野の8割に達していた。
豊田 貞次郎(とよだ ていじろう、1885年(明治18年)8… 豊田 貞次郎(とよだ ていじろう、1885年(明治18年)8月7日 - 1961年(昭和36年)11月21日)は、日本の海軍軍人、政治家、実業家。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。 和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。海兵33期首席、海大甲種17期首席。 旧制天王寺中学校より東京外語学校英語科を経て海軍兵学校に入校し第33期を首席卒業。同期に卒業順位第26位の豊田副武大将がいるが、大分県出身の副武とは兵学校入学まで面識がなかった他人同士である。苦労人の副武と天才肌の貞次郎はタイプこそ正反対だが、将官に昇進する頃は「両豊田」と呼ばれ、将来を嘱望された。日露戦争が終わったばかりの1905年(明治38年)11月に第33期は卒業し、東南アジア方面へ遠洋航海に出た。
河村 嘉一郎(かわむら かいちろう、1885年(明治18年)… 河村 嘉一郎(かわむら かいちろう、1885年(明治18年)8月7日 - 1943年(昭和18年)10月17日)は、佐賀県出身の実業家、政治家。初代唐津市長。 1885年(明治18年)旧唐津藩士・河村藤四朗の長男として、佐賀市赤松町で生まれる。旧制唐津中学、旧制岡山第六高校を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科、政治学科を卒業。一時渡鮮したが、1923年(大正12年)帰郷。唐津銀行に入り取締役支配人となる。のち唐津電気製鋼所社長、唐津薫業(株)専務取締役、唐津製紙(株)社長、唐津製綿(株)監査役、唐津商工(株)監査役、小倉東洋車輌(株)常務取締役などを務め、唐津実業界の発展に貢献した。
山口 重知(やまぐち しげとも、1885年(明治18年)8月… 山口 重知(やまぐち しげとも、1885年(明治18年)8月7日 - 没年不詳)は、東京市区長。教育者。 新潟県三島郡与板町(現在の長岡市)出身。1909年(明治43年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。栃木県立真岡中学校教諭、秋田県立横手中学校教諭、鹿児島県立第二鹿児島中学校教諭、鹿児島県立出水中学校校長、福岡高等学校教授、静岡県立沼津中学校校長を歴任した。1925年(大正14年)、台湾総督府視学官に転じ、台北高等商業学校教授を兼ねた。 その後、名古屋市教育部長、東京市視学・主事・教育局体育教育課長を務めた。1938年(昭和13年)、王子区長に転じ、1940年(昭和15年)からは淀橋区長を務めた。
吉川 晴十(きっかわ はるじゅう、1885年8月6日 - 1… 吉川 晴十(きっかわ はるじゅう、1885年8月6日 - 1952年6月5日)は、日本の冶金学者。 長野県諏訪郡玉川村(現・茅野市)に生まれる。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1907年旧制第一高等学校卒業、1910年東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業する。同年より呉海軍工廠付となる。 1911年にドイツに留学する。1914年にはイギリスに渡り、マンチェスター大学で研究員を務めた。 1915年、呉海軍工廠製鋼部造兵監督官に就任する。1922年に海軍造兵中佐となる。呉海軍工廠製鋼部長(1927年)を経て、1932年に海軍造兵少将に昇進した。 1933年に東京帝国大学教授に就任。
米倉 龍也(よねくら りゅうや、1885年(明治18年)8月… 米倉 龍也(よねくら りゅうや、1885年(明治18年)8月6日 - 1980年(昭和55年)10月24日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員。 長野県南安曇郡烏川村(現安曇野市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、盛岡高等農林学校卒業。在学中に「平民新聞」を愛読し、河上肇の著作に感銘を受け、産業組合運動に強い関心を持つ。1907年に卒業後は千葉県農業会技師から1916年南安曇郡北部農業学校(長野県穂高商業高等学校)校長となり、烏川信用購買組合創立に参加し、理事となる。1920年から長野県農商課産業組合理事、1925年に長野県信連主事となり、昭和初期の金融恐慌に緊急貸し出しで手腕を発揮し、県下各地の産業組合や農協の充実に奔走し、各農業団体の最高責任者を歴任する。
藤井 日達(ふじい にったつ/にちだつ、1885年(明治18… 藤井 日達(ふじい にったつ/にちだつ、1885年(明治18年)8月6日 - 1985年(昭和60年)1月9日)は、熊本県阿蘇(現・阿蘇市一の宮町)出身の僧侶。 大分県の臼杵農学校に学び、1903年(明治36年)に臼杵の日蓮宗法音寺にて出家。1912年(大正元年)日蓮宗大学(現在の立正大学)入学。さらに浄土宗大学院、真言宗学林、法隆寺勤学院、真言宗連合大学、臨済宗建仁寺僧堂にて学ぶ。 1918年(大正7年)10月、旧満州の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立、日本国内では1924年(大正13年)に最初の日本山妙法寺を、静岡県富士市の田子の浦に建立する。1930年(昭和5年)にインドに渡り、1933年(昭和8年)ガーンディーと出会い、非暴力主義に共鳴。
3代 高広 次平(たかひろ じへい、1885年(明治18年)… 3代 高広 次平(たかひろ じへい、1885年(明治18年)8月3日 - 1950年(昭和25年)9月25日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は欣蔵。 2代高広次平の長男として富山県礪波郡福岡町(西礪波郡福岡町を経て現高岡市)に生まれる。早稲田大学政治経済科修了。1914年(大正3年)時点で県内で4番目の多額納税者だった。1920年(大正9年)3代次平を襲名した。 1915年(大正4年)中越鉄道の3代目社長に就任し、全線を開通させた。ついで1919年(大正8年)西礪波郡会議員を経て、福岡町会議員、同農会長を歴任する。ほか、山又機業社長、北陸信託、中越鉄道、富山県農工銀行、富山日報社各監査役などを歴任した。
小野 政方(おの まさかた、1885年(明治18年)8月3日… 小野 政方(おの まさかた、1885年(明治18年)8月3日 - 1945年(昭和20年)1月19日)は、日本の児童文学者・編集者。 妻は小説家の小野美智子。 山梨県東八代郡境川村(現:山梨県笛吹市)出身。山梨県師範学校を卒業後、八代尋常小学校に訓導として勤務した。その後、上京して巖谷小波に師事し、『少年世界』『少女世界』に童話を発表した。執筆活動初期には、故郷を流れる笛吹川にちなみ「小野小峡」の筆名を名乗った。1912年に山内秋生、竹貫佳水、蘆谷蘆村、大井冷光らと、日本初の児童文学団体である少年文学研究会を設立。1920年には、研究社『小学少女』の編集に当たっている。のちに、小川未明、楠山正雄、鹿島鳴秋、蘆谷蘆村、浜田廣介が創立準備をした童話作家協会に参画。
塚本 虎二(つかもと とらじ、1885年8月2日 - 197… 塚本 虎二(つかもと とらじ、1885年8月2日 - 1973年9月9日)は、キリスト教無教会主義の伝道者、新約聖書研究家。
藤沢 衛彦(ふじさわ もりひこ、1885年8月2日 - 19… 藤沢 衛彦(ふじさわ もりひこ、1885年8月2日 - 1967年5月7日)は、日本の小説家、民俗学者、児童文学研究者。 明治18年(1885年)8月2日、東京生(埼玉県、福島県の説もあり)。 1907年明治大学卒業、藤沢 紫浪の筆名で通俗小説などを刊行する。1914年日本伝説学会を設立し、1917年から『日本伝説叢書』13巻を編纂、1921年より『日本歌謡叢書』を編纂、1926年から1927年まで雑誌『伝説』を刊行。 1922年、日本童話学会を創設。1926年童話作家協会、日本風俗史研究会を設立。 1932年より明治大学に新設された専門部文科で教授に就き、風俗史・伝説学などを講じた。1946年社会科、新聞科専任となり、1958年定年退職。
加藤 俊夫(かとう としお、1885年〈明治18年〉8月1日… 加藤 俊夫(かとう としお、1885年〈明治18年〉8月1日 - 1943年〈昭和18年〉6月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。広島市会議長(19代)。広島市会副議長(27代)。 愛媛県新居郡新居浜村(現在の新居浜市)出身。加藤省吾の長男。 東京正則中学校、日本大学専門部法律科を修業。1908年より広島市に出て、日の丸電線株式会社広島出張所を経営するなどし、さらに広島市場信用組合専務理事を務めた。 1921年、広島市会議員に当選、同副議長、同議長、広島県会議員、同議長を歴任する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では広島1区(当時)から非推薦で立候補して当選した。当選後は翼賛政治会に入り、大政翼賛会広島県協力会議長、同中央協力会議員となった。
木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)… 木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)8月1日 - 1945年(昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、静岡県出身の詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。 東京帝国大学医科大学で学ぶ傍ら「パンの会」を興し、これと前後して『明星』『中央公論』『スバル』『白樺』で、詩のほか短歌・戯曲・小説などを発表。作風は南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的などと評された。のち、自費によるヨーロッパ留学を経て愛知医科大学、東北帝国大学、東京帝国大学の医学部教授を歴任し、傍らで文明批評や随筆紀行を著述した。筆名はほかに、堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、北村清六などがある。
永松 利熊(ながまつ としくま、1885年(明治18年)8月… 永松 利熊(ながまつ としくま、1885年(明治18年)8月1日 - 1955年(昭和30年)1月13日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。 日本興業銀行出身。大同電力常務取締役、次いで日本発送電理事となり経理部門を担当した後、藤田組(現・DOWAホールディングス)常務取締役、日産火災海上保険(現・損害保険ジャパン)社長を務めた。鹿児島県生まれ。 永松利熊は1885年(明治18年)8月1日、鹿児島県薩摩郡永野村(現・さつま町)で士族永松愛熊の長男として生まれた。1908年(明治41年)に長崎高等商業学校を卒業。はじめ専売局へと入るが、1916年(大正5年)に退官し、株式会社日本興業銀行(興銀)に転じた。
本多 政樹(ほんだ まさき、1885年〈明治18年〉7月30… 本多 政樹(ほんだ まさき、1885年〈明治18年〉7月30日 - 1958年〈昭和33年〉1月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院多額納税者議員、貴族院男爵議員。 加賀八家本多家第12代当主・本多政以の長男として生まれる。父の死去に伴い、1921年8月10日、男爵を襲爵した。 京都帝国大学法科大学を修了。1921年、金沢商業会議所特別議員となる。以後、金沢商業会議所顧問、日本輸出織物染色工業組合連合会理事、森田染工場代表取締役、丸文機業場代表取締役、加州銀行取締役、内国貯金銀行重役などを務めた。 1932年(昭和7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、1939年(昭和14年)4月28日まで1期在任。
竹下 文隆(たけした ぶんりゅう、1885年(明治18年)7… 竹下 文隆(たけした ぶんりゅう、1885年(明治18年)7月28日 - 1975年(昭和50年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身。竹下満蔵の二男として生まれる。1918年、早稲田大学法律科を卒業した。 1915年、政治雑誌『国論』を創刊し、その社長兼主筆に就任。1918年、東京医学専門学校の創立に参画し、同校主幹、同理事を務めた。その他、丸之内銀行監査役、横浜倉庫監査役、有限責任信用組合共同金庫理事長、日出貯蓄銀行取締役頭取などを歴任。 1928年2月、第16回衆議院議員総選挙に輸入候補として沖縄県から立憲政友会所属で出馬し当選。運動員が大がかりな選挙違反を行い「金権候補」と言われた。
飯島 誠太(いいじま のぶた / せいた、1885年(明治1… 飯島 誠太(いいじま のぶた / せいた、1885年(明治18年)7月28日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の牧師。学校法人大阪女学院理事長。 日本基督教会牧師飯島彌太郎の長男として群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)に生れる。 1886年(明治19年)伊勢崎日本基督教会にて幼児受洗。1903年 (明治36年)名古屋教会で信仰告白。明治学院神学部在学中、賀川豊彦らと神戸神学校に転学し同校卒業。 1914年(大正3年)からプリンストン大学、ニューヨーク聖書大学に留学。帰国後、日本基督教会(現、日本キリスト教会)岐阜教会牧師となり1925年(大正14年)堺川尻教会(大阪府堺市)牧師となる。
浜野 徹太郎(濱野 徹太郎、はまの てつたろう、1885年7… 浜野 徹太郎(濱野 徹太郎、はまの てつたろう、1885年7月26日 - 1974年1月21日)は、日本の政治家である。和歌山県西牟婁郡串本町(2005年4月1日に東牟婁郡古座町と合併し西牟婁郡から東牟婁郡に編入)出身だが、選挙区が旧兵庫1区だったため、一部の人名事典では出身地を兵庫県としてあるものもある。 1916年に中央大学専門部法律科を卒業。多年小学校訓導、弁護士を経て1930年の第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で立候補して初当選。以降衆議院議員選挙に連続5回当選した。 弁護士出身という経歴のため、政治家としても平沼内閣の司法参与官、司法省委員、鈴木貫太郎内閣の司法政務次官等、司法分野の要職を歴任した。
浅間 義雄(あさま よしお、1885年7月25日 - 194… 浅間 義雄(あさま よしお、1885年7月25日 - 1945年9月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍司政長官。 1885年7月、山形県米沢市北谷地小路に生まれる。米沢尋常中学興譲館を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1910年、歩兵中尉として陸軍戸山学校に分遣、成績優秀につき恩賜の時計を賜る。1912年、天津に駐屯。1914年、中隊長として青島に従軍(青島の戦い)。1921年、歩兵大尉、遼陽に駐屯。1923年、歩兵少佐、浜松師範学校配属将校。 1927年、歩兵第32連隊大隊長、後に陸軍歩兵学校分遣。1931年、歩兵中佐、第8師団高級副官、1933年まで満州事変(熱河作戦)に参加する。
吉田 久(よしだ ひさし、1884年(明治17年)8月21日… 吉田 久(よしだ ひさし、1884年(明治17年)8月21日 - 1971年(昭和46年)9月20日)は、日本の裁判官、貴族院議員、大学教授である。福井県出身。位階および勲等は従三位・勲三等。 1884年8月21日、福井市佐佳枝上町の八百屋の長男として出生し、幼い頃から神童と呼ばれていたため、店をたたみ上京。一家は人力車業を営んだが、次第に振るわなくなり、日清戦争開戦の年、番町高等小学校尋常科を中退し、福井に戻ることとなった。後再び上京し、裁判所の給仕をして生計を立てた。弁護士の書生をしながら東京法学院(のちの中央大学)にて学ぶ。1905年(明治38年)に東京法学院を卒業し判事検事登用試験に次席合格する。