岩川 与助(與助、いわかわ よすけ、1886年(明治19年)… 岩川 与助(與助、いわかわ よすけ、1886年(明治19年)1月10日 - 1969年(昭和44年)7月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鹿児島県馭謨郡(屋久島)、のちの上屋久村(熊毛郡上屋久村、上屋久町を経て現屋久島町)で生まれる。同村宮之浦地区で郵便配達をしながら独学。その後神戸に移り、浪速銀行神戸支店で奉公人として働きながらパルモア英学院(のちパルモア学院専門学校)で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後、浪速銀行神戸支店書記補を経て、1916年(大正5年)三十字商会支配人となる。その後、藤田商事取締役、大和海上火災専務取締役、太平洋海上火災専務取締役、朝日生命専務取締役、第一毛糸監査役などを務めた。
瀬尾 貞信(せお さだのぶ、1886年1月8日 - 1946… 瀬尾 貞信(せお さだのぶ、1886年1月8日 - 1946年10月5日)は、日本の外科医、外科医学者。食道外科の大家。 新潟県中頸城郡板倉町(現・上越市板倉区)出身。旧姓は島田。東京帝国大学医科大学を1911年(明治44年)に卒業、外科入局。 1920年(大正9年)千葉県立千葉病院副部長、同年千葉医学専門学校教授、1922年(大正11年)同校付属医院外科医長、1923年(大正12年)千葉医科大学教授兼同大専門部教授。1924年(大正13年)医学博士を取得、1944年(昭和19年)「動脈注射療法の研究」で朝日賞を受賞。 教え子に中山恒明らがいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
伊達 四雄(だて よつお、1886年(明治19年)1月6日 … 伊達 四雄(だて よつお、1886年(明治19年)1月6日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 和歌山県出身。1912年(大正元年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。兵庫県属、同出石郡長、同川辺郡長を経て、1921年(大正10年)に朝鮮総督府に転じ、京畿道内務部地方課長となった。その後、忠清南道警察部長、平安南道警察部長、慶尚南道警察部長、平安北道内務部長、江原道内務部長、慶尚北道内務部長を歴任した。京城府尹を経て、1936年(昭和11年)に慶尚北道知事に就任した。 退官後は、朝鮮土木建築業協会会長を務めた。戦後は北洋火薬監査役を歴任した。
篠原 秀吉(しのはら ひできち、1886年〈明治19年〉1月… 篠原 秀吉(しのはら ひできち、1886年〈明治19年〉1月5日 - 1971年〈昭和46年〉7月8日)は、日本の新聞記者、実業家。上毛新聞社社長。また、学生時代から柔道で鳴らし、講道館8段という経歴から日本体育協会評議員を務めるなど、スポーツ環境の整備に尽力した。桜郷と号して書をよくした。正四位勲三等。 群馬県前橋町(現・前橋市)に、上毛新聞社初代社長・篠原叶の子として生まれる。旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、1911年(明治44年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年上毛新聞社に入社。 1926年(大正15年)父の死により上毛新聞社を継ぐ。1939年(昭和14年)に上毛新聞が株式会社となると取締役社長に就任した。
二代 戸田 利兵衛(にだい とだ りへい、本名:富田 繁秋、… 二代 戸田 利兵衛(にだい とだ りへい、本名:富田 繁秋、1886年1月5日 - 1981年3月28日)は、日本の実業家。戸田組(現在の戸田建設)の社長・会長を務めた。 茨城県出身。本名は富田繁秋。1913年に東京帝国大学卒業後、初代の戸田利兵衛に子が恵まれなかったことにより養嗣子として迎えられ、初代没後の1920年に2代戸田利兵衛を襲名し、社長に就任した。 初代戸田利兵衛が築いた戸田組を、1924年の横浜出張所を皮切りに、1931年に名古屋出張所、1936年に大阪支店、1937年に釜石出張所を開設し、全国組織の総合建設業者へと成長させた。また、この間の1936年には戸田組を資本金200万円の「株式会社戸田組」とした。
猪野毛 利栄(いのけ としえ、旧字体:猪野毛 利榮、1886… 猪野毛 利栄(いのけ としえ、旧字体:猪野毛 利榮、1886年(明治19年)1月5日 - 1952年(昭和27年)10月11日)は、日本のジャーナリスト・政治家、衆議院議員(6期)。 福井県大野郡、のちの富田村(現大野市)出身。1911年(明治44年)日本大学法律科卒業。順天中学校教諭、二六新報記者を経て、日本浪人社を設立し、雑誌『日本浪人』を主宰する。さらに経国社を設立し雑誌『政治及経済界』を主宰。その後政友会に入党し司法大臣秘書官、内務大臣秘書官を経た後、1924年(大正13年)の第15回総選挙に無所属で立候補して初当選。4年後の第16回総選挙では政友会の公認を得たものの次点に泣く。さらに2年後の1930年(昭和5年)の第17回総選挙で返り咲き、以後連続5回の当選を果たした。
河合 小市(かわい こいち、1886年1月5日 - 1955… 河合 小市(かわい こいち、1886年1月5日 - 1955年10月5日)は、日本の技術者、実業家。河合楽器製作所創設者・初代社長。ピアノ製造技師。 浜松市菅原町の車大工の河合谷吉(屋号は「するがや」)の子供に生まれた。幼少の頃から手先が器用で研究心があったという。 河合楽器製作所製グランドピアノの多くに刻まれているK.KAWAIというロゴタイプは小市の名に由来する。 河合楽器製作所2代目社長の河合滋は次女の婿。KAISERブランドのピアノ(製造元は日本楽器製造株式会社)で知られる河合楽器株式会社を経営していた河合晋は長女の婿。 この項目は、楽器に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/プロジェクト:楽器)。
高畠 素之(たかばたけ もとゆき、1886年1月4日 - 1… 高畠 素之(たかばたけ もとゆき、1886年1月4日 - 1928年12月23日)は、日本の社会思想家、哲学者。資本論の全訳を行い、国家社会主義を唱えた。 旧前橋藩士の子。クリスチャンとなり同志社神学校に入るも、途中キリスト教を捨て中退。高崎市で社会主義雑誌『東北評論』を発刊、1908年新聞紙条例により禁固2ヶ月の刑を受け入獄、獄中で英訳のカール・マルクス『資本論』(1867年出版)に出合う。 1911年、売文社に入り社会主義活動に身を挺す。1915年、堺利彦・山川均らと『新社会』を発行することで、マルクス主義を紹介した。特に1917年からカール・カウツキーの『資本論解説』(原題『カール・マルクスの経済学説』、1887年出版)を翻訳したことは、彼のマルクス研究者としての地位を確固のものとした。
成清 信愛(なりきよ のぶえ / なりきよ しんあい / な… 成清 信愛(なりきよ のぶえ / なりきよ しんあい / なるきよ しんあい、1886年(明治19年)1月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 福岡県山門郡小川村(瀬高町を経て現みやま市瀬高町小川)で金山王・成清博愛、以恵子の長男として生まれる。1906年(明治39年)福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)卒業後に小学校代用教員を務めた。 その後、早稲田大学法科に入学したが、1912年(大正元年)に中退して父が経営する馬上金山に入り、県内外の鉱山の経営も行った。父の死去に伴い1916年(大正5年)家督を相続。
和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年1月2日 - 1972年… 和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年1月2日 - 1972年4月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉… 菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉1月2日 - 1953年〈昭和28年〉4月18日)は、大正・昭和時代の日本の政治家。群馬県議会議員(1期)、群馬県会議員(6期)、第27代群馬県会議長、吾妻郡岩島村長などを務めた。幼名は善之(よしゆき)。 1886年(明治19年)、群馬県吾妻郡郷原村(岩島村を経て現・東吾妻町)の旧家に、村会議員などを務めた先代勘三郎とやいの次男として生まれる。先祖は菅谷勘右衛門の名を世襲し苗字帯刀を許された豪農・名主であった。1892年(明治25年)に父が死去したため勘三郎を襲名し、後に村長を務める叔父・慎三郎の後見を受ける。1903年(明治36年)に群馬県立農学校を卒業した後は、家業の農業に従事した。
五味 清吉(ごみ せいきち、1886年(明治19年)1月1日… 五味 清吉(ごみ せいきち、1886年(明治19年)1月1日 - 1954年(昭和29年)8月19日は、大正から昭和前期の洋画家。 岩手県南岩手郡仁王村四ツ家町(現在の盛岡市本町通2丁目)に、小原藤吉・タキ夫妻の7人兄弟の第5子(3男)として生まれる。藤吉は雫石町で古着・呉服屋を開業しており、一時は豆類や古道具、浮世絵なども扱っていた時期があり、幼い五味も浮世絵を見て絵に興味を持ったとも推測される。1892年(明治25年)盛岡第一尋常小学校、1896年(明治29年)盛岡高等小学校(現在の盛岡市立下橋中学校)、1901年(明治34年)盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)に進学する。同2年生の時、肋膜を患ったのがきっかけで、バプテスト派の盛岡浸礼教会に通い、E.H.ジョンズより受洗。
星 廉平(ほし れんぺい、1886年(明治19年)1月1日 … 星 廉平(ほし れんぺい、1886年(明治19年)1月1日 - 1967年(昭和42年)6月23日)は、明治末から昭和前期の日本の実業家・政治家。衆議院議員。幼名・博。 宮城県登米郡、のちの佐沼町(迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、呉服商・先代星廉平、まつゑ の長男として生まれた。1900年(明治33年)家督を相続し廉平を襲名し呉服商を営む。1905年(明治38年)宮城県立第二中学校(現宮城県仙台第二高等学校)を卒業し、陸軍省臨時嘱託となり満州、朝鮮の経済状況調査の視察を行う。この経験から政界への関心を持つようになった。 1911年(明治44年)9月、宮城県会議員に選出され、1912年(大正元年)10月まで在任。
園 正造(その まさぞう、1886年1月1日 - 1969年… 園 正造(その まさぞう、1886年1月1日 - 1969年11月24日)は、日本の数学者。代数学を専門とする。京都帝国大学名誉教授。西京大学(現京都府立大学および京都府立大学女子短期大学部)初代学長。 京都市生まれ。1910年に京都帝国大学理工科大学数学科卒業。1921年、京都帝国大学教授。 日本の数学界の黎明期を支えた数学者の一人である。エミー・ネーターらと同時期に、代数学の抽象化に大きな役割を果たした。分離可能性に関する研究は後に森嶋通夫によって経済学へ応用された。 豪快な人物であったらしく、祇園から人力車で大学へ出勤したという逸話を持つ。また、数学に留まらず哲学・宗教・思想にも強い興味を持ち、雑誌「改造」などに論文を発表している。
大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月… 大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月1日 - 1958年(昭和33年)3月21日)は、日本の実業家。かつては大日本帝国陸軍の軍人であり、最終階級は陸軍少将であった。退役後、服部時計店取締役を務めた。 愛媛県宇和島市出身。北宇和島町神田川原に生まれる。1904年(明治37年)、兄が旅順要塞の東鶏冠山北砲台において戦死したのを受け、帝国軍人として尽くすことを決意する。兄の手紙には「明暁部下を率い一死以て敵陣に突入する死後は再日露戦争があるだろうからお前は軍人となって俺の敵を討って御国の為に尽くして呉れ」とあった。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。砲工学校、東京帝国大学を卒業し、米国に派遣される。
木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1… 木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1日 - 1925年(大正14年)2月15日)は、日本の歌人、子爵。本名は利玄(としはる)。 佐佐木信綱主宰の「竹柏会」同人。初期の官能的な歌風から、晩年は写実的な作風に変わった。口語的発想による利玄調を確立。「白樺」の創刊にも参加。歌集に『銀』(1914年)、『紅玉』(1919年)など。 歌風は初め官能的、感傷的であった。その後、窪田空穂や島木赤彦らに影響を受けて自然主義・写実主義に傾き、口語や俗語を使用した平易なその短歌は利玄調と呼ばれるようになった。以下は、中高校の教科書に採られたり、入試を始めとする各種試験に使われたりして、広く知られているものである。
九里 四郎(くのり しろう、1886年1月1日 - 1953… 九里 四郎(くのり しろう、1886年1月1日 - 1953年3月1日)は、日本の洋画家。通称「くり」。海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光の子。海軍少将・南郷次郎、南郷三郎の弟。加賀藩前田家の家老・九里家の養子となる。 東京生まれ。学習院初等科から志賀直哉と同級で、のち里見弴、谷崎潤一郎など文人と親しく交わった。1902年、学習院中等科を退学、1910年、東京美術学校西洋画科卒。同級に池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路らがいた。在学中に文展入賞。1911年-1912年ヨーロッパに渡る。出発の際には、友人の志賀直哉をはじめ、柳宗悦、細川護立、郡虎彦、里見弴、児島喜久雄、木下利玄、有島生馬ら14名の白樺派が集まって送別会が行なわれた(宗悦の母と四郎の母はともに嘉納治五郎の姉)。
十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月2… 十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月27日 - 1914年10月9日)は、青森県北津軽郡中里町出身で二十山部屋に所属した力士。本名は岩田 金四郎。170cm、120kg。最高位は西前頭9枚目。 東奥義塾を卒業し、二十山部屋に入門。非常に文章・文筆巧みであったという。当時としては体格が良く、「アンコウ」の異名をとり、左四つからの寄りには威力があった。1903年5月初土俵、1909年6月十両昇進。新橋倶楽部事件では力士側の書記役を務めた。1911年2月に入幕し、前頭9枚目まで昇進。しかし病の為に不振に陥り幕下まで転落。1914年1月に廃業したが、年内に没した。
山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月2… 山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月27日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、明治から昭和にかけての彫刻家、画家。本名は渡嘉敷 兼慎(とかしき けんしん)。 沖縄県那覇市壺屋にて、士族で漢学者の渡嘉敷兼礼の五男として生まれるが、幼少時に父が病没したため貧困の少年時代を過ごす。手先の器用さが認められ、大工の修行をする。やがて上京、20歳で東京美術学校へ進んで木彫科・彫塑科を専攻、山田泰雲に師事し、その養子となる。また、高村光雲の教えを受ける。1906年に清国の北京芸徒学堂教授となるが翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学ぶ。1914年、文展入選。
一ノ瀬 俊民(いちのせ としたみ、1885年(明治18年)1… 一ノ瀬 俊民(いちのせ としたみ、1885年(明治18年)12月27日 - 1958年(昭和33年)6月16日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県杵島郡武雄町長。 佐賀県杵島郡、のちの武雄町(現武雄市)で、一ノ瀬傳三郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)長崎高等商業学校(現長崎大学)を卒業。1920年(大正9年)家督を相続し農業を営む。 政界では、武雄町長、佐賀県会議員を務めた。1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区から立憲政友会公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。 戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。
岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月… 岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月25日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、日本の社会運動家、思想家でもあり、人工言語ボアーボム(Babm)の発明者としても知られる。思想家としては、岡本普意識(おかもと ふいしき)と名乗っていた。 高知市に生まれる。東京郵便電信学校を卒業したのち、逓信省・三菱倉庫に勤務した。その後、1919年(大正8年)に企業立憲協会を組織した。翌1920年(大正9年)には東京亀戸に消費者組合亀戸協働社を開設、関東消費組合に発展させた。1928年(昭和3年)富士山麓愛鷹山中腹に農村青年共働学校を開設して、開墾や自給自足の農本自治を理念とした、農村中堅青年の育成をめざした。
入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885… 入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885年12月23日 - 1945年5月13日)は、日本の教育学者。鳥取県日野郡宮内村(現日南町)生まれ。1911年東京帝国大学哲学科卒業後、神宮皇学館教授を経て、1932年東京帝国大学教授に就任。大正新教育運動の旗手の一人。専門は欧米教育思想史。新学校あるいは体験学校と名付けた実践的研究を行った。また、新教育協会を設立した。 1929年、東京大学文学博士。論文の題は「汎愛派教育思想の研究」。 1945年5月13日、東京帝大小石川分院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月… 山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月19日 - 1944年(昭和19年)10月29日)は日本の建築家、能楽研究者、能楽評論家。法政大学教授。本名は静太郎(せいたろう)。息子は、能楽評論家で前横浜能楽堂館長の山崎有一郎。 1885年(明治18年)1月19日、和歌山県に生まれる。山崎家は旧紀州藩士の家で、父・九一郎は大蔵流の名家松井氏に狂言を学び、楽堂も幼時から能・狂言に親しんだ。1909年(明治42年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期に後藤慶二、長谷部鋭吉などがいる。千葉高等園芸学校講師、法政大学教授などを務め、梅若能舞台、細川家能舞台、染井能楽堂、久良岐能舞台の設計に携わる。
大塚 淳(おおつか すなお、1885年(明治19年)1月19… 大塚 淳(おおつか すなお、1885年(明治19年)1月19日 - 1945年)は日本の指揮者。 代々医師の家系の一人息子として生まれる。父は医師大塚長寿郎正心。 東京音楽学校(後の芸大)入学バイオリン専攻。卒業後、同校教授となる。明治39年東京音楽学校の生徒時、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの初代指揮者となり、以後、渡満するまで指揮者を務めた(石坂洋次郎「日本はカルーソーを失ったという話」内に慶應ワグネル・ソサエティ入部の下りがある)。 1938年(昭和13年)、満州国新京市からの招聘により満州国国立音楽学校創設のため渡満する。渡満前に慶應ワグネル・ソサエティ第60回定期公演「ベートーヴェンの夕」に指揮棒を揮う。
吉田 浩(よしだ こう、1885年(明治18年)1月18日 … 吉田 浩(よしだ こう、1885年(明治18年)1月18日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は、日本の鉄道官僚。朝鮮総督府官僚。 福島県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格。鉄道院書記、同副参事、同参事、鉄道局参事、鉄道書記官・運輸局貨物課長、門司鉄道局長、東京鉄道局長を歴任した。その後、朝鮮総督府鉄道局長を務めた。 1938年(昭和13年)に退官し、華北交通株式会社監事、北支那開発株式会社理事を経て、1942年(昭和17年)より鉄道軌道統制会理事長を務めた。戦後は、日本交通協会長、鉄道弘済会顧問を務めた。
野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治… 野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1965年〈昭和40年〉4月24日)は、岩手県二戸郡福岡町(現二戸市)出身の児童文学者、キリスト教牧師、伝道師である。渡辺善太は義兄である。 1885年(明治18年)1月17日、岩手県二戸郡福岡町(現・二戸市)に生まれ、1890年(明治23年)に郵便局勤務であった父の転勤により盛岡市へ転居。1889年(明治22年)、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)へ入学した。同級生には石川啄木、伊藤圭一郎(『人間啄木』の著者)らがいた。 幼いころから教会に通い、1899年(明治32年)に洗礼を受けた。その年11月盛岡で行われた中田重治の集会での説教を聞いて献身を決意する。
大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉… 大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1923年〈大正12年〉9月16日)は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。 愛媛県那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)で生まれた。父親の大杉東(おおすぎ あずま)は愛知県海東郡越治村(現・愛知県津島市)出身の大日本帝国陸軍近衛師団の前身である常時陸軍の軍人で、代々庄屋の家系で親戚にも軍人が多数いる家庭環境だった。その後、東は東京に移って近衛少尉として勤務し、大隊長の仲介によって母・とよ(豊)と結婚した。栄は次男で、はる、きく、伸、まつゑ、勇、進、あき、あやめの兄弟姉妹がいる大家族だった。
黒田 鵬心(くろだ ほうしん、1885年(明治18年)1月1… 黒田 鵬心(くろだ ほうしん、1885年(明治18年)1月15日 - 1967年(昭和42年)3月15日)は美術評論家である。建築や都市についての評論も行ない、日本において美的観点から都市について言及した最初の論者とされる。本名は黒田朋信。
池田 繁治(いけだ しげじ、1885年(明治18年)1月15… 池田 繁治(いけだ しげじ、1885年(明治18年)1月15日 - 1956年(昭和31年)8月15日[要出典])は、日本の内務官僚。弁護士。 新潟県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。山形県西村山郡長、同牡鹿郡長、同理事官、群馬県理事官、愛知県理事官、同事務官、北海道庁書記官・学務部長、高知県警察部長、和歌山県警察部長、福島県内務部長、長野県学務部長を歴任した。 退官後は台北女子高等学院院長、姫路市助役を経て、弁護士を開業した。
山下 謙一(やました けんいち、1885年1月14日 - 1… 山下 謙一(やました けんいち、1885年1月14日 - 1951年6月27日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 佐賀県出身。山下範左衛門の長男として生まれる。第五高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り千葉県属となる。 以後、千葉県印旛郡長、朝鮮総督府忠清北道事務官・内務部長、岡山県書記官・内務部長、徳島県書記官・内務部長、千葉県書記官・内務部長などを歴任。 1928年5月、徳島県知事に就任し、1929年7月まで在任。その後、1931年12月、熊本県知事に着任。1932年6月28日、知事を休職となる。
木田 保造(きだ やすぞう、1885年1月13日 - 194… 木田 保造(きだ やすぞう、1885年1月13日 - 1940年4月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家、建設業者。木田組(後の木田建業)の創始者。深礎工法の発明者。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960… 佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960年8月15日)は、日本の詩人・英文学者。 1885年、宮城県仙台市生まれた。旧姓・岡。東京帝国大学英文科を卒業。関西学院に勤務したのちに英国留学し、1923年より東京女子高等師範学校教授となった。1924年の京城帝国大学創設に伴い、その教授就任に備えるため再び英国留学を命ぜられ、その後赴任した。1945年、定年退官。 戦後、青山学院大学教授として教鞭をとった。墓所は多磨霊園(21-1-23)にある。 キーツ、ワーズワース、シェリーなど英国ロマン派の詩人を研究。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内山 完造(うちやま かんぞう、1885年1月11日 - 1… 内山 完造(うちやま かんぞう、1885年1月11日 - 1959年9月20日)は、日本の書店主・文化人。1930年代以降、中華民国と日本の両方で書店経営者として成功し、日中文化人交流に大きな影響を与えた。内山書店は現在も、東京の神田神保町で中国・アジア関連書籍を多く扱っている。 出身地は岡山県後月郡芳井村(現・井原市)で、村長の家に生まれた。 内山は高等小学校を4年で中退。京都と大阪の商家で10数年間店員を勤めた後、1913年3月に上海へ渡った。入信したキリスト教会の牧師の紹介で、大学目薬・参天堂(現在の参天製薬)の出張販売員となるためである。各地を営業するうちに、粗衣粗食に耐える勤勉な苦力(クーリー)や信用を重んじる商人など中国の庶民に深い共感を覚えた。
小山 九一(こやま くいち、1885年〈明治18年〉1月10… 小山 九一(こやま くいち、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1961年〈昭和36年〉8月18日)は、日本の実業家。昭和石油第2代社長、元住友海上火災保険専務取締役。 新潟県新潟区古町通5番町(現 新潟市中央区古町通5番町)出身。 1898年(明治31年)3月に新潟高等小学校を卒業、1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校予科を卒業、1907年(明治40年)7月に東京高等商業学校本科を卒業。 1907年(明治40年)8月に住友本店に入社、主計課に勤務、1916年(大正5年)3月に住友東京販売店支配人に就任、1919年(大正8年)3月に住友伸銅所副支配人に就任、1925年(大正14年)2月に住友合資会社伸銅所支配人に就任、1927年(昭和2年)4月に住友合資会社製銅販売店支配人に就任、1928年(昭和3年)7月に住友別子鉱山支配人兼大阪支店長に就任。
清原 貞雄(きよはら さだお、1885年1月10日 - 19… 清原 貞雄(きよはら さだお、1885年1月10日 - 1964年9月13日)は、日本の歴史学者。広島文理科大学教授。神道史、国体論史の研究で知られる。 1885年、大分県速見郡南杵築村(現・杵築市)で生まれた。京都帝国大学文学部史学科で学び、1910年に卒業。同大学大学院に進んだ。 京都帝国大学大学図書館司書、内務省神社局嘱託を経て、日本大学講師に就いた。1922年より広島高等師範学校教授。1926年に学位論文『徳川幕府神社制度ノ研究』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。1929年に広島高等師範学校が広島文理科大学に改組となって以降は同校教授。1943年に広島文理科大学を筆禍事件のため辞した。
加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1… 加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1941年〈昭和16年〉8月5日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県羽咋郡西海村風戸(現・志賀町西海風戸〈さいかい ふと〉)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中に「厄年」で登場。「世の中へ」で地位を確立し、自然主義の流れをくむ人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入り低迷した。 少年時代、京都の伯父に預けられて育てられた作次郎は、早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表する。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍する。
下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1… 下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1月9日 - 1953年(昭和28年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。 日中関係が不穏な時期に下村は第10戦隊司令官に就任した。下村は日本海軍の通信系統、即ち、北京海軍駐在武官→旅順→東京→佐世保→高雄→第三艦隊旗艦出雲から、佐世保、高雄を省略することで、日華事変が勃発した当日に出雲艦上においていち早く事変発生の情報を入手した。第三艦隊司令長官長谷川清と会談中のことであった。
木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951… 木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951年4月24日)は日本の洋画家、およびHenry Y. Kiyamaのペンネームで主にアメリカ合衆国で活動した漫画家。鳥取県日野郡出身。 1885年(明治18年)1月9日、鳥取県日野郡根雨の油屋に生まれる。県立第二中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)に進学するが、家産が傾き中退。1904年(明治37年)、19歳のときに伯父を頼って日系移民の一大拠点であったサンフランシスコに移民する。木山は画才に優れ、ハウスボーイ(下男)や農業労働者など、雑多な仕事で生活を支えながらサンフランシスコの絵画コンクールに投稿を重ね、1915年(大正4年)から1920年(大正9年)の間に複数の受賞を得る。
工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日… 工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日 - 1940年(昭和15年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 岡山県出身。工藤敏夫の二男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1916年(大正5年)12月、教育総監部付となり、同課員、陸軍兵器本廠付兼陸軍省軍務局課員、軍務局課員兼参謀本部員、歩兵第9連隊大隊長、同連隊付、陸士教官、参謀本部員などを務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第6連隊長に就任。
西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8… 西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8月17日)は、日本の解剖学者、エスペラント運動家。東京帝国大学名誉教授。医学博士。西成度の孫。 東京出身。早稲田中学、第一高等学校、東京帝国大学医学部卒。大沢岳太郎に師事。1911年ハイデルベルク大学へ留学し、M. Furbringer, H. Brausに師事。1915年東北帝国大学教授、1922年東京帝国大学教授、1945年定年退官、名誉教授、49年群馬大学学長。1945-1966年日本エスペラント学会理事長。弟子には浦良治など。祖父は裁判官で第6代大審院長を務めた西成度。 1978年8月17日、心不全のため神奈川県横浜市の国立横浜病院にて死去。
井上 清(いのうえ きよし、1885年(明治18年)1月6日… 井上 清(いのうえ きよし、1885年(明治18年)1月6日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に伊藤正誼の四男として生まれ、井上周富の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。朝鮮総督府臨時土地調査局監査官、忠清南道第二部長、咸鏡北道第一部長、財務局税務課長、咸鏡南道内務部長、京畿道内務部長を歴任した。1929年(昭和4年)より朝鮮煙草元売捌株式会社専務取締役、同社長を務めるが、1931年(昭和6年)に京城府尹に任命された。1933年(昭和8年)には逓信局長に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、南朝鮮水力電気株式会社社長、朝鮮電力株式会社専務取締役などを務めた。
朝倉 八郎(あさくら はちろう、旧姓・杉浦、1885年〈明治… 朝倉 八郎(あさくら はちろう、旧姓・杉浦、1885年〈明治18年〉1月6日 - 1950年〈昭和25年〉)は、日本の商人(米穀商)、恵美須米穀問屋組合長、地主、家主、東洋青物市場会社員。合名会社常磐松商会代表社員。 愛知県碧海郡旭村(現・碧南市)生まれ。杉浦太市の八男。朝倉徳次郎の養子。1908年、家督を相続した。米穀商を営む。また地家主で、東洋青物市場会社員であった。 宗教は日蓮宗。趣味は書画、旅行。東京在籍。住所は東京市渋谷区猿楽町、同区向山供託社アパート内。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年… 瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年)は、岩手県出身の医師、歌人・俳人である。雅号として藻外を名乗った。 1885年(明治18年)1月5日、岩手県江釣子村(現・北上市)の瀬川早水の三男に生れる。のちに、同族の医師の瀬川雅夫の養子となった。実父の早水は1846年(弘化3年)に村宿の長男として生まれ、のちに江釣子小学校を創設。1899年から1903年まで同村の助役を務めたのち板垣退助が率いる自由党のもとでの自由民権運動を推進した。 深は旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。同学年にはともに医師を志した小林茂雄や岡山儀七、一級上には歌人の石川啄木がおり、さらに先輩には金田一京助や及川古志郎、野村胡堂らがいた。
山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月… 山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月5日 - 1952年〈昭和27年〉7月1日)は、日本のジャーナリスト。改造社社長。雅号は亀城。 鹿児島県高城郡水引郷大小路村(現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町)出身。1885年(明治18年)1月、にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校を自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。 1904年に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年(大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。
宮川 一貫(みやかわ いっかん、1885年(明治18年)1月… 宮川 一貫(みやかわ いっかん、1885年(明治18年)1月5日 - 1944年(昭和19年)3月25日)は、昭和期の政治家、柔道家。衆議院議員。
広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治1… 広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)12月21日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。 実業家・広野織蔵の長男として滋賀県犬上郡彦根江戸町(彦根町を経て現彦根市)に生まれる。彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)京都帝国大学法科大学政治科を卒業。横浜正金銀行に入行し、本店、大阪、神戸各支店にて勤務。1920年(大正9年)1月、父が頭取を務める百三十三銀行に移り専務取締役に就任した。 のち百三十三銀行、滋賀貯蓄銀行、近江信託、琵琶湖ホテル各取締役、滋賀銀行取締役、同頭取、同会長を歴任する。
伊藤 吉之助(いとう きちのすけ、1885年(明治18年)1… 伊藤 吉之助(いとう きちのすけ、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)7月7日)は、日本の哲学者。 1885年、山形県酒田市で生まれた。旧姓は須田。生家は雑貨卸商であった。 1903年に山形県立荘内中学校を卒業し、第一高等学校 に入学。一高を卒業後は東京帝国大学文学部哲学科に進学。同期生には安倍能成、小山鞆絵、宮本和吉らがいた。また、同郷であった阿部次郎と宮本和吉と合わせて「庄内の哲学三羽烏」と呼ばれた。1909年、卒業論文「カントを中心とした空間論」を提出して同大学を卒業。卒業後は同大学大学院に進み、5年間在籍した。 1911年から1918年まで、東京帝国大学副手を務めた。
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日… 鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日 - 1973年〈昭和48年〉11月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の官僚、政治家、著述家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣。 英語を得意とし、第二次世界大戦にかけて米国の対日世論が厳しくなる時期に、現地での講演や出版などを通じて民間外交に尽力した。 1885年(明治8年)1月3日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の次男、10人きょうだいの第四子として生まれる。一家は1895(明治28年)年9月に東京市赤坂へ、翌1896(明治29年)年1月に父の郷里である岡山県へ転居した。
佐々木 仙太郎(ささき せんたろう、1885年〈明治18年〉… 佐々木 仙太郎(ささき せんたろう、1885年〈明治18年〉1月3日 - 1957年〈昭和32年〉11月23日)は、日本の商人(米穀商、味噌商)、政治家。大阪府貝塚市長(初代)。 大阪府泉南郡麻生郷村津田(現・貝塚市)出身。仙右衛門の長男。米穀商人となり、岸和田市本町に玄米問屋を開いて江州米などを売り、堂島北浜に乗出す。玄米問屋を見切ると津田に帰り、精米所、精麦所を起す。 味噌製造販売業を営む。貝塚町助役となる。1937年3月に岡本市治郎貝塚町長が急逝、後任に町長代理助役佐々木が指名され、同年5月に貝塚町長に就任する。1941年、貝塚町長に留任する。 1943年5月に貝塚町市制を施行、市長臨時代理者に佐々木が任命され、同年7月に初代貝塚市長に就任する。
中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2… 中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。専門は日本近世史。文学博士(東京帝国大学、1926年)。群馬県出身。 1885年(明治18年)1月、群馬県高崎に生まれる。父は士族で小学校教員の中村勝弥、母は小学校嘱託教員の中村とく。「孝也」の名は、『孝経』を典拠とした。幼少の頃から漢籍に造詣の深かった父より漢学を学び、5歳の時、母が勤務する神戸尋常小学校へ見学児として通学、以後複数の学校に転校するも、いずれも抜群の成績で進級した。1899年(明治32年)、14歳の時に小学校准教員検定試験に合格。