広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7… 広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。
蟹座:10,068人
広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7… 広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。
3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年… 3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年7月14日(慶応4年5月25日) - 1933年(昭和8年)6月25日)は、三河南設楽郡東郷村八束穂(現・愛知県新城市八束穂)出身の医師・実業家・郷土史家。「牧野文斎」は襲名制であり、本稿では3代目について記述する。 牧野家は三河吉田藩の藩医だったが、祖父の牧野竜庵(初代牧野文斎)は幕末にその職を辞した。宝飯郡一宮村江島(現・豊川市一宮町)から南設楽郡東郷村八束穂(現・新城市八束穂、やつかほ)に移り住み、信玄病院を開設して初代院長となった。当初は主屋の一部を診療所として使用していたが、やがて2階建の建物を当地に移築して病院とした。父の牧野謙作(2代目牧野文斎)もこの地で医業に励み、信玄病院の2代目院長となった。
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年… 湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。 慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。
平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年… 平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年5月24日) - 1932年(昭和7年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。徳島県吉野川市出身。徳島県立徳島中学校卒業。 麻植郡山川町瀬詰(現在の吉野川市)で生まれる。実家は代々酒造業、藍商を営んでいる。 後に鉱山業に転じ海部郡の浅川鉱山で成功し、後に三菱鉱業に譲渡した。 徳島県会議員を経て1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙に当選。その後、貴族院議員に立候補をしたが、病のため辞退した。 1932年(昭和7年)、65歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応… 武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応4年5月23日) - 1943年(昭和18年)12月14日)は、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・戦間期の陸軍軍人。獣医学者・獣医師。陸軍獣医学校長、陸軍獣医総監を歴任した。最終階級は陸軍獣医中将。獣医学博士(1902年)、医学博士(1917年)。馬学の研究で知られた。 静岡県出身。静岡中学に学んだ。1892年(明治25年)、東京帝国大学農科大学獣医科卒業。1902年(明治35年)、獣医学博士(東京帝国大学)、1917年(大正6年)、医学博士を取得。 1892年(明治25年)12月20日、陸軍三等獣医。1895年(明治28年)1月8日、陸軍二等獣医。
大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7… 大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7月11日) - 明治35年(1902年)9月6日)は日本の教育者。出生名は大江磯吉(いそきち)。 1868年、信濃国伊那郡下殿岡村(現・長野県飯田市下殿岡)に生まれた。父および祖父は、殿岡、名古熊、毛賀の3カ村の警備「下役」に従事し、江戸時代は「番太」とされていた家系である。 地域最初の小学校で一年生から教育を受ける。開校された下伊那中学校の第一期生として入学する。1885年7月、改名され長野県立中学校飯田支校の第一期卒業生となる。1886年9月、長野県師範学校高等師範科第2級に編入となり、翌年7月卒業する。 1886年9月2日に、長野県諏訪郡平野小学校の訓導として赴任するが、同僚教師の間で排斥する動きとなり、7日後に辞職を余儀なくされる。
永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868… 永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868年7月10日) - 昭和4年(1929年)1月20日)は、明治・大正期の日本の海事実業家。高等商業学校(現・一橋大学)講師などを経て、日本郵船の副社長を務めた。 遠江国横須賀藩に生まれる。安房国花房藩横渚出身。高等商業学校(現・一橋大学)本科第二年生だった1889年から、村瀬春雄とともにアントワープ商業大学(Institut supérieur de commerce d'Anvers:現・アントウェルペン大学(英語版))に留学し、リサンシェ(フランス語版)(学士)を取得して卒業後、1894年に帰国し、高等商業学校講師となった。1895年に日本郵船に入社した。
本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7… 本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7月9日) - 昭和21年(1946年)3月29日)は、日本の小説家。本名は本田 浜太郎。 信濃国伊那郡山村(現長野県飯田市)生まれ。明治維新後、一家で上京。貧困により小学校を中退して丁稚奉公し、1881年砲兵工廠の職工となる。1887年砲兵工廠の火工科を卒業して熊本の第6師団野戦砲兵隊付へ赴任。「熊本忠愛新報」へ投稿するうちに認められ、1891年には同社に文芸記者として入社した。日清戦争の従軍記者をした後、1897年に内藤湖南に招かれて「台湾日報」の編集者となる。1905年「大阪新報」に「日本丸」が入選したのを機に作家生活に入り、結核の療養生活をしながら多くの大衆小説を大手新聞社やキングなどに掲載した。
石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月… 石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月19日)- 1939年(昭和14年)3月19日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員をつとめた。 肥前国小城郡、のちの佐賀県小城郡南多久村(現在の多久市)に生まれる。生家の石井家は、旧佐賀藩主鍋島家の外戚家門で、佐賀地方で繁栄した一族であった。 地元で小学校の教師として働き始めるが、郷里の先輩である大隈重信らの活躍に憧れて、政治家を志す。1888年(明治20年)には、弱冠20歳にして郡会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出す。10年後には佐賀県会議員に当選し、その期間、第17代県会議長もつとめた。また、小城郡是製糸、多久金融、多久土地の各社の取締役社長などもつとめた。
長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4… 長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4年5月18日) - 1907年(明治40年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる長谷川挺進隊の指揮官である。戦後旧部下の不祥事が原因で自決した。最終階級は陸軍騎兵少佐。 父は会津藩藩士長谷川信吉である。信吉は禄高十三石四人扶持の武具役所勤めであった。長谷川が誕生した際、すでに長兄の丑吉が白河の戦いで討死しており、長谷川が跡を継いだ。戦後に斗南藩三戸郡門前村に移住したが、1873年(明治6年)に 会津本郷に戻った。陶芸家の弟子となり、旧藩校日新館を再興した私立日新館(現会津高校)に進むが退校。単独で上京し山川浩家の家僕となる。
能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月1… 能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月18日〉 - 1903年〈明治36年〉?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年(明治10年)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現在の崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年(明治18年)9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺の普通教校(現在の龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。
磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17… 磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17日)- 1925年(大正14年)10月25日)は、明治後期から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。 上総国夷隅郡、のちの千葉県夷隅郡市野郷村(現:勝浦市市野郷)で、富豪・磯野市郎兵衛の長男として生まれる。1892年(明治25年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。1904年(明治37年)12月、家督を相続し、造林業を営む。 地方森林会議員、日新護謨取締役なども務める。 1912年(大正元年)、東京府東京市小石川区大塚窪町(現:東京都文京区小石川五丁目)に近代和風建築の粋を集めた自邸が竣工。同邸は2005年(平成17年)12月27日、「旧磯野家住宅」として国の重要文化財に指定される。
加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年… 加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年7月6日) - 1949年(昭和24年)8月16日)は、出羽国鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の農学者。農学博士。九州帝国大学教授。水原高等農林学校教授。東京農業大学教授。 水稲の品種改良に約25年に渡り取り組み続け、数多くの新品種の創出を指導し東北稲作改良の父といわれた。代表的な新品種に「陸羽132号」がある。また、世界に存在する稲を印度型と日本型の2種類の型に分類する事を提案した。著作物に、水稲品種の改良、新品種育成に関する論文25編、講演筆記22編がある。
板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(18… 板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(1868年7月4日) - 昭和17年(1942年)2月4日)は、日本の教育家。従四位。 慶応4年5月15日(1868年7月4日)土佐藩士・板垣退助の嫡男として土佐国高知城下に生まれる。母は土佐藩士・小谷正臣(善五郎)の娘、鈴。 明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実弟・乾正士と共に参加。同社は機関紙『江南新誌』を発行するなど、立志社傘下の有力な結社として活動。北川貞彦、弘瀬重正、宮地茂春、徳弘馬域郎らがいた。 明治21年(1888年)5月15日、山田平左衛門を校長に招聘し、高知県土佐郡種崎町に私立学校泰平学校を設立した。
橋本 辰二郎(はしもと たつじろう、1868年6月30日〈明… 橋本 辰二郎(はしもと たつじろう、1868年6月30日〈明治元年5月11日〉- 1951年〈昭和26年〉4月12日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。位階は正五位。勲等は勲二等。 豊前国、のちの大分県で橋本建平の二男として生まれる。1885年(明治18年)3月、伯父橋本雄造の養子となった。専修学校(現専修大学) を修了し、1911年(明治44年)家督を相続した。 1906年(明治39年)以降、長崎商業会議所会頭、橋本汽船社長、福洋汽船社長、橋本商事社長、山下コークス社長、日本タイプライター社長、九州汽船社長、長崎製鉄社長、長崎県商工経済会会頭などを務めた。 政界では長崎市会議員に選出された。
瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち、1868年6月29日〈慶応… 瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち、1868年6月29日〈慶応4年5月10日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月8日)は、日本の音楽家、海軍軍楽師。軍艦行進曲や愛国行進曲などを作曲し、「日本行進曲の父」とされる。 琉球王朝に対する接待係を務める薩摩藩士・瀬戸口覚兵衛の家に生まれる。出生地は鹿児島県鹿児島郡小川町(現・鹿児島市)と肝属郡垂水村(現・垂水市)の二説がある。 13歳の時、覚兵衛の実弟であり、東海鎮守府警吏補であった大山軍八の養子となって大山藤吉と名を改め、横浜(東海鎮守府が置かれていた。1885年に横須賀に移転)に移る。1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募し採用される。クラリネットを学んだほか、フランツ・エッケルトと吉本光蔵に和声を師事し、後に東京音楽学校外国人教師のアンナ・レール(ピアノ)とアウグスト・ユンケルとグスタフ・クローンにも師事した。
松方 正雄(まつかた まさお、1868年6月26日(慶応4年… 松方 正雄(まつかた まさお、1868年6月26日(慶応4年5月7日) - 1942年(昭和17年)3月25日)は、鹿児島県出身の実業家。父は松方正義で四男。浪速銀行頭取、共同火災保険取締役、豊川鉄道監査役、阪神電鉄社長などを歴任。 1878年に父の従兄・松方勇助の養嫡子となり、学習院大学、東京大学を経て英国留学。アメリカのペンシルベニア大学時代は野球とアメリカンフットボールのレギュラー選手で、帰国してからは関西財界で活躍した。 1935年に大阪タイガースの初代取締役に就任し、東京巨人軍を越えるチームにするために力を注ぎ、タイガースの基礎を築き上げている。また、戦前のタイガース対阪急軍の試合を「関西の早慶戦」と名付け、関西地区の名物カードとして定着させた。
大芝 惣吉(おおしば そうきち、1868年6月23日(慶応4… 大芝 惣吉(おおしば そうきち、1868年6月23日(慶応4年5月4日)- 1925年(大正14年)10月7日)は、日本の内務官僚、検察官、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 甲斐国巨摩郡村山西割村(現・山梨県北杜市)で大芝治貫の長男として生まれる。1890年、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。代言人試験に合格。1894年、弘前区裁判所判事に任官。以後、盛岡・秋田・大津・八王子の各区裁判所検事などを歴任。 以後、佐賀県事務官・警察部長、富山県事務官・警察部長、福島県警察部長、同内務部長などを務める。1913年6月、群馬県知事に就任し、1914年4月まで在任。1915年3月、第12回衆議院議員総選挙で福島県郡部区に立憲政友会から出馬し当選。
大澤 三之助(おおさわ さんのすけ、1867年7月22日(慶… 大澤 三之助(おおさわ さんのすけ、1867年7月22日(慶応3年6月21日) - 1945年(昭和20年)7月26日)は、日本の建築家。東京美術学校等で後進を指導した。 江戸(現東京)麻布生まれ。父・大沢昌督は町医者で、維新後、陸軍の薬剤官となる。18歳の時、尾崎紅葉らの硯友社が創刊した「我楽多文庫」の挿絵を描いた。1891年、第一高等学校卒業、東京帝国大学工科大学造家学科に進み、1894年卒業。卒業後、1年志願兵として兵役に就く。 1897年3月、東京美術学校図案科講師、1902年12月、図案科二部(建築装飾)の教授に就任。また、1899年 - 1904年は東京帝国大学で講師を務めたほか、1905年には陸軍歩兵大尉となる。
川島 亀夫(かわしま かめお、慶応3年6月19日(1867年… 川島 亀夫(かわしま かめお、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 昭和4年(1929年)12月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 美作国苫田郡津山(現在の岡山県津山市)出身。1890年(明治23年)、英吉利法律学校(現在の中央大学)英語法科を卒業。高等文官試験に合格し、司法官として各地の裁判所に勤務した後、司法省参事官、司法大臣秘書官を務めた。その後、官を辞し、弁護士を開業した。 1909年(明治42年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。日本製糖汚職事件で起訴されるが、無罪判決を受けた。
三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(18… 三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 1949年11月30日)は、石川県出身の日本の陸軍軍人・政治家(貴族院議員)である。階級位階勲等功級は陸軍主計中将従三位勲一等功四級。宇垣一成陸相の下で宇垣軍縮を断行した陸軍省経理局長である。 能登国鹿島郡笠師村(現石川県七尾市中島町地区)に生まれる。兄には石川県会副議長となった三井亥三郎などがいる。 陸軍士官学校本科を卒業(士官候補生第6期)し、明治28年(1895年)に陸軍歩兵少尉に任じられる。その後、陸軍歩兵大尉となり、近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる。明治35年(1902年)には、歩兵科から経理部に転科し、陸軍一等副監督(大尉相当官)に転ずる。
守屋 義之(もりや よしゆき、1867年7月18日〈慶応3年… 守屋 義之(もりや よしゆき、1867年7月18日〈慶応3年6月17日〉 - 1938年〈昭和13年〉1月20日)は、日本の実業家。広島電気、島根電力各社長。広電証券、太田川水力電気各代表取締役。瀬戸内海横断電力取締役。電気協会中国支部長。広島商工会議所会頭。中国財界の有力者であった。 広島県安芸郡府中村(現・府中町)生まれ。守屋棟蔵の長男。生家は土地の旧家・素封家として知られたが、父・棟蔵に至り家産はほとんど尽きた。 7歳の時に小学校に入学した。それから11歳の1月までは通学していたが、3月には卒業も出来るという際どい時に祖父・貞次の死亡によって急に農事を手伝わねばならぬ事となり、小学校を中途退学した。
池田 亀治(いけだ かめじ、1867年7月16日(慶應3年6… 池田 亀治(いけだ かめじ、1867年7月16日(慶應3年6月15日)- 1934年(昭和9年)3月8日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家、銀行家。衆議院議員。号・万年、俳号歌号・伸穂。 出羽国仙北郡、のちの秋田県仙北郡新刈和野村(刈和野村、刈和野町、西仙北町を経て現大仙市)で、豪農・池田勘左衛門の長男として生まれる。根本通明に師事し勉学に励んだ。 刈和野町会議員となる。1898年(明治31年)秋田県会議員に選出され、同参事会員、仙北郡会議員、所得調査委員にも在任した。1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(秋田県郡部、立憲政友会)で初当選し、その後、第16回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
矢口 長右衛門(やぐち ちょうえもん、前名・縫太郎、1867… 矢口 長右衛門(やぐち ちょうえもん、前名・縫太郎、1867年7月12日(慶應3年6月11日) - 1935年(昭和10年)11月4日)は、日本の実業家、政治家(貴族院議員)、栃木県多額納税者。族籍は栃木県平民。 先代矢口長右衛門の長男。高松長三の実兄。家は代々農業及び醤油・醸造業を営み、栃木県下の大地主である。 1887年、東京専門学校(早稲田大学の前身)英語本科を卒業。帝国大学法科大学選科に入り、理財学を専攻し、帰郷して祖業を継承する。1911年、家督を相続し、旧名・縫太郎を改めて先代の名を継ぐ。 早稲田大学評議員、塩谷郡醤油組合長、宝積寺銀行頭取、宝積寺銀行取締役監督、宇都宮電球取締役会長、矢板銀行、小川銀行、喜連川興業銀行、下野中央銀行、下野新聞、宝積寺米券倉庫、宇都宮米券倉庫、塩原軌道各取締役、東海生命保険監査役などをつとめた。
綾部 惣兵衛(あやべ そうべえ、慶応3年6月6日(1867年… 綾部 惣兵衛(あやべ そうべえ、慶応3年6月6日(1867年7月7日) - 大正12年(1923年)10月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。薬剤師。 武蔵国入間郡川越町(現在の埼玉県川越市)出身。東京帝国大学医科大学製薬科や日本薬学校で薬学を学んだ後、郷里に薬局を開き、後には日本薬剤師会埼玉支部長となった。また川越町会議員、入間郡会議員、同参事会員、埼玉県会議員、同参事会員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回に至るまで4回当選を果たした。 その他に川越商業会議所副会頭を務め、また日本薬剤株式会社取締役、帝国化学製麻株式会社取締役、中武銀行取締役、関東印刷株式会社取締役、東日本炭鉱株式会社監査役を務めた。
山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6… 山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6月4日)- 1935年(昭和10年)11月19日)は、日本の教育者。夫は法学者で女子実脩学校(後の山脇高等女学校)創立者の山脇玄。旧姓・小倉。聖公会信徒。 1867年(慶應3年)出雲国松江北田町(現在の島根県松江市北田町)で松江藩士小倉忠の長女として生まれた。 1883年(明治16年)松江女子師範学校を卒業後、松江の宣教師の紹介で仙台に赴き、アメリカ人宣教師スワルツ夫妻のもとで半年間英語を学んだ。 1885年(明治18年)上京し、麻布飯倉片町のイギリス人ホールのもとで2年間、経済学や文学を学んだ後、女子教育奨励会の教師であったイングランド国教会の宣教師カロライン・カルクスのもとで25歳まで英語や洋風作法を学んだ。
加賀 卯之吉(かが うのきち、旧姓・山室、1867年7月4日… 加賀 卯之吉(かが うのきち、旧姓・山室、1867年7月4日〈慶応3年6月3日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(三重県郡部選出、当選2回、憲政会)、ジャーナリスト。族籍は三重県平民。 伊勢国桑名(後・三重県桑名郡桑名町、現・桑名市)に生まれる。山室今助の長男。1884年、加賀金七の養子となり、1886年、養母の後を承け家督を相続した。英漢学を修めた。 桑名郵便局雇、同局長代理、名古屋逓信官吏局員を務めた。その後、伊勢新聞社、福岡日日新聞社及び神戸新聞社の経済通信の嘱託となる。また、日本商業新報を創刊し社長となった。 経済記者として、毎年8月から11月までの約90日間に渡って全国の米作の状況や農家の財政状況を視察して、次年度の需給の予測とその対策を発表し、『福岡日日新聞』『関門日日新聞』『神戸新聞』『やまと新聞』『中外日報』『帝国通信』などに記事を提供した。
石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6… 石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6月2日) – 1927年(昭和2年)1月28日)は、日本の小説家。本名、助三郎。横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。 尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。「雨香」とも号し、また都々逸では「自劣亭」の号を用いて活躍した。 1867年(慶応3年)6月2日、横浜の弁天町に石橋政方の長男として生れる。父・政方は外務省官吏。祖父は長崎の通詞で、石橋助左衛門といった。幼少時に上京し神田に住む。お茶の水の師範学校附属小学校に通い、1878年(明治11年)、学習院に入学。
奈良坂 権六(ならさか ごんろく、1867年7月2日(慶応3… 奈良坂 権六(ならさか ごんろく、1867年7月2日(慶応3年5月13日) - 1923年(大正12年)9月24日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(4期)。 陸奥国黒川郡石積村(のち陸前国黒川郡石積村→宮城県黒川郡石積村→富谷村→富谷町、現・富谷市)出身。黒川郡大童村(のち黒川郡富谷村→富谷町、現・富谷市)の奈良坂家の養嗣子となる。西成田小学校教員、学務委員、収入役、富谷村会議員を経て、1914年(大正3年)富谷村長に就任した。村長は1922年(大正11年)まで務め、村政に尽くした。 退任後は仙台市に移り住み、1923年(大正12年)に死去した。 この項目は、宮城県に関連した書きかけの項目です。
小川 三知(おがわ さんち、1867年7月1日(慶応3年5月… 小川 三知(おがわ さんち、1867年7月1日(慶応3年5月29日)- 1928年(昭和3年)10月24日)は大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家。 橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォー、アール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。 慶応3年(1867年)、静岡県静岡市裏一番町十五番地(現在の住吉町)で静岡藩医・小川清斎の次男として生まれた。静岡濠頭小学校、静岡中学校卒業後、上京。明治16年(1883年)、独逸学協会学校予備科に入学。長男漣平が早世したため、家業の医者になるべく第一高等中学校に入学したが、絵画への憧れは消えなかった。
今村 恵猛(いまむら えみょう、英: Yemyo Imamu… 今村 恵猛(いまむら えみょう、英: Yemyo Imamura、慶応3年5月27日(1867年6月29日) - 昭和7年(1932年)12月22日)は、明治後半から昭和戦前期にかけてハワイで活動した浄土真宗本願寺派(本派、西本願寺)僧侶。本派本願寺ハワイ別院初代輪番(住職)。仏教青年会(YMBA)の設立者でもある。 1867年、越前国足羽郡東郷村(現在の福井県福井市東郷地区)の専徳寺に生まれる。1876年、10歳で得度。京都の西本願寺普通教校(龍谷大学の前身)で学んだ後、奨学金を得て東京の慶應義塾大学に学ぶ。1893年に卒業後は福井に戻り、中学校で英語教師を務める。 1899年、今村はハワイ在住の浄土真宗門徒に奉仕するため同地に移住した。
石井 亮一(いしい りょういち、慶応3年5月25日(1867… 石井 亮一(いしい りょういち、慶応3年5月25日(1867年6月27日) - 昭和12年(1937年)6月14日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての心理学者・教育学者・社会事業家である。位階勲等は、従六位勲六等。 日本における知的障害児者教育・福祉の創始者として知られ、現在の社会福祉法人滝乃川学園および公益財団法人日本知的障害者福祉協会の創設者でもある。 「日本の知的障害児者教育・福祉の父」と称され、石井の業績は、知的障害児者教育・福祉の嚆矢として、現代に至るまで極めて高い評価を受けている。石井がいなければ、日本の知的障害に関する研究は、大幅に遅れていたと言われている。また、この障害を抱える多く人々にとって、それは不治の障害ではなく、発達の遅滞であるということを日本で初めて主張し、彼らへの教育や治療の必要性を訴えた。
鵜沢 宇八(鵜澤、うざわ うはち、1867年6月27日(慶応… 鵜沢 宇八(鵜澤、うざわ うはち、1867年6月27日(慶応3年5月25日)- 1943年(昭和18年)10月13日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 下総国香取郡、のちの千葉県香取郡栗源村(栗源町を経て現香取市)で、鵜沢弥右衛門の長男として生まれる。東京専門学校を卒業し、慶應義塾でも学んだ。1892年(明治25年)家督を相続した。 実業界で活動し日露戦争景気で多大の利益を上げたが戦後の不況に直面し、樺太での事業展開に活路を見出し、水産業、海運業などで成功を収めた。東洋捕鯨取締役、越中島製材取締役、神中鉄道(現相模鉄道)監査役、満州製粉取締役、日清毛織取締役、日本水産取締役、共済商事社長、樺太敷香合同運送社長、房総三鱗社長などを務めた。
大岩 勇夫(おおいわ いさお、慶応3年5月22日(1867年… 大岩 勇夫(おおいわ いさお、慶応3年5月22日(1867年6月24日) - 昭和30年(1955年)7月7日)は、日本の政治家、弁護士。名古屋市長や衆議院議員(立憲同志会)などを務めた。 三河国加茂郡花本村(現在の愛知県豊田市)出身。東京法学院(現在の中央大学)に入学し、在学中の1890年に代言人試験に合格した。翌年に卒業した後、弁護士を開業し、名古屋弁護士会会長も務めた。 1899年、愛知県会議員に選出された。1910年からは名古屋市会議員となり、3回にわたって議長を務めた。1915年、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。一期務めた。その他、愛知セメント株式会社専務、中京法律学校理事も兼ねた。
岩月 直彦(いわつき なおひこ、1866年7月21日(慶応2… 岩月 直彦(いわつき なおひこ、1866年7月21日(慶応2年6月10日) - 1938年(昭和13年)6月5日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・堀之内。 堀之内庄右衛門の弟として薩摩鹿児島藩領薩摩郡隈之城郷(隈之城村、川内町、川内市を経て現薩摩川内市勝目町)に生まれ、1891年(明治24年)8月、前戸主岩月佐美の養子となり家督を相続する。1887年(明治20年)薩摩郡城下尋常小学校訓導、同校長を経て隈之城村会議員に当選。ほか、鹿児島県農工銀行取締役、隈之城村学務委員、鹿児島県会議員、同参事会員などを歴任する傍ら、金銀鉱業を経営し、大口金山支配人を務めた。 1904年(明治37年)鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1906年(明治39年)8月27日まで在任。
佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年… 佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年5月20日) - 1937年(昭和12年)1月8日)は、日本の農学者。農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林、盛岡高等農林の各校長を務めた。 幕末の会津若松博労町に生まれる。会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり、会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学するが、同校はその翌年に廃校となり、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校を卒業した。埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直と足尾銅山の鉱毒調査を行った。京都農事試験場長、京都農学校長を歴任。
土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日(1866年7月… 土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日(1866年7月20日) - 昭和6年(1931年)11月6日)は、日本の医学者。号は鶚軒。日本における皮膚科学の開祖。 1866年、越前国武生領の医者・五世石渡宗伯の次男として、越前府中松原(現・福井県越前市武生)に生まれた。1880年、15歳のときに兄・秀實に伴われて上京し、下谷(現・台東区下谷)の進學舎でドイツ語を学んだ。同年、東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学。1885年には東京帝国大学医学部予科に入学した。1889年、母方の叔父土肥淳朴の養子となり、以降土肥姓を名乗った。1891年に卒業。 卒業後は、東京帝国大学附属第一医院外科医局に入局し、外科医スクリバの助手となった。
栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(186… 栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(1866年7月19日) - 昭和7年(1932年)7月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。晩年には貴族院議員を務めた。
富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日〈1866年7月1… 富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日〈1866年7月18日〉 - 明治18年〈1885年〉12月2日)は、日本の社会運動家、教師。婦人解放運動のさきがけとしてその名を知られる。別名に富井とら(虎子)。 播磨国龍野の醤油問屋の娘として生まれる。兄一人、姉三人、妹一人いる。幼い頃から学問が好きで、1878年に公立龍野中学校入学、1881年(明治14年)同校を卒業し、翌年小学高等科教員免許を受ける。京都にのぼり岸田俊子のもとで学ぶ、その後上京し、自由燈の校正係となり、その後絵入自由新聞の記者として奉職。日本で最初の女性新聞記者と呼ばれる。新聞記者従事中に、福田英子と知り合い、婦人解放運動を活動させる。
三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年… 三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年6月6日) - 1925年(大正14年)3月9日)は、明治から大正期にかけての日本の衛生学者、医師。文部省からの委嘱により日本の児童の調査を行い、日本独自の学校衛生を提唱、推進した。また、母子衛生法の改良、三島式種痘法の発明などを行った。しばしば「日本の学校衛生の生みの親」と称される。号は静堂。 慶応2年(1866年)に武蔵国入間郡霞関村笠幡(現・埼玉県川越市笠幡)に生まれる。父の通郷(つうけい)は嘉永から安政年間に私塾を開いて地元の子弟に漢字や習字を教え、明治維新後に受け持っていた修験道場が廃止されると家財や田畑を売り払って上京して遊学し、神奈川県検事などの官職を務めた人物であった。
高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年… 高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉10月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 豊後国大分郡西庄内村(現由布市庄内町)生まれ。1890年(明治22年)に速見郡浜脇村(現別府市浜脇)で高級旅館泉孫を経営する高橋孫三郎の養子となる。浜脇町会議員を務めた。 1906年(明治39年)から7年間、別府町助役を務めた。同年、別府町会議員に当選した。その後、1909年(明治42年)、1912年(明治45年)、1916年(大正5年)、1920年(大正9年)に再選した。1919年(大正8年)9月25日には速見郡選出の大分県会議員に当選。1924年(大正13年)の別府市会議員選挙でも当選している。
牧野 彦太郎(まきの ひこたろう、1866年7月15日(慶応… 牧野 彦太郎(まきの ひこたろう、1866年7月15日(慶応2年6月4日) - 1940年(昭和15年)7月9日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。 牧野丈之助の長男として、美濃国恵那郡付知村(岐阜県恵那郡付知町を経て現中津川市付知町)に生まれる。1904年(明治37年)3月、家督を相続する。1890年(明治23年)慶應義塾を卒業する。 農業を営み、東京木管製造所を経営した。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
上野 勘助(うえの かんすけ、1866年7月13日(慶応2年… 上野 勘助(うえの かんすけ、1866年7月13日(慶応2年6月2日) – 1914年(大正3年)1月20日)は、明治から大正初期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 紀伊国那賀郡、のちの和歌山県那賀郡上岩出村(岩出町を経て現岩出市)で、大庄屋を務める家に生まれた。1887年(明治20年)慶應義塾別科を卒業し、1898年(明治31年)東京法学院(現中央大学)を卒業した。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙で和歌山県第2区から自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、北海道開拓を志し、幌向原野(現岩見沢市)に入植して農場を営んだ。1910年(明治43年)と1913年(大正2年)に空知支庁管内から北海道会議員に選出された。
岡本 栄吉(おかもと えいきち、1866年7月12日(慶応2… 岡本 栄吉(おかもと えいきち、1866年7月12日(慶応2年6月1日) - 1928年(昭和3年)5月7日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 伊予国新居郡大町村(西条町を経て現西条市)で、素封家・岡本文吾の第四子として生まれる。西条育英館を卒業する。1905年(明治38年)家督を相続。1908年(明治41年)大町村会議員に当選。議員を務める傍ら西条水力電気設立に参画し、西条銀行頭取などを務めた。ほか、相続税審査、所得税調査各委員などを務めた。 1918年(大正7年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日〈慶応2… 福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日〈慶応2年5月25日〉- 1932年〈昭和7年〉6月1日)は、日本陸軍の軍人。陸士旧9期、陸大9期。栄典は従二位勲一等功三級、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー(KCMG)。最終階級は陸軍大将。 大村藩士・福田市兵衛の二男として現在の長崎県大村市で生まれる。大村中学校、有斐学舎を経て、1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、歩兵少尉任官、歩兵第3連隊付となる。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(9期)を卒業。 日清戦争には第1師団副官として出征。参謀本部第2局員、ドイツ留学、1900年(明治33年)12月30日、独国から帰国した(少佐)。
村瀬 庫次(むらせ くらじ、1866年7月7日(慶応2年5月… 村瀬 庫次(むらせ くらじ、1866年7月7日(慶応2年5月25日) - 1921年(大正11年)5月2日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 尾張国丹羽郡小折村(のち愛知県丹羽郡布袋町、現・江南市)出身。漢学を学ぶ。実業界に身を投じ、愛北物産(資)社長、名古屋米商会所肝煎、(株)鉄道車両製造所取締役、(株)名古屋商品取引所理事長、(株)丹葉銀行副頭取、丹羽郡所得税調査委員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知4区から無所属で立候補して当選する。1898年8月の第6回衆議院議員総選挙では日吉俱楽部公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙で落選した。
福島 泰蔵(ふくしま たいぞう、慶応2年5月23日〈1866… 福島 泰蔵(ふくしま たいぞう、慶応2年5月23日〈1866年7月5日〉 - 明治38年〈1905年〉1月28日)は、日本陸軍の軍人。弘前歩兵第31連隊の中隊長として、八甲田山雪中行軍を成功させた人物として知られている。日露戦争中の黒溝台会戦で戦死。陸軍少佐(没後昇進)。雅号に義山。 慶応2年(1866年)5月23日、上野国新田郡世良田村平塚(現・群馬県伊勢崎市平塚)で廻船運送業を営む福島泰七、あさの長男として生まれる。1874年(明治7年)地元に開校された平塚学校に入学し、下等小学校卒業の際は群馬県令・楫取素彦より特別優等賞を受けている。1884年(明治17年)に司法省法学校を受験するが、合格はできなかった。
黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈186… 黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈1866年7月4日〉- 昭和12年〈1937年〉4月29日)は、明治から大正期の日本の海軍軍人。海軍大将。山形県(旧米沢藩)出身。江戸時代中期の米沢藩士黒井忠寄は傍系である。黒井家の菩提寺はともに鍛冶町の曹洞宗高国寺。 米沢藩士(250石)黒井繁邦の二男。同郷の山下源太郎や南雲忠一と同様、米沢藩の藩校をルーツとする興譲館中学より海軍兵学校に入学。明治20年(1887年)、兵学校13期を36人中4位で卒業。同期に野間口兼雄大将・栃内曽次郎大将がいる。この期は他にも中将5名・少将10名を輩出する。 練習艦「龍驤」での訓練を終えて、最新の巡洋艦「高千穂」で最初の2年あまりを過ごす。
平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応… 平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応2年5月22日〉- 1945年〈昭和20年〉11月27日)は、日本の実業家・教育者(甲南学園創立者)・政治家(廣田内閣で文部大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官)。甲南病院(現在の甲南医療センター)の設置者。住吉村に住まい、その跡地は自ら創立した甲南大学の平生記念セミナーハウスとして活用されている。 明治、大正、及び昭和初期に活躍。1934年(昭和9年)、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が、訪伯経済使節団長としてブラジルを訪問。ブラジル産綿花を日本に輸出する橋渡しをするなどの貢献を行った。
玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6… 玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 1906年(明治39年)9月25日)は、日本のジャーナリスト、教育家、冒険家。札幌農学校でドイツ語教授を務めた後にシベリアを単身横断してドイツに渡り、月刊誌『東亜(Ost-Asien)』を刊行するなどジャーナリストとして活動した。また、在留日本人の面倒をよくみたことから「私設公使」の異名をとった。 周防国光井村(現・山口県光市光井)で「銘酒玉川」を醸造していた造り酒屋に生まれる。 山口黒城塾、広島県中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、上京し獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)に通う。同時に、遠い親戚で幼い頃から兄のように慕っていた原田貞介(後に工学博士。