中田 騄郎(なかだ ろくろう、1882年(明治15年)4月8… 中田 騄郎(なかだ ろくろう、1882年(明治15年)4月8日 - 1957年(昭和32年)8月12日)は、日本の衆議院議員(国民同志会)、弁護士。 静岡県榛原郡勝間田村(現在の牧之原市)出身。1901年(明治34年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。弁護士を開業し、静岡県弁護士会長に選出された。また静岡市会議員となり、議長も務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、社団法人救護会理事長、静岡県社会事業協会副会長、藤相鉄道株式会社監査役などを務めた。
小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日… 小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日 - 1961年〈昭和36年〉5月11日)は、小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介と坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評された。娘の岡上鈴江も児童文学者。 「未明」という雅号は小川の師である坪内逍遥が付けたもので、正しくは「びめい」と読む。 新潟県高田五分一町(現:上越市幸町)に生まれる。父、澄晴はかつては修験者であった。上杉謙信の熱烈な崇拝者でもあった澄晴は、春日山神社を創建するため奔走した。未明自身15歳頃から20歳頃まで春日山神社境内の住居に住んでいた。
岡田 宜法(おかだ ぎほう、1882年4月7日 - 1961… 岡田 宜法(おかだ ぎほう、1882年4月7日 - 1961年12月29日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。駒澤大学学長。 明治15年(1882年)4月7日、埼玉県北埼玉郡上会下村(鴻巣市)に生まれる。同村の雲祥寺にて出家。 明治39年(1906年)に曹洞宗大学林(駒澤大学)を卒業し、布教使となり各地を歴訪。世田谷中学(世田谷学園)教頭を経て、大正14年(1925年)に駒澤大学教授に就任。昭和19年(1944年)に『日本禅籍史論』で文学博士となる。 戦後は、昭和22年(1947年)から28年(1953年)まで駒澤大学長となる。 昭和36年(1961年)12月29日に遷化。
滋岡 長彦(しげおか ながひこ、1882年(明治15年)4月… 滋岡 長彦(しげおか ながひこ、1882年(明治15年)4月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。兵庫県姫路市長。 大阪府出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大阪府属、同警視、同泉南郡長、同三島郡長、栃木県芳賀郡長、同上都賀郡長、同理事官、京都府学務課長、和歌山県警察部長、山口県内務部長などを歴任した。 退官後の1925年(大正14年)に姫路市長に選出され、1930年(昭和5年)までの2期在任した。
間宮 龍真(まみや たつま、1882年(明治15年)4月2日… 間宮 龍真(まみや たつま、1882年(明治15年)4月2日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。東京市麻布区長。 島根県松江市出身。佐々木龍夫の五男として生まれ、間宮興孝の養子となった。1907年(明治40年)に東京外国語学校を卒業した後、長崎高等商業学校助教授を務めた。1914年(大正3年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1917年(大正6年)内務省に入省して埼玉県属となり、同南埼玉郡長、島根県飯石郡長、同理事官、島根県学務部長、埼玉県学務部長を歴任し、1931年(昭和6年)に大分県警察部長に就任した。 退官後、東京市に入り、教育局庶務課長、同社会教育課長を務め、1937年(昭和12年)に麻布区長となった。
矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年(明治15年)4月… 矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年(明治15年)4月1日 - 1958年(昭和33年)10月8日)は、日本の外交官。駐シャム(タイ王国)公使在任中タイ立憲革命を支援。第二次世界大戦時にはタイ人留学生受入れを進め日泰攻守同盟条約慶祝答礼使節団大使等を務めた。 山口県出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。翌年、外交官補としてシャムに赴任。安東領事官補、ロンドン領事官補、蘇州領事官補、汕頭領事官補、シドニー領事官補、ボンベイ(現在のムンバイ)領事、廈門領事・台湾総督府事務官、外務事務官・参事官、イタリア大使館一等書記官、外務書記官、在アメリカ合衆国大使館一等書記官、青島総領事などを歴任。
生方 大吉(うぶかた だいきち、1882年〈明治15年〉3月… 生方 大吉(うぶかた だいきち、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。 群馬県利根郡、のちの新治村下新田(現みなかみ町)で、生方太吉の長男として生まれる。1898年(明治31年)利根学校(沼田中学を経て現群馬県立沼田高等学校)を卒業した。 1918年(大正7年)利根電気を設立して社長に就任し、鶴ヶ淵発電所を設けた。その他、新治製材社長、利根倉庫取締役、坂東自動車取締役、利根製糸監査役、群馬共栄合資会社代表社員、棒丸百貨店会長などを務めた。 1918年ころから政治家を志し、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で群馬県第5区から憲政会公認で初出馬して当選。
石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月2… 石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1958年〈昭和33年〉12月29日)は、日本の版画家・洋画家・美術評論家。1935年(昭和10年)沖水彩画用紙製造所(初代・沖茂八)が開発した水彩画および版画用紙のMO紙の命名者である。 1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾。 1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。
守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3… 守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3月27日 - 1959年〈昭和34年〉12月12日)は、日本の実業家。ラヂウム製薬社長。守田商店代表。族籍は東京府平民。 東京府・守田重次郎の長男。守田治兵衛の従兄。1918年、家督を相続した。大成中学卒業。慶應義塾大学に学んだ。武田長兵衛商店に勤務した。ラヂウム製薬会社に入り専務取締役を経て社長となる。 宗教は真宗、あるいは浄土宗。趣味は読書。住所は東京大森区新井宿、牛込市谷本村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
荻野 久作(おぎの きゅうさく、1882年〈明治15年〉3月… 荻野 久作(おぎの きゅうさく、1882年〈明治15年〉3月25日 - 1975年〈昭和50年〉1月1日)は産婦人科医、医学博士である。女性の月経周期と妊娠との関連性を研究した先駆的業績で知られる。 愛知県八名郡下川村(のち豊橋市下条(げじょう)東町)出身。父の姓は中村だが、1901年(明治34年)に西尾藩士で漢学者の荻野忍の養子となり、荻野姓となる。 旧制愛知県第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、日本中学、一高などを経て1909年(明治42年)に東京帝国大学医科大学を卒業。しばらく同大病院で勤務した後、1912年(明治45年/大正元年)に新潟市の竹山病院産婦人科部長に就任するとともに新潟大学で研究を続ける。
丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月2… 丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月25日 - 1956年(昭和31年))は、日本の内務官僚、官選岩手県知事。旧姓・両角。 長野県諏訪郡玉川村(現:茅野市)出身。両角彦五郎の二男として生まれ、丸茂米作の養子となり、のち養父の長女「まつよ」と結婚した。 諏訪郡立実科中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、[要出典]第一高等学校を卒業。1908年7月、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年1月、内務省に入省し、拓殖制度取調事務嘱託となり大臣官房台湾課及び地方局拓殖事務取扱を嘱託。同年5月、内務属となり鹿児島県揖宿郡長に就任。
今沢 慈海(いまざわ じかい、1882年3月24日 - 19… 今沢 慈海(いまざわ じかい、1882年3月24日 - 1968年12月31日)は、明治-昭和期の僧侶・図書館学者。幼名は市次郎。別号は天瑞・南岳。愛媛県西条町(現在の西条市)出身。 熱心な仏教徒だった母の意向で、西条市にある臨済宗の名刹保国寺の養子となり、同寺を継ぐべく育てられる。西条中学校(現 愛媛県立西条高等学校)卒業後、第五高等学校を経て、1907年に東京帝国大学哲学科倫理学科を卒業。1908年7月同大学大学院修了。 1913年東京市立日比谷図書館の職員となり、1914年には31歳で館長に抜擢され、日本図書館協会副会長に就任する。また、1921年から20年にわたって図書館員教習所講師を務めた。
式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23… 式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23日 - 1933年〈昭和8年〉4月1日)は、日本の歌人、書家、国文学者。元大阪府女子師範学校専攻科教授。本名は式場 益平(しきば ますへい)。 新潟県中蒲原郡五泉町大字五泉字指柳(現 五泉市本町)の式場幸八の長男として生まれた。 1897年(明治30年)4月に新潟中学校に入学すると、俳句の会・舟江会に入り、2年先輩の会津八一と知り合った。1901年(明治34年)7月に同級生の青木得三、安倍邦太郎、山崎良平たちと同人雑誌『若菜舟』を発行した。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業すると、上京して二松學舍で三島中洲に漢文学を、落合直文に国文学を学んだ。
浦野 謙朗(うらの けんろう、1882年〈明治15年〉3月2… 浦野 謙朗(うらの けんろう、1882年〈明治15年〉3月22日 - 1964年〈昭和39年〉8月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県西加茂郡四郷村(上郷村、猿投村、猿投町を経て現豊田市四郷町)に浦野錠平の長男として生まれる。生家は浦野酒造場(後の浦野合資会社)を営む庄屋の浦野家。 1901年(明治34年)3月、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を卒業。同年12月、志願兵として歩兵第六聯隊に入隊。1902年(明治35年)11月、除隊。1904年(明治37年)6月、応召。陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍した。1905年(明治38年)6月、歩兵中尉に昇進し、その功により勲六等単光旭日章を受けた。
朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年〈明治14年〉4… 朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の薬学者、薬化学者。東京大学名誉教授。薬学博士。帝国学士院会員、文化勲章受章者。 東京市本所区(現・東京都墨田区)生まれ。東京府士族・朝比奈和四郎の長男。旧制府立一中、旧制第一高校を経て、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。大学院に入り助手となる。 1909年、ヨーロッパに渡り、リヒャルト・ヴィルシュテッター、エミール・フィッシャーに師事する。1910年、薬学博士の学位取得。1912年、東京帝国大学助教授、1918年、教授。 1923年、「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞、1943年、文化勲章受章。
永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉… 永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1944年〈昭和19年〉12月4日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。憲政会・立憲民政党所属。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。族籍は東京府士族(旧加賀藩士)。 石川県金沢の貧しい小学教員の家庭に生まれる。石川県士族・永井登の長男。 新堅町尋常小学校、長町高等小学校を経て旧制石川県尋常中学(現:石川県立金沢泉丘高等学校)に入学するも喧嘩が原因で中退し、1897年(明治30年)に同志社尋常中学校3学年に編入するもストライキを起こして中退。関西学院普通学部を経て1905年(明治38年)に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業する。
沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月1… 沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月16日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岡山県久米郡里方村(現:久米南町)に国塩与三郎の二男として生まれ、岡山県会議員の沢田正泰の養子となった。妻は正泰の四女。赤坂高等尋常小学校、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。山形県事務官、朝鮮総督府書記官、同道事務官、監察官、慶尚南道知事、慶尚北道知事を歴任した。 退官後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮電気興業株式会社取締役、朝鮮電力株式会社監査役などを務めた。
後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4… 後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月9日)は、日本の明治時代後期から昭和時代前期の言語学者。東京帝国大学講師。日本大学教授。号は「石農」。「支那通」として知られた。 愛媛県に生まれた。広島県人・後藤榮太郎の二男。1903年(明治36年)、第五高等学校大学予科第一部(文科)を卒業。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学言語学科を卒業。同年の卒業生には言語学者の金田一京助がいた。 著述業を営み、文部省、台湾総督府、朝鮮総督府嘱託。東京帝国大学、東京高等造園学校各講師、日本大学教授、日本庭園協会、東京家庭学院各理事、日本文明協会、東洋協会各評議員などをつとめた。
桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、1881年〈明治… 桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、1881年〈明治14年〉4月15日 - 没年不明)は、日本の実業家、島根県多額納税者、島根県の大地主。族籍は島根県平民。 島根県・桜井三郎右衛門の長男。1908年、家督を相続し、旧名・直養を改め襲名する。農業を営む。八雲銀行、出雲館製糸所各取締役、松江銀行監査役をつとめる。 住所は島根県仁多郡阿井村(現・奥出雲町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月1… 小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月14日 - 1938年(昭和13年)10月25日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 熊本県飽田郡奥古閑村(天明村、天明町を経て現熊本市南区)出身。熊本中学校、第五高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。卒業後は熊本中学の教諭兼舎監となったが、辞して熊本市で弁護士を開業した。 熊本県会議員を2期務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その後、満州に渡り、弁護士業のかたわら熊本海外協会満洲本部長に就任した。奉天市で客死。
林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 -… 林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、内務政務次官。弁護士。 福岡県上座郡朝倉村(現在の朝倉市)出身。1910年(明治43年)、明治大学法科を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士業務のかたわら、南千住町会議員、南千住町長、東京府会議員、同郡部会副議長、同参事会員、東京市会議員、同副議長、東京都議会議員、同副議長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙でも東京都第6区から出馬して再選された。
久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年(明治14年)4月… 久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年(明治14年)4月13日 - 1976年(昭和51年)1月27日)は、日本の鉄道官僚。工学博士。貴族院男爵議員。 男爵・文部大臣久保田譲の長男として生まれ、1936年(昭和11年)に襲爵した。1905年(明治38年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。アメリカ合衆国に留学し、鉄道・橋梁建築を学んだ。帰国後、鉄道院雇、同技師、東京建設事務所長、鉄道省建設局線路調査課長、同工事課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道省運輸局長、鉄道次官などを歴任した。運輸局長の時には外国産のバスに押されていたところ、国産バスの開発推進を菅健次郎に指示した。 1934年(昭和9年)に退官した後は、鉄道協会理事、大日本体育協会専務理事、東京オリンピック組織委員会事務局長などを務めた。
高橋 弥左衛門(たかはし やざえもん、1881年〈明治14年… 高橋 弥左衛門(たかはし やざえもん、1881年〈明治14年〉4月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、青森県多額納税者、地主。金木商事代表取締役。金木銀行取締役。族籍は青森県平民。 青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身。高橋彌左衛門の養孫。高橋清吉の二男。1904年、家督を相続し、前名・徳三郎を改める。農業を営み、傍ら銀行会社の重役を兼ねる。 住所は青森県北津軽郡金木町。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9… 森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 - 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正から昭和にかけての洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。 埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。熊谷中学校中退。 小山正太郎の不同舎に学び、1902年東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。1906年に東京美術学校西洋画撰科を卒業。 1907年、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選。また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。
杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉… 杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉4月9日 - 1968年〈昭和43年〉12月8日)は、日本の倫理学者・思想学者・政治学者・社会学者。旧姓は白松(しろまつ)、号は南山。 静岡県小笠郡南山村生れ。12歳で同郡賀茂村の医師である白松家の養子となる。14歳で東京に遊学し、上野図書館で独学生活を送った後、独逸協会中学校・数学館の第五学年編入試験に合格し、入学をした。その後、医師を目指して千葉医学専門学校に進学したが、進化論の講義を聞いた際「こんな学問があるのなら、医学など学んでいられない」と発意し、2年次に千葉医専を自主退学して白松家から学資援助を含む養子縁組を外された。その後、神田に私塾専修学院を創設。
児島 虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4… 児島 虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4月3日 – 1929年(昭和4年)3月8日)は、日本の洋画家。 岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町下原)に児島弥吉と雪の次男として生まれる。生家は「橋本屋」と称して旅館・仕出し業を営んでいた。1901年(明治34年)絵画を学ぶため東京に出る。1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。黒田清輝、藤島武二らに師事した。倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。1904年(明治37年)2年飛び級で卒業。 1907年(明治40年)東京府主催の勧業博覧会美術展に「なさけの庭」を出品、1等賞を受賞して宮内省買い上げとなる。
松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年〈明治14年〉4月… 松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年〈明治14年〉4月3日 - 1966年〈昭和41年〉2月18日)は、明治末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 大分県速見郡、のちの北由布村(由布院村、由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で、北由布村長を務めた松原達の長男として生まれ、親類で漢学塾を営む松原孫作の養子となる。1902年(明治35年)大分県師範学校を卒業した。 玖珠郡戸畑小学校勤務、同郡野上尋常高等小学校長を務め、1907年(明治40年)旅順尋常高等小学校訓導、同第二尋常高等小学校長を歴任。南満州教育会の創立に参画し常任理事に就任。1915年(大正4年)広島高等師範学校教育学科研修生となる。
戸部 彪平(とべ ひょうへい、1881年〈明治14年〉4月2… 戸部 彪平(とべ ひょうへい、1881年〈明治14年〉4月2日 - 1945年〈昭和20年〉2月16日)は、日本の政治家、農政家。群馬県吾妻郡嬬恋村長、同村会議員。 群馬県吾妻郡嬬恋村田代に、戸部常太郎の長男として生まれる。小学校卒業後、近衛歩兵第2連隊へ入営し、日露戦争に従軍して勲八等、功七級に叙された。 1924年(大正13年)に同村の田代区域長となり、1925年(大正14年)より村会議員。1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)まで連続3期嬬恋村長を務めた。渋川駅から嬬恋村・鳥居峠を経て長野県真田に至るバスの開通をはたらきかけ、1933年(昭和8年)に実現させた。 1932年(昭和7年)からは当時貧窮に陥った嬬恋村の村民への救済のために、青果商人の青木彦治や農業技術員として活動していた塚田国一郎と共に冷涼な気候に適していたことよりキャベツの栽培及び生産を始める。
塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881… 塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1963年〈昭和38年〉4月16日)は、日本の政治家。銀行家。羽後銀行(現:北都銀行)頭取。 秋田県雄物川町(現:横手市)沼館の大地主の長男として生まれる。幼名、重三。明治41年、父親が死去し、8代目の団平を襲名。 旧制秋田中学、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業。帰郷後、1913年(大正2年)32歳で沼館町(現:横手市)町長に就任し、1946年(昭和21年)まで町長を務めた。また、この間には1919年(大正8年)からは秋田県会議員を2期、1924年(大正13年)からは衆議院議員を2期(第15回、第17回総選挙当選)、1939年(昭和14年)には、貴族院多額納税者議員にも選出され、同年9月29日に就任し、同成会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職した。
斎藤 宗宜(さいとう むねのり、1881年(明治14年)4月… 斎藤 宗宜(さいとう むねのり、1881年(明治14年)4月1日 - 1939年(昭和14年)12月20日)は、日本の内務官僚、弁護士。府県知事。 静岡県出身。第一高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り山林属となるが、内務省に転じ、1910年、岐阜県山県郡長に就任した。 以後、群馬県学務課長、山形県警察部長、静岡県警察部長、宮城県警察部長、高知県・熊本県の各内務部長などを歴任。 1923年10月、宮崎県知事に就任。さらに、熊本県・大阪府の各知事を務める。1932年6月、京都府知事に就任。不況下の中小商工業者の救済に尽力し「産業知事」と呼ばれた。
篠崎 太一(しのざき たいち、1881年〈明治14年〉4月1… 篠崎 太一(しのざき たいち、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1960年〈昭和35年〉8月22日)は、明治から昭和時代の政治家。神奈川県高座郡田名村長、相模原町長。 相模原に生まれる。1903年(明治36年)神奈川県師範学校卒業後、高座郡明治小学校、同郡上溝小学校訓導を経て、1912年(大正元年)同郡尋常高等大和小学校校長となる。1916年(大正5年)同郡座間小学校校長、1918年(大正7年)同郡上溝小学校校長を経て、1928年(昭和3年)高座郡田名村役場吏員となり、収入役、助役、村長を歴任した。1941年(昭和16年)町村合併により相模原町が成立するとその村長に選任され、1946年(昭和21年)10月まで在任した。
小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年〈明治14年〉3月… 小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年〈明治14年〉3月30日 - 1960年〈昭和35年〉10月16日)は、日本の実業家、政治家。長野電灯、信濃毎日新聞、信越化学工業、東信電気の経営者。日本発送電総裁。長野県生まれ。 長野県上水内郡柳原村(現・長野市柳原)で、信濃毎日新聞社長や衆議院議員などを務めた小坂善之助の長男として生まれる。旧制長野中学校(現・長野県長野高等学校)、信濃毎日新聞取締役、日本中学などを経て、1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業する。元社団法人如水会会員であり、籠城事件の際は交渉委員として母校防衛に活躍した。 1904年に日本銀行へ入行、1908年に同行を退職し信濃銀行(現・みずほ銀行)取締役、1911年信濃毎日新聞社長、長野商業会議所会頭、1923年長野電灯社長、1930年信濃電気、信越窒素肥料(現・信越化学工業)の経営を越寿三郎から引き継ぎ、1931年信越窒素肥料社長、1940年信越窒素肥料を信越化学工業に社名変更、1950年日本発送電総裁、1954年電源開発総裁。
明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 195… 明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 1956年9月29日)は、岡山県和気郡英保村(現・備前市吉永町)出身の実業家、銀行家。 1881年3月、和気郡英保村(現備前市吉永町)で生まれる。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京帝国大学へ進学する。成績が優秀だった事から、渋沢栄一に認められ、三女、愛子の娘婿となった。欧米へ留学後、第一銀行へ入行。1926年取締役、1928年常務取締役、1932年副頭取、1935年頭取となる。1943年、三井銀行との合併により帝国銀行の会長となる。その間、1920年から澁澤倉庫取締役、1932年から1935年まで澁澤倉庫取締役会長を兼務。
津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日… 津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日 - 1948年(昭和23年)4月18日)は、大正・昭和期の実業家。鐘紡の第2代社長を務めた。鐘紡争議を収束させ社長となる。昭和初期のインド綿花不買運動で知られる。旧姓西山。 愛知県額田郡岡崎能見町(現・岡崎市)に岡崎藩士・西山芳六の四男として生まれる。7歳の時に福井県庁の土木課長を務めていた津田於菟の養子となる。福井県立福井小学師範学校から福井県尋常中学校に進む。2年浪人したのち慶應義塾大学予科に入学。同大学卒業後、鐘淵紡績に工員として入社。1911年(明治44年)、西大寺工場長に就任。ついで淀川工場長となる。1930年(昭和5年)に副社長となり、同年4月から6月にかけて八つの工場で発生した労働争議(いわゆる鐘紡争議)の解決にあたる。
篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月2… 篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月29日 - 1930年(昭和5年)8月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 長野県南佐久郡岸野村(現在の佐久市)出身。篠原代吉の三男。小諸義塾を卒業し、日本大学法科で学んだ。大阪毎日新聞・東京日日新聞各記者となった。 清浦内閣で鈴木喜三郎司法大臣の秘書官を務めた後、1925年(大正14年)の衆議院補欠選挙に当選。その後の第17回・第18回総選挙でも再選された。その間、田中義一内閣で鈴木喜三郎内務大臣の秘書官に就任した。 他に日本大学評議員、国本社評議員を務めた。また日本大学推薦校友であった。
小野 重行(おの しげゆき、1881年(明治14年)3月26… 小野 重行(おの しげゆき、1881年(明治14年)3月26日 - 1931年(昭和6年)7月30日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。神奈川県橘樹郡町田村の村長を経て、大正9年の総選挙で初当選し、通算4期務めた。 神奈川県橘樹郡町田村(のち潮田町・鶴見町、現・横浜市 鶴見区)に生まれる。東京法学院(現・中央大学)卒。町田村の村長を務め、臨海部の埋立・宅地化や地域開発に尽力した。大正期には多摩川改修など地域インフラをめぐる請願・運動にも関わった。 1920年の第14回衆議院議員総選挙で初当選(神奈川3区)し、1924年(神奈川3区)、1928年・1930年(いずれも神奈川2区)に当選、通算4期務めた。
広沢 豊作(ひろさわ とよさく、1881年〈明治14年〉3月… 広沢 豊作(ひろさわ とよさく、1881年〈明治14年〉3月24日 - 1942年〈昭和17年〉4月11日)は、昭和時代戦前の政治家・医師・実業家。山口県小野田市長。 山口県出身。広沢季三郎の長男。1907年(明治40年)京都帝国大学医科を卒業し、小野田病院を創立。小野田陶業、小野田合同運送、小野田清涼飲料水各社長、門司病院長、山口県医師会長、山口県会議員、新沖ノ山炭坑(後の宇部興産、現在のUBE)取締役、朝鮮小野田セメント、宇部電気鉄道各監査役、山口県学校医会長などを歴任した。 1941年(昭和16年)小野田市の市制施行とともに初代市長に就任。在任中は、戦時下ながら市の発展と平和を象徴した市章の制定、小野田・高千帆両商工会を合併し新たに小野田商工会を設立するなど尽力したが、任期途中で死去した。
三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 19… 三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 1964年2月15日)は、日本の植物病理学者。 1881年、岐阜県恵那郡串原村(現・恵那市)に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学農科大学農学科(現・東京大学)を1906年に卒業、1907年に同大学助手となった。 1910年に清国・北京大学教授に招かれるが、政変により1914年に帰国。東京農業大学講師を勤め、植物病理学講座を開設して担当した。1924年に教授に昇格。玉川大学教授なども務めた。
松本 生太(まつもと せいた、1880年4月19日 - 19… 松本 生太(まつもと せいた、1880年4月19日 - 1972年7月29日)は、日本の弁護士、教育者。学校法人鎌倉女子大学を設立。 岡山県上道郡浮田村(現岡山市東区)出身。京都帝国大学卒業後、1931年に日本大学教授となり、弁護士としても開業する。 1943年、後に京浜女子大学(現在の鎌倉女子大学)の前身となる京浜女子家政理学専門学校を横浜市神奈川区に設立した。日本私学短期大学協会会長、学校法人白鵬女子学院理事長、白鵬女子高等学校初代校長などを歴任した。特に、当初暫定的な制度として始まった短期大学を恒久化した1964年の学校教育法の改正(いわゆる「短大恒久化法案」)の前後には、日本私学短期大学協会会長として恒久化を進める運動を牽引した。
井本 常作(いもと じょうさ / つねさく、1880年〈明治… 井本 常作(いもと じょうさ / つねさく、1880年〈明治13年〉4月18日 - 1969年〈昭和44年〉6月1日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選3回)。司法参与官。 群馬県多野郡神流村岡之郷(現在の藤岡市)出身。井本孫市の二男。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、司法官試補となった。官を辞して卜部喜太郎の事務所に入り、在野法曹界の人となって実務の練習に努めた。1908年(明治41年)、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲民政党に所属。濱口内閣で司法参与官を務めた。本郷区学務委員、同委員長、本郷区教育会商議員等にも挙げられた。
斎藤 玉男(さいとう たまお、1880年〈明治13年〉4月1… 斎藤 玉男(さいとう たまお、1880年〈明治13年〉4月14日 - 1972年〈昭和47年〉10月13日)は日本の医師、精神医学者。高村智恵子の晩年の主治医であった。 1880年(明治13年)、群馬県南勢多郡苗ヶ島村(勢多郡宮城村を経て現・前橋市苗ヶ島町)に生まれる。祖父は幕末から明治時代にかけて活躍した国学者・医師であった斎藤多須久(たすく)。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学医科大学を卒業した。その後、ドイツやアメリカに留学。 東京府巣鴨病院医員として勤務。巣鴨病院の後輩には斎藤茂吉がおり親交を結んだ。1916年(大正5年)日本医学専門学校教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務める。
11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年… 11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年)4月14日 - 1958年(昭和33年)7月23日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、官選帯広市長。旧姓・武田、初名・雄次。 兵庫県三原郡広田村(のち緑村、緑町を経て、現・南あわじ市)で武田泰三の三男として生まれる。1898年、郁文館中学校を卒業し、同年、第三高等学校第一部に入学したが、家事の都合により一年で退学した。その後、洲本町の先代奥野小四郎の婿養子となり家業に従事。 1904年5月に来道して先代が拓いた上川郡士別村の農場の経営を担当。1906年から2年間、北海道庁真駒内種畜場で畜産獣医の講習を受け、1908年、十勝国中川郡居辺原野で先代と共に牧場を経営し、産馬の改良繁殖に尽力した。
大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1… 大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1936年6月2日)は、日本の心理学者。かつ真言宗智山派の僧である。 愛知県海部郡甚目寺村(現:あま市)生まれ。幼年の時期に長久寺・鈴木快秀の下に出家し真言宗智山派の僧籍を持つ。日本において最も早い時期に、欧米の実験心理学を紹介した人物の一人である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、心理学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ 心理学)。 この項目は、社会科学に関連した書きかけの項目です。
高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 19… 高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 1948年2月2日)は、明治期から昭和期の日本の文芸評論家、評論家。 大阪府出身。本名は芳次郎(よしじろう)。為替貯金管理所勤務から1898年に上京して、早稲田大学文学部英文科卒。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行、また佐藤義亮が創刊した『新声』の編集に加わり、文芸時評で活躍。当時の同僚に金子薫園や千葉亀雄など。その後、「国民新聞」「東京毎日新聞」「二六新報」などの記者を務める。1901年、『文壇照魔鏡』で与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられた。のち明治文学史、水戸学の研究に専念、昭和期には国粋主義・軍国主義に走った。1940年「大日本史に現はれた尊皇精神」で日本大学文学博士。
佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11… 佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は、日本の建築家、建築構造学者。東京帝国大学名誉教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任。宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会会長なども務めた。1950年日本学士院会員。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 山形県西置賜郡荒砥村(現:白鷹町)の旧家の四男、山口安平として生まれた。生家(山口家)は大地主であったが次第に没落し、また実父の山口三郎兵衛が早くに病死したため、米沢中学在籍時に天童織田家の藩士だった佐野誠一郎の養嗣子となった。
石原 栄三郎(石原 榮三郎、いしはら えいざぶろう、1880… 石原 栄三郎(石原 榮三郎、いしはら えいざぶろう、1880年〈明治13年〉4月10日 - 没年不明)は、日本の商人(かぢ平、金物商)、愛知県多額納税者。石原商店金物部代表。 愛知県人、鍛冶平、金物商・石原平左衛門の弟。1915年、分家して一家を創立し、金物卸商を営む。名古屋商工会議所議員に選ばれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は石灯籠、庭石、茶器、書画。宗教は浄土宗。住所は愛知県名古屋市西区江川端町、店舗は中区広小路西通。 石原家は名古屋に於ける一流金物店である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
綿貫 六助(わたぬき ろくすけ、1880年〈明治13年〉4月… 綿貫 六助(わたぬき ろくすけ、1880年〈明治13年〉4月8日 - 1946年〈昭和21年〉12月19日)は、日本の陸軍軍人・小説家。 1880年(明治13年)、群馬県北勢多郡森下村(現・利根郡昭和村)の中層の農家に生まれた。1896年(明治29年)、17歳の時に陸軍教導団に合格した。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業した後、歩兵第29連隊に入隊した。1904年(明治37年)2月に陸軍歩兵少尉に任官して日露戦争に参戦し、1906年(明治36年)に帰国し、勲五等双光旭日章を授与された。同年3月に福島県出身の女性と結婚し、4男1女をもうけた。 1912年(明治45年)5月、歩兵大尉に昇進し、歩兵第65連隊中隊長を務めていたが、1914年(大正3年)に軍旗祭で不適切な行為を起こしたため除隊された。
岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 … 岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 - 1942年〈昭和17年〉3月21日)は、日本の洋画家、版画家、口絵画家。従四位勲四等。 1880年(明治13年)東京の赤坂に生まれた。 白馬会洋画研究所で黒田清輝に学び、東京美術学校洋画科選科(現東京芸術大学)にて引き続き黒田の指導を受け1902年に卒業している。1908年に女子学習院で助教授として奉職のち教授となり、亡くなるまで34年間にわたって教鞭をとり続けた。 1912年、旧白馬会の主力メンバーであった、中沢弘光、岡野栄、山本森之助、三宅克己、小林鐘吉、跡見泰、杉浦非水の7名が発起人となり光風会を創立。 1912年6月の「第一回光風会展」では会員の他に黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、藤田嗣二ら旧白馬会の会員ら多くの人が出品した。
阿波 研造(あわ けんぞう、1880年4月4日 - 1939… 阿波 研造(あわ けんぞう、1880年4月4日 - 1939年3月1日)は、日本の弓術家。弓聖と称えられる。 宮城県桃生郡大川村(現在の石巻市)に、麹屋を営む佐藤家の長男として生まれる。小学校卒業後、18歳で漢学の私塾を開き、20歳で石巻の麹屋・阿波家の入り婿となり、家督を継ぐ。21歳で石巻の旧藩士で堂射系の日置流雪荷派の木村辰五郎時隆に師事して弓術を始める。2年ほどで木村に免許皆伝を受け、23歳で自宅近くに自身の道場を開設、30歳のとき、仙台に出て道場を開く。1910年、木村時隆に代わり、第二高等学校の弓道師範を勤める。このころは的中を重視した弓を指導していた。 1913年、東大弓術部師範の本多利實に師事し、日置流尾州竹林派弓術を伝授される(竹林派の流祖は僧侶であったことから、この派の教えには仏教の影響が色濃い)。
芝 葛盛(しば かずもり、1880年4月3日 - 1955年… 芝 葛盛(しば かずもり、1880年4月3日 - 1955年7月13日)は、日本の歴史学者、教育者。宮内庁調査員、帝国学士院帝室制度史編纂室主任、立教大学文学部教授。 東京府牛込(現・東京都新宿区)に雅楽師の芝葛鎮の長男として生まれる。1903年に東京帝国大学文科大学国史科を卒業。 東京帝国大学文学部史料編纂掛の嘱託を務めたのち、1914年に宮内省図書寮編修官に任じられ、1926年に編修課長を命じらる。この間に「天皇皇族実録」286巻を編修したほか、1916年8月には「長慶天皇ヲ皇代ニ列シ奉ル議」を起草・上申し、同天皇の皇代登列の端を開くなど、皇室史全般の研究調査を行った。1946年(昭和21年)に退官するまで、編修課長として長月にわたって歴代天皇の実録編集を担任した。